ダグザの物語 『桜貝』

夢を見た。
今となっては胸の疼きすら懐かしい昔の光景を。

落ち葉を踏む足音が、自分の名を呼ぶ良く知った声に変わったのを確かめて、ダグザはアックスを握り締めた腕の力を抜いた。
光量を絞ったカンテラが作る小さな黄色い円の中に姿を見せてやると、光の裏側で安堵したような溜息が漏れた。
「ここだと思っていたよ……」
森の中の、小さな洞窟。地元の人間は狩りの合間の休憩によく使うが、知らない者は存在すら気付けないだろう。
「……連れ戻しに来たのか?」
自分でも驚くほど敵意を含んだ語気に、幼馴染が怯んだのが判った。
まだ、気が立っている。手についた血は、近くの泉で洗い流したのに。
「……だったら、一人でなんて来ない。返り討ちに遭うだけだ」
拗ねたような返答に苦笑して、ダグザは彼を洞窟の中に手招いた。
カンテラの覆いが外され、互いの姿が照らし出される。
小柄で優しい幼馴染は、明かりの他に旅行用の革袋を携えて、どこか呆然とそこに立ち尽くしていた。
いつもは穏やかな笑みを浮かべているそばかすだらけの顔がひどく青ざめているのに、胸が突かれる思いがした。
「村の、様子は?」
「大騒ぎに決まっているじゃないか」
「そうだろうな……」
乾いた土の上に腰を下ろし、夜の森の漆黒に視線を向ける。
「……でも、赦せなかった」
「うん、判ってる……みんな、同じだ」
今年は、冷夏だった。秋の実りは、普段の三割減だろう。それでも、寝る間も惜しんだ必死の努力で、畑はかろうじて金色に染まった。冬の間の食い扶持と年貢分は何とかなると、皆で胸を撫で下ろしていた、その矢先に。
「あと三日……遅れて来りゃ、よかったのに」
きらびやかな衣装を纏った人と馬。俊敏そうな猟犬たち。響き渡る角笛と、風を切る弓弦の音。
領主のドラ息子と、有名だった。狩りと女が何より好きで、領民と獲物の区別がつかない男。
いったい何が面白くて、収穫間際の畑に、馬を乗り入れたりしたのだ。
あと三日、遅れてきていれば、収穫が済んだ畑でどれだけ馬を乗り回そうと、誰も文句など言わなかったのに。
馬脚に踏みしだかれていく小麦を見つめて、成す術もなく泣き叫ぶ人々の悲鳴が、耳に突いて離れない。
みんな、気持ちは同じだった。ただ、みんな、畑の他にも守るべき家族がいた。
何も持たないのは、自分だけだった。
思わず投げつけたのは、手近にあったフォークだったか薪だったか。馬がそれに足をとられてもんどりうち、騎手が畑に投げ出されたのが、時が止まったようにゆっくりと見えた。
次に覚えているのは、自分の拳が領主の息子の顎を砕く、生々しい感触。
言葉にならないわめき声は、次の拳で沈黙した。
「あの怪我じゃ、きっと顔に傷が残っちゃうだろうって……」
「いっそ綺麗に、脳天を叩き割ってやった方がよかったか?」
「冗談でも止めてくれよ。村が、皆殺しになる」
幼馴染は、ぞっとしたように自分の肩を抱いた。震える声に恐怖が見えて、ダグザはちらりとそちらに視線を投げる。
見なければよかった、と思った。自分を見つめる幼馴染の瞳に混じる、異物を恐れる冷たい光。混乱と怒号の中で、自分を森へと追い立てた、村人たちの瞳にあったのと同じ光を。
もう、こいつは仲間ではない。自分たちに不幸をもたらす、排斥すべき異物だ、と、無言のうちに宣言を突きつけられた気がした。
一瞬の見つめ合いの後、幼馴染の方が先に視線を落とした。微かな溜息をついて、自分もまた、外に目を戻す。
闇は、何も映し出さない。底の知れない深淵が、むしろありがたかった。
「……で、今は?」
「若さまと一緒に、いったん引き上げていったよ。すぐに兵士を連れて戻ってくるから、それまでに犯人を捕まえておけ、って」
「戻った方が良ければ、戻るぜ?それで、村が助かるなら」
「…………」
幼馴染は小さく首を振って、携えてきた革袋を、そっとダグザの方に押しやった。
「……村長から。当座の食料と、路銀……これくらいあれば、境界を越えるまで何とかなるだろう、って」
ダグザは、外の闇から、革袋へ視線を移した。
「……つまり、『このまま出て行け、二度と戻ってくるな』ってことか……」
「ごめん……後のことは、何とかするから、って……」
「ばぁか。おまえが謝ることじゃないだろ……」
俯いてしまった砂色の髪に手を置いて、ぐりぐりと撫で回す。
「感謝してる、と……みんなに伝えてくれ。育ててもらった恩を、こんな形で裏切ることになって、すまない、と」
幼い頃に両親を亡くした自分を、持ち回りで育ててくれた。決して余裕があるわけではない農村の生活の中で、まともに農作業の人手がつとまる歳まで、誰にも血の繋がらない子供を養ってくれた。
「俺の家と畑は、誰か欲しい奴がいたら、もらってくれ。小さいけど、土も家具も新品だから」
木の切り出しから始めて、やっと建てた家だった。村はずれの荒地を開墾して、やっと収穫が出来るようになった畑だった。これで村の居候ではなく、一人前と認められると、喜んだのは去年の秋。
「……それから……、……」
髪から手を離し、掌で包むように両肩を掴んで、俯いたきりの顔を覗き込むように顔を寄せる。涙に潤んだ鳶色の瞳を見つめて、囁くように、最後の頼みを告げる。
「……俺の家の、寝台の枕もとに、花模様の小さな箱がある。それを、彼女に渡してくれ」
楽しみにしていた収穫祭は、きっと中止だろうけれど。贈り物と一緒に告げるつもりだった言葉は、永遠に届けられなくなったけれど。
幼馴染は、戸惑ったように瞬きを繰り返し、やがて、おずおずと頷いた。
「さて……」
名残にぽんぽんと肩を叩いて、ダグザは立ち上がった。
「夜通し歩けば、朝には峠まで行けるな。村の捜索隊が出るのは、夜が明けてからだろ?」
山向うは、隣村の管轄になる。山を越えてしまえば、村は彼を捕える義務も権利もなくなる。
「……ごめんな。みんな、知らん振りで……おまえだって村の一員なのに、何もしてやれなくてごめんな……」
「何言ってんだ。ここまで、これを持ってきてくれただろ?」
革袋を軽く叩いて、背に負う。
「それに……俺は、覚悟してたさ。いつか、こうなるかもしれない、ってのは。みんなに自分の子供みたいに育ててもらったけど、俺……知ってたから」
例えば、食べ物が底をついた時。例えば、寒い冬の夜。
大人たちは、自分の子供に優先的に食べ物を与え、毛布で包むものだと。
誰かを捨てなければ他が生き延びられない時、自分は真っ先に捨てられるのだろうと。 恨みには思わない。親なら自分の子供を大切に思うのは当然だろうし、道端に捨てられて食べ物も寝るところもない町の浮浪児たちに比べたら、自分は恵まれていたのだと思う。
「だから……いいんだ。俺は、一人で生きていける」
「……おまえは、強いから。俺、結局何をやっても、おまえに勝てなかった」
「いいんだよ、おまえはそれで」
秀でるものが何もなくても、家族に愛されているのなら、生きているだけで充分なのだ。
「……じゃあ、な……」
ことさらに軽い別れの挨拶とともに、闇の中に一歩を踏み出す。差し出されたカンテラは、笑って断った。峠までは慣れた道だ。明かりがなくても、迷うことはない。むしろ、気弱な幼馴染にこそ、灯火は必要だろう。
「なあ……俺、忘れないから。おまえのこと、絶対に忘れないから!」
背に追いすがった涙声に、小さく手を振って応えた。夜目の利かない幼馴染には、見えないだろうと知りながら。

やがて。
峠の山道から、最後に一目、と朝日を浴びる生まれ故郷を見下ろした時、ダグザは幼馴染の最後の言葉の意味を理解した。
村はずれに立ち昇る太く白い煙。朝食を用意するかまどの煙とは明らかに違うそれは、一晩かけて焼き払われた彼の家と畑の名残。
これが、罰だった。村全体に累が及ばないよう、農民風情に息子を傷つけられた領主の怒りを静め、恭順の意を示すために、村から彼の存在を抹殺した。
怒りはなかった。涙も出なかった。やっぱりな、と心のどこかで呟くほどに。
忘れてくれればいい。負い目に思うくらいなら。誰が覚えていようといまいと、二度とここには戻ってこれない。
吹っ切るように深呼吸をして、前の道に目を転じる。
峠を越えたら、隣の村。その先の山を越えると、街道。街道を辿ると、宿場町。そこから先は、行ったことがない。ただ、道はやがて河にぶつかり、そこが、領地の境界だと聞いている。
前を見つめて歩き出した顔は、二度と振り返らなかった。

遠くに潮騒を聞きながら目覚めた宿屋で、枕もとで朝日に光る小さな貝殻を眺め、ダグザは苦笑した。
「……こいつの、せいか」
昨日、海岸を散歩した時に見つけたその貝は、柔らかい光沢を帯びた淡い紅色をしていた。その色にふと既視感を覚え、何の気なしに拾ってきた。
そして、夢を見た。今ではもう、ほとんど思い出すこともなくなった、懐かしい昔の光景を。
同じ色をした口紅を入れた花模様の小さな箱は、あの時、小さな家と小さな畑と一緒に燃えてしまった。
「もう、十年か……」
彼女も今では誰かのおかみさんになって、農作業と子供たちの世話に追われているのだろうか。気弱で優しかった幼馴染も、一家を構えているのかもしれない。
小さな薄い貝殻は、ダグザの太い指で触れただけで割れそうに脆い。
「下の食堂の姉ちゃんにでもやるかな……いや、ここじゃ貝殻なんざ珍しかねぇか」
ならば、海へ還そうか。波が砕いて、砂に変えてくれるだろう。
「ダグザ!てめぇ、いい加減に起きやがれ!」
扉の外から、仲間の声がそう怒鳴った。
「いつもいつもいっつも、人に起こされんのを当てにしてんじゃねぇよ!とっとと下りてこねぇと、てめェ抜きで仕事に行っちまうからな!」
おまけとばかりにドガッ!と扉を蹴ったヘビーブーツの足音が階段下へ去っていくのを聞きながら、ダグザは首を竦めて寝台を下りた。
「へいへいっと……これでも昔は、日の出前から畑に出て働いてたんだぜ……」
今じゃ自分でも信じらんねぇけどな、とひとりごちて窓に寄り、大きく伸びをする。
窓の外は、吸い込まれそうな青空だった。
あの日、蹄に蹂躙された畑は、今年も金色に染まっているのだろうか。
ふうわりと記憶によみがえった小麦の香りは、風に乗って運ばれる潮の香りにかき消された。
身支度を終えて部屋を出る頃、枕もとの小さな貝と懐かしい夢は、ダグザの意識からすっかり消えていた。

END