『水の銀貨』
「アレは暑い日の事だったかな。」
ジャン――ジャニアス=ホーキンスは精秘薬商会に集まっていた面々を前にそう語り始めた。
「…なんですってよく聞こえなかったもう一度言ってみて。」
宿の一階の軒先。最近、この地方で流行っているというオープンカフェ。
白い開襟シャツの腕を肩口ほどまでまくり上げた女性が腰に手を当てて立っている。際だった顔立ちの美人だが、今は眉をつり上げてやや怒りの表情を浮かべている風に見える。
「……だから、さ。」
そして、丁度その女性の正面に座っている青年。年齢は後数年で三十歳に届こうかといったところだろうか。
年齢不相応の白髪と切れ長の黒目。だが、切れ長というより、いっそ鋭いと言った方が的確なのかもしれない。
その目付きは今は困り果てた表情を浮かべている。
「だから、なに?」
一言一言を強調するかのように彼女は口を開く。そのたびに顔がずい、と近づいて彼女のショートの黒髪が揺れる。
「…だから、さ。明日の朝食を食った時点でコーヒー一杯飲むような金も無くなるって言うてるの。」
その言葉を口にした途端、彼女の表情を見てみる。
驚愕。憤慨。失意。混迷。
それを見て、一言言ってみる。
「百面相やな。」
「誰のせいだと思ってるのっ!?」
つまりこういう事だった。
考古学者のザクロ=デルファは焦っていた。公国考古地理研究院での修士論文を書き上げるためのネタが無かった。
これは彼女の怠慢と言うわけではなかった。冒険者による度重なる秘境の発見。盗賊による遺跡の盗掘。それらが彼女ら学者の研究を妨げているのであった。
学者に求められているのは厳格な事実に裏打ちされた理論実証である。しかし、そのネタが無ければ求められる物を提供する事さえ出来ない。
「だからってアンタに頼ったのは間違いだったわね。」
そうザクロは言った。
研究材料に飢えた彼女が頼ったのは各所を脚で廻り、情報や顧客を得て薬の行商を行う友人のジャニアス=ホーキンスだった。彼は前職が帝国内務省の外交関係職だった事もあり、諸国の地理や風俗に詳しく、その知識を彼女は最後の賭にしたのである。
「俺のせいかよ。」
「当然でしょ。どこの世界に旅費に困ってる旅人にお金貸す行商がいるのよ!」
「ホラ、なんていうかそりゃ、アレだ。人として…」
「明後日までにお金が入らないとこっちは人としてダメになるの!」
バン、とカフェのテーブルを彼女は叩く。
その彼女の仕種を見て、通りすがりの人々がひそひそとささやく。
「ねえ、アレって絶対別れ話よ。」
「すっげえなあ、あんな美人。いっそ俺に回してくれれば良いのに。」
「役所に離婚届け出すまでみてよっか。」
その衆目の会話を聞いてザクロが思わず振り向いて叫ぶ。
「外野は黙ってて!」
「早くおうちに帰りてえ…」
ジャンが天を仰いでいる間にも衆目は増え続けていた。
取り合えず意味も無く集まった野次馬を解散させて、再び席に戻る二人。
「…それで、何か考えはあるんでしょうね。よもや何の考えも無しに旅人にお金を貸したなんて言わないわよね。」
殺されかねない笑顔でそう言われた瞬間、ジャンの目の前に様々な思い出が映し出されていく。
楽しかったこと。
つらかったこと。
「これが走馬灯かあ。」
「…何も考えてなかったのね。」
指先をこめかみに当ててザクロがうめく。
しかし、そこまでザクロが言うとジャンはゆっくりと目を開く。
「…とまあ、冗談はこんくらいにしといてだ。」
そう言うとジャンは上着の内ポケットからおもむろに一枚の紙を取り出した。
「なに、その小汚い紙切れ。言っとくけどアンタにビタ一文貸さないわよ。」
「…ケンカ売っとるんかお前。いや、違う。これ、地図でな。」
そのくしゃくしゃになった紙を広げると確かに地図だった。それも周辺地域の詳細地図の一部である。
地図は簡単な山や街道などを標した物は安価だが、今ジャンが出した地図は周辺街道一帯から詳細な地形、その地方の主な施設、公共機関までも詳細に標した物だった。こういった種類の物を用いるのはは地理学者か地図の作成士あるいは――
「――業務用、ね。どこから仕入れたのかは聞かないけど、あまり感心しないわね。」
ザクロが目を細めてジャンの方を見る。
彼女が言う『業務用』とはつまり『軍用』と言う事である。大陸に多数存在する国家の関係機関や騎士団等で用いられる。何に使うかと言えば重要拠点の占拠制圧。もしくは公安の維持に用いられるわけであるが、現在のように国家が乱立する時代では詳細な一枚の地図が権力者の心を惑わす事もある。
そして、その紙切れを出した当のジャニアス=ホーキンスは至って気楽な表情をしていた。
「ま、趣味で使うんやし。問題ないやろ。それより、ここ見てみ。」
そう言ってジャンが指差したのは広大な場所であった。
「…ダルムード砂漠?」
「そう。昨日居酒屋で…」
「部屋に帰ってないと思ってたら一人で呑みに行ってたのね!?」
「はうっ、い、いや、そーやけどまずハナシ聞いて下さいっす!」
触れてはならないキーワードに触れてしまったらしく、剣幕になりかけるザクロに反射的に下手で応対するジャン。
「その居酒屋ってのが冒険者の宿も兼ねてるらしくって、そこで面白い噂を聞いてきたんや。」
「砂漠で道路工事のバイトとか言うのなら行かないわよ。」
「するかそんなん!て言うか死ぬわっ!!」
半眼で彼女のほうを見てジャンがうなだれる。
「ともかく、いや、ともかくやなく。砂漠に遺跡があるらしいねん。」
「そりゃあるでしょ、あんなだだっ広いところ。盗掘済みの遺跡がね。」
指先で前髪を跳ねさせつつザクロが返すと、ジャンはさも「分かってないなあ」という風な表情で彼女を見返す。
「…なによ、その反抗的な態度は。」
「人の事言えんやろが!…いやどうも、何度か試みたヤツがいるらしいねんけど誰も帰って来な…」
「行くわよ!」
「最後まで聞かんかいっ!!」
成功例が無い事を聞いた瞬間に立ち上がるザクロに半ば諦めた表情で天を仰ぐジャン。
そしてそのジャンをよそに、早々と大きなカバンを抱えザクロが立ち上がる。
後年、ジャニアス=ホーキンスは後世に残る名言をする。
「時は金なり。」
鉄で出来た部屋の中で声が響く。
「神は何をお望みなのだ!」
白いローブを纏った男性がそう絶叫した。
彼の目の前には黒いローブを纏った同じ様な男性がいる。
「なにを、だと。」
「そうだ!神は我らをこのような場所に追いやって一体何をお望みなのか!」
「神は何も望んでなどいない。望んでいるとすればそれは――」
黒いローブを着た男はふりむき、にやりとした笑みを浮かべてこう言った。
「――潤いをだ。」
彼と彼女は古びた廃虚の前に立っていた。
4時間前に町を出てから休まず歩き続け、辿り着いたのはまるで田舎の一軒家のように構えている、砂漠の中の廃虚だった。
「ここかな。」
そうジャンが言う。その声音には「もう歩きたくない」というニュアンスが如実に表れていた。
「そうね。」
そうザクロが言う。その声音には「今日はここまでにして寝ましょうか」というニュアンスが如実に表れていた。
しかし、二人に休息などありえはしない。
最低限の金目の物を見つけるまでは。
はたして、二人の目は声色とは別の強い意志が表れていた。
「ん。」
廃虚の開いたままの門のそばまで来るとザクロが足元を見てふと呟く。
「どした?」
「コレ、見て。」
彼女が指差す下を見ると、まだ砂の上に新しい足跡が数人分。廃虚に向って続いていた。
その跡を指でなぞるようにしてジャンが口を開く。
「冒険者か…最悪、盗賊の類かな。」
「どっちも似たようなものでしょ。」
ザクロの言っている事が正しい。無論、自分達の事は棚に上げてだが。
「良い盗賊とかだと良いけどな。」
「そういうのは盗賊って言わないでしょ。」
今度もザクロが正しい。
そこまで言われるとジャンは少しむっとしながらも腰に巻きつけてあった袋から一枚の紙を取り出す。
「口伝によると、ここにはかつて二人の神の使徒がいたんだそうだ。もう気の遠くなるような昔やろうけどな。
そして二人に与えられた役目は『潤いを護ること』らしいな。」
「潤いを護る…なにかしら。まあ砂漠だし潤いって事は水だろうって事は想像出来るけど…」
ジャンの説明を聞いてザクロがその形の良いあごに指をそえる。
それを見つつ、一歩廃虚に踏み出してジャンが彼女の方を見る。
「まだ続きがある。二人の使徒には同じ目的で別の役目が与えられていた。」
「別の役目?」
「そう。白の使徒には潤いを維持させる役目が。黒の使徒には――」
そこまで言うとジャンはまるでお手上げとでも言うように肩をすくめた。
そのジャンの仕種を見て、彼女は分かりきってるわとばかりに半眼で彼を見る。
「――誰も知らなかったのね。」
「いや、聞いてるヒマがなかっただけ。」
「きっちり聞いてきなさいよっ!」
「人が遺跡のハナシをしただけで速攻で出発したの誰やねん!」
そうジャンが切り返すとザクロは背負い袋を持って爽やかにこう言い放った。
「さっ、ジャニアス君!行きましょう、砂漠って楽しいわね!」
そう言うとザクロは廃虚に向って歩き始めた。
そしてその切り替わりの早さを見てジャンは言いました。
「リアルな夢やな。」
ジャニアス=ホーキンス。26歳。
現実逃避が様になってきたある砂漠での出来事だった。
「馬鹿な!貴様は自分の言っている事が分かっているのか!」
白のローブを着た男性はそう言った。
鉄の一室。無機質な空間。
「ああ。これが私に与えられた役目には一番都合の良いやり方だと考えるのでな。」
黒のローブを着た男性はそう言った。
彼の手には透き通った水色の物体で作られた獣のオブジェが握られていた。
「しかしどうするつもりだ。いずれ我らは神の下に戻るのだぞ、そのようになっては――」
白のローブの男性がそう言いかけた時、黒のローブの男性の腕がすっと上がる。
それは、「もう聞きたくはない。」という拒絶の意味であったのか、白のローブの男性は口をつぐむ。
「どの道――」
そう口を開くと同時に黒のローブの男性が握っていたオブジェが淡く光り始める。
「――どの道、神は我々を戻すつもりなどないのだ。」
石造りの廃虚の中に入った二人は我が目を疑った。
「鉄の内装だわ。こんな所にどうして…」
彼女の学者としての知識で言うと、砂漠の真ん中に鉄の内装を施した館を作ろうとするのは現在の技術では困難を極める。
そもそも大量の溶鉄を必要とし、さらに内側から固定するには巨大な釘の様な物質が必要なはずであるが、内側から見る限りではその工程を示す物は何も無かった。
「うん、おかしいよな。」
ジャンにも疑問があるらしい。
「鉄を内装にするなんて、全部屋サウナにする様なもんやぞ。しかも固いから寝る時痛いし。」
疑問の次元が違ったようだ。
そのジャンの疑問は取り敢えず無視して、ザクロは上着の内ポケットからメモ帳を取り出す。
そのメモ帳の側面は既にかなり使い込んだ跡が有り、皮製のカバーだけを何度も使い古しているように見えた。
少し進むと、二つの階段が有った。
一つは上へ。
一つは下へ。
二人は全く同時に振り向くと「当然だな。」とお互いの表情でまず確認してから同時に口を開いた。
「上ね。」
「下やな。」
一瞬の沈黙。
そして、二人は全く同時に握り拳をお互いの前に差し出す。
目には闘志とも怒りともつかぬ強い意志が灯り、まるでこれまでの疲れを感じさせぬ勢いがその空間を包む。
それからお互いの隙を見つけるかのように、考えを探るかのような一瞬の間の後。
「「じゃんけんぽんっ!あいこでしょっ!しょっ!しょっ!」」
極めて平和的な戦いがその空間を包む。
しかしそれは、近所の市場で夕食の食材を勝ち取る為の主婦の戦いにも似た壮絶さも有った。
「しょっ!おっしゃああああっ!!下やああああっ!!」
最後に指二本を差し出すポーズでその手を天にかざし勝ちどきを上げる戦士の様に叫ぶジャン。
「…馬鹿は強いとはよく言ったものね。」
一方のザクロは手の平を広げた状態で若干涙目になりつつ、半眼で彼を睨む。
「さー、下、下に決定。」
「どうでもいいけど、地下を選ぶ根拠はなに?」
そうザクロに問われ、ふと階段の方を見て。
「なんとなく財宝とかって地下に多そうやし、それに疲れたから下りの方がエエかなって。」
「聞いた私が悪かったわ。どうせそんな事だろうと…」
「理由はもう一つある。」
勝負を付ける為に降ろしていた背負い袋を持ち、ジャンは言った。
「なに?」
「水が関係してるならば地上よりも地下。金銀財宝を考えても同じ。それと――」
そこまで言って下り階段を指差す。そこには誰かが歩いて落していったと思われる砂粒が有った。
「――冒険者か盗賊の鼻をアテにしてるってワケね。」
「そういう事。まあ財宝探しは専門外やからな。プロの足跡を辿って遺跡の解けた謎だけ聞いて帰ってもそっちはなんとかなるんやろ?」
「まあ、そうね。」
そう言うとザクロも背負い袋を背負い階段に向って歩きはじめた。
地階へと続く石造りの螺旋階段を半ばほどまで来た頃、ふとジャンが手でザクロを制する。
彼女がこちらを向くと、彼は耳をすませとの合図のように耳に手をやる。
すると、少し下の方から剣撃の音が聞こえてくる。
そして僅かに時をおいて断末魔の声が響きわたる。
それを聞くと、ジャンは至極真面目な顔つきでこう言った。
「帰ろう。」
「待って。」
言ったが早く、くるりと反転して階段を上ろうとするジャンの襟首をザクロががしりとつかむ。
そしてつかまれた本人は「やっぱし」という諦めの表情で再び反転する。
「剣撃が止んだわ。」
「そりゃー、どっちかが勝ったんでしょーよ。」
もはや隠密行動は諦めたのか煙草をくわえて火を点けるジャン。
直後。
何者かが階段を駆け上がってくる音が近づいてきた。
流石に危険と思いザクロに最後の忠告をしようと彼女の方を見ると。
「おい、ヤバいぞコレ…あれ、…ザクロ?」
ふと見ると三十段ほど上の階段を駆け上がるザクロの姿。
「…やるやんけ。」
そう一言言うとジャンも死にもの狂いで階段を駆け上がりはじめた。
依然、彼の後ろからは何者かが――足音から恐らく一人――駆け上がってくる音が続いていた。
そして一階のフロアが見えてくると、既にザクロが両の手に大型のナイフを構えているのが見えた。
どうやら逃げたのではなく、先に退路を確保し体勢を取っておくるもりだったらしい。
だが、それでも、走りながらでもジャンには言う事があった。
「一言言えよお前!!」
「てっきり分かってるんだと思ったわよ!!」
ようやくジャンも駆け上がり、右手に握り拳を作り左手に手刀を構える。
「来るわよ!」
そうザクロが言うと、一人の白い皮鎧を着た男が剣を携えて駆け上がってくる。
剣を持っているが、魔術も使えるかも知れない。
一人に見えるが、まだ後ろには仲間がいるのかもしれない。
そう二人は瞬時に考えを巡らせる。
だが次の瞬間、男が言った言葉は二人の予測を裏切るものだった。
「バケモノが来る!逃げろ!!」
それを聞いて一瞬顔を合わせる二人。
しかし、次の瞬間には反射的に上への階段を駆け上がっていた。
その階段を駆け上がりはじめると、後ろからは聞いたことも無い魔獣のような咆哮が聞こえた。
「どういう事だ!?」
そう白いローブを着た男が叫ぶ。
目の前には既に体の半分までが青い輝きに包まれかけた黒いローブの男が立っていた。
「神は我々を戻すつもりなどないと言ったのだ。」
それを聞くと目の前の白いローブの男は絶句する。
その様子を見て哀れむような慈しむような目で黒のローブの男は言った。
「神は私が発つ時にこう申された。…渇きの地はいずれ広がりこの大地を覆い尽くすだろう。そうなれば我らが子は生きる術を失う。よいか。そうならぬ様、お前達はその地の一つに赴きそれが広がらぬように管理するのだ。と。」
そう言ったが最後、黒のローブの男は透き通った水色の輝きを持つ獣になっていた。
ドン!ドン!!と扉の向こう側から何かが恐ろしい勢いで体当たりするのが分かる。
あの後、ジャンとザクロ。そして後から駆け上がってきた男の三人は三階の一室に逃げ込んだ。
その部屋はどうやら玄室であったらしく、三人が入った瞬間に鉄の扉が閉まったのだった。
しかし衝撃が度重なるにつれ、その鉄の扉も外側からひしゃげてきている。
どうやら突破されるのは時間の問題らしい。
「…どうやら物凄く怒ってるらしいなあのバケモノ。何か悪さでもしたんかお前。」
そう息も荒く、ジャンが男に問いかける。
「馬鹿言え。」
言うと男は深呼吸をして、幅広の剣を床に置く。
「勝手に襲ってきやがっただけさ。」
「それにしちゃあ、給料日前に取っておいた保存食勝手に食われた奴の勢いに似てるけどなあ。」
「随分具体的だな。」
そう男が言うとジャンはザクロの方を見る。
するとザクロは反対側を見る。
どうやら実話らしい。
「それで。あなた何者?盗賊にしては武器がまともだし、冒険者にしては装備が少なすぎるわ。」
そうザクロが切り出すと男は「かなわんなあ」といった顔をしたが話そうとはしない。
「当ててみせようか。」
そうこの状況下にあって至って楽観的なジャンの声が鉄の部屋に響く。
「その幅広い剣。鉄だが鏡面の様に磨き上げられた鋼鉄の剣。聞いたことがある。大陸北西部の広大な森林地帯を拠点にするローウェルダン教国。その教国に所属する騎士、兵士の中で特に優れる三十人の戦士に与えられる剣。名前は確かディフェンダーだったか。有名な竜殺剣イセベルグを名匠が真似て作った名刀。そしてそれを扱う者の総称をテンプルコマンドって呼ぶらしいな。」
外から扉を突き破らんとする音が定期的に響く中、冷静にそう男に話し掛ける。
「詳しいな。その通り。俺の名はオーリス=ヒューズ、教国の騎士だ。だが、俺も聞いたことがあるぞ。」
そう言うとザクロが先程まで持っていたナイフを指差す。
「それは中原のランドニクス帝国の無紋ナイフだな。本来騎士はその剣に国や家の紋章を刻んで忠誠の証にするものだが、それは敵の手に落ちてもどこの手の者か分かり難くする為に紋章が省いてある。しかも黒塗り。ということは帝国国防総省で特殊な任務を主とする人間と言う事だな。…それから――」
ザクロの方を見ていたオーリスは今度はジャンの方を見る。ザクロとはまた違った見方のような気がした。
「――勘だがな。帝国内務省の監察官にかつて有能な男が居ると聞いたことが有った。帝国では将軍や大臣を有事の際はジェネラルと総称し、その四人のジェネラルの下におのおの八人の有能な直属の部下がおり、それをジェネラルスタッフと呼ぶ。彼等は我々の様に特別な武器を持っているわけではないので、一般人と区別が難しいが、その業界の噂では全員が白い髪なんだそうだ。」
そう男が言い終わるのを待っていたかのようにジャンが煙草に火を点ける。
そして一言だけ男に言い返した。
「へー。」
ただ一言だけの返事。
しかし、彼の目を見ただけで男が判断するには充分だった。
話が終わる頃には扉はほとんどひしゃげ、ものの一分経たずにオーリスが言う所のバケモノが入ってくる事は確実だった。
「一つ聞いてもエエか?お前、なんでこんな遠くまで来たんや。」
ジャンがそう問うと男は苦笑して扉の方に剣を構える。
「教国は今年は水不足でね。そこに砂漠に水を生み出す秘法が有るって話がどこからか舞い込んで来てな。それで傭兵を雇って冒険者をとして来たんだが、高い金払った傭兵が全員やられてね。まいったよ。」
「という事はやっぱし財宝があるってのは本当の事やったワケやな。」
「そう。まあ、しかしそっちは良い身分だな。そんな可愛らしいお嬢さん連れて。」
そこまでオーリスが言うとザクロは半分演技で顔を赤らめる。
「お嬢さんだなんて…いやだ、お上手ですわね。」
「微妙な所で反応すんなよ24歳8ヶ月。」
言った瞬間、ザクロの首がぎぎぎいっと、ジャンの方に向く。
「アンタ後で殺すわよ。」
「ひいっ!?すんません!!」
「バケモノより恐ェえ…」
どうやらオーリスは言う相手を間違えたようだ。
そこまで話し終えた瞬間、計ったように鉄の扉が吹き飛ばされる。
そして扉の入口には水色の輝きを持つ獣が悠然と立っていた。
「来るぞ。」
オーリスは右手でディフェンダーを水平に構える。
ザクロは再び黒塗りのナイフを逆手に持ち、防御の構えで魔術の詠唱に入る。
ジャンは左手で手刀を作ると一歩前に出る。
全員の体勢が整うと獣はその場から動かずにその口をぱくりと開く。
次の瞬間氷の刃が吹き出される。
同時にザクロの詠唱も完了する。
「――盾となり城となりて刃を防げ!!」
ジャンの一寸前方に光のレンガが積みあがり氷の刃が跳ね返される。
最後の刃が跳ね返されるのと同時にジャンが間を詰め獣に手刀をねじ刺そうとするが寸前で突進され吹き飛ばされる。
そして次のタイミングを見計らったかのようにオーリスが驚くべき速度で剣を薙ぐが獣を覆う氷の体皮に阻まれる。
「くそっ!!」
剣がはじかれるとオーリスは二段目を切り込もうとするがジャンと同じく肩口に突進を食らい数メートル先の鉄の床に叩き付けられる。
その間にザクロが次の詠唱を完成させ、獣に対してはその無謀とも言えるナイフで斬りかかる。
「――刃よ炎獄の記憶を呼び覚ませ!!」
途端にナイフが暗く赤いまるで溶鉱炉の様な色に染まり熱を帯びる。
そしてそのナイフで斬りつけるとおびただしい水蒸気と共に赤い刃が突き刺さり根本で折れ飛ぶ。
「っ!」
ジャンやオーリスと同じように吹き飛ばされると考え、瞬時に身を固めたザクロだったが獣は反撃には出てこない。
「動きが止まったわ――」
そう言い終わる前にいつの間に接近してきたのか頭から流血したオーリスの剣が獣の胴を薙ぐ。
直後に強気な西方弁が響き渡る。
「よっしゃドーピング完了や!!」
腰の薬袋から粉薬を取り出して服用したジャンが一瞬で獣の背後に回り込み、その手刀を背中に突き立てる。
すると先程までザクロが突き刺したナイフの周りにだけ噴出した水蒸気が獣の体全体から噴き出され、たまらず三人は後退する。
見ると水蒸気の中の獣の影はみるみる内にまるで人の影の様になり、その影によってそう見えるのか黒いローブを着た者が響く声でこう叫ぶ。
「…おお、神よ!これでようやく――」
終わりまで言えたのかどうか分からずに水蒸気の影が消えるのと同時にその人物の影も水蒸気と共に霧散したかのようにかき消える。その跡には一枚の銀貨のみが残っていた。
「なんだ、ありゃ?」
目から血を流しながらジャンは誰ともなしに問うてみる。
しかし、その問いに答えられる者はもう誰も居なかった。
そして落ちている銀貨をオーリスが恐る恐る拾う。
「この銀貨珍しいな、水色だ。」
「戦利品でしょ。」
ジャンの目に施療の魔術をかけつつザクロがあっさり答える。
いずれにせよ、三人はこの廃虚の三階が探索の終点だと考えていた。
万が一にも今の獣が複数出現した場合、太刀打ちが出来ない為である。
「出直すか。」
オーリスがそう言うと、ジャンとザクロもうなづいた。
だが、どちらにしろ二人はもうここに来る事は無いと考えていた。鉄に覆われた氷の獣が住まう宮殿。
ザクロが考古研究院に戻ればこれだけの情報と実体験が有れば、そこから文献を探し出し論文を書く事が可能だからだ。
数分後、荷物を持って廃虚を出た三人は度肝を抜かれた。
「ねえ、ここ…どこ?」
「いや、…どこって…」
目の前に広がるのは砂漠ではなくかたわらに出来た小さな池と、廃虚を中心に五百メートルほどにわたって広がる平原だった。
その先には自分達が渡ってきた砂漠が有るのだが、心なしかその砂漠がわずかずつだが緑に覆われていくように見えた。
「そうか、この銀貨。」
オーリスが手に持つ銀貨を見つめる。
「水を凝縮した物がたまたま銀貨の形状を持ったということかしら。」
いつものくせなのかザクロが指先をあごに軽く当てる。
「良かったやん。」
ジャンが煙草をくわえながら言った。
「それが有れば水不足なんか一気に無くなるで。」
「ああ、ホントにそうね。」
そうザクロも相づちを打つ。
オーリスはそんな二人の表情と銀貨を見比べて――
「そんなわけにはいかないだろう。」
――かたわらにあった池の中に投げ込む。
「うわ、勿体無い――げふっ!?」
「どうして――」
池にダッシュで拾いに行こうとしたジャンを軽く殴り飛ばしつつザクロが問いかける。
「神の教えに環境破壊は書いてないからな。」
にやりと男はそう言った。
「男前ね。」
「惚れそうかい。」
そうオーリスが笑いかけるとザクロはさも「残念だけど先客がいるの」とばかりに肩をすくめる。
そして二人が爽やかに笑っているのを何故か地面に寝転がりながら聞いているジャン。
「…なんや面白ろないなあ。」
そう半眼になってみるが、目の前に広がる平原を見るとやれやれ、といった感じで笑ってみる。
「――まあ、いいか。」
数年後。
地図にそれまで記載されていた『ダルムード砂漠』という場所は『ダルムード平原』という場所に変わっていた。その後、そこに街道が通る事になるのだが――
「……なんですってよく聞こえなかったもう一度言ってみて。」
宿の一階の軒先。最近、この地方で流行っているというオープンカフェ。
濃いブルーの開襟シャツの腕を肩口ほどまでまくり上げた女性が腰に手を当てて立っている。際だった顔立ちの美人だが、今は眉をつり上げてやや怒りの表情を浮かべている風に見える。
「……だから、さ。」
そして、丁度その女性の正面に座っている青年。年齢は後二、三年で三十歳に届こうかといったところだろうか。
「だから、なに?」
一言一言を強調するかのように彼女は口を開く。そのたびに顔がずい、と近づいて彼女のセミロングの黒髪が揺れる。
「…だから、さ。今日の夕食を食った時点で干し草一束買うような金も無くなるって事。」
その言葉を口にした途端、彼女の表情を見てみる。
驚愕。憤慨。失意。混迷、そして笑顔。
それを見て、一言言ってみる。
「街道工事にでも参加するか。」
「良さそうね。」