夜毎の夢に、その少女は現れた。
不思議な言葉で祈るように歌いながら、彼女はいつも、小さな手に握りしめた花をそっと差し出した。
白い薔薇。
翻る白いスカート。黒い髪。白い薔薇の花びらが舞う。
眠りに落ちるたび、そして目覚めるたび、少女の姿が現れ、消える。
……彼女はなぜ、僕の夢に現れるのだろう。出会ったこともないし、似ているところもない、見知らぬ少女。
《旅人たちの街道》を往く乗り合い馬車の中で、物思いにふけっていた青年は、馬のいななきで我に返った。
「どうしました」
窓から身を乗り出すようにして、御者台を確かめる。
「なぁに、ここから先はちと悪路になるんでね。馬もいやがるんでさ」
二頭の馬たちをなだめすかしながら、御者は肩をすくめた。
「ミゼルドに行くには《街道》を外れなきゃいけないんでね。旦那衆もちっとばかし我慢してくださいよ」
そう言って、御者は鞭をくれる。
「兄さん、このあたりは初めてかい」
向かいに座っていた商人が、落ち着かなさそうな青年の所作を半ば面白がるように声を掛けた。
「鍵の聖印。ってことは、あんた聖地の神官さまか?」
「は、はい。セイエスと申します」
商人はうなずき、自分をバウトと名乗った。バウトさん、とお辞儀するセイエスに笑いながら、堅苦しいのは嫌いだからと手を振る。
「あんたいい時に来たよ。もうすぐミゼルドで、年に一度のでっかい市がたつのさ。ま、俺も大市の仕入れに出かけてたんだけど、そんな時でもなきゃミゼルド行きの馬車なんてないからな」
「それは知りませんでした」
青年の相槌に気をよくしたバウトは、あれこれと話を続ける。
「ミゼルドは盆地の中にある街だからね、自治権を保っていられるのも、半分はその立地のおかげだね。俺たち商売人にとっちゃ、交易の自由は何物にも代えられない」
自治都市ミゼルド。
《大陸》中原、沃野が広がるこの地方にありながら、自治を奪われずにいられる街。聖地で育ったセイエスは、異国への旅も初めてだった。見聞を広める絶好の機会だと思い手を挙げたけれど、大市なんてものも経験もできるなんてまさに神の思し召しだ、とセイエスは心の中で祈った。
「あんたも何か役目があって来たんだろう。困ったことがあったら、いつでも店に来な。それと」
バウトは青年の姿を上から下までとっくりと眺めた後、付け加えた。
「間違っても、《ミゼルの目》には近づきなさんなよ」
その言葉が終わるか終わらないうちに、セイエスの心を奪ったものがある。
ゆっくりと坂を上る馬車の窓から、何か白いものが見えたのだ。窓から身を乗り出すようにして、青年は目をこらした。低い灌木が茂る森の中を歩く二人連れ。白いワンピースの少女が、黒服の大人に手を引かれて歩いているのが見えた。
《ミゼルの目》と言えば、自治都市でその名を知らぬ者はない。すべてを取り仕切る評議会のことである。ミゼルドの商取引は例外なく、評議会にいくばくかの税金を納めることとなっている。《ミゼルの目》はその名の通り、ミゼルドのすべての商取引に通じていた。
評議会メンバーも、年に一度の大市を控え、その準備に忙しい。この時期は《大陸》中の交易商人たちが流れ込んでくる。《ミゼルの目》を盗んでよからぬ取引が行われないか、目を光らせるだけでも大仕事だ。
「南地区のリストはまだか?」
「今度の休息日に行われる競りについてだが……」
「だめだめだめ。それじゃ足りねぇ」
「登録証をあと100枚準備してくれないか」
「今日にはサーカス団も着くぞ。かの《ハルハ旅団》御一行様だ。いいな、くれぐれも失礼のないように」
評議会本部は、上を下への大騒ぎだ。書類の山がいくつも積み上げられていく中、ちっとも減らない仕事に対し、ついに評議会長の決が下った。
「ああ、もう! これじゃ埒があかないわっ。大市の間だけでも、信頼できる応援を頼むのよ。そう、アイツ……《精秘薬商会》のバウトにでも、冒険者を雇わせましょう!」
結局セイエスは、《精秘薬商会》に投宿することにした。がらん、と重たい木の扉を引くと、ちょうど薄絹をまとった異国の踊り子たちが、連れ立って出かけるところだった。甘い香りが残る扉の中へ、セイエスはゆっくりと足を踏み入れた。
第1章に続く
こんにちは、みやたです。今度の物語は《大陸》中原、自治都市ミゼルドよりお届けします。7章の後、登場人物たちがどのように変わるのか、またキャラクターたちはその間何を考え、何を選ぶのか、楽しみにしています。おつきあいいただけたらとてもうれしいです。それではまた《大陸》でお会いしましょう。