クラウディウスの物語:1.5章幕間 タランテラ
【タランテラ】
毒蜘蛛にさされ苦しみもだえる人間の様子をもとに作られた舞曲。
一説には、タランテラの毒により狂ったように踊り続ける犠牲者の様を表したものとも言われている――
彼は寝台に横たえられていた。
ほんの数時間前に私にあてがわれたばかりの部屋には、過度な装飾などは一切ない。
清潔だ。
だが、結局はそれだけだ。
その素っ気無さは、かえって私の興をかきたてた。
いいではないか、ほんの数時間前には、私はそう思っていた。
冷静に考えれば、少しもいいことなどはない。野営のあと一つ残さず姿を消した部下達は、一体どうしたのか。船頭はどこにいるのか。
それよりも、新帝陛下をお探し申し上げる、という私の使命は。
そうは思うのだが。
いいではないか。
心のどこかが、そうささやいた。
いいではないか、こんな暮らしも。
馬鹿な。私はどうかしている。
無理やりに自分の心に命じ、私は外に出たのだが。
まさか。
こんなところに、こんなお姿で。
一体貴方は、何を求められたのです。
何を望み、何を求めて、こんな粗末な筏を組んで、こんな荒海に乗り出したのです。
しかも、たった一人で。
無茶だとは、思わなかったのですか。
貴方ご自身が、どれほど大切な方かも、思い至らなかったのですか。
貴方には、代わりはいないのです。
貴方のために流され、ランドニクスの大地に滴った大量の鮮血にかけても、貴方は国をまとめ、率いていかねばなりません。
貴方には、自由などはないのです。
貴方は、帝位を求められた時点で、自由を捨てられたのです。
貴方に対する敬意も、貴方に捧げられる豪奢も富貴も、すべて貴方の自由の代償です。
ご自身の義務を思いなさい。
流した血に対する義務を。来るべき世界に対する義務を。
なんと軽薄なお振る舞い、何たる情けないお姿。
それしきの覚悟もなく、なぜ帝位を求める争いに加わられたのです。
愚かな、あまりにも愚かで小さな私の陛下、私は貴方に忘れさせてなど差し上げません。
貴方のなしたことの大きさ、目をおおうばかりのむごたらしさ、貴方が選び取られた地獄を、私は常に貴方の目の前にさらして差し上げる。
貴方の名の下に戦い、貴方の名の下に流さずにすむ血を流してきた私の、それがたった一つできる、死者たちへの弔いなのですから。
何度そう語りかけたか、もう数える気も失せた。
それでも、陛下は眠ったまま、身じろぎもしない。
私の言葉が、陛下には届いていないことくらい私にも判っていた。それでも、言わずにはいられない言葉達だったのだ。
眠ったままの陛下の寝台の足元に、剣を抱くようにして座り込むようになってから、もう二日がたつ。
陛下の肌は太陽に焼かれて、無残なほどの火ぶくれになっている。
海から引き上げたとき、もうだめかもしれない、そんな思いが頭をかすめた。
だが、同時に
貴方を死なせてなどやるものですか。
呪いに近い思いが、全身を駆け巡った。
ありがたいことに、私は戦場で負傷者を看護できる程度の医療の心得はあった。
服、というよりは体にからみついている襤褸布、といった方が正確なくらいのシャツを短剣で切り裂き、わずかな腰布をまとうだけの姿にした陛下の肌に、水で冷やした布をあてる。
長時間、低い温度でそれでもずっと焼かれ続けた皮膚の炎症はなかなかひかなかった。
布が生暖かくなれば、すぐに変える。
冷たすぎず、かといって、暖かくもない。体温よりほんの一、二度低いだけの布を、ただれた肌に私はずっと当て続けた。
肌の異様な熱さが取れるまで、ほぼ二日かかった。
二日のあいだ、私もほとんど眠ってはいない。
陛下の吐息が、小さく乱れた。それはまるで切なげな小さなため息のように思えた。
目覚められたのか。
「陛下」
声はかけたが、やはり返事はない。
眠っておいでだ、と言えればいいのだが。
意識を失っている、そうとしか言い表すことはできない。
「陛下」
明らかな、脱水症状だった。
かさかさに乾いた皮膚や、依然として下がらない体温がなによりの証拠だった。
「陛下」
私の声には、明らかなあせりが見えているのが自分でもわかった。
今が、生死の境なのかもしれない。
「水を、陛下」
水をお取りください、陛下。どうか。
水を含ませた綿を、唇にあてる。
反応はない。
唇の合わせ目をほんの少し伝わった水滴が、そのまま頬を伝って流れ落ちる。
強引に口に注ぎ込んだとしても、このままでは、むせさせてしまうのが関の山だ。
「陛下」
もう一度呼んだ。それでも、陛下の表情には何の変化もない。
このまま、貴方を死なせてなどさしあげません。
何をしてでも。
私は、水差しの水を大きく一口、口に含んだ。
ためらいはしなかった。そのまま、いっそ無造作とさえいえるような態度で、陛下の顎に手を触れた。
私の片手ですっぽりと納まってしまうような、小さな、肉の薄い、とがった顎だった。
そのまま、私は横たわったままの陛下の体の上にかがみこむように顔を近づけた。
そして。
唇。
私はあえて何も感じまい、とした。太陽にいたぶられて、かさついた唇はそれでも昔、子供のころにほんの少し口に放り込んだことのある綿菓子のように、柔らかく、荒っぽく扱えば壊れてしまいそうな感触がした。
私の唇をこすり合わせるようにして、そっと。
できるかぎり、そっと。
陛下の唇を開かせる。
滑らかなものが、私の歯列に触れた。それが舌であることは、すぐにわかった。
私は自分の舌で陛下の舌を抑えた。最初は舌先だけを、少しづつ、奥を。
今にも止まってしまいそうな陛下の息が、小さな空気の揺れとなって私の髪を一筋揺らした。
深いところまで舌を重ねる。
優しく、だが、がっしりと押さえつけながら、その舌の上を転がすように、私は口に含んだ水を送り込んだ。
慎重に。
ほんのわずかだけ。
飲め。飲んでくれ。
頼む。
陛下の後頭部を支えている手が、陛下の小さな動きを感じ取った。
今にも折れてしまいそうな細い咽喉が、かすかに震えていた。
そして。それと同時に。
水が、陛下の口内から消えた。
私はもう一度陛下の咽喉に水を注ぎ込んだ。
同じように、だが、今度はもう少し多めに。
今度ははっきりと、咽喉が震えた。
もっと。もっとだ。
口を水で満たす。
咽喉の鳴る音が聞こえた。今度は、はっきりと水を求めている。生死の間をさまよっていた陛下の肉体が、今は、はっきりと生きる方を選び取り、自分から水を求めている。
もう、大丈夫だった。
唇にあてがった綿を、陛下の唇がむさぼるように吸いたてる。
もう一度、綿を水に浸す。
待ちかねたように、唇が動く。
水差しが空になったのは、夜明けにはまだ間のあるころだった。
それと前後するように、熱が引きはじめた。
陛下に水を差し上げただけだ。なんらやましいことなどはない。
この夜のことを人に問われたら、私はそう答えるだろう。
もとより、隠微な思いなどは全くなかった。
だが。
私は知っている。
陛下の唇に触れた瞬間、一人の少年の面影がはっきりと私の脳裏をよぎった。
リル。私のカノン。
村長にどんな因果をふくめられたのか。私とアルヴィーゼに、どんな接待をせよといいつかってきたか、気づかぬわけではなかった。
リル。
私はあえて尋ねなかった。
おまえはそういう仕事の者なのか、とは。もうすでに、知るべきことを知ってしまっているのか、とは。
リルは私にとってのリル、私のカノンであってくれさえすれば、それでよかったはずなのに。
どうして、こんな時に。
陛下と唇を触れ合わせながら、こんな風にリルのことを思い出し、しかも。
しかも。
今現在、リルの唇を味わっている誰かがいるのだろうか、と想像し、その誰とも知らぬ相手を私の剣で一刀両断してしまいたいと思うほど、激しい憎しみを感じたりするのだろうか。
わからないことだらけだった。
全てが混沌として、あるべきではないことばかり起きる。
少し眠ろう、私はそう思った。
私の肉体も、間違いなくそれを望んでいた。軽く目を閉じて、私は初めて自分が限界に近いほど疲れていたことを知った。
それが、私が初めてこの島で眠った夜だった。
そして見たのだ。
鳥の夢を。
クラウディウスの物語:1.5章幕間 タランテラ END.