PBeM《ciel RASEN》 - 2005 : 書架

ヴァレリの物語 回想

 女が手を振ると、見送る一団は手を叩いたり口笛を吹いたりして答えた。
「またな」
 誰かが叫んだので、女は適当に答えた。
「その内ね」
 本当は、もう会うこともないだろうと思っていた。彼らは愉快で気の良い連中ではあったが、やる事は悪辣だった。女の方も傍から見れば負けず劣らず悪辣だったが、彼らには信念や主義主張がなく、その点が自分とは違うと女は思っていた。
 大体、彼らの享楽性、暴力性は外に向いている分には楽しいが、此方に向かないよう気を遣って過ごすのも面倒なものだ。本心を言えば、それこそが一人に戻った最大の理由だった。
 女は数ヶ月を過ごした根城から遠く離れ、見知らぬ街を目指した。

 二つの通りが交差する庁舎前はちょっとした広場のようになっていて、それなりの活況を呈していた。人が行き交い、馬が嘶き、雑多な人間の織り成す雑多な喧騒が聞こえる。嫌いでない雑音だった。
 視界の片隅におかしなものを見かけて、女は足を止めた。一段高い位置に入り口のある、煉瓦造りの建物がある。その偉そうな建物の、文字通り御高くとまった入り口には、ご丁寧にそこへ至る為の石段が用意されていた。その石段に、我が物顔で腰掛けている絵描きがいる。なぜ絵描きと決め付けているのかと言うと、その男の前にキャンバスらしきものが立ててあって、男が棒状のものでそれを突いていたからだ。
 深く思案するでもなく、女はふらふらと絵描きに近付いた。何の束縛もなく遠慮もいらない流れ者は、こういう時に気楽で良い。思ったままに行動できる。だからこそ、僅かでも興味があるなら、接近するのは当然と女は考えていた。
 男は、近付く人影に気付き、顔をあげて、すぐ戻した。
 女は気分を害した。考えても見れば、男は建物の入り口に居座っており、そこは人の往来の激しい場所で、いちいち通行人を気にかけるような精神状態ではないのかも知れない。より正確に言えば、この男は周囲を気にしない身勝手な男なのだ。だからと言って、自分を無視して良い正当な理由になるだろうか。なるはずがなかった。女は口を開いた。
「ちょっと」
「え?」
 男はきょとんとして女を見上げた。無警戒で、それ以外何も読み取れない、真っ白な表情だった。女の語彙で表現すると、それは間抜け面だった。
「何してんの」女は言って、それから相手の非常識さを強調すべく、付け足した。「こんなとこで」
「絵を描いてる」
「見れば分かる」
 男は肩をすくめて、キャンバスに向き直った。女は怒りを覚えた。
「ちょっと」
「なんだよ」
「あんた喧嘩売ってんの」
「悪いけど、こっちのセリフだよ」
 そんな訳で、互いの第一印象は最悪だった。それから日暮れ近くまで喚き合って、両者はようやく、まともな会話をする間柄になれた。
「よく文句言われないね」女は建物の中に親指を向けた。「ここの連中に」
「最近はね。初めは大変だった。おお、人の慣れよ、寛容の偉大さよ」
 当たり前だろう、と女は呆れた。「何でこんなトコで描くの」
 男は首を巡らせて、それから傾げて見せた。「他に座れるところ、ないじゃないか」
「なるほど」呆れ果てて、他に言葉が出なかった。
 女の方が黙ると、男はキャンバスつつきを再開するので、しばらく女の方から断続的に話しかけていたが、それも徐々に途切れて、女も黙って風景を眺め、キャンバスを眺め、それを何度か繰り返した。座りたいからここに居るというのは、恐らくこのおかしな男なりの冗談で、この位置、この角度に固執しているのだろう、と女は漠然と思った。それから、不意に女が言った。
「あんた何描いてるの」
「え?」
「そんなのないじゃないか」
 男の描く風景には、異物が混じっていた。広場のようになっている庁舎前の通りが、男の絵では本当に広場そのものになっている。中央部に、何か奇怪な物体が鎮座しているのだ。それは夕日を浴びて、古代の英雄のように超然と佇んでいた。ただし、人間の姿ではない。動物でもない。意味不明の物体だった。
「彫像だよ」
 男が答えたが、意味が分からないので女は黙っていた。すると、男が付け足した。
「ある方が良いだろ。オブジェ。だから、絵に書いて見せるんだ」
「誰に」
 男は、筆で庁舎を指した。
「ふうん」
 女は自分で尋ねたくせに、面白くなさそうに頷いた。来た時と同じように、ふらりと唐突にその場を去って、近くのパン屋へ行き、朝焼かれてすっかり冷えたパンを持って戻ると、半分を男に投げつけて、また去った。そのまま戻らなかった。

 翌日、女が昨日と同じ場所へ行くと、同じ男が同じ事をしていた。女は同じように寄って行って、同じようにかみ合わない会話をした。それから同じようにパン屋へ行き、パンを半分投げつけて去った。朝だったので、パンはまだ温かくて美味かった。次の日も、その次の日も同じ。

 十日目に男の薄暗い住処を訪れ、十一日目の朝を同じ部屋で迎えて、男の素性は概ね知れた。要するに売れない芸術家志望者で、それ以上のことは何一つなかった。当然の如く、女が抱いた当初の興味はすっかり失せたが、それとは別の感覚に支配されて、女はそのつまらない男のつまらない部屋へ、出入りを重ねた。
 男は自らの審美感に基づき、庁舎前に彫刻の必要性を確信し、その感性の正しさと将来を賭して、それを庁舎の中の連中に訴えたがっていた。男に定職はなく、ごく稀に絵を売り、断続的に望まぬ労働をこなしては、その対価を食い潰して日々を繋いでいた。

 ある晴れた日、どういう訳か、売れない芸術家の主張が通った。彼は例の彫刻を建立する許可を得たのだ。男は喜んだが、翌日、途方に暮れた。予算が下りない。
 役所が与えた許可は、掻い摘んで言えば、通行の妨げにならず、美観を損ねないものであれば、作りたいのを止めはしない、という極めて合理的で積極性の欠片もない内容だった。
 女は呆れて、笑ったり罵ったりした。男の事も、役所の事も。
 ところが、男はそれでも、自費で実行すると言い出した。
「素寒貧のくせに」女はまた笑い、罵った。
「それでもやる」
「どうやって」
「働くしかないだろ。何年でも。金を貯める。そして、やるんだ」
「いつになるやら。役所の名前が変わっちまうよ」
 政情不安の事を女は言った。
「そしたら」男は呻いた。「また絵を見せる」
 女は男を罵倒した。説得しているという自覚はなかったので、何がしたいのか自分でも良く分からなかった。
奇妙な事に、そもそも女が最も惹かれたのは、絵を書いている男の姿で、彫刻そのものには大した興味がなかった。彫刻の為の労働に縛られて、男が二度と絵を描かないような生活をする事に、女は腹を立てていた。この段階で、二人の意識は絶望的なまでにすれ違っているのだが、考えが噛み合わないのは最初からであり、いつもの事でもあったので、二人ともその点は問題にしていなかった。
 一頻り女の罵声を聞いて、男がドアに手をかけて笑った。「愛想が尽きたか?」
 女はそっぽを向いて、椅子に座った。それがその時の女にできた、最大級の愛情表現だった。

 やがて男がまた望まぬ職に就き、絵を描かなくなると、女は酷く不愉快になった。二人は疎遠になり、女は幾分か後悔した。それで、善意を形にしようと、行動を起こした。

 女の方は金に困っていなかった。常に金は何処かにあり、ある所から持ってくるからだ。
 下調べを終えた屋敷に忍び寄ると、女は慣れた手付きで勝手口を開けて中に入った。想定通り、厨房は無人。
 女は泥棒だった。数年来の泥棒で、ほとんど疑いも抱いていない。女は金が好きではなかった。パンも服も、価値あるものだが、金は交換にしか使えない、まやかしだ。無価値なものを一方が押し付けるその交換は不公平なものであり、購入とはまやかしを使った詐術だ。本当にそう思っていたので、女のショッピングはいつも本能の赴くままだった。男への投資も似たようなものだ。野放図に流れる支出を支えるためには、それに見合う収入源が必要だ。だから、この家のご夫人の小物入れを漁る。
 だからと言って、盗みが正当化されるだろうか。勿論、されるに決まっている。女は、部屋の壁に掛けられた絨毯を見つめた。窓からの月明かりに照らされて、何やら神秘的に見える。この南の方の絨毯を作るのに、どれだけの月日を費やしたのだろう。ここまで運ぶのに、どれだけの血と汗が流れただろう。それを、この家の主は、搾取した富で、詐取したのだ。この家の富を外に持ち出し、市場で交換するという事は、この家に詐取された豊かさを庶民に返すことに他ならない。不当に巻き上げられ、止められた富の堰を切る。経済の河に潤いを齎すのだ。使い道はなんでも良い。飲もうが食おうが貢ごうが、やりたいようにやれば良いのだ。
 当時、女は自身の行いに、ほとんど一点の曇りも感じていなかった。

 だが、女はそれから、少しばかり悩む事になった。戦利品を換金し、形を持った生活の糧にしたところで、男はそれを与えられて、嬉々として受け取るだろうか。男が固辞するであろう事は、容易に想像されたので、女は男の狭い部屋に転がり込んで帰らないことで、この問題を解決した。生活を共にしてしまえば、なし崩しに養う事ができる。
 男はそれからも、しばらく労働を続けたが、女から、彫像の為の軍資金を渡されると、複雑な表情で労働から手を引き、やがて、それでも嬉しそうに彫刻に取り掛かった。女はこのためにかなり主義を曲げたが、満足だった。

 作業の進みは遅々としたものだった。置くべき場所で彫るのか、別の場所で彫るのかを決めるだけで、一月以上が経過した。最終的に、彫るべき石が彫るべき場所に到着するまでに、更に数ヶ月を数えた。それでも男は楽しそうだったので、女も満足だった。

 女が思っているほど男の方も愚か者ではなかったので、ある日、口に出して尋ねたことがある。
「やばい、家賃」
「払っといた」
「なんで」男はしばらく黙り、言葉を選んだ。「そんなにしてくれるんだ」
 女は理由を考えた。恥らっている演技をしながら時間を稼ぐ。嘘ばかりでもないので、真実味を帯びた演技であって、信憑性があった。やがて言った。
「ふん。何のぼせてんのさ。大した額じゃないから適当にやってるだけだよ」
「そうか」
 男は口ごもった。納得しているようではなかったので、女はまたしばらく考えて、補足した。
「ああ、もう。うちの実家、高利貸しなんだよ。だから浴びるほどあんの。あんた見てるとみみっちくてバカバカしくなってくるからさ」
 よりにもよって、どうして一番軽蔑する職種を口にしたのか、女は自分の神経を疑った。
「別に、あんたにだって貸してるだけだからね。その内返してもらうよ。成功するんだろ」
 女は笑って言い添えた。なるほど、このセリフに繋げたかったから高利貸しなんて言ったのか、と自分で納得した。
「ああ」男も弱々しく微笑んだ。
 それから、男は二度と金について尋ねなくなった。女は少し不安だったが、それでも安堵した。

 夏の終わり、嵐の日が続く最中、女は突然に嘔吐した。むかつきを覚え、毎日が不快でならず、しかし嵐で外に出られないので、そんな気分のまま男と一緒に居続けなければならない不運を呪った。不快感を幸福感が押し流したのは、丁度、嵐が過ぎ去ろうという頃だった。
 数日振りに作業に出かけようという男を、戸口で女が呼び止めた。
「なに?」
 女は男の片手を取って、自分の腹に当てた。男の手のひらには何も感じられなかったが、仕草で意味を理解した。
「う」男は一拍置いた。「本当に?」
 女は頷いた。少し不安になった。嘘だろ、と言いそうになって、言い直したように見えた。
「よし。どっちが先か競争だ。俺の方が先に仕上げるからな」
 男は自分の彫刻のことを言っていた。男が笑ったので、女も笑った。

 男の彫像が大まかな形を持ち始めた頃、女は身篭った。
 女の頭の片隅で、理性が警笛を鳴らしていた。矛盾している。やっている事が矛盾している。これまでの人生の原則に反している。ルール違反だ。こんな事を続けていれば破滅する。しかし、警告の声は言いようのない幸福感にかき消されて、実効性を持たなかった。
 女は気合を入れて、二、三、大きめの盗みを働き、当面の生活に目処を立てた。
 それからの数ヶ月は、女にとって至高の日々だった。
「ああ、分かるくらいに膨らんできたな」
 女の差し入れを受け取りながら、男が言うと、女は俯いた。
「え。そうかな。まだそうでもないんじゃない」
「そんなに締め付けるなよ、緩めろって」
 男がベルトに手を伸ばしてきたので、女は身をよじった。
「やめろよ、ちょっと」
 昼日中から、恥ずかしげもなくじゃれ合って日々を過ごした。

 足が付かないように、注意は払っているつもりだった。ただ、迂闊な点があったとすれば、地元の連中の縄張りにあまり配慮しなかった事だ。いつも、そう長くは滞在しないので、気が回らなくなっていたのは否定できない。寄合に挨拶もしていない以上、度重なる犯行は、彼らに宣戦布告しているようなものだった。そちらの方から手が回ってしまったのかも知れない。まだ誰も彼女を特定している様子はなかったが、されてからでは遅い。
 官憲の蠢動に気付いた時、女は既に、文字通りの身重だった。俊敏な動きなど望むべくもなし、一人歩きは誰の目にも危険に見えるような有様だったが、それでも女は一人で住処を離れた。男には一言の挨拶もしなかった。
 金の出所が明らかになれば、男の彫像と将来とが、永遠に台無しになる事は目に見えていた。女としては、人知れず姿を消す以外に選択肢が見当たらなかった。

 女は重い腹を引きずるようにして、旅路に戻り、四つめの町で破水し、膝を突いて、路面に倒れた。
 気が付くと、小奇麗な部屋の寝台に寝かされ、傍には召使が一人と、ご丁寧に産婆と医者が居た。女は大層な主義主張とは裏腹に、盗品で着飾っていたので、それが幸いして、身分のある人間のように誤解されたのだろうと自分で考えた。何でも良いと女は思った。とりあえず、窮地を脱する事ができるなら、何でも良かった。

 女は町の資産家に拾われ、客間を宛がわれて看病を受けた。やがて子供が生まれた。
 少しばかり早産だったものの、健康だった。ところが奇妙な事に、回想する今、女はその子の性別を思い出せない。いや、初めから聞いていなかったのかも知れない。そんな事ってあり得るだろうか。この手に抱いた筈なのに。とにかく、思い出せない。正確に表現すれば、男子だったと思えば男子だった気がするし、女子だったと思えば女子だと思っていたような気にもなる。
 当時、女は満身創痍だった上、別のことに気を取られていて、記憶が曖昧だったのだろう、と自分で結論せざるを得ない。女の気持ちは、置いてきた男の状況を案じるばかりだった。不味い事になっていないだろうか。あの男には何も罪は無い。留まってそれを明確に主張したほうがマシだったのではないだろうか。なんだそれは、自殺行為じゃないか。馬鹿馬鹿しい。では、行き倒れたこれは自殺行為ではなかったのか。頭の中で、うるさい何かが延々と議論を続けていた。

 初産を終えたその晩、転寝と目覚めを繰り返すようにしながら考え続けた末に、女は決心した。一度戻ろう。彼のところへ戻るべきだ。そしてきちんと別れを告げよう。全て話す必要などない。ただ、はっきりさせておくべきだ。あの生真面目な男が、いつまでも待ち続けていたり、探していたらどうする。こんなに寝覚めの悪い話は無い。幸い、この家のお人よしな人々は自分を信用しているらしいし、子供を預かってもらって、二日ほど留守にしても問題ないだろう。夜に訪れて、未明に去れば、見つかるようなヘマはしない。そうしよう。体調が回復し次第、そうしよう・・・

 目が覚めると、敵対的な制服を身に纏った若者が二人、すぐそばに立っていた。女は反射的に毛布を投げつけて、寝台から転がり出たが、廊下に出たところで取り押さえられた。
「畜生、畜生っ。死ね、手を離せ、薄汚い豚めっ」
 思いつく限りの言葉で罵りながら、後ろ手に繋がれて、屋敷を引きずり出された。途中で柱に頭をぶつけて、意識が朦朧としていた。
 何かにガタガタ揺られて、その間、心地よい夢想に浸った。悪い夢から覚めたあと、男に謝って、元の部屋に戻っている。そうそう、子供を見せないと。あれ。子供がいない。何処だろう。恐怖で蒼白になりながら、手当たり次第に周囲をまさぐる。冷たい感触しか返ってこなかった。
 冷たい床の感触で目を覚ました。檻が目の前に見える。絶望が胸を浸した。なんだろう、このふざけた光景は。雑音が耳障りだった。何の音か気付くのに時間が掛かったが、気付くと何のことはない、自分の呼吸だった。女は小さく短く、奇声をあげた。それから、絶叫した。
「うるさい」
 周囲から口々にそんな声がした。
「騒ぐなっ」
 最後に看守らしき特大の声が聞こえて、辺りは静まった。女は呆然として、朝まで身動きしなかった。

 数日後、外に出された。何かの変化を期待したが、拘束されたままガタゴトと揺られる内、そんな気分は消え失せた。単なる移送だ。恐らくは、より劣悪な環境への。
 程なく、それが立証された。初めて本格的な吹雪に晒されて、女はこの世の地獄を思った。
 数日間の収監と護送で、体は冷え、揺られ、病み上がりに等しい産後の体は、かつて味わったほどのない苦痛の塊と化していた。女は身元を名乗らなかったので、後ろ盾の一切ない身元不明の犯罪者に対して、兵士は容赦しなかった。司法的な手続きが全て省かれたとは思えなかったが、女はそれを受けた覚えがなかった。昏睡している間に終わってしまったのかも知れない。そんな話ってあるだろうか。女は不当だと訴えたい気分だった。誰に? そこまで考えて、間抜けさに情けなくなった。
 こんな事になるまで、女は逮捕、収監を現実的に考えた事がなかった。そんな目に遭うのは特大の莫迦だけだと思っていた。まさかここにも特大の莫迦が居たなんて。
 男と子供に対する感情は、ほとんど憎しみに近くなっていた。だから警告したのに。愚か者め、惑わされたのだ。女は自分の不明を呪い、その原因を呪った。

 凍てついた監獄の中でも、驚くべき事に、女はやがてその環境に慣れた。おお、人の慣れよ、寛容の偉大さよ・・・
 女の感情は前よりも平坦になっていた。いちいち怒ったり笑ったり、あまり心から表現する気になれなかった。寒いのだ。心も体も寒かった。無駄な事は省きたかった。その内に、本当にあまり喜んだり怒ったりしなくなってきた。それでも、外への渇望は募るばかりだった。
 女は三種類の方法を考えて、できるだけの仕掛けを試みた。しかし、利用する好機は訪れず、月日は流れ、女自身、自分で施した準備を半ば忘れかけた。

 何故こんな所で、こんな事になっているのだろう。硬い革をなめしながら、女は黙考した。課せられた強制労働には間も無く慣れて、ほとんど何も考えなくても実行できた。
 結局、教授が逮捕された時に、何もかも終わっていたのかも知れない。あの時点でさっさと現実に向き合った連中が正しかったのだろうか。そんな筈はない。女は歯を食いしばった。蟻や蜂とは違うのだ。同じ構造の人間が、無数の同胞を組み敷いて君臨する社会、そんなものを認める連中がどうかしているのだ。どうせ諦めるなら、生きる事も諦めてしまえば良いではないか。生きたいくせに、より良くありたいくせに、だったら何故、甘んじて支配を受け入れるのか。経済も狂っている。経済は富の流転だ。富を止めれば経済は止まる。にも関わらず、人は富を蓄積したがり、蓄積した者にひれ伏してしまう。単なる代替品を至高の品と崇めてしまう。そこにあるのが矛盾でなくて何なのか。貨幣経済は人間に適していないのだ。それを失う事でどんなに不便になろうと、人を歪める機構が正当であろう筈がない。誰もがそこから目を背けているのだ。皆、狂っている。おかしいのはこいつらの方だ。作業を続けながら、不満げに周囲を見渡す女は、妥協する事のできない性質だった。
 女は刑務所内で教授の受け売りを始め、シンパを組織しだしたが、その過程で要らぬ敵をも生み出した。やがてそこから看守に活動が露見し、窃盗犯から思想犯に格上げされ、最終的に、更なる劣悪な環境へと移された。流石に後悔した。女の理論は完全からは程遠く、何より、聴衆に訴えるには若すぎた。

 より寒い雑居房の、とびきり寒いある日の夕食前、仲の悪い囚人と肩がぶつかり、女の持ったスープが零れた。元より険悪な両者は、掴み合いの喧嘩を始めそうになったが、すぐに看守が飛んできて事なきを得た。ただ、零れたスープは戻らなかった。貶められた者たちの中にあって、ただ一人温もりを与えられないという、更なる貶めを受けたその晩の冷え込みといったら、言葉にならなかった。
 唐突に、女は悲しみの波に浚われた。人生の全てが悔やまれた。知り合った全ての人間が愛おしく、惜しまれた。止め処ない滂沱に、抱いた膝と襟ぐりが濡れるほどだった。濡れたところからまた、体温が奪われていく。か細い声で嗚咽を漏らしては、膝で涙を拭った。
 実家の近所で飼われていた大型犬の手触りが思い出された。級友と朝まで語らったあの頃に戻りたかった。それから、あの男に遭いたかった。子供はどうなったのだろう。誰か親切な金持ちが引き取ってくれていないだろうか。あの家の住人とか。自分を売った家の住人だが、そんな事はどうでもいい。あの子を捨てないでおいてくれればそれで良い。そして金権支配の子として育つのだ。敵として・・・。ありそうもない展開に思いを馳せて、一人で歯噛みした。よくよく考えれば、どこかで野垂れ死にしていると思う方が遥かに自然だ。しかし、そうは考えられなかった。そんな事を想像していると、呼吸が止まってしまう。
 この状態は意に反して長く続き、彼女はすっかり感傷的な女として、囚人仲間の付き合いまで変化してしまった。女を取り巻いていた、強い女たちは軽蔑して彼女から去り、代わって彼女の周りには、繊細な女たちが展開した。
 目が覚めたのは、一人の囚人が無実の罪で脱獄を疑われ、懲罰を受けた時だ。すぐには思い出せなかったが、それは女が用意した仕掛けの一つが露見した為であり、念のために施した偽装工作のせいで、関係ない囚人が疑われ、酷い目に遭っていた。それに気付いて、女はようやく自分を取り戻した。仕掛けはまだ二つ生きている。意気消沈していた女に対する看守の警戒は減衰していた。好機が来るかも知れない。むしろ、打ちひしがれている内に、既に幾つかの好機を逃していた。愚かなことだ。これ以上過ちを重ねてどうするというのか。女の中で、長い間、傷付き蹲っていた野性が鎌首をもたげた。教授の声が聞こえる。
 自由とは何か。勝ち取るものである。屈するな。屈服した時、扉は永遠に閉ざされる。その向こうを志向せよ。生命の賛歌を、自由の凱歌を。立ち上がれ。拳を突き上げて叫べ。
「クソ喰らえっ」
 作業場の片隅で、女が突然、喉を仰け反らせて喚いたので、周囲の数名がぎょっとして振り返った。

 それから更に十数日後、待ち望んだ好機を見出して、女は準備の一つを活用して、外を目指した。失敗だった。危ういところで、予防策が功を奏して、女はまたしても危機を脱した。女の挑戦と敗北と保険のせいで、巻き込まれた囚人や尻馬に乗った者、或いは何の関係もなかった者たち数名が罰せられ、一人は死んだ。女は少し後悔したが、諦めはしなかった。

 やがて別の機会が訪れ、女は性懲りも無く挑んだ。
「あんた、本当にいいの」
 相手は無言で頷いた。着地の弾みで泥だらけになりながら、手伝ってくれた囚人に手短に別れを告げると、女は駆け出した。ここまで手伝って、自分は出なくて良いだなんて、おかしな奴もいるものだ。女は最初、相手の好意を疑った。何かの罠だろうか、と訝った。しかし、どうやらこの女は死にたがっているようだ、と気付いて、疑うのをやめた。彼女は望み通り殺されるだろうか・・・どちらにせよ、あまり気分の良い想像でもないので、考えるのをやめた。あいつのことは忘れよう。お互いの為に最良の付き合いをしただけだ。良き出会い、良き別れ、君に幸あれ、はいさようならだ。
 外へ出たその日の間、女はよたよたと駆け続けた。次の晩に農村へ入ると、適当な納屋に侵入して昼の間ずっと眠ってやり過ごし、夜になってから活動を始めた。女は大胆にも、寝入った住民の居る民家にそろそろと侵入すると、衣服を拝借して村を発った。もっと遠くへ行かなければならない。
 服を着替えてから最初の日の出を拝んだ時、初めて自由を取り戻した気がした。
 女は少しずつ身なりを整えては、また少し良いものを盗む、という行為を繰り返し、階段を登るようにして、徐々に、かつての装いを取り戻して行った。

 拡大し、帝国の外にまで及んだ戦乱の火の手が、女に幸いした。外界は混迷の最中にあり、人中に紛れて逃れる立場の女にとっては、都合の良い状態だった。ただ、町によっては、市民の警戒が強く、引き篭もりがちで、かえって泥棒稼業には差しさわりがあったり、それどころか流れ者というだけで不審げに見られることもあった。したがって、女の行く先はある程度限られる事になった。例えば、戦乱から程よく離れ、避難民でごった返すような町。

 しばらく雌伏したが、やがて慣れ、それから数ヶ月の間、女は生き生きと好き勝手に暮らした。
 戦場近くまで出向いて火事場泥棒に精を出したり、酒樽を荷馬車ごと盗み出して、少し離れた町の入り口で役人と揉めている難民の群れにぶちまけて酒盛りしたり、女の半生で、この頃が一番やりたい放題に過ごした時期だった。

 青春だか朱夏だか、とにかく燃え上がるような勢いのある日々が過ぎ、やがて女の心に燃えていた炎は鎮まり、寂寞がそこを支配するようになった。心が冬を迎えた時、季節も丁度冬だった。
 女はいつか訪れた街へ向かった。彫像がどうなったか、確認したくなったからだ。正確には、前からずっと気になっていたし、気にしているのは彫像そのものではなかったが、女は考えないようにして、ただ歩いた。

 野を越え山を越え、女はその町を目指した。いつしか、必死になっていた。女はその時ほど旅路を急いだことはない。例外があるとすれば、脱獄したその日くらいだ。
 ただ彫像を見ておきたいだけなのに、懸命に歩く。懐かしい日々に思いを馳せると、胸が高鳴った。やがてその町は近付き、女はもどかしさを堪えながら庁舎前へと走った。

 果たして、彫像はそこにあった。
 離れ難かった、と言うと大袈裟かも知れないが、女は特に何をするでもなく、長々とその彫像の傍に立ち、眺めていた。別に大した代物には見えない。ただ、眺めているだけだった。その内に足が疲れてきたので、女は彫像にもたれて座り込んだ。見上げると、彫像から差し伸べられた腕のような部位、その手の平に当たる面に、隠すように文字が彫られていた。すぐに自分のイニシャルだと気付いて、女は自分でも驚くほどの幸福感を覚えた。
 立ち上がると、男と過ごした古巣を目指した。何から話そうか考えながら、結局考えは纏まらない。その頃まで、女の幸福感は持続していた。ところが、二人で外を覗いて過ごした部屋の窓を目にすると、突然に女の足が竦んだ。何を恐れたのか、女自身にも判然としなかった。迷惑が掛かるのではないか、他の女が居るのではないか、そもそも男はもうあの部屋に居ないのではないか・・・女は踵を返した。

 闇雲に歩き回る内に、日が傾いていた。
 女は自分の振る舞いに嫌気が差して、腹いせに今日忍び込むのに適当な家はないか物色し始めた。
「やあ、久しぶり」
 突然、背後から名前を呼ばれた。
 女は一瞬震えて、それからすぐに安堵した。振り向くと、やはり見知った顔だった。級友との日々が脳裏をよぎる。彼はいつも教授の傍に居て、何をやらせても卒なくこなした。繊細な容貌と頑なな意思。良き仲間の一人。ところが、どういうわけか名前が出てこなかった。
 相手の方が気を回して名乗った。
「覚えてないかな」
「覚えてるよ、優等生」
 級友が手を差し出したので、握手した。
「驚いたよ。本当に脱獄してたなんて」
「よく知ってるね」女は警戒した。肩を竦める素振りで、周囲を見渡す。
 級友は笑顔で頷いた。「情報網があるからね。最果てから脱出したのが君だと知って驚いた。会えて良かった」
 女は目をぱちくりさせた。
「評議会を蘇らせるんだ。その為に活動してる」男は熱っぽく言った。「僕らは諦めない。そうだろ?」
 古めかしいフレーズだった。教授が捕まって以来の響きだ。夢想家がまだ生きていた。懐かしさに、女は無言で頷いた。
 男が言った。「先生の話は聞いた?」
「教授の? 何の話?」
「亡くなった」
 女は知らなかったが、驚きもしなかった。「いつ?」
「一昨年になる。獄中で息絶えられた」
「病気で?」女は首を引っかいた。「処刑じゃなくて?」
「肺病だったらしい。でも最後は食事を拒んで亡くなった。当時一緒だった同志の話だとね。・・・先生、最後になんて言ったと思う?」
「クソ喰らえ」
 男は笑った。「惜しいね。“種は撒かれいずれ芽吹く、ざまあみろ”と仰ったそうだ」
 女は不意に、子供の事が気になった。捕らえられる時、無我夢中で逃げ出したが、産後の母親が捕まるなら、揺り篭に手を伸ばして叫んだりするのが普通ではないだろうか。そんな事は今の今まで考えもしなかった。教授はなかなか格好良く死んだようだ。それでこそあの人だとも思うが、脚色されたのかもしれない。そうだとしても問題も感じない。問題なのは自分の有様だった。自分が捕まる時の光景がどれほど惨めで無慈悲なものだったか、思い浮かべようとすると寒気がした。狂おしいほど子供の事が気になり、動悸が激しくなった。
「そう」女の様子を、級友が勘違いして言った。「僕らに課せられた使命だ」
 頭に入らないまま、耳に聞こえた言葉に、女はただ単に相槌を打った。
 しばらくして、我に返った女は、級友と近況を伝え合った。女は彼から、活動家として捕まったものと誤解されていたが、面倒臭いしその方が体裁も良いので、訂正しなかった。
「協力して欲しい」やがて、男が改めて手を差し出した。「一人でも多くの同志が必要だ」
 女は手を握った。断る理由が見当たらなかった。

 後にして思えば、流されるままのいい加減な態度だったかも知れない。ただ、その当時の女にとっては自然な成り行きに思えたし、何ならそれを運命的な再会と表現しても良いとさえ感じていた。
 要するに女は何の主体性もなく、級友に誘われるまま、未熟な運動に身を投じ、資金集めと情報収集を手伝う傍ら、彼らの若きリーダーの部屋に泊まったりして過ごした。
 その日々は、後から思うと、悲しみの坂を転げ落ちるための長い階段のようだが、その時は楽しかったのだ。崇高な目標に向かって、計画を練り、夜通し語らい、最前線で緊張感ある仕事をする。いつも胸が高鳴り、充実感と団結と温もりが、心地よい炎となって女の身を燃え上がらせた。

 二人が破綻したのは三ヶ月ほど後のことだった。意見がずれている事にはもっと前からお互い気付いていたものの、彼らは未だ準備段階にあり、より差し迫るまで、決定的対立を先延ばしにできた。だが、蓋を開けてみれば、別に差し迫った訳でもなく、別れもまた成り行きでしかなかった。
 級友の考えはかつてのものとはだいぶ移ろっていた。彼の弁を借りれば、より進歩的思想に昇華されていた。女はそう言われるたびに鼻をならしたものだった。
 女が目指す最たるものは自由であり、自然体だった。級友が目指す平和と平等とは、かなりのズレが生じていた。もっとも女の主観では、級友が変節したのだ。教授、綿毛は芽吹く前に腐ってしまいました。

 級友から次の仕事を頼まれると、女は口を尖らせた。
「気が進まない」
「チャンスなんだ。これ以上ないくらいに。成功すれば一気に活動を拡大できる」
 女は相手の顔を見ずに、小物を弄りながら投げやりな態度で話していたが、不意に級友の顔を見た。
「その前に、今、幾ら貯め込んでんのさ」
 男は二度まばたきして、おもむろに言った。
「評議会の財産は、やがて構築される共同体の財産だ。革命の火が世界を浄化した時、それが再生の苗床になる。僕らが私有する訳じゃない」
「身内に演説してどうすんの」
 女は冷笑した。男は肩を竦め、なおも説得を続けた。女は辟易した。
「大体あの胡散臭い連中は何なんだ」女は以前から度々口にしていた、評議会の面々への不満を再燃させて、話を混ぜっ返した。「ちょび髭男なんて、金で聖職者になってるじゃないか。あんなのと新しい世界を目指すって? それがあんたの革命なわけ」
「あの男のやり方が完全だとは言わない。でも手段としては分かるし、今は必要な人材だよ」
「じゃあアレは」
「なに?」
 級友が首を傾げた。女は彼のこういう仕草が好きだった。少し気持ちが怯んだが、続ける事にした。
「先週の集会で魔法使っただろ。初参加の連中があんなに熱狂するわけない」
「ああ、それで怒ってたのかい」級友が両手をあげた。「でもあれは彼ら自身の中にあった気持ちを刺激しただけだよ。本人の意思と全く違うこと吹き込まれたって、そうそう操れない。知ってるだろ」
「そういう問題じゃなくてさ」女は首を振った。「詭弁に聞こえるよ。魔法のことも、金のことも」
「前から言おうかと思ってた事だけど」
 男が前置きしながら女を見た。気遣わしげな視線に、女は好意と嫌悪を同時に感じた。男は続けた。
「平民が特権階級をねじ伏せるたった一つの方法を君は否定してるよ」
「何の話?」女は話を見失った。
「金の話だよ」
 男が言うと、女は昂然と言い返した。
「それこそ幻想だね。金の価値だって連中が決めるんじゃないか」
「違うよ。決めるのは民衆だ。権力だけじゃ変えられない。君が否定してるのは、市場の自然な動きだ。貯蓄は身を守る手段であり、平民に残された僅かな希望の火だ。君はそれを消して回ってる」
「まるで誰でも金持ちになれるみたいな言い草だね」女は首を振った。「御上におもねる連中と、たまたま幸運に恵まれた奴しか豊かになんかなってない」
「だから僕らが立ち上がるんだ」男は実際に立ち上がった。「僕らが豊かさを手に入れて、その力で歪みを正す。豊かさが分配されるように」
「あんたの話からは、金と暴力の臭いしかしない」
「否定はしないよ。必要悪だ」
「悪って認めてんじゃないか」女はせせら笑った。
「君は臆病になったんだな。子供を産んだせいか」
「ふざけんな。あんたが狂っちまっただけだろ」女も立ち上がり、怒鳴りつけた。
「君は思い違いをしてる。貧富の差を決定付けている最大の要因は民衆の意識そのものだ。その点に関して言うなら、国家よりも商工業者の寡占の方がより本質的な問題だよ。成功者を選定してるのは彼らだ」
「よく分かったよ。貴族崩れやエセ聖職者と組んでまでやろうとしてるあんたの革命ってのは、ギルド潰しってわけだ。あたいは何か勘違いしてたみたいだね」
「確かにね」
 級友は言った。女が顔を上げると、級友は無表情で、本心が読み取れなかった。
「じゃあ」級友は冷然とした調子で言った。「君はどうなんだ」
「どうって何が」女は敵意を感じて、それをそのまま返した。
「君は何故貴族から盗らないんだ」
 女は言葉に詰まった。答えは簡単で、危険だから。武官や私兵に守られた貴族の屋敷に忍び入るのはリスクが高かった。一度死に掛けて以来、女は専ら商家を相手に仕事をしていた。どうせなら、支配者の富を奪うべきなのだろう。だが、実際には違う相手から奪っている。やり易いから、そうしている。王侯貴族にへつらう豚から肉を削いで、大地に返している。王侯の肉の方が良いに決まっているが、それでも、やらないよりは良い筈だ。そう考えてきた。そして評議会もまた、国家ではなく組合を狙う。やらないよりは良いから、か。そこまで考えて、女は急に元気がなくなった。
「君はどうやりたいんだ。君のやり方で何ができる? 何ができた?」
 女は口ごもった。正直に言えば、そもそも女は何かをしなければならないという義務感に駆られた事など無かった。彼らとは根本的に違っていたのだ。ただ現実より教授の言葉を好ましく感じ、その幻影を見つめながらさまよっていただけだと、唐突に思った。何だそれは。女は呆れて、力が抜けた。
 長い長い数秒、二人は黙ったまま過ごした。級友が何か言いかけた時、女が口を開いた。
「あんたに会えた」女はぼそぼそと言った。「で、此処に居る」
 級友は押し黙り、それから言った。
「今そういう言い方は」途中で、女から目を逸らす。「卑怯だと思う」
「ああそうかい」
 女は級友を突き飛ばすと、扉を開け、大きな音を立てて閉じながら部屋を出た。
 途端に何もかもが胡散臭く感じられた。教授の死に様もそうだ。食事を拒絶するなんて、馬鹿げている。それが諦めでなくて何なのだ。これ以上ないほど明確な、生への反逆ではないか。矛盾は女の最も嫌うところだった。

 女が級友と袂を別ってから数日後、評議会の拠点が軍に囲まれて、級友たちは一網打尽にされた。まだほとんど何もしていない連中が、いつか立ち上がろうと床に手を突いた瞬間、ハンマーで叩き伏せられたのだ。教授の時と全く同じ。何一つ進歩していない。・・・いや、今度の連中はより反抗的でより危険な性質の集団だ。話にならないほどの小ささながら、明確に革命を目指していた。規模がどうあれ、その志向性が看過されるとは到底思えない。誰かが口を割れば、指導者は極刑になるのだろう。そこまで考えても、女はその事そのものには、特に何の感慨も覚えなかった。精神が麻痺していたのかもしれない。女の関心は他に向いていた。
 タイミングが問題だった。これではまるで、自分が密告したかのようだ、と女は狼狽した。実際、彼らはそう感じたのではないだろうか。そうに違いない。それで初めて、女は恐怖した。私は悪くない。何もしていないっ。
 打ちひしがれ、不安と恐怖に駆られた女が目指したのは、例によってあの町だった。身勝手な感傷だと女は自分で思った。

 女にとって、愛と平和の象徴たる小さな公園は、それにしてはあまりにもささやかで粗末だったが、それでも、かつて見たそのままの姿だった。そう思って一人心安らかな気持ちに浸っていると、一組の男女が彫像にもたれていることに気付いた。女は総毛立ち、怒りの形相で恋人たちに迫ったが、近寄ってみると知らない男女だったので、素知らぬ顔をして通り過ぎた。女は自嘲した。
 それから、意を決してかつての住処に向かうと、しばらく物陰で息を整え、やがて、こそこそと隠れるようにしてドアへ忍び寄り、素早くノックした。
「はいはい」
 失望した。知らない人間が出てきたのだ。女は瞬間、目の前の他人を罵りたくて堪らなくなったが、男の事を尋ねなくてはと思った。だが、尋ねたりしても良いのだろうか。目の前の相手は、自分を探す側の者かもしれない。それに、男にも迷惑になるかも知れない。結局、喉は本能に忠実な仕事をした。
「くたばれ、うすのろっ」
 女はドアを叩き付けるように締めると、駆け出した。ぎゃっ、と小さな悲鳴が聞こえた。馬鹿馬鹿しくて笑えてきたので、笑いながら走った。息苦しくなって足を止めると、汗と並んで涙が顔を縦断した。女は蹲って泣き、やがて立ち上がると、かつての足取りを辿り始めた。子供を生んだ町へ。

 子供を忘れた町に着くと、途方に暮れた。あの日、女は町に着いて早々に倒れ、忌々しくも親切な人々に助けられ、寝台を借り、それから、半ば昏睡した状態で引っ立てられたのだ。つまり、子を生み捨てたあの家を探そうにも、女にはそこが何処なのか皆目見当がつかなかった。それどころか、建物の外観すら分からない。話にならなかった。まさか人に訊いて回る訳にも行かない。女は天を仰いだ。

 二日ほど、町の中を当て所もなくさまよった。どうせ諦めるしかないとしても、すぐには心が定まらない。女は散策でもしているかのようにそぞろ歩きながら、家々の窓の中を窺った。そうする以外に何もしようがなかった。
 ほとんど初めて見る町並みで、次第に、本当に散策しているような気分になっていた。長閑な街で、居心地も悪くなかった。しばらくうろついていれば、いつかは手掛かりが掴めるかも知れない、と漠然と思った頃、女はいきなり捕まった。道を歩いていると、すれ違いざまに片腕をつかまれ、もう片方の腕も、後ろから歩いてきた男に掴まれた。後ろ手に捻りあげられるまで、何が起きたのか理解できなかった。また油断したのだ。女は自分がいやになった。
「あの女ですね」
 何者かの声がしたので、女は肩の痛みを堪えて、身をよじりそちらを振り向いた。すると、角の向こうへ何かが姿を隠した。傍に居た制服の男が此方を見て、それから角の向こうへ言った。
「間違いありませんね」
 制服は二言三言、何かやり取りして、最後に頷いた。
「ご協力に感謝します」制服の男は角の向こうへそう言うと、女の左右に立つ男たちへ言った。「連れて行け」
 その瞬間に、女は思い切り暴れて、角の向こうの誰かのところへ駆け出した。左に立つ男に肩でぶつかり、痛みを堪えながら思い切り走った。あと数歩・・・しかし、そこまでだった。取り押さえられた女は、声の限り喚いた。
「おい、そこにいる奴。誰だよあんた、ツラ見せな。出て来い」
 地面に押さえつけられて、女は一瞬黙ったが、引き起こされるとすぐにまた騒ぎ始めた。
「クソ、クソ。ちくしょう。誰だっ。おい、聞いてるか腰抜けの下衆野郎っ、このままじゃ済まさない」
「聞くに堪えん、黙らせろ」
 前方の制服男が言うと、女を左右から取り押さえた男たちが、女の頬を鷲づかみにして黙らせた。
 女はなおも罵ろうと暴れまわったが、例によって、気が付いた時にはいつかと同じ床の上にいて、顛末は曖昧にしか思い出せない。覚えている事といえば、朦朧とする意識に、不快な会話が聞こえていたことくらいだった。
「これ、我々の管轄ですか」女を捕まえた男たちの内、一人の声。「静かに捕まるでもなく、主義主張を喚くでもない。本当に政治犯ですか、この女」
「知らんよ」例の制服を着た男の声が答えた。
 悪かったね、ただの泥棒で。人違いなんじゃないの。そう言い返そうとしたところで、女の記憶は途絶えている。きちんと口に出せたかどうかも定かでない。

 再度の収監後、女は囚人の一人から、教授の最後の言葉について、異説を知らされた。彼女の言を信じれば、かつて級友から聞かされた言葉には、前置きがあった。“早すぎた。今は夢でしかない。しかし・・・”。級友は意図してこれを省いて言い触らしていたのかも知れない、と女は邪推したが、その点については大して憤りも覚えなかった。むしろ、そのまま真実など知りたくなかった。教授は現在に絶望し、世を儚んで自殺したのだ。敗北そのものだった。
 生産と情報伝達の不足が根底から改善されない限り、自らの理想は実現し得ないという事実に気付くまで、老翁は数十年を費やし、気付いた時には牢獄の奥底で、消え行くばかりの命となっていた。僅かばかり彼に師事し、その足跡を追っただけの女には、師の絶望も、それが完全な絶望ではないということも、正しく理解できなかった。女はただ打ちひしがれた。山頂を目指して昇っていたのに、霧が晴れると頂が消えていて、呆然としている。そんな夢を見るようになった。

 他の囚人から、脱獄計画を持ち掛けられたので、女は頷いた。もう自分で計画するほどの気力はなかった。
 しばらく様子を見て、話を聞く限り、悪いプランではないと思えたので、次第に女も協力的になって行った。気の合う連中と自由への逃避を目指して協力し合う内に、少しずつだが、女の精神は快復して行った。無目的な、単なる元気が芽生えていく。

 そして決行し、挫折した。
 監獄の警戒はかつてと比較にならなかった。自分が目を付けられていたのかも知れないとも女は思ったが、中原の乱が終結したせいだろうと考える事にした。仲間内から犠牲者も出たし、そう思うほうが健全だった。
 女は独房に入れられた。初めての経験だった。当初は、一人で安眠できるなら悪くないなどと考えていたが、それは楽観に過ぎていた。独房は狭く、その閉塞感と言ったら、最初の二日ほどで吐き気を催すくらいだった。高いところに窓があり、女はこれについても当初、こんな気配りはあるのか、などと考えたものだったが、それもまた誤解だった。窓からは外の吹雪が吹き込み、地獄の寒さが染み入ってくるのだ。北側なのか、日の光などほとんど感じられない。このまま凍死させるための部屋なのではないかと女は疑い始めた。

 女は一人丸くなり、無理矢理切られて短くなった頭髪を弄っていた。指をくるくると回してみても、絡めるほどの長さはなく、指の隙間から滑っていく。その感触が物悲しくて切なかった。なのに、何度もそれを確かめるように繰り返している。ふと気付いて手を止め、自嘲し、鼻を鳴らした。
 昔の事を思い出しながら、寒風を送る窓を見やる。その日は風雪もなく、穏やかだった。窓辺に何かが見えた。

ヴァレリの物語:回想 -FIN-

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