高い山々に囲まれて、訪れる旅人もほとんどいない、《忘却の砂漠》。吟遊詩人はかく伝える……。
今日も今日とて、《精秘薬商会》はにぎやかだった。
大陸でもそれなりに名を知られているこの《商会》の、本来業務は錬金術で精製された秘薬をはじめとするありとあらゆる物品流通。各都市に窓口を置き、独自の早馬ルートで確立されたネットワークは好評を博している。今日も店には、雨の日に痛むひざの治療薬を求めるおばあさんから、黒龍のため息がほしいなんていうわがままな錬金術師まで、さまざまなお客が来ていた。
こんなうっとうしい小雨の降る日に、よくまぁこんなにお客がくるものね。
お目付け役の黒猫アインが見守るままに、棚から薬を探していた店番娘、ツェットはひとりごちた。
天気のせいもあってごきげんななめのようだ。肩まで伸びた銀色の巻き毛は、雨の日特有のぐるぐる巻きになっていた。小柄だが胸と尻だけは発育がよすぎるくらいで、白いエプロンがきゅうくつそうだ。黒龍のため息とやらを探してツェットがかがんだり手をのばしたりするたびに、おとなしそうな錬金術師の青年はどぎまぎして目をそらす。そんな様子をつまらなさそうに見守る黒猫。
「ごめんなさい、黒龍のため息、切らしてるみたい。明日取り寄せるから、また来てね」
目のやり場にこまっていた錬金術師をぞんざいに追い返したところで、店の中にはツェットとアインだけになった。いや、隣接している酒場のほうからはまだにぎやかしい声がきこえてくる。そちらが《商会》のもうひとつの顔、いわゆる流れ冒険者の派遣業を行うところだ。ツェットも、もともとは冒険者のはしくれであった。黒猫といっしょに大陸をあちこち旅してまわっていたのも過去の話。最近はすっかり店番の毎日である。そのうえ薬の処方や錬金術など詳しいわけでも興味があるわけでもない(それはどちらかといえば、黒猫のほうが専門なのであった)。退屈極まりない日常からなんとかして脱出したい。
ばさり。
大きな物音がして、先週入荷したばかりの書物がカウンターから机に落ちた。
「こら、アイン、売り物に乗っちゃダメだってば」
「(売り物ならさっさと片付けろよ!)」
猫のほうもしめっぽいこのお天気に機嫌を悪くしていたところ。背中を逆毛立ててむくれたところを、ツェットにひっぱたかれてカウンターから落っこちた。
「なんだっけこの本。誰かのとりおきだっけ?」
さほど分厚くはないけれども皮の表紙にしっかりとした装丁。ツェットの読める限りでは歴史書のようである。表紙を一枚めくると、見慣れない異国語と天星図。
「星座の本?」
「(ウストルラーヴ、星の位置と動きを示した天星図か。こんなもんありがたがるのは天星魔術士のやつらか星詠み士ってとこだろ。《星見の民》の手によるものなら、価格がつけられないほど貴重なものだけどな)」
前足を注意深くなめながら、芸達者な黒猫は知識を披露した。
「なにそれ、《星見の民》ってほんとにいるの?」
「(ばかかおまえは!俺のような人語を解する猫や、おまえみたいな人間のなりそこないとおなじくらい、実在しとるわ!おまえほんとに冒険者か?)」
ツェットは不要なところを聞き流しつつ、本のページをめくっていった。
文字ばかりかと思いきや、ところどころに挿絵が入っている。星図だけではなく、人物画もあった。
高貴そうな女性。黒いマントと帯剣の兵士たち。顔に朱印をいれている人々。
「(これが《星見の民》、《忘却の砂漠》に住んで未来を予知する一族だ。絶対あたるんだよ。100年前の大戦危機を知らねぇのか?あれが未然に防がれたのは、ここの姫さんの力なんだぞ)」
「ふーんキレイなひとね」
「(ずいぶん詳しいなこの本。相当高いものじゃないのかな。《星見の民》はいつも砂漠にいて、めったに大陸まででてこないし、住んでいるところも正確には知られていない。会うのは至難の業なんだ。もしかして、運良く彼らに会えた誰かが記した貴重な本じゃないかな)」
「そっか。じゃ、その人たちに会ったら、あたしがいつ結婚できるかとかわかるかな?」
「(一生無理)」
ぴかり。
稲妻がはしり、一瞬おいて激しい落雷の音が聞こえてきた。
外は土砂降りだ。中途半端にしか閉まらない店の扉がばたばたうなりだした。
「うわ、閉めなきゃ!」
カウンターから飛び降りて入り口をのぞいたツェットは、そこに新たな客が来たことに気づいた。
ずぶぬれの黒マント。背はツェットと頭2つ分ほど違う。
「わ、お客さん、何してんの早く入って!」
マントの下からのくぐもった男性の声が上から降ってきた。
「《精秘薬商会》に仕事を依頼したい。少々危険がともなうけれども」
ツェットが見上げると、マントを脱いだ男性の顔に朱印が施されているのが見えた。
にゃあ、とアインが猫らしく一声鳴いて、ツェットの肩に登った。
《星見の民》の青年パレステロス、27歳。ツェット的には花丸をつけたいほどの好みの容姿だった。
茶色の髪は後でぞんざいに束ねてあり、同じ色の瞳は野趣に溢れきらめいていた。
ときおり暗い影を見せるが、それも頬の朱印や眉間の刀傷と同じく、エキゾチックでかっこいい。
察するところ、この男は一族の守り手かなんかかしらん?
(やれやれ、その洞察力を仕事に活かせたらねぇ)とアインは思う。
パレステロスの依頼は、こうだった。
「俺は《忘却の砂漠》から来た、《星見の民》の《剣》、パレステロス。ここ最近、砂漠に夜魔が出現するようになった。《姫》の星見によると、この災いは我ら自身の力だけでは倒すことかなわないという。実際俺たち《剣》も、幾たびか討伐に出かけたが、いつもとどめをさそうという段になると夜魔めは姿を隠してしまう。このままではいつやつらが村の中を襲うか分からないし、村の成人の儀式もできぬ。また夜魔も大陸にまで姿を見せるかもしれない。腕に覚えがある者がいれば、俺と一緒に来てはもらえないだろうか?」
ツェットは大喝采を送っていた。
「あたし、行くわ!(腕に覚えはないけれども)」
そして酒場のほうにいた冒険者たちに向かってこう叫んだ。
「ねぇ、あたしと一緒に誰かこない?」
第1章に続く