ヴィクトールの物語:ささやかな報復
「おい、交代だ」
声をかけながら、ヴィクトールは部屋に入った。
普段はわざわざ伺いなど立てないが、黙って入ると、見えていない子供が驚く。面倒だが、しばらくは仕方ない。
子供の枕元に座っていた神聖騎士のロザリアが、立ち上がった。
そうか、前の当番はこいつだったか。子供は、眠っている。だったら、声をかける必要はなかったな。
「レオの様子に異状はありません。今は寝ています。包帯はさっきアンナが交換していったので、しばらくは大丈夫のはずです」
小娘が何か言っているが、聞く気はなかった。
どうせ、見れば判ることしか言っていない。交代時の申し送りは、組織に慣らされた人間の習慣だ。騎士然とした硬い物言いが鼻につく。聞きたいことがあればこちらから聞いてやる。さっさと黙れ。
「では後はよろしくお願いします」
ロザリアは軽く頭を下げ、自らはベッド脇の席を譲るために、一歩後ろに下がる。こんな時まで礼をとるか、と鼻で笑う。帝国騎士への対抗心か、"新帝陛下"の側に侍る気負いか。あるいは、置かれた状況への不安を、騎士の矜持で抑えようとしているのか。いずれにしても、クラウディウスのように明らかに自分を繕っているならともかく、これが天然だとしたら、つまらん小娘だ。
そんなことを考えながら、ベッド脇の狭い空間ですれちがい、立ち位置を入れ替えようとした瞬間。
「あっ」
小さな声と共に、ロザリアの体が大きく傾いた。
倒れていく小さな体。小さな既視感。
何か思うより先に、左腕が出た。篭手の軋み、二の腕に掛かる重み。
………この、粗忽者!
思わず舌を打つ。見上げてくる小娘の表情は、仮面に隠されてよく判らない。驚いているのか、怯えているのか。
「気をつけろ」
小娘がよけいな口を聞く前に、一言、言ってやった。抱きとめた理由など聞いたら、このまま部屋の外に投げ出してやるつもりだった。
幸い、ロザリアは、自分が手を突こうとした先に子供のベッドがあったことで、勝手に納得したようだった。
「すみません」
そそくさと身体を離し、ロザリアはヴィクトールに頭を下げる。
もういい、失せろ。貴様に関わると、調子が狂う。
右手の一振りで、出て行け、と示すと、ロザリアはおとなしく無言で退室していった。
………どこまでも、つまらん娘だ。
子供の様子はしごく安定していた。この調子ならば、今日も側にいるだけだ。いつもの退屈な日常の始まり。ヴィクトールは傍らで眠る子供、レオの寝顔を眺める。レオは無垢な表情で安らかな寝息を立てていた。
子供は少しは警戒心が出てきたようだが、まだそれを意思として表現できていない。
もう一押し、必要か。自己主張のやり方まで、手取り足取り教えなければならないのは面倒だし、ヴィクトールの流儀ではないが、のんびり成長を待っているほど、気長でもなかった。
この子がアンタルキダスなら、ヴィクトールが仕向けることで放浪癖を煽ることにもなる。それは帝国の連中には困るだろうが、それは知ったことではなかった。クラウディウスが内心の歯軋りを懸命に隠そうとしている様を眺めるのは面白かったが、奴もそろそろ限界だろう。
それにしても。
左腕の篭手を締め直しながら、ついさっきの出来事を思い返す。
あんなつまらん小娘が気にかかって仕方ないのが腹立たしい。"あいつ"の形代にして、やり直そうとでもするつもりか、俺は。
似てはいない。髪も、瞳の色も。自分が正しいと信じて疑わないような物言いに、わずかに共通点を見出そうとすればできるが。
あれは、別人だ。自分にそう言い聞かせる、そのこと自体が腹立たしい。
考えをめぐらせながら、半ば無意識に、懐に手を伸ばす。病人の部屋で煙草など、と機織りは目くじらを立てるが………。
ない………?
思わず、懐を覗き込む。馬鹿な、ないはずがない。この部屋に来る前に、新しく巻いた煙草を詰めてきたばかりだ。落とすような入れ方もしていない。大体、頑丈が取り得の金属製のケースだ、落とせば気付かないはずがない。
念のため、他の入れ場所も探すが、見当たらない。他のところにあるはずもない。すべての装備は、入れる位置が決まっている。そうでなければ、とっさの時に使えない。
頭の中が真っ白になった。やられた。この俺が、スリに遭うとは。間抜けもいいところだ。誰だ。こんな命知らずの真似をした奴は。
顎に手を当てて、落ち着け、と自分に言い聞かせる。最後にケースを確認してから今までの間に接触した人間は誰だ?そのうち、懐に手が届いたのは―――。
突然、頭の中に彼に向かって頭を下げる黒髪の女の姿がフラッシュバックした。髪に隠れていたが、その口元は……笑っていた。
「猫被っていやがったな、あの小娘………!」
ヴィクトールが勢いよく立ち上がると、弾みで椅子が倒れた。怒りに任せてそれを蹴飛ばし、大股に部屋を出る。
突然の騒音に子供が飛び起きた気配を背中に感じたが、今は子守りをしている時ではなかった。
ヴィクトールが探す、目的の人物はすぐに見つかった。ロザリアは玄関横の館の壁にもたれて、青く澄み切った空を眺めていた。
来るのを待っていた、そんな顔だ。
「おい」
ヴィクトールが声を掛けると、ゆっくりとこちらに向き直る。
「言い訳を、聞きに来てやったぞ」
「これはあなたのものですか?」
ヴィクトールとほぼ同時にロザリアからも声が上がる。ロザリアに掲げられたシガレットケースが陽光を浴びてキラリと光る。
「そこに落ちていたんです。あなたのものだったのですか」
「そうだ。返してもらおうか」
「はい」
ヴィクトールの目の前で、ロザリアが無邪気とも言えそうなしぐさで、ケースを差し出していた。今となっては、むしろその演技力に感心してしまう。
さて、どうしてくれようか。
そんなことを考えつつも、冷静な自分の半面は既に部屋を出た時の怒りが霧散してしまっているのに気付いていた。
つまらん小娘どころか………。
壁を背にしたロザリアの顔の脇にヴィクトールは片手をついて、身体で逃げ道を塞ぐ。街路樹の下でやれば口説き、裏路地でやればカツアゲの体勢。ロザリアは、ケースを片手にヴィクトールをまっすぐに見上げている。その表情に怯えはないようだ。
「最近のアストラじゃ、剣以外にこんな技術も教えてるのか?」
言いながら、自然、口元に笑みが浮かぶ。こういう状況で笑うと、怒鳴るより怖い、とよく言われるが、ロザリアは、黙ったまま小首を傾げただけだった。
「人の懐から勝手に布施を徴収するのか、と聞いている。神聖騎士殿?」
久しぶりの帝国上流標準語が、喉に絡んで囁き声になった。顔を寄せて声を抑え、ゆっくりと。こっちの言葉の一つ一つが、突き刺さるように話す。
だが、ロザリアにはあまり効果はないらしい。黒い瞳がヴィクトールにまっすぐ睨み返してきた。
「私が盗った? 私に盗られるような隙があなたにあったのですか?」
ロザリアの口元に笑みが浮かぶ。
なるほど、全部判っていてやったということか。
ささやかな、意趣返し。
ヴィクトールは娘から視線を外し、喉で笑った。体勢はそのまま、空いている片手で、娘の手からケースを抜き取り、すばやくそれを確認する。中をいじった形跡はない。本気で報復をするつもりなら、中の煙草にこっそり薬を仕込むくらいやるだろう。
俺の隙を突いただけで―――自分は俺の隙をつけるのだと示すだけで溜飲を下げているのが、甘い、というか………あるいは、加減を判っているというか。
どうやら、今回は完敗のようだ。やはりあいつを相手にすると、調子が狂う。
手にしたケースでロザリアの頬を軽く叩いて、ヴィクトールは身体を離した。そして、背中を向けて立ち去ろうとする。しかし、鋭い声がそれを引き止めた。
「お礼の言葉ぐらいあってもいいのではないですか」
振り向くと、まっすぐ見つめてくる黒い瞳と視線がぶつかった。ただ今度は、ヴィクトールに頭を下げたときに垣間見たあの微笑みを浮かべている。
ちょっと認めてやれば、これだ。まったく、小娘は扱いにくい。
「図に乗るな。二度目は、ないぞ………ロザリア」
負け惜しみにしか聞こえない台詞だろう。だが、これを言っておかないと、きっと後で後悔するのがわかっていた。"あいつ"と同じことを、繰り返したくはなかった。
軽く凄みを利かせると、ロザリアも軽く肩を竦め、諦めましたという意志を無言で返し、あっさり引き下がった。初めから期待はしていなかったように。
レオの部屋に戻りながら、ヴィクトールは取り返したばかりの煙草に火をつける。刺激の強い煙草の味が胸に染み込む。屋敷内の歩行喫煙がどうこうと言っていた女執事のことをちらりと思い出したものの、すぐに煙と共に消え去ってしまっていた。
ロザリアの名前がすんなりと口を突いて出たことに驚いている自分を落ち着かせるには、どうしても必要な一服だった。
ヴィクトールの物語:ささやかな報復 -FIN-