オシアンの物語 『One Day』

バーラット族は、砂漠を渡る遊牧民にその源を発する。
今でこそ、放浪生活を捨て砂漠の縁を回る街道沿いに定住しているが、かつて自由の民として砂の海を旅していた祖先の誇りは、勇猛果敢で知られるバーラット産の傭兵たちの中に残っている。
バーラット族が住む土地は、国際的には都市国家カスィードの辺境と見なされている。カスィードの中で一族の身分は低く、都市の城壁の中では、未開の野蛮人と見られている。ただし、バーラットから出稼ぎに来る傭兵と遊女たちが、カスィードの財政に役割を果たしているのもまた事実である。
族長ユースフ・クロセディア・バーラットは、今年23歳の長男を先頭に二人の息子と三人の娘を持つ。妻は二人、うち正妻であるところの第一夫人は、二人の息子を残して早逝した。第二夫人から生まれた娘たちも既にそれぞれ部族の有力者たちに嫁ぎ、本人も最近は健康に不安が見え、あまり表には出てこない。来年にも末子の成人を待って、長男に跡を譲るのではないかという噂も出ている。
少数民族ゆえの不遇を託ちながら、バーラット一族は今日も誇り高く荒野に生きている。


バーラットの一日は、夜明け前に始まる。
人々は涼しい早朝から午前中に仕事を済ませ、日中は酷暑を避けて屋内で過ごし、日差しが傾き始めてから活動を再開する。大別すれば、朝は仕事の時間、夜は娯楽の時間、昼間と深夜が眠る時間である。
ところがその日、族長の屋敷の中庭では、早朝から祭りのような賑やかな歓声が上がっていた。
気温の高い土地柄ゆえ、風通しを考えて、建物はほとんど仕切り戸を持たない。歓声は中庭を巡る回廊を通り、透かし彫りの飾り窓を抜けて、一族の有力者たちが集まる広間の高い天井にまで響き渡っていた。
「誰か、あれを静めて来い」
何度か議論を邪魔された後、ついに族長の長男、オシアン・ハリーファ・バーラットが、我慢の限界を表明した。
族長の後継者であるこの男は、質実剛健を美徳とするバーラットの男たちの中では珍しく、法と知識を統治の拠り所としている。容姿も体質も母親に似て見るからに丈夫とは言いがたい線の細い風貌をしているが、才気煥発、弁舌を能くし、カスィードの貴族たちとも対等に渡り合う。
今日は族長が不在とはいえ、一族の運営を司る定例会議の時間に騒ぐなどもっての他、とオシアンの眉間の皺が物語っていた。そうでなくとも、静謐を好む彼にとって、女子供の高いはしゃぎ声は頭痛の原因以外の何物でもない。
若長の命を受け、ひとりの老臣が立ち上がって広間を出て行った。
しばし成り行きを窺う一同の耳に、長年族長の側近く仕えた重臣が騒ぎを嗜める重い声が途切れ途切れに届き、やがて、広間に落ち着いた朝の空気が戻ってきた。
老臣が席に戻り、オシアンは再び書類に目を落とす。が、抑えきれないように再びどっと湧き上がった声に、今度は書類を床に叩きつけて声を荒らげた。
「私は、静めろ、と言ったぞ!」
鋭い声の叱責に、孫ほどの年齢の若長に睨みつけられた老臣は、子守りの好々爺のように肩を竦めた。
「ノイシュ様を静かにさせるのは、砂漠狼の巣から仔狼を盗んでくるより難事でしょうな」
早々に匙を投げている老臣の台詞に、居並ぶ男たちの間から、失笑が漏れた。
族長の末子であるノイシュ・ハリーファ・バーラットは、今年16歳になる。母を同じくする兄とは対照的に、本より運動を好む活発な少年で、成人間近だというのに一向に落ち着く気配がない。勉強が嫌いなわけではないのだが、溢れる好奇心を抑えて机の前に座っているのが苦痛らしい。少しでも目を離せば屋敷を抜け出してスーク(市場)をうろつき、砂漠を走り回っている。
騒ぎの首謀者が判ったところで、オシアンは小さく舌を打つと、愛用の杖を取り上げて立ち上がった。
体力的な問題で剣を不得手とするこの青年は、その代りにいくつかの魔法を会得している。故に成人の際父から剣の代わりとして贈られたのが、この金属性の杖だった。持ち主の魔力を増幅し、攻撃魔法に破壊的な威力を与えるこの杖は、以来"愛剣"として常に彼の傍らにある。
ノイシュをおとなしくさせる、という『砂漠狼の仔を盗んでくるより難しい』仕事を、唯一こなす事ができるのが、彼だった。
ノイシュは、『頭が良くて、立派な兄上』を敬愛している。同腹ということと、七歳という年齢差もあるのだろうが、兄の説教だけは神妙に聴き、言いつけに従おうとする。故に一族の末っ子の『冒険』が目に余る場合、人々は若長殿に御注進に及ぶのが常になっている。
オシアンの方は、何故自分が小姑のようにいちいち小言を言わなくてはならないのだ、と不満そうではあるのだが。
身に纏った極彩色の長衣とターバンの裾を翻し、杖の金環を鳴らして若長が庭へ向かうのを、会議の参加者たちは首を竦めて見送った。


中庭には、バーラットでは貴重な水源である井戸を中心に、これも貴重な緑と花が、ささやかな庭園をなしている。柔らかい風が甘い香りを運んでいる、白茶けた砂岩の壁に慣れた目には痛いほどの色鮮やかな花々の下から、歓声は沸き起こっていた。
集まっている者は皆年若く、少年少女と言っていい。バーラットでは、成人すると男女がこのように同席することは稀になる。
「ノイシュ!」
既に地面に濃い影を刻み始めた強い日差しを嫌って、オシアンは回廊の屋根の下から、弟の名を一声呼んだ。
花の下の座が、一瞬ぎくりと動きを止めた。この声がノイシュの名を呼ぶ時はどういう時か、一様に心得ている反応である。
ついで、一斉に振り返った少年少女は、慌てて居住まいを正して深く礼を取った。回廊の陰の中にいても、ほっそりとした立ち姿と、何より手にした金杖は見間違え様もない。厳格な若長殿の登場に、自分たちがはしゃぎすぎたことを瞬時に悟ったと見える。
ただし、若干一名、判っていない者も存在した。
ノイシュは、兄の姿を認めると、喜色満面で人々の環の中から駆け出してきた。通気性のいい白いシャツに騎馬服のズボンという軽装で、ターバンも巻かず日が当たると金色に透ける褐色の髪を好き放題に跳ねさせている。
「兄上、イデックに子供が生まれたんですよ!三匹も!」
「―――静かにしろと、言われたはずだが?」
やや大きめの綿毛の塊としか見えないものを抱えて嵐のように話し出す弟を、鋼のような兄の言葉がぴしゃりと遮った。
同じ注意を二度繰り返したりはしないオシアンの気性を良く知っているノイシュは、しまった、と肩を竦めた。
「ごめんなさい」
素直に、ぺこりと頭を下げる。
「あっ、でも、すごくかわいいんですよ!ほら!」
頭を下げたことでこの件は終わったとばかりに、またしゃべりだす。差し出された綿毛がもそもそと動いて、ふわふわとした真っ白い毛の中から、琥珀色の瞳がきょとりとオシアンを見上げた。
イデック、とはこの地方に生息する肉食の小動物で、外見は長毛の白猫によく似ている。ただし、ふさふさの毛には帯電性があり、暗いところでは静電気でぼんやり光り、怒らせると電撃をかましてくる。
オシアンは、無言で人間と小動物の子供たちを見下ろしている。
「兄上、こいつ、俺が飼ってもいいですか?ちゃんとしつけますから。一匹は親元に残して、一匹は義母上に差し上げて、だからこいつは………」
シャン、と金環が鳴った。
ノイシュは無表情な兄の顔から視線を移し、鳴動する金環の中心に据えられたオーブが青緑色の光を帯びているのを発見して、思わず後ずさった。
身に沁みて知っている、魔法発動の兆候である。兄は、二度目の過ちを許さない。
「えと、ごめんなさい………」
再度の謝罪は、受け入れられなかった。
薄い唇が聞き取れない言葉を呟き、耳が痛くなるような空間の歪みと共に、中庭を一陣の風が吹きぬけた。
「うわ、―――っ!!」
風に吹き飛ばされるか雷に打たれるか、と、イデックの子供を庇って背を丸めたノイシュの悲鳴が、不自然にぶつりと途切れた。
「?………?―――!?」
喉に手を当てて口をパクパクさせているノイシュを、イデックが不思議そうに見上げた。
「………これで、やっと会議が進められるな」
声を封じられてじたばたと何かジェスチャーを寄越す弟と、心配げに駆け寄ってくるその友人たちにはそれ以上目もくれず、オシアンはせいせいしたと踵を返した。


太陽が中天に昇り気温がピークを迎える前に、会議は終わった。
不機嫌を隠そうともせず、半ば席を蹴るようにして広間を出てきたオシアンの背後に、広い肩幅を持った長身の男が、影のように付き従った。
猛禽類を思わせる彫りの深い顔立ちや、日焼けした肌に覆われ肉食獣のように引き締まった逞しい体躯は一般のバーラット人に近い容姿だが、ターバンの巻き方や腰に下げたシミターの装飾が異なっている。同じ遊牧民族の、別の部族出身の戦士、といえば一番納得できるだろう。
彼、カルデシム・ノイトバールが傭兵としてバーラットに雇われ、難しい外交問題の最前線に立つ若長の護衛任務について、そろそろ一年になる。
オシアンは、一族の特定の人物と必要以上に親しくすることを避けるきらいがある。上に立つ者として万民に平等に接すべし、という立場を生真面目に守ろうとしているためだが、勇猛果敢で知られる一族の戦士を身辺に置くことすら避けて、わざわざよそ者を護衛に雇っているあたり、バーラット内部での彼の評価にはなかなかに微妙なものがあると窺える。
ちなみに、オシアンのカルデシムに対する評価については、背後に付かれても振り向きもせずに歩を進めていることで知れる。
オシアンの自室がある屋敷の最上階に上がった辺りで、周囲に人がいないのを確かめ、カルデシムが口を開いた。
「俺ぁ別に、あんた流の政治のやり方に口を出す気はありませんがね」
世間話でもするような調子で、前を行く不機嫌な背中に向かって語りかける。
「定例会議の報告が思わしくないものばかりだからって、弟君に八つ当たりすんのはどうかと思いますぜ。生理中の女みたいにカリカリすんのは………っと!」
ものも言わずに振り向きざま、横殴りに払われた金杖を、飛びのいて避ける。持ち主は非力でも、杖は材質が材質だけに当たれば結構痛い。
「人に避けてもらうのを期待して殴りかかんのも止めてください。怪我したら休ませてくれるんですかい」
「安心しろ。この程度で怪我をするような役立たずな護衛は、休暇といわず解雇してやる」
やっと振り向いたオシアンは、怒っているというより拗ねたような視線でカルデシムを睨み上げた。
八つ当たりを見抜かれた決まりの悪さと、女に例えられた怒りと、それが侮辱ではなく、大人げのなさをからかわれているだけだと判っている気恥ずかしさがないまぜになって、思わず手が出た、というのが正直なところなのだろう。ノイシュと違い親しい友人を持ってこなかったせいか、オシアンはこういう親しみを込めた軽口に対して、時折ひどく戸惑った様子を見せる。
もっとも、こういう話ができるようになったのもつい最近のことで、最初のうちはカルデシムが自室に入ることすら許さなかったのだから、確実に進歩はしているというべきだろう。
「………あんた、夕べも寝てないでしょう」
オシアンの顔色が悪いのはいつものことだが、いつもに増してきつい暗青色の瞳が熱を持っているように見えて、カルデシムは探りを入れてみる。
「………うるさい」
案の定、ぷいと背中を向けて再び歩き出した様子に、図星か、と溜息をつく。
「医者を呼ぶのが嫌いなのは知ってますがね。自分の体調管理くらい自分でできるって威張ってるなら、熱がある時は素直に休んでほしいもんですな。自分の部屋ならともかく、外でぶっ倒れたら、よけいに面倒が増えるのはご存知でしょうが」
「誰がそんな醜態を晒すか」
自室の入口にかかる垂布を杖で乱暴に払いのけて、オシアンは部屋に入った。
風通しのいい窓際のカウチに、読み止しの本を手にしてオシアンが納まるのを見届け、カルデシムは入口脇の壁に背を預けて座り込む。だから寝ろと言っているのに、という溜息交じりの呟きは、オシアンに聞こえる程度の独り言にとどめた。
毎日の休息時間は、大抵こんな風に、会話もなく静かに過ぎる。
オシアンが自分の存在を気にしなくなったのは、『傍にいるのが当たり前』の存在になったからだろう、とカルデシムは考える。ここまで気を許すのに一年というのは稀に見る頑固さだが、少なくとも彼を『あんた』呼ばわりして許される程度の親密さは築けていると満足すべきだろう。
次の一歩を踏み出すタイミングは、これまで以上に難しいものになるのだろうが。
本に視線を落としている主人の白い横顔を眺めながら、つらつらとそんなことを考えているうちに、入口の垂布がふわりと不自然に動いたのが、視界の隅に映った。
「………」
剣に手を添えながら、片膝立ちで外の様子を窺ってみる。屋敷内に敵はいないと言い切れないのは、カルデシム本人が一番よく知っている。
オシアンが本を閉じて顔を上げたのを期に、カルデシムは剣の柄で垂布を跳ね上げた。
びっくり顔のノイシュが、今まさに布を払おうとした体勢のままで固まっていた。
「ノイシュ様でしたか。驚かさんでくださいよ」
脱力気味に苦笑して、カルデシムはそのままノイシュを部屋に通した。普段の彼は、オシアンがうるさいと顔をしかめるほど元気のいい声で入室伺いをしてくるのだが、今は声を封じられたままでどうやって伺いを立てればいいのかと逡巡していたものらしい。
ノイシュは、恐る恐る兄の前に立った。腕には、まだイデックの子供を抱えている。
「………反省したか?」
カウチに身を預けたまま、オシアンが問う。ノイシュがこくこくと頷いて深々と頭を下げるのを待ってから、傍らの杖をシャン、と軽く鳴らした。
風がさわりとノイシュの周りを一巡りし、窓から外へ逃れていった。
「―――ふわぁっ、苦しかったぁ!」
魔法が解かれた途端、ノイシュは大きく息をついて伸びをした。
発声しても音として伝わらないだけで、呼吸を阻害されていたわけではないのだが、誰かと一緒に賑やかに過ごすのが日常のノイシュにとっては、人と話ができない状態はハンパではないストレスだったらしい。
「お許しいただいてありがとうございました。以後気をつけます、ごめんなさい」
改めて自分の言葉で詫びを入れ、きちんと腰を折る。こういう辺りの礼儀は、さすがにできている。
「えっと………それで、こいつのことなんですけど。飼っていいですか?」
折った腰を伸ばした次の瞬間、オシアンの目の前に仔獣を突き出したノイシュに、カルデシムは思わず吹き出した。無邪気な馬鹿者なのかとんでもない大物なのか、判断に困る性格ではある。
オシアンは数秒間イデックと見つめあった末、呆れ果てたという表情でカウチのクッションに身を沈めた。
「………好きにしろ」
説得も説教も諦めて、膝の上の本を床に投げ出す。本当は、匙を投げたいところだろう。熱が上がっているかもしれない。
「ありがとうございます!」
それでも、心底嬉しそうなノイシュの笑顔を見るのは、嫌いではないはずだった。その証拠に、礼に頷いて、もう行け、と手を振るオシアンの顔には、苦笑気味ではあるが柔らかい微笑が浮かんでいた。
ノイシュはもう一度、今度は退室の礼をして、くるりと踵を返した。が、何を思いついたのかまた向き直って、ごそごそと懐を探り出した。
「はい、これ。召し上がってください」
そっとオシアンに手渡されたのは、この地方で取れる握りこぶし大の果実だった。硬い殻に包まれた内部は汁気と糖分が多く、果肉に解熱効果があるため、病人食としても用いられている。
「今はこれくらいしかできませんけど、来年になったら、お仕事のお手伝いもしますから。待っててくださいね」
それじゃ失礼します、と言うなり、風のように部屋を飛び出していった弟を、オシアンは呆然と見送った。まさか、体調不良を見抜かれているとは思ってもみなかったのだろう。
あの中庭での短い会話の間に、兄の不調に気づいていたのか、とカルデシムも舌を巻く。無邪気ではあっても、ただの馬鹿者ではないらしい。
オシアンは、手の中で果実を玩びながら、しばらく想いに沈んでいた。いつまでも子供だと思っていた弟に労わられて、内心複雑なものがあるのだろう。このまま彼が成人した場合のお互いの立ち位置を考える必要がある、と思っていたのかもしれない。
やがて、今考えてもしかたないとでも言うように小さく頭を振って思考から抜け出し、カルデシムに果実を投げてよこした。
受け取った果実はひんやりと掌に心地よく、厨房で水につけられていたものをひとつ失敬してきたのだろうと知れた。
「………俺に、殻を剥けと?」
「私に剥けとでも?」
ここには二人しかいないぞ、と、当然のように言ってくれる。自分は護衛であって従者ではないという主張も、誰か召使を呼べばいいだろうという提案も、受け入れてくれそうにない。ついでとばかりにオシアンが護身用に持っているナイフまで投げ渡され、カルデシムも諦めた。
甘えてくるのは悪い傾向ではない、と自分に言い聞かせ、調度から適当な皿を出して作業にかかる。
使い慣れない華奢なナイフにてこずりながら殻を割っていたカルデシムの耳に、ふと小さな呟きが触れた。
「来年になったら………」
「はい?」
手を止めて顔を上げると、オシアンはクッションに頭を預けて、横になっていた。弟にばれたことで観念したのか、もはや体のだるさを隠そうとしていない。眠りに落ちそうになる意識を繋ぎ止めるために、何でもいいから言葉を発しただけかもしれない。
「来年が、なんです?」
再び果肉を切り分ける作業に戻りながら、カルデシムは、意味がないかもしれないその会話に乗ってやる。オシアンが無防備に言葉を発することなど、滅多にない。
「………来年の今頃は、私たちはどこにいるのだろうな………」
私たち、という単語に、カルデシムは目を細めた。
オシアンは、一族のことを指す時には、もっと硬く「我々」や「我ら」を使う。「私たち」とは今の場合、自分たち二人か、ノイシュを含めた三人のことだ。恐らくは、彼の個人的な領域に踏み込むことを許されている人物の全員でもある。
「政治の話は判りませんから、あんたやノイシュ様がどこにいるのかなんて、知りませんぜ」
来年はノイシュが成人し、一族内での発言権が生まれる。また、オシアン自身にもカスィード貴族の令嬢との婚約話がある。一方で、カスィードの圧力は日増しに強くなって来ており、導火線はじりじりと短くなっている。
一年後、バーラット内外の情勢は共に大きく変わっているかもしれない。
「………俺はあんたの傍にいるだけですから、あんた自身がどこにいても構いませんがね」
多分、オシアンが一番欲しがっているだろう台詞を言ってやると、安堵したような溜息が聞こえた。
それきり、会話が途絶える。
やがて、手についた果汁を拭きながら顔を上げたカルデシムが見たものは、心地よい風に揺れるターバンと黒髪と、目を閉じた青白い顔だった。
「人にやらせといて、それはないでしょう………」
俺が食べちまいますぜ、と挑発してみるが、反応がない。どうやら本当に寝入っているらしいと確認して、カルデシムは僅かに眉を寄せた。
まるで女を口説くような陳腐な一言がそんなに大切なのかと、むしろ憐れにさえ思えてくる。
「あんた、難儀な人だな………」
苦労は、見るからに判る。このバーラットで、成人するだけでも大変だった身体を抱えて、一族の命運を左右しかねない内憂外患を捌いていかなくてはならない。だが、そのために彼が切り捨てたものは、もしかしたら、人を導くためにもっとも大切なものであったかもしれない。
「何で、難しい方へばっか行きたがるのかねぇ」
一人で問題を抱え込むのは、周囲を心配させたくない気遣いなのかそれともただの見栄なのか。
多分自分しか見られないだろう寝顔をしげしげと眺める。
本当に、この青年がどこへ向かって暴走しようが構いはしないのだ。カルデシムの本分からすれば。
カルデシムは肩を竦めると、足音を忍ばせて部屋を出た。主人が目を覚ますまでの間、皿の上のみずみずしい果物を乾燥から守る方法を考えながら。


夕焼け空に黒点がひとつ、ぽつんと浮かび上がっていた。
「あー、アフリートだ………」
砂漠に寝転がってそれを見上げ、ノイシュはのんきに呟いた。
バーラットの町に城壁などはない。広場を中心にいびつな同心円状に広がる日干し煉瓦造りの建物の群れが、端に行くにつれてだんだん天幕様のものにとって変わられたかと思うと、もうそこは砂漠の入り口である。
皮翼を持った黒ねずみが町の上空を何度か大きく旋回し、やがて屋敷の方向へ飛び去るまでを、ノイシュはぼんやりと目で追っていた。
「また、兄上のご用事かなあ。偉いよな、ちゃんと仕事してるんだから」
大きく足を振り上げて、よいせ、と起き上がり、ぷるぷると頭を振って髪についた砂を払い飛ばす。
「おまえも大きくなったら、手紙とか運んでくれるかな?」
めでたくノイシュに飼われることになったイデックの子供は、主人の呟きなどそ知らぬ態で、砂とかげを追いかけるのに夢中になっている。
「俺は早く大人になりたいんだ。そうしないと、父上や兄上のお手伝いもできないし、誰も俺の話なんか聞いてくれないから」
やりたいことはたくさんあるし、まだまだ知りたいことだってたくさんある。胸に溢れんばかりの夢と希望を、どうしたら形にできるだろう。
「ノーイシュ!」
友達が呼ぶ声が聞こえた。立ち上がって手を振ると、数人が走り寄ってくる。
ノイシュの友人たちの身分はさまざまである。兄弟のように育った重臣の息子もいれば、町に遊びに出た時に意気投合した悪ガキたちもいる。誰も、ノイシュが族長の息子であることなど気にしていない。
「ノイシュ、宴会に行こう!」 今夜、町で行われる結婚式に乗り込もう、と口々に誘いをかけてくる。
バーラットの市井の婚儀は無礼講である。祝いに駆けつけた者は誰彼なく歓待される。めでたい席とて男女間の礼儀も緩和されるので、若者たちにとっては恋の機会でもある。そうでなくてもご馳走にありつけ、ご祝儀ももらえるのだから、誘いを断る理由はない。
促されるまでもなく、ノイシュはイデックを抱き上げて友人たちと走り出した。
「誰と、誰の結婚式?」
「南通りの雑貨屋の息子と、三本石の水屋の娘!」
「えー?あそこの娘、成人したの?だって俺、おとといスークで話したよ?」
「あれは末の妹だって。右だけ八重歯の子だろ?可愛いけど、まだガキじゃん」
「花嫁は一番上。三姉妹なんだぜ、知らなかったのか?」
「そうそう、ノイシュんとこと同じ。怖い兄貴と能天気な弟はいねぇけど」
「能天気で悪かったな!」
憎まれ口を叩いた友人に、走りながら蹴りをかます。
「それに、兄上はお優しいぞっ!」
「はいはい、おまえにだけな」
笑っていなされて、ノイシュは頬を膨らませた。
早く兄の手助けができるようになりたい。難しい仕事を抱えていつも真剣な顔ばかりだから、皆が誤解するのだ。自分が少しでも負担を肩代わりできるようになれば、きっと、もっと笑顔を見せてくれるようになる。
「手ぶらで行くのは、さすがにまずいかな?」
ノイシュが拗ねた間に、友人たちの話は祝いの品談義に移っていた。
「ハセフんとこのヤギでも引いてくか?」
「やめろよ、俺が親父に殺される。ミシュラケーシーとか、その辺に咲いてねぇ?」
「そう都合よく咲くか。第一、男が摘むもんじゃねぇだろ」
「花でいいなら、俺が取ってくるよ」
ノイシュがそう言うと、友人たちは顔を見合わせた。
「そりゃ、おまえのとこなら咲いてるのは知ってるけど………」
彼らは、ノイシュ本人の身分には頓着していなくても、彼が置かれている環境についての気遣いは忘れない。
「中庭の花は、アルタミラ様が大事にしてるんだろう?勝手に取ったら怒られるぞ」
「ちゃんと断るよ。結婚式のお祝いなら、義母上は喜んで分けてくれるって」
先に行ってて、と手を振って、ノイシュは一人、屋敷へと駆け出した。
「若長殿に見つかるなよーっ!」
背に投げかけられた友人のエールには、舌を出して応えた。
町の宴会に乱入する、などとオシアンに知れたら、もちろん説教だろうけれど。
自分を実の息子のように可愛がってくれる義母アルタミラは、こうやって好きに走り回っていられる時間もあと僅かだからと、笑って許してくれるだろう。
腕の中のイデックが、肩に駆け上がって青白い光を放ち始めた。
見上げれば赤紫の空に、砂を撒いたような星空がうっすらと広がり始めていた。
じきに月が昇り、結婚式が始まる。
花嫁の真紅のヴェールにはどんな花が似合うだろう、と考えながら、ノイシュは黄昏の中に駆けていった。


バーラットのある一日は、こうして暮れた。
翌年の別離を、まだ誰も知らない。