ヴィクトールの物語:前夜
ランドニクス帝国首都、ニクセント。
その神殿は、"中央"と呼ばれる官庁街に程近く運河沿いの広々とした公園に隣り合って、力強く天を目指す尖塔を冬の澄み切った星空に突き上げていた。
聖堂には、《大陸》で最も人気のある三柱の兄弟神の見事な像が祭られている。高々と剣を掲げた兄弟神の長兄《痛みの剣》が中心に据えられているのは、神殿の庇護者が武門の家柄であることを示している。
冬至を迎えたこの日、普段は見回りの神官の手燭くらいしか明かりのない聖堂は、高い天井にふんだんにあしらわれた金箔に照り映える数百の蝋燭の光に満たされていた。
一年で最も長い夜を眠らずに、神へ祈りを捧げる習慣が、いつ、どこから始まったのか定かではない。
人々は神殿で、あるいは自室の祭壇の前で、思い思いの望みを心のうちに繰り返し呟きながら、膝を着く。
本来は、一人静かに祈りを捧げるものなのだが、この神殿に集っている信者たちは富貴の家柄の者がほとんどで、一隅には、祈り疲れて冷えた体を温める休憩所も設けられ、厳粛な通夜の行というよりは、むしろ冬の夜長をやり過ごすための社交場の意味合いが強い。神殿の入り口には、貧しい者たちへの施しが用意され、人手が足りないために普段は人前に出ない修行僧たちや近隣の庶民達も借り出されているので、神殿中が見知らぬ顔で溢れ返っているといっていい。
故に、全身を修行僧のローブに包み、フードを目深に引き下げた背の高い人物が一人、人目を避けるように聖堂を横切って、その奥に並ぶ小さな扉のひとつを潜っても、誰も見咎めるものはいなかった。
名のある帝国貴族たちの庇護と多額の寄進を受け、由緒ある先祖たちの魂を預かる神殿では、聖堂の裏によく整えられた小部屋をいくつか設けていることが多い。
通夜の行を行う本人と、必要に応じて介添えが過ごせるだけの小さな部屋は、静かに祈れるようにと厳重に音が遮断され、一度扉を閉めれば、中の様子は窺い知れない。また、神官たちは、信者たちの秘密―――誰が祈りに訪れ、誰がその人を訪ねたか―――は決して外部に漏らさない。
従って、長い冬の夜に、その部屋が本来の目的以外に使われたとしても、それは神殿の預かり知らぬことであった。
扉を潜って正面の壁龕には、聖堂にあるものをそっくりそのまま縮小したような兄弟神の像が祭られていた。床には暖かな厚い絨毯、片隅に炭火が赤く燃える暖房具と、手の込んだ細工の上品な小机と椅子。小机の上には、聖典と、冷めないようにカバーをかけられたティーセットと軽食が置かれている。
椅子に腰を下ろし、小机の上の聖典を開いて眺めていた部屋の主は、ローブの人物が伺いもなく部屋に滑り込んできても、驚かなかった。
「参謀補佐官のご身分で、通夜の行でおこもりとは、敬謙なことです」
ローブの人物は、恭しげに礼をとる。ただし、フードの陰から漏れた囁くような声音は、薄く笑みの形に歪められた唇と共に、皮肉な響きを持っていた。
「母の命日なのでな」
国防総省参謀本部補佐官、テオドシウス・オーステンライヒは、そっけなく答えて顎をしゃくった。
年の頃三十前後。白磁の肌、氷青色の鋭い瞳、銅を磨き上げたような赤みがかった黄金の髪は、一筋の乱れもなくきれいに撫で付けられている。磨き上げられた長靴の足を組み、傍らのテーブルに片肘を突いて、すんなりと長い指を軽く顎に当てる様は、いかにも貴族らしい優雅さと傲慢さを兼ね備えていた。
促されて、ローブの下から黒革の手袋を嵌めた手が現れ、フードを跳ね除ける。一瞬、冴え冴えとした銀の光が辺りに飛び散り、金髪の男の目を眇めさせた。
「母君の命日に、神々の前で謀議の密談ですか」
ローブを脱いだ男、ヴィクトール・シュヴァルツェンベルクは、喉で低く笑った。
年齢は二十歳を少し越えた程度、鮮緑色の瞳、刃鋼線を束ねたような豊かな銀髪をオールバックに流している。ローブを傍らに投げ置く拍子に、やはり黒革の上着の下に、つや消しした薄い胸当てを着けているのが見えた。
テオドシウスは、ヴィクトールの皮肉には動じない。彼に言われるまでもなく、何度も自問して答えは出ていた。
「手向けだ。母はあの男のために、心を病んで死に追い込まれたのだから」
「存じております」
ヴィクトールもまた、テオドシウスの言葉に含まれる自分への非難をこともなく受け流す。反論するだけ徒労だと、経験から学んでいた。
椅子に座るテオドシウスの前で、ヴィクトールは腕を軽く後ろに組んで姿勢を正した。
上官と、その指示を待つ軍人の姿勢そのものであり、こうして向かい合うと、二人の顔立ちは、色合いは違っても同じ血筋であることが一目で判るほど、似通っていた。
テオドシウスは、涼しい顔で自分の前に立つ青年を不快げに上から下まで眺めた後、おもむろに切り出した。
「ひとつ、仕事を頼みたい」
ヴィクトールは、軽く片眉を上げた。
"あの男"について何か密議があって、会いたくもないだろう自分を呼び出したのは判っていたが、仕事を依頼されるとは思わなかった。
「"おまえのような不浄な懐刀などいらぬ"と、以前に伺ったように記憶しておりますが」
初めて顔を合わせた時、テオドシウスがヴィクトールにかけた、唯一の言葉がそれだった。
ヴィクトールは、端から思われるほどには、この言葉を重く受け止めていない。この程度でいちいち傷つく時期は、とうに通り越していた。テオドシウスには、自分を嫌う理由も権利もある。
「あの男からおまえを受け継ぐ気はない。それは変わらぬ。だから、これは主人としての命令ではない。取引だ」
つまりそれは、テオドシウスがおそらくただ一度、"不浄の刃"を用いることを自身に許すための言い訳なのだろう。
ヴィクトールは、伸びた背筋をさらに伸ばすように、わずかに顎を引いた。それを了解の印と受け取って、テオドシウスは続けた。
「まもなく、あの男から参謀本部経由でおまえに指示が出る。目的は、例によって敵対者の排除だ」
テオドシウスは、ある名前を告げる。軍部ではそれなりに知られた名前を、ヴィクトールは顔色ひとつ変えずに受け取った。
彼にとっては、いつものことだった。粛清や処罰に名を借りた、血みどろの権力抗争。自分は、その手駒ですらない。"あの男"にとって、使い勝手のいい凶器。それだけのことだと、ヴィクトールは見切っている。
「それで、閣下のご依頼とは?」
「しくじれ」
テオドシウスの短い一言の後、時が止まったような沈黙が長く続いた。
ヴィクトールの部隊にとって、任務の失敗は死と同じ意味を持つ。
部隊には、名前はない。帝国三軍の組織図のどこにも、その存在は印されていない。所属する兵士達の名も、帝国の戸籍にはない。従って、任務に失敗して死亡した時はもちろん、生きて捕らえられた場合でも、救助も援護もない。帝国とは何の縁もない一個人が凶行に走ったとみなされ、刑法に従っての処刑が待っている。
暖房具の中で炭が崩れる小さな音が、驚くほど大きく部屋に響いた。
重い沈黙に先に屈したように、テオドシウスはこう付け加えた。
「暗殺自体は遂行して構わない。ただ、おまえのその顔を誰かに覚えさせろ。できればターゲットの身内で、あの男を知っていそうな人物がいい」
ヴィクトールの鮮やかすぎる緑眼は、なおも感情を浮かべずに、しばらくの間、金髪の男を凝視していた。
やがて、テオドシウスの氷の瞳が、これ以上話させるつもりか、と苛立ちの色を浮かべ始めた頃、ゆっくりと青年の口角が上がった。
禍々しい、とさえ言えそうな、冷笑だった。
「父君を、失脚させるおつもりですか」
オーステンライヒ家現当主、ゼルギウス・オーステンライヒ帝国陸軍准将。
テオドシウスが"あの男"と侮蔑を隠さない相手に、"父君"を使ったのは故意だった。
好むと好まざるとに関わらず、血の繋がった親であることは変わらない。その父親から、おそらく彼が人生の拠り所としている権力のすべてを奪い取る覚悟が、できているのか、と。
ヴィクトールの言外の問いかけに、テオドシウスは、ふいと面をそらした。
傍らに開いたままの聖典に手を伸ばし、細い指がためらいがちにその頁を撫でた。
「『………魔女は神々に告げた。『私は大陸の人間に、欲望を与えよう。欲望のために戦うことを教えよう』………」
千年前、《大陸》に残った最後の神々と《魔女》との戦いを記した、有名な一節を呟く。
《魔女》は三柱の兄弟神によって西の果てに追われ、もろともに滅びたとされ、《魔女》と神々が斃れた地は人も通わぬ不毛の大地となっていた―――二十数年前までは。
巨大な隕石の墜落、突如砂漠に溢れ始めた緑、兄弟神復活の噂。これらを関連付けて考える者も多いが、真相はその名も高い帝国内務省の厚い壁に隠されて見えない。内務省国家安全保障局の手により、かつて《忘却の沙漠》と呼ばれた《大陸》西部は、不可侵地域として一切の情報を封印されている。
「………帝国の理想は潰えた。次の選帝会議は、もはや宣戦布告の場でしかない。帝国四公国を筆頭に、十三諸侯が帝位を求めて剣を交える。まさに、欲望のための戦乱だ………金色の魔女の高笑いが聞こえるようだな」
既に諸侯の領地では公然と募兵が行われ、小競り合いも頻発している。誰の目にも、全面衝突は時間の問題だった。
「兄弟神復活の噂を、信じておいでですか」
「信じたいが、ただの噂だ。誰も神の姿を見た者はいない。栄光の統一王朝時代を除き、《大陸》の歴史は所詮争いの歴史だ。我が帝国とて、建国より百年を経ずして、この有様だ。人は、魔女に欲望を与えられずとも、争うようにできているのかもしれぬ」
ばたん、と高い音を立てて、聖典が閉じられた。
「だからこそ、戦乱を乗り切るために、あの男に我が家の命運を預けるわけにはいかぬのだ」
テオドシウスは、冷たい瞳をヴィクトールに戻した。
視線と語気の強さが、覚悟を問うヴィクトールへの答えだった。
「手はずは整っている。国防総省は事を公にできないが、極秘の査問委員会が開催される。当然、おまえも召喚されることになる」
「そこで、すべて暴露しろ、と」
「おまえとあの男が並べば、血の繋がりは明らかだ。存分に証言するがいい。あの男が己の利益と欲望のために、おまえをどう扱ってきたかを。おまえの母親の件もある。背任だな。二十年以上昔の話にはなるが………ああ、消息を聞いたか?」
最後の一言は、ヴィクトールがこの部屋に入ってくるなり投げつけてきた最初の皮肉に対する、反撃とも言えた。
ヴィクトールを受け入れることなどできないが、客観的に事情を聞けば、同情の余地はある。涙のひとつも見せて、哀れみと愛情を乞うなら、かける情けのひとつくらいは持ち合わせているものを、とテオドシウスは腹立たしく思う。
今も、ヴィクトールは感情を見せない。時折浮かべる笑みすら、こちらを挑発する計算ずくでしかない。自分の憤りも、逡巡も、すべてを見透かしてあざ笑うかのような鮮緑の瞳が、恐ろしくすらある。
ヴィクトールは、そんなテオドシウスの苛立ちを、所詮この男もその程度、と醒めた目で見ている。
テオドシウスは、夫の傍若無人に疲れ果てて自ら命を絶った自分の母親を愛していたのだろう。だから、誰にとっても母親の存在は大切なもの、と思い込んでいる。
ヴィクトールとしては、子を産めば母なのか、と笑うしかない。あの女が、母親らしいところを見せたことなどなかった。すべての女が、自分の子供を愛せるわけではないし、すべての子供が母親を愛しているわけでもない。
「結局、逃げられたということは伺いました」
「失踪の理由も?」
食い下がるテオドシウスが、むしろ哀れに思われた。"親に捨てられた可哀想な異母弟"を演じてやったら、気が済むのだろうか。
きっかけは、殺戮。帝国史に一行でも記述があればましなほど小さな公国の併呑は、一日で終わったと聞いている。公国は名を奪われて帝国の一都市になり下がり、大公一族は全員処刑された―――表向きは。
美貌のうら若き公女が、命乞いのために操を差し出したのだ、とあの男は言う。暴虐非道な帝国軍将校が、自分を辱めて無理やり妾にしたのだ、とあの女は言っていた。
どちらが真実か、ヴィクトールは知らない。判っているのは、二人とも子供など望んでいなかった、ということだけ、それだけで、十分だった。
ただの種と畑を、父母とは呼ばない。まして、"意図せず勝手に生えた雑草"にとっては。
雑草が駆除されなかったのは、二人ともが、面倒や嫌なことは後回しか人任せ、という、ある意味貴族らしい性格故に他ならない。
「存じております。駆け落ちの相手は、彫金師でしたか?尻軽売女の子に、教育を受けさせ就職もさせてやったのだから、感謝して忠誠を尽くせ、とのおおせでした」
あの女がいなくなった後、残された子供の目の前で、始末は後で考える、とりあえず適当な学校か修道院にでも放り込んでおけ、と部下に命じたことすら、あの男は忘れていた。
子供が卒業間近になった頃、文武に優れた優秀な人材に成長したと聞いて初めて、自分にもう一人息子がいたことを思い出したのだろう。
「あの男らしい台詞だ」
テオドシウスは、大きく息をついてヴィクトールに背を向けた。
ヴィクトールと対峙していると、感情が高ぶれば高ぶるほど、罠に嵌められているような気になる。
気を静めようと、暖かい紅茶が入ったポットに手を伸ばしたテオドシウスは、背後のヴィクトールが、歯を食いしばるように口元を引き締めて、視線を絨毯に落としたことなど、知る由もない。
ぎしっ、と黒革の手袋が鳴った。ヴィクトールが、背後に回した手を硬く握り締めたためだった。
「私からもひとつ、提案させていただいてよろしいでしょうか」
茶器を持つ男の手が止まる。次の言葉を待っている、と確認できるまで間を空けてから、青年は続けた。
「国家安寧のため、優秀な兵士を育て、不穏分子を排除したのだ、とあの男は査問委員会でそう主張するでしょう。ですが、その自分が育てた凶器を、管理できていなかったとしたら?」
「………止めを刺せる」
「では、査問委員会の後、わずかな時間で結構です。私を一人にしてください。あるいは、"実質、ひとり"に」
テオドシウスは、振り向かなかった。ヴィクトールの言葉の意味を図りながら、静かに茶を注ぎ、カップの中で渦をまく紅玉色の液体を見つめていた。
ヴィクトールは、軍を脱走すると言っている。あの男が育てたのが、国家安寧のための優秀な猟犬などではなく、隙あらば飼い主の喉笛を狙っていた凶暴な狂犬だった、と言う致命的な事実を、この上なくわかりやすい形で突きつけてやろう、と。
テオドシウスにとっても、それは痛快な瞬間となるはずだった。血筋と金と権力が自分を裏切るはずがない、と驕り高ぶっているあの男を、永久に葬り去ることができる。命を奪う必要はない。そんな価値すらない。母が追い込まれた何倍もの生き地獄こそ、あの男にふさわしい。
「追手は、止められんぞ。おまえの同僚が、おまえを追う」
元々が粛清を任とする部隊である。内部からの裏切り者は、内部で処理する。警備兵は蹴散らせても、互角の腕を持つ戦士を複数相手にして、ヴィクトールが生き残れる確率は、あまりに低い。
「その方が、閣下のご都合もよろしいのではないでしょうか」
自分がどうなっても、貴方の責任ではない、と言っているように、テオドシウスには聞こえた。
ふっと、テオドシウスの肩の力が抜けた。
椅子に腰を下ろし、再び脚を組む。紅茶を一口含んでから、やっとヴィクトールを見やった。
「これは、取引だ。報酬が必要だな………いいだろう、鎖を解いてやろう」
「ありがとうございます」
ヴィクトールは、視線を落としたまま、深く礼をとった。
初めて見る姿に、テオドシスは細い眉を寄せた。少しは殊勝な態度を見せてくれれば、と思っていたが、実際にやられると、居心地の悪いことこの上ない。
「追っ手に討たれるか、生き延びても世間の裏でのたれ死ねばいいと思っている相手に、礼など言うな。おまえにかける好意などない」
「存じております。さればこそ、そのような相手の望みを叶えてくださったことに、感謝いたします」
しおらしい言葉を紡いだ唇が、最後に、音には出さずに"兄上"と動いたのを見た時、テオドシウスの中に、理由の判らない戦慄が走った。
「話は以上だ。帰りたまえ。私は勤行の続きがある」
乱暴に話を断ち切られても、不快感など微塵も見せず、ヴィクトールは素直に従った。
テオドシウスが見つめる先で、鍛え上げられた長身に再び修道僧のローブをまとい、印象的過ぎる銀の髪と緑の瞳を隠すために、深くフードを引き下げる。
退室の礼は、軍人ではなく、神官たちが行う敬礼だった。
「良きお勤めを果たされますように………」
定型句と共に扉が閉まった時、テオドシウスは、自分がまんまと乗せられたことを知った。
神殿から二本ほど運河を越えた先の小さな橋の下で、ヴィクトールは忌々しいローブを脱ぎ捨てた。
商業地域の中でも事務所が多いこの辺りは、今日のような特別な日でも、夜になれば人気も灯りも途絶える。まして橋の下は、ほぼ完全な暗闇だった。
その闇の中に溶け込むように、嘶きも足掻きもせず、彫像のようにおとなしく立ち尽くしている黒馬に、ヴィクトールは歩み寄った。
運河に叩き込んでやったローブの代わりに、鞍に預けてあった黒い外套を羽織る。寒さには慣れているが、光を集めすぎる自分の髪や、闇にも沈まない瞳の色を隠すために必要なものだった。
ふと、子供の啜り泣きが聞こえた。
《兄様も、僕のことがお嫌いなんだね》
しゃくりあげながら呟く声が聞こえた。
《どうして………?》
子供は、いつも同じ質問を繰り返し呟いている。
《………どうして………?》
うるさい、とヴィクトールは思う。
それでも、疲れも知らぬげに泣き喚いて、その声にえぐられた胸の痛みに息もできないほどだった昔に比べれば、子供もずいぶんおとなしくなった。
《………いっぱいお祈りしたのに………いい子にしてたのに………》
《………神様も、僕がお嫌い………?》
弱々しい呟きを無視して、鞍に上がる。
黒衣を捌いて馬の背を覆うと、人馬は一塊の闇そのものと化した。
今日の星空は、祈りに満ちているはずだった。
その下を駆ける闇の獣にまで、神々の目は届くまい。
まして、獣の中に閉じ込められて、震えて泣いている小さな子供などは。
《………寒いよ………》
子供は、もう聖句を唱える力すらない。
飢え凍えて、いずれ力尽きるだろう。
後には、野に放たれた狂犬だけが残る。
「存在が過ちだと言うなら、殺せ。罪と欲望の申し子を生贄に、神の権威とやらを世に示すがいい」
それが、ヴィクトールが神に放った、最後の祈りだった。
ヴィクトールの物語:前夜 END.