1.風の中の羽根のように
■Scene:アンナ
あっという間に、朝と夜が通り過ぎていった。
初めて帝都ニクセントを訪れたはよいが、頼るあてもないとすぐに気づいたアンナ・リズ・アダーであったが、幸運にも紡ぎ手の腕を見込まれて、商家や職人が集まる一角の、とある工房に身を寄せることができた。
水路沿いに大きな染色壷がいくつも並んでいる。染料の独特のにおい、紡ぎ車の規則正しい音、織り上げたばかりの布が軍旗のように整然とはためくその場所は、アンナがよく見知ったものばかりで構成されていた。工房は大忙しで、さまざまな事情で帝都にやってきたお針子や紡ぎ手たちが、他にも何人か雇われていた。
初めて帝都に立ったあの日、たくさんの人に肩をぶつけられながら歩いた。自分はひとりなのだと思った。でも今の工房は、あの大通りほど冷たい場所ではない。同僚のお針子たちは皆、自分の暮らしに精一杯で――アンナも例外ではなかったが、それぞれの事情を深く尋ねるような者はいなかった。とはいえ、困ったことが起きればそれなりに助け合う。同じ職人どうしの絆めいたものも、ここにはあった。
朝早くに部屋を出て、工房で働きづめに働いて、夜遅くに部屋に戻るなり寝台にもぐりこむ。《島》での濃密な時間とは対照的な生活。
年が近そうなお針子と、なんてことはない会話を交わしたり、一緒に昼食を食べたり、怖い先輩に叱られたところをなぐさめあったり。
居心地は悪くないとアンナは思っている。
何十回も朝と夜を繰り返す中で、いつの間にか仲良くなったお針子のひとりが、仕事の前のほんの少しの時間、小さく指印を切って祈っている姿を見た。
川面に反射する朝日が薄いカーテン越しに透け、お針子の姿は逆光にかたちどられていた。アンナは仕事の準備をしていた手をとめて、しばしその美しい祈りの風景に見入った。わずか数秒のことだった。
その夜、アンナは故郷に宛てた手紙を書いた。
逃げるように後にして、それ以来戻っていなかった機織りの街。内乱の傷跡は自然にふさがるわけではない。そこに暮らす人々が互いに努力して、新しい姿をつくりあげる。かつての街とは違う姿になったとしても、それは住人たちが互いに歩み寄った結果なのだ。だから……。
長い休みがとれたなら、故郷に一度戻ります。
手紙の末尾はそう締めた。封をする段になって、ふと窓を開けてみた。白い鳥がいたような気がしたのだ。
夜空に星がちりばめられている。
そんな空を見上げるのも、すごく久しぶりだということにアンナは気づいた。《大陸》のどこかで皆、こうして夜空を眺めているのだろうか。
アンナは自分に帝国の別荘を、などと言い出した騎士のことを思い出し、彼がもはやここにはいないことを思い出し、けれどもオルゴールだけは手元に残ったことを思い出して……手籠から、あの日受け取ったままのオルゴールを取り出した。
手元に残ったものの少なさと、失ったものの大きさを振り返って、アンナは少し涙した。
そうして寝台にもぐりこむ。明日は自分も工房で、《川走りの糸》さまにお祈りをしてみようと思った。
昨日も、明日も、紡ぎ手でいられるのだから。
■Scene:アレク
「傭兵ヴィクトール? あの、狂犬か?」
お世辞にも上品とはいえない酒場の片隅で、その男たちは、アレク・テネーブルの質問をげらげらと笑い飛ばした。
「あいつはくたばったんだよなあ、確か!」
「ったくろくでもない奴だったからな。さぞかしろくでもない死に様をさらしただろうよ」
「ヤキが回ったって聞いたけど、いつだっけかなあ……」
「後ろから刺されたんだろ、どうせ。なあ、おめえも恨みを募らせてた口か?」
首を振り適当に話を切り上げて、アレクはカウンターを離れた。
これまでいくつかの酒場でこうやって、傭兵の足跡を尋ねてきたアレクだが、出会った男たちは一様に同じ答えしか返さない。まるで決まりでもあるかのように。
ヴィクトールを探している理由は簡単だ。一度落ち着いて酒でも飲むのも、悪くない。
統一王の恩赦によって、自分の罪は不問になった。おそらくはヴィクトールの罪も。手配書が消えただけで、恨みを買ったことそのものが消えてなくなったわけではない。それに、ヴィクトールがあちこちでしでかした――というか関わっていたというべきか――事件の数々が、歴史から消え去ったわけでもない。
アレクは酒場を後にすると、待たせていた荷馬の綱を解く。そのあたりで適当に求めた馬は、老いぼれていたがきちんと歩いた。行商に身をやつすのに荷馬一頭で済む。このまましばらく都から遠ざかり、便りが舞い込むのを待とうとアレクは思った。
特に定めた行き先もなかったが、アレクは街道を北にとる。
せっかくたくさんの人と知り合ったのだ。道楽半分の仕入れ先には、実家に戻っているはずの商人スコットがいいかもしれない、というそれはただの思いつきだった。珍妙な品々の数々を彼は手放さないかもしれないが、この先まっとうに生きていくのに、伝手を広げておくのは悪くない。
ああ、そして。
ヴィクトールを探す理由のもうひとつは、彼ならば、クラウディウスの行く先を知っているだろうと思ったからだった。それは勘だ。だがアレクは勘を信じた。
やがて再会する日のために、アレクはもういちど酒場へ戻る。
「酒を一瓶。できれば……寝かせておくほど美味くなる奴を」
■Scene:ヴィクトール
平和で、穏やかな日常。戦う必要のない生活。
子どもの身体に戻ったヴィクトール・シュヴァルツェンベルクは、八歳児としての暮らしに自分を慣らすのに苦労している。
旧帝国領北部、山脈の麓の小さな村は、夏を迎えようとしていた。険しい山脈に続く斜面を覆う森、その中を流れる小川のほとりで一番高い木の上からは、村が一望できる。
視界が狭いことに苛立つたびにヴィクトールは高い木に登った。そういえば昔から木登りは得意だった。
《島》から帰還し、歌姫とともに身を寄せたその村は、否応もなく本当の子供時代を思い出させた。修道院の鐘が鳴るたび、感傷めいたものがヴィクトールの胸に蘇る。そんなことすら忘れてしまったと思っていたのに、音を引き金にして記憶がざわめく。
忘れたたことにしていただけ。そう決めたほうが楽だったから。
子どもであることを上手く利用するコツは、すぐにつかんだ。
例えば村の奥に見えた帝国風の山荘の様子を見に行くのに、遊び場を探して迷い込んだ子どものふりをした。万が一顔見知りだったら面倒になると思っての偵察だったが、そこでまんまと山荘の持ち主と鉢合わせしたことは計算外だった。
唯一にして最大の誤算。
山荘は若獅子騎士団小隊長の持ち物であったのを、恩赦の際に払い下げられた。現在の持ち主は、あの、元副官殿……「私のヴィー」なのだ。
アルヴィーゼ。太陽のごとき男。裏表のない、眩しすぎる男。鏡のようにつきまとう半身。
すべては善意によって解釈された。誰も嘘をついていなかった。
だからアルヴィーゼの理解の中において、歌姫はクラウディウスの妻であり、ヴィクトールはクラウディウスの忘れ形見となった。ふたりがその作り話を否定しても、父親が反逆者では素性を隠すのも無理はない、とアルヴィーゼは取り合わない。
休暇のたびに馬車を仕立てては、目尻を下げて父親代わりを申し出るアルヴィーゼには辟易するが、剣術の相手には申し分もない。
戦う必要のない、生活。
穏やかな日常。
けれどもヴィクトールはまだ戦おうとしている。
自分ともっとも近い魂を持つふたりは、《大陸》に戻ってこなかった。
ルーン統一王朝は、生贄の獣にあのふたりを選んだのだ。
自分は選ばれなかった。最後の祈りは神々にやはり届いていなかった。彼らと自分のどこが違ったのだろう。ひとり取り残されてしまった疎外感が、時折胸に浮かんでは離れなくなる。屋敷の隅で膝を抱えることはないし、歌姫は子守唄を歌ってくれる。
けれども。次は。
ヴィクトールはかぶりを振って木の幹を滑り降りた。夏草の香りにまじって、焼きたての菓子の匂いが鼻に届く。リモーネが焼いているのだ。喪われた夏がここにある。ヴィクトールは村の広場へ続く小道をたどる。
次にあいつがやってきたら、蜜蝋を借りて短い手紙を書こう。
帝国貴族の紋章入りなら、アストラに戻ったはずの神聖騎士にも届くはずだから。
したためるのはたった数言――"祝福"という名の神聖騎士の遺族に会えたなら伝えてくれ。彼女は、本望を遂げたのだ、と。
■Scene:リモーネ
《大陸》に、ひとりきりで戻ったのではなかったと気づいて、思わず腕の中に抱きしめて。
それからふたりで、落ち着くことのできる場所を探した。路銀には不要になった手持ちの品々をあてた。傭兵時代の大剣も篭手も、子どもの身体には枷になるだけだからだ。
辿りついたのは、ヴィクトールが子どものころ滞在したことがあるという村だった。神殿の鐘楼が山あいから突き出した、一見して派手なところのない小さな村。鄙びたところも、多少なり帝国貴族に由縁あるところも、馬車を走らせればニクセントまでそう遠くないところも、ヴィクトールの求める条件に当てはまっていた。
同じような村ならきっと他にもたくさんあるのだろう、と、ラフィオヌから出たことのないリモーネは思う。
だがヴィクトールは、この村の神殿は修道院になっていて、慈善事業に力を入れているのだと説明した。孤児院の経営や、戦災母子家庭の救済などのことらしい。
いかにも貴族さまがやりそうなこった、と苦々しく悪態をつくヴィクトールの、年相応に幼い声が可愛らしくて思わずリモーネは笑ってしまった。
嘘をついたわけではないけれど、優しい人々はいくつかの誤解の上で結果的に、リモーネとリモーネが「トールさん」と呼ぶ少年を、村の一員に迎えてくれた。かつてクラウディウス様の副官だったあの方の助力あればこそで、彼には感謝してもしきれないと思う。
トールとの生活も、初めはかなりぎくしゃくしていた。
彼は総じて無口な性質だったし、お互いが、家族というものを持たない生活が長かったのだ。《島》での濃密な時間を越えてなお――あるいは越えていたからこそ、新しい暮らしに戸惑う。ままごとみたいなぎこちなさも、やがては時間が解決してくれた。
普段心の内を明かさないトールがある日、リモーネにこう言った。
「約束する。帰らない旅に出るときには、必ずそう告げて旅立つ」
と。
家族に見えるように暮らすことから初めて、家族になる。
約束を交わしてからは、今まで以上に、先行きに対して考えることが多くなった。
彼は、いつか旅立つ。予感があって、覚悟もしている。
送り出す私が、それを止めることはできない。止めてはいけない。微笑んで送り出せるのだろうか? 笑う場面が増えたといって、肝心のその瞬間、笑顔でいられるのだろうか……?
リモーネは立ち上がり、竈のマドレーヌの焼き具合を確かめる。
いい色、いい香り。けれどもスティナさんが差し出してくれた、あの日の味には決してならない。アルヴィーゼ様は褒めてくださる、トールさんも嫌いではないらしい、でも。
お日さまの味をもう一度味わいたい、束の間の時間を留めておきたい、とリモーネは思う。
■Scene:スティナ
《旅人たちの街道》はどこまでも続く。
ケイオスの喉をくすぐりながら、ささやきかけるスティナ・パーソン。黒毛の子犬は気持ちよさそうに目を細めている。同時に、手の甲に刻まれた謎の紋章がスティナの視界に入る。
不吉な髑髏に似た刻印を見るたび、スティナは訝った。
これは何のしるしなのか?
代わりに、肌身離さずつけていた革ベルトがなくなっているのはなぜ?
それにとんがり帽子もなくなってしまった。精霊たちに尋ねてみても、彼らは答えてくれない。ブラウニーもシルフも、知らないという。でもなくした品々のことを思うと、スティナの胸がきゅうっと温かくなる。
いつもと変わらない生活。おじいさんとおばあさんの家。居心地のいい森の中。小さな動物たちと精霊たち……。
何かが足りない。
「大切で温かい何かを、私は忘れてしまっているのでしょうか?」
何気なくサラマンダーと一緒に作りはじめたジャムや焼き菓子が、とんでもなくたくさん出来上がってしまったのをしおに、スティナは旅支度を整えたのだった。畑や家のことはブラウニーや妖精たちに頼んだ。とりわけ美味しく出来上がったマドレーヌは、半分は道中のおやつに、半分はどこかで路銀に変えるつもりだ。
「さあ、新しい旅の始まりです〜」
ケイオスのふかふかの毛皮に、そっと腰を下ろす。子犬はむくむくと大きくなった。小柄の召喚師を乗せて運ぶくらい造作もないほどに。瞳が赤い光を帯びはじめる。しかし凶暴な輝きではない。
……そういえば、ケイオスが心を許して鼻先を近づけていた、あれは誰だっただろう?
確かに同じときを過ごした、大切な誰か。
一緒に焼き菓子を食べながら笑いあった誰か。
きっと革ベルトは、そのひとたちと共にある。スティナはそう信じた。細い革ベルトは、スティナにとって特別な意味をもつ品だ。外す事が怖くて、湯浴みのときも寝るときも決して外さなかったもの。だが、今はもう怖くない。
「教えてくださいな〜、ケイオス。どっちへ行ったら、あのひとたちに……私が忘れてしまっている、あの大切なひとたちに会えるのでしょうか〜?」
低く唸りをあげ、ケイオスは大地を蹴った。飛ぶように景色が遠くなる。スティナはそっと、長く暮らした森を振り返った。
小さな友人たちに、忘れたものを取り戻したら必ず帰ってくるから、と心の中で約束する。
兄がいっておいでと手を振っている気がした。
やがて街道の向こうに、賑々しい楽隊の音が聞こえ始める。どこか懐かしい旋律だ、とスティナが思うや、黒獣は駆ける足を緩めた。
「ケイオス、どきどきしませんか〜? 楽しそうな……もしかして旅芸人の一座でしょうか〜?」
自分で見たことはなかったけれど、そういう集団がいることは聞いていた。
前を行くのは何ともにぎやかな幌馬車隊だ。いろんな獣や、どうやら精霊のような存在までもがいる気配である。彼らが楽しげに、自分とケイオスを呼んでいるのが感じられる。
仲間に入れてもらえるだろうか。幌馬車と併走しながらスティナが考えあぐねている間に、幌のひとつからひょっこりと、女性の顔が飛び出した。元気のよさそうな、いかにもはねっかえりの黒髪の女性だ。すぐ後ろからこれまたひょこり、よく似た顔の赤髪の少年がこちらを見ていた。なんだか気になる視線だった。
「入団希望の方?」
唐突に、スティナは問われる。後から考えてみれば唐突にも程がある問いだったが、この幌馬車隊ではよくあることなのだとスティナが知ったのは、随分後になってからだ。
「あ、ええと〜」
「よし合格。ついてきな!」
「は、はい〜!」
幌には、薔薇の花びらを象った色文字で、大きく《ハルハ旅団》と書かれていた。団長だという黒髪の女性に、スティナは精霊の加護を感じた。ハルハというのは赤髪の少年の名前だと、精霊たちがささやいた。
楽隊は懐かしい音楽を奏で続けている。
■Scene:ジュリエット
ピンクと白の縦縞の、とんがり帽子はとてもよく目立った。
召喚師見習いの少女は、カトレア先生に頼まれたおつかいを済ませて、商店街を歩いている。
「ミルクとたまご、ミルクとたまご」
今日は忘れずにちゃんと買うことができた。何か大事なことを忘れている気がするけれど、先生に頼まれた分の買い忘れはないから、怒られはしない。大事なことは書いておくように、と言われて持ち歩いているノートを見ても、特別なことは何も書かれていない。
何を忘れているんだろう?
ロミオ。
彼女は以前、そう名乗っていた。本当の名前はジュリエット=ワーグナー。偉大な召喚師のおとうさんがつけてくれた名前だ。でもジュリエットのおとうさんは、まだジュリエットが小さくて言葉もちゃんと喋ることができない時から、とても厳しかった。
ジュリエットはおとうさんが怖かった。すぐ叱る。すぐ怒る。
「こんな初歩の術も使えないのか?」
「蛍火も金魚も呼べないなんて、巫山戯ているのか!」
「いいか、この薪に火をつけられるようになるまで眠るな!」
ジュリエットのおとうさんは、すごく立派で力のある召喚師……なのに。
おとうさんはジュリエットをよその家の子になれといって放り出してしまった。
「あの男にも困ったものだね」
養子に出されていろいろもめたあげく、ジュリエットを引き取ったのがカトレアだった。彼女は召喚師ワーグナーの友人だった。少女はカトレアの弟子ということになった。
「名前は……ロミオっていうの?」
「は、はい」
「きみ、ジュリエットちゃんでしょう?」
腰に手をあてて、カトレアはおびえきった少女の顔を覗き込む。少女は頬を少しふくらませてうつむいた。
「ロミオ、です……」
その日から、少女は男の子のふりをして暮らすようになった。金の巻き毛を短く切って、いつもうつむきかげんに帽子をかぶって。ワーグナーくらいの年代の男性を見ると、萎縮してカトレアの後ろへ回った。
ワーグナーの使い魔からカトレアが手紙を受け取ったのは、不肖の弟子がちょうど一度でおつかいを済ませられるようになった日の夜。かつてカトレアが、ロミオという名の弟子をとったという報告をワーグナーに送ったのだが、それに対する、数年越しの返事であった。
なんだかんだと言い訳めいた言葉が連ねてはいたものの、つまりはロミオをよろしく頼む、という内容に、カトレアは苦笑する。
「ロミオか……まったく」
呟きながら少女の寝顔を見つめ、今度はワーグナーに対して、弟子の名前がジュリエットに戻ったと報告しなければならないな、と考えるカトレア。
「報告ついでに、久しぶりに召喚術の初歩
ジュリエットが、これまでからっきしだった召喚の技をいきなり――というかただ一度偶然にも成功させ、カトレアの家の庭に巨大な鯨と、褐色の肌の青年を呼び寄せるのは翌日のことである。
カトレアが驚いたことには、その青年に対してジュリエットは怯えることなく、懸命に何かを思い出そうとして……そして自分から声をかけたのだ。
「ま、マロウ、さん……?」
カトレアの次の手紙は、かなり長いものになった。
■Scene:スティーレ
白犬アイメスは利口そうな顔で、尻尾を揺らすのが常だ。吠えることはけっしてなく、元学者スティーレ・ヴァロアの傍らに付き従っている。時々姿が見えない時もあるが、いつの間にか、どこからかひょっこりと顔を出している。
スティーレは元学者で、今は旅人だ。鳥に招かれて研究室を出てから、見た目にも変化が現れている彼女を、スティーレと気づく人は今のところ誰もいない。自由になった嬉しさと人間関係の横糸の脆さに、少し複雑でもある。里帰りして両親に会えばさすがに両親は気づくのだろうが、それは最後にとっておくことにした。
アイメスが傍にいてくれるとわかってから、スティーレはいろんな場所を旅することに決めた。
「新しい生き方も、少しくらいなら悪くないわよね」
呟いてみた言葉の、まるで自分の言葉ではないような響きにスティーレは驚いた。研究室にこもりきりだった学者ならば、到底口にはしなかっただろう言葉。
スティーレの足元で遊ぶアイメスは、自分が自由だということに、いいようもない開放感を味わっている。それが、スティーレにも伝わってくる。
アイメスには、レヴルの居場所がわかるのだろうか? そう尋ねてみたこともあった。
スティーレは、アイメスの声の調子から、彼女のいいたいことを掴めるのだが、その逆はなかなか難しい。アイメスは気まぐれなのだ。それに尻尾を振ったり鼻をひくつかせたりといった会話方法は、スティーレには真似できない。
でも時折どこかひとつところをじっと眺めては、黙って尾を振っているときがある。
きっとレヴルとつながっているのだろうとスティーレは思っている。
「ねえアイメス、子どもたちに会いに行くのはどうかしら? あちこちの孤児院を回って子どもたちと遊ぶの」
そうだ。たくさんの、いろんな子どもたちに会いたい、とスティーレは思った。
アイメスも生まれたばかりだ。《大陸》にはいろんな命があって、みんな一生懸命に生きようとしている。子どもたちと遊ぶのはきっと楽しいだろう。アイメスの毛皮はいい匂いがすることを知っているスティーレは、子どもたちが乱暴なほどに手を伸ばしてアイメスに抱きつく光景を想像し、くすくすと笑った。
(どうして笑うの)
アイメスが尋ねている。
「行ったら分かるわよ。きっと楽しいわ。そうね、ディルワースの孤児院に行ってみましょうか」
言いながらスティーレはもう、子どもたちにどうやって読み書きを教えようか楽しく考えている。
(でぃるわーす? それ、どこ?)
「ずうっと北よ。とにかくずうっと」
ああ、きっと楽しいだろう。今からこんなにわくわくするのだから。
ふたりの旅ははじまったばかり。スティーレの里帰りは、当分先のことだ。
■Scene:白と黒
ネリューラ・リスカッセ。その名前は、カジノのスリルを愛する者たちの間で、よくささやかれるようになっていた。女王陛下の騎士のごとくに寄り添い付き従う男性、エルの名前とともに。
曰く、負け知らずのギャンブラー。黒のネリュと白のエル。
曰く、謎の老人から巨万の富を譲り受けた二人組。
曰く、某国の女王と護衛騎士。
彼らにまつわる噂は尽きない。真実を知る者もおらず、噂がさらに噂を呼んでいるのだ。
グランドカジノにたどり着いてからというもの、ふたりは街から街へ、主にネリューラの気の向くままにカジノからカジノへと渡り歩いた。エルにとっては、終わらない長い夜がずっと続いているようにも思える。でもこの夜は輝かしい。薄明かりの曖昧な夜とはまるで違った。
ネリューラは夜毎熱心に、あるいはからかい半分に、たまには驚くほど大胆に、賭け事をして遊んだ。時々は思い出したように、エルの占いを賭けに使ったりもした。そんなときにはエルも思わず調子にのって、水晶玉に映る光景をああでもないこうでもない、と大仰に告げてみせるのだった。
とある街のカジノでも、カードゲームの卓に加わるや否やネリューラにツキが回ってきた。
すぐさまチップが山積みになり、ネリューラはご機嫌で場を離れる。エルはルクスさんと一緒に街の様子を見に出かけたらしい。ネリューラはたいてい、新しい街に着くなりいそいそとカジノに飛び込んでしまう。あたりに危険がないかどうかを調べるのは、エルの半ば習慣になっていた。
「ふふ。この短時間にこれだけって、エルが見たら驚くわね」
酒瓶が並ぶ間からバーカウンターに身を乗り出し、特製のカクテルを注文する。
「それとも、もうこれくらいじゃ驚かなくなっちゃったかしら……」
ご機嫌で味わうカクテルは、格別の味がした。
「よう姉ちゃん」
掛けられた声に、グラスを傾けながら横目で応える。酔っ払いがにやにや笑いを浮かべグラスをあげている。
「さっきの勝ちっぷり、見事だったねえ〜」
視線があからさまにチップの山を向いていることに、ネリューラほど勘がいい人間でなくとも気がついただろう。大勝した人間に取り入っておこぼれにあずかろうとしているか、別の賭けをふっかけてチップを横取りしようとしているか。どこのカジノでも必ず数人はたむろしている手合いである。
「まあね、今日は運がいいみたい」
肩をすくめまんざらでもない表情で答えるネリューラ。骨の形の首飾りが乾いた音をたてる。これは割と得意な状況だった。
ちょっとからかってみて、相手が本気で賭けを申し込んで来ればしめたもの。上手くあしらえば相手のチップを巻き上げられる。
「へ〜え。俺もあやかりたいね。どうだい、運試しに俺ともうひと勝負ってのは」
酔っ払いは肩越しに親指を立て、カードゲームの卓を示してみせる。
「悪くないわ」
カクテルを飲み干して、ふふっとネリューラは笑う。カウンターにグラスを置き、妖艶に唇を持ち上げて。
「よし。そうこなくっちゃな!」
俄然酔っ払いの声が大きくなった。乱暴にネリューラの肩を抱き、賭場へ向かおうとする。
と。
「私の主に何か用か?」
いつの間にか男の背後に立つエルが、静かに尋ねた。剣の鞘が正確に、男の背後から急所に押し当てられている。
酔っ払いはしばらく口をぱくぱくさせ、ふたりの顔を交互に見たあと、汗まみれになって人混みに姿を消した。
「もう少しで引っ掛けられるところだったのに」
笑いながらネリューラが言う。
「……あまり危険な遊びはやめてくださいと」
「はいはい」
手をひらひらとさせて、ネリューラはエルの小言を遮った。カクテルのおかわりとエルの分を注文する。
「それより、どうだった? 何か面白そうなところはあった? リオン」
ふたりのときだけネリューラは、エルを本名で呼ぶ。
「見つけましたよ」
リオンと呼ばれた元騎士は、眼鏡を指で押し上げながら、勿体をつけた仕草で一冊の本を取り出した。
カウンターでぱらぱらと頁をめくるネリューラは、その表紙に記された著者の名を見て驚きの声を上げた。懐かしい名前がそこにあった。
著者はリラ・メーレン。題名は『突撃アド街ック《大陸》レポート』。第○号、とあるところをみると続き物らしい。
「あなたの街で出会ったら、リラっちと声をかけてください……だって」
「この巻の次回予告によると、次の目的地はこの街だそうですよ」
「あら、そうだったの?」
巻末を指さしてみせるエル。リュックを背負って駆け回るリラの似顔絵に添えられた後書きには、次はカジノを取材してみようかな、という一文。
「ええ。街の入り口に、歓迎の看板が立っていました。気づきませんでしたか? けっこうファンがついているのかもしれませんね」
ふいに、ネリューラの瞳にあのいたずらっぽい輝きが宿る。
「何を思いついたのか分かりましたよ、ネリューラさん」
ため息まじりでエルが笑った。
「どうして分かるの? でも、そうと知ったなら急がなきゃ。リラっちに追いつかれちゃ面白くないもの」
「……っていうと思いましたよ」
「話が早いわねえ、リオン」
「チップ、交換してきましょう。ネリューラさんは待っていてください。ああそれから。変な男をからかって遊んだりしないでくださいね」
「しつこいと嫌われちゃうわよ」
するりと止まり木から降りながら、ネリューラは久しぶりに呪文を呟いた。呪術が生み出す黒い蝶があらわれ、ふわふわとカジノを横切り、外へと向かう。蝶の飛跡を眺めていると、エルが戻ってきた。
「どうしたんです? そんな楽しそうな顔をして」
「ふふ、行きましょ!」
ネリューラが颯爽とエルの先を行く。やれやれと言いたげに、けれど楽しそうにエルは従う。ふたりの後ろから、ふわふわと光の精霊がついていく。
街を出る際、先ほど見つけた看板を振り返った。等身大のリラの絵には、ももんがの尾と、先に行くわ、との伝言が書き足されている。黒い蝶は、飾りのりぼんのように、ちょこんとリラの頭にとまっていた。
■Scene:リラ
「っく、くやしいっす! やられたっす!」
そしてリラ・メーレンがカジノの取材にやってくる。すでにふたりは旅立った後だ。看板を見るなり文字通り地団駄を踏んだリラである。リュックからぶら下げた思い出のブーツが揺れる。
「……まあでも、ミステリ仕立てで謎の二人組の追っかけ紀行記事が書けるから、よしとするっす。うん、これは連載でいこう」
肩で息をつくのが落ち着くと、リラは立ち直って歩き出した。
旅行作家として《大陸》を駆け回る生活は、リラの性格になかなか合っているらしい。統一王朝成立の混乱を乗り越えた《大陸》は、妙齢女性の一人旅がそれほど珍しくないくらいには平和だ。もっとも、危険や争いがあったって、そんなことには関係なくリラは旅行作家の道を選んだだろうけれど。
庶民派な視点が人気を呼んで、リラの旅行記は読み物としてそれなりに有名になってきている。行きたい街は山ほどあるし、会いたい人々もあちこちにいるしで、当分は退屈するひまもない。
少し気がかりなのは、ヴァッツやリアルがどうしているかということだ。リラは再会を楽しみにしていた。多分そのときがきたら、リアルの残したブーツが教えてくれるのだろうと思っている。だから今はまだ、好奇心の赴くままに旅をしている。
「リラっち〜」
幼い声がリラを呼んでいる。振り返ってみれば、かわいい女の子がリラの上着の裾を引っ張っていた。可笑しかったのは、女の子がリラを真似た格好をしていることだ。伸ばした髪を三つ編みにして小さな布リュックを背負い、動きやすそうなズボンをはいた上に、大きすぎる白いシャツをかぶっている。
「わ、かわいいっす!」
破顔してその場にしゃがみこむリラ。女の子はリラのブーツに興味深々の様子だ。
「ほんとだあ〜、リラっちブーツ持ってるの〜」
ブーツは履くものなのよ、と女の子はしたり顔で言う。
「あ、これはお守りなんすよ、大事なひとたちと会うための」
そんな会話の合間にも、時折ブーツはぐねぐねと動いた。女の子はびっくりしてぽかんと口を開けている。はははっと白い歯を見せてリラは笑った。
「ね? 魔法のブーツなんすよ、すごいっしょ?」
少し離れたところから女の子のお母さんが走ってきて、あらあらまあまあと声をあげた。垢抜けた格好の割には妙に下町のおばさんらしい仕草である。
「この間の、あのサーカスの記事読みましたよ。とっても楽しくって、まあ、ご本人に会えるなんて光栄だわあ!」
「ありがとうございまっす! 《ハルハ旅団》の巻っすね。やーアレは自分でも楽しく書けたかなって」
頬を染めて答えるリラ。
「娘が、自分もあのサーカスを見たいといって聞かないの。でも、アレねえ。平和になってこういう旅行も楽しめるようになってありがたいわあ」
そうか、とリラは思った。
少し前までなら、こんなふうに、どこかへ気軽に出かけてみようと思う人は少なかったに違いない。特に小さな子どもを連れて遠くの街に出かけるなんて、それが遊びやサーカス目当てでは決してなかったはずだ。
人々にゆとりが戻ってきたのかもしれない。
それが、世界が変わっていることをリラが実感した瞬間だった。
アイメス――《月光》はこの世界を、楽しんでいることだろう。
「もしも《ハルハ旅団》を見に行くことができたら、白い召喚師さんによろしくって伝えてください。仲間のひとりなんです」
「あらあら、本当に?」
「ねえキミも」
リラはもう一度しゃがんで、女の子に言った。
「白い召喚師さんに会ったら、お菓子をもらうといいっすよ! 特にマドレーヌが絶品、ジャムも捨てがたいっす」
「わかった! リラっちありがとう! わあい楽しみだなあ、おかあさん」
はしゃぎながら母にしがみつく女の子は楽しそうだった。
いつかあの子も、大切なお守りを見つけるだろう。片方だけのブーツのように。あの子にはあの子の物語が待っている。
リラは親子に手を振ると、次の記事の構想を練りながら歩き出した。
■Scene:セシア
セシア=アイネスは、ペルガモンの役場でエルリックたちの仕事を手伝う日々を送っていた。
旧帝国領はルーン統一王朝の版図の一部となった。政治の中心地はニクセントから、新しく建設されたばかりの聖都へと移ってはいたものの、旧帝国領内の役場がなくなったわけではない。皇帝選定権を失った選帝侯は、制裁を受けた者を除きそのまま領地に留まることを許された。旧帝国の領土支配機構は概ね残され、地方都市の役人たちはそっくりそのまま統一王朝に仕えることになった。
ランドニクスは、政治にせよ文化にせよ、新興であり拡大を続けたがゆえに先進的であった。統一王朝は、ランドニクスのすぐれた制度をそのまま活用することを選んだのである。ともかく統一王朝の実態は、ゆるやかな共同体とでも言うべきものであった。
ルーサリウス・パレルモの同期であるゼフィに認められ、セシアは彼女の部下として働いている。帝都がそっくり聖都に変わっただけで、地方都市の役人にしてみれば、仕事は何も変わらない。それに新しく図書館をつくる話が持ち上がってからは、セシアに任されるようになった仕事も多かった。
その日の朝、ゼフィが告げた話は、セシアを絶句させた。
「ルーシャさんが……仕事を辞めるんですか」
「ああそうだ。まったくいい身分だ、人手の足りないこの時期に」
苦虫を噛み潰したような顔のゼフィの後ろに、当のルーサリウス・パレルモが姿を現した。
「出たぞ、作家先生が」
「人聞きの悪い言い方はよしてください、ゼフィ。それに辞めるわけじゃない」
いつもと変わらぬ穏やかな表情で、ルーサリウスは友人の隣に腰を下ろした。
「何だ? 本が売れすぎて困っているんじゃなかったのか」
「冗談はそのくらいにしないと、セシアが信じるでしょうに」
「この子なら大丈夫だ。私よりもうわ手なくらいだからな」
セシアも、彼が書いた本についてもちろん知っていた。
いきさつは、こうだ。ルーサリウスは役所勤めという立場を活かし、伝手を辿って、《島》で同じ時間を過ごした仲間たちを探していた。半ばは消息をつかむことができた。ルーサリウスは彼らのもとを積極的に訪ね歩いた。中にはエルリックのように記憶を失っているものもいた。
仲間たちは概ねルーサリウスの訪問を歓迎し、他のまろうどの行方を知りたがった。同じような活動をしているリラと連絡が取れるようになってからは、彼の行動範囲も格段に広くなった。リラの著作に多少なりとも触発され、《島》での経験を物語に仕立てて本も出した。図書館設立も、ルーサリウスの著作が引き金になったらしいという噂であった。
もっとも爆発的に売れているわけではない。御伽噺が好きな人々、そしておそらくは《島》のこと知る者たちの間で読み継がれるのだろうと、ルーサリウス自身も思っている。そういう役目なのだ。
「セシアもそんなに驚かないでください。図書館が出来たらちゃんと見に行くつもりですから」
「どういうことです? 本当に仕事を辞めたいと思っているのですか?」
少し悲しげな目をして、セシアはルーサリウスを見つめた。仕事熱心な人間が、気紛れから勤めをやめるとは思えない。《島》から戻ってくるのにも、元いた場所を選んだほどなのだ。ルーサリウスの変化はセシアの心の奥をうずかせる。
「いえ……ただの休暇のつもりなんですが。この前出した手紙の返事が来たのです」
膨れ面のゼフィはペンを弄びながら、想い人かと意地悪く尋ねた。セシアはどきりとしてルーサリウスの表情を伺う。
「違いますよ。話したでしょう? 聖都からのお召しです」
「気に食わん話だ」
ゼフィは大仰にため息をついてみせる。しがない地方都市の役人が聖都に引き抜かれるなど、たいていのことではない。
「まあそういうわけで、近々聖都に出向くことになったのですが」
「そういうことだったんですか」
セシアの天邪鬼は、ルーサリウスの前では陰を潜める。セシアの想いに気づいているゼフィは、哀れみを込めてセシアの頭を撫でた。
「そういうことだから、セシアにもこれまで以上に働いてもらうことになるぞ」
「……ゼフィ。言い忘れていましたけれど聖都へは人と会うために行くのであって、別に向こうで働かされるわけでは」
「休暇だって、残った者が仕事を引き継ぐ点では同じじゃないか? そうそうルーシャ」
ゼフィが一転明るい調子で、ルーサリウスに書類を寄越す。
「休みを取る前にその件、片付けていってくれ」
思わずセシアも書類を覗き込む。旧帝国領の中でもなかなか行く機会のない場所への、とってつけたような出張命令だった。同僚のあてつけなのかどうか図りかねるルーサリウスに、ゼフィは心外だと口を尖らせた。
その、少し後。
ルーサリウスが執務室で出張の準備をしているところへ、思いつめた顔のセシアがやってきた。彼女がこの部屋にひとりで来たことはこれまでなかったが、ルーサリウスは書類整理の手を止めて彼女を迎えた。
「ルーシャ、さん」
セシアは静かに彼の名を呼んだ。感情を押し殺した声だった。
「貴方は行ってしまうのですね」
「いえ、ですからそれは」
「貴方は私のことを色目なしに見てくれるから、私は……貴方の側にいると、とても自由に思えるし、心地いい。貴方が好きです……好きでした」
その目があまりに真剣で、恋愛対象としてセシアを見たことのないルーサリウスはとても驚いた。
思えば彼女は、ずっと告白する機会を伺っていたのに違いない。そうと気づかず、見込みのない恋を続けさせてしまったのは自分の責だろうと彼は思った。恋愛に限らず、ルーサリウスははっきりした物言いを避けようとするところがあった。かつて妻を失った原因もそこにあったのに、同じことを繰り返していた自分をルーサリウスは罵った。
「私には、他に好きな女性がいます」
ルーサリウスも真剣に答えた。
「いいんです。貴方がいなくなってしまう前に、自分で伝えたかっただけですから……ただの自己満足です」
初めからセシアは振られることを覚悟していた。ルーサリウスは、そんな彼女を強いと思った。それともこのひたむきさ、この自己満足こそが、ルーサリウスにはない若さなのか。
ルーサリウスが返す言葉を探していると、セシアは小さく舌を出した。
「……僕も、旅に出ようかな。貴方がいないと、ここにいてもつまらないし」
きっとゼフィが荒れるだろうと思ったが、彼女の決意を止める権利はない。
「もちろん僕の分の仕事はちゃんと片付けますから心配なさらずに」
そう言うとルーサリウスの表情が途端に和らぐのが可笑しかった。
「ありがとう、ルーシャさん。貴方はこれからもずっと、僕の尊敬する人です」
ぺこりと頭を下げて、次に顔をあげたセシアの表情は普段どおりに戻っていた。
■Scene:サヴィーリア
弟ランテ=クローチェは目を丸くして、その次に顔を上気させて姉を叱った。
「旅に出るだって? また? 正気かい?」
「そこは、本気かって聞いてほしかったわ、ランテ」
サヴィーリアは弟の怒りをさらりと交わすように言った。弟の顔の赤いことといったら、髪の色そっくりだと思いながら。
「錬金術を極める道は険しいのよ」
「ついこの前、旅から戻ってきたばかりじゃないか!」
サヴィーリアの隣で、ルシカとティアが身を硬くした。
サヴィーリアはティアと一緒にルシカの故郷の街を見てから、しばらくのんびり旅をして、そうしてようやく今度は自分の家に、とふたりを招いたのだった。
しっかり者の弟は開口一番、どこに行ってたんだ、と姉を怒鳴りつけた。
しかし彼女が友人を連れているのを見ると一転、ようこそと表情を和らげた。このあたりの如才なさは商売気のある弟ならではだ。研究するほうが好きなサヴィーリアには、この手の才能はない。ひとりで戻ってこようものならどれだけ小言を言われたものか、とルシカたちに感謝したサヴィーリアであった。
その姉が、また旅に出ると言い出したのだ。ランテにとってはたまらない。
錬金術の店の切り盛りは弟の、商品である各種薬の調合は姉の担当で、ふたりはこれまでうまくやってきた。社交的で人あたりのよいランテに店を任せておけば、サヴィーリアは調合や読書に没頭できた。
そのサヴィーリアが旅に出るなら、自分は、店は、どうするつもりなのだろう。
「錬金術を極めるのにどうして旅が必要なんだ?」
「それはね、いろんな人と出会って見聞を広めることが、一番だと気づいたからよ」
「……はあ?」
ランテは驚いた。これまでの姉だったら言わないような言葉だ。
「つまり、私の視野は狭すぎた。先の旅を通してそれを知ったの。家にこもって本を読むだけじゃ駄目なのよ。自分の足でいろんな場所を訪れたいの」
「なんかあんた、変わったなあ」
「そう? そんなことないわよ。貴方の考えすぎよ」
サヴィーリアは首を傾げて、ねえ、とルシカを見た。ルシカは腕を組んでうーんと唸った。兄弟のいないルシカは、こういうやりとりは新鮮だ。なんというか、似たもの同士、という言葉が浮かんだ。
「次の行き先、実はもう決まってるのよ。友だちを探しに行こうと思うの……まあ行方が分からないから、手当たり次第なんだけど」
「ちょっと待った。そりゃ行き先が決まっているとは言わないぞ! やめとけ、大事な友達なら便りが来るさ」
「でももう決めたもの。それに、向こうは私のことを忘れちゃってる可能性があるのよ。やっぱり直接会いにいかないと」
「どういうことだよ? 何だか無茶苦茶な話だなあ」
「無茶苦茶で悪かったわね。でも決めたって言ったでしょ? さ、ランテも旅支度して」
「ええっ。俺も一緒なのかよ!」
もちろん、と澄ました顔でサヴィーリアは言った。
「店はどうする気だ」
「どうとでもなるわよ。ああ、こういうときスティナだったら、精霊さんを呼んで、後のことはブラウニーにお任せしちゃえるんだけどなあ……」
「……事情はまったくよくわからないけどさ」
ぽつりとランテは言った。
「女ばっかりで旅に出すのも無謀だと思うし、わかったよ、わかりましたよ。お供させていただきますよ」
半分は投げやりな言い方をしたランテだが、姉の成長を嬉しく思っているのも事実である。
■Scene:ティア
ルシカ、サヴィーリア、そしてランテ。
四人の旅は楽しかった。
音楽に出会うたびルシカは苦心してオルゴールに留めようとしたし、サヴィーリアは調合の配分を思いつくたび弟に材料を集めさせた。彼らは皆、ティアに優しかった。なぜだろう? よく涙が出た。
そして一度は別々の場所へと戻った仲間との再会の日々。
日を決めて会う約束をする。仲間たちが集う。それぞれが新しく出会ったものの話を聞くのも面白かった。
「生きるってことは、生き続けるってことなんだね」
ある日、ティアはそう言って笑った。次の行き先をどこにしようかと話し合った日のことだった。
その日は、2代目統一王戴冠の報が駆け巡った日でもあった。
「ティーちゃん……!」
ルシカはがばとティアを抱きしめた。
ちょっと背が伸びたティアは、ルシカをそっと抱きしめ返し、静かにその身を引いた。
「ティーちゃん?」
その様子をけげんに思ったルシカは、不安げにサヴィーリアやランテの顔を確かめた。
「わたしの役目は何だろうって、ずっと考えてた。辛いことは全部ルーが背負ってくれたんだって思ったら、やらされていることは何もなかった。でもそれは、何もしなくていいってことじゃない。いなくてもいいってことじゃない」
ティアは少しはにかんで、ここからは一人で行く、と告げた。手首の革ベルトを撫でながら。
「次に皆が会う約束の日に、わたしも行くよ。そのときまで生き続ける。その次は、その次の約束の日まで生き続けようと思う」
拙い表現ではあったが、ルシカもサヴィーリアも、ティアの言いたいことを理解した。単なる瞬間の連続に生きてきたティアは、初めて、ちょっとだけ先の自分を思い描きながら生き続けるということに気づいたのだった。それが、生き方になるということだ。
瞬間の連続には物語はない。
けれども明日誰かに会える、約束の日に友人に会える――そう思いながら日々を重ねていくこと。
約束の日に再会し、自分の物語を話すこと。
生きることは、生き続けることである。
「だから少しだけ、お別れだよ」
ティアは、金色の巻き髪を短く切った。
「大丈夫。また会えるから」
また会えるから。なんていい響きだろうとティアは思った。
そして、ルーに伝えたいと思った。今は会うことは叶わないけれど、統一王の玉座を明け渡せば役目は終わる。それから先のルーの物語を知ることはできるだろうか。
サヴィーリアを見ていて思った。人の痛みを和らげることは、すごいことなのだと。
彼女の薬は、時に魔法のように劇的な効果をもたらした。偽りの快楽でごまかすのではなく、痛みを和らげるすべをもっと知りたいとティアは思った。
外套にくるまって待つのではなく――ああ、もっと早くそのことに気づいていたら。ハリネズミのマントを纏ったあの人の苦しみも理解できたかもしれない。共に毒をあおるような結末だったかもしれないけれど――自分のやり方を探すことに時間を使おう。
ティアは短い巻き髪を揺らし、ひとりで歩き始めた。
2.行け我が想いよ、黄金の翼に乗って へ続く