終章〜この胸に宿る星
■Scene:《精秘薬商会》
「……ここにもまた、欠片がある……」
しっとりとした抑揚で、奇妙な装いの旅人は呟いた。
「人は何度でも、過ちを繰り返す……」
「ほら麦珈琲、お待たせ」
《精秘薬商会》店主手づから、湯気を立てるカップが差し出される。旅人はありがとうと微笑んで、両手でカップを受け取った。
傍らには無造作に、見慣れぬ形の弦楽器が置かれている。相手は旅の吟遊詩人と目星をつけたバウトは、申し訳なさそうに言葉を続ける。
「《大市》目当てに来たのかい?」
「ええ、まあ」
そんなところですね、と口の中でつぶやくと、黒い液体から立ち上る薫香に、旅人は一息顔をうずめる。独特の香気や渋味は飲み手を選ぶ。麦珈琲は、バウトが《大市》で買い付けた中でも極上の一品だった。くせのある注文に応えたわけではないが、バウトもついつい相手の正体に思いをめぐらせながら会話を続ける。
「あいにくだったなあ。今年の市はついこの間終わっちまってさ。あと数日早く来てくれたら良かったんだが」
「かまいませんよ。他にも目的はあるのですから」
「ま、ゆっくりしていきな」
「……それにしても驚きましたよ。この街で、オリザールの麦珈琲を口にできるなんて」
旅人の表情に、バウトは誇らしげに片眉をあげた。よれたターバンの奥に覗く旅人の瞳には、えもいわれぬ懐かしさが浮かんでいた。
■Scene:予感
ミゼルの愛した庭園に、新しい風が吹く。
罠師のジャグ=ウィッチは、この庭でずっと働きづめだった。もう廃園ではない。立派に手をかけた、ちゃんとした庭園である。
「ごめんなさいね、こんなことまで手伝ってもらって」
庭と遺跡の掃除に没頭しているジャグは、オールフィシスの申し訳なさそうな声音にも、額の汗をぬぐっただけだ。彼の周りでは、白いワンピースをたくしあげたマンドラゴラたちが、せっせとこれまた「お手伝い」に励んでいる。新しい妹たちも、姉たちの後を追ってちょこちょこと歩き回るようになった。
「ジャグさん、そろそろお茶にしましょう」
「しましょ」
オールフィシスの声に重なるように、アルティトは軽く節をつける。呼ばれたほうのジャグは、片付け終えていない罠に幼子たちがひっかかりはしないかとひやひやしつつ、薔薇の茂みから顔をあげた。
そよぐ木々の向こう、エルフィリア・レオニスがひざまづき一心に祈っているのが見える。ミゼルドを臨む丘は、女神の安息のための場所だ。毎日花が捧げられ、小鳥と少女たちの歌に満ちている。その光景を見るとジャグもほっとするのだった。
……あの場所は、あまりにも空虚すぎたから。何もない、そのことがこんなに人の心を深くえぐるなんて知らなかった。そして深くえぐられた分、今は満ちていて心地よい。
「ハルハさんも、きっとからっぽだったんです」
エルフィリアは、ジャグの心を見たかのように言った。もはやジャグも驚かない。マンドラゴラたちと過ごすあいだに慣れっこだ。
「ハルハさんの心には、ミゼルさんの分だけ穴が開いていて……それはきっと、ミゼルさんにしか埋めることができなかった」
もう一度エルフィリアは、ミゼルド遠景に抱かれる墓標を振り返って呟いた。
「真っ赤な視界と痛みの中で、それでもミゼルさんは、何よりもハルハさんに想いを残そうとしたのに」
死ぬ間際までミゼルはとても満ち足りていたのだろう。千年前の女性のことを、あの時自身を覆った影たちのことを思うたび、エルフィリアはそう思わずにはいられない。それを願わずにはいられない。
いったいどれだけの人間が、あのように惨たらしいいまわの際に、誰も恨まず、誰も憎まず、ただ満ち足りて逝くことができるだろう?
「もう、いいんだ」
エルフィリアの瞳がうるんでいることに気づき、滝のような汗を流しながらジャグは言う。
「少なくとも俺たちは覚えて残せるんだから」
ミゼルのことも、ハルハのことも……だからミゼルの想いは残る。
だから赤い薔薇も咲く。
薔薇の茂みの向こう、ティーポットを高くかざしたアルティトが、お茶の時間を待ちかねている。ふらりとハルハがやってきて、混ぜてくれなんて言ったらいいのに。そんなことを考えながらエルフィリアは茂みを縫い、ジャグとともにオールフィシスの元へ急ぐ。
■Scene:夢の出口
どうしたらいいんだろう。待ちわびていたこの時、この瞬間。
……それなのに。
『せれん』
温かな呼びかけに触れられて、反射的にセレンディアは両腕を強くかき抱く。少女にその身を預けているのはマンドラゴラのカイ、またの名を、信頼を意味するフィルディア。
『フィル』
セレンディアの動きは、本能に近かった。触れるものを抱きしめる。その単純な行為は、これまでセレンディアが決して許されなかったものだ。逃げないように、遠ざからないように、セレンディアは抱きしめる。全身全霊を込めて。
やがて少女の手のひらは、フィルの頬を柔らかく包む。
「ねぇ、フィル。どうしたい……? フィルは、フィルなら……」
『せれん?』
少女が口にした言葉には、心で触れる以上の響きが込められていて、フィルはとまどいがちにセレンディアを見つめ返す。赤い瞳の深淵を覗く。幻影がするするとほどけては絡み合い、咲き誇るハルハの赤い花びらや、ハルの赤い髪、セレンディアの血に染まる両手が、つかの間閃いては消えていく。
それらのイメージを受け止めるセレンディアの心が痛んだ。
自分の中で、大きく暗いうねりが逆巻いている。フィルを飲み込ませるわけにはいかない。たとえ暗い波が幾度襲ってこようとも。
寄せては返し、また寄せる、暗い波打ち際にふたりは立っている。
「フィル、お願い。少し……ここに、いて」
『せれん、どうしたの? 苦しいの?』
フィルの手が、頬を力なく滑るセレンディアの腕に添えられる。うつむいたセレンディアは小さく震えていた。
『痛いの? 心が、痛いのね?』
「ああ、フィル」
セレンディアの言葉は喉の奥でくぐもった。口を開くと、弱い言葉がこぼれてきそうだった。泣いちゃだめ。絶対に、泣いては、だめ。
『がまんしなくていいよ、せれん。だってわたしたち』
つながっているんだから。
フィルの柔らかな指先が、セレンディアの眦をそっとぬぐう。しっとりと涙に濡れた指が、ふたりの間に何もないことを物語っている。
嗚咽をこらえながら、セレンディアは笑って見せた。
「ありがとう。もう……大丈夫」
暗い闇の大波が幾度襲ってこようとも、わたしは大丈夫。導く光が見えたから。
セレンディアを照らしだす灯台は、いい匂いのする、懐かしくて大切な人たち。
「ねぇ、フィル。出かけよう?」
その声はもう、震えてはいなかった。探す旅はこうして終わる。
「迎えに行こう……大切な大切な人たちを!」
ホテル《山猫軒》。揃いの制服に身を包んだ従業員たち、裏家業は山賊《山猫》……の面々が感涙にむせぶ中、彼らは固く抱き合った。
「お帰りなさいっ!」
セレンディアは満面の笑顔で、抱きしめた相手にそれぞれを紹介する。
「あのねっ、お友だち。カイ。わたしの《信頼》、フィルディアなの!」
頬に熱い涙が流れていた。嬉しいときの涙は熱いんだ、苦しくて辛いときの涙は、凍えるように冷たいけれど。セレンディアは指で涙をぬぐい、また微笑んだ。
「ふむ」
茶色の猫は、セレンディアの腕の中で、心地良さそうにゆるゆるとひげを揺らす。
「どうしたん?」
傍らの女性は、茶猫が鼻をひくつかせているのに気づく。
「いい香りだ」
呟いた茶猫は、セレンディアに片目をつぶってみせた。
「まさに幸福の香りだね、おちびさん?」
■Scene:少しずつ
アーサー・ルルクが《ミゼルの目》の会長室を訪ねると、いつもの評議所2階ではなく、急ごしらえの別室へと通された。案内板には、改装中と朱書がある。そういえば、とアーサーは
その臨時会長室で、オパールは優雅にハイ・ティーを楽しみながら、山積された書類に目を通しているところだった。
「あら、良いのよ」
声をかけたものかしばらく逡巡したアーサーが、お邪魔しますと一礼すると、オパールはにこやかに微笑んだ。大量の書類は、双子の会長たちが処理をせぬまま積み上げておいたものらしい。
「《大市》ではずいぶんとお世話になったわ」
ああ、庭園でもね、と付け加えるオパール。熱い舌戦を思い出し、アーサーは少し気恥ずかしい。
「それで今日は?」
「庭園でのことと多少、関係もあるのですが……」
オパールに促されるままに、アーサーは口を開く。
「人形にされていた人々の処遇について、お聞かせ願えますか」
「あら。まだ人形から元に戻らない人がいらっしゃるの?」
「ええと、そうではなくて」
時間が解決したことはいくつもある。神殿で保護されていた人々は、庭園の不思議な力によって、皆ハルハの鍵を外され、元通りの身体と心を取り戻していた。イオたちの手厚い看護もあって、少しずつ、彼らは自分の時間の流れを歩みはじめている。
「人形にされていた人たちは当然、彼らの故郷や元いた場所に送り届けるのですよね」
「そうね、そうしてあげなくてはならないでしょうね」
おっとりとオパールはうなずいた。元会長たちであれば、人件費がどうの、国際問題がどうのと、人道にもとる言葉をいっせいにわめきだすところだ。
「でも中には、はるか遠い場所でさらわれてしまった人もいるでしょうけど」
遠いのが場所だけならまだいいけれど、との思いはまだ、口にしない。
ハルハがミゼルを失ってから……あるいはミゼルの想いを受けてハルハが咲いてから、千年あまり。《ハルハ旅団》の踊り子のように、失った時が数日で済んだ者は幸運だ。中には何十年、何百年隔てて蘇った者もいるという。
「私もこの件には浅からず関わってしまいました。知らぬことだったといえども、ぜひ最後まで見届けたいのです」
「何だか申し訳ないわね」
アーサーは首を横に振る。本心からの申し出だった。一介の傭兵が差し出がましいことを、といわれる可能性も考えた。とはいえアーサーにとって、今回の奴隷市はある種衝撃的な出来事だったし、それに関わってしまった事実がどうしてもアーサーを招くのだ。
「お手伝いさせてもらえますか?」
「こちらからお願いしたいくらいよ。この件については、内実をご存知という点でも、これ以上ないくらい適任でいらっしゃるし……」
アーサーの分のハーブティーを注ぎながら、オパールは微笑んだ。
「他にも仕事はたくさんありますからね」
「え? でも《大市》はもう終わりましたし……」
かちゃん。ティーセットが小気味いい音を立てる。
「今年の分は、ね」
棚に並んだ瓶からクッキーを取り出して、ティーカップに添える。
「来年もその次も《大市》は続きます。もしもあなたがミゼルドで暮らすなら、《ミゼルの目》からお願いしたい仕事がいろいろあるのよ」
「私は傭兵です。仕事といってもそんなに……」
アーサーの言葉をさえぎり、オパールは流暢に続ける。
「ちゃんとした自警団がまず必要。取引税の一部をあてて、規律正しく街を守る組織を作らなくては……そのためにあなたの意見を聞きたかったの」
傭兵はうなずいた。ならず者が我が物顔で街を歩き、小さな盗賊相手に乱暴していたことなどを思い出す。次の《大市》はきっと、今年のそれよりも良いものになるにちがいなかった。
「人々を送り届けるのにどのくらいかかるものか分かりませんが、そういう分野で協力することができるなら、ぜひ」
このハーブティーの味は、一生忘れないだろうとアーサーは思った。
遠い場所で祖母が微笑んでいるような気がする。ハーブティーを飲み干すと、オパールと目が合った。祖母によく似た微笑がそこにあった。
■Scene:薔薇の棘
「ソラ」
エレインはうんと背伸びして、庭からそっと窓を叩いた。もう一方の手には、小さな包みがぶらさがっている。ソラだけにはきちんと会って、話をしておきたかった。
庭園のあちこちに、婚礼の名残が見える。アルフェスの作り出した花吹雪のかけら。セレンディアの友だちが振りまいた羽毛や、さまざまな木の実。そして目には見えないたくさんの想い出たち……歌声と笑い声、楽器のさざめき、果物や花の香り、それに軽いワインの香り。
これが幸福の香りに違いない。へそまがりのあたしでさえ、素直にそう思えるんだから間違いない。きっと。
エレインは目を閉じて、薔薇の芳香に混じる幸福の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
あの日。
気づいた時にはもう、鍛冶屋の姿は消えていた。バウトとオールフィシスの祝宴が続く中、エレインは遠慮がちに後からその輪へ加わったのだが、そしてそれというのもイリスがわざわざ自分を探しに来てくれたからなのだが……そのイリスは、エレインよりも先に姿を消してしまったのだった。
やられた。先に、やられてしまったわ。ショックよりもそんな気持ちが、エレインの奥でくすぶっている。消えなくてはならなかったのは、誰よりもあたしだったのに。そもそも婚礼にのこのこ顔を出すなんて、許されないことだったのに。
……許される? 誰に?
誰がこの想いを看取り、裁くのかしら?
「エレイン」
目を開けるのと、ソラが窓から顔を覗かせたのは、ほぼ同時だった。
「フィシス姉さんなら庭よ。みんなでお茶の時間にしましょうって」
「んもう、あんたに会いに来たに決まってるでしょう。分かってるくせに」
唇を尖らせる少女に、ソラはいたずらっぽく笑う。
「ふふ。ごめんなさい」
「ソラ、あんた性格悪くなった?」
「そんなことないわ」
たわいもない会話が続けば続くほど、エレインの心は沈んでいく。ソラが元気になった分だけ、エレインの視界に千切れた赤い薔薇が咲く。
昼間でも、何度でも、ハルハの幻影は現れた。赤いハート形の花びらは、ずたずたになった心だ。無言の幻影は視線だけでエレインに語りかけた。
(ソラを生かすために、僕を殺すのか?)
ええそうよ。獣はみんなそうするわ。狼は自分の仔に餌を与えるために、羊の仔を食い殺すじゃない。
……獣はあたし。ハルやルドルフとはちょうど逆だったわね。
あたしは獣だ。だからここにはいられない。
「じゃあ、ここでお茶にする?」
小首をかしげたソラの提案に、エレインはいいわと指で丸をつくる。窓の向こう、ソラの背後に佇む幻影のハルハが、うつろに笑いかけた。
お願い、ソラのためにももう消えてちょうだい。ソラのため? もしかしたらあたしのため?
いいのよ分かってるの。でもお願い、ソラにだけは、どうかもう手を出さないで。
失うものも、友だちも、何にも持たないあたしが、これだけは願うわ。
「エレイン、行ってしまったわ」
庭でのお茶を終え、室内へと戻ってきたオールフィシスに、一言ソラがそう言った。。
翳った室内は、残された者にとっては広い。オールフィシスとその妹たちの分だけしかなかった家具は、旅人たちが出入りするようになってから急遽増やされたのだが、今は空っぽの椅子に囲まれて、ソラはぽつんと立っていた。
「そう……急いで決めたのね」
ソラの髪をそっとなで、オールフィシスは隣に腰を下ろす。まだエレインの温もりがあった。サイドテーブルには、2客のティーカップのほかに、皿に切り分けられたメロンが残っていた。エレインがおやつ代わりに、市場で買い求めてきたものだった。
「あのね、エレインは」
メロンの皮をぼんやり眺めながら、ソラが呟く。
「エレインは、私がいるから泣けなかったの。心の中で、それでもいっぱい苦しんでた……」
エレインがその身を賭してハルハと戦ったのは、ただ自分のためだ。その後どんなに苦しくても、エレインはその素振りすら見せようとしなかった。見せればソラも苦しむと思っていたから。
「私が気づかないように、自分にまで嘘をついて」
アルフェスのことをエレインはよく、ピンクの砂糖菓子などと称していたけれど、金と菫の寄せ菓子だって、同じように甘くてふわふわ溶けてしまう。口にしたことすら気づかないうちに。
「いい友だちを持ったわね」
唇を噛みしめるソラを、オールフィシスはそっと抱きしめた。
……市場でね、最後のメロンが売れなくて、半泣きになってる男の子がいたの。あたしより小さい子で、しかも、そのメロンをなんとか売ろうとしていかがですか、って持ち上げた途端に、手が滑って敷石の上にものの見事に落っことしたの……。
八百屋の親方が、すぐに怒鳴りつけてその子をぶん殴ろうとしたものだから、あたしは、これ頂戴、そう怒鳴り返していた。
「あたしが買うわ、それなら文句ないでしょ!」
いいのよ、あたしはピカピカのメロンより、あちこちぶつかって柔らかくなったようなのの方が好きなの、って。だから、ごちゃごちゃ言ってないで、さっさとそれをよこしなさいよって。
「……で、買ったはいいんだけど一人で一個食べるには、大きすぎるじゃない?」
慣れた手つきでメロンを切り分けながら、エレインはそう言って笑った。手にしていたのは、例の護身用のナイフだ。アルフェスを守ろうとして道化と対峙した時は、この小さなナイフだけが武器だった。
「このナイフも、ようやく本来の使い方ができてよかったわ。はい、ソラの分」
「ねえソラ。オールフィシスも綺麗だったけど、あたしはきっとソラのお嫁さん姿の方がずっと綺麗だと思う。あたし、ソラの結婚式にも出たいわ。だから絶対、呼んで頂戴ね……」
その顔を思い出して、ソラはくすんと鼻を鳴らす。エレインは旅立ってしまった。
「すぐにではないかもしれないけれど、また会えるわ。そうしたら今度は、ソラ」
オールフィシスは妹の目を見つめる。
「あなたがあの子を支えてあげる番よ。エレインは、自分の成すべきことを知り、そのための旅に出たのだから」
「わかったわ。エレインが助けを必要とするときには、必ず力になる」
……聞こえるかしら、まだ私たち、心がつながっているかしら。エレイン……。
うなずくソラは、心の中で少女にエールを囁いた。
……だからもう、ひとりじゃないってことに、気がついてね。
■Scene:灯火
「のじゅくっ、のじゅくっ、たっのしっい、のじゅくっ!」
謎歌を歌いながら、一行の先陣をきって野道を往くのはカリーマ・ルアン。セイエスの希望による野宿と焚き火体験ツアーが始まったのだ。カリーマやブリジット・チャロナー、アルフェス・クロイツハールといった面々、いわば野宿のベテランたちに加えて、こちらは少しどきどきしているエルフィリア、若いころは鳴らしたらしいメルダ・ガジェットに、護衛担当男性陣ジャグとハルが参加している。ちょっとした隊商並みの大所帯ではあるが、荷馬車や荷車があるわけではない。バウトが貸してくれた調理用具一式は、カリーマの背にあって、このツアーにかける彼女の情熱のほどが伺える。
「俺が持つって言ってるのに」
「じゃあハルくんはこれをお願いね」
カリーマが手渡したのは、バウトが最後に荷物に加えた小さな指輪だ。
「ケルベロス×1って、これ……」
手書きの撃墜マークに目をすがめてハルが呟く。心なしか、頬のあたりが引きつっている。
「うん、危険物だからそれ」
「やっぱり例の、アルテスさんの贈り物なのか」
仰々しい手つきでその危険物を自分の荷物にしまうハル。
付与魔術師アルテス・リゼットは、バウトたちの結婚祝いにも、自作の魔法の指輪を贈っていた。指輪の持つ魔法の火力を自由に操ることで、簡単に料理ができるのだ、とはアルテスの弁である。が、《精秘薬商会》で宴会をした時、作り手の予想以上の効果を引き出してしまったミュシャが悪戦苦闘したという話は、もう有名だ。
果たしてバウトがどういう考えでこれを加えたのか。野外でも不自由しないようにと気を利かせてくれたか、それとも……出発前に荷物をあらためたカリーマも、あえて突っ込みは入れなかったのだった。
「《大市》が終わると、馬車もなくなっちゃうんですね」
のんびりと野道を歩きながら、セイエスが思い出したように言った。彼はこれから《聖地アストラ》へと戻るのだ。《大市》の後ものんびりしすぎていたせいで、宿場町まで出ていた最後の馬車もなくなってしまった。
「個人的に仕立てる手もあったんだけどな」
セイエスのペースで並んで歩くハルが答える。
「ウチで使ってるボロ馬車で良ければ使っておくれって、あたしもいったんだがね」
「いいんですよ、メルダさん。急ぐ旅ではありませんから」
「そうよそうよ! 旅の基本は足よ! 自分の両足よ!」
カリーマは力説する。普段は馬車代がもったいないのと、健康が取り柄だと自覚もあるのとで、これまでの旅では節約が常だった。もっともつい最近、晴れて仕事にありつけたので、来たときよりも少しだけ懐は温かい。
「カリーマさんのいうとおりだ。歩いて疲れた分だけ、メシもうまくなるしな」
振り向いたカリーマが、ハルの言葉に何度もうなずく。
「楽しみですねぇ」
道はまだまだ《旅人たちの街道》には遠い。馬車のわだちに足をとられないよう、近くよりも遠くを見ながら、歩幅は一定に、荷物はしっかり握っておく。いわれるままにセイエスは、復唱しながら、それでも楽しげに旅程を進めていた。
セイエスの荷物は少なく、自力で運べる大きさだ。汚れの目立つ白い聖衣を除けば、旅慣れているように見えなくもない。
「神官って身軽に旅できるようになってるわよね」
とはブリジットの弁だ。
「神殿は《大陸》中どこの街にもあるし、仕事道具は自分自身だもの」
「なるほど……そういわれてみれば、そうかもしれませんね」
セイエスの口ぶりがおかしくて、ブリジットはくすくす笑った。後ろのジャグがむすっと仏頂面なのは、気のせいか。
「セイエス、聖地に戻ったらどうするの?」
「僕、もう少し勉強しようと思って。まだ自分の力が仕事道具なんて、とても思えませんから」
初めて出会った時よりも、数段大人びた口調だ。
「そうか」
最初に相槌を打ったのは、珍しくハルだった。そして最近、仲間たちによく見せるようになった、照れ笑いの表情で付け加える。
「俺も一緒に行こう。まだしばらく、護衛が必要だろ?」
開けた丘陵地帯を辿る道は、いくつかの小川に導かれながら、緩やかにうねり下っている。万極星が、薄紫の北の空で真っ先に輝き始めた。まだ昼間の草いきれと日暮れ時の涼やかさが入り混じる中、一行は足を止め、一日の旅路を終えた。
「ここならいいんじゃないか」
あたりを見渡したジャグは、満足げに荷物を降ろす。森と呼べるほどではないが、まばらな木立を屋根にでき、水場も近い。危険な生き物の兆候もない、とジャグは太鼓判を押した。
それから先の旅人たちは、夜の帳が降りる速さに負けない手際よさで、寝床の準備から夕食の支度までをてきぱきとこなした。セイエスはただ目を丸くしてその場から動けない。動いたら邪魔になりそうだったのだ。
「あ、でしたらセイエスさん、火の番をしてくださいませんか」
とことことアルフェスがやってきて、木の枝を彼に手渡した。
「火の番、ですか」
おずおずと問うたセイエスが目をやると、すでに立派な焚き火がぱちぱちと爆ぜていたりした。
「はい。風向きには気をつけてくださいね。火の粉や煤がかかりますから」
「火の粉や煤……熱!」
「はにゃ。ち、近すぎますよ、セイエスさん〜」
とまあ、一事が万事この調子である。
「火って熱いんですよね、そういえば」
枝を手にしてしゃがみこんだセイエスは、全身に赤々と照り返しを受けている。彼と焚き火の間
には、誰が書いたか地面に線がひいてある。セイエスはこれより内側、危険につき立ち入り禁止というわけだ。この距離では火の番もへったくれもない。
「ミゼルさんの熱さが、ようやく分かった気がします」
分かっていたつもりだった。これまでも。ハルハが受けとめ咲いたという、ミゼルの想いを、自分も受けとめた気になっていた。
「そうかい? 確かに、知らないってことを知ることは大事だね」
メルダはどこから持ってきたのか酒瓶を抱え、無造作にセイエスに薦める。
「だめですよメルダさん、まだ腕が治っていないでしょう」
折れたままの腕で無茶をしたのが、どこから夫ウィルの耳に入ったものか。帰宅したメルダを引っ叩き、お前に何かあったら俺はどうするんだ、と叫んで店を出て行ったのは夫のほうである。シグとアイビーが囃し立てる中、メルダは慌ててエプロン姿の旦那を追いかけた。道端でさんざん謝り倒してようやく仲直りにこぎつけた話は、もはやご近所で最新の茶飲み話となっている。
「お酒は腕を治してからにしてください」
「あんたまでウチの旦那みたいな物言いはよしとくれ」
メルダがぷいと視線を逸らす。ゆらめく炎をぼんやり視界に映った。
結婚してからもほとんど言ったことがなかったのだ。あんたを一番大事に想ってるよ、なんて。
手にした酒瓶の重さも、黒い篭手の感触も、あの頃と何も変わっちゃいないってのに。
「……思い出すねぇ。こうやって毎日焚き火してた頃さ。戦の中で、みんな肩並べて雑魚寝してさ……」
そうだ、思い出した。
かつてメルダに、俺の子どもを産んでくれと豪快に頼んだ男のことを。あれも真っ赤な焚き火の前だった。戦の最中で、あの頃の仲間たちは半分以上が命を落とし、残りも皆散り散りになった。その男も、多くの命を道連れに逝ったと聞く。頭領ウォルド。あの馬鹿。あれで頭領だなんて、リディアの連中の気がしれない……あの頃一日何度も口にのぼせた罵声も、浴びせる相手がいない今では懐かしかった。
あれでも、失くしたくない奴だったのに。
「あいつが生きてたら、なんて言うかねぇ」
口に出してから、メルダははっと我に返った。
「きっとハルハさんも、喜ぶと思いますよ」
分かっていないセイエスの、頓珍漢な答えにメルダは、ただ肩を揺らして笑った。
「シチューができたよー!」
カリーマの甲高い声が響く。ああ、料理の世話もしなきゃいけなかったんだね。でもまあいいか。メルダはそんな自分の思いに名前をつけあぐね、のびをひとつして立ち上がる。昔を思い出すことが増えたような気がした。
■Scene:灯火、もうひとつ
「ねぇ、どう? おいしい?」
「……いい匂いだな」
ブリジットは闇の中の猫のように大きく目を開き、傍らのジャグの言葉を待つ。シンプルな焼き串と野趣あふれるシチューはできたばかりで、自分の椀を受け取ったジャグは、まだ食ってねぇよと顔をしかめる。
「そうそう、こんなものもあるんだけど」
可愛らしい手布の中から現れたのは、これまた可愛らしいお弁当箱だ。見た感じ、どこぞの王族が使っていたとか、千年前の遺物だとかの気配はない。普段使いの何の変哲もないお弁当箱を彼女が取り出したことを、逆にいぶかるジャグである。それともこれは高度な罠で、開けると伝説の魔人なんかが登場するのだろうか?
えへ、と笑うブリジットがぱかっとふたを開ける。一瞬ジャグが身構える。
「じゃーん」
お弁当箱の中身は、一面黄色の卵がまぶしいオムライスだ。この日のためにメルダに習った力作である。ブリジットがテスラ戦役の話をねだると、メルダは過ぎし日を懐かしむ表情で、いろんな出来事について話してくれた。その間にもメルダの手は休まず、実に手際よくオムライスを完成させていくのだった。
「アイビーもトマト味が大好きでね。毎日オムライスだったときもあったんだよ」
そういうメルダの目は、とても優しかった。
「……セレンディアにも作ってあげりゃ喜んだだろうねぇ。次に会ったら忘れないようにしとかないと」
剣を握っていた《黒腕》が、今目の前にあって、愛する家族のための料理を生み出している。ブリジットは彼女の生き方を、ずっと覚えておこうと思った。
ちなみに料理教室のお代は、ブリジットがお買い上げしたお弁当箱と、今彼女の唇を艶めかせているピンクの口紅である。
「もしかしてジャグ、トマト嫌い?」
「いや、好き」
いつもよりきらきらうるうるしているブリジットの顔を、ジャグは見られない。まぶしい、照れくさい。
「良かった。トマトソースをかけて食べてね。これも特製なんだから」
煮詰めたソースの小瓶を受け取った拍子に、ちらりとブリジットの唇が目に入る。
慌ててソースをひらひらかけると、ジャグはお弁当箱をしばし見つめた。
「こ、これでいいのか? ブリジット……」
トマト色で書かれた文字は、愛とロマン。
ジャグの顔が真っ赤に染まっている。オムライスをがつがつかき込む罠師に、ブリジットは全身で抱きついた。
「っかーー!!」
意味不明の叫びをその後ろでもらしたのは、シチューのお玉を握り締めたままのカリーマだ。
「やっぱ、いいよねっ。愛って、いいよねっ!」
■Scene:幾千万の灯火
「星空の下で眠るのって、気持ち良いですね」
寝袋にくるまりながら、セイエスは頬杖をついて炎を見つめる。焚き火はかなり小さくなっていたが、互いの顔を見るのにも、暖をとるのにも不足はない。
「そういうふうに思えるなら、セイエスさんも旅人の素質がありますよ」
アルフェスが笑う。3匹の獣たちは、彼女の回りですでに身を丸くしている。
月が中天にかかり過ぎ行く。もっとも闇の濃い時間。
エルフィリアも夜空を見上げた。降るような星々の光を浴びて、不思議に感覚が冴えていくのが分かる。久しぶりに、少女は銀のカードを取り出した。しなやかな手つきでカードをシャッフルするエルフィリアの姿は、どこか踊り子のようだ。
「ほむむ、占いですか〜」
「ええ。この先の皆さんの旅路を」
にこりと笑ったエルフィリアが、柔らかな扇の形に広げたカードをセイエスに差し出した。
「僕、ですか?」
自身をきょとんと指差して、セイエスはごそごそと寝袋から這い出した。なんとなく居住まいを正さなくてはという気持ちになったのだ。ためらいながら一枚のカードを選び、エルフィリアのささやきに従って、伏せたままのカードを寝袋の前にそっと置いた。
「皆さんも、どうぞ」
エルフィリアは同じように、次々と仲間たちにカードを配る。
「カードの力を信じなくてもかまいません。皆さんの旅は、皆さんのものですから」
最後に自分のカードを選び出しながら、エルフィリアは言った。
「でももし旅の途中で、迷うことがあったなら……このカードの暗示が力になるかもしれません」
「そっか、いつか必要なときが来たら分かるのね。エルフィの言ってたのは、これだったのか! って」
カリーマは伏せられた自分のカードを見つめる。
「そうですね。そのときに思い出してもらえると……すごく、うれしいです」
エルフィリアの瞳は少し濡れていた。
ハルが引いたのは、力のカード。
「前に進もうとする力が、あなたを助けます。やがて大きなうねりがきても、立ち向かうことができるはず」
「そうか」
ハルが思い浮かべたことはたくさんあったが、口にしたのはそれだけだった。
《聖地》で勉強している《星見の民》、初めての同い年の友人、自分自身の存在、自分に連なる血族、そして故郷オリザール。そのほかたくさんのことどもが、自分の中できらきら廻っている。すべてを内包したまま、ハルの心は、泉に身を浸しているときと同じように清々しかった。
アルフェスが引いたのは、円のカード。
「はにゃ」
「誰かと誰か、何かと誰か。失われたもの、足りないものを補い、つなげてゆく定め……」
はじめ不思議そうに首をかしげていたアルフェスは、それを聞いてこくんとうなずいた。
「ほむむ、わかりました。忘れずにいます」
お友だちをたくさん増やしたいって、そう思ってここまで来たのは、間違いじゃなかったです。母さま。
欠けた輪もいずれひとつにつながってゆく。母トリアに話さなければいけないことが、たくさん増えた。
カリーマが引いたのは、大地のカード。
「決して揺らがない、磐石なる舞台。あなたの足元にあるものが、あなたを守って導きます」
「うん、なんか、納得」
職にありつけて良かった。ミゼルドで築いてきたものを大事にしよう。だって初めて、自分の手で関係を育ててきた街だから。そう思うカリーマだ。
ジャグとブリジットは、それぞれ若木と花輪のカードを引いた。
「なんか、綺麗な組み合わせね」
「そうですね、暗示の組み合わせも綺麗」
エルフィリアもほう、と息をつく。伸びゆく若木と、美しい花輪。その間に新しいものが生まれる。花輪のカードの中央に、赤白の薔薇が咲いていた。長年愛用しているカードだが、エルフィリアは初めてそのことに気がついた。
「ジャグ、あたしの母さんの家まで一緒に行こうっ」
がぜん元気になったブリジットが、ジャグの両肩をゆさゆさ揺らし次の旅へと誘う。
「……」
「あ、ジャグの実家方面のほうが良かった? だってあんまりジャグ、そういうの教えてくれないし。この間だって」
「……別にどこだっていいさ」
願わくば。次の旅の目的地、ブリジットの母の家とやらがどこにあるのか知らないけれども……遠ければ遠いほどいい。ジャグはこっそりそう思う。
トレジャーハンターとの旅が、長く続きますように。花輪の薔薇の絵にかけて。
メルダが引いたのは、恋人のカード。
ギャラリー陣がひゅうひゅうと冷やかすのを、咳払いで鎮めて呟く。
「こういうのは、もっと他の若い連中のとこにいくべきなんじゃないかい?」
「メルダさん、まだまだ現役だから」
おだまりブリジット、と言いつつも、そこはかとなく嬉しそうなメルダである。
「二者択一、あるいはその先にある、正しい選択と結びつきの暗示です。メルダ姉さんの場合は、お子さんの定めになるのかもしれませんね」
「ふうん、だとすると、シグ……かねぇ」
世代交代。それでいい。メルダは束の間目を閉じた。息子はどちらかというと、夫よりも自分に似ている。いずれ旅立つときが来るかもしれない。もしかしたら、そう遠くないうちに。
セイエスが引いたのは、法皇のカード。
「いずれ人の上に立つ定め。人を導く人。あなたを導くのはあなた自身の想いです」
「それは、どういう……? 指導者になるということですか?」
かもしれません、と占い師は答える。
最後にエルフィリアが開いたカードは、輝く星のカード。
「星のカードは、皆さんを助ける定め……力を添えることにより、より明るく輝かせることができるのです」
面白そうにカードをそっと撫でると、エルフィリアは顔を上げた。
「セイエスさん。私も《聖地》まで、ご一緒させてくださいませ」
「僕は……誰かを救えるでしょうか」
不安交じりに神官は口ごもる。
「ええ、きっと」
エルフィリアはそっとうなずいた。それだけは確かな気がした。
■Scene:同じ星空の下
長身の男性が、前を行く少女を追いかける。つかず、離れず、優雅に、颯爽と。
「もう、どこまでついて来る気なの、スイ」
業を煮やしてエレインは、両手を腰に、眉間には縦じわという格好で振り返る。
「ミゼルドだけって約束だったはずよ」
「だって貴方が、私をまこうとするからですよ」
扇子で口元を隠し、スイはくすくすと楽しげに笑った。その顔を見るたびに、エレインの眉間に縦の線が増えていく。
「私だってソラちゃんに会いたかったのに、なーんてね。ま、いいんですけどね」
「あたしはもう行かなきゃいけないんだから。そう決めたんだから」
エレインは口を尖らせる。ミゼルドで一番早い馬を手に入れて、その日のうちに街道まで出るつもりだった。それなのにあっさりと、本当に不思議なくらいあっさりと、偶然通りかかったスイにつかまり、その後ずっとスイがついて来るのだ。
「おやおや。それじゃ私だって、決めましたとも」
張り合うようにスイはそう言って、いつもの緩い笑みを浮かべる。
「あのですね。エレインさん、貴方のしたことは正しいことなんですよ」
「……だからって」
「ですからね、貴方はひとりじゃないんですよぉ〜」
きょとんとするエレインに、スイはゆらりと袖を伸ばした。
会話の行く末を掴みかね、エレインはただ首をかしげる。スイの袖口から、どのような手妻か、ずるずると長い包みが現れた。貴方のですよと言って、無理やりエレインに押し付ける。
「妹をよろしくって言われちゃいましたよ。たはー」
スイはひとりくすくすと笑っている。
「いもうと……?」
急いで白い布をほどく。長い布は扱いづらく、気ははやるのになかなか中身を取り出せない。エレインの険しかった表情が、ふと緩んだ。
「イリスさんの剣!」
「いやー、恋敵だったらどおしよおって思ってたんですけどねー。オニイサンでしたねー。いや重畳重畳」
鞘走らせると、剣はきちんと研ぎなおしてあった。新しい彫り跡を見つけて、エレインはそっと指でなぞる。我が魂は皆と共に。イリスからの伝言だった。
魂を、預けてくれたんだ。エレインの瞳から、大粒のしずくがこぼれ出た。
「それで私の番なんですけどね。貴方の身にもしものことがあれば、私が守ります。ね」
こんなときでもスイは笑っている。
「貴方は砂漠の色を帯びている。私の元居た場所とよく似ていますよ。そして私の視界の中で、エレインさん。貴方のその色の命は、眩しいくらいに輝いているんです」
「嘘」
「嘘じゃありませんよ。証明するのはなかなか難しいですけども……そうだ、一度おいでなさい。《忘却の砂漠》へ。あ、でも今はダメですよ。あそこは結構退屈なとこですからね。あらゆるものを見尽くして、楽しみ尽くして、最後に帰る場所なんですからね、きっと」
ね、と同時にスイはポケットからぬいぐるみを取り出して、ね、の角度に首を曲げさせた。
思わずエレインも、吹き出してしまう。
調子を良くしたスイは、そのままぬいぐるみの口をぱくぱく動かし続けた。
「私は、貴方のその輝きをずっと見ていたい。これは本当に、心からのお願いです。自分で言うのもなんですけど、初めて本気で頼んでるんです」
誰もが幸せになれるハッピーエンドなんて存在しない。スイはそう思う。
そんな物語のはじめと終りは、何も変わらない。スイにとって、それこそが退屈だった。誰かが何かを変えた分、誰かがどこかで喜んだり、苦しんだりしているはずだった。誰もが等しく幸せになる方法なんてない。幸せの瞬間は、人それぞれ違うのだから。
「スイは、あたしの罪滅ぼしに巻き込まれる必要なんてない。あたしがあんたを巻き込んじゃいけないんだわ」
「ん〜〜〜〜」
スイは困ったような、泣き出すような、そんな顔をした。気がつくと、ぬいぐるみは2体に増えていた。
「それも含めて、守って差し上げるつもりなんですよね」
「馬鹿ね」
「何とでも呼んでください。馬鹿でも、阿呆でも」
スイがゆったりと一礼する。好きにすればいいわ。そういったつもりが言葉にならない。涙でにじむエレインの視界に、大きな鳥が翼を広げ身を震わせる姿が、二重映しにぼやけて消えた。
ねえ、エレインさん。
あなたは強いから、私なんか置いていってしまうかもしれませんね。だけどそれでいいんです。私はずーっと、あなたを一歩後ろで見守ってますからね。
だけど時々は振り向いてくれないと、私だって、泣いちゃいますから。
「……なーんて、ね」
左右のぬいぐるみで、スイは自分に突っ込みをいれる。
「我が魂は皆と共に。なかなか言える言葉じゃありませんね、イリスさん」
鍛冶屋は今頃、どのあたりにいるのだろう。空を見上げてふと思う。イリスの別れ際に剣を預ったときも、そのような話はあえてしなかった。いつものスイならば、男の行き先なんて興味はないんですよと笑うのだが、イリスに限っては、予感めいたものが早くもスイの中に芽生えている。
「きっと近いうちに会えますね」
エレインが目指すのは、テスラ戦役の激戦地、遥かな峡谷カステロだ。彼女の父が命を落としたその場所は、戦禍を免れられなかったイリスの故郷にもほど近い。散り散りに潜むリディアの残党たちも、やがて峡谷を目指すだろう。
……再会した時に怒られないように、ちゃんと見守ってますから。
そう呟いてスイは、先を急ぐエレインの、小さな背中を急いで追いかけた。
■Scene:遥かな雲
皆が寝静まった後も、エルフィリアはひとりカードを手繰り続けていた。この場にいない旅人たちのことが、慮られたのだ。中でも一枚のカードがエルフィリアの心を騒がせた。ニクス・フローレンスのために開いたそれは、塔のカード。
「ニクスさん、大丈夫かしら」
雷光に崩れ落ちる塔、という絵柄もさることながら、その暗示もあまり明るいものではない。
「困難の打開、安寧の崩壊。そして現状の打破」
そっと呟き、急いでカードを重ね集める。いいほうの暗示であってほしいと願いながら。
その数日前。苦もなくミゼルドを発つ馬車に乗り込んだニクスは、さまざまな手段を経て遠く街道の彼方にいた。《大陸》の東方、海にせり出すような崖は、陸と海の境界である。
目指す行く手にあるのは、かつて訪れたことのある遺跡だ。今ではその古びて傾いた、というよりほとんど崩れ落ちてしまった塔が、千年近く前にミゼルドを追われた《茨の民》の手になるものと知れていた。
『……崩落原因の茨を排除しようとすると、津波が押し寄せる。速やかに原因を究明せよ』
あの時受けた指令を、ニクスは鮮明に思い出すことができた。くせのある字で書かれた内容はもちろん一言一句たがわずに、羊皮紙の手触り、ランドニクスの印章のかすれ具合までもを完璧に。
実年齢にして57を数えるニクスにとって、それはもう、20年前の出来事だった。
「時間……時間を喰らう呪い……」
連れる供もなく、ニクスは単身遺跡へと乗り込む。あるいは、帰還する。20年前よりも若く均整の取れた、17歳の肉体で。
篭手が飲み込んだ時間はどこへ行くのだろう。篭手の呪いについて確信を深めていくたびに、ニクスは何度となく自問した。
疑いようもなく若返っていく肉体は、愛する世界からの隔絶を同時に知らしめる。愛する娘の成長、愛する妻の死、同じ方向に進まない自分。あのとき10歳だった娘は、知らぬ間に結婚を済ませていた。学生時代には同期だった妻は、いつの間にか病に蝕まれ、命までも落としていた。
「くそっ」
時は残酷だ。同じ流れから逸れるだけで、次々に大切なものが零れ落ちていく。
「時間を喰らう呪い……《茨の民》の牢獄の塔……」
その塔はあらゆるものを拒んでいた。暴風と津波が外界を隔て、内部ではただ薔薇だけが狂ったように咲き誇っていた。塔全体を覆う茨の棘。むせ返るほどの薔薇の香り。
「そうだ、なぜなんだろう。ミゼルドの遺跡よりも新しいはずなのに、この塔のほうがずっと崩壊が進んでる。気候のせいだけじゃない」
遺跡の岩肌に、ニクスは左手を滑らせた。ミゼルドのものと同じか、あるいは良く似た組成の大理石。カラーラ産だろうか。右手の篭手がきしむ。感情を昂ぶらせるごとく光と熱を帯びている篭手は、その時が近いことをニクスに伝えていた。
青年は再び塔へ戻ってきた。入り口は崩れてしまっている。
「この塔は篭手を安置する墓所、あるいは祭壇だったとしたら? 《茨の民》にとっての聖域……聖遺物信仰……神話時代には珍しい事例だが皆無というわけじゃない」
鼓動が早鐘のように響く。
崩れた塔は、ほとんど原型をとどめていない。だが、かつてニクスが感じた生ある気配は、消え失せていた。
「おかしい。茨があれだけ塔を覆い尽くしていたのに、一気にここまで崩れるなんて。カラーラの石ならなおさら堅牢なはずだが」
かろうじて建っていた塔は、20年前、ちょうどニクスが篭手に憑かれた時に一度崩れていたらしい。らしい、というのは、ニクス自身は憑かれたショックで気を失っており、近隣の人々の手で救出されていたからだ。あのときもっと調査すべきだった、とニクスは舌打ちした。
本当はもう、任務からは解かれているのだ。
組織に籍だけは置かれているものの、自由な立場なのだ。キャリアはあるうえ実質最年長、今の上司は元部下で、おまけに娘の婿なのだから。
「くそっ」
もう一度悪態が飛び出した。20年前と同じように、ニクスは壊れた窓の隙間から、内部へ入り込む。帝国のためでなく、誰かのためでもない。自分のためにこうして時を過ごすのは、本当に久しぶりだった。
■Scene:想いを受けて咲くもの
久しぶりに見た、夢。
白いスカートの少女が、くるくると舞い、歌う。
「……リク?」
(そうよ、ニクス)
彼は白薔薇の花びらを敷き詰めた絨毯の上に立っていた。歌声が遠く、低く、周囲を満たす。心地よい響きは、吹き抜ける風のように、バウトとオールフィシスの幸せを歌い上げていた。
「ああ、結婚式か」
そう口に出した瞬間、時間の壁がニクスを襲う。
彼は同期の女性と結婚したが、式は挙げなかった。同じ職場で皆がお互いを知っていたこともある。近しい身内もいなかったし、戦争も近づいていた。
妻は不平を訴えはしなかったが、その代わり娘の時にはちゃんとお祝いしよう、と夫婦で言い合っていた、そんな時代もあった。
(ニクス)
小さな手が、白い薔薇を差し出している。
ソラの夢を最初に見た時、そういえば思ったのだ。黒髪が、娘によく似てる、と。
(ニクス、こわいかおしてるわ)
「……そうか」
ニクスは白薔薇を受け取った。こわばった表情を変えるのには思いのほか苦労した。
「リク」
(なあに?)
妻はいない。娘は嫁いだ。その夫が今の上司で、事情は分かってくれている。ニクスを縛るものは、もう何もない。
「俺は何を残せたんだろうな?」
そこで目が覚めた。
そして気づいた。右手に白い薔薇がある。銀色の篭手の代わりに、年相応の皺が刻まれた手が、白い薔薇を握っていた。
「呪いが」
解けたのか。確信の持てぬまま、そう口に出してみた。声がわずかながら震えていたことに、ニクスは自分でも驚いた。薔薇は今しがた咲いたばかりのようにみずみずしい。それを持つ手は、すっかり老いさらばえているというのに。この廃墟の中で、生気に満ちているものは白薔薇だけだ。
不意にニクスの頬がゆるむ。
「怖い顔してて、怖がらせちまって、ごめんな。リク」
(ニクスが残したものが、そこに、あるわ)
心の内に響く声なき声に、ニクスは振り返った。
その後、街へ戻ってからニクスがしたためた報告書にはこう書かれていた。
『牢獄の塔に関する二次調査報告。危険度:0 重要度:C(通常) 保護の必要性:?。
《茨の民》なる一族の昇華を確認。篭手の魔力の開放による。津波の危険なし。以上……コードネーム《夜の翼》』
ペンを置き、ニクスは傍らを見やる。リクからもらった白薔薇がそこにある。
報告書に書かれていないことはまだまだあった。リクの声に振り向いて目にした光景。そこでの対話。それからのこと。篭手の魔力の開放とともに《茨の民》は救われた。降り注ぐ感謝の言葉は、消えゆく《茨の民》たちの最期の想いだ。崩れかけた塔が銀色の光に包まれて、真新しい姿をニクスの心に映す。空へ伸びる道、それを辿るのは千年前の人々の影。
(感謝します、ニクス・フローレンス。お力添えがなければ、救いはありませんでした。貴方の大切な時間をずっとお借りしていたことをお許しください)
オールフィシスによく似た女性の影がささやいた。このひとがミゼルか、とニクスは思った。
(苦しみを断ち切るために、あの刃が必要でした。《茨の聖母》が出現するまでの間、刃をとどめておくために……貴方の時間もまた必要だったのです)
「《茨の聖母》だって?」
眉をしかめ目を見開く。ミゼルが自身をそう呼ぶはずはなかった。もちろんオールフィシスとも違う。
(けれどここに、今この時に、《茨の聖母》と苦痛の刃がそろい……《茨の民》の想いは全うされたのです。女神の庭から遠く離れたこの場所でも、救いがもたらされたことに感謝します)
銀色の光は、女性の輪郭だけを残像に変えて消えゆこうとしていた。
「まさか、リク!?」
(はい、ニクス)
くらり。目眩にニクスは襲われる。二度目だった。幼い娘が自分を置いて、成長した姿を目にするのは。
リリィ、お土産を楽しみにしていた8歳の愛娘。ソラによく似たリリィの黒髪は、リクとももちろんよく似ていた。
(私たちは想いを受けて咲いた薔薇。人の想いがある限り、私たちは咲きましょう)
ニクスの持つ魔道の力が、光の粒を呼び寄せる。銀色の光を留めおくように、聖母の周囲にそれらが飛んだ。
「リク!」
失うのはもう嫌だ。光の粒の輝きが増した。
「リク! リリィ……!」
(お借りした時間、ここにお返しします。どうかご自分のために生きてください)
(悲しまないで、ニクス。私は消えるのではありません。貴方の想いもまた受けとめて、咲くことができるのです……)
光の道が消え、遺跡に残されたのは、白い薔薇を手に立ちつくす魔道剣士がひとり。
そして固い蕾をつけた薔薇の茂み。
あの塔も、マンドラゴラのすみかになるのだろう。
再びペンを手に取ると、ニクスは報告書の一部を二重線で消し、こう書き替えた。
『重要度:SS(特級)』
■Scene:いつもと同じ一日
ミゼルド郊外の北の丘、なかなか歴史を感じさせる見た目の、とある一軒家。
アルテス・リゼットの目覚めは今日も良かった。主の起床に気づいた窓が、がこんと鈍い音を立てて開いていく。風をはらんだカーテンが、寝台に半身を起こしたばかりのアルテスの、視界いっぱいに広がった。
時を同じくして、調理台の魔法石がぱちぱちと爆ぜ始める。やがてぐつぐつとお湯が沸き、パンの焼ける香ばしい香りと、淹れたての紅茶の葉の香りが、こぢんまりした部屋の全体に朝を告げた。
「お、いいカンジですねぇ今日は」
アルテスが満足げに言葉を漏らす。が、言い終わらないうちに警報が、けたたましく朝の雰囲気を切り裂いた。
ピー! ピー! ピー! ……
くつろいでいたアルテスは飛び上がり、慌てて調理台の魔法石を点検する。炎の熱を蓄え放出するそれは、黒い煤にまみれ、ぶすぶすとくすぶっていた。パンのほうも、炭と化している。
「あっちゃぁー」
付与魔法の手順はこれでいいはずなのに、どうもコントロールがうまくいかない。
昨日もトーストの出来は最高だったが、どの魔法がどう暴発したものか、買い置きの野菜がすべてドリアンに変化してしまった。ために昨日はサラダは抜きで、代わりにミゼルドへ降りてドリアンを売りさばいたところ、それなりの収入になったので良しとした。
「目玉焼きは無事、と。……とりあえず、ま、いっか」
少なくとも、紅茶と目玉焼きがあれば朝食になりそうだった。
「やっぱりこれからは、魔法調理器と魔法家具の時代、ですねぇ」
昨日の手順を検証しなおせば、ドリアン作成機が完成するかもしれないし、今日の失敗を生かして火力の調整部分を磨けば、やがては携帯カイロに応用できるかもしれない。
もう少し実験を重ねて魔法道具の効果が安定してきたら、街中に引っ越して店を出そう。《ミゼルの目》にも《精秘薬商会》にもコネができた。道具の便利さを分かってもらうことができたら、前の街のように追い出されはしないだろう。
「うん」
紅茶の香りを胸いっぱいに吸い込んで、窓の外を眺める。そろそろアルテスも、ひとりが寂しくなってきた。
今日は買出しのついでに、《商会》に寄ろう。バウトさんに贈った指輪の様子を見に行かなきゃ。足りなくなった触媒は入荷しているだろうか。ま、なけりゃないで、運び屋さんに頼む手もありますし……。
■Scene:青緑の鳥
もわぁああああぁん。
相変わらずの謎音とともに《商会》の扉が開く。バンダナからのぞくのは青緑の髪。やってきたのは小柄なミュシャだ。
「お。時間どおりだねぇ」
バウトはくすりと微笑むと、こちらも彼の時間に合わせてあつらえた朝食を、トレイごとカウンターに載せた。朝まだき、店内に他の客の姿は見えない。ミュシャ用のコップに新鮮な牛乳を注ぐと、バウトは小さな香料つぼと一緒にトレイに押し込んだ。
「えへへっ。いただきま〜す」
高めのスツールにちょこんと収まったミュシャが、トレイに手をのばすと、彼のおなかがくるくると鳴った。香料つぼの中身はきなこ。これも、ミュシャ専用だ。スプーン一杯のきなこを混ぜた牛乳を、ミュシャはごくごくとおいしそうに飲んだ。
「意外とウケが良かったぜ。きなこ入り牛乳」
「でしょ、でしょ?」
白いひげをまわりにつくったまミュシャが、誇らしく胸を張る。
くせになる味と聞いたバウトはミュシャに教わり、ためしに店の常連に、きなこ入り牛乳を出してみたのだ。健康にいいという触れ込みが利いたのか、数人が気に入って注文するようになった。店の定番メニューで出そうかと考えているバウトである。
「で、今日の仕事の話なんだけどな……」
「まっかせて!」
ミュシャはもう、街の盗賊ではない。スリからは足を洗い、今では運び屋としてミゼルドを走り回っている。窓口はバウトが買ってでてくれた。名前のない路地裏の隅っこまでを知り尽くしているミュシャの働きぶりは、少しずつ有名になりはじめたところだ。郊外に居を構えたアルテスからも、ちょくちょく依頼がくる。庭園のマンドラゴラたちが、お外に遊びに行きたいとだだをこねた時なども、ミュシャの出番だった。この場合、運ぶ荷物はマンドラゴラだ。今はまだひとりふたりの相手ですんでいるけれども、姉妹全員で出掛けたいって言われたらどうしよう……嬉しくも、どきどきするミュシャだ。
「《山猫軒》の方々はお元気かい」
仕事の話を伝えると、思い出したようにバウトは付け加えた。
「うん! 仕事が終わったら寄る約束をしてるんだ」
「パンの件も、よろしく伝えといてくれ」
了解、とミュシャは親指を立てる。
バウトは最近、朝食用のパンの仕入先を変えたのだ。新しく旅人たちのおなかを満たしているのは、ミュシャも厄介になっているパン屋、通称《フィオの店》。白い帽子を目深くかぶった職人肌の親方は元《山猫》メンバーである。看板娘は、彼のひとり娘フィオレンティーナだ。ミゼルドにひとりぼっちだった頃のミュシャを拾って屋根裏に住まわせてくれ、家族としてかわいがってくれた彼らは、最高のパンを《精秘薬商会》へ卸すことを快く了承してくれた。
「ごちそうさまっ。それじゃあ、行って来まーす!」
「ああ、気をつけてな」
今頃フィオも、きなこ入り牛乳を飲んでいるだろうか。運び屋になると決めた時のフィオの笑顔を、ミュシャは忘れない。
まぶしい朝日に顔をくしゃくしゃにしながら少年は、今日もミゼルドを駆け回る。
■Scene:銀の鳥
「おーい、ルドルフ。こっちだ!」
岩山の上から親方が太い声を掛ける。岩陰で休憩を取る人足の輪から抜け出すと、ルドルフは岩山を軽々と駆けのぼった。キャラバンの商人たちが、それをまぶしげに見上げている。
「うがぅ……」
ルドルフの眼下に広がるのは、茫漠たる砂の海だ。ミゼルドを出発したキャラバンは、今この砂漠を越えようとしていた。
「砂漠鸚鵡たちがさっきからかごの中で騒いでる。砂嵐が起こるかもしれないんだが、どう思う?」
ルドルフは目を見張る。空の色を見、鼻を効かせ、大気のにおいを嗅いだ。砂時計の砂が3回落ちる間、不動の石像と化す。全身にみなぎる野性で異変の徴候を感じ取るのは、ルドルフの得意技だった。
商人たちはその姿を、砂漠狼のようだと誉めそやした。数十頭の群れを率いる砂漠狼の王は、厳しい環境の中でも、あらゆる危険から身を守るすべを心得ているからだと言うのだ。
「わどぅい……ぐう気、じたから……あがる。たがいどこ。にげたがっでる」
親方は唸りながら地面を見つめる。
「ガスか。火山が近くで出来るのかもしれないな、ルドルフ、悪い空気はどこから来ている。指を指してみろ」
太い指が、まっすぐ谷のある方を示した。その腕に今も輝くミュシャの羽根が、低い日差しを受けてきらめいた。商人たちの影が砂の海に長く伸びている。灼熱の支配がもうすぐ終るのだ。
「……西か、少し遠回りするしかないか。よし。ありがとう」
親方は頷くとキャラバンの団長の方へと走っていく。程なくキャラバンの先頭が、ゆっくりと北に向きを変えて進み出した。
一段落した後、ルドルフはメルダの斡旋でキャラバンの手伝いの仕事についた。荷物運びに護衛、その他諸々。仕事はハードだが、ルドルフにとっては苦痛ではない。元々向いている仕事であったし、何より頼りにされている。ここでは誰も、ルドルフを馬鹿にしたりしない。キャラバンの一行は、力を合わせて困難な旅を乗り越える仲間だった。
そして、キャラバンは必ずあの街へ帰ってくる。自分を待っている人がいる街、ミゼルドへ。
「おーい! ルドルフ行くぞ!」
親方の怒鳴り声が聞こえる。ルドルフは一つ飛び上がり岩山を駆け下りていく。巻きあがる粉塵、砕け散る岩。だが、それらをルドルフは気にもしない。野性はのびのびと、闊達にルドルフを生まれ変わらせた。
遠くでかすかに、懐かしい笑い声を聞いたような気がした。
込み上げる力。熱き血潮。生きていく喜び……皆、ルドルフの中に満ちている。ただルドルフの在るがままで。
生きていくことはこんなに嬉しいんだ。
ルドルフは喜びに躍動する。砂煙を上げてキャラバンの先頭へと走っていく。
強い太陽、青い空の下、砂漠の中を、キャラバンは進んでいく。地平を越え、さらにその先の地平へと。
■Scene:同行二人
「えっと、これはどういうことかな」
ラフィオ・アルバトロイヤは落ち着いた口調で尋ねてみた。目の前につきつけられているのは、紛う方なき円月刀。ミゼルドを後にしてから、まだ1時間も経っていない。
「犬連れてひとり旅とは、さぞかし腕も立つのかねェ?」
「このワンコは《大市》で買ったのかい? なんか高そうだもんなぁ?」
「マントもいい生地じゃねぇか。どこのぼんぼんがひとり旅だい」
口々に下卑た言葉を並べ立てているのは、いかにも人相の悪い連中だ。ミゼルドを出るならこの馬車が一番安いぜ、と怪しげなうたい文句に乗せられてみれば、この有様。何でもない森の中で馬車が止まったと思ったら、わらわらと御者の仲間らしき奴らが現れて、あっという間に囲まれてしまったのだ。
ふう、とラフィオは大仰にため息をついた。
「ま、命が惜しけりゃ金を置いてくんだな……っと、そのワンコもだな。高くうっぱらえそうだぜ」
「……それは困るなぁ」
答えながらもラフィオの指先は、そっと式を組み立て始める。その時。
「ワン!」
ノヴァが一声吠えて、ラフィオの腕から飛び出した。
「ノヴァ」
ラフィオの呼び声も聞かずに、円月刀を握る男の腕にがぶりと噛みつく。
「いってぇ! このクソ犬!」
血気走った男はノヴァをゆすり飛ばし、円月刀を振り下ろす。その太刀筋を間一髪で組み立てられた盾の式が遮った。目に見えない力場の盾が、男の円月刀を弾く。ラフィオはノヴァに駆け寄って、首輪の封印を解いた。
「コイツ、妙な技を持ってやがる!」
「やっちまえ! 手加減ナシだっ!」
ラフィオの動きを見た賊がいっせいに襲いかかった。ノヴァは一瞬にして仔犬の姿から、青い鱗と翼の《竜》に戻る。
『ふっふっふ、かわいいワンコとは世を忍ぶ仮の姿〜』
「な、なんだ!?」
「くそっ、幻だっ」
違うんだけどなぁ、と呟くラフィオが式を組み立て終わるよりも早かった。
『しかしてその実体は! ノ・ヴァー・リ〜・ス・トレ・ティア〜っ!』
ノヴァのブレスが賊を軒並み薙ぎ払ったのだ。
「何で一気にブレスを吐くかな。修復する僕の身にもなってよ?」
少し離れた場所で、ラフィオは珍しく相棒にこんこんとお説教だ。燃えた木の再生の式、気絶した賊の怪我をある程度治療する式……。こうも連発したのは久しぶりで、頭の中では方式が渦を巻いている。
『だって俺、結局活躍できなかったし!』
鼻息荒くノヴァが答えた。その喉からはぶすぶすと、ブレスのくすぶる煙がたなびいている。
彼は考えていた。ミゼルドで自分に活躍の場が与えられなかったのは、約束の《霜降り谷》に行くのを、ラフィオがケチっているからではないか、と。
《霜降り谷》、肉食の楽園。ステーキ食べ放題……。
『ま、ラフィオはぼんやりしてるから、そのうち機会は来るかなーって思ってたんだけどねっ。善は急げと思って』
さりげなく失礼な物言いは、ノヴァの常だ。相棒が本調子に戻ったことは、喜ぶべきなのだろう。
「ぜんぜん善じゃないよ、それ」
ラフィオは溜息混じりに、小指を立てた手を差し出す。
「分かったよ、連れて行くってば。だから今度はちゃんと僕の言う事を聞くんだよ?」
『りょーかい、ラフィオっ!』
子竜もかぎ爪のある手をちょこんと伸ばす。約束の印だ。指切りが終わると、ラフィオはノヴァの姿を再び封印する。無用のトラブルを避けるためには、ノヴァには仔犬でいてもらったほうが旅しやすい。
「僕は君のお嫁さんを探しに来たつもりなんだけどね」
まあいいか、ちょっとくらい寄り道しても。
一人と一匹は野道をてくてく歩き出す。後に残されたのは、元通りに再現された森と道、すまきにされた追いはぎたち。横倒れになっている馬車の車輪が、風に吹かれていつまでもからからと回っている。
■Scene:明日歌う歌
みんな、旅立った。それぞれの目的地を目指して。
出発した時にはあんなに大勢だったのに、ミゼルドへ戻ってきたのはカリーマとメルダのふたりだけだった。そのメルダも、夫に気遣ったか真っ直ぐにガジェット商会に帰ってしまい、《商会》の扉を押したのはカリーマひとりである。背中の調理道具が、何となく重い。
「ただいまー、バウトさん」
カウンターの上に荷物を置く。ざわざわした店内に友人たちの姿を探そうとしていることに気がついて、カリーマはぶんぶんと首を振った。
「……お別れしたし! いつでも力になるから、何かあったら呼んでねって約束したし!」
父の手も、叔父の手も借りずに初めて知り合った旅人たち。そして初めての別れ。頭では分かっていたはずだった。今生の別れじゃないから、また会えるから、と。けれど思いの外カリーマの心は沈んでいた。
「う〜っ。アーサーさんやアルテスさんを誘ってごはんでも食べようかなぁ」
「おっ、戻ってきたか。待ってたぞ」
気分の急下降を遮ったのは、バウトがかけた声だ。
「待ってた? あたしを?」
「初めまして」
バウトの隣に立っている吟遊詩人が口を開いた。変な楽器、とカリーマは一目見て思う。
「僕が歌うべき物語の欠片を、お持ちじゃないかと思いまして」
「え? え? どういうこと、バウトさん」
カリーマは助けを求める目でバウトにすがる。自分を待っていたという詩人の真意が計れない。
「ミゼルドで起きたこと、かつて起こったこと、そしてあなたが思ったこと。僕はそれを残したいのです」
「ま、そーいうこった」
どうやらバウトは、歌う物語を探している詩人に、今回の一件に関わった旅人たちを紹介したらしい。
「みなさんが、とても頑張ったらしいって聞いたんです。それでもうぜひお話を聞いてみたくて……ありのままの、真実の物語を」
そういって相好を崩した詩人の顔は、ぼろぼろの旅装にあって不思議と若く輝いて見えた。
カリーマと詩人は、店の片隅でずいぶん長い間話し込んだ。あまり話は上手じゃないから、と最初に断りを入れたカリーマだが、詩人がよほどの聞き上手なのだろう、いつの間にか時間が立つのも忘れてしまっていた。
「……だからあたしは、あたしのことを覚えていてほしいと思った」
カリーマはそういって話を締めた。
「エルフィの占いみたいに、どこかで覚えていてほしい。必要な時には思い出して、あたしのことを呼んでほしい……だからきっと、あたしがあなたにこうやって話するのも、そのひとつなのかもしんない」
冷めてしまった麦珈琲に手を伸ばす。何ともいえない苦味に顔をしかめるカリーマを、詩人は優しく見守った。気づいたバウトがくすりと笑って、何か別の飲み物をカリーマの脇に置いた。
「この物語を歌に残した後も、きっと《大陸》のどこかで、同じ悲しみは起きるでしょう……それでも、僕は歌をつくり、歌い続けます。そして忘れませんよ」
このひとがそういうと、そんな気がしてくる。忘れないこと、想いは受け継がれること。カリーマはしかめ面のまま詩人を見つめる。
「人の命はあまりに短すぎるんです。人も人の心もすぐに入れ代わって、また同じ過ちを犯してしまう。同じ人なんていないのに、なぜ? 不思議じゃありませんか?」
「……うん、不思議」
素直にカリーマはうなずいた。詩人の目は優しいままだ。オールフィシスさんと少し似ている。想いが受け継がれることを、このひとたちは信じているから?
「本当に大事なことで、僕がよく見て覚えておきたいのはつまり、そのなぜ、の部分です」
苦い麦珈琲を、詩人はとても美味しそうに飲んだ。
どうしてその悲しみは、過ちは、生まれてしまったのか。どうして、なぜ。同じことの繰り返しに見えて、すべては異なっているのです。そこに至る気持ちや願いは、ひとりひとり違うものなのですから。
「僕は、だから忘れませんよ。ミゼルさんの言葉もお嬢さん、あなたの言葉も」
カリーマの胸が熱くなる。ミゼルドで果たしてきた役割の、意味がちゃんとあったのだ。
彼に抱きつきたい、お父さんにするみたいに。
実際は固い握手にしたけれど、楽器のたこができた詩人の手は、大きくて温かかった。
■Scene:この胸に宿る星
数年の歳月が流れて後。
セイエスは「ミゼルドにおける女神信仰」なる論文をイオと共著でものした後、再び旅に出た。
イオはまだミゼルド神殿に勤めている。聖騎士の位は返上するつもりだったが、《聖地》は頑として認めないばかりか、さらに昇格させたがっているらしい、と信徒たちは噂している。
新生評議会は、見事にミゼルドを観光都市へと変えた。《大市》に次ぐ目玉は何といっても、聖女像
をはじめとする聖遺物である。救いを与える聖女ミゼルの名はあっという間に有名になり、連日連夜、ひきもきらずに巡礼と称する観光客が訪れるようになった。
カイーチョ家の双子は、これまた双子の青年を養子に迎えた。もちろんふたり好みの美形たちだ。オパールの手腕を認めた彼らの次なる標的、またの名を金づるは、これまたミゼルド神殿らしい。何とかして養子たちを神官にしたがっているオッジとパーチェは、いまだにイオの悩みの種でもある。
《大市》の途中で公演をとりやめた《ハルハ旅団》は、帝国に召し抱えられてしまったのだ。大方の人々はそう考えているらしい。
バウトとオールフィシス夫妻の間には、ふたりによく似た子どもたちが次々と生まれた。中には赤毛の男の子がいて、バウトは仕方なく……かどうかは分からないが、ハルハと名付けたという。
旅人たちの旅は、これからも続く。
けれど、それはまた別の物語。
ほんとにおしまい
