エレインの物語 その後
やっぱり、あたしはここにはいられない。
誰も、あたしを責めはしないけれど、あたしの心があたしを追い立てる。
罪の刻印、って、よく言うけれど。そして、帝国をはじめとするいくつかの国では
犯罪者に刻印として、焼印を押すっていうけれど。
そんなの、表面的な話だわ。本当の刻印は、こうやって刻み込まれるのよ。
水浴びを終えると、あたしは町の中にさまようように出て行った。
夕暮れの大通りは、みんな忙しそうに早足になっていた。
行くところのある人たち、することのある真っ当な人たち。
それに。
あたしを強く引き寄せたのは、何か肉を煮込む匂い、多分クリームシチューの香りだった。
夕飯の前の忙しい時間に、しかも、もう別の夫と、子供もいる奥様に聞きに行けるようなことじゃない
その程度は、あたしにもよく判ってたんだけど。
どうしても、足が向いてしまった。
考えるよりも先に、気がついたら、勝手口の扉を、小さくノックしてたわ。
メルダさん。テスラ戦役の名だたる女剣士、黒腕のメルダと
ウォルド・リディアの恋の物語は、綺麗で哀しい音楽にのせて、良く旅芸人の一座が芝居にかけていた。
だから、メルダさんなら知ってるはずだと、あたしは思った。
旅芸人が、お客の受けのいいように変えてしまった物語なんかじゃなくって
本当の話を、あたしの忘れていた、リディアの父様の話を聞かせて欲しいって
本当のことを、どんなことでもいいからって、あたしは頼みに行った。
あたしは、少なくともリディアの父様には、望まれて産まれてきたんだって
一人っきりじゃないんだって、そう信じたかったのかもしれない。
懐はあたたかかった。オパールさんは魔物退治の報酬を、あたしに渡したから。
今度の旅も、あたし一人きりになるけど、それでも今度は路銀があるから
それだけ前よりは楽になるわ、だから大丈夫よ、あたしはそう自分で自分を励ました。
あたしがあの、ミゼルドを一望できる高台に立って、ぼんやりと考えにつかない考えにふけっていた時。
突然だった。
あたしの肩口より少し上、首筋から拳ひとつ離れたところを、ナイフともいえないほどの小さな刃物が
二本、立て続けに飛んでくると、目の前の木の幹に突き立って、小さく揺れた。
「まったく」
言葉ほどには呆れても、困ってもいないのが判る、落ち着いた優しい、バリトンの響き。
あたしは、あんまりとつぜんで、あっ、と思って。
それから、声が出なくなった。
絶対に、絶対に、絶対に聞き間違えたりしない、世界中で一番あったかい、笛の音に似た、あの声が
ゆっくりと踏み分ける落ち葉の音をさせながら、あたしに近づいてくる。
「どうする気だ、これが敵であったら」
父様。あたしはそれだけしか考えられなかった。
「ランドニクスへの宣戦布告は、誉められたものではない。
ある時点まで、帝国にとって最も効果的な手段はおまえの暗殺ということになるからだ」
それでも。
父様がきてくれた、あたしにはそれだけで頭が一杯で、それ以外何も考えられなかった。
父様は、顔の半分を覆う、黒い皮の仮面をつけていた。
滑らかな皮の表面には、優美で細かい、幾何学模様が一面に彫り上げられていた。
慈悲を表す葡萄の蔓と、砂漠の町で豊穣をあらわす無花果の模様
それだけで、何があったのかは大体見当がつくってものよ。
多分、また父様は治療の代金を取らなかったに違いないの
でも、代金未払いをするほうにしてみれば、まるで施しでも受けたような気になるじゃない
だから、父様は多分、その人の仕事を対価に欲しいって言ったに違いないわ。
多分、その人は皮職人か何かだったのよ、だから、父様は火傷の傷を覆えるような
仮面を所望したに違いないの。
その人は、心をこめて仮面を作った、そしてついでにどうしてその仮面を作ったか
その理由まで、装飾模様にして刻み込んだに違いないの。
それが、この葡萄と、無花果の模様なんだって、あたしには一目でわかった。
変な話なんだけど、あたしにはそれがとても父様に良く似合っているように見えた。
あたしは父様にしがみつくみたいに抱きついた。
もしもう一度父様に会えたら、あたしはちょっと泣くだろうと思ってたんだけど
不思議と、涙なんか一滴も溢れてこなかった。
ただ、そのかわりにあたしの膝はがくがく震えてしまって、父様の服を握り締めていなくては、
立っていることさえ、出来そうになかった。
言いたいことはたくさんあったのに、ごめんなさい、も、ありがとう、も、とにかく、唇を動かすことさえでき
なくなった。
父様の掌が、ぽん、とあたしの頭の上に乗せられた。
あたしが一緒に暮らしていた頃からの、父様の癖。
でも。
あたしは、もうあの頃の純真な子供なんかじゃない。
あたしは、醜い人殺しだから、父様に頭を撫でてもらう資格なんかないのに。
「おおよその話は、わかっている」
ぽんぽんと、柔らかく父様の掌が動く。
「いいか、エレイン、良く聞きなさい。
おまえにここまで手を出されて、私が黙って引き下がると思うか?」
え?あたしはびっくりして父様の顔をみあげた。
「たとえ猪や虎でも、自分の子は命がけで育てる。
子供に手出しをするのは、親の命を直接狙うのとおなじことだ。
どんな親にも、子供の仕返しをする権利くらいはある。
おまえが手を下すまでもない、精霊だろうと悪魔だろうと、おまえをせりにかけた以上、私が生かしてはおかなかった。
自分を責めるな、エレイン。
おまえの敵の末路は同じことだったのだから。」
あたしは泣いた。相変わらず、喉が引き連れたみたいで
言葉は全然いえなかったけれど、その代わりにポロポロ涙だけが流れて落ちた。
「それでも、私は安心した」
父様のバリトンは、静かで深みが合って、あたしはお話の中でしか聞いたことのないけれど、
きっと、海鳴りの響きに良く似ているんだろうと、あたしはぼんやりと思っていた。
「おまえが、人の死に苦しめる人間であってくれてよかった」
「父様」
それでも、あたしは聞いた。
「あの人と、結婚したの?」
「いいや」
父様が、ほんの少しだけ微笑んだ気配がした。微苦笑。そんな言葉がぴったりの、複雑で少し寂しい笑い方だった。
「どうして」
「身分が違う」
身分なんて、と言いかけたあたしを、父様はゆっくりと制した。
「あの人には、息子がいる。仮にあの人が王妃とすれば、ご子息は王子の身分になる。
だが、あの人が私の妻となれば、その時点で王妃の身分は失われる。それを苦にするような人ではないが」
父様は、少し言葉を切った。
「ご子息も同時に、王の息子ではなく、流れ者の医者の義理の息子、ということになる。
ご子息を深く愛している人だ、だから」
もう一度、ほんのわずかの沈黙。そして
「水、空気、食料、眠り、その共通項は?」
昔から、父様の話し方はいつも唐突だった。今も、やっぱりそうなのが、あたしにはとても懐かしかった。
「生存の条件。どれが欠けても、生きてはいけないわ」
「つまり、そういうことだ。
あの人にとって、私かご子息かを選ばせることは、水か空気、どちらかを捨てろというに等しい。
そんな思いをさせるために、連れてきたわけではない」
照れているのか、父様は足元の小石をかるく蹴飛ばした。からからと音をさせながら、石が坂道を転げ落ちていく。
「父様は、空気か水なの?」
「その程度には、自惚れていたいんだが」
「自惚れじゃ、ないと思うわ」
あたしは寄りかかっていた木から、そっと身体を離した。これだけは、きちんと言わないといけない、そう思った。
「ごめんなさい、父様」
「何についての詫びだ?」
「何もかも、全部」
「いや」
父様は、いつも言葉が少ないけれど、あたしには父様の言いたいことは、何でもわかる。
父様は、あたしを許してくれたんだってことも。
「一緒に帰るか、バーラットに」
それでも、あたしは首を振った。
あそこには、あたしの居場所はない。それに、もし。
もし、まだリディアがあたしを、頭領ウォルドの血筋を求めてくれているのなら。
あたしは、やるべきことに気づきながら、見てみぬふりで父様に守ってもらうだけの
小さなエレインに戻るわけにはいかない。
それだけのことを、しでかしたのだから。
「あたしは、リディアに」
「思い出したのか」
「知ってたの、父様」
あたしの問いかけに、父様は小さく首をふった。
「売られるには、不自然だとは思っていた。年齢が幼すぎる」
確かに。
あたしは、自分の年をはっきりとは知らないけれど、多分あの宿屋にいたのは三歳か四歳
まだまだ手間がかかりすぎて、とても労働力にはならない年齢だった。
「戦災孤児だろうとは思った。が、それ以上の事は」
あたしは父様の言葉を信じた。
「おまえの中には、固い核があった。拒絶に似た、何かだ」
あたしは小さくうなづいた。父様が何を言おうとしているのか、あたしには良くわかった。
部族の女の人たちがするような、女性らしい控えめさや、従順さ、そんなものを押し付けられそうになるたびに
あたしが強く感じたのは、違和感と腹立たしさだけだった。
周りの女の子がどんどん大人になって、どこか花の蜜のような、秘密めいた美しさをたたえるようになると
あたしの違和感はどんどん大きくなった。
父様は、多分あたしがずっと小さな子供のころから、あたしの中にある、リディアの血みたいなものに気づいてくれた
それを押しつぶして、あたしをあたしでない、何か別の女に作り上げようとはしなかった
正しいことと、正しくないことだけを教えて、あとはあたしが自由に伸びていく、それを後ろ側からそっと支えていてくれた。
ありがとう。
でも。
もう旅立たなきゃ。
父様の側には、あの人がいるんだもの。あたしはあたしの居場所を作らなきゃ。
「おまえは自分のしようとしていることの意味がわかっていない。無理をすることはない」
どういうこと、と見上げた視線の先で、父様が続けた。
「一度奪われた土地を取り戻す、口でいうほど生易しいことではない。
もう既に別の人間がその土地に入っている、戦になるぞ」
そう、リディアを裏切った連中が、その報酬として帝国から利ディアの土地を貰っているはず。
あの連中を追い出すには、剣にかけなきゃいけない、そのくらいあたしだって判ってる。
「判っていないのは、そこではない。おまえの命令で、死ななくてもいい人が死ぬ。
おまえは一生、人の死を抱え込むことになる。それが判っているのか、と言っている」
それは、考えてはいなかったけれど。
「今なら、まだ引き返せる。おまえがリディアの名において誰も死に追いやってはいない今なら、まだ間に合う。
無理をするな、エレイン」
そうかも、しれなかった。
ハルハ一人の死も、あたしの手にあまるほど重い。でも。
あたしは、どちらのあたしをさげすむだろう。
リディアを思い出しながらも、全てをなかったことにしていきつづけていくあたしと、
リディアのために命を捧げよ、と一族に命じて戦死した兵の間を歩くあたしと。
「エレイン」
父様の声。それでも、あたしは小さく首をふった。
リディアを。死んだリディアの一族のためや、死んだウォルド父様の遺志を継ぐためなんかじゃなく
あたし自身のために。これは、あたししかできないことだから。
あたししか出来ないことから、逃げ出すのはいやだから。
だから、父様ともこれでお別れ、だと思ったのに。
どうしてここで、スイが出てくるのよ!
父様は、スイの言い分をただ聞いた。
それから、スイにあたしの言葉を聞いたか、と尋ねた。
普通の女の子の恋人になるのとは訳が違う、これからエレインが負うべき重荷を、一緒に負ってくれる男でなくては
その覚悟がないなら、命に代えても娘を、と所望する男でないなら、渡すことはできない
その覚悟がないなら、甘い言葉など言わずに今すぐ娘の前から消えてくれ
君の存在は、娘がその覚悟を持った男と一緒になるときの邪魔になるから、父様ははっきりとそう言った。
スイもスイよ!
いいかげんな想いじゃない、命くらいはかけます、なんていうもんだから。
父様は、服の隠しから、小さな壜を二つ取り出した。
一つの蓋を開けて、小さな黒い丸薬を掌に転がした。
「父様、それ、ケルヴィアじゃない!」
あたしは叫んだ。ケルヴィアは、茸から取り出される無色無味無臭の毒薬で、呼吸中枢を完全に壊してしまう。
もともとは粘り気のある半流動体なんだけど、扱いにくいから、父様はリアンの葉を練った丸薬に混ぜ込んで使っていた。
「あるいは、な」
言いながら、父様はもう一つの壜を取り出した。
「これは、無害だ」
同じような丸薬、多分、まだケルヴィアを混ぜ込むまえの、リアンの葉だけを、練ったもの。
掌の中で、何度か転がしてどちらがどちらか判らなくなると、父様はその手をスイに差し出した。
「君の言葉が真実かどうか、試させてもらう。どちらか一つ選びなさい」
穏やかで、静かで、少し憂鬱そうな、診察をするときと同じ、父様の声。
止めて、お願いだから、そう頼んだあたしに向けられた言葉は、信じられないほど厳しかった。
「これからは、戦の日々が続く。おまえの名で兵が死ぬのだ、エレイン。これはおまえへの問いかけでもある。
おまえが心を寄せる相手に、命を預かった、私のために生きて、私のために死ねと、
そう言えるようなら、リディアの頭領も張れるだろう。
だが、相手に長生きと平穏を求めるなら、おまえは軍閥には向かない。
例え、おまえの血筋かそうであっても、おまえの性質が軍閥と戦向きではない。
止めることだ。さもないと、心を病むぞ」
不意に、目の前の全ての輪郭がぐずぐずに歪んで見えた。頬を伝う何かが流れて
あたしの服に、小さな染みを作った時、あたしは泣いているんだと、頭のどこかでぼんやりと思った。
ごめんね、スイ。
あたし、まともじゃなくてごめんね。
ソラや、アルフェスや、ブリジットみたいな、可愛い女の子じゃなくて、ごめんね。
あたしは、それでもスイに、あなたの命をあたしに下さい、とは言えなかった。
だって。
あたしは、スイのために命を差し出せるか、わからないのに。
あたしは、スイは嫌いじゃない。
側にいたい、少しは話だってしたい。それに、多分キスされたって、そんなに嫌じゃないと思う。
スイがずっとあたしの側にいてくれれば、毎日どんなに安心で、どんなに暖かいだろうとも思う。
でも。
父様があの人のためにやったように、あたしはスイのために自分で自分の顔の半分を焼けるだろうか
もし何かの魔法がかかって、あたしがケルヴィアをあおれば、スイの命が助けられるとしたら、あたしは飲むだろうか。
父様があの人を愛したように、あたしはスイを愛しているんだろうか。
そう思ったら。
あたしは何もいえなくなった。
それなのに、スイは丸薬を飲んでみせた。
時間がたつ。三秒、五秒、十秒。
何も起こらない。スイはさっきと同じように立ったまま、あたしに笑いかけている。
無害の方だったんだわ、そう思ったとたんに。
父様は、掌に残った、もう一方の丸薬を、無造作に口にほうりこんでみせた。
悲鳴をあげたあたし。でも、父様もやっぱり、平気な顔をして立っている。
どういうこと?
混乱するあたしに、父様はほんの少し笑いを含んだ声で言った。
「私は何と言った?」
あ。
あたしは、突然気がついた。あるいは、な。父様はそう言った。
ケルヴィアじゃないって、叫んだのはあたし。父様はそうだとも違う、ともいわなかった。
ただ、あるいは、な、と言っただけ。
つまり。
どっちも、ケルヴィアなんか、混ぜ込んでなかった。
どっちも同じ、無害の丸薬だった。
ただ、スイとあたしの心のありどころを確かめるだけの、ペテン芝居。
唖然として口がふさがらないあたしに、父様は一緒に暮らしていた時と同じ口調で、まるで夕食の相談をするように
泊まっている宿屋の名を言った。
それから、ここから馬で三日位の、小さな山間の村の名を教えてくれた。
そこに、盲目の老人がいるから、尋ねてみるように、と。
盲目の上、酷い怪我を負ったらしく、杖がなければ立つこともできないけれど、
頭がまわり、用兵にたくみで、戦に不慣れな村の若者と女達をまとめて、数度にわたり山賊を撃退していること
その老人はもとはよそ者で、村に現れたのは、テスラ戦役の終わって、数年後であることも、教えてくれた。
そして、必ずエレイン・リディアと名乗るように、とも。
それから、本当に唐突に、もともと父様の話し方は少し唐突で、慣れるまでわかりにくいんだけど
このときは、特に唐突に、
リディアの財力は、土地によるものではないだろう、
おそらくは、岩塩。
塩は大陸では、帝国の専売になっているけれど、その分塩賊の利益は大きい
今日から四日後、帝国の塩の輸送隊が、峠で山賊に襲われる、
おそらく、そのときは山賊が勝つだろうが、それから一月たたずに、帝国がもう一度塩を輸送する
それは輸送ではなく、山賊をおびき出す餌だ、輸送隊を装っているのは帝国の軍事部隊だから
両者の動きを良く見ておくように、今後ことを構える相手として、必ずえることがあるだろうから、と
父様は、早口で話した。
どうしてそんなことを知ってるの、あたしはそう聞かずにはいられなかった。
「尋ねるな」
それが、父様の答えだった。
そのとき、あたしは確信した。
父様は、ただの医者ではなかったんだ、って。
そして、これが父様からあたしへの、旅立ちのはなむけなんだってことを。
それから、父様はあたしの額にそっとキスしてくれた。
バーラットにいたころの、毎晩のお休みの挨拶のように。
でも、あたしにはこれがお別れの挨拶なんだってことが、よく判った。
これ以上一緒にいたら、泣いてしまいそうだったから、あたしは丘を駆け下ろうとした。
背中越しに、父様の声が聞こえた。
「スイ君」
父様は、初めてスイの名前を呼んだ。
「娘を、よろしくお願いする」
父様が、礼を投げるのが、気配でわかった。
あたしは、スイには「馬鹿」としか言えなかった。
あんたは馬鹿よ、すごく馬鹿よ。なんで頼まれてもいないのに、訳の判らない丸薬なんか飲むのよ。
あんたみたいな馬鹿は、もう何だって勝手にすればいいのよ。ついて来たきゃ、勝手についてくれば。
あんたなんか、あたし、知らないんだから。
それでも、本当は嬉しくて、心の底が、ほんのり暖かくなって。
あたしは、スイの服の端っこを掴んだ。ぎゅうっと握り締めながら、べしょべしょ泣くのを、止められずにいた。
ぐしゃぐしゃの泣き顔を見られるのが、それでもなんとなく腹が立って、
あたしは、握り締めた服の端っこを自分の顔に押し当てた。
FIN
