終章〜この想いあるかぎり
ep.1 ■離宮
意識が戻った時に最初に目にすることになるだろう、と思っていた姿が、枕もとにない。 二人目か、と唇を噛んだ。傍にいて欲しいと望んだ人が、一番傍にいて欲しい時を狙いすましたかのように、こうも残酷に去っていってしまうのは。
「しょせんは、贅沢な望み、か………」
心を許せる友、などは。
オシアンは寝台に身を起こした。部屋中に、甘く懐かしい芳香が満ちていた。見慣れた黒衣の医師の代わりにうら若き女医の姿をみとめ、ここがディルワース離宮であると気づく。
戻ってきたのだ。
「ああ、よかった。気がつかれたか」
安堵の笑みを浮かべたコルムが、うれしげにオシアンに声をかける。
「ちょうどいい。今お茶を淹れたところだよ。ほら、温まるから」
琥珀色の液体を満たしたカップが、オシアンに手渡される。
その香りは、自責の念を晴らすようにオシアンの身体の中まで沁みた。
「シャッセ姫は」
「元気なものだ。とっくに目覚めて跳ね回ってる。実はあなたのことが一番心配だった。その、あまり丈夫なほうには見えなかったから」
オシアンはかすかにうなずいた。自分の身体を心配してくれる人がいるという状況を、久しぶりに味わっていた。久しぶりすぎて、それがどういうものなのかすっかり忘れてしまっていた。
フューガスとモースのことを、ふと考えてみる。モースはなぜ、フューガスに殉じたのだろう。それだけ、フューガスという「親友」が大切だったのか。 あの誇り高さ、決断力、行動力。その裏にある、愚直なほどにまっすぐな熱く深い想いが、モースに対しても注がれていたから、モースもそれに応えたのだろうか。
想い。 愛情でも、友情でも、忠義でも、呼び方は何でもいい。フューガスや、ノイシュや、ジェラ・ドリムと名乗る少女が溢れるほど身に宿し、相手に注ぎ、注がれたもの。
オシアンの日常は常に政治の舞台だった。オシアンが目にとめたもの、声をかけたもの、すべてが道具とみなされる。感情を表に出すことは許されない。それはバーラットが許さない。そう言い聞かせてきた。 だから有能な為政者という虚像が消えた時、人々の支持は去り、権力は消えた。権力を持たない自分に価値を見出す者は、誰もいなかった。当たり前だ。フューガスやノイシュやジェラのように、自分は心に届く思いを誰にもかけてこなかったから。
ふ、と目の前がかすむ。白い湯気が、つかの間オシアンを故郷の砂漠へといざなった。白い花、白い湯気。そして甘い香り……奇妙な既視感をオシアンはいぶかった。
「コルム殿、このお茶は」
「口に合わなかったか? 確かにちょっと変わった味だ。すごく甘味があって」
でも好きな味、とコルムは自分のカップを空けた。シャイというんだ、とオシアンが答える。
「砂漠の紅茶だ、こんな北国で飲めるとは」
砂漠の、ふるさとの味。オシアンの声は苦しげだった。
「フォリル先生が置いていったんだ」
彼がいつもカルテを書いていた机に、コルムはそっと指をすべらせた。小さなお茶の葉の包みと、丁寧に書かれたカルテ。それが、フォリルがコルムに残していったものだった。カルテにはオシアンの体質に合わせた処方が、詳細かつ乱暴に記されていた。
フォリルを離宮に残したまま、シャッセを追いかけて《まことの国》までたどり着いてしまった自分のことを、あの医師は許してくれたのだろうか。たぶん許してくれたからこそ、こんな置き土産を残していったのだと、そう思いたかった。あるいは、手のかかる尊大な病人の世話を押し付けた駄賃のつもりなのかもしれなかったが。
オシアンはまた唇を噛んだ。どこかの砂漠の部族の生まれらしいと知って、オシアンはフォリルにかつてない親近感を持っていた。できることなら、彼の故郷を探し当てる手伝いもしたかった。バーラットは元々街道沿いという土地柄、部族以外のさまざまな人間も出入りしている。飢饉の混乱に乗じて盗賊が現れることもある。食料と引き換えに、または子どもを助けたい一心で、人買いに子どもを渡す親がいても不思議ではない。皆生きていくのに精一杯なのだ。
もしかしたら、同郷かもしれない。ならば。共にシャイを酌み交わす夜があってもおかしくなかったのではないか?
かりかり。かりかり。
乾いた音がオシアンの思考を引き戻した。窓に目を転じると、アフリートが必死に爪をたてて鳴いていた。
「珍しいな。普段なら森で勝手に生きている獣だが……すまないが、入れてやってくれ」
「砂漠の生き物なのだろう? 寒さが堪えたのかもしれない。ほら、おいで」
コルムはそっと窓の留め金を外した。蝶番がきしむと同時に、アフリートはオシアンの懐に飛び込んできた。漆黒の毛皮が、湿った森の香りをたっぷりと含んでいる。身を震わせて雫を撒き散らす前に、手近の布で翼ごと包んで拭いてやる。と、布の中、アフリートの腹の下あたりで、何かがかさりと音を立てた。
「手紙?」
一瞬、胸の奥で、つきりと疼くものを感じた。
元々、アフリートは手紙を運ぶために訓練されている。わざわざ人慣れしない習性の、夜行性の動物をそのような任につけたのは、人目に触れては困る手紙―――周辺諸国における諜報活動の指示と報告―――を運ばせるためだった。今でもアフリートは、主人が認めた人間以外には指を触れさせもしない。まして、おとなしく手紙を預かることも、それを運んでくることもない。このディルワースで、それができる人物とは。
賢者モースは、夢の領域に封じられている。アーシュやエルム殿なら手紙など書かずに直接尋ねて来るだろう。残るもう一人は……今更、自分などに用はないはずだ。
油紙に包まれた小さな紙の束をアフリートの腹から外す。黒ねずみは、清々した様子で窓から飛び出していった。こんなものを括りつけられていては、狩りも満足にできなかったのだろう。それでも、人の手から褒美の餌をもらうより、空腹でも獲物を選ぶ自由を、彼は好んでいる。
手紙には、表書きも署名もなかった。筆跡にも、それと判る特徴はない。
だが、その書き出しの数単語にさえ、これほど強烈な皮肉を込められる人物をオシアンは知らなかった。
「ちょっと外してくれないか、コルム殿」
溢れる感情を押し殺した声を、なんとかオシアンはつくりあげた。
「安心しろ。何かを企んでいるわけではない」
「外出は禁止だぞ。それから」
去り際に振り返ったコルムは、寂しげな目をしていたように見えた。
「何かあったら、遠慮なく言ってくれ」
そう言って、コルムは扉の向こうに消えた。
後ろ手で静かに扉を閉めたコルムは、ゆっくりと目を伏せた。
フォリルとオシアンの間には、自分が入る余地のない何かが存在している。そのことに気づかざるを得なかった。オシアンはきっと無意識のうちに、自分にフォリルの姿を重ねているのだろう。そして、自分とフォリルの違いにため息をついているに違いない。
「仕方ないな。私は私、だから」
シャッセの看病はうまくいったけれど、今度の患者はかなり手強い。
「……先生、どこにいらっしゃるのだ?」
こんなにあなたを待っている人間がいるというのに。
そう呟くと、コルムは身体をひきずるように歩き出した。隣の部屋では、召喚師の少年がぐっすり眠っているはずだった。
「ねぇ、なんか食べ物ない?」
というのがリュカの第一声だった。彼の枕もとには、白い毛並みのフェレットに似た獣、キュルがお行儀よく座っている。
「気づいたらディルワースに戻ってきてたんだけどさ、ねぇ先生、結局みんなどうなったの?」
「どうって、みんな無事だよ……いなくなった人も多いけれど」
「マジ!? それ無事じゃないじゃん。うまくいったと思ったのになー。キュルは元にもどっちゃったし」
キュルは少年の頬にそっと毛並みを摺り寄せる。ふかふかの毛皮は太陽のにおいがした。
キュルがあの時どうして大人になったのか、そしてなぜ元に戻ってしまったのか、理由はリュカには分からない。けれど、いつの日か分かる時がくると信じていた。
その時に、キュルが自分を選んだ理由も分かる。きっと。
調子にのって肉球をぷにぷにっと遊んだリュカは、キュルのしっぽではさりと頭をはたかれた。
「今はこれでも飲んで我慢しなさい」
オシアンに出したのと同じシャイを淹れ、リュカに渡すコルム。リュカはシャイを一口口にして、顔をうっとしかめた。
「あま! もっとこう、肉とか魚とかないの?」
育ち盛りの少年の胃には、焼け石に水だった。
「それだけ元気があるなら大丈夫、か」
コルムが微笑む。
「じっと寝てなんていられないよ。俺、今シャッセの気持ちがすごーくよく分かる」
寝台の上に大の字になって、リュカが言った。
「誰かに何かしてもらうのを待ってる性分じゃないもんな。シャッセもきっとそうだったんだ」
「いいか、今日だけは大人しく寝ていてくれ。君の身体もぼろぼろなんだ。検査が終わったら、何でも好きなものを食べていいから」
そういいながら、コルムは分かっていた。こんなせりふを聞くような相手ではない。今にもモースの後を追いかけたくて、うずうずしている少年。
「頼むよ、レディ。君のご主人様のこと」
コルムの言葉に、キュルはしっぽを振って応えた。
「誤診の極みだ、あの藪医者が!」
渦巻く感情をこらえきれずオシアンが洩らした怨嗟は、運悪くちょうど戻ってきた女医の、少女のような可愛らしい顔面にぶち当たった。
「な、なにか」
引きつるように壁際で直立するコルムに、オシアンは詫びた。ぐんぐん上昇していく熱が、体中に回っていくのを感じながら。
「失礼、貴女のことではない。貴女の指導医のほうだ」
手紙に、何が?
そう聞きたいのをぐっと押さえ、コルムは軽くうなずいた。
「では頼みがある。まずボーペル殿に面会の申し込みを。必要なのは、北方地帯の地図と、足の速い馬と、優秀な追っ手。それから、数通の手紙と公式記録のたたき台となる報告書。気の利く秘書と、忠実な伝令」
恐ろしい形相で、コルムがオシアンをにらんでいる。
まるで気づかぬふりで、オシアンは続けた。
「ミスティ・デューラーが、まだこの街にいれば至急連絡を。いなくてもことづけたいことがある。郵便配達人が必要だ。それから……」
「嬉しそうだな」
コルムの言葉に、オシアンが眉根を寄せた。
「心外だ。私はもうこれ以上ないほど怒っているんだが。ご立派な主治医殿のおかげで、面倒ごとの山をこの重病人がすべて抱えるはめになったのだぞ。まったく、さすがは大先生だ」
「……今、笑ってただろう?」
訪れた静けさの中で、オシアンはコルムを凝視する。笑う? まさか。
一度だって笑ったことはない。笑えるはずもない。それなのに。
「すべて、おっしゃるとおりに。軍師……先生殿」
コルムの口の端に浮かんだ笑みは、オシアンに勝ちを宣言しているようにも見えた。むろんコルムは、黒衣の医師とは違って、皮肉などひとかけらも込めたつもりはなかったのだが。
ep.2 ■森
賢者の家は人形たちにしっかりと守られていた。
「相変わらずにぎやかなのね、ここは」
きいきい、がたがたと騒がしい出迎えの中、ジェラは人形たちの顔をひとりひとり見渡した。
「林檎、たくさん持ってきたわよ」
「ジェラ! ジュース! ジュース!」
「ふふ、覚えててくれてありがとう」
人形たちは少女の後ろに回り、ずいずいと彼女を水場へ連れて行こうとする。
『オレサマのほーが、かわいいだろっ! だろったらだろ!』
「ん〜悩んじゃうわね」
リラのせりふも、人形たちのふるまいも、何も変わっていないとジェラは思う。ただモースがいないだけ。後は、何ひとつ変わらない。
「ジュース! おいしイ!」
『ジェラ、オレサマにもくれよっ』
「はいはい」
湖のほとりに座り、人形たちとならんで口にする林檎ジュースは、美味しいけれど淋しい味がした。もうそろそろ、故郷のみんなも心配し始めるだろう。ジェラの家出癖は今に始まったことではないけれど、さすがにこんなに長い間国を離れていたのは初めてだった。そして、ジェラは他のどの場所よりも自分の故郷の国を愛していた。
「ここに座ると、誰でも自分の愛する場所のことを考えるのかしらね」
『なにいってんのさ?』
ジェラは独り言よ、と呟いて、湖の反射光をまぶたに焼き付けようとした。
私は、フューガス陛下のようにはならない。
私は、アングワース様のようにはならない。
決着をつけた二人の王。血を流し、涙を流して苦しんだ。
「……でもまだ帰ることはできないわ」
すっくとジェラは立ち上がる。ジェラはまだ、自分の目的を果たしていなかった。人形たちが、彼女を不思議そうに見上げた。
『ジェラ、あれ見て!』
リラが驚きの声をあげて湖面を示した。広い湖面の一部だけが、水の繭のようにするすると持ち上がっていた。陽光がしぶきを七色に輝かせる。きらきらと光のしずくをまとった繭は、ゆっくりと大きくなっていく。糸のように紡がれた水が、複雑な織り目をなしているのがジェラにも見えた。
きっと一瞬のことだったのだろう。
水の繭がひときわ大きく膨らみ、花開くように割れていく。
「誰かいる」
「ダレ? ねぇ。ジェラ、アレ、だレ?」
人形たちが折り重なるようにして湖面に人だかりをつくる。
『精霊!?』
「ううん、違うわ」
風を読む少女の聡い目は、繭の中の小柄な人影に、見知った面差しを認めていた。
水の繭から生まれたてのその人は、どこか、卵から生まれた少年……気高い心を持って仲間たちを愛したあの少年にも似ていた。生まれたことにかすかにおののく感じ。この場所に立っていることに対するとまどい。探るようなまなざし。
「お帰りなさい」
だからジェラは、両手を差し伸べた。
繭から生まれた少女は、そっとその手をとった。
「お帰りなさい、レイスさん」
ジェラはもう一度、少女の名前を優しく呼んだ。
少女の裸足の足元に、滴がつたって小さな同心円を描く。風のように軽々と、少女は岸に飛び移った。
レイスと呼ばれた少女は、すっと首をかしげジェラの瞳を見返していった。
「『レイス』は、あなたと会ったことがあるのね」
「もちろんよ」
もっとも、もう少し大人だったけど。とジェラはこっそり付け足す。どう見ても、目の前の少女は10才くらいだった。話し方や雰囲気は、大人だったレイスと変わらないのだが。
「れいす、チガウ。もっと、大。おとな!」
人形たちは、つんつんと少女の足をつついたり、髪の毛をひっぱったりと忙しい。だが本人は、そんないたずらな人形など目に入っていないように、じっとジェラだけを見つめている。
「れいす、大、大!」
「いいのよ、人形さんたち」
見かねてジェラのほうが、人形たちをたしなめる。
「この人、吟遊詩人のレイスさんだわ。竪琴を弾いてもらったじゃない。あなたたち、もう忘れたの?」
「タテゴト、もってなイ! 別のれいす!」
レイスの視線が人形たちの上に注がれる。竪琴、と呟きながら。
「《水流弦》ね。探しに行くの? 手伝ってあげようか?」
『ええーっ、ジェラ、また《まことの国》に行く気なのぉ?』
レイスは首をかしげたまま、微笑みとも悲しみともつかない表情を浮かべた。ずきん、とジェラの胸がつかえる。この顔は、10才の少女のものじゃない。この人は、時の迷子なんだ。
「ありがとう。でも『レイス』は彼と一緒にいる。まずは彼を助けなければ」
レイスは、すっと森を指さした。
「……彼らが来る。大丈夫」
彼女の示す先を、ジェラは見晴るかした。
やがて木々の間から、旅の仲間たちの懐かしい姿が見えてくる。
「ディルウィード、リュカ、ディルクラートさん……」
最初に気づいたディルウィードが、片手を挙げて大きく振っていた。
レイスは少しだけ口の端に笑みを浮かべると、驚きを隠せないジェラに向き直った。
「レイスさん、みんなが来ることを知ってたの?」
「……『レイス』はまだ知らないわ。でも私には見える。だから、彼と『レイス』を助けにいくの」
実験道具や分厚い書物が並ぶモースの研究室で、ディルウィードはどこかばつが悪そうだった。
「ちょっと気がとがめますねぇ。書庫整理とはいえ、モース様の研究を覗くのは」
「何いってんのさ。一番ノリノリだったくせに。領主様からじきじきに頼まれたんだから、いーじゃん。別にモース様も、何にも言わないって」
リュカにつっこまれ、ディルウィードは肩をすくめた。猫をも殺す知的好奇心。リーフに初めて出会った時も、こうやって大義名分をかざしたっけ。そしてリーフはもういない。関わらなければここまでの感情を抱くことはなかったとはいえ、あまりにも苦すぎる別れを思い出すたび、ディルウィードの心は沈む。
それでも。モースに会いたいという気持ちは強かった。もちろんディルウィード以上に、リュカの気合いは入っていた。二人でモースの蔵書の中から、参考になりそうな本を選び出す。夢魔の空間に閉じこめられた賢者に会うために、何とかしてそこへの道を開くつもりだった。
「これも。この本もっ」
リュカが調子よく、一抱えはある本を、どさどさと魔導操師の腕に積み上げていく。
「さすがモース様、勉強家じゃん〜。うちのガッコの図書室一部屋ぶんくらい、本がありそうだなー」
「……資料としては、こんなもので充分じゃないか?」
クーレルはしかめ面で、書棚に張り付いているリュカに呼びかけた。抜き出した本だけでも、すでにうずたかい小山ができている。
抱えていた本をよろめきながら机の上に置き、ディルウィードは汗をぬぐった。リュカはようやく書架から飛び降りると、青年たちの隣で、使えそうな魔法陣の図版がないかとページをめくり始めた。その作業を静かに手伝うレイス。
「ディルクラートさん。僕は、あなたが力を貸してくれてうれしいですよ」
「なぜだ? 魔導の力があるからか?」
きょとんとするクーレルに、ディルウィードは肩をすくめながら笑う。心に鈍い痛みを感じながら。
「魔導の力があるからではなくて……ま、そうじゃないといったら嘘になっちゃうんですけど……あなたも、見つけることができたのかなぁって思ったからですね。きっと」
「見つける?」
クーレルは、魔法使いの言葉の真意をはかりかねて眉根を寄せた。
返事をするかわりに、本の頁をもくもくとめくる。
見つけたといえば、そうかもしれない。それは、次の旅立ちまでのほんの刹那のことだけど。
「よかったですね」
青年の屈託のない笑顔を見て、どこか師匠に似ている、とクーレルは思った。
よかったかもしれない。
今、クーレルは初めて、自分の意思で何かをなそうとしている。過去をひきずったり、誰かに利用されたりするのではなく、ただモースに会いたいと思っている。
ジェラが林檎ジュースを運んでくると、ふと古びた紙切れが落ちているのが目に付いた。キュルがふんふんと匂いをかいでいる。なぁに、と言いながら手に取ると、二つに折り畳んだカードのようだ。開いてみると、セピア色の濃淡がカードの中で踊っていた。ところどころかすみ、ぼやけながら、それは動く魔法のカードだった。
両側から二人の少年が駆けてくる。ひとりは細身で長身、もうひとりはずんぐりとしていて、おそろいのローブを羽織っている。カード一面に花の雨が降り注ぎ、少年たちの声が叫んでいた。
『モルゲンステルン、お誕生日、おめでとう』 『おめでとう!』……そう繰り返した後、花の雨は星の雨に変わり、カードの中も夜になり、やがて動かなくなった。
「うちのガッコの制服。そっか、みんな卒業生だもんな」
リュカが、新鮮そうな面持ちで呟いた。《学院》での出来事が、とても懐かしく、いとおしく思い出される。その中にいたときは、居心地の悪さしか感じていなかった場所なのに。リュカの視線が、ジェラと交わった。バカにされると身構えたリュカだが、ジェラは何も言わず、微笑んでいた。
そして、しばらく後。
ああでもない、こうでもない。一同は厄介な術と苦闘していた。モースの家の裏手、森の木々が陰を落としている草地に描かれた魔法陣から、色とりどりの煙が立ち昇りはじめる。次に何が起こるのか、あの優しい賢者に会えるのか、一同はどきどきしながら魔法陣を注視していた。だから、キュルが一瞬あのりりしい麒麟の姿に変じ、その角からささやかな力が注がれたのを見た者はいなかった。クーレルはその気配には気づいていたが、何も言いはしなかった。
ぐにゃり。
地面に描いた魔法陣が、いきなり意思ある生き物のように立ち上がった。陣から吹き上がった煙は風にたなびき、ふわりと一同を包み込む。
「あ、いいニオイ」
調香術師がいたならば、その香りをこう表現しただろう。
大地に残る林檎の香り。気高い心をもつ人間たちの、誇りの香り。そして古代よりこの地に眠るものたちの、まどろみの香り。
ep.3 ■夢
ぱっくりと口を開いた魔法陣。色とりどりの煙を吹き出す巨大な生き物の、口の中を覗き込むようにして、一同は立っていた。向こうに見えるは夢の彼岸だろうか。目をこらすと、自分の立っている地面がゆらゆらとゆらめいて、心もとなくなってくる。
「バク、何してるの。おいで!」
飛んできた叱咤は、既知の声だった。あれは、と一同が声の主に思いを馳せるよりも早く、立ち上がった魔法陣はその口を閉じ、その場にいた者たちを彼岸へと連れ去った。
「ちょっと、バク。何食べてるの? ……あらお客? 珍しいわね」
もぐもぐと口を動かす生き物の隣に、ルナリオンが立っていた。見知った旅人たちとの再会に、目を丸くしている。
「どーしたの、こんなところまで生身でやってくるなんて」
「どうもこうもありませんよ。まさか、バクに食べられてしまうとは。僕らは《悪夢》だと思われたんでしょうかね」
ディルウィードが頭をかいた。
「まさか、って。アンタたちの方が、うちの子を召喚したんじゃないの」
ルナリオンにしてみれば、いつものように夢の中を探索して回っていたところだったのだ。突然バクの様子がおかしくなり、トイレでも我慢しているかのようにふるふると身を振るわせ始めた。と思ったら、バクの口の中から彼らがいきなり現れたのだ。荒業である。
ルナリオンは呆れ顔で、順番に一行を眺めた。ディルウィード、クーレル、レイス、ジェラ、リュカ。最後にリュカの連れのフェレット風に目をとめると、ふん、と鼻をならした。
「しょうがないなあ」
「何、うちのキュルになんか文句あんのかよ」
キュルにガンをつけられたと思い口を尖らせるリュカに、ルナリオンはひらひらと手を振った。まるで興味ない様子である。
「アンタのことじゃないわ。それより、モース様のことね」
「ここは、まだあの空間じゃないのか?」
クーレルの問いに、ルナリオンはうなずいた。
「夢魔がいた場所かって質問には、ノーね。ここは夢路の分かれ道。アタシはここで、夢魔に囚われちゃった人を探してるの」
くるりと背を向け、ルナリオンは歩き出した。
「案内してあげるわ。こっちよ」
バクがその後を、のそのそついていく。
「夢の中にも、湖があるんだな」
さすがにクーレルも、夢の世界にまで足を踏み入れたことはなかった。
ディルワースや《まことの国》にあったのとそっくり同じ、森の中の湖が見えたのだ。そしてそこに賢者の家を認めて、クーレルは安堵した。
「夢の中でも、《大陸》と変わらない場所もある。そうじゃないところも多いけどさ」
ルナリオンが、ううん、とひとつ大きく伸びをした。
「ようは、どういうふうに見てるかってことね」
彼女の視線は、再びキュルの上にとどまった。主人の隣で、キュルは知らぬ顔だ。
「夢の中くらい、なんでもありかと思ったんだけどなー」
リュカの言葉にルナリオンは肩をすくめた。
夢魔導士にしてみれば、確かに何でもありの世界だ。それこそモモと同様に。
「さてと、モース様、お邪魔しまーす」
ノックすらせず、ルナリオンはがちゃりと扉を開けた。
「子猫ちゃんたち……ようこそ」
一番最初に出会ったときと変わらぬ笑みで、賢者はちっとも驚いたそぶりを見せず、にこにこと彼らを迎えるモース。逆に、意気込んできたリュカやディルウィードが拍子抜けするくらいだった。
「よかった、お変わりなくて」
もしかしてモース様、夢の中でぬくぬく、ぷくぷくとなっていたらどうしよう。リュカは密かに心配していたのだが、杞憂だったようだ。
「いったいどうしたの? こんなところまで来るなんて」
「みんな、モース様に戻ってきてほしいんです。これまでの出来事のすべてをご存じなのは、モース様だけですから」
ディルウィードは、《竜》と夢魔、それぞれに思いを馳せながら言った。
「残されたモース様には、語り継ぐ責任があると思います。同じ過ちを人々が繰り返さぬように」
リュカが続ける。
「俺、まだまだモース様に教えてほしいこと、いっぱいあるんだ。その、御礼も言ってなかったし」
こくこく、とジェラがうなずいた。
「でももう僕が《大陸》で……ディルワースでできることは、もうないよ。僕らの時代はもう終わったんだ。これからはシャッセちゃんの番だから」
「シャッセ姫だって寂しがってる。姫だけじゃなくて、ディルワースの人たちみんな」
「それに、モース様。手伝ってほしいことがあるのよ」
腰に両手をあて、ルナリオンは言った。
「アタシ、夢の中を回って囚われ人たちを助けてるの。ねぇ、探すの手伝ってくれない? どうせすること、ないんでしょ」
横柄なルナリオンの物言いに、モースは笑った。することがないのは事実だった。
「そうだね。キミの言うとおり」
「じゃあ一緒に来てくれるのね?」
「時々なら」
それでもいいわ、とルナリオンはVサインを出す。モースがいれば力強かった。いつかは、元の身体に戻ることが出来る。そう信じられる気がしてきた。
「それじゃあこんなトコに長居は無用よ、モース様。アンタたち、魔法陣で出入り口をつくってやって来たって言ってたけど……」
ルナリオンにとってはたやすく出入りできる場所ではあるが、生身の人間ではそうはいかない。
それに、どちらかといえば、夢の中というのは入りやすく出づらい場所といえた。《大陸》に戻る一番手っ取り早い方法は、どこかに出入り口の穴を穿つことなのだが。
「まぁ、ねぇ」
「バクの口の中だった訳ですけれど」
「ん〜、バクに食べさせるわけにはいかないなあ。こんなにたくさん食べさせちゃ、消化不良になっちゃうじゃない」
夢魔導士の肩に、ぽんと手がおかれた。クーレルが、まっすぐにモースを見据えていた。
「俺の知らなかった俺を知っていてくれた。俺にとってはこの上ない救いだった」
「魔導操師クーレル。僕こそ礼を言いましょう」
モースが青年の名を呼んだ。彼はもう、迷子ではなかった。
「誰もが俺を忘れても、大地は、風は、空は俺を覚えていてくれる。それでいい、人はたくさんの代償を支払いながら生きている。それが俺はたまたま『記憶』だったというだけだ。俺は感謝する。やさしい大地に、やさしい人々に、俺は癒され、救われた。これからもそうだろうし、そうでありたい。たとえすべての記憶を失ったとしても、だ。俺は不幸ではない、幸せだった……そして幸せであり続ける」
「ありがとう、風に名を留めし詩人よ」
モースがすっとお辞儀した。
「うわ……」
キュルの毛がふわりと逆立ったのを見て、リュカが声を挙げた。強大な魔力が旅人たち一行に注がれていた。数歩離れたところに立ったクーレルは、ただ目を閉じて、彼らを《大陸》に送り返すための力を作り出していた。仲間たちの持つ自分の記憶。それを源にして、クーレルは《大陸》に呼びかける。
モースを呼ぶがいい、ディルウィードを、リュカを、レイスを、ジェラを。
《大陸》の呼び声を道しるべに、あんたたちの居場所に戻るんだ。
「やめて、ディルクラートさん。わたし、あなたのこと忘れたくないもの!」
「こんな、やり方なんて!」
口々に叫ぶ仲間たちの姿は、次第に淡く滲み始めていた。彼らの夢が覚めようとしている。
レイスは少しずつぼやけていくクーレルの輪郭をじっと見つめていた。《大陸》に、自分たちが呼ばれているのが感じられた。彼女には、クーレルの心の声が響くように聞こえていた。
(きっとまた会える。もしかしたら明日にでも。もしかしたら、100年後にも。あんたたちの子孫にも、俺は会うだろう。俺は幸せであり続ける……)
また会いましょう、風に名を留めし魔導操師。
レイスもまた瞳を閉じた。次に目を開けたとき、彼女自身もまた、失っていた時を取り戻していた。ふわり。長い髪が湖を渡る風に揺れた。少女は大人の女性に生まれ変わっていた。
ちゃぷん。水に手をひたし、その感触を確かめる。《大陸》のすべては美しい、とレイスは思った。周りでは夢から帰還したばかりの仲間たちが、まだ目覚めることなく思い思いの格好で午睡を楽しんでいる。
ああ、すべては美しい。なぜならすべてが移り変わり、その中で命が光を放っているから。そして自分もその中のひとりだから。
ep.4 ■大吊り橋
エルムとアーシュは、軍師からの密書を手にして首をひねっていた。
「ずいぶんと大胆な作戦ですね」
オシアンからの指示は緻密で的確だった。まだまだ安静中のはずであるのに、さっそくこんな細かな書き物などして。新しい主治医の関係が劣悪になっていなければいいが、とエルムは妙なところが気になった。
「オシアンらしいね。草の根分けても探し出せ、か」
アーシュが片腕を伸ばし、アフリートを遊ばせている。オシアンとの連絡用に遣わされた黒ねずみは、アーシュの腕の上で木の実をかじっていた。そういえば、とエルムは思う。たしかオシアンが、アフリートは人になつかないと言っていたはずだ。
「急がなければ。《大吊り橋》の手前で追いつかないと」
「《大吊り橋》なら楽勝だろ」
どこか楽しげなアーシュを見ていると、エルムの中でもやもやしていたものも、いくぶん昇華されつつあるようだった。実際、アーシュは楽しんでいた。戦場で敗走兵を追撃するのとは違い、共に旅した仲間を追うだけだ。オシアンだってフォリルを処刑するつもりではない。しかもボーペルの財布から、いくばくか出そうだし、元来お祭り好きの傭兵には楽しみこそすれ、悩む幕ではなかった。
「あいつのことを考えてたのか? あの、盗賊」
「ええ」
エルムは目を伏せた。まさか、フィリスの指輪だったなんて。旅の道中、時折危なげな様子を見せていたフィリスのことが思い出される。ディルワースに帰還して以来、あの手品師の姿を見たものはない。赤く染まった鳩を連れて、あてどない旅に出たのだろうか。
「エルムの村じゃさあ」
突然アーシュが切り出した。
「お金はあるんだっけ?」
「お、お金? 一応ありますよ。基本は自給自足ですけれど」
「フィリスの村も、金目のものがなければ、襲われたりしなかったのにな」
「うーん、なるほど」
アーシュの視点にエルムがうなった。《門》の里はかなりの山奥にある。侵入しようとすること自体大変だろうが、それだけの苦労に見合う金品は確かになさそうだった。《門》の財産は、各人が身に付けた技と精神なのだから。
「いくら考えても、グレイの考えが分かりません。なぜ力を得たまま《門》を出たのか? なぜクーレルに肩入れしたのか? なぜ……もしかしたら、一生分からないのかも」
エルムは無意識に、そっと左手の甲に右手を添えた。
この件が一段落したら、決めたことがある。グレイが荒らしていた地域を巡る旅に出よう、それが、きっと私の修行だ。
《大吊り橋》の手前、街道沿いの最後の宿場町。
そこはもうとっくにディルワースの外、自由地帯である。深い森や山岳地帯に住まう者たちが集い、街道を通る旅人相手に細々と商売をしているその街で、アーシュは見たことのある黒衣に気づき、応えも待たずにその手をつかんだ。
「見つけた、フォリル先生だろ?」
目深にかぶったフードの下から現れたのは、切れ長のアーモンド型をした瞳。無精ひげこそ生えているが、紛れもなく「藪医者」その人だった。
「フォリル殿っ」
エルムも駆けて来る。フォリルがごほごほと咳き込んだので、アーシュはその手を急いで離した。
「よかった……と言いますか、いえ、よかったです、この国を去られる前にお会いできて」
エルムがにっこり微笑んだ。深い森にいくつも仕掛けた罠が徒労に終わったことを、少し残念に思いながら。
「貴女も噛んでいたのかね、このくだらない作戦に。ということは、あの森の下生えの落とし穴だの糸だのは貴女の仕掛けか?」
「お気づきでしたか」
「まったく。それで何だ? アーシュは、金か? 茶番に付き合わされるとは」
「まぁね。てか、面白そうだったからね」
アーシュは屈託なく笑った。フォリルはため息をひとつついた。
「煮るなり焼くなり、好きにしろと領主殿にお伝えしてくれ」
「違いますよ、フォリル先生。これは領主殿の命令じゃなくて、オシアン殿の意思なんです」
その名を耳にして、フォリルの表情が険しくなる。エルムはオシアンがしたためた手紙を渡した。フォリルは奪うようにそれを読んだ。
「オシアン殿に限って、貴方が首尾良く適度に整えた作戦に『なるほどそれはいい考えだワッハッハ』なんて言うはずがないではございませんか」
「奴も、同じ穴の狢ではないかね」
エルムにしてみれば、まだオシアンのほうが可愛気があるように思えた。
「置手紙をわざわざ残していくなんて、つかまえてくれといってるようなモンだと……」
「何?」
「……オシアンが言ってたぜ」
アーシュが、フォリルの肩に手を置いた。
「戻ってくださいますね、フォリル殿」
フォリルは目を閉じた。
「世話のかかる藪医者だ」
というのが、オシアンの第一声だった。隣に控えるアーシュとエルムは冷や冷やしていた。
「大仰なお膳立てに礼を言う、フォリル殿。あなたが埋めていってくださったものはすべて、元に戻しておいた」
どかりと椅子に腰をおろしたフォリルを見下ろして、オシアンは続けた。
「後は……後顧の憂いを絶つための仕上げが必要だ。協力していただけるな?」
その後の処理は、迅速だった。関係者の間には戒厳令が敷かれ、その世のうちに、罪人フォリル=フェルナーは死刑に処せられた。見届け人として、ボーペルとアーシュのサインが記録に添えられた。フォリルの長い黒髪は、一房切り取られて残された。
「これで……あなたは自由の身です、フォリル殿」
ボーペルは申し訳なさそうに詫びた。
「こんな真似までさせてしまった、本当にすまない。本来は私がすべての責任を追うべきなんだが」
「みなまで言うな、領主殿……今は、領主代行殿、のほうがよろしいか」
フォリルは静かに答えた。
「だがオシアン殿、ランドニクスはこんな茶番に騙されてくれるほどお人好しではないぞ」
「分かっている。そのための手も、すでに打ってある」
オシアンの口調は楽しげだった。
「いいだろう。ここが……《竜の通い路》が、私の死に場所だったと言うわけか」
許してくれるだろうか、シド。フォリルは心の中で、死んだ自分と自分の友のために祈りを捧げた。
そして、オシアンの打った手は効果をあげた。
「ようやく届きましたよ、フォリル殿」
使者が携えてきた包みを開き、オシアンはフォリルに突きつけた。帝国の公式文書であることを指す紋章入りの箱に、皇族の印の緋色の封緘。そして、末尾に記されていた流麗なサインは、ランドニクス第二正妃エレインを示していた。印章つきの指輪も付されていた。
「これがあなたの、死亡診断書です」
「エレイン……正妃殿下……」
それは正しくは死亡診断書などという都合のいいものではなかったのだが、実際には、文書以上の効力を持っていた。妃殿下のお墨付き、手出し無用。これほど強力なカードが、市井の一個人に出されることはなかったのだろう。
「私に借りをつくったな、フォリル殿」
「また交換条件か?」
フォリルはそれだけをしぼりだすように答えた。
本格的な冬が来る前にフォリルはバーラットへと旅立った。オシアンの故郷へ、オシアンが託した手紙を持って。
「おめおめとこの身をさらすわけには行かないのだ」
ややこしいことをする、とのフォリルの言に、オシアンは答えた。自分のしたことは、故郷の法では死にも値する。仮に一族が許してくれたとしても、自分の存在自体が、せっかく穏やかにまとまりつつある周辺諸国に波風をたてかねない。
「だから、まずこの手紙を族長に届けてほしい」
とオシアンは説明した。手紙を口実に、バーラットをとりまく状況についても探ってもらいたいと。
「不幸にも、あなたがもっとも適任のようなのでね」
「私との交換条件も、果たしてもらうとも。国境沿いの宿で、帰郷をお待ち申し上げる」
「……約束です」
フォリルの背中を見つめながら、ああ、シャイのお礼をしそびれた、とオシアンは気づいた。
しばらく後、オシアンも足を南に向けた。いよいよだ。いよいよバーラットに戻るのだ。あのオアシスに足を踏み入れるまでには、まだまだ時間がかかるだろう。それでも、故郷に向かって旅をする時がやってきたのだ。オシアンは、自分の胸が高鳴るのを感じていた。
そして、当たり前のように隣にはアーシュが立っていた。
「そろそろ暑いところに行きたいなって思ってたんだ」
「雪が恋しくなっても知らんぞ」
ディルワースに来たときは夏の初め。たった一人、アフリートだけを連れた孤独な旅だった。
「楽しみだな、砂漠の国。蜃気楼が出るんだろ?」
ああ、話し相手がいる。いつも側に。大丈夫、これなら笑える。
オシアンは心の中で祈るように思った。
ep.5 ■ふたり
ある晴れた日に、ディルワースでは盛大な結婚式が執り行われた。マリィ家では、たくさんのお客を迎えるのに大わらわである。真新しいきらきらの衣装に身を包んだランディと、その積年の想い人サンディの表情は、幸せそのものに輝いていた。前妻のことを持ち出して、二人の門出にけちをつけるような隣人はいない。とうのローズですら、もつれていた糸が納まるべき場所へすっきりと納まっただけ、と評していたくらいだった。
ローズはマリィ家を出て、ディルワースの孤児院に引っ越していた。
「『ディルワースの森――Leafy Garden』……我ながら、じょうずに書けたわ!」
緑のペンキをそこらじゅうに跳ね飛ばし、ローズは満足気に笑う。ランディからたっぷり預かった寄付金で、孤児院はきれいで広い建物に生まれ変わっていた。もちろん食事はおいしく、毛布は温かく。おもちゃも本もたっぷりと。図書館にしてもいいかもね、なんて、最初ローズはランディと笑ったりもしていた。
今のローズには、かけがえのない家族が増えた。孤児の子どもたちに囲まれて、森にピクニックにいったり、キノコをとりにいったり、夜にはひとつの毛布にくるまって、絵本を読んであげるのもローズの仕事だった。
だからある日、ローズは手紙を書くことにした。
「国賊、フォリル=フェルナー先生へ……」
「死んだ人になんて、届けられないよ」
「んもう、カミオったら! 先生は死んでないのよ。死ぬはずないじゃない?」
……たとえディルワースのぜんぶの人を騙せたとしても。わたしだけは騙せないんだから。むらさき色の指輪には、真実の魔法が掛かっていたの。あの、ディルウィードがくれた指輪のことよ。覚えてるかしら。
『どうしてフォリル先生はローズ=マリィに竜の牙を渡したのか』
ね、考えてもみて。それまでわたし、昔のこととかなんにも知らなかったのよ。あの時、むらさき色の指輪はその全部を教えてくれたの。ランディおじーちゃんもわたしに言った。大邸宅に沢山の使用人、贅沢なお料理、高価なドレス。でも人が誰でも心に感じている飢えや凍えは、それだけでは満たすことが出来ないんだ、って。今度はローズが探してごらん、って。 わたしにはよく解らないけれど。どういう意味だか先生には解る?
あーあ、全く。招待状を届けたのに、ランディおじーちゃんとサンディおばーちゃんの結婚式、 結局来てくれなかったわね?
今頃何処でこの手紙を読んでくれているのかしら? フォリル先生にしても、ランディおじーちゃんにしても、モースのお兄さんにしても、フューガス王にしても。男の人って本当に良い格好しぃのヒョウタンナマズよね。またディルワースに悪い病気が流行ったら、その時には治しに来てくれるのかな? お茶でも飲みながら今度は仲良く、先生の子供の頃の話とか、恋愛話とか聞きたいな。
ローズマリィの乾燥葉とりんごの乾燥果肉を同封しておきます。お茶に煎れて飲むと体が温まって良いんですって。フォリル先生の心に飢えや凍えを感じたとき、試しに使ってみて。
「……ディルワースのローズより」
ローズは手紙に封をすると、カミオにもお駄賃として乾燥りんごを一袋渡した。
「おいしいんだから、道中口寂しくなったら思い出してね。新しくできたお友だちにも、分けてあげるのよ!」
「ローズ、なんだかお母さんみたいだな。分かった。行ってくるよ」
だって、お母さんだもの。家族がたくさんいるんだもの。
小さくなる郵便配達夫の背中に手をふりながら、ローズはそんなことを考えていた。
ある日。孤児院にひょっこりとお客が尋ねてきた。
「おやおや、立派な看板ですね」
「ディルウィード!」
ローズは久しぶりに会った魔法使いに破顔した。
「お引越しの手伝いもしなくてすみませんでした」
「いいのよ。モースのお兄さん、連れて帰ってきたんですってね? ああそうだ、おいしいキノコのスープがあるの。一口味を見ていかない?」
ローズは半ば強引に、ディルウィードを中に通して座らせた。
おいしいスープを味わいながら、魔法使いは故郷に戻ることを静かに告げた。
「あらそう」
おなべをかき混ぜながら、ローズは背を向けたままで答える。
「ですから、あの、お伝えしておこうと思って、その……指輪のことなんです。聞いてもらえますか? あれは、僕の魔力を増幅する力があるんです。その、僕、魔法使いだなんて名乗っていますけれど、本当は両親に比べて……」
「あれはね、真実の指輪なのよ」
ローズが答えた。
「だって、真実を教えてくれたもの。あなたのお母さま、素敵な人だわ」
「……僕は昔、母にひどいことをいったんです。自分の力不足を両親にぶつけた。母さんはこの指輪をつくってくれて、僕の首にかけてくれました。これで、みんなと同じよって」
スープの中に、小さなしずくが落ちた。
「でも僕はその指輪をとても重く感じた……だのに、手放せない。手放したら、母さんとの絆が切れてしまいそうな気がしてた。でも、一番大事な人を守りたかったときに、その効果はなくなっていて、僕は痛感しました」
ぽたり。しずくが連なった。
自分のスープを抱えたローズが、ちょこんとディルウィードの隣に座る。
「このままでは大事な人達を傷つけたままだって。そして大事な人を肝心な時に守れないんだって」
「その指輪の役目はきっと、そういうことだったのよ」
ローズはスープをふうふうしてから一口飲んだ。
「ん、いい出来だわ」
「……指輪は僕のいいところも悪いところも、強いところや弱いところも知ってます。勝手な願いかもしれないけれど、僕はそれを貴女に持っていてほしい……そう思いました……いや、今でもそう思っている……ローズ」
ふとディルウィードは、言葉を切った。扉の向こうから、ほにゃほにゃした泣き声が聞こえてきたのだ。ローズはそそくさと立ち上がると、泣いている赤ちゃんを抱っこして戻ってきた。泣き止んだ赤ちゃんは、まばたきもせずディルウィードを見つめている。稲妻のようにリーフのことが思い出された。
「この子はミントっていうの。ほら、ディルウィードに挨拶しなさいね?」
「……やあ。こんにちは、ミントちゃん」
ディルウィードの精一杯は、ここまでだった。
季節はまた廻る。
「こんにちは、ごめんくださーい」
ローズの声に応じて扉の向こうから現れたのは、上品そうな老婦人だった。面影が似ているわ、とローズは思う。
「ディルウィードはこちらに帰っているでしょうか?」
いいえ、と老婦人は首を振った。
「あ、ええと、ごめんなさい。わたしはローズ……ディルワースのローズです」
「まぁ、ディルワースからいらしたの? 懐かしいお客さまだわ。ねぇ、あなた。思い出の場所からのお客さまがいらしたわ」
家の奥へと声をかけた老婦人が視線を戻す。ローズの指には、少し大きめのアメジストの指輪がはめられていた。
「突然ごめんなさい。この子がどうしても、ディルウィードに会いたいってぐずるから……」
ローズの足元に隠れるようにして、小さな女の子がきょろきょろあたりを見回していた。ようやく歩けるようになったくらいだろうか、幼い手はしっかりとローズにつながれている。
「でぃるうぃど、ぱぱは?」
「ディルウィードパパ、ここにいないみたい」
「おちごと?」
「うーん、遊んでるのかも」
ローズはよいしょ、と女の子を抱き上げた。その様子をにこにこしながら眺めていた女性が、二人を中へ招きいれる。
「この子の名前? ミントです。とっても物覚えがいいの」
「そういえばディルウィードも、おしめが取れるのは遅かったけど、言葉を覚えるのは早かったわ」
ディルウィードの母親は懐かしそうに、ローズとミントのことをあれこれと尋ねては、くすくすと笑ったり、あらまあと驚いたり。
「わたしとミントがここに来るってディルウィードは知らないの。帰ってきたらびっくりするわね? あ、そうだ。ディルウィードのお母さま、わたし、ここへ来る途中にキノコを籠一杯に採ってきたの。折角だからキッチンを借りてお料理しても良いかしら?」
「ええ、遠慮なくどうぞ。その間、ミントと遊ばせてちょうだい」
それはそれは、優しい家。居心地のいい、幸せな時間だわ。ローズは思った。ここで彼は育ったのね。彼が戻ってきたら、こう言おう。
わたし、幸せになりたいの。ディルワースで一番の。
だから名前を、ローズ=ウッドラフに変えても良いかしら?
ep.6■学院
ディルワースを後にして数ヶ月。故郷には、リュカが《竜》の召喚に成功したこと、キュルが本物の麒麟の子であったことなどが伝わっていた。
「不思議なもんだよな、キュル」
久しぶりに実家の寝台に横になった夜、リュカは隣に寝そべるキュルの肉球をぷにぷにと触りながら、ひとり呟いた。
「俺の立場も、キュルはキュルだってことも、何にも変わってないのにね」
故郷の人々が、自分たちを見る目が変わった。
そのことを少し複雑に受け止めるリュカである。昔だったら、超天狗になってたかもしれない。でも、今の自分なら、それさえも受け止めて切り抜けられる気がする。
「な。これからもよろしくな、キュル」
少年はいつの間にか寝息をたてていた。
《学院》では、教師陣に召集がかかっていた。
「《大陸》そのものの存在に関わる事件だったわけですからな。その関係者とあればあだおろそかにはできまい」
「それに、それを解決に導いたのですからね」
「オーウェスト家の名にふさわしいと、私は思いますわ」
「……オーウェストであろうが、なかろうが」
最後に重い口を開いたのは学院長だった。
「リュカはリュカだということだのう」
学院長は目を細めた。《竜》を召喚し、無事である。さすが名にし負う名門の子よ。
「だが、ここは英雄を生む場所ではない。《大いなる悠遠の旅路にかかげられし灯火たる学び舎》だ。ゆえに諸君、くれぐれもリュカを甘やかすでないぞ」
リュカは《学院》に復学できることになった。モースやフューガスなど卒業生たちの話も、きっと上には伝わっているに違いないが、一般生徒たちの間では、やはりヒーローはリュカなのだった。
もともと目立つ生徒だったものの、今度のことで一躍有名人になってしまったリュカには、以前よりも距離を置く者、犬猿する教師などもやはりいた。けれど逆に活躍を誉める者、妙に美化された話でも聞いたのか、勝手に憧れてリュカの取り巻きになる者、髪の毛がほしいと言い出す者などもいて、しばらくリュカの周りはばたばたしていた。自分の髪のかわりにキュルの毛を渡したりしていたのだが、そのうちそんな騒ぎも治まった。以前とまったく同じとはいえないまでも、そこそこ落ち着いた《学院》での生活。キュルと一緒に構内を堂々と歩くこともできるようになった。
リュカは知っている。思い出した、というべきかもしれない。やっと軌道修正できた自分の道。けれど、学校を卒業してからのことはわからない。これだけのことをやったとしても、家名を兄が継ぐことには変わりないだろう。たしかに自分をとりまく環境は変わったけど、状況はちっとも変わっていないのだ。
「よ、おはよう!」
リュカの背中を、同級生がたたきながら駆けて行く。
リュカとキュルはそっくりの仕草で手を振り返した。
「そんなことは、どうでもいっか」
いつもしょげていた過去の自分はもういない。家を継げないのではなくて、家にとらわれない生き方をすればいいだけなのだ。あれだけのことができた自分だから。キュルがいて、モースもいるから。家に収まるような、そんなつまらない未来なんて自分から願い下げだ。もっと大きく生きてやる。家名なんかより、学派なんかより、もっともっと大きなものを手にしてやる。《竜》の力だって……身体の奥でくすぶっているこの火だって、今はまだ宿しただけの借り物だけど。
「いつか、自分で手に入れてやるさ。そして、大きな炎にしてみせる」
リュカは拳を固めて誓った。
がら〜ん、ごろ〜ん。がら〜ん、ごろ〜ん。
ディルワースによく似た鐘の音が、《学院》内に鳴り響く。始業の合図に慌てて駆け出す生徒たち。そしてリュカはもう一度出会う。
「久しぶりだね」
自分と同じ、うぐいす色のローブに身を包んだ少女。
燃えるような赤い髪を結い上げ、きりりとしたまなざしでこちらを見据えているのはもちろん。
「シャッセ!?」
一生懸命勉強するからよろしく、と少女は微笑んで、右手を差し出した。
ep.7■盾
若きディルワース国王夫妻の刻んだ印が残る林檎の木の下で。ミスティ=デューラーは風に吹かれて佇んでいた。手には、軍師からの手紙が握り締められている。手紙は未開封のままだった。彼女はディルワースの森を眼下に眺めながら、ただ黙っていた。
「……というわけで、報告は以上です。詳細につきましてはここに資料も揃っています。ご覧になりますか?」
「いや、いい」
若き帝国女性工作員ロウ=フェルマールの、歌うような事務報告を短くさえぎって、ミスティはため息をついた。ちょっと留守にした間に、問題が山積されていた。ランドニクス帝国南方で、北方制圧の機運が高まりつつある。ロウの言葉は、ミスティの心を瞬時にランドニクス内務省霊能局長に変貌させた。さすが長い付き合いだ、とミスティは思った。
「局長、すみやかにご帰還なさいませ」
「もう戻ってる」
「ずいぶんお楽しみでしたね。大陸北部ほくほくグルメツアー」
悪趣味なネーミングに、ミスティは形のよい眉をひそめた。どうせ、あの首席監察官が言ったんだろうが。
「ロウ、今のは皮肉?」
「いえいえ。局長がうらやましい」
「やっぱり皮肉だろ」
「違いますってば」
ミスティは、手紙を自分の少ない荷物の中にしまった。読まなくとも、かかれていることぐらい簡単に想像できたからだ。それでも荷物にしまって持っていく、という行動には自分でも驚いていた。
「……安保局の奴ら、何て言っていた?」
「特に何も」
ふん、とミスティは鼻をならす。南部諸国に対抗するために、強力な魔法軍の編成が必要になるのは分かりきっていた。ミスティのポストも用意してあるのだろう。
「行こう」
ブーツのかかとで大地をえぐるように、ミスティは大股で歩き出した。その半歩後にロウが従った。
(ミスティかあさん)
不意に懐かしい声を聞いて、ミスティは半身を翻した。驚いたロウが、びくりと身を震わせる
「局長?」
ミスティは片手でロウの動きを制した。目の前に、大切な友人の姿があった。
(ミスティかあさん、行っちゃうんだね)
ディルワース王子、そしてアングワースの王子リーフが、そこにいた。
「リーフ!」
ミスティの顔がゆがむ。
「おまえ……いるならなんで私のところに出てきたのさ! 私はおまえに何もしてあげられなかった。ちょっとは教えてあげられることもあったのに……おまえを最後までかばってたのは、あの弱っちい父さんさ。ディルウィードの前にこそ、おまえは出てくるべきだろう!」
(そうかもしれない)
リーフは肩をすくめた。その仕草は、ディルウィードがよく笑いながらする仕草によく似ていた。
(どうか、お気をつけて。それを言いたかった)
「おまえに言われなくても分かってるよ」
何年生きてると思ってるのさ、と言いかけてミスティは言葉を飲み込む。
「おまえこそ、くだらない手妻にひっかかって《大陸》に落っこちるんじゃないよ」
「局長?」
ロウはけげんそうにミスティの顔を覗き込んだ。それきりミスティは、リーフの姿に背を向けた。分かってる。大切なものを守るために、自分が命を落としては何もならないということ。リーフにはまた会える。きっと血が呼び合うだろう。そのときまで、大事な友人が守りたがったものを、守っていかなければ。ディルワースにとって、ランドニクスは誠実で大きな盾となるだろう。
(もしも父さんに会うことがあったら、伝えてください。
……僕は、人を選んだのだと。
人を選んだからこそ、《竜》を選んだのだと)
リーフの声も姿も、やがてゆらゆらと揺れて消えた。
1週間後、ランドニクスに帰還したミスティは同僚たちと肩を並べてテスラ戦役へと出陣する。
ep.8■願い星
「えほ、えほえほっ」
ゴドは、吸い込んだばかりの煙草の煙に咳き込んだ。ここは最下層の下町、色町のはずれ。ゴドは、娼窟相手の洗濯屋に下働きとして勤めていた。嘘のような冒険の後に待っているのは日常だ。英雄達は、思うがまま、望まれるがまま各地に散っていったのとはちがって、所詮はしがないよそ者行商人のゴドに待っていたのは、使い果たした路銀と絶え間なく続く日々。一時の栄光も無く、現実に帰される。口入れ屋を何軒も回って得たのは、何処かのお屋敷のメイドの口か洗濯屋の下働きだけ。メイドの方は、見かけが若旦那の目に敵わなくて結局首になった。
「こら!仕事はどうした?!」
突然背後から大きな声がかかる。
「はい!ご、ごめんなさい!」
びっくりして後ろを振り返ると、顔なじみになった娼婦の一人だった。
「なーに、サボってんだ? ククッ」
「お、驚かさないでくださいよう」
ゴドは涙目になって抗議する。
「お、煙草吸ってたのか? どうだい味は?」
「えほっ、私には、まだわかりません」
咳き込みつつ、以前から借りていた煙管を当人に返す。
「お子様には、まだわからないかぁ」
まだ、少しも吸っていない煙管を口にくわえて、彼女は笑った。
「それよりどうしたんですか?今日は早引けですか?」
ゴドは立ち上がると前掛けの汚れをはたき落としながら尋ねた。
「そう、そう、郷に残した息子から手紙が来たんだよ。悪いけど、読んでくんねえか?」
ゴドは、曲がりなりにも旅商人をやっていただけあっていろんな国の読み書きが出来た。そろばんも弾ける。一応、法律や礼儀や風習、商人として最低限必要なものは身に備えていた。だから、読み書きできない者も多いスラムだとこういうお願いもよく来た。
「いいですよ、あー、『はいけー、おかさんは、げんきですか、ぼくもげんきです……。
読み終わるとゴドは彼女の方を見る。彼女は少し涙ぐんでいた。
「すまなかったな……ありがとな、後、すまないけど、返事を書いてもらいてぇんだけどいいか?」
「いつでも良いですよ。あ、でも、そろそろ、サボっているのがバレると困るから、一端戻ってからでも良いですか?」
ゴドは薄く微笑んで手紙を振った。彼女は破顔して立ち上がった。
「終わるまで、待っててやるよ。どうせ、今日は早引けをもうしちまったんだ。さ、さっさと行こう」
「え、ちょっと、まって、早いで……」
強引に彼女に手を引かれてゴドはあわてて走り出す。
空はどこまでも青く、太陽の日差しは強い。石畳と煉瓦に切り取られた青空を見ながらゴドは走りだす。
そうだ、私も手紙を書こう。エルムさんに、今はもう居ないあの人に、泣きっぱなしだったあの冒険で出会った人々に。
拝啓、あれからどうしていますか? とりあえず、私は元気です……。
ep.9■卵
少女は何をするにも卵と一緒だった。食事するのも、ベッドに入るのも、水浴びするのも、一緒。少女の頭くらいの大きさの卵は、時々ゆっくり瞬いたり、何かの色を映し出したりする。まるで少女とおしゃべりしているかのように。
「ねーカロン、まだかなぁ〜」
旅籠の寝台に腰掛けて、足をぶらぶらさせながら、ミューは傍らの卵に頬を寄せていた。
「まだだったら、まだなんだよ」
その様子に苦笑しながら、茶猫はぺろぺろと毛並みを整える。この会話は、一日十回以上繰り返しているに違いない。もちろんカロンにだって、《この子》がいつ生まれてくるかは分からない。もしかしたら生まれないかもしれないけれど、さすがにそれは黙っていた。ミューがこれだけ話し掛けているのだから、そんなことはないと信じたい。
「そんなに急ぐなよ。人間だって、生まれてくるまでには1年近くかかるんだぞ」
「みゅー、そんなにまてないん……」
「大丈夫さ。卵のかけらのイメージだって、反応してたろう」
リーフが包まれていた卵のかけらは、何かに使えるかと思って分けてもらったものだった。カロンとミューは、その小さなかけらから、孵化のイメージを取り出して《この子》に与えたのだ。調香でもたらされた芳香の中、《この子》は確かにうずうずとしていたように感じられた。ミューはそう長く待たなくてもいいはずだった。もっとも待ちくたびれるミューが可愛くて、カロンはあれこれ言ってみたりもするのだが。
そしてその夜。
今日も待ちくたびれてすうすう寝息をたてはじめたミューの隣で、静かに孵化は始まった。白くてふわふわした何かが、まず現れた。コツコツの音に、ミューが目を覚ます。小さな指が、内側から少しずつ殻を破っている。
白いふわふわは、しばらくするとピンク色に変わった。カロンは蝉みたいだ、と思ったが口には出さなかった。やがて、ふわふわ髪の毛に包まれた子どもが、ひょっこりと顔を出した。小さなお人形そっくりの、長いまつげと大きな赤い瞳。《この子》は、まじまじとミューの顔を見上げた。
「こりゃ奇跡だな。盛大にお祝いしなくちゃ」
「キセキ? キセキの竜?」
「違うよ。おめでとうって言うことさ」
カロンは笑った。
「めでたし、めでたしなん」
ミューも、笑った。
時が流れて。
カロンとミューと、ミューによってセーレーンと名づけられた子ども……というよりは妖精のような大きさだったが……は、旅に出た。旅の仲間たちに、お届け物をするための旅だった。彼ら自身によって注意深く作り上げられた贈り物は、みんなの記憶と《大陸》の夢が溶け合った、その人のための香りの小瓶だった。
受け取った者たちは皆気づく。この魔法の香水は、瞬時に全員の想いをディルワースへと連れ戻すことができるのだと。もちろんクーレルの元へも、香水は届けられた。そして、永い時をさすらう迷子の魔導操師も、ディルワースにだけは迷わずに帰ってこれるようになったという。
旅人たちは、今も旅を続けている。
けれど、それはまた別の物語。
ほんとにおしまい
