エルムの物語 『白き異端の娘』

 みんなが泣いている。そうね、喉が乾いたわね。
 お父さんも少し元気が無いわ。きっと、お父さんもたくさん喉が乾いているのね。

 みんなが顔を伏せている。誰かの顔を見るのが苦しいの?
 でも私はまだへいきよ。みんなの顔がちゃんと見えるわ。
 もう手足を動かせない?
 そうね。手足を動かすのにも疲れるんですもの。

 ねえ、本当に雨が降らないわね。
 このまま降らなかったら私たち死んじゃうわ。
 そうね、喉が渇いたわ。みんな、喉が渇いた。
 誰が叫んでいるのかしら。一番大きな、この声は?
 耳がわんわん鳴りそうよ。ねえ、少し声を小さくして。
 ねえ――

 え?

 誰も、何も言ってないの?
 そんなはずない。だって、今だってこんなにみんな泣いてる――
 聞こえるのよ……?


 ある頃からとうとう、雨が降らなくなった。
 もともと雨の多い土地では無い。そして、水を長く大地に抱きしめて置ける土地でも無い。たまに降った雨は大地に染み込み、濡れた地面はあっという間に乾いていく。雨によって大地が潤うまでにかかる時間より、大地が元通り乾く時間の方がずっとずっと短い。
 それだからたまに降る雨は宝物のようで、皆、雨の気配を感じたらすぐに出せる限りの器を持ち出して水を溜める。普段は閉じている涸れ井戸の蓋を開く。水はあるだけで貴重だ。泥水だろうと何だろうと構わない。樹と樹の間の水溜まり、砂粒の混じる水さえ汲めるだけ汲み取る。水より泥の方が多くなっても、汲み取り、砂を取り除く。
 それでも水は足りなくなる。ほんのすこし雨が増えれば潤うのに、もうほんのすこしのところでいつも水は足りない。そう皆が感じていた。

 そして、ある時期を潜り抜けた頃、それまでとは比べ物にならないくらいはっきりと、雨の気配が途絶えた。


「私達の祖先ってのはここよりずっと遠く、東の方の国から旅を続けて、この土地に来たという話よ」
 手で包み込めるほどの小さな器に僅かな水が注がれる。それがこれ以上も無い精一杯の歓迎とわかっているから、エルムはただただ恐縮し、器を受け取った。
「私のおばあちゃんは、政争に巻き込まれて国を追われた王族とその身辺の僅かな人々が始祖だとか言ってたわね。けどまあ、随分前のことだし、おばあちゃんもその頃にはもう良い年だったから、怪しいものだけれど」
 言葉と共に彼女は、壷のような瓶のような器の蓋を開けて匙を入れる。そこから何かとろりとしたものを少しだけ掬い上げて、手のひらより大きな葉の上に載せた。その形状や透き通った色が不思議で思わずしげしげ見ていると、その視線に気付いて彼女が笑った。
「大きな街ではみかけないかしら。小さい子供になめさせる飴と同じようなものよ。渇きに利くし水も少しでいいから、保存食として作られるようになったの」
 もう一枚の葉に同じように飴を載せ、彼女がこちらに差し出してきた。こわごわ受け取ると、葉の上で僅かに透明な飴が動く。彼女は手慣れた様子で自分の飴を指で摘み、一口ずつ口に運んで、口の中で転がしては味を楽しんでいるようだった。水の器を置いてそちらを口に運んでみると、薬のような香草のような香りが口の中から広がっていった。お茶受けには良いかもしれないと思い、同じように口の中で転がす。


「雨が降らない以上、これももう作れないわね」
 溜息のような声。微笑のような苦笑のような表情は、その声に『仕方ないわね』という響きを浮かび上がらせる。
「何処か、雨の降る別な土地へ行く事はなさらないのですか」
「そうねえ。この瓶が空になったらそうしようと思うんだけど」
 意外と無くならないものね。呟くように付け足して、彼女は瓶を覗き込んだ。


「故郷が無くなってしまうのは正直堪えるけど」
 瓶に蓋をするその指は白くたおやかで、細い。
「仕方が無いわ。もともと、私たちのご先祖様が持ち込んだだけの恵みだもの」
「雨が、ですか?」
 先程の言葉と矛盾するような確信のこもった言葉に、彼女は微笑んだ。
「ご先祖様が何者かはあまり伝わっていないけど、ご先祖様を助けてくれた神様の話は残っているの。その名前の一部も」
「ですが、神の名前は大陸から全て持ち去られましたでしょう」
「ええ。神は勿論名前を残すことを許さなかった。でも、詳しい由来は忘れられたけど、確かに神の名の一部を残したって言われてる名前が、未だに伝わっているの。何代も受け継がれてね」
 その微笑みは悪戯な子供のような、自慢げな少女のような。


「『月影の笛』は国を出された私たちに、一つだけ願い事をすることを許して下さった。私たちはその願いを抱き、誰も居ない土地に辿り着いて願った。『どうか我らに豊穣を』」
 飴を全て舐め終え、最後に感謝を捧げるように葉っぱを両手で高く掲げる。その時代の祈りを繰り返すように。
「でもそれは、何も無いところに、ぽんと豊穣を放り出しただけだった」
「別な土地では、痩せた土地でも育つ植物の種を神から賜ったという伝説を聞いた事がございます」
「そっちの方が絶対に正しいわね」
 彼女の腕はいくら日に当たっても日焼けした様子の無い白さを持ち、内側を通る血がはっきりと浮かび上がっている。色素の乏しい肌は、今は不健康な見た目を助ける結果になっていた。
「王族という説には賛成よ。与えられることしか考えられなかったのが、その良い証拠だもの」


 時代は流れ、豊かな土地は痩せていく。豊かな土地しか知らぬ者は嘆き哀しみ、しかし嘆きに構わず土地は見る見るうちに力を失い、雨はますます遠ざかっていく。笛の音がいつしか途絶えるように、水が少ない時間で地に吸い取られていくように。
 女は語る。もはや笛を吹けるのは私だけ。女は呟く。私は笛を吹いているのに、もう誰にも聞こえない。


「喉が渇いたわ」
 幼い印象の少女が、小さく呟いていた。痩せた手足はそれでも優雅にゆったりと伸ばされていた。まるで、これは現実ではないのだとでも言うように。
「ねえ、皆だいじょうぶ?」
 少女以外の者は倒れたり、しゃがみこんだりしている。誰も何も言わず、少女の言葉は宙に浮き、晴れた空に消えていく。
 少女の白い顔の中に浮かび上がる、夜空のような深い紺青の瞳と、厚みのない小さな唇。表情はまるであどけなく、痩せて疲れているようでいて、何故か不思議な力に溢れている。


「あのとき気付いたの。私が聞いていたのは皆の声。皆の悲鳴。ずっと聞いていたわ。なにも聞こえなくなるまで」
 女の白い肌。不健康なまでに白い。悪戯な子供のように揺れる瞳の輝きは、生きている匂いより死んでいこうとする者の匂いを強く漂わせる。それでも何故だろう、女は何処かで力に満ち溢れていた。
「父さんはどちらかというと最後の方まで生きていたわ。私にごめんねと言ったの。何故かは知らないけれど」
「お父様は他に何か?」
「何も。そうね、ただ最後までこう言っていたわ。残していってすまないローズ。お前が残されるのは私の所為だと」

 エルムは水を飲み干した。一口一口舐めるように味わっていた、その半分ほど残った液体を急激に、一気に飲み干した。突然に喉を通り抜ける水の所為でしゃっくりが出そうになったが、それに気付いたのは飲み干してからだった。水はぬるく、しかし澄んでいた。

「せっかくこんな辺鄙な所まで来てくれたのに、申し訳なかったわね」
 厳しい陽射しの下、女の白い顔は何処までも透き通り、今にも消え失せそうなほどに穏やかだった。帽子を被り直して首を振ったとき、言葉を探しながら手が汗ばんでいたのは、果たして暑く鋭い陽射しの所為だけだったかどうか。
「水を有り難う御座いました。お話も」
「いいえ、このくらいはね。ところで、父への用事は本当に良いの?」
 首を傾げる女の瞳をなるべくまっすぐに見るようにして、エルムは微笑んだ。もう一度緩く首を振る。
「目的は果たされましたから」


 歩き出し、離れ、距離をおいても、エルムは数度振り返る。年中通して、陽射しの厳しい山麓。樹や河などの恵みが失われ、酷く痩せた土地。その土地に住む最後の一人の白い顔。
 貴女のお父様は、伝え聞くとおり偉大な方でした。
 あの集落のそこかしこに、残された力の名残を感じた。水を汲む為の井戸の仕組みには、故郷で見た覚えのある、研究途中の技術が使われていた。旅の魔術師である彼女の父親は、あの集落の寿命を僅かにだが伸ばすことに成功したという。魔法と、そして木と紐などを材料に作った、誰も見た事のない技術で。彼女は父親を誇りに思い、愛していた。

 教えてくれてありがとう、異端の娘ムーンローズ。貴女の名前を私は覚えました。貴女の名前の何処かに女神の名前は残っていると、女神がそれを本当にお見逃しになってくださったのだと、私は信じましょう。

 異端者――いいや、偉大な魔術師フールバス。
 彼の死を一門に連絡する時、彼は異端者では無かったと報告しても構わないだろう。しるしを持ったまま逃げ出し、勝手に一門の技術を外で使ってしまったことは、決してあってはいけなかったことなのだけれど。

「亡くなった方を悪く言うわけにはいきませんもの」

 そっと言い訳を呟いて、道を下る。街まで二日はかかるはずだが、水と食料はどうにか間に合うだろう。道行きに不安は無い。ただ、背中を向けた集落と其処に居る一人の女のことが、今でも気になって仕方ないだけ。
 恐らく、瓶が空になっても雨が降らなくても、あの場所を動かないだろう。異端の血と、古い王族の血を受け継ぐ、細い生命をいつまでも伸ばす娘。
 彼女の中の魔力は恐らく、更に何年かは彼女を生かすことだろう。刺し貫くように熱いばかりの陽射しの下、何処か不健康そうな白い肌のままで。


 一度だけ私は聞いた。生きたいですか。
 何気なく彼女は答えた。まあ死ぬまではね。

FIN