2.行け我が想いよ、黄金の翼に乗って
Va, pensiero, sull'ali dorate,
va, ti posa sui clivi, sui colli
ove olezzano tepide e molli
l'aure dolci del suolo natal!
Del Giordano le rive saluta,
di Sionne le torri atterrate.
Oh, mia patria si bella e perduta!
Oh, membranza si cara e fatal!
――ヴェルディ「歌劇ナブッコ ヘブライ人の合唱」より
■Scene:聖都アンデュイル(1)
クラウディウス・イギィエムは、主君を裏切りミハイルに与したかどにより、アンタルキダスであるルー自身の手で処刑された。クラウディウスの部下には処分は及ばなかった。騎士たちはいっそうアンタルキダスへ忠誠を誓い、アンタルキダスが統一王となった後も、旧帝国選帝侯の鎮圧に尽力した。
そしてアンタルキダスが整えたルーン統一王の玉座に今座っているのは、彼の異母兄ミハイルだ。王妃ルンドミエルと共に施政に励む姿も、彼が盲目なればこそ、好意的に受け止められていた。
聖都アンデュイル。その名は新しい時代の象徴として人々の胸に刻まれた。
後の世に《神授の双翼》と謳われる王都だが、まだようやく王宮が完成したばかり。通りには忙しく働く人足や資材を運ぶ牛馬が溢れている。彼らをあてにして軒を並べた屋台では、饅頭や焼き串が飛ぶように売れていった。
ミハイルは建設中の街に出かけては、人々の営みの音を聞くのが好きだった。
ふと。
すぐそばに風を切る羽音を感じ、ミハイルは首をめぐらせた。
「どうしましたの、あなた……まあ」
傍らの新妻が、小さく驚きの声を洩らす。
ふたりの前にあらわれたのは白い鳥だった。王宮前広場に続く真新しい階段、その手すりに羽根を休めて、ふたりを見つめている。
「鳩かな?」
「ええ。白い……伝書鳩ですわ。こんなに近くに」
ミハイルはルンドミエルの手を握る。
「君を招きに来たんだよ」
「ご冗談を。きっとあなたを迎えに来たんでしょう」
伝書鳩はクルクルと鳴きながら、ミハイルに歩み寄った。
「白い伝書鳩を見た人は、幸せになるというね。目が見えない僕の分まで幸せになっておくれ、ルンドミエル」
伝書鳩はじっとミハイルを見上げていた。何か言いたげに羽根を震わせながら。
(……ミハイル統一王陛下。なんとご立派になられて)
鳥はクラウディウスが変じた姿であった。
ルーに処刑された時、彼は身を持って知ったのだ。ルーの持つ剣も《死の剣》であること。髑髏の刻印を持つものに与えられるその剣で、クラウディウスは圧倒的な快楽の中、人としての生を終えたのだ。
今は、かつてのヴァッツのように、自由に羽ばたく翼を手に入れた。この姿ならばずっとミハイルの側に控えていることができる。クラウディウスは満足だった。自分がレオにしたことを思えば、人ならざる者に変じるのは当然だとも思っていた。
(レオには……レオの命に対しては、本当にすまないことをした。一度は命を助け、その後に傷つけ……)
レオはもういない。
彼がなしたことを覚えているものは、あのとき《島》ですごしたまろうどだけだ。歴史は変わってしまった。そのことの咎を我が身が引き受けていることを、クラウディウスは心地よく感じていた。
(お幸せに、ミハイル陛下。そして平和の荒波にどうか耐えてくださいますよう。ずっとお側に。御身にお仕えいたします、陛下)
そっと誓うと、クラウディウスは大きく羽ばたき飛び去った。
「蒼穹に、輪廻を描く白い鳥……」
呟くミハイルに、付き人がやってきて数言囁いた。
ミハイルは鷹揚にうなずき、妻を促す。ルンドミエルが手を引いて、ふたりはゆっくりと階段を上る。
眼下にアンデュイルの街並みが広がる。白い鳥はニクセントの方角目指して飛んでいった。
■Scene:聖都アンデュイル(2)
統一王夫妻をその日訪れたのは、アストラからやって来たふたりの神官であった。
揃って白いフードつきのマントを羽織り、装飾を廃した革鎧をつけている。身につけたものの他はまったく似通ったところのない、壮年の男性とまだ若い女性という組み合わせである。
護身用のレイピアや杖を預け、跪いて男性が名乗った。
「アストラよりエンデュランス、参りました」
「卿が来るのを待っていたよ」
ミハイルはエンデュランスが見えているような仕草で、彼を立ち上がらせた。
「伴はどなたですか、今まで紹介されたことのない神官ですね?」
どういう風の吹き回しなのか。言外にそんなニュアンスを含めた言い方だった。
「ええ。本日の用向きに適任でしたので。こちらは神聖騎士のキスリングです」
紹介されたロザリア・キスリングは、伏せていた顔をゆっくりとあげた。
目の前に統一王夫妻がいる。この目ですべてを見届けるつもりで、ゆっくりと瞬きする。
エンデュランス卿は円盾の神殿騎士だ。現在は統一王朝の守護騎士団長としても忙しく飛び回っており、ロザリアにとっては文字通り雲の上の人であった。
昨日までは。
エンデュランス卿から、アンデュイル王宮訪問の供を命じられたのは昨日のことなのだ。
(計画の行く末だけが気になっていました)
今もロザリアの胸に残る、《月光》の言葉。
《島》から帰還してよりこの方、ロザリアはひたすらに、アストラの大神殿で勤めに邁進してきた。アストラ神殿騎士として当然のことだが、《島》の出来事によって《大陸》の歴史が変わってしまった以上、旧帝国、そして統一王朝の向かう方向を見届けねばならないという義務感が、ロザリアを突き動かしていた。
人工神の創造計画――《パンドラ》計画は、術を失い志半ばで打ち捨てられた。今のアストラにはそのような力や働きはないことを確認するのだと《月光》とも約束してしまった。
けれど禁書に触れる機会はめったに訪れることなく、歴史の裏に追いやられた秘神についても、なかなか思うようには知識を得られない日々であった。
それでも、アストラに戻ってきたのは、ロザリアの目的を果たすのに最も近い場所だったからだ。
たとえ求めるものが手に届く場所になくても。
今ロザリアの手は、エンデュランスの影の先くらいまでなら、届きそうなところにある。
「お初にお目にかかります、ルーン王ミハイル陛下。ロザリア・キスリングと申します」
眼光鋭く見つめたロザリアに、その青年はうなずいた。レオのはらんでいた棘をすべて丸めて抜き去ったらこうなるだろうか? 剣を振るうより、窓辺で本でも読んでいるのが似合いそうな、穏やかな人だった。
この方は平和を愛するだろう。これほどまでレオに似ていないのだから。レオの人となりに触れたからこそ、彼女はそう思った。そうして、人間観察の癖が出たのは久しぶりだとも思った。
それよりも、ロザリアの心を揺さぶったのは。
傍らに控える王妃、ルンドミエルの存在だった。彼女は射るような視線でロザリアを見つめていた。おそらくはミハイルの代わりに、ミハイルの分までも。
ロザリアがそんなことを思っているうち、エンデュランスは用件を切り出していた。
「旧帝国領ペルガモンから、私に宛てて不思議な手紙が届きましたので、ぜひ陛下のお耳にも入れておこうと思い持って参りました。差出人の名はルーサリウス・パレルモ。役人だそうです」
どくん。
ロザリアの鼓動が早くなる。
それは、常から探し求めていた、かつての仲間の名前であった。ルーサリウスぐらいなら会うこともできるだろうと思い、自分でも連絡をとろうとしていたところだったのだ。
……ルーサリウスと連絡を取り合うよりも先に傭兵から手紙が届き、それどころではなかったのであるが。
「それで、不思議な手紙とは?」
エンデュランスは手紙を取り出し、ひらひらと目の前で振って危険はないと示したあと、ミハイルの代わりにルンドミエルへ手渡した。ロザリアはひそかに息を呑み、王妃の次の言葉を待った。
一読したルンドミエルはゆっくりと、ひとことひとこと搾り出すように言った。
「《パンドラ》に関する報告書。これを、ルーサリウスなる男が書いたのですか?」
「ペルガモンは旧帝国領。先王……いえ、当時のランドニクス皇帝アンタルキダス陛下が《パンドラ》を探させていたという事実は、過去確かにありました」
さらりと告げるエンデュランス。
「それで?」
「件の命令はある時撤回され、調査は打ち切られたようなのですが、ともかく……報告者のパレルモは、私に詳細な話を聞きたいそうです」
ルーサリウスは賭けに出たのだ、とロザリアは思った。
同時に、自分がこの場に居合わせた理由を察した。エンデュランスは知っているに違いない。自分とルーサリウスとを結ぶ絆、ともに《島》に招かれ帰還したまろうどであることを。
「卿のおっしゃりたいことがわかりましたよ」
ミハイルは答える。
「では、陛下……」
「いや」
口を開きかけたエンデュランスを遮るミハイル。
「卿がその役人と会うのも話すのも好きになさればいい。けれど……かの君のことは、どうか、そっとしておいて」
ミハイルはルンドミエルの手を握っている。
「それは《パンドラ》に関する一切を忘却せよということでしょうか」
「悪くとらないで、エンデュランス卿。繰り返すけど《パンドラ》計画を再開するつもりは僕らにはないし、アンデュイル建設によってそれは証明したはずだよ。辺境の民にも手を出さない」
「陛下、私は……ただ」
「アンタルキダスは役目を終えたのです。このうえ、かの君まで追いかけてどうしようというのですか、エンデュランス卿?」
静かにルンドミエルが言った。
「叔母さまもかの君も、もう、卿を許してる。違うかな」
「陛下は、かの君がいたことすら消し去るおつもりなのですね?」
「……僕には腹違いの弟がいた。今はもういない。それだけのことなんだよ」
エンデュランスはルーサリウスの手紙をたたんで元に戻した。ルーサリウスの几帳面な筆跡が、一瞬だけ垣間見えた。
■Scene:サウスアリアン
ジニアの黒く沈む輪郭は、重い靴音と相まって幾度もルーサリウスの夢に現れた。確かに一緒に過ごしていたのに、もう手が届かない。何の変哲も無い、どこにでもあるような街並みの中へ帰っていった彼女の後ろ姿。
あれはいったい何処の風景だったのか。探し続けていたのにその場所は見つからなかった。
ともかく聖都へ赴く前に、最後の奉公のつもりで出張した街が、その場所だったのだ。
「見つけた」
ありふれた街並みと思ったのも道理だ。見慣れた帝国風の建物が並んでいる。人影はなく、時が止まっているかのようだ。
「サウスアリアン……エスンガル……湖岸三国……」
夢見るようにルーサリウスは呟いた。
それはキヴァルナがひとたびは終えた旅路。帝国お抱えの地図職人が示し、皇帝が辿った制圧の足跡だった。
サウスアリアンは、帝国大侵攻の折、真っ先に標的とされた小さな都市国家だ。見せしめに行われた虐殺の舞台。すべての条件を考慮して蹂躙される生贄を選定したのがキヴァルナだった。王族は軒並み処刑され、後には何も残らなかった。
否。王族の棺桶となった燃え殻のような神殿だけは今も、歴史の影のようにひっそりと佇んでいた。住人たちは流民と化して周辺の街へ流れ込み、活気を失った街並みには、乾いた風が通り過ぎるのみである。
その風が、背の高い女の黒髪を揺らした。
「……貴方は……」
ジニアはぼんやりと振り返った。焦点の定まらぬ両瞳は、彼の姿と名前を思い出した瞬間に光を帯びて輝き始めた。
「ルーサリウス?」
「ようやく貴女を見つけました、ジニア」
女は、ようやく日の下で微笑んだ。氷のような棘はもうない。
「ずっと言いそびれていました。私には貴女が必要だった、ずっと」
初めて見たジニアの笑顔は、日陰に咲く白花のような笑みだった。セシアの言葉が脳裏に蘇る。自己満足は自分も同じだ。
「一緒にいてくれますか? 無理でもかまわない。せめて、私が役に立つときにすぐに駆けつけられるよう、側にいさせてください」
そのためならば仕事を辞めてもいいと思った。幸せにしてあげるためには、側にいることがまず必要なのだと思った。
「……私の探した足跡は途中で途切れてしまっていたのに。時を超えて私を見出す人などいないと思っていたのに」
ジニアは不思議そうにささやく。
「どうして私の居場所が分かったの?」
「貴女を探していましたから」
ジニアも探していた。新しい場所で、自分を選ぶ誰かを。新しい可能性、ジニアの物語を。
ルーサリウスは廃墟となった神殿跡で、彼女に結婚を申し込んだ。ジニアはそっとうなずいてルーサリウスに身を預けた。
■Scene:ポルポタ
ティトナ。
ラール。
ハノン。
ノイ。
ミイト。
ルシカ・コンラッドは5人の名前を忘れたことはない。
ティアが自分の道を選んでからというもの、ルシカは以前よりも作曲に打ち込むようになっていた。
ルシカの作るオルゴールは、著名な職人の作として高く評価されている。それはつまり、オルゴール職人としてのルシカの存在が、しっかりと認められてきたということだった。
けれどもルシカは、もちろん、5人の名前を忘れたことはない。彼女にとっては音階のようなもの。ルシカの音楽の根源。《クラード・エナージェイ》。
帝国内乱から始まり、世の中をを揺るがせた――ルシカにとって大迷惑以外の何者でもない――大侵攻の果てに、《大陸》には統一王朝が生まれた。
世の中は平和だ。
なのに《クラード》は見つからぬままだった。
「世界にはいろんな音楽が溢れてるね、ティーちゃん」
ティアとともに《大陸》を旅していた時分、ルシカはため息混じりによく呟いたものだった。
「面白いじゃない」
道連れのサヴィーリアはくすくすと笑ったものだ。
「探したら探した分だけ、新しいのが出てくるんだよ?」
こんなことではいつまでたっても自分の魂は見つからない、と嘆くルシカに、サヴィーリアはいつも反対のことを言う。
「誰とも会わなければ、新しい組み合わせは生まれないわよ。作曲も……調合も」
あのときサヴィーリアは自分にもそう言い聞かせていたのだと思う。音楽も錬金術もどこか似ている。
ティアともサヴィーリアたちとも別れ、今のルシカは一人で旅を続けている。
なぜ旅を続けるのだろう。ティーちゃんは自分の道を選んだ。サヴィちゃんも友だちとめぐり合って、自分の道へ戻っていった。
「ねえ、ティーちゃん。どうしてあたしまだ旅してるんだろう? 他の皆が、なくしたものを取り戻して笑ってるのに……あたしの探し物だけは、いつまでも見つからないのかな」
一人旅で訪れた街の数さえもう定かではないまま、ルシカは港町ポルポタへやってきた。夕暮れに輝く波の光と潮騒、久しぶりの海のにおいがルシカの心を揺さぶった。海辺に座ってオルゴールの螺子を巻き、不意にルシカは気づいたのだ。
「あ……そっか。ポルポタって……」
ティトナたちの生まれ故郷は港町だった。そしてその名はポルポタだと思い出したとき、ルシカの胸が早鐘を打った。
荷物の中から古ぼけたノートを引っ張り出した。ティアとともに旅をしながら書き溜めていた曲が、未完成のままそこに記されていた。
まだ、書ける。
ポルポタに宿を見つけ、ルシカは少しずつその曲を仕上げていく。ティトナたちは幼馴染の五人組だ。ポルポタの街は彼らを子どもの頃から知っているのだろう。潮騒を聞きながら、ルシカの手は譜面をどんどん記していった。完成したときには涙が溢れた。
「海辺で鳴らそう。ティーちゃんに聞こえるかもしれない」
濡れた頬をぬぐって海を目指す。初めてポルポタに着いたときに見たのと同じ、夕暮れに輝く波がルシカを出迎えた。
不思議な気分だった。日が沈んでいくにつれて、ルシカのオルゴールは生き生きとした音色を響かせるのだ。潮風が涙を乾かしていく。自分の音楽はこんなにも力強かっただろうか? でも、ノイの作った『沈める夢』には叶わない。
「船が着いたぞ!」
誰かが言った。いつしか沖の灯台が海の道を照らしている。ルシカはずっとオルゴールを聴いていた。
綺麗な船が夕暮れの中、滑るように姿を現す。航海を終え、ポルポタに帰港する船らしい。ルシカは不思議な気分のまま船が蹴立てる飛沫を見つめていた。潮騒に紛れて、乗客の話し声が切れ切れに届く。
「やっぱり聞こえるよ、オルゴール。ノイじゃないの?」
「嘘だろ、ラール。ノイならそこにいるよ」
「ん、ああ……なるほどね。僕が聞いても、僕が作ったみたいに聞こえるね」
「ほらね。僕らに内緒で新作を書いたんだろ?」
「……違うってば」
「じゃああの書きかけの奴仕上げたんだろ」
「あれはどうしてもペンが進まないんだよ! 知ってるくせに意地悪だなおまえは」
「ごめんごめん。でも……誰だろね?」
「おーい。あんた誰? そこのオルゴール持ってる奴!」
ルシカのよく知っている声が、ルシカの姿を認めて叫んでいる。いい声だ、とルシカはぼんやり思った。この声がノイのピアノに乗って動き出すのだ。音楽に生命を与えるティトナの声。
「……嘘!」
ルシカは立ち上がった。
「嘘嘘嘘!」
叫ぶ。
「あれ? 女の子〜」
空気の読めないいつもの調子で、船の上から手を振っているのがラール。
「誰だよ? 港で女の子に待ちぼうけ食わせてる悪い男は」
「って俺かよ! 違うぞ断じて!」
ティトナが思いっきりラールに突っ込んでいる。
「あーあ。悪い男だね。あの子絶対ずうっとあんたのこと待ってたよ。ティーちゃんが帰ってこないの……って」
ラールに乗っかってしなを作ってみせるハノン。
「俺はティーちゃんではない!」
「まだ言うか。ねーそこのキミ。待ったでしょ?」
ノイが尋ねる。うんうんとルシカはうなずいた。みるみる船は近づいてくる。もう5人の顔が分かるくらいに。
「そのオルゴールの曲、俺たちが作ったのかと思った。あんたは何者だ?」
《大陸》の陸地に降り立ち、開口一番ティトナが問うた。
「あたしは……」
声を詰まらせてルシカは答えた。膝が震えていた。
「《クラード・エナージェイ》の皆が帰ってくるのを待ってました。その間あたしはずっと《クラード》の魂を借りてた……お返しします。あたしは自分の魂、自分の音楽を見失ってしまったから……」
彼女は一気にこれまでの出来事を話した。《クラード》たちは互いに顔を見合わせる。ルシカの話を疑いもせず、不思議そうな表情を浮かべていたわけは、すぐに知ることができた。
「この曲、似てるんだよ」
ぽつりとノイが口を開く。
「え?」
「僕が書きかけて、どうしても仕上げられなかったある曲に」
「っていうか、まんま?」
「っていうか、それより綺麗」
「っていうか、これに歌詞つけてよ」
「えっ? えっ?」
「……おまえら!」
こほん。ティトナがリーダーらしく咳払いする。慌ててルシカも口をつぐむ。
「正直、俺もこの曲を歌いたいと思った。実はずっと……《クラード》らしい曲を作れずに悩んでいたんだ。戦禍を逃れて海に出たわけだけど、混乱も続いていたし、解散する話も何度も出た。この曲は誰かの借り物じゃないかって皆が苦しんでいた。ずっと」
「……ええっ!」
「5人揃って、この港に、《大陸》に戻ってこられたのは奇跡だと思う。この街は俺たちの故郷。出発点なんだ」
ルシカは不思議な気分でティトナの言葉に耳を傾けていた。
「お守りのおかげだねえ!」
ハノンが取り出してみせたのは、ルシカが初めて作ったオルゴール。どこかでなくしてしまった旋律球だ。
「どうして? どこでそれを!」
ルシカはそれ以上の言葉が出せない。
「ねー、ティトナ。言ったとおりだったろ? きっとこれの持ち主に出会えるはずだって」
ラールは満面の笑みをたたえてティトナを覗き込む。
「賭けはおまえの勝ちだ、ラール。そして、ええと……?」
「ルシカ。ルシカ・コンラッド」
「よしルシカ。あんたは俺たちの音を留めて甦らせてくれた恩人だ。俺たちのほうこそずっと借りていたんだ。あんたの大事な宝物を」
ルシカの手に旋律球が戻ってきた。心地よい和音が懐かしかった。かつて自分の手が作りだしたものとは思えない。けれどこの旋律球がばらばらに引き裂かれる寸前の《クラード》をつなぎ止めたのだと思えば、たまらなく愛しい。
ふいにルシカはティアを思った。
そして、音楽は永遠に存在し続けるのだと思った。それを奏でる魂もまた、時空を越えてどこまでも、高く高く飛べる。そのことをようやく、ルシカは理解した。
「あ、それから」
ティトナの声が、自分の世界に没入しはじめたルシカを呼び戻す。
「あんたさえ良ければ、俺たちと一緒に音楽をやらないか?」
いつしか夕焼け空は星空に変わっていた。
■Scene:《宿り呼ぶ島》
闇の中。
ほのかな光の欠片を抱いて、安らぎを求め堕ちてゆく少女。
無意識の底に果てはなく、時折彼方をゆらめく芳香にも、かすかに響くオルゴールの音色にも気づかない。
(……そうかい、とうとう往きやがったのかい)
風の便りに、誰かがそう言ったとか、言わなかったとか。
(不憫な子だよまったく)
その声ももう、届かない。
誰にも何も残さずに、ポリーナ・ポリンだった存在は虚無の夢に沈んでいった。
■Scene:《旅人たちの街道》
街道を往く馬車から半身を乗り出して、旅人は、過ぎし方を見晴るかした。
旧帝国領の街並みがどんどん遠ざかっていく。
「兄さんも聖都詣でかい」
乗り合わせた客の問いに、彼は首を横に振った。
「ただの墓参りだよ」
「なんだ。読み売りを見なかったのかい? そこいらで配っていただろう」
よく見ろと言わんばかりに、しわくちゃの紙片を押しつける客に、旅人は顔をしかめながらも記事を追った。
ルーン王妃ルンドミエルの懐妊を、記事は告げていた。
「こんなめでたいことはないだろ。おいらは一族総出で祈願に行くのよ」
「……そうか」
感慨を込めて呟くと、旅人はもう一度窓を眺めた。
街並みは途切れ、皇旗を掲げていた尖塔ももはや見えない。
「なあ兄さん」
妙にご機嫌の客は執拗に絡んでくる。
「あんたルンドミエルさまに似てるねえ」
言いながら、どこからか林檎を取りだし、袖でこすったのを嬉しそうに手渡した。近づきの印ということらしい。
「さあ?」
そんなこと初めて言われた、と旅人は林檎をかじる。
「美味しい」
「ディルワース産だからね」
馬車は街道を飛ぶようにして旧帝国領を離れていく。
■Scene:《満月の塔》
子どもたちは、六つになっていた。
ローラナ・グリューネヴァルトは今年も花を携えて、夫の眠る墓地にやってきた。《大陸》に帰還してから毎年、夫の命日に墓参を欠かしたことはない。
ローラナが授かったのは双子の赤ちゃんだった。ひとりはもちろんレヴル。女の子だ。もうひとりは男の子で、ジャンと名付けた。女手ひとつで育てるには相応の苦労もあったが、どうしても誰かの助けが必要だったり、越えられそうもない壁に行き当たってしまった時には、不思議とどこからか助けの手が伸びたり、解決策が示されたりするのだった。
今でもローラナは、音術師として、研究機関や犯罪捜査の求めに応じて協力することで、親子三人が暮らしていくのに十分な報酬を得ていた。もちろん魔物退治稼業に比べても、身の危険はぐっと少ない。
時には、仲間たちからの便りも舞い込んだ。そういえばジャンが一度、大きな白い犬を見たといっていた。目に見えぬつながりが自分たちを守ってくれているような気がして、いつもローラナは、夫と、その他の人々に感謝していた。
「おかあさん、早く早く!」
少年はやんちゃ盛りで、少女の手を引く母を待たずにどんどんと先へ進む。青草が繁る墓地は否応もなく、ローラナに、過ぎた時間を思い出させた。
「あなた。いつも見守っていてくれてありがとう。子どもたちもこんなに大きくなりましたよ」
墓前に花を供え、夫ウォルフに話しかける。レヴルは神妙な顔つきをしている。ふと気づくとジャンがいなかった。慌ててローラナが立ち上がると、虫を追いかけて夏草の中をかけていくジャンの後ろ姿が見えた。
「ジャン、待って! どこへ行くの! ……もう」
六つの少年は、寝ているときと食べているとき以外はいっときたりともじっとしていないのが常だ。
仕方なくローラナは、レヴルに待っていてねと言い聞かせ、ジャンを追いかけた。
(レヴル)
ふいにレヴルは顔をあげた。誰かに名前を呼ばれた気がした。
そこには、茶色のローブをまとい髭を生やした男性の姿があった。会ったことのない人物だ。けれどもレヴルには、誰なのか判った。ウォルフ・グリューネヴァルト。
おとうさん。
(レヴル、いい子だね)
ウォルフは膝立ちにしゃがみ、レヴルと視線をあわせた。精一杯優しい微笑を浮かべ、そっと続ける。
(ふたりをいつも守っていてくれてありがとう)
レヴルは無言で、ただウォルフを見つめた。
(……だが、もう大丈夫だ。せっかく人に生まれてきたんだ。これからは普通の人間として、人を、世界を、生きることをしっていってほしい。判るね?)
かすかにレヴルは、戸惑いの色を浮かべた。
(これからはローラナが君たちを守っていく。もちろん、私も)
ウォルフは優しくレヴルの頭を撫でた。レヴルの美しい黒髪は母譲りだった。
しばらく考え、こくんとレヴルはうなずいた。
(いい子だ……どうかよき人生を、私たちの可愛い娘、レヴル)
ぱちくりとレヴルが瞬く間に、ウォルフの姿はゆっくりと薄れて消えていった。
「待たせちゃったわね、レヴル。ごめんね」
ローラナはジャンを連れて戻ってくると、レヴルの頭を撫でた。レヴルはじっとローラナの目を見つめ、唇を開く。
「おか……さん」
どくん。ローラナの鼓動が早まった。
それは初めて聞くレヴルの声だった。
ジャンとは違って、六つになってもレヴルは言葉を話したことがなかった。お医者に診てもらっても、おかしなところは見つからない。ジャンはレヴルの分までしゃべっているのではないかと思うほど、おしゃべりが好きだった。ローラナは内心、心配で仕方がなかったのだが、子どもたちの手前、自分の不安を表に出すことはできないでいた。
「わあ、レヴルがしゃべった!」
ジャンは大喜びで手を叩く。
「もう一回言って! レヴル」
「おかあ、さん」
確かな響きは温かく、ローラナの一部のように聞こえた。ローラナは子どもたちを抱きしめた。
それはレヴルが確かに人として生き始めた証。これほど力強く、生きる喜びに満ちた声を聞いたのは二回目だ。一度目は、双子が生れおちた瞬間のあの産声。音術師とは何と素晴らしい業なのだろうとローラナは改めて、すべてのものに感謝を捧げた。
■Scene:そして、《大陸》のどこか
旅人たちの旅は、これからも続く。
けれど、それはまた別の物語。
おしまい