PBeM《ciel RASEN》 - 2005 : 書架

クラウディウスの物語:カノン

その日、私の部隊は一つの村に泊まっていた。
これは決して珍しいことでも、なんでもない。
兵站が大問題になってくるのは、二百人を超える規模になってからだ。私が通常率いる小隊はほんの二十名程度、実戦になってからは幾分ふくれあがって、五十人から八十人と、実際かわいらしい規模、といっていい程度のものだった。
ただ、その八十名が、騎士団の中でもよりすぐりの精鋭だ、というだけの話だったのだ。

八十名程度なら、よほど貧しい村でもない限り
…そして、大概、貧しい村が貧しくなったことには、充分な理由があった。
盗賊に会うか、戦場になって麦の畑を踏み荒らされるか、逆徒をかくまって火を放たれたか、そのうちのどれかに、まず決まっているのだ…
部隊の駐留は村にとって、さほどの負担とはならない。
ほんの、一日か二日のことだ。

しかも、ここはもとより失踪した先帝の第二正妃、エレイン妃殿下の生まれ故郷、テスラ戦役までは妃殿下の直轄地に属した地域にあたる。
例の「裁判」は、ここでは必要なかった。
我々の部隊が、まだ山一つ奥にいたころから、彼らは恭順の意を表してきた。
道に慣れた猟師を案内につけ、かがり火をたき、村に入ると麦の袋までが庁舎の前に並べられていた。
備蓄麦だな、私の側に馬を寄せて、副官のアルヴィーゼがささやいた。
私は小さくうなづき返した。この男は気は利くのだが、私に敬語を使わない。
それになにより、少しばかり先回りをしすぎるところがある。
村の規模、畑の位置、働き手となる成人男子の人数、それをざっと見れば、村の麦の生産量の概算は明らかだ。
たとえほんのわずかであろうとも、年の生産量を上回ると思われる程度の麦が供出されていれば、その麦はまず間違いなく村が冬を越えるための備蓄麦であることくらいは、いくら私とて、言われなくてもわかる。
もう一つ、あの袋の中には来年の種麦が含まれているであろうことも。
そして、アルヴィーゼが本当に言いたいことも。

村人ノ蓄エニハ、手ヲ出スナ。

苦労性め。
かすかに浮かんだ苦笑と一緒に、私は言葉を飲み込む。
愛すべき苦労性の副官殿には、いつもの無表情のまま、少しだけうなづいて見せる。
これが了承の証であることを、アルヴィーゼは誰よりもよく知っている。
私の部隊は、こうしてなりたっていた。
神経質で潔癖すぎる。それが私の評価だった。
表にでるのは、若獅子騎士団で一番完全に近い隊長、という褒め言葉だけだが、陰でささやかれる言葉は違っていた。
だからこそ、あの隊長にはついていかれない。
私には、どこか人を追いつめ、息苦しくさせる毒があるらしかった。
その毒を、完璧なまでに中和してくれていたのがアルヴィーゼだった。
単細胞で善良で、思ったことを隅から隅まで顔に出す、軍人とは到底思えない、副官殿の開けっぴろげな無用心さがなければ、私の部隊はとうに空中分解に近い状態になっていただろう。

「いつまでいる」
「駐留は十日」
私の返事に、アルヴィーゼが少し驚いたような表情を作った。それも道理だ。部隊の駐留はたいてい三日、長くて五日というのが軍略上の定石だ。
そして私は、軍略の基礎から外れる指揮を採らないので有名だった。
実際、私の上司たる将軍達はよくいぶかしんだものだった。
あれだけ基本に忠実な実戦指揮をして、どうして敵に裏をかかれないのだろう、と。
イギィエムの兵の動かし方はまるで算術の問題を解くようだ、決まった手順に従って流れるように戦闘を進める、誰でも考え付く常識的な策しか採らない。
それでいて、なぜ。
着実な戦果を収めてくるのだろう、と。

確かに、私は赫々たる武運、という言葉とは無縁だった。
その反面、私の戦い方は手堅く、失敗、という言葉ともまた、無縁だった。
私の得たのは、常に八割三部から九割一分の勝利、そして、それを得るには得るだけの努力を、私は欠かしたことは無かった。
事前の水も漏らさぬほどの、細心の準備。斥候を使い、地形を調べ、数日間は眠れぬ夜を過ごした上での、布陣。神経がひりつくほどの、対峙期間。兵の移動速度、武器の質、士気、騎兵の破壊力に加え、相手の指揮官の性格や兵站まで調べ上げた上で、はじめて戦術を採択する。
奇抜な戦術である必要はないと、これは今でも思っている。
よほど調練を積み重ねていない限り、特殊な動きは兵を混乱させる。それに、妙な目くらましを使おうとすれば、必ずやどこかに隙ができる。
仮に相手の指揮官が機にさとければ、その隙を突くことは難しくはあるまい。
戦術は平凡で構わない、ただ、全軍投入の時期や、騎兵の動かし方、たとえば敵陣の中央を突破させたあと、馬首を返して更に敵軍を分断するのか、あるいは包囲して降伏をうながすか、その場の一つ一つの判断の方が、ずっと困難で重要だ。

私は、それをこなしてきた。
可能なかぎり、精密に。

戦闘のあとは、各戦闘の内容を何度も何度も、頭の中で再現した。
あの判断は正しかったか。
一番最適な手段を、私は選べたか。

まるで、リュートを習い始めたばかりの子供のころにかえったように。
先生がいなくなったあとでも、一生懸命背伸びをして私の上背よりも少し高い戸棚から、リュートをなんとか引っ張り出し、母君にお休みなさいを言ってから、そっと自分の部屋に持ってきたリュートを一晩中、明けの明星が輝き始めるまで、ずっと爪弾いていた、あのころのように。
リュートより、ずっと血なまぐさい出来事を、私はずっと反芻し続けた。

ありがたいことに、私には軍略に天秤があったのだろう。
今のところは、無駄に兵を殺さずにすんでいる。

「本当にいいのか、十日で」
確認をとってきたアルヴィーゼに、私は無言のままうなづき返した。
部隊は疲れている。そして、それは肉体的な意味でだけではない。
この村の穏やかで友好的な空気が、その疲れを癒す何よりの薬になるように、私には思えた。

だが、それを説明する必要はなかった。
ここは軍隊なのだ。命令と服従、それで足りる。
それ以上は、かえって兵を惑わせるだけだ。
驚いたな、そう小さく呟くアルヴィーゼにちらりと視線をくれると、軍令を発した。

「各人二人づつに別れ、村の各戸に逗留。
期間は十日。村には駐留期間中、割り当てられた兵の食事と生活、替えの衣料をご負担願う。割り当て及び、村への手当て金については、30分以内に庁舎前の広場で発表。以上」

八十人の兵達が、全く同時に、一斉に、私の軍令に敬礼で応えた。文字通り一糸乱れぬ統制ぶりに、部隊を迎えに出ていた村長が目を丸くした。

これなら大丈夫だ。よもや、否やは言うまい。
私は村長の前を通り過ぎ、庁舎に入った。
まるで、それが当然のような顔をして。

十日の駐留は、私の部隊にとっては小さな休暇というにも等しかった。
泥沼と化した内戦は、それほどまでに兵達の気持を蝕んでいた。
畑の畝道を歩く団員達の表情があれほどまでにくつろいでいるのも久々だった。アルヴィーゼに至っては、庁舎に宿泊、私と同室という羽目になったのもどこ吹く風で、ここ数日新しい日課と称して、のうのうと昼寝などするようになっていた。
そして、私も。
何を思うともなく、庁舎の窓からただぼんやりと外を眺めている、そんな静かな時間を持つようになっていた。

私の後ろで部屋の掃除をしていた少年が、終わりました、の一言と同時に一礼を投げたのが気配でわかった。
私は振り向きもしなかった。
ご苦労さん、とのアルヴィーゼの返事を受けて、その子が扉を開けた音がした。
小さな足音が、階段を下りていく。
まったく、返事くらいしてやればいいのに、そうぼやくアルヴィーゼに、私はふん、と鼻をならした。

あんな子供なぞ、よこさなくてもいい。

そもそも。
御世話係を申し付かりました、最初の晩にそう言って女性が訪ねてきた。
そこから間違っている。しかも、大間違いのたぐいだ。
来なくていい、私はその一言で女性を追い出した。
それでも扉の前でぐずぐずしていた婦人に、私は言った。
私は女は嫌いだ。
これで、放っておいて貰えると思ったのに。

何をどう勘違いしたのか、私達の部屋にやってくるようになったのがあの子だった。
自分のことは自分でできるから、と私がいくら言っても、頑固に下をむいたまま、あの子は返事一つしなかった。
村長の、仰せですから。
いったいおまえは、どちらの命令をきくつもりなのだ。村長か、ランドニクス若獅子騎士団小隊長か。
そう尋ねかけた私を、アルヴィーゼはあっさり、しかも、例のいいかげんな、まあまあ、という間投詞一つでなだめてみせた。
…実をいうと、それにも少し腹がたっている…
この子にも事情があるんだろうさ。前金でも受け取っちまったんじゃないのか、しかも、ごっそりと。
子供の表情がこわばった。
それが、言葉以上の返事だった。

それ以来、夕刻の同じ時間に、判でおしたように、その子は毎日やってくる。
私は不機嫌そうにむっつりと窓べに立って、その子の掃除が終わるのを待つ。
アルヴィーゼは要領よく、廊下に立ち話の相手を見つける。
うっとうしいことこの上ない、それになにより、私がその種の男に見えるのかと、村長を問い詰めたくなるのも毎度のことなのだが。
小さなため息を一つついて、私は忘れようとした。
この程度のことで、村との友好的な状態を崩すわけにもいかなかった。

夏も、もう終わろうとしていたころだった。
ごうっと音をたてて吹いた突風に、黄色くなりかけた麦の穂が一度にたなびいた。
海に似ている、ふと、そんなことを思ったりもした。
そうだ、まだ推敲せずに放ってある詩をいくつか、完成させてしまおう。
そんなことを思い出すほど、日々は穏やかだった。

一週間が過ぎるころには、兵の中には妙齢の女性と二人、庁舎の正面のささやかな噴水に座って、何かを喋っている者さえ出てきた。
風紀を乱すな、ほんのわずかの間、そう叱ろうかと考えて、止めた。
この休暇も、あと二日で終わる。
これ以上のことは、起きようがないではないか。
それに。
戦闘があれば、あの兵が生き残る保障はどこにもない。これがあの兵の小さな思い出となるのなら。
構わないではないか。

そう思って、ふと気付いた。
同じことは、私にもあてはまるのだ。
私も同じく、保証を欠いている。
私も次の戦闘で土に還るかもしれぬ身ではないか。
そう思うと、どこか乾いた可笑しさが湧いてきた。

私が死んだら、何が残るだろうか。

私はあの兵士があの婦人に開いてみせたほどに、他人に心を開いたこともなければ、何かを伝えようと思ったこともない。
ただ、いくつか、詩を書いただけだ。
胸をつきあげ、破りそうになる猛々しい想いを、荒い韻律にのせて。
咽喉を駆け上がってくる叫びや悲鳴を、ペンにのせて。
書きあがった詩は、羊皮紙に清書して筒状に巻き、しきたりどおり、帝都の公会堂の状差しに突っ込んでおいた。
発表の手段を持たない、無名の詩人達が詩を公開したいときには、そうするのが昔からのしきたりだった。
あとは、詩の力による。
人々に愛され、いつのまにか口ずさまれるようになる詩も中にはあるが、たいていの詩はそのまま忘れ去られてしまうのが通常だった。

私も、詩人としての名声を求めたわけではない。
ましてや、詩で収入などを求めてのことではなかった。
ただ。
誰かに、知ってほしかった。

誰が、何を、などという言葉は、報告書の言葉だ。血の通わない、事実を記載するのに使う言葉だ。
何が悲しいのか、ではなく、どう悲しいのか、を説明するのが詩の言葉だ。
詩の言葉自体は、誰にでも扱える。ただ、生まれつきの天分という濾過装置を備えた詩人の詩は美しく、備えていない詩人の詩は美しくない。
それだけのことだ。

私は何も考えなかった。私の詩が美しいのか、美しくないのか。人の胸を打つ何かがあるのか、それとも単なる言葉の羅列にすぎないのか。そんなことには一切興味はなかった。
ただ。
黙っていたのでは、くず折れてしまいそうになったから。
重すぎて、持て余している想いを、ただ詠っただけだった。

だから。
私の詩が帝都で評判を取ったことは、私にとっても意外なことだった。
あまりにも整然としすぎた文字と、それに似合わぬ激しい内容は、様々な憶測を呼んだ。
作者は不明、ただ乱雑にラファエル、とだけ無造作な署名があったそうだ、帝都の文化人と称する連中はそう噂しあっていた。
なんて不思議な、と。
私としては、迷惑な話だった。
詩以外の要素で詩を評価など、しないで欲しい。それが本音のところだった。

だから。
私はその一度以降、帝都で詩を発表しようとはしなかった。
書き溜めたいくつかの詩は、ただの羊皮紙のような顔をして、私の私物のなかにまぎれている。

私がもし戦死したら、あの羊皮紙はどうなるだろう。
いっそ私と一緒に滅んでしまうのもいい、この世に生きていた痕跡を一つも残さず消える、それもいっそ、私らしい。
悪くはないではないか。
私の片頬に浮かんだ笑みは、自嘲に近かったのかもしれなかった。
なぜなら、そのほんの数刻後には、私は全く違う想いにかられていたのだから。

いつもの少年がやってきたのは、定刻どおりだった。
違ったのは、その後だった。
最初は、いつものように私のベッドの毛布を直したり、机の上を水ぶきしたりと、かいがいしく働いていたのだが、どこか近いところ、おそらくは噴水のあるあの広場のあたりで、角笛が鳴ると、急に態度が変わった。
そのあとは、掃除、というより埃の移動だった。心ここにあらず、といった風情で、お辞儀もそこそこに階段を駆け下りる小さな足音が消えてすぐ、彼の姿は私の窓の下、噴水のある広場に現れた。
何をするのだろう、と、見るともなく見ていると、その子は手荷物を入れてあるらしいずた袋から、帝国銅貨を数枚取り出すと、角笛を吹いていた中年の男に手渡し、噴水の脇にぺたりと腰をおろした。
中年の男は角笛を吹きやめると、何事か彼と話し、背負っていた籠から筒状に巻かれた羊皮紙を取り出すと、大声で読み始めた。
何を読んでいるのか、はっきりとは聞き取れない。
だが、語の区切れごとに息をつぐ男の様子をみていると、男が読み上げているのは、どうやら詩のようだった。

不似合いなことだ。私は小さくため息をついた。
田舎芝居のような、大げさな声のまわしかた。安っぽい抑揚。
泥臭い演出じみた音読は、間違いなく詩の価値を数割は損ねているに違いなかった。

例の少年は、しばらく黙って男の音読を聞いていた。
だが、しばらくすると。
少年は自分のシャツの裾を強く握り締め、次の瞬間、こぶしのままで強く両目をこすった。
あの子は泣いた。
詩の朗読を聞いて、泣いていた。

その日の夕食をともにしながら、私は村長からだいたいの話を聞き取った。
村には字を読める者は村長程度しかいないこと、それでも読むことはあまり得意ではないので、せいぜいどうしても読まなくてはならない公式文書を、四苦八苦して読む程度が関の山であること。
あの男は読み屋と呼ばれている職業で、角笛を鳴らして読んで欲しい物のある人を呼び集める。
それは、遠く離れた土地に住む親戚からの手紙であることもあり、男の持っている物語か何かであることもある。

あの子が読んで貰っていたのは、という私の問いに、村長は即答した。
詩です。
このところ都で大評判だとかいう、そう、たしか、ラフル、とかいう。
ラファエル、そう私は言いなおしていた。
ああ、そうです、それそれ、その、ラフ、ええと、と口ごもる村長に、私は気にするな、と少し微笑んでみせた。
どうでもいいことだから、と。

翌日、というよりも、この村を出立する前の夕刻、私は初めてあの子を待っていた。
掃除などは、どうでもよかった。
部屋をノックして入ってきた少年に、私はいきなり尋ねた。
好きか。
あまりの唐突さに、目を丸くした少年に、私は言葉を重ねた。
ラファエルのことだ。
今度は納得したらしく、少年が二度、三度と大きくうなづいた。

荒い詩だろう。生きる苦しみの詩ばかりだ。
そう言った私に、少年は違います、と即答した。
苦しさが池だとすると、潜って、潜って、一番底まで潜って、その底から綺麗な水晶みたいな、力を拾ってくる、そういう詩です。
力?
問い返した私に、はい、力です。そう少年は答えた。前に向かって、一歩だけ踏み出せるくらいの、力です。

嬉しい批評だった。
私が貰った中で、一番嬉しい批評だった。

私の想い、誰にもどうせ判ってもらえなどしない、そう想っていた私の想いが。
こんなところで。
こんな風に。
伝わっている。
他人に理解されること。
なんて小さく、くだらないことだろう。
それが、こうも嬉しく、こうも幸せとは。
乾杯、ありとあらゆる、小さくてくだらないことに、乾杯。

私は、とっさに椅子を引いていた。
少年の肩をおさえ、無理やりに腰掛けさせる。
怯えたような表情が顔じゅうに広がったが、私は構いはしなかった。
「読み方を教えてやる」
言いながら、新しい羊皮紙を広げる。羽ペンをインク壷につけ、少年の脇から、私は一つ
づつ文字を書いた。
「帝国文字は全部で32。それぞれ表音文字だ。つまり、この字はこう読む、それを32
とおり覚えれば、あとは組み合わせだけだ。
これで、どんな詩でも一人で読める」
この子には、私の詩を直接読んで貰いたかった。
あのような、無神経な読み屋など介さずに、私の想いを、直接受け取って欲しかった。
それは、一度も味わったことの無い、飢えに似た衝動だった。
「部隊は明日の朝には発つ。教えられるのは今夜だけだ」
少年が、一度大きくうなづいた。表情からは、怯えはぬぐったように消えていた。

あらぬ誤解などうけては、業腹が煮える。
私は鎧に篭手、という正規の軍装を整えていた。
窓は大きく開け放たれている。
白と銀で統一された軍装は、蝋燭の光に鮮やかに照り映えていた。
扉も同じく、ぎりぎりまで開いた上に、風程度でしまってしまうことのないように、戦闘
用の大剣で重しがわりに止めてある。
これで、私の、というよりも、私とこの子の名誉は守られた、そう私は思った。

私達は一晩中、文字を読んだ。
生徒の覚えは速かった。
どの文字をどう発音するか。
一通り覚えてしまうまでに、月は中空を完璧に横切り果てていた。
三文字程度の単語が読めるようになるころには、月は西に傾いていた。
そして、これでいいだろうと思える程度に、簡単な文章が読めるようになるころにには、
東の空には明けの明星が姿を見せる時間になっていた。

ここまでだ。
私は終わりを告げ、ゆっくりと立ち上がった。
朝の光が、私の鎧をうす赤く染め上げていた。
私はそのまま部屋を突っ切って、私物の中から羊皮紙の筒を取り出すと、少年の手におしつけた。
もう、読めるだろう。
好奇心にかられたのか、筒を開けかけて、少年が小さく叫びをあげた。
詩の一番上の行には、私の筆名が書かれている。
ラファエル、と。
新作だ。そう私は言い、開け放たれたままの扉をちらりと見やった。
帰れ。出立までに少し眠らねばならん。
少年は、弾かれたようにたちあがった。一度だけじっと私を見つめ、ぴょこんと礼だけをすると、部屋を飛び出すように走り去った。
私は軍装のまま、ベッドに倒れこむように横になった。
小さな足音がだんだん遠く、小さくなるのが聞こえた。
満足のような、さびしいような、奇妙な気持がした。

それでも、ほんの数時間は眠ったろうか。
出立の十五分前には、私は完全に用意を整えていた。
村長へのあいさつも、手当金の処理も、完全に終わっている。
あとは、ここを立ち去るだけだった。

それが。
あの小さな足音が、階段をかけあがってくる。
止めようとした衛兵とのあいだ、小さな押し問答をききつけて、アルヴィーゼが廊下に出た。部屋に戻ってきたとき、かたわらには、あの少年の姿があった。
どうした。
そう問いかけた私に、少年は大事そうに手に持っていた、小さな何かを差し出した。
これを、貴方に。
私は差し出されたそれを、両手にうけた。

木でつくられた粗末な箱には、それでも小さなハンドルがついている。
蓋をあけ、ハンドルをまわせば音の鳴る、内乱前には随分流行った工芸品だった。あるのは知っていても、私も軍に入ってからは全くお目にかかっていない。
軍務には、それほどのゆとりも潤いもない、というのも一つの理由ではあったのだが。
私の掌に乗せられたのは、握りつぶせば壊れてしまいそうな、小さなオルゴールだった。
内乱が起きてからは、ことに貴重品のはずだ。

受け取っていいのかどうか、正直、私はしばらく迷っていた。
アルヴィーゼの助言がなければ、もっと長い間、私は迷っていただろう。
突っ返したりするなよ、アルヴィーゼはそう言った。
物には気持ちがのってるんだ。物を突っ返せば、気持ちにもかすり傷がつくんだぜ。

ありがとう。大切にする。
私にできた返事は、それだけだった。
私は数歩、少年に近づくとそっと手を伸ばし、少年の頭を撫でた。
小麦色の髪は、陽光をたっぷり受けた小麦の匂いがした。
僕、リルっていいます。
少年が不意に言った。
ああ、そうだ。私は急に笑い出したくなった。
私は今までこの子の名さえ聞かなかった。
クラウディウスだ。
私はもう一度少年の頭をなでた。癖のある髪が、ほんの少し指にからんだ。
あの、隊長、言いかけたリルを私は遮った。
クラウディウス、でいい。
それじゃ、ええと、リルは少し口ごもって、続けた。
あの、クラウディウス。
私はかすかな微笑で、言葉の先をうながした。
呼び捨て、とは思わぬでもなかった。
とはいえ、クラウディウス様、だの、クラウディウス公子だの、という宮廷風の呼び方よりも、ただの呼び捨てのほうがリルには、リルと私には、ずっとふさわしい。
素直に、そう思えた。

僕、騎士になります。大きくなったら。

止めておけ。

リルがびっくりしたように、顔をあげた。

騎士がどんな仕事だか知っているか。

リルは、あいかわらずきょとんと私を見上げている。
ああ、やはりそうだ。
私は言葉を続けた。なるべく、穏やかに。微笑を浮かべてみせた口許が、苦い自嘲の形に崩れないように、細心の注意を払いながら。
そして、私の声が響きの悪いかすれ声であることをはじめて、心底感謝した。
私の声は通らない。この距離ならば、小声で話せばアルヴィーゼにも聞こえはしない。

騎士とは、人を殺す仕事のことだ。

リルの体が、瞬間に強くこわばった。

これで、お別れだ。
リルの頭から手を離すと、私は戸口に向かった。もう、振り返りはしなかった。
広場には、私の部隊が整列していた。
白と銀の軍装の、整然と隊伍を組んだ私の部隊の姿は、大きな鳥の影を思わせた。
私は鳥の影の先頭に立つ。
アルヴィーゼが、出立の号令をかけ、部隊は動き始める。

休暇は、終わったのだ。

休暇は終わったが、リルのオルゴールは依然として私の手元にある。
良く聞くメロディーではあるが、曲に名前はついていない。
ただ、曲の形式から、カノン、とだけよばれている曲だった。
カノンとは、輪唱、つまり誰かが演奏したのと全く同じメロディーラインを、数小節追いかけて演奏する、いわば追いかけっこのような音楽をいう。
ところが、このオルゴールは、職人の腕が未熟だったのか、記録されているのはメロディーライン一つだけだ。
追いかけていく、副旋律が打ち込まれていない。
カノン、の名をもちながら、カノンになっていない主旋律が、相手を待ちわびるようにただ繰り返されていく。

どうにも、落ち着きがわるくて。
私は、ときおりオルゴールの旋律に副旋律を添える。
リュートのあるときは、リュートで。
その辺に柳でもあれば、柳の若枝で即興に作った枝笛で。
何もないときは、小さく口ずさむこともある。

もともと、どこか浮遊感のある、不思議な旋律だった。
だから、この旋律に誘われて、普通でない物思いをしたとて、許されるだろう。
私は勝手に、そう理由をつけている。
そして、思いだす。
私の生きて来た痕跡を、ほんの少し受け取ったリルのことを。
リルから誰かへ。その誰から、また誰かへ。
私の生のかけらは、受け取られていくのだろうか、と。
旋律を伝え続けるカノンの列に、私も入ることができたのだろうか、と。




クラウディウスの物語:カノン END.

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