カロンの物語 『魄』
「お願いします。先生しか頼る人がいないのです。」
そう、全ての始まりは、突然だった。
私は、コーディアル。
ここに来て、十何年たったのだろうか。
元は、旅人だった。
故郷を追われ、逃げるように、師に連れられて、私は旅立った。
調香術を操る師と共に世界を転々としていたのだ。
師は、薬師でもあり調香師でもあった。
一流の技術と人柄ゆえの人望もあり、その名は、それなりに人々の間に知れ渡っていた。
その師と共に、一晩の宿をお願いする為に立ち寄った孤児院。
そこで、
「ああ、何と言うめぐり合わせなのでしょう」
孤児院の院長は、私たちの顔を見るなりこう言ったのだ。
事情は次の通りだった。
そこは、この国のリーデン公爵家が支援している孤児院だった。
今日は、そのリーデン公のご子息ユークモア卿が、孤児院に遊びにきていたらしいのだ。
しかし、ユークモア卿が、突然、倒れられた。
そして、現在高熱でうなされている、との事だった。
師と私は、事情を聞き、旅の疲れも忘れて、患者の診察と看病に没頭した。
そうして、ユークモア卿の容態が落ち着いた頃だったと思う、知らせを聞いたリーデン公が真っ青な顔をして、主治医と共に到着されたのだ。
私たちは、駆け付けた主治医と交代した。
これが、きっかけで、私は、この公爵の主治医の助手として、召し抱えられたのだ。
この頃は、特に学ぶ事が楽しかった。
何故なら、その得た知識は、直ぐに人々の役に立つと思っていたし、実際役立った。
それがまた、嬉しかったのだ。
あの忌まわしい名を忘れる事が出来たのだから―――。
今は、もう医師として、独り立ちしている……と、思っている。
調香師として、貴族のご婦人方の香水を作ったり、
また、医師として、彼等の健康管理を任されたりもしている。
そして、時々、リーデン公の意向もあり、孤児院の子供たちの診療もしていた。
私としては、孤児院の方が好きだった。
子供たちは、生きることに輝いていた。
中には、ひねた者もいるし、反抗し続ける者もいるが、それでも、生きていく事に誠実だった。
それに比べ、彼等は、あまりに身勝手すぎる。
私の目にはどうしてもそう映る。
そんな時、彼女と出会った。
この孤児の名は、ミレイユ。
彼女は、原因不明の病気に侵されており、私のいるこの孤児院に移されてきたのだ。
日に何度かの発作。
その苦しみ様は、診ていられない程だ。
確実に、この発作は、彼女の体力を日々、少しづつ少しづつ削っていった。
それ以外には、何の症状も無い。
熱も、発疹も、咳も、脈拍や骨の異常も、そして、知覚力や認知力、記憶力や知力の衰えも……。
私が習熟したと思っていた調香術は、痛みを緩和する程度にしか役に立たず、薬学は、彼女の体力の消耗を抑える程度にしかならない。
そして、医学は、彼女の寿命の限界を警鐘し続ける。
どうしたら良い―――どうしようもない。
何が出来る―――今している事。
どうすれば良い―――観察し、調べ、研究しつづける事。
無力さ、焦燥間、絶望、祈願……。
そんな時、彼女は発作の中でも、いつも、こう言って私に笑顔をくれた。
「先生、私は、大丈夫だよ」
「私、先生の作った香水の香り好きだよ」
「ね、旅のお話、聞かせてよ」
今の私に出来る精一杯―――彼女の為に笑顔を作る事。
「お願いします。先生しか頼る人がいないのです。」
ある日の夜に、その女性は、私の部屋に尋ねてきて、こう言った。
彼女は、よく私の所に、香水を求めに来たり、また、風邪の時の診療に来たりしてくれている貴族のご夫人だった。
名は、リディリア嬢、夫は、ガーデニア卿。
古くからの名家で、リーデン公とも比較的繋がりが深い。
その誼で、主治医的な扱いをして下さる方だった。
彼女は、こう言った。
従者の1人との密通。
一度限りと決めていたが、心に流されるままに、繰り返してしまい。
彼の子供を身ごもってしまったの。
夫に知れると彼と私は、極刑になる。
だから、おろして―――。
切々と涙ながらに訴えつづける彼女の姿に同情を覚えた私は、
その場で、それを……行ってしまった。
そして、残されたのは、袋いっぱいの金貨と細胞。
そう、細胞―――生きたい、生きたいと私に叫びつづけながら消えていく物。
「―――ミレイユ……すまない……」
私は、気が狂ったのだろうか?
私は、歪んでしまったのだろうか?
気が付いた時には、リディリア嬢の寝室に行き、彼女を脅迫していた。
必死に心の中で言い訳をしながら、
―――こうすれば、彼女も二度と馬鹿な事はしないだろう。
しかし、それは、虚しさに更に虚しさを重ねるだけだった。
「わたくし、先生の事を信頼していたですのに……」
彼女の言葉は、忘れられない。
その次の日の夜、私は、ミレイユに会いに行った。
悪夢だった。
いや、地獄だったと言うべきか……。
男たちはそこにいた。
「お前も馬鹿だなぁぁ」
何か知らない世界の言葉を喋る男たち。
そして、
目の前で繰り広げられる惨事。
ミレイユを助けなければ、彼女を助けなければ……との思いに、同時にのしかかる言葉。
「化け物コーディアル」
父が苦しめられた言葉―――リーデン公を苦しめるだろう言葉。
母が狂った言葉―――孤児院に関わる人々を狂わせるだろう言葉。
友達が石を投げた言葉―――孤児たちが石を投げるだろう言葉。
そして……。
彼女の体を喰い漁るこの蛆虫どもの狂気の宴は終わった。
彼女は、苦痛と屈辱を拭い去ろうとする笑顔を作りながら、
「ねぇ、先生……私、先生の香水が……」
―――それが、ミレイユの最後の言葉だった。
この惨事を知った時のリーデン公の動きは素早かった。
そして、クリオという、ガーデニア卿の従者が捕まった。
そんな中、彼女の葬儀は、ひっそりと行われた。
その後の一年間、私は、何をしていたのか余り憶えていない。
そして、彼女の一周忌の時、その帰りに私は、草むらに倒れている一匹の仔猫を拾った。
「ミューミュー」
と、必死に鳴き続けるこの病気の仔猫の切なげな声に、何と無くの行為だった。
そう、そして、今の私がここに居る。
FIN
