そこには音がほとんど無かった。ただ僅かに、自身の服が立てる衣擦れの音や、歩く際に漏れるこすれるような小さな足音。自然とそうあるのでは無く、何処となく厳粛な空気がそうさせている。
(こういう雰囲気は苦手なんですけど)
内心で密かに溜息を吐き、居心地の悪いまま彼は歩みを進めた。目指す扉までの僅か2・30歩の距離すら遠い気がする。
「……これでもし居なかったら僕はどうすればいいんでしょうね」
「ファーン様」
扉まで後20歩の所で油断した。
小さな呟きとほぼ同時に背後から声をかけられ、彼の心臓が跳ね上がる。平静を装って後ろを振り返ると、そこにはよく知った顔があった。慌てて自分の通った道を追いかけてきていたのだろうか、肩で息をしていた。
「すみません、本来なら私がご案内申し上げなければいけなかったのですが」
「ああ、気にしないで下さい。ちゃんと通してもらえましたから」
侍祭の位を示す装身具と簡素な神官服を纏う少女は、恐らく自分より忙しい事だろう。そう思い、案内を頼もうかという門番の提案を断って、ここまで一人で歩いてきた。
「ですが、色々と……不自由なのでは」
言いよどむように一瞬言葉を途切れさせた少女の暗褐色の瞳には、憂いと謝罪の色が濃く顕れている。
「大丈夫ですよ」
少女の言葉の意味するところはよくわかっているが、そこまで神経質になる事も無いだろう。多分。
「それより、ティアマラは自室の方にいらっしゃるんですか? 呼び出すならたぶん居るのだろうと、さっさと此方にお邪魔してしまったんですが」
「はい、おいでにおなりです。今日はもう巫女の役は終わりましたから」
どうぞ、と自分の先に回って歩き出す少女の後に続く。彼女が加わった事で、主に精神的な意味で先程までより随分楽になった。
「今回は、どのくらい滞在されるのですか」
「そうですね……今日はとりあえずこの街に泊まって、明日には出るつもりです」
少し考えながら言うと、少女の声が意外そうに揺れた。
「短いのですね」
「話さなきゃいけない事は色々ありますけれど、それ以上に見なくちゃいけない事が多いので。もうすぐ南の方でお祭りがあるそうですから、そんなにゆっくりは出来ないんです」
見逃したら来年まで待たなければと笑うと、少女は呆れたようにやはり笑みを零した。
「ティアマラ様がちっとも寄り付かないとおっしゃる筈です。此方においでになっても、すぐに何処かへお行きになってしまうのですね」
「うーん、一個所に留まるより世界を見たいんですよ。それに、あれとあれに関する話を知りたいから聞いてこいって無茶言うのは、ティアマラですけど」
「そうなのですか?」
やや驚いた様子で目を見開く少女に、彼はおや、と内心首を傾げた。が、すぐに彼がかつてティアマラと交わした約束を彼女は知らない事を思い出す。ティアマラも、特に話さなかったのだろう。
「そうなんです。半ば自主的でもありますけれど、ティアマラが巫女に上がる時に約束したんですよ。世界にあるありとあらゆるものを届けに来る、と」
懐かしさが胸を過ぎる。あれからもう何年経ったのか。自分の背丈はあの時より伸びたし、出来る事も知っている事も随分増えた。目の前の少女にしてもそれは同じだろう。
「……あの時ティアマラは、今の自分が心から信頼出来るのは君と僕だけだと言っていました」
数年。人が少しでも変化する為には、それだけでいい。
ティアマラが、何年もかかって人の信頼を勝ち取ったように。最初の頃囁かれていた、これまでに類を見ない破天荒な巫女に対する不安が、訪れる度に和らいでいるように。
「……わかるような気もします。私も、あの頃は不安でした」
「今よりもっと厳しい雰囲気でしたからね。昔は僕を胡散臭そうに見ていた門番の方も、最近だと随分対応が柔らかくなってきてくれています。顔馴染みになったおかげもあるんでしょうね」
「リムとルタですね。二人とも、ファーン様の歌をじっくり聞きたいと申しておりましたよ」
「それは光栄ですね」
20歩の距離は、あっという間に過ぎた。
「失礼申し上げます。ティアマラ様、いらっしゃいますか?」
『どうぞ』
そっと扉を叩く少女の声に、扉の向こうからすぐさま返事があった。扉を開き、お先にどうぞと言った言葉に甘え、彼は室内に入った。
もとい、入ろうとした。
「わ!」
「っ」
入ろうとした所を上から落下してきた何かに頭を強襲され、彼は思わず大きく一歩下がった。背後で自分に続こうとしてぶつかったらしい少女のくぐもった声が聞こえたが、とりあえず耳を傾ける余裕は無かった。
「ティアマラ!」
声を挙げながら再度室内に踏み入り、今頭上から襲い掛かってきたものをまじまじと見る。何の事は無い、凝った刺繍のクッションだった。
「……お招きに応じてお抱え楽士戻りました。とりあえず、姿を見せて下さいね」
「ここに居るわよ」
一気に脱力したくなるのを堪えて室内を見廻していると、横合いから突然声をかけられた。内心でやはり心臓がダンスを踊ったが、意志の力で表情には出さずに振り向く。
「……こんにちは。随分な歓迎ですね」
「ふふふ、この間やっと使えるようになったのよ、これ」
風よ、という小さな呟きと同時に、件のクッションがふわりと空中に浮き上がる。まさかこれを試す為に呼び付けたんじゃないでしょうねなどと思いつつ、背後に居た少女にぼそりと言う。
「元気そうですね」
「ええ、とても」
「コラちょっと、何で私に言わないの?」
「いえ別に」
指一本でクッションを自在に動かしているティアマラの抗議に、すぐさま彼は首を振った。もう一度クッションをぶつけられたくは無い。
「とりあえず、色々お土産話があるんで、座っても構いませんか」
「あ、はいはい。……どうぞ♪」
言うと同時に、室内に既に用意されていた三人分の椅子の一つにクッションが舞い下りる。椅子は三脚で、残りの二脚には既にクッションが用意されていた。
(まさかじゃなく、これがやりたかったんですね)
思った事も敢えて口に出さない賢さというものをある程度心得ていた彼は、礼だけを述べて椅子にかけた。先程頭を襲ったクッションの座り心地は、哀しい事にそれほど悪く無かった。
「ちょっと待っててね、今お茶の用意するから」
「あ、それでしたら私が」
「いーのいーの私はもう今日する事無いし。ゆっくりしちゃってよ」
言い切ってさくさくとお茶の用意を始めてしまったティアマラを見て、暫し迷ったが彼女も椅子に腰掛ける。
「あの……ところでファーン様。先程の約束というのは、一体?」
「え?」
部屋に入った早々に起きた事件のインパクトにそれまでの危うくそれまでの会話を忘れかけていた彼は、思わず間の抜けた声を挙げた。すぐに気を取り直すも、自分でも自分の動揺っぷりが少々情けない。
「あー……ええとですね、ティアマラが巫女に上がった時の事なんですが」
「私が?」
いつのまにかお茶の用意を終えて近くに来ていたティアマラがすぐ横の席で首を傾げていた。心臓が本日三度目のダンスを踊りそうになる。この二人は、日頃から気配を消す訓練でも積んでいるのだろうか?
「……君が巫女に上がった時、約束したでしょう。君が知識を得る手助けをすると」
「あっ、アレね。そうそうそう、今でも感謝してます」
「はあ」
なのにクッション。情けない気持ちで考えつつ、彼は曖昧に相槌を打った。まだいまいち要領を得ない様子の少女に対し捕捉する。
「神殿の中で得る事が出来る知識には限りがあります。ただ巫女であろうとするなら、それでも構わなかったのでしょうけれど」
「私、そういうの嫌なの」
あっさりと続けるティアマラに少女は一瞬呆けた表情になり、そして納得したように深々と頷いた。
「承知しました。お陰で、最近神殿の風通しが随分良いようです」
「……それ嫌味?」
「え? いいえ、そんな事はございません」
「あ、残念。嫌味だったらかなり凄かったのに……いッ」
「ほほほほほ。うん、私与えられた役割だけに甘んじるより、もっと自分に出来る事を広げたかったのよ♪」
賞賛すべき迅速さで彼の足を踏みつけ、天使の如き笑顔でティアマラは言った。少女が彼を見て同情するように眉根を寄せる。
『なんだか不思議。私、さっきまであそこに居たのにね』
それまで袖を通した事の無い巫女の服を纏った彼女は、あの日街を見つめてそう言った。
『……私は何もしなくていいらしいよ。前は、朝から晩まで走り回っていたけれど』
小さな呟きを聞いた時に僅かに胸が痛んだ。彼女と彼女の母親がこれまでずっと大切にしていた、街外れにある小さな食堂で彼女が明るく笑う事はもう無い。
『誰が決めたのかしら。ただ祈り続けるだけで周りを救うなんて』
白い巫女の衣装は彼女にとてもよく似合っていた。額に下げられた小さな飾りが、両腕を飾る幾つもの環が、彼女という存在を際立たせ、一層完全にする。人間の少女の姿をしていた、全く別な者に。
すぐ傍に居る人を遠く感じてしまうのは、自分が弱いか相手が弱いかどちらかだ。そんな言葉を思い返しながら、何も言えないままその細く強い肩を見ていた彼を振り返り、彼女は強くはっきりと尋ねた。
『ねえファーン、一つ頼まれてくれるつもりは無い?』
……今でも覚えている。あの時の力強い瞳を見た瞬間の言い知れない気持ち。何か強いものに揺り動かされるような。あの瞳を見た瞬間、自分の中で何かが決まった。根拠も理屈も無かったが、小難しい事など必要無いと言うような、強い確信だった。
これから自分の見つけ出す物語は、全て彼女の為にあるのだと。
「とりあえず、この足を退かしてくれると、土産話も随分語り易くなるんですけどねぇ」
「あらやだ足が滑っちゃった♪」
「……僕が悪かったです、だから心と力を込めて足を踏むのは止めて下さいっ……」
道を誤ったかなーと考える時も、決して無いわけでは無いのだが。
FIN
あとがき:
ファーンと彼の想い人のティアマラさんと、あともう一人のお話でした。女の子の方は結局名前が出せませんでしたが、名前の無いままでも話が進んだので、そのまま通してしまいました。考えてはいたので少々残念です(^^;)
……とりあえず、三者の性格の大体をわかって頂ければ。はい、はっきり申し上げて、ファーン君は気の強い女性に弱いです(笑)