ミスティの物語 『どこかの物語』
「ぽ〜」
そんな音が聞こえる。あれは確か運河を通る定刻艇の発着の音だ。
少女はぼんやりとまわりを見ていた。四季折々の季節を彩る『青の広場』と呼ばれるこの公園。運河を背にした広大な場所。街の書店で売っている『大陸の歩き方 〜ランドニクス編〜』という本には友人と待ち合わせる時には公園の外で、という風な記述があったがそれは正に正解だったらしい。
「おっそいなあ……」
偶然通りがかった通行人に殴りかかりそうな怒りの表情を作っている少女。黒髪を伸ばしており後ろから見ればしとやかな雰囲気でうっかり騙されそうな感じだが、正面から見ればそのくっきりとした意志の強そうな顔立ちに、いくら美人でもうかつに声をかけられないオーラを漂わせている。
そしてその少女はベストのポケットから小さな懐中時計を取り出し時刻を確認する。
「なにやってるのかしら、あのバカ……」
そう険悪な表情でベンチに座る少女のはるか正面の道から金髪の少年が走ってくる。
遠目にも分かる、その表情。遅れたらどんな目に遭わされるか――といった必死の形相。
そしてその少年を見た瞬間、少女の顔に一瞬だけぱあっとした明るい表情が出て、次の瞬間その明るい表情は意地悪な笑みに変わった。
「今日は全部アンタのオゴリ、けってー」
少年が息せき切らせてようやく辿り着いた瞬間に少女は言い放った。
「えぇえっ！？ちょっ、ちょっと待ってよリンド、そんなの僕、あんまりお金持ってないよぅ」
気弱そうな表情で目の前の少女――リンドに訴える少年。
「だまらっしゃい！」
まるで年配の母親が言うようなセリフでリンドは少年に怒鳴りつけ、懐中時計を目の前に掲げる。
「ディック、アンタが『砂図書館』に行きたいって言うからわざわざ付き合ってあげてるのに、ナニ余裕で遅れて来てるのよ半殺しじゃすまないわ、全殺しよ！？」
「それってマジで殺すって意味じゃないか！！」
最早泣きそうな表情でリンドの方を見つめる少年――ディックはよろよろと尻餅をついた。
それを見てとって、やれやれ といった顔つきで少女はディックの手を取って勢いを付けて引き起こす。
「…アンタねえ。ホントに殺すわけ無いんだから、そんな顔しないの。ね、冗談よ冗談。分かった？オッケー？さ、行きましょう。図書館あと二時間くらいで閉まるんだから」
「う、うん……そ、その――」
「…ん？」
言われても一向に気弱そうな表情が無くならない少年はリンドの方を見つめると遠慮がちに口を開いた。
「遅れてゴメンね、リンド。」
そんな気弱そうな――リンドには優しげな少年の顔つきに見えたのだが――表情を見せられるとこれ以上きつい事も言えない。
「…いいわよ、もう。慣れたわよいい加減。今回でもうアンタが遅れるの四十九回目なんだから。」
「カウント取ってるの！？」
「当然でしょ、あと一回で五十回の大台に乗るわよ。そしたら――ふふふ…」
「なに、その妖しくて怖い笑いは！？」
まるで賄賂貰いたての悪代官の様な表情であさっての方向を見て微笑むリンドに無駄と分かりつつも問わずにはいられないディック。
そして気弱に聞いてくる少年に笑いかけてから図書館の方角を指差して走り始める少女。
「いいからっ！行くわよ、男が細かいこと気にしないっ！」
「うわっ、待ってよリンドー！」
手にもっていた鞄をよろよろと肩にかけ直して、少女の後を追うようにディックは走り始める。
その先には運河を挟んで、巨大な図書館がそびえ立っていた――
「――！！」
ベストを着たその職員は悲鳴も上げられずに石畳の上に倒れた。彼から流れ出る血が乾いた石畳を赤く潤す。
それを見た他の数人の職員達はこう思った。
――ああ、我々も『これ』に喰われるのだ――と。
運河を一分足らず小船に乗って反対側の岸に着くと、目の前には先程まで遠目に見ても大きく見えた図書館がさらに目の前に迫るとより巨大に見えた。勿論二人は何度かここに足を運んだことがあったので大して驚きもしないが、初めて見た人は「城か？」とよく勘違いをする。そういう建物である。
図書館正面口前にある大階段を上りながらリンドはふと周りを見る。人がまばらである。そして更にはそのまばらな人の流れはほとんどが階段を下り行く様であった。
「なんか嫌な予感がするんだけど」
そうリンドが言うのに、さも「同感」と言わんばかりにディックも頷く。
正面玄関に二人が着くと大声で「えー、今日休館日なん！？聞いてへんわー！」というランドニクスはフォリナー公国訛りの声が聞こえてくる。
それを聞いてディックは天を仰いでこうつぶやく。
「…的中」
「ほら見なさい。当たるんだから……ていうか、今の声、どっかで――」
そう言うが早いか、リンドは正面口に大きく張られた『本日、書庫整理につき臨時休館』という紙の前に立つ少女の後姿を見た。
「……もう一つ、悪い予感的中」
「――え？」
そうディックが聞き返す前に彼の腕を取って回れ右しようとするリンドに向かって、『悪い予感』が先程同様の大声で叫ぶ。
「ああ！？先輩方ですやん！！もしかしてデート！？それとも援交！？」
「どっちが援助するのよっ！？」
「あ、カレン」
少女にツッコミを入れるリンドの横でその大声少女の名を呼ぶディック。
二人の事を先輩と言うことは、どうやらこのカレンという少女は学校の後輩の様だった。
小柄な体にショートの濃い栗色の髪。その髪から覗く切れ長の目はなかなかの可愛さだが、口の端を上げて笑う仕草は可愛らしさより『妖しい女予備軍』と言った方が正しそうだ。
そしてその後輩は自分の名を呼んだディックに向かって深刻そうにこう言った。
「――ディック、自分、はっきり言うて女運悪いで」
「！！」
反射的にカレンに蹴りを見舞おうとするリンドを、これまた慣れか反射かで止める半泣きディック。
「待った、ちょっと待ったリンド、ダメだよ。ホラ、あの。こんなのでも一応、後輩！そうそう、後輩だからっ！！」
「止めないでディック！！この礼儀知らずに世間様の厳しさを物理的に教えてやるんだからっ！！」
「ふふ。アカンで、リンド。そんな短気では嫁の貰い手あらへんで」
「うるっさーい！！」
「い、いや、ちょっ、待って――」
言いかけたディックの言葉は空しくかき消され、ぎゃんぎゃんわめく女子二人の言い合いが続く。
目を瞑り、ディックは田舎の母の言葉を思い出した。
『都会で女に失敗しちゃダメよ』
もう手遅れな感じがしていた、
帝国一番街――
それは帝国の首都である帝都ニクセントの中心街であり、帝国の舵取りを行う場所である。中央ともセントラルとも呼ばれ、帝宮、内務省、国防総省、さらに帝国議会が置かれ、官僚はもとより帝国の重鎮が集まるために精鋭が守護する荘厳な区域。
その街の一角、レトロな高層建築物が立ち並ぶ官庁街でひときわ古いくすんだ赤レンガの内務省第二ビル。過去の戦乱の傷跡がまだ残る数少ない庁舎。その正面玄関前には『内務省国家安全保障局』と彫られた、ビルに反比例してやや新しい石彫りの表札が掲げられている。
その建物の廊下でその青年は早足に歩いていた。内務省の制服を着た青年の胸には『国家安全保障局 監察補佐官 グレン＝ヴァレンティノ』と明記されたネームプレートが下がっていた。
グレンは「今日こそはいけるだろう…」などと誰ともなしにぶつぶつ言いながら、彼の目的のドアをノックして入る。
「失礼します、重要な事案の報告に参りました」
オフィスに入って、彼の上司を見つけるといきなりそう切り出した。彼の上司は芸術的なまでにちらかりきったデスクではなく、窓枠にもたれながら髭剃りをしているところだった。上司は彼の見立てでは三十歳前後だと思っていたが、今年で三十九歳だという。その年に似合わない白髪のお陰で幾分かには年上に見えるのだが。
慣れた感じで着くずした制服の前のボタンを全部外して、上司は髭を剃っていた。局長が見たら恐らく一言言うだろうが今は構っていられない。
「本日は首席がご存知で無いと思われる情報をお持ちしました」
グレンは廊下を歩きながら暖めていたその台詞を口にした。今まであらゆる情報入手の先を越され、彼の補佐官として面目の無かった自分の実力を見せつけてやるんだという、実に若者らしい考えからだった。
今回、グレンが取ってきた情報は国内の情報だった。上司の得意分野は国外だと聞いている。こればかりは勝てるだろう。
その自信満々の補佐官の顔を見た、『首席』と呼ばれた男は「んー」と一言言ってから。
「帝国第二図書館やったら『書庫整理の為』っていう名目で臨時に閉鎖してくれって、地方局担当の審議官に進言してきたけどな。例の地方局のヤツがどっかで拾ってきた図鑑が魔物つきとかどうとか、やったな。……それとは違う報告なんか？」
そう男が言うのを聞いてグレンは唖然として、首を横にがっくりとかしげる。
「……ご存知、でしたか」
「うん、ついさっき極秘裏に地方局文部課の職員十名が派遣されて図書館の担当職員と一緒に地下書庫の点検に行ったて言うハナシやで。一応、いわくつきの事案らしいから、地方局監督官のカイトと相談して警保局のホーク、魔物絡みって事で霊能局のボーン。ほんで運河の向こう側やから水軍にもハナシ通しといたから、なんか有っても即応できるけど。まあオレらの所管事項とは違うから後でまた卿官房から「無駄な連携するな」ってツッコミ入るかもしれんけどな……って、どないしたん、自分？」
「いえ……」
ややぐったりしてグレンは話を聞いていた。最難関の帝国大学を出てキャリアになっても、上司にはこういうノンキャリアのずば抜けた現場出身者が居る。この目の前の上司が『首席監察官』という傍から見ていてややこしい職務をこなし、各局から一目置かれている訳が分かった気がした。やはり戦後の混乱期を実力で上がってきたこの男に勝つには修羅場を経験しなければならないのだ。
「……ぁのー、あのー。自分、聞いてるんかー？」
「…は……？は、はい！」
自分の世界に入っていたグレンは男の声で現実に引き戻された。
男は髭剃りを終えて腕組みして困ったような笑顔を浮かべていた。ただ、眼光だけはいつもどおり鋭かったが。
「うん。今からな、まあ必要なくなるかもしれんけども、ちょっと行ってきてな。霊能局長の所に行って意見聞いてくること。ほんで、警保局にも回って公安一課長せっついて図鑑拾ってきた職員の内偵してもらえ。あっちが専門やからな。オレの名前だしたら無下に断らんやろ。ほんで最後に法務局に行って今回、安保局は事件の特性上関係ないんやけども、や。それを首突っ込んでも平気に出来る法令の根拠があるかどうかを聞いてきてほしいんやわ。地方局から要請あったらすぐ出るから」
「分かりました！」
そう言って一礼し、やたらはりきって部屋を出て行き、「かつかつ」という足音まで力強い部下を見て、再び男は困ったような笑い顔になった。
「若いってエエねえ」
そう爺くさい事を言ってデスクの引き出しからネームプレートを取り出し、制服の胸ポケットの部分に取り付ける。
プレートには『内務省首席監察官 ジャニアス＝ホーキンス』と記されていた。
「――もう既に手遅れかも知れないんだけど」
沈痛な面持ちで足元の石畳を見ながらディックはそう切り出した。
「なんや？」
カレンがそう答える。リンドは黙っている。
「どうして僕たち図書館の中に入ってるのかな……」
心細そうなディックの声は普段でもそうなのに、今は一段と強調されて聞こえる。
彼の声を聞いてリンドのこめかみに血管が浮く。
「これって完璧に不法侵入じゃない！！」
「「しーっ！！」」
思わず大声でカレンに噛み付いたリンドに流石に二人が人差し指を口元に当てて黙らせる。
「アホリンド。バレたら停学なるやんか。ちょっと黙っときぃな」
半眼で言う後輩に思わず握りこぶしを作るが、この場は我慢する。
三人は図書館の中に入っていた。
いや、当然図書館の扉には鍵がかかっていたのだが、その複雑かつ重厚な鍵をカレンはいとも簡単に開けてしまった。
やけに慣れた手つきだったので、リンドが聞くと。
「ああ、ウチ、ガッコの鍵開け同好会に所属しとってん」
とあっさり返してきた。
ディックは心の中で「なんて狭い分野の同好会なんだろう」と思ったが、それはあえて言わないことにする。
「…で、用事を早くすませて帰ろうよぅ」
「私、借りてた本を返本ボックスに入れてくるから。それが済んだらあのバカの首に縄を付けてでも帰るわよ」
「いや、首、絞まっちゃうよ、それ……あれ？」
ディックはふと周りを見回す。
栗色の髪の後輩がいない。
ついさっきまでリンドの隣にいたのに。
一体どこに――
「リンド、ディック、こっちこっち！」
どこからか声がする。リンドが見ると緩やかな下り階段の下にカレンがいる。
「このバカ！もう帰るわよ！」
「ちょっと待ってぇなリンド。ホラ、ここ。普段は開いてへん書庫の扉が開いてるねん。っちゃーんす、やで！」
小躍りするかのようにその扉に入っていくカレン。そして二人は呆然としてその後姿を見ていた。
ディックが思い付いたかのように口を開く。
「扉が開いてるって事は、あれだよね。書庫に職員の人がいて、整理してるはずなんだよね」
「……なにがチャンスよ。停学ですまないわよ、ほんっとにー！」
そう言って、リンドも扉のほうに歩き始める。カレンを連れ戻すつもりなのだ。
なんだかんだ言っても後輩を心配している、その考え方がディックは好きだった。「これで後、もう少しあの怒鳴り声が減ったらなあ」
下り階段の中ほどまで歩いていたリンドがくるりと振り返って睨みつけてくる。
「怒鳴り声がなんですって？」
「……え？……あわわ、い、いや。えっと、お父さん？そう、田舎のお父さんの事だよ！」
うっかり声に出してしまっていたらしい。
当のリンドはすたすたと階段を下りてカレンが入っていった半開きのドアの前に立った。盗難防止なのか、はたまた過去の見られてはならない資料が山積みなのかは定かではないが、頑丈な鉄扉で鍵が三つもついており、内一つは内側からしか開かないようになっていた。
「……なんなんだろうね。この物々しさは」
「どーせ心配性の職員が作ったんでしょ。ほら、行くわよ」
いつもの気弱な表情になったディックの手を引いて、リンドは扉の中に入っていった。
中で何が起こっているかも知らずに。
「わーお。ごっついやん、宝の山やなあ！」
いくつあるのか数えるのも嫌になるほど多い書棚の前で、馬鹿でかいフォリナー弁でカレンは声を上げた。目がキラキラしている。彼女が大きなリュックサックでも背負っていれば、貴重な国家の財産が一抱えは無くなるところだが、幸いにも鞄の類を彼女は持っていなかった。
それでも、両手に抱えられる分の財産は無くなるかもしれなかったが。
「まずは、アレやなー。金になりそうなマニア向けの本からいっとかなアカンかなー」
ぐふふふ、という笑い声が背中から漏れそうな位、カレンは味のある顔をしていた。その手に物色したばかりのカバーが古ぼけた、過去の戦史と思われる本を手にとったとたん、声がかかった。
「こんな所でなにをしてる！！」
後ろからの声だった。
ハードカバーつきの大型文庫を右手に持ち、くるりと回れ右して振りかぶって第一球。
投げようとした！
おおっと二十代前後のキリっとしたいい男だ！
カレンは投球をぐっとこらえて、彼に声をかけた！
「兄ちゃん、ウチのクラブで働かへん？」
クラブと言うより部活と言うのが正しいのだろうが、そんないかがわしい声をかけられた当の男は手傷を負っていた。左肩だ。出血は大した事はなさそうだったが、傷は思ったより深そうだった。服装は図書館員がよく着ているシャツにベストで他には骨董品なのか、古そうな刀剣を持っていた。
「兄ちゃん、どないしたんや、それ！」
思わず本を投げ出してカレンは男に駆け寄った。
「いや、これは――いや、それより、この書庫に居てはいかん。すぐに出るんだ」
「エエからじっとしとき！これでも救急救命同好会の会長やで。包帯巻くぐらいすぐに出来るし、多分もうすぐウチの先輩のディックが来るわ。ディックは治癒の魔術が得意なんや。ところで――」
いざ、本題とばかりにカレンは目を輝かせた。
「兄ちゃん、名前は？職業と年齢は？まさか、結婚はしてへんと思うけど――でも彼女居る？ここの図書館の月給いくら？ボーナス何ヶ月？有休は年間何日？家は一戸建てと集合住宅とどっちなん？」
怒涛の質問を受けて、流石に男は絶句した。この年齢で人の怪我を見ても平気この少女は、やけにリアルな自分のプロフィールを聞いてきたのだ。そう思うと、ついおかしくなって苦笑いがこぼれてしまう。
それを見たカレンも包帯を巻きながらにやりと笑った。
「――案外、平気そうやな」
「面白いな君は。私はルーファス。君は――」
「カレンや。カレン＝デルファ＝ホーキンス。ぴちぴちの十三歳や。因みにカレシは居らんで」
「へえ……」
ルーファスと名乗ったその男は、感心したように声を上げた。それは、この少女の物怖じしない態度に対してもそうだったが、彼女の名字を聞いても、覚えがあったからだった。
「カレン！」
自分を呼ぶ声がして、思わずカレンは包帯を巻く手を止めて顔を上げた。ああ、やっぱりこの二人は来てくれた。そうカレンは思った。
書庫の出口の方向からリンドと、何故か転がるようにして引きずられてくるディックの姿。
「あれが君の先輩か」
引きずられて来る方の少年がディックだろうと当たりを付けて、ルーファスは半眼でカレンを見た。
「そうや。まっすぐ猪突猛進てカンジで走ってくるのが、鬼殺しのカレンと、引きずられてくるのがタコ殴られのディックや！」
「誰が鬼殺しよ！？」
「……タコ殴られなのは、否定できないけど……」
息を上げてカレンを睨みつけてくるカレンと転がされてややぼろぼろのディック。あだ名は今、思いつきで考えたのだろうが、妙に納得できるコンビだった。
カレンは取り合えず、ディックを立たせてルーファスの治療を頼んだ。すると確かに、街の病院よりも早いスピードでルーファスの傷が徐々に塞がっていく。
「良い腕だな。君は」
そうルーファスに言われて、褒められるのが珍しいのか、ディックは照れた。
「まあね、ディックはこんなのでも一応、仮にも校内で魔術の腕は定期テストでは一番か二番よ」
「こんなの、一応、仮……」
へこんだディックの代わりにリンドがあたりまえよと言わんばかりに威張る。
「それで、あなた。見た感じ図書館の職員よね。なんでそんな傷負ってるの？表の書庫整理って、予告無しだったわよね。ひょっとして張り紙は嘘で何かヤバイ事でもあるの？」
皆が思っていた事をリンドが切り出した。
それを聞いて、治療を続けていたディックの手を止めて、ルーファスはリンド、ディック、カレンと順々に見た。
「貴重な文献の一つに魔物が憑いていたんだ。図鑑で見た事がある。あれはビブロスだった」
ディックの顔が青ざめ、それを見たリンドがすかさず聞く。
「ビブロスって？」
「……魔神に近い魔物の一つだよ。でも、そんなの僕らじゃどうしようもないよ、やっぱりルーファスさんの言う通り、帰ったほうがいいよリンド」
「ちょい待ちぃなディック。そんなごっつい怪物がおったとしたら、こんな図書館すぐにドカン！なんとちゃうんか？」
カレンが両手でドカン、という手振りを交えてディックに聞く。すかさず、分からないという風に首を横に振るディックに代わってルーファスが答える。
「いや、色が少し違ったから、……恐らく大戦時に作られたレプリカの一種だろう。人間よりは確かに強いが、まるっきり対抗できないわけじゃない。……もっとも、何の訓練も受けていなかった図書館の職員と派遣されてきた内務省地方局のスタッフの手には負えなかったわけだけどな」
「地方局まで動いてるの？」
「ああ。だが、ほとんどやられて、かろうじて逃げ出した者も散り散りだ。何人生き残ってるか見当もつかん」
立ち上がって書庫の奥を見据えて話すリンドにルーファスは答えた。
「――あれ」
奥を見ていたリンドは錯覚かな、と思った。壁がなだれて来ている様な錯覚に陥ったからだ。
しかし、壁の雪崩は近づくにつれ、轟音を伴い、同時に真ん中の通路から二本足で迫ってくる黒い何かが見えた。
その瞬間、全員が知覚した。
迫ってくるのは倒れ狂う無数の書庫の棚。
そして迫る二本足の何かは――
「――ビブロスだ！！くそっ、もうきやがったのか！！」
先程までの傷の痛みが嘘の様に小さくなったルーファスが立ち上がり、出口を指さす。
「全員走れ！！喰われるぞ出口まで走れ！！」
その声に、迫るビブロスの姿を見て、呆然としていた三人は反射的に立ち上がり、走り始める。
背後からはビブロスよりも、まず倒れ狂う書棚の方が早そうだったが、どちらに追いつかれても結果は同じになりそうだった。
「早く早く！！走って走って！！」
最初にカレンが書庫の出口に飛び込み、次にディック、リンドが続きルーファスが通りすがりざまに鉄扉を閉めてその足でまだ遠い図書館の入り口を目指し、走る。
次の瞬間、鉄扉がひしゃげ、黒い手が紙でも突き破るように鉄扉からにょきりと黒い手が突き出てくる。
「ゴアアアアアアアア！！！」
その手の奥から、心臓を鷲掴みにするような咆哮が聞こえてきた。
リンド達が追われる十分前――
「地方局から要請きました！あと、法務局法務企画課で聞いてきました。前例はないのですが、内務省法上、首席監察官には騒乱またはこれに準ずる事態に関する命令権、指揮権はありませんが、事務次官の特命があり、内務省法第十二条による担当部局長の権限一部委任による帝国行政官としての調整権が行使できるなら取り合えずなんでもできるそうです。それと例の地方局員を公安では既に内偵中だったそうなんですが、今朝方から行方知れずとの事です。帝国第二図書館における被害状況は現在不明。当該目標はビブロスレプリカで形式は大戦中にグロッカス高原で使用された第参型との事です」
ジャニアスの部屋に飛び込んできたのはグレンだった。服装は先程までの内務省の制服ではなく、胸部を黒い皮で鉄板を挟んだ防具だった。厚手の服の左肩の部分には国家安全保障局のトレードマークである黒鷲が描かれており、手には中型の槍を持っていた。
その報告を受けた当のジャニアスは訝しげな顔をしてグレンを見た。
「そんな情報どっから仕入れた。安保局も警保局も霊能局も水軍も、まだ誰も図書館には入ってへんはずやぞ」
「いえ、それが見慣れない男が局長室で話していまして。年配で髪が短くて精悍そうで、身なりのいい男でした。立ち聞きしていたらその男が言っていたんです。大陸政経調査会の、ええと、名前は聞こえなかったんですが……額に傷がありましたけれど」
それを聞いてジャニアスは目を細めた。
「『元老院』左派の元締めオッジ＝ジェラルダインや。まだ現役やったんか、あのオッサンは。――まあ、エエわ。あと、霊能局長に連絡してきたか？」
「いや………はい。それが、現在、休暇名目で北方に行かれているそうです」
おずおずと話すグレンにジャニアスは呆れた顔で返す。
「また単独行動か、あの女は。ホンマ、監視にロウを付けといて正解やな。しっかし休暇名目て、誰の返答や？」
「キンブレス＝ウィンザルフ局次長です」
「ああ、『金さん』か。くそっ、それは無理強い難しいぞ。しゃあない。警保局の部隊と霊能局何人かと俺等で何とか時間稼ぎするしかないな。あとは水軍がどんだけ早く出動してくれるかが勝負や。第六運河やからベリリーニの大隊か。なんとかなりそうやな。よっしゃ、行くで！」
内務省の制服でやはり前のボタンを外したまま、ジャニアスはグレンを連れてオフィスから出て行った。
戦いが始まるのだ。
「はあ、はあ、はあ、どうして……」
リンドが息を切らせてしゃがみこんでいる。ディックは元々体育の成績は悪いので、息をするのが精一杯だ。
カレンは階段の段に腰掛けて下を警戒していた。彼女は大概の事には対応するが、今回のは流石にこたえたらしい。
ただ一人、ルーファスだけは何かスポーツでもやっていたのか汗一つかいていない。今もカレンが向いている階段とは反対側の通路を見つめている。
「…教えてよ、ルーファスさん。どうして――」
そこでリンドの目は天井を経由してルーファスの方を見る。
「――どうして図書館の入口が全部閉まってるの…」
やや絶望感を漂わせてリンドはそう呟いた。
ルーファスは直ぐには答えなかった。いや、答えられなかったと言うべきか。言えば、彼らはこれから自分達がどういう末路を辿るのか悟ってしまう。だが、それでもこの子供達には言うべきだと思い、彼は口を開いた。
「この帝国第二図書館は市民に教養や娯楽を与える書物を保存する第一図書館とは違って、…まあ、表向きは一緒だが、地下書庫は他国の機密情報や帝国の軍事に関する戦術の方法論や統計、国内の詳細地図が保存されている。まあ、言うなれば外交防衛情報の倉庫だな。だから、ここは他の教育機関や図書館とは違って、帝宮の管轄下に置かれている。その為に警備が厳重で地下書庫に一定の異常が認められた場合、仕組みがどうかは知らないが、侵入者を逃がさないために一階と二階の全ての窓と出入口がロックされるカラクリになってる。つまり――」
「――ウチらは逃げられへんって事やねんな」
ルーファスの言葉をさえぎって、カレンが口を開く。いつもの勢いのあるフォリナー弁ではなかったが。
彼らは地下書庫から逃げ出した後、入ってきた正面出入口へと死に物狂いで走った。
だが、カレンがいとも簡単に開けたはずの鋼鉄の扉は開かず、迫るビブロスに追い掛け回されて、ようやく三階の階段の上まで逃げてきたところだったのである。
「――弱点とか、そういう、なにか対抗策はないのかな？」
珍しくディックが建設的な事を言い出した。
ルーファスは黙っている。
カレンは考えようとしているが、置かれている状況が特異過ぎて、今の自分の技量だけではなんともならない事にすぐに気が付いて。それでもまだ何か手は無いかと考えている。いや、考えているフリをなんとかしたいだけなのかもしれなかったが。
長い沈黙だった。実際は一分足らずの時間だったが、次の瞬間にビブロスが階段か、あるいは通路から姿を現すかもしれない。自分達を喰うために。それが何より恐く、喋った瞬間に全てが終わってしまう錯覚さえしてくる。
そんな時、リンドが手を上げた。
「先生」
「なんやね、リンド君」
すかさず答えたのはディックではなくカレンだった。ディックは「…なに？」とリンドに言おうとした口の形のままで固まっている。
「いや、アンタに言ってるんじゃなく。ルーファスさんによ」
「なんや、ウチの商品に手ぇ出さんといてや」
「一体どんな用途の商品なのよ！？」
「色々あるんや、例えば、有閑マダムに二泊三日レンタルするとかやなー」
「うわー、怖い使われ方だよねー」
「ディックもカタログに載っとるで」
「えぇえ！？いや、ちょっと待って、一体何のカタログに！？」
「ヒ・ミ・ツ、や」
「ちょっと、カレン！ディックはダメよ、ともかく絶対ダメ！」
「ほほー、それはなんでなんかな、リンド。ディックにまるでなんか有ったらアカンみたいやんかー」
「ちっ、ちっがうわよ！えーっと、――そうそう、私の舎弟だからダメって事！」
「えぇえ！？僕、舎弟なの！？」
「ぷっ、くくくっ……」
いつもの会話が繰り広げられた所で、彼らの横から笑い声がした。
それまで黙っていたルーファスだった。彼は堪え切れずにとうとう笑い始めた。それを見て、他の三人も笑い始めた。
我々に必要なのはこれだ、と皆がそう思った。いかに極限状態とは言えど、自分達が笑いを忘れる事が本当に危険な事だと思ったのだ。
四人に共通した考えが生まれた。別に誰に確認したわけでもなかった。
ただ、
「なんとかなる」
そう彼らは思う事が出来始めていた。
「要員配置完了しました！」
『彼ら』の前ににグレンとは色違いの防具に身を包んだ職員が報告に来る。彼の防護服の左肩には白い杖に絡みついた青蛇が描かれていた。という事はこの職員は地方局所属と言う事だ。
「報告ご苦労。長期戦になる可能性も考慮して、糧食、休息場所の確保を急げ。後、帝国第二図書館から半径５００メートル以内の民間人の退避を急がせろ」
「了解！」
そう言って、また走り出す職員を見送ってからその中年の男性は運河を挟んだ城の様な建物に目を移した。
堅牢な作りの建造物だ。力技で穴を開けるのも難しいだろう。たとえそうするにしても巨大な攻城兵器が必要になる。しかし、それをやっては『帝国の内情不穏』と他国に騒がれて戦争の火種を作る事にも繋がりかねない。
「――まるで要塞だな」
薄く笑みを浮かべてそう呟く。第一次南方戦役では似たような地形に有った砦を攻め落とすのに二週間半の時間と、８７名の尊い犠牲を強いられた。隣で自分と同じように建物を見るこの男が居なければ、もっと被害が拡大していたかもしれない。
「あー。また昔の事思い出してるんやろ。アカンって、もっと前向きに生きなアカン！ポジティブに生きんと早よ老いるで！」
「いや……もう、おじさんって呼ばれて久しい年齢なんだが」
「マジで！？オレまだ、街のウエイトレスさんに『おにーさん♪』て呼ばれるで！？」
「嘘つけ！お前、それはちょっと不適切な店とかじゃないのか！？」
「そんな店行かへんわい！バレたらカミさんに殺されるわ！いや、ホンマに！」
言い合う上官二人を見て、普通なら部下は不安がるものだが、この二人は例外だと誰もが知っていた。
一人は『帝国の瞳』と称される安保局付首席監察官ジャニアス＝ホーキンス。
そして今一人はこの事件の対策本部長となった地方局主席監督官カイト＝エルフマンだった。
「いやあ、わっかんねーぞー。ジャンはどういういかがわしい店に行ってるか知れねえ。よし、俺が試しに『マリア』とか『ステファニー』とか適当な名前でジャンの家にラブレター送ってやる。これ、どう？」
二人の後ろから軽快な声が出る。明らかに状況を無視した明るさだが、修羅場に慣れた現場指揮官特有の図太さが声に現れている。振り返ってみると、そこには地方局、安保局の要員とは違い、胸に特殊加工を施された防護服をしっかりとつけ、鋼鉄の大弓を背負った男が立っていた。ジャニアスよりやや年かさに見える。
警保局警備第一課長補佐ホーク＝イェルツ。言い合っても平気なもう一人の例外である。
声の相手を確認すると、ジャニアスは「なんちゅーこと言うねんコイツは」という顔でホークの方に一歩踏み出す。
「アホかお前、そんなん事の真偽に関わらず殺されるわい！」
「いやあ、もしかすっと他の女に目を向けない様に、サービス良くなるかもしれねーぞ？」
「ありえへんありえへん。サービスとか言うて殺人的な辛さの料理山ほど食わされるわ！」
部下達が遠慮せず笑う中で、ボケとツッコミも一区切りついたと判断したカイトがホークの前に出る。
「来たか、ホーク」
「ご無沙汰でした。監督官」
「うわ、なんやねん、そのオレとカイトの対応の差は！？」
「この人の方が俺達より先任だからに決まってんじゃねーかよ」
そうきっぱりとホークが半眼でジャニアスに言うと、彼らから数歩離れたところから「はっはっはっ」と朗らかな笑い声がする。三人は振り返る前からその声と笑い方に覚えが有ったが一応振り向いて見ると、灰色に染められた内務省の制服を着た男性が立っていた。手には使い古された大剣を持って。
「やっぱりアンタか。ボーン」
「相変わらずやってますなあ」
霊能局付次席技官ボーン＝クライドだった。服装さえ違えば、柔和なナイスミドルで通るかも知れなかったが、彼を知る者ならそんな考えは起きなかった。
「いつから来てたんだよ？」
「皆さんが来られる少し前ですが」
「ほな、声くらいかけてくれてもエエやん。ホンマ、アンタも相変わらずやなあ」
「いやいや、部下が目の前にいるのに騒ぐ皆さんほどじゃありませんけれども」
はっはっはっ、と笑いながらのその一言が出ると、三人とも固まってしまった。この男の悪意のない、けれどもずばりとトゲのある台詞を聞くと、心の準備をしていない者は非常にショックを受けるのである。
「ぐ……オレら、そんなに騒がしかったんか…？」
「い、いや、そんなことねーだろ。……多分」
「因みに私は騒いでないからな」
「うわ、一人だけ逃げたでコイツ！サイテーだわカイトさん！私たちの新婚生活ももう終わりね！」
「監督官……やっぱり上に行くには汚れないといけねーんですね」
「お前らな……」
女性口調で訳の分からない非難をするジャニアスと何気にひどい事をさらりと言うホークを見てこめかみに血管が浮くのを覚えるカイトだったが、この二人にはおおむね常識が通用しないので諦めることにする。
「――それで、水軍の到着はいつになる？」
カイトがジャニアスを見てそう問うと、彼は運河の先の方を見据える。
「概ね、十五分以内には到着すると思うで。ただ、水軍の治安出動に国防総省が『難色を示している』らしいわ。国内の治安維持に関する初動的な所管官庁は内務省や言うてな。……まあ、南方がまた騒がしくなってきたから余分な兵力回したくはないんやろうけどな。一応、地方局長要請による『災害派遣出動』というカタチで折り合いはつけといた」
そう言って、ジャニアスは足元の石を蹴り飛ばし、運河に落とす。水の波紋が綺麗に浮かぶが、今は誰もそれに目をむける余裕は無かった。
「そうか。図書館内部の状況はどうなってる？」
「現在の所、地下書庫点検に向かった図書館員と、それに同行した地方局員の消息は不明です。ただ、目撃者の証言によりますと、一時間半ほど前に数人の学生らしい民間人が館内に入って行ったそうです」
腕組みをしたホークが図書館の入口付近に目をやってそう答える。もしも民間人が入り込んでいるとすれば、それは一刻を争う事態と言う事になる。「派遣した地方局員に入口の鍵は閉めさせたはずだが――」とカイトは思ったが、入ってしまっている以上、それはもう関係が無かった。
「そうしますと、あれですなあ。図書館の防衛システムが作動している上は二階以下からの侵入は難しいですなあ。三階以上からの侵入となりますと、レンジャーの訓練をした者か浮遊魔術を使える者か、あるいは水軍の飛行機械を有する空挺部隊くらいですかな。今からハシゴで行ってもいいですが、いずれにしてもバックアップの人数が足りなくなるでしょうなあ」
のんびりとした緊張感のない口調でボーンが口を開く。つまりは『水軍待ち』だと言っているのだ。
レンジャー訓練が義務付けられているのは内務省では警保局と安保局だけだが帝国軍では陸軍水軍を問わず義務付けられている。今すぐそれが出来るのはここに居る四人と図書館周辺の偵察に出かけているグレン、後は警保局の小隊だけだ。それで攻めるには戦力としてはやや不安が残った。しかもカイトは今回は対策本部長なので全体を見通すために指揮所に留まる必要があった。また、航空機械はまだ機数が少ないので配備されているのは地方局と水軍だけであるが、地方局の航空機械は先月に機体の九割をこれから配備されるはずの陸軍に訓練用に貸し出しているのだった。現在残っている二機を作戦に投入するのは構わなかったが水軍の空挺部隊ほど上手くは突入出来ない。最悪、搭乗者の生命にも関わる問題で、ここで使うには余りにコストが高すぎるように思われた。
最後は梯子を上って三階窓から直接侵入する方法だが、これには内部の状況が分からない事も踏まえて、最低でも二個小隊、六十名以上での突入にすべきだが、今はその頭数さえ揃っていなかった。他の部署から人員を借りてくるにしても『ビブロス相手だ』と言って『はいそうですか』と部下を貸す無責任な上司は今のところ内務省にはいなかった。何より帝国首都の内務省本省勤務者四万人は休日返上で勤務するほど多忙で、とても他に人員を割く余裕はないのだった。恐らく、今この瞬間にも別の場所で面倒が起こっていて、誰かが解決の為に奔走しているのだろうから。
「失礼します。帝宮官房のフェリントス参事官がお見えです」
「何だと」
地方局の伝令が息せき切らせて報告に来る。恐らく、この伝令は状況の悪さを感じて、彼なりに少しでもカイトに対応策を練る為のリードタイムを与えようとしてくれたのだろう。
報告を聞いて、カイトは一瞬「ふぅ」と小さく息をつくと、すぐにその伝令に目を移す。
「ご苦労。すぐにお通ししろ」
「分かりました」
また走り出す伝令。彼が道路側に走っていくのを見てから、ジャニアスが口を開いた。
「フェリントスと言えば国防総省出身のヤツやな。帝宮国家非常連絡局の、まあ言うたらオレらと同じ種類の問題児や。ややっこしいこと言いに来たんやで。多分」
やれやれ、といった感じでジャニアスが道路側を見ると、身なりの良い壮年の男性がこちらに歩いてくる。彼がフェリントスなのだろう。
それを見たカイトがうやうやしく礼をする。取り合えず、という雰囲気も少しはていたが、ジャニアスは言わないでおいた。
「帝宮の方がわざわざどうしてここまで」
男性はそれには答えず、そこに集まっていた四人を一人ずつ見た。そして再びカイトに視線を戻した。
「随分手回しの宜しい事ですな」
「それはどうも。申し訳ありませんが参事官。今、事態が切迫してきておりますので要件を手短にお願いできますでしょうか？」
内心のいらつきを隠して問うカイト。
それを知ってか知らずか、フェリントスは努めて丁寧な言葉で接してくる。状況が切迫している時に相手が穏やかな余裕を見せつけてくると、人間は自然と不機嫌になる。
「では、単刀直入に。どうやら突入の準備をされておられるようですが、それは待っていただきたい」
「なんですって！？ちょっと待ってくださいよ。民間人が中にいるかも知れないんです、水軍が来るまででもギリギリなのに、それを待てとはどういう事ですか！？」
カイトが返答する前にホークがフェリントスに詰め寄る。カイトとボーンが彼の体を引き戻すが、今ひとつやる気のなさそうな引き止め方だ。どうやらこの二人も同じ事を言おうとしていたらしい。ジャニアスに至っては止めもしなかった。
「――何か理由が有るのでしょうから、仰ってください。まさか理由もなしにお出でになったわけではありますまい」
鋭い目つきでカイトがフェリントスの顔を射抜く。
そして、当のフェリントスはそのカイトの鋭い視線を受け流すような静かな表情だった。
「帝国第二図書館が表向きは地方局の管轄ですが、実際は帝宮の管轄下である事は既にご存知であると思います。地下書庫には昔の帝国摂政補佐官が行った特殊な事案の執政資料が有るのですよ。それを内務省と言えど、外部の目にさらすなと摂政閣下が御下命されておられるのです」
そこまで言われて、ジャニアスは気づいた。カイトも薄々分かったようだった。ホークとボーンは政治的な問題は苦手と言うより嫌いなので気づいていない。
つまり――
「――内務省や水軍ではなく、近衛軍での攻撃にしたいと言う事ですか」
ややうんざりするようにジャニアスが言うと、フェリントスは穏やかに、だが味のある表情で笑みを浮かべた。
「ご理解が早くて助かります。現在、近衛軍第一師団の一個大隊を陸軍の服装や装備に偽装させて準備させております。駐屯地がここより少し離れておりますので、陸上から来るとすると、そうですね……一時間後に到着といったところでしょうね」
「一時間！？冗談じゃありませんよ、三十分でも手遅れになりかねません！！」
状況を無視したとも取れるフェリントスの発言に再びホークが火を吹くかの勢いで反論する。ボーンはもう呆れて、「もう何も言えませんなあ」という表情だ。
ジャニアスが口を開く。
「参事官。館内に民間人が入り込んでしまったという情報がございます。また館内の職員と派遣された地方局員の人命もかかっております。ご覧の様に――」
そう言って、ジャニアスはフェリントスがやってきた方の道路を指差す。物見高い見物人達とどこから聞きつけてきたのかマスコミが退避勧告を出してあるにも関わらず、大勢集まって突入は今か今かと見守っている。
「――国民注視の中での作戦でもあります。都心でもありますので報道管制は困難な状況です。いずれマスコミが状況説明を行えと言ってくるでしょう。そうなりますと強行作戦が取り難くなります。つまり、早期人命救出、作戦実行の両面から申し上げて、水軍が到着次第、突入を行い、建物を制圧するべきであると考えます」
ジャニアスにしては珍しくフォリナー訛りの方言ではなかった。正確に言うと、無理に標準語を使っているフォリナー出身者の様な言い方になっていたが。
フェリントスは黙っている。考え事をしているかのようだ。それを無視してカイトがフェリントスのその目を見て話し始めた。
「参事官。私が仕えておりますのは皇帝陛下と内務卿にございます。恐れながら貴方の主たる帝国摂政閣下に仕えておるわけではございません。もし我等、内務省の官職に就く者にご命令をなさりたいのであれば、内務省の長たるセルフェシス卿を通じて要請いただきたい。そうでなければ我等は現在受ける人命救助の任務以外ではどの様な要請も命令も受けるわけにはまいりません」
流石にフェリントスがカイトを睨みつける。帝国第二の実力者には従わぬ、そう言下に言ってのけたのと同じ事だった。「そこまで言うかカイト！」とジャニアスは思った。権力を恐れないこの型破りな自治官僚に畏敬の念さえ抱く。ホークとボーンも流石に驚いている。内務省の課長級と言えども帝宮の参事官に逆らって無事で済む訳がないのだ。
「……いいでしょう監督官。貴方のお考えは良く分かりました。ですが今一度申しますが、私は「突入を待て」と伝えました。この事はどうぞお忘れなく。では」
そう言ってフェリントスはカイトを睨みつけ、きびすを返して元来た方へと去って行く。「あ、そっちは――」とジャニアスが言おうとしたがもう遅かった。脇に隠れていた新聞記者に見つかり、フェリントスがもみくちゃにされている。
「あーあー、まあエエけどな」
にやりと笑ってジャニアスは煙草をくわえる。カイトは黙っている。恐らく近衛軍が到着する前に突入命令を出すつもりなのだろう。ホークはそれを察して連れてきた警保局衛士隊との打ち合わせに入っている。自治区の衛士隊から応援も呼ぶつもりなのかも知れない。周辺警戒を地元の自治区衛士隊が引き受けてくれれば、主力である警保局衛士隊の二個小隊をそのまま突入部隊にする事が出来る。
「いやあ、困りましたなあ」
はっはっはっ、と全然困っている風に見えない表情でボーンが朗らかに笑う。楽観的な笑みだが彼も戦時中は陸士出身の軍曹として修羅場を切り抜けてきた。強力な魔物相手に闘う事の恐さは、この中で一番良く知っているに違いない。それでも笑っていられるボーンを半眼で見つめつつ、ジャニアスは図書館に向き直った。日が傾きかけていた。
後一時間も経たずに日没といったところだろう。
「さあて、どないしようかな」
日が暮れれば明かりの無い館内は右も左も分からない迷宮と化す。日没前までに水軍が到着しなければこの戦力で突入する事になるだろう。
「さあて、どないしようかな」
とカレンは三階の窓から見える景色を眺めて呟いた。見る限り、到着しているのは地方局と警保局と安保局の混成小隊。霊能局もいるかと思ったが、それらしい服装をしているのは一人だけだった。
それと遠目にだが、どこかで見た白髪のオッサンが居たような気がしたが、彼女は忘れる事にした。気にするな。気にしたら負ける。アイツが居るところにはロクな事は起きない。
「どうしたの、カレン？」
「――いや、なんでもないねん。気にしたら負ける」
「は？」
ディックが訳が分からないという顔をしている横を、『父親譲りの』半眼をした表情ですりぬける。
「それで、なんか作戦はあるんか？」
精神的に落ち着いたのか、髪の毛をいじりつつ周辺を警戒するリンドにカレンは言った。聞くということは、今のところ彼女には思いつく作戦はないという事だ。
「そうね――さっきディックが言っていたように弱点を考えるのがベターよね。そもそもこっちは武器らしい武器を持っているのはルーファスさんだけ。カレンは素手でなんとか出来るかもしれないけれど、ディックは治癒魔術だけ。私は――何も出来ないわ。剣もダメ。体術もダメ、魔術もダメ。まあ走るのは速いから出来るのはオトリくらいかしらね。……それで、何か弱点はないの？」
リンドは階上で片膝をついて反対側を警戒するルーファスの方を見た。声をかけた瞬間、ぴくりと肩が揺れて聞こえてはいるのだろうけれど、返事がない。弱点を知っていて思い出そうとしているのかも知れなかったが、次の言葉でそれはないと知れた。
「いや、すまないが知らないな。だが、ここは図書館だ。どこかに資料があるのかも知れない」
その答えにため息をついて、リンドは廊下の手すりを持って立ち上がった。落ち着いて振舞ってはいるが、「死ぬかもしれない」という恐怖が彼女の足を震えさせた。ディックとカレンも同じだった。彼らもゆっくりと、あるいは勢いをつけて立ち上がる。
一人、ルーファスだけはそのようには見えなかった。上手く言葉に出来ないけど、妙な落ち着きのようなものが、とカレンは思ったが口には出さないでおく。
しかし、彼女はルーファスと出会ってから、言いようの無い違和感を感じていた。「何に」と聞かれれば「分からへん」と答えるしか無い。確証どころか推測さえも無い。直感からただ一つ言える事。
この男は図書館員じゃない。
ルーファスの顔を見ながらカレンは心の中でそう呟いた。口には出せない。ようやくチークワークに似た連帯感が生まれつつあるのだから。妙な疑問を言うべきではない。この雰囲気を壊したくない。まずは生き残る為に全力を尽くすべきだ。疑問は終わってからでもゆっくりと聞けばいい――
「カレンー！なにやってるの、置いてくわよー！」
歩き始めたリンドがこちらを見て大声で呼んでくる。「大声出さないでよ！」と泣きそうな表情でディックがリンドに言っているが、彼も既に大声だ。
「わかってるてー！」
そう言って三人が待つ方へと歩き始めるカレン。しかし、彼らのもとに着くまで、カレンはルーファスの顔を見ることが出来なかった。
第七自治区衛士隊に周辺警戒を依頼していたホークはふと気づいて白髪の友人の方を見た。
「あれ？」
なんだろう、何かが足りねーな。うーむ……………あ。
「ジャン！」
水辺で図書館の内部地図を見ていたジャニアスは慌てて運河に落ちそうになった。
「うお！……なんやねん。いきなし声かけんなや、危ないやんけ！オレにこんなとこでシンクロナイズドスイミングせえっちゅーんか！？」
「そこまでは言わねーよ、そもそもそんなの出来ねーだろが！！……いや、そーじゃなくて、お前んとこの若ェヤツ。どこ行った？名前なんつったっけ、えーと、グレン、だったか？」
「――あ」
しまった忘れてた。
「ま、まあ、その内帰ってくるって。ほら、子供やないんやし！」
「そういう問題じゃねーだろ！」
「どうした？」
いつもの騒ぎかと思って聞きつけてきたカイトが、困った連中だとばかりに寄って来る。
「聞いてくださいよ監督官！こいつそろそろクビにしましょう！」
「さらっと衝撃的なこと言うなやお前！！」
グレンはその頃、ジャニアス達が見ている運河側とは逆方向の図書館の資材搬入口付近に来ていた。図書館は四方を運河で囲まれている為にどこからでも上陸は出来るが、一般市民が入館出来るのは表の正面玄関だけなので裏手側で侵入しやすい場所が有るかどうかを偵察しているのだった。
「でもなあ、二階部分までの窓という窓が鉄板で覆われてるんじゃな」
単独行動というのはついつい独り言が増えるものであるが、ここまで完璧に要塞化されてしまうと単独偵察をしている方としては憂鬱になる。しかし、どうあっても突破口を見つけるしかないのだ。この際、多少の無茶をしてでも、あの上司に一目置かせる為には。
「…なんだ、これ」
裏手資材搬入口の脇の草むらに隠れるように何かのレバーが見えている。金属製だ。
「………」
引いてみたい。いや、人間というもの、何かボタンがあれば押してしまいたい衝動に駆られる。そしてグレンは人一倍、その系統の好奇心が強かった。内務省の幹部候補生としてはあるまじき事だが、もし彼が冒険者だったなら、その頭脳を生かして名を上げていたかもしれない。
「……ま、いいや。引いてみよう。」
動かない。錆びているのだろうか。
「……」
引いてもダメなら押してみな。と、天の声が聞こえたような気がした。無論、気のせいだが。
「…よいっせ！」
グレンが渾身の力でレバーを押すと、鈍い金属音を立てながら奥の方へと回る。
「………」
何も起こらない。
と思った瞬間、がりんごりんと凄まじい音がしてグレンの足元が建物側へと沈む。
「ええええええええええええ！？」
まるで空と地面が反転したかのように地中に沈んだかと思いきや、今度はさらに何か足元がぎゅるりぎゅるりと音をさせながら建物の上方へとそこそこ早いスピードでグレンを運んでゆく。ベルトコンベア―の様なものか。
グレンは鳥肌が立つような喜びだった。待ちに待った突破口だ。これが有れば一度に突入部隊が次々と建物内へと侵入出来るだろう。出る時は多少苦労しそうだが、それでも大きな前進だ。
と、喜んでベルトコンベア―進行方向への確認を怠ったのが失敗だった。
ベルトコンベア―の途中からいきなり天井の高さが半分になっていた。当然――
「ぶっ！？」
――見事に顔面からぶちあたり、ひっくり返ってそのままベルトコンベア―で上方へと運ばれてゆく。
「きゅう……」
グレンはそのまま図書館内へと侵入していった。しかも気絶したまま。
「今、何か物音がしたよね」
ディックが身を低くして慎重に音を聞く。他の三人も周りを警戒する。生き残った他の図書館員達なら良いが、ビブロスなら大事だ。また中距離走をしなければならない。
「……気のせいじゃない？ねえ」
「そうやな、聞き耳同好会に入っとったこのウチの耳になんも聞こえてこぉへんかったっちゅーことは、空耳やね」
リンドとカレンが「ねー」と言って顔を見合わせている。それ以前に聞き耳同好会ってなんなんだよ、とディックは言いたかったが、聞いてもどうせ理解できないのでやめておく。
「………」
ただ一人、ルーファスだけが神妙な顔つきをしていた。
『分類０５９２ 神話生物学』
その棚にはそう記してあった。いや、題目の矢印が「→」となっているという事は、ここから右の棚は全て神話生物学関連の書籍だという事になる。
棚は全部で八つだったが、長さが半端ではなかった。
「……はあ、これは手分けしないとダメね」
「よっしゃよっしゃ、図書館情報部のこのウチに任しとき！」
「やっとそこそこマトモに意味のわかる部活名が出てきたよね」
ディックがツッコミ終えるとルーファスが棚を見てからベストのポケットに入った懐中時計を取り出す。
「ともかくビブロス関連と思われる本を引っ張り出してそこのテーブルの上に置こう。目を通すのは後でまた皆で手分けしよう。ただ、出来るだけ手当たり次第に行こう。本のタイトルを調べるのに二分、中身の精査に三分だ。それ以上、同じ場所に留まるのは危険すぎる。奴はどうも匂いで嗅ぎ付けてくる感じがするからな」
「えー、ウチ、ちゃんと毎日湯浴みしてるから匂いなんかあらへんでー」
「わ、私だって、ちゃんとしてるもん！」
「いや、そういう匂いじゃないと思うけどな……」
ツッコミ担当ディックであった。
それはさておき。
四人は分担して棚を調べ始めた。目を皿の様にして、ビブロスというキーワードの本の他に、『三日でマスター！合成獣の作り方』『ホムンクルス １００の秘密』『空想魔獣読本』『高等部 神話生物学�供戞悒▲鵐哀藕臉�獣マニュアル』果ては、一体いつどこで刊行されたのかも分からない『乙種第四類幻獣取扱者試験問題集』『ヤツゴロウさんの魔獣生活日記』などなど。
こんなの集めても明らかに税金の無駄遣いという気がする本も多々有ったが、役に立ちそうな本もいくつか見つかった。
ディックは一番端の棚を調べていた。手には既に三冊の本を抱えていた。そろそろ二分経つ。テーブルに戻って皆で、今度は本の中身を調べなければ――そう思ったとき、棚の一番上の段に『ビブロス全集』とあからさまなタイトルの本を見つけた。しかし、随分高いところに本があり、ディックの身長では届きそうに無かった。ルーファスなら届きそうだ。
その時、僅かにディックの左側に背丈の高いシルエットが浮かぶ。
「あ、ルーファスさ――」
角がある。爪が長い。ぎょろりとした猛禽類を思わせる目。腰から上と下が違う色の体毛に覆われ、足にはひづめがあり――
「！！！！」
声も出せずに今、手にある本だけを抱えてディックは一目散に棚の出口へと出て行った。ようやく、棚の出口に差しかかった所で思い出して大声で他の三人に警告する。
「びびびびび、ビブロスだーっ！！」
他の三人も反応は早かった、ディックの声がする方へと走り出してきた。手にはやはり数冊の本を持って。そして全員が出た瞬間に棚が先刻と同じ様に倒れこむ。
恐らくはビブロスが獲物を一匹でも捕らえようと棚を崩したのだろう。だが、こちらにはそれが幸いした。棚が倒れ、ビブロス自身が出てくるまでの時間がほんの数秒でも増えれば、逃げ出せる確率は飛躍的に向上する。
「逃げろーッ！！」
四人は入ってきた生物学の部屋から一目散に走り出る。
「いたたた…」
頭を押さえてグレンは図書館三階の廊下を歩いていた。あのベルトコンベア―はどうやら増改築時にでも廃止されたものであったらしく、グレンを運び上げた後はまた「がりんごりん」という音を上げて止まってしまった。まあ、よじ登ったり滑り降りる事は出来るだろうから退路は確保できたわけだ。
ベルトコンベア―で運ばれた先は三階の書籍搬入口だった。確かに大量の書籍を上階へと運ぶのは労力がかかる。二階までならともかく、三階以上はやる気が飛躍的に下がる、気がした。
グレンは運河正面の三階の窓の有る廊下へ行こうとしていた。窓から手旗信号で味方に状況を知らせる事が出来れば部隊が突入出来る事だろう。最悪、窓を開けて大声で叫べば分かってくれそうだ。
ふと、彼は気づいた。複数の、まるで徒競走でもしているかの様な足音が後ろから聞こえて来る。しかも、相当足が速い。
「…なんだ？」
目を凝らしてみる。遥か向こうのほうから四人の男女が走ってくる。物凄い血相だ。グレンは思わず祖父が大事にしていた植木を折ってしまった時の祖父の顔つきを思い出した。走ってくる男女は、図書館員らしき男とどこから入ってきたのか学生らしき少年少女だった。
生存者発見。
これは最優先で知らせるべき事象だと思った。研修所で習った手旗信号が役に立つときがようやく来たか、と。だが、彼らはこちらを見つけると思いもよらぬ事を叫びつつ走ってくる。
「逃げろー！！」
は？とグレンが思っていると彼らのさらに後ろから何か大きなものが追いかけてきていた。それは――
「――ビブロス！？」
彼らが到着するかしないかのタイミングでグレンも回れ右して死ぬ気で走り始めた。
「グレン君を見つけましたぞ」
「どこで！？」
既に周辺警戒を自治区衛士隊に引継ぎ、カイトの突入命令を待っていたジャニアスとホークは、のんびりしたボーンの声に反射的に反応した。
「あそこですな」
そうボーンが指差す方向は図書館の三階部分。壁と窓が交互に並ぶ廊下と思われる場所でグレンが物凄いスピードで移動している。
「どっから入ってんアイツ……ん？」
そして一瞬の間をおいて数人の学生服を着た男女と男が一人、グレンの後ろを同じ方向に駆けていく。ジャニアスは学生服の一人にはかなり見覚えが有った様な気がした。
ホークも同じように唖然として建物に目を凝らしている。彼は人一倍視力が良いので、何が起こっているか一番良く見えるだろう。
「おいおい、なんだよありゃあ……」
さらに、その後に黒い影が彼らを追うように走っていく。
「……ビブロスじゃねーか！？」
「カイト！！」
振り向きざまにジャニアスはカイトに叫ぶ。カイトも頷いて、全員に響き渡るかのように声を上げた。
「統括より各員！各要員は現時点をもって規定の方針通り行動を開始し所定の警備に当たれ！第一衛士隊は突入を開始せよ！！」
「ジャンっ！！」
ホークがジャニアスを大声で呼ぶ。既にジャニアスは中型の舟に乗り込もうとする所だった。
「グレンは突破口を見つけたんや！裏口にも回ってみるて言うてたから、多分、その辺にあるはずや！！」
「よし、一士、行くぞ！！」
「さてさて、行きますかな」
一士とは第一衛士隊の部隊呼称である。ホークが叫ぶと警保局衛士隊の精鋭が次々と舟に乗り込む。ボーンはいつもの事だが、いつのまにやら舟に乗っていた。
カイトは続けざまに地方局の伝令に命令を発している。
日はもう沈みかけ、美しい夕日が帝都の町並みを照らしていたが、この場に居るものは誰一人として、その美しい情景を見ていなかった。
これが帝国で様々な小説を生み出し、職場で茶の間で話題をさらい、新聞と世論を賑わせた『帝国第二図書館魔獣発生事件』の突入の幕開けだった。
「だあああああああっ！！」
グレンが大声を上げながらビブロスの一撃を避ける。
ルーファスは剣を構えていた。武装らしい武装をしているのは彼とグレンだけだ。
「ていやっ！所でアンタ誰なのよ！！」
後方から傍にあった傘立てをビブロスに投げつけながらリンドが質問する。
「安保局のグレン＝ヴァレンティノだ！私が来たからには安心だぞ、ってうひゃあ！！」
さらに加えられるビブロスの一撃をこれまた間一髪で避けながらグレンが答える
「どこが安心やねん！！」
「言ってる場合じゃないよう！！」
律儀にツッコミを入れつつ、カレンはリンドの脇で用具ロッカーから取り出してきたモップを構え、ディックは物理干渉を起こす防御魔術の準備に入る。
「突入部隊の本隊は何をしてる！」
ルーファスがグレンのそばに駆け寄り剣でビブロスに牽制しながらグレンを立たせる。
「じきに来るはずだっ！」
一方その頃――
「うがああああああっ！！」
ジャニアスが悲鳴だか怒声だか分からない大声で先程グレンが上がってきたベルトコンベアーから滑り落ちてくる。
登る直前に「滑りそうだから足元に注意しろよ」と皆に注意していたが、身をもってその危険を証明して見せたわけだ。因みに彼が滑り落ちてくるのはこれで三度目である。
どうやら登るのはなかなかに難しいらしい。
「ちっくしょー！ホーク、バトンタッチ！！」
「オレかよ！？」
「頑張るんですぞー」
「無責任な応援してんじゃねーぞボーン！！」
こめかみに血管を浮かせてホークがボーンに怒鳴るが、怒鳴られた本人はどこ吹く風でいつもどおりの笑顔を浮かべている。
仕方なく、ベルトコンベアーからかなりホークが下がる。勢いをつけて登りきるつもりなのだ。
「補佐、頑張れー！」「衛士隊出身の根性を見せてやるッス！」などとボーンとさほど変わらない無責任な応援をする衛士隊の精鋭達。むしろ自分達の方が若いんだから登れば良いのに、まあこの血の気の多いオッサン達に気の済むまでやらせようという気なのである。確かにジャニアスやホークで無理なら、衛士隊の精鋭と言えども登りきるのはかなり難しいのだが。
「ぬおおおおおおおおおおおお！！！」
四十代になったばかりのホークが吼え、強い布地で出来たベルトコンベアーを駆け上がる。
「おお、やるなあ。さすが脳味噌まで筋肉！」
「うるせえ黙れ！！」
もう少しで届かんとするところでジャニアスのボケに律儀にツッコミを入れたホークの足が滑り――
「どわああああああああああっ！！」
――転がり落ちてくる。
「くっそおお！！こりゃなんだ、風雲タケシュ城かっ！？」
数年前に帝都で流行った攻城型アトラクションの名前を言ってホークが悔しがる。因みに彼が第二衛士隊零中隊長の頃にそのアトラクションに『ハマっていた』のをジャニアスは密かに知っていた。
その目の前を何かがロープを掴んでぷよぷよと浮かんで、ゆっくりとしたスピードだが、確実にベルトコンベアーの頂上まで飛んでいき、近くの柱にロープをくくり付けてこちらにそのロープの端を投げてよこす。
ボーンだった。
「皆さん、そろそろ行きますぞー」
「テメエええええ、ボーン！出来るなら最初っからそうしろよ！！」
ジャニアスとホークは二人して額に血管を浮かべてボーンを追ってベルトコンベアーを駆け上がる。その後を「いやあ、久々に面白いもの見ちゃったな」という顔で衛士隊員が次々に登っていく。
「コラ待たんかいやボーン！」
「はっはっはっ、こっちですぞー」
ジャニアスの怒声にもまったく怯まず、昔の渚の恋人達の様な台詞で図書館内部に侵入していくボーン。
ホークはこの時、「下士官出身って恐いものなしだな」と思いつつ、肩から鋼鉄の大弓を抜いて戦闘態勢に入る。
もうここは敵地なのだ。
「はあっ、はあっ」
息が苦しい。
だが、ここで走るのを止めれば、それは生きるのをやめるのと同義になってしまう。
なんて理不尽なんだろう、とディックは思いつつ走る。メンバーの中には他に女性もいるが、体力では恐らく彼が一番下だろう。
彼らはまた走っていた。
細い通路で応戦すれば、人間よりリーチの長いビブロスの攻撃に避けきれなくなってしまう。
ルーファスの提案で、彼らは図書館一階の大階段広間を目指して走っていた。
ディックは生きて帰れたら体を鍛えようと真剣に考えた。
「魔術師は精神力が命だ！」と言っていた教師に生きて帰ったら文句を言おうと思う。
「グワアアアアアアアアッ！！」
凄まじい雄叫びを上げながらビブロスが迫り来る。
先頭を走るカレンが一番最初に会談を駆け下りる。
「見えたで、広間や！！」
続いてグレン、リンド、ルーファスが下り最後にディックが降りようとした時、ビブロスの長い腕の先についた爪がディックを捉えた。
その瞬間をカレンはまるでスローモーションの様によく覚えている。
後ろからビブロスの爪に肩口を引き裂かれ、その肩口から血が噴き出し、そのまま体勢を崩して階段を転がり落ちる。
彼が落ちた後の階段にはまるでペンキで描いた子供の落書きの様だった。
ディックは転がり落ちて、そして動かなくなった。
「ディック！！！」
最初に飛び出したのはリンドだった。ディックを抱きかかえ、引きずって逃げようとするが、連続して走って体力が削られていたのか力が出ない。
何か言葉を、間違いなく恨み言に違いない言葉をリンドがビブロスに向かって言っているが、カレンの耳はまるでフィルターでもかかっているかのように正確にその言葉を聞くことが出来なかった。体自体が金縛りにかかったかの様に動かない。ただ、光景を見つめるだけしか出来ない。
ビブロスは続いて、ディックを抱えたままのリンドにその爪を向けたが、間一髪でグレンが槍でその攻撃を受け止め、その間にルーファスがリンドからディックを抱えなおして下がる。
「――、――！！」
リンドが自分に向かって何かを叫んでいる。何だろう。ふと、妙な予感がして先程までビブロスがいた方を見てみる。
そこにはビブロスに殴られたのか、グレンが頭から血を流して槍を杖代わりの様にして立っている。まだ意識はしっかりしていそうだったが、彼も何かをカレンに叫んでいた。口の動きは先程のリンドと全く同じだった。
それをやたらと長い一瞬かかって、カレンはようやく理解した。
二人とも、「逃げろ」と言っているのだ。それを理解して、ようやくカレンは自分のすぐ隣に、ビブロスが立っているのに気がついた。
こいつ、笑ってる。
そうカレンは思った。
ルーファスが抱えていたディックをリンドに預けて剣を構えて走り始めるが、もう間に合いそうに無かった。
喰われる――
ビブロスが腕を振り上げた瞬間にそれは起こった。
ずぶり。
という肉に突き刺さる鈍い音。と何かが硬いものをはじく音。
音の音の正体は、振り上げたビブロスの腕に突き刺さった大型の矢。そして、その他の無数の矢がはじかれた音だった。
そして――
「衛生兵ー！！」
その声でカレンの全神経は現実に引き戻された。
ジャニアスの声だった。
「くっそ、意外に固いなオイ、刺さってんのオレの矢だけかよ！第二射準備！！」
弓を射たのはホークと警保局衛士隊だった。
「衛生兵、先にそっちの少年を見てやれ！！」
ジャニアスが走りながら衛士隊の衛生兵にディックを診る様に指示し、自らはグレンの治療に当たり始める。
「遅い、ですよ首席……」
「すまんなグレン、大丈夫か！？割と出血ひどいな――」
そう言って、グレンを見てからカレンの方を見てジャニアスが叫ぶ。
「カレン、包帯持ってたやろ、貸してくれ！」
その瞬間、カレンの思考回路は日常生活における常態に戻った。
「一回、銀貨一枚やで！！」
にやりとしてジャニアスのそばに駆け寄るカレン。
「そもそも、なんでお前がこんな所におるねん！？」「そんなん、お父ん（おとん）の知ったこっちゃないで！」などと威勢良くやっている。
「奴の皮膚は固い、相当強力な物理攻撃じゃないと傷つけられんぞ！」
「分かってるよ！って言うか、そもそもテメエ誰だ！？」
「はっはっはっ、仲良くしましょうなあ、お二人ともー」
ルーファスが一階で剣を鋭く使ってビブロスに斬りつけながら二階から弓による攻撃をしているホークに怒鳴るが、こちらも歴戦の強者。人の言う事を素直に聞くホークではない。
その二人を尻目にボーンはいかにも使い慣れた大剣を抜いて、剣に魔術をかける。すると剣がまるで煮えたぎる溶岩の色の様になり、それでビブロスに斬りつける。その攻撃を受けてビブロスが声を上げるところを見ると効いてはいるのだろうが、致命傷を与えるのには相当な攻撃を与えなければならないとボーンは見ていた。
周りには怪我人。それを抱えて後退しつつ脱出するにしても、完全武装でない衛士隊でどれほどの犠牲者が出るか――ボーンは水軍の到着まで持ちこたえるしかないな、と思った。官僚になった今でもやる事は下士官だった頃とさほど変わってはいない。思わず自嘲の笑みがこぼれそうになるが、これが自らに与えられた仕事なのである。
「だからもっと強く射るように部下に言え！！」
「だからそんな事はテメエに言われなくても分かってんだよ！！オイ、テメエ等！あんな奴に言われるがままになってんじゃねーぞ、衛士隊の根性見せてやれ！！」
「はっはっはっ、だから、仲良くしましょうなあ、お二人ともー」
こめかみに血管が浮き始めてはいたが、ボーンはどちらかというと保父に向いていた。
「ディック、ディック！！」
「大丈夫ですから、少し離れていてください」
ディックから離れようとしないリンドに衛生兵が穏やかに語りかける。年配の衛生兵で恐らくは古参の衛士隊員だろう。修羅場を越えてきていないと出ない穏やかさである。
だが、冷静さを失っているリンドはその穏やかさに気づかない。
「ちょっと、アンタ！ディックにもしもの事があったら半殺しじゃ済まさないわ、全殺しよ！？」
「それって……マジ殺すって、意味、だよね…」
「ディック！気がついたの！？」
歓声を上げてディックに抱きつくリンド。だが、抱きつく部分が首だったので、当然、傷口の肩にも触れる。
「痛たたたたあっ！！リンド、痛いよ！！」
「もう、ディックったら照れちゃって！」
「いや、そういう意味じゃなく、本気で痛いんだってば！！」
喜ぶリンドと半泣きディックをやれやれ、といった顔つきで、それでも微笑ましく見つつ、その年配の衛生兵はディックの治療を再開した。
「くっそお！鉄に撃ってるようなもんだぜ！！」
最大限まで弓の弦を引き絞りビブロスに射かけるが、相変わらず薄皮一枚しか貫けない。やはり、鋼鉄の弓ではなく、ミスリル製の弓にするんだった、とホークは思ったが今更だった。
「補佐、もうすぐ矢の残数が切れます！！」
「くっ――」
どうする。一個分隊に矢の予備を外に取りに行かせるか。だが、今、少しでも戦力が減ればこの足止めが崩されてしまうような気がしていた。
「やべえぞ、ジャン！！」
ホークに呼びかけられたジャニアスは既にグレンの治療を終え、グレン自身も戦列に復帰出来るまでに回復していた。傍にいたカレンも準備運動なのか、何故かビブロスに向けてシャドーボクシングを始めている。
「ウゴアアアアアアアア！！」
その瞬間、ビブロスが今までで一番大きな雄叫びを上げ、目の前で手を交差させ、何か呪詛のようなものを呟き始める。
それを見て、ルーファスが何かを思い出したかのように叫ぶ。
「まずいぞ火炎放射が来る！！」
それを聞いて、一階にいた全員が退がる。だが、どの程度の火炎放射か分からないが、どの道火の海になるのは避けられそうにない。
かぱ、とビブロスが口をあけたその瞬間、何かがその頭目がけて物凄いスピードで落下してきた。
「ゴアアアアアアアアアアアアアア！！」
一際大きな雄叫びにも似た悲鳴を上げて、ビブロスが片膝をつく。その前には、長い黒髪を後ろで編み、特殊な形状の長槍を持つ長身の女性がビブロスに向き直って槍を構えていた。
女性の胴は白銀の鎧で覆われていたが、肩の部分は槍を取りまわす為か鎧は無く、代わりに黒の服の布地の左肩の部分には水軍少佐の階級章が光っている。
「ベリリーニ！」
「遅れたな。第一中隊、左翼へ！第二中隊は右翼へ！第三中隊は陣形に従い上階より射撃体勢に入れ！！」
水軍少佐ベリリーニだった。思わず叫んだジャニアスに軽く手を上げて応えるが、直ぐにビブロスに向き直り槍を構えなおす。美しい顔立ちだが、今は戦士の表情だ。
「遅いぞベリリーニ何してやがった！？」
「我が水軍は色々と政治的な問題があるのよ。それよりホーク」
「なんだ？」
「これくらいで根を上げるなんて、少し運動不足なんじゃないか？」
「うるせえ、今回はバタバタして対応できる武器持って来なかっただけだよ！！」
ビブロスの代わりにホークが火を吹くかの勢いでベリリーニに食ってかかるが、言われた本人は慣れているのか平然と笑っている。
そして、上階の攻撃部隊から準備良しの合図が送られてくる。
ベリリーニがビブロスに向かって口上を述べる。これを聞くと、ジャニアスはいつも「時代劇みたいだな」と思うのである。
「知の魔獣に模して作られし哀れな生命よ。其は現界に存するに値しない。これより其を地に返すが、異論は認めぬ！」
ベリリーニの手が振り下ろされた。雨あられと言うに等しい凄まじい攻撃が放たれた。
「貴公、誰に口をきいているのか分かっておるんだろうな！？」
「申し訳ありませんがお通しするわけには参りません」
近衛軍将校に詰め寄られても、カイトは一歩も引かなかった。先程、ベリリーニが水路守備大隊を率いて図書館内に突入してくれた所なのだ。これ以上の兵力の投入は混乱をきたす。
増してや、近衛軍を入れるのはカイトの意地が許さなかった。
「我等は皇帝陛下の兵ぞ。その我等の邪魔をするは逆賊も同じだぞ！」
既にこの将校は脅しに入っていた。貴様等の様な連中がいるから――と思うがそれは口には出せない。
「内務省地方局の主席監督官としてお答えします。現在、初代皇帝陛下が制定された法律に基づいた正当な行政執行中でありますので、例え陛下の近衛師団の方々と言えど一人もお入れするわけには参りません。お帰りください」
「貴様、この場で斬り捨ててくれようか！！」
ついに将校の一人が長剣を抜き、カイトに突きつける。
だが、こうなると強いのがこの男だった。
「斬れるものなら斬ればよろしかろう！どの道、私は帝国に命を拾われたも同然！この場で斬り捨てられてもこの世に未練は無い。さあ、斬れ斬れ！やれるもんならやってみろってんだ！！」
途中からはもう官僚の口調では無かった。それを聞いて剣を抜いた将校は剣を振り上げて――
「そこまでです」
将校が振り返ると見たことのある身なりのいい男が立っていた。
フェリントスだった。
「邪魔をせんで頂きたい参事官。そもそも貴方が――」
「――私が、なんですか、隊長？」
何かを言おうとしていた隊長をフェリントスが睨みつける。まるでそれは猛禽類の目だ。
そしてフェリントスがカイトの方に向き直る。
「やってくれましたな監督官」
「どうも申し訳ありませんね」
この場で殺されなくとも、恐らく今の地位には留まれまい――カイトはそう考えた。だが、彼らが現場で傷つく分、自分は政治的に傷つかねばならないのだ。
「まあ、結果としては悪くはないのですが――どうやら終わったようですな」
フェリントスがカイトの後ろにそびえ立つ図書館の三階部分を指している。そこではグレンが手旗信号をしているのが見える。内容はこうだ。
『状況終了。内部を検分されたし』
終わったか――長い一日だったな。とカイトはそれを見て思った。
「さて、我々は引き上げるとしましょう。監督官、お見事でした」
「なっ、何を申されるか参事官！我等もこれより内部に――」
「たった今、私は引き上げると言いましたよ。……同じ事を二度も三度も言わせるなッ！！」
今度こそ烈火の如く怒ったフェリントスに怯んで、近衛軍は回れ右して撤収して行く。
「では、またいずれ。……ああ、そうそう。今回の件で、貴方が叱責される事は無いと思いますよ。勘の様なものなのですがね」
それだけ言うと、フェリントスも近衛軍の後に続いて歩き始めるが、またも脇に隠れていた新聞記者たちにもみくちゃにされている。
それを見てカイトは一瞬だけ笑うと、自分も回れ右して図書館に向かい始めた。
戦い終えた仲間のところに行くのだ。
翌日。
『地方局主席監督官横暴、安保局首席監察官越権』と次の日のある新聞の見出しに載っていた。帝宮の侍従や事務官達が声高にそう言っているというのだ。その批判を出している事務官達の名前の中に、フェリントスの名は無かった。
「――これに対し、内務省政府委員のパウワ―＝ザクス内務省危機管理監は「全局員よく連携が取れている。緊急事態が起こった時は法令を考慮した上で、局の所属によらず皆で協力するのは当然の事」との答弁を上院議会地方行政委員会で行い――」
カレンはそこまで音読すると、「はあ」と溜息をつく。
「ねえ、お母さん。やっぱしお父ん、何かややこしい事言われるんかなあ」
台所で調理する母に向かってそう聞いてみる。
「さあ。でも、今回もパウワ―さんが守ってくれたみたいね。ジャンは昔っからパウワ―さんに助けられる事が多かったから」
「ふーん」
よくわからない。
このパウワ―という人はたまに家に遊びに来るが、自分の父親とほとんど同レベルのお笑い系だ。そんなに凄い人とは思えない。
「でもね、やっぱり騒ぎがついて回る人なのよね、ジャンは。ねえ、聞いてよカレン。昔ね、ダルムード砂漠って言うところで遺跡の調査をジャンに手伝ってもらったときなんかね――」
「ああ、もうお母さん、エエから料理作ろうや！」
この話を母が話し始めると長くなる事をカレンは良く知っていた。そして、いつも楽しそうに話すのも知っている。だからずっとこの母親は若いままでいるのだろうか。
あの父親のどこが良いのか。全く持って趣味が悪い。
まあ、少しは分かるけど。
「さ、カレン。少し手伝って。もうすぐジャンも帰ってくるだろうし」
「はあい」
そう言って、母子揃って同じショートカットを揺らしながら料理を始めた。
「『帝国警備陣最高の頭脳ここに集結』か――」
ジャニアスは新聞を読んでいた。こういう書かれ方をすると大概は自分も挑戦しようという悪党が何人か出てくる。しかも後になればなるほど巧妙になるのでやっかいなのだ。
「あーあー、やだねえ」
相変わらず彼の机は芸術的な散らかり方だったが、たった一枚だけ小奇麗な封筒が真ん中に置かれていた。
それは赤い蝋で封されており、正式な書簡である事を証明する紋章も付いていた。
新聞を折りたたんでいると、こんこん、と二回ドアをノックをする音がした。この叩き方はグレンだ。
「入れ」
「失礼します。お呼びでしょうか、首席」
部屋に入ってきてデスクの前まで来るグレンをまじまじと見つめる。先日の事件で眉毛の部分に傷が残っていた。痛々しくはない。逆に凄みが付いている。数日前までとは大違いだな、とジャニアスは思った。
「うん」
そう一言だけ返事をすると、ジャニアスは先程置かれていた封筒を取り出してグレンの前に差し出した。
「なんです、これ？」
紋章は内務省のものだ。公文書を扱う者なら誰でも見たことはあるごく一般的なものだが、自分で上層部に要請を出すときには使っても、下の人間が受け取る事はまれだ。あるとすれば人事異動の文書だが、それにしても時期が違いすぎた。
「――首席？」
やや不安そうにグレンが聞いてくる。
それに対し、ジャニアスはこれまでになく、穏やかな口調でグレンに話し掛けた。
「推薦状や」
「は？」
「帝宮官房への切符や。普通はお前みたいな上級職でも１０年位経たんと帝宮からは呼ばれへん。でも、オレは色々な部署を若い内から見て回るべきやと考えとるねん。――んで、まあ、以前からパウワー＝ザクス危機管理監に推薦状書いてくれるように頼んどいたんやけど、ようやく書いてくれてな。まあ、それがあったら、一年、二年では少し難しいやろうけど、三年目くらいには間違いなく希望出したら行けるで、帝宮」
グレンは呆気にとられた。グレンは今年でまだ入省二年目、仮に後三年で帝宮に移れたとしたら、間違いなく内務省出身者では最年少での大抜擢となる。それ以上に驚いたのはジャニアスの行動だった。
きつい事を言いつつも、気にかけてくれていたのだ。
「首席……」
「まかり間違っても涙ぐんだりしたらアカンで。そんなんでほろりとなるような奴やったら、その推薦状取り消しにするからな」
この口調が実は後輩に対する優しさを隠す為のものだと気づくのに、随分かかったな。とグレンは思った。
「さて、と」
グレンに封筒を手渡すと、ジャニアスは制服ではなく私服で部屋を出ようとする。
「え？いや、首席、どちらへ？」
「ん？今日は昼からサボるねん、オレ。家かえってランチ食うて昼寝するわ。あと宜しく。局長が来たら上手い事誤魔化しといてくれや」
「えぇえ！？」
「ほな、な」
「どうでも良いが、ここのランチパスタはあまり美味くないな」
「そうですかな。『ランドニクス・ウォーカー』に『今月オススメの新店！』て書いてあったんですがなあ」
「そういう新しいのは、店側が金払って宣伝してくれるように頼むところがほとんどだから、実際は大した所は多くないと私は思うんだが」
帝国４６番街。通称『スノーストリート』と呼ばれる商業区域の。スノーストリートとは壁も屋根も一様に白く塗られている区画である事から名づけられた通称名だ。
その一角のパスタの店でカイトとボーンはランチを食べていた。
いい大人が男二人連れで入るには少し厳しい店で回りはカップルだらけだが、それを気にしていては食べ物にありつけない。
何より、今の二人には政府関係者の居ない場所で話す必要があった。
「――で、どうなんだ？」
「ジャニアスの話によりますと、例のルーファスと名乗っていた図書館員ですが、帝国第二図書館にルーファスという名の職員は登録されていなかったらしいですな」
「あの後、外に出たら直ぐに行方くらましたからなあ。一体、何者だろうな。それと、あのビブロスが憑いてた本を拾ってきた地方局員はどーなったんだ」
「公安の話では、今朝方、その男らしき溺死体が運河の底に沈んでいるのが発見されたそうですな。むごい事に、両足に重りを付けられて沈められた様だとの話でしたな」
「随分荒っぽい事をする連中のようだな」
フォークとスプーンを使ってスープスパゲティを食べているカイトと違って、ボーンは二本の細い棒の様な物を器用に使ってミートスパゲティを食べていた。聞けばその道具はボーンの生まれ故郷で伝統的に使われている自前の物らしかった。
「ジャニアスは勘やけど、と言ってからかなり後ろの方では元老院左派が糸を引いているのでは。と言っておりましたけども」
「またややこしいのが出てきたな」
「ですなあ」
そう言って「はっはっはっ」といつもどおりに笑うボーンからは本気でややこしく思っているイメージは無かった。
「所で本当にどうでも良いんだが――」
「はい？」
カイトがフォークを置いてボーンを見る。
「パスタは不味いがスープは美味いな、この店」
「サイドメニューが充実してるんですな」
「いや、ちょっと違うだろ。それ」
「首尾はどうだったかね」
「上々でした」
帝国一番街に程近いビルの三階にそれはあった。
『大陸政経調査会』通称、元老院左派と呼ばれる皇帝の諮問機関の一つである。
「例の内務省の連中はどうだ？」
「思った以上の逸材揃いでした。難しそうですな」
「そうか。計画を多少変更する必要がありそうだな」
若者がそう報告するのを壮年のその男性は落ち着いて聞いていた。
「ルーファス。フェリントスはどう言っていた？」
「フェリントス殿は内務省は侮る事はできないという認識を一層深くした、と言っておいででした」
「そうか。分かったご苦労だった」
男性はそこまで言って椅子に腰掛けた。ルーファスは目礼すると部屋から出て行った。
そして出て行ったのを確認してから、男性――オッジ＝ジェラルダインは静かに目を瞑った。
「ミスティめ。本気で内務省につくつもりか――」
人気の無い喫茶店。第１８新開発地区のスラム街から程近い路地。
そこに二人は居た。
一人はホーク。
今一人は鎧ではなく、女性らしい服装をしたベリリーニ。
そしてその二人を見ている者たちが居た。
「まさか、少佐の恋人が警保局の人間とはねえ……」
「あの二人、トシが十歳位違うはずであるぞ！？」
「バカ！でけえ声だすな！」
二人を見ている者達は水軍所属のベリリーニの部下達だった。
その隣には――
「いやー、しっかし、補佐もやるもんッスよね」
「ああ、あんな美人、どーやって騙したんだろうな。まあ、一応顔は良い方なんだろうけど」
「騙すのは補佐に限ってムリッス。補佐は脳味噌まで筋肉だって安保局のホーキンス監察官がこの前言ってたッスよ」
「おお、そーだったそーだった」
隣で同じように二人を見ていたのは警保局衛士隊所属のホークの部下達だった。
この出歯亀達。先日の事件で組織は違うが同じように突入部隊であったことから事件後に意気投合したのだが、その際にベリリーニと、そのまだ見ぬ彼氏との間がどれくらい続くかという賭けをしている水軍第三連隊内で情報収集を行う為に水軍兵士達が公安調査に優れる警保局の職員達を頼ってきたのだ。
まあ、もっとマシな事に労力使えよと自分達でも思ってはいるのだが、いかんせん好奇心はどうにもできないのである。
「あーあー、少佐もあんな乙女な表情しちゃってー」
「しかし、こんなスラム街に近い場所で密会とはもしかしてッス――」
「うむ、これは予断を許さぬ事態である」
「増援呼べ、増援。半径１０ｋｍ圏内に配備かけようぜ」
幸せな二人をよそに、回りはあらぬ方向へと盛り上がっていった。
「ぽ〜」
そんな音が聞こえる。あれは確か運河を通る定刻艇の発着の音だ。
少女はぼんやりとまわりを見ていた。四季折々の季節を彩る『青の広場』と呼ばれるこの公園。運河を背にした広大な場所。街の書店で売っている『帝国一週間！』という雑誌には友人と待ち合わせる時には別の場所で、という風な記述があったが既に手遅れだ。
「しっかし、おっそいなあ……」
偶然通りがかった見回りの衛士に殴りかかりそうな怒りの表情を作っている少女。黒髪を伸ばして後ろで編み上げており後ろから見ればしとやかな雰囲気でうっかり騙されそうな感じだが、正面から見ればそのくっきりとした意志の強そうな顔立ちに、いくら美人でもうかつに職務質問出来ないオーラを漂わせている。
そしてその少女はベストのポケットから小さな懐中時計を取り出し時刻を確認する。
「なにやってるのかしら、あのタコ……」
そう険悪な表情でベンチに座る少女のはるか正面の道から金髪の少年が走ってくる。
遠目にも分かる、その表情。流石に遅れたらどんな目に遭わされるか――といった必死の形相。
そしてその少年を見た瞬間、少女の顔に一瞬だけぱあっとした明るい表情が出て、次の瞬間その明るい表情は物凄い意地悪な笑みに変わった。
「今後一週間は全部アンタのオゴリ、けってー」
少年が息せき切らせてようやく辿り着いた瞬間に少女は言い放った。
「えぇえっ！？ちょっ、ちょっと待ってよリンド。一週間て半端じゃないよ！？
いつもの二割増の気弱そうな表情でリンドに訴える少年。
「渇ッ！」
まるで町の道場主がが言うようなセリフでリンドは少年に怒鳴りつけ、懐中時計を目の前に掲げる。
「ディック、アンタが体鍛えたい、ランニングコースに行きたいって言うからわざわざ付き合ってあげてるのに、ナニ毎回毎回余裕で遅れて来てるのよ全殺しじゃすまないわ、瞬殺よ！？」
「えぇえ！？僕、一瞬で殺されちゃうの！？」
最早泣きそうな表情を通り越して目の前で十字を切ってディックはよろよろと尻餅をついた。
それを見てとって、やれやれ といった顔つきで少女はディックの手を取って勢いを付けて引き起こす。
「…アンタねえ。ホントに瞬殺なんて出来るわけ無いんだから、そんな顔しないの。ね、ギャグよギャグ。分かった？了解？さ、行きましょう。休日のランニングコースって意外と混むんだから」
「う、うん……そ、その――」
「…ん？」
言われても一向に気弱そうな表情が無くならない少年はリンドの方を見つめるとやっぱり遠慮がちに口を開いた。
「遅れてゴメンね、リンド。」
そんな気弱そうな――リンドには愛しげな少年の顔つきに見えたのだが――表情を見せられるとこれ以上殺人的な台詞も言えない。
「…いいわよ、もう。慣れたわよいい加減。今回でもうアンタが遅れるのついに五十回目なんだから。」
「大台に乗っちゃったの！？」
「乗っちゃったの。ふふふ……」
「か、神様――」
やっぱり精神力より体力優先してつけておくべきでした神様。とディックは思ったが、神様はもしかすると、それは学校のカリキュラムの所為じゃ、とか言いそうなので祈るのは止めておく。
「さて、と。じゃあ次はさ、ディックのオゴリでどっか連れてってよ」
視線を逸らしてリンドが口を開く。
「どっかってどこに？」
「ど、どこでも良いのよ。山でも良いし、劇場でも良いし、ウィンドウショッピングでも良いかな」
「それってデート――」
「うるっさいわね！行くわよ！今日はダッシュ百本よ！」
「ウソ、それ死ぬって！！」
「はい、ダーッシュ！！」
そう言ってリンドは走り始めた。ディックもそれにつられて走り始める。
リンドは思った。
「当分は、このまんまでいいや」
と――
ばさばさと大きな黒い鳥が飛んでくる。年老いたその鳥は慣れた感じで旅人の服装をした彼女の手の上にとまった。
「ご苦労様、大五郎」
くえっ、と一声鳴いてその鳥は彼女に応えた。足には書簡がくくり付けてあった。
彼女は大五郎と呼んだ鳥に水と肉を与えて、書簡の封を開ける。
『火種よりロウソクへ』という文章から始まっていた。
「なーにが、ロウソクよ。私にはロウって名前が有るんよ」
そう一人で文句を言いながら文面を読み進める。中身は当然、普通の文章に換えた乱数暗号文である。実際の文章に直すと――
『――引き続き北方諸国の情勢調査に従事されたし。なお、南方の諸問題に関し霊能局長所管の事案発生。早急に連れ戻されたし。』
「冗談、でしょう？」
途端に暗澹たる気分になった。あの無鉄砲かつ風来坊かつ凶悪な局長をどうやって連れ戻せと言うのか。
相変わらず無茶な事を言う上司だ。だが、必要とあらばそれをこなすのがエージェントの役目である。
彼女はペンを取り、返信の暗号文を書く。
「――委細、了解。可及的速やかに任務を――はあ、やれやれね」
その書簡を食事を終えていた鳥の足にくくりつけて、一度頭を撫ぜてやってから解き放つ。
「さあて、じゃあやってみますか」
彼女は荷物を背負うと丘を下り始めた。見晴らしの良い丘だった。大きな木があり、雰囲気が落ち着く。
無論、彼女もここが地形を見下ろせる絶好の場所であると知っていた。
彼女は気づかなかったが背にした一本だけある林檎の木の幹には字が彫られていた。
『フューガス＆エシャンジュ』
ここはディルワース。竜の伝説の残る国。
―――― 終 ――――
