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最終章 砂百合の星灯り

■Scene:見送るだけだと思っていた

 《砂百合の谷》から先。
 クオンテはラハではなく家路を選んだ。
 蛍飛び交う谷間の夜を眺めているうちに、思ったことがある。
 これまでの旅の間はもちろん、パルナッソス調査隊に属しているときも、無意識のうちに考えるのを避けていたことが、不意に目の前に唐突に、実感を伴って訪れたのだ。
 ああ、もう大丈夫なのだと。
 この居心地のいい場所の役目は終わり、自分の調査隊での役目も終わる。
 ひとり《砂百合の谷》を出ることを決めた夜、クオンテはホールデンと少しだけ話をした。
「今までは終わりの場所で見送るだけだと思っていた」
 クオンテは言った。
 湯気をたてた湯が川となって流れてゆく。谷から溢れだす熱々の熱湯は、地表を通るうち次第に冷めてゆく。サンダルを脱ぎ捨てたシュシュが足湯ではしゃいでいたのを、昨日のことのようにクオンテは思い出す。
「おまえさんの家は……」
 ホールデンがおもむろに口を開いた。
「なんの一族じゃったかの。確か、葬儀だとか墓守だとかいったかね」
 クオンテは驚いてうなずいた。
「そうさ。祭祀だ……なあじいさん、記憶を失ったってのはホントかい?」
「んあ?」
 なぜそんなことを聞くのかと言いたげに、ホールデンは杯をあおり酒臭い息を吐いた。
「今さら大したことじゃねぇんだろーけどさ。じいさん、物覚えよすぎだから」
 ぶつぶつとクオンテはそんなふうに言い訳をした。
「この年になるとな、自分のことで覚えておかにゃならん出来事などそう幾つも残っとらんからな。人のことばっかり妙に気になるのかもしらんな」
 ホールデンの頭の上に、迷い込んだ蛍がとまる。それを見てクオンテは笑みを浮かべた。白紫色の砂百合が、釣鐘のかたちをした花を揺らしていた。
「終わりの場所か。誰だって最後はお世話になる。あんたんとこの一族か、それとも、そのお仲間かは知らんが」
「はは。冒険者の連中がうちに、ってのは少ねえみてぇだけどな。やっぱ、無理無茶しちまうもんなんだろうね……」
「そりゃあそうじゃ。勇気ある者は、その勇気あるがゆえに志を遂げて死す。とはいえ……のう、スィークリールや」
 ホールデンは目を細めてスィークリールの頭を撫でた。
「いずれはワシも、おまえさんところに世話になろうかね」
 ずきんとクオンテの胸が痛んだ。家に帰り生業を継ぐならば、いずれは見知った顔が目を閉じてやってくることも、有りうるのであった。
 だからクオンテは笑って言った。
「全力で生きやがれよ、じーさんも。他の連中も。最後は盛大に見送ってやるよ!」
 終わりの場所で見送る意味に疑問を抱いていた青年は、自分の中に確かな答えを見つけることができた。見送ることは決してただそれだけのことではない。送られる者を愛する人々、送る側の者は、その先も生きてゆく。
 だからクオンテは飛び出してきた家に帰るのだ。形を持つものは何一つ持ち帰ることはないし、自分でもそう変わったとは思えない――少なくとも他の愛すべき仲間たちのように瞳の色が赤く染まったりもしていない――けれど。

■Scene:誰かの背中

「カインがいない」
 子どもたちが騒いでいる。
「クオンテも。もう行ってしまったの?」
「オヤジ、報酬だってまだ渡してないはずなのに……」
 アダマスは珍しく父の顔をして、クレドとグロリアの頭上に手を置いた。
「いずれ会えるさ、会おうとさえすれば」
「どうして? どうして黙って行っちゃうのさ」
 クレドは精一杯押し殺した声で、もういない神官に尋ねた。
「ひどいよ。あんなに俺……教えてほしいこともあったし……」
「他の人にもオヤジにも黙って行っちゃうことないじゃない!」
 グロリアははっきりと涙混じりに言った。
「別れとはこういうものだよ、グロリア」
 アダマスは言う。
「知らない! だって、仲間だったんじゃないの? ちゃんとお別れして……またねって言い合うんじゃないの?」
「元々見知らぬもの同士、寄せ集めの調査隊だったのだからね。調査隊のためにいたわけじゃない。皆、別の目的があって旅をしていた。来た道に戻っていっただけだ」
「あたしは違うわよ。クレドも」
 アダマスはため息をつく。
「当然だ。おまえたちはまだ旅立ってすらいなかったのだからね。そんなに会いたきゃ会いにいきなさい。地の果てまで墓守君や神官君を追いかけて、別れの言葉とやらを交しなさい。止めはせん」
「……追いかけていってわざわざお別れするの、変じゃねえ?」
「でも言わせてみようかしら? どう思う、クレド」
 子どもたちの思案ぶりを眺めるアダマスにルドールが低く声をかけた。
「どこで子どもの扱いを覚えたのかな」
「教区長は思いのほか暇でしてね、それもこれも貴方のお陰で」
「皮肉かね」
 長身を伸ばし、ルドールはアダマスを見下ろした。
 アダマスはかぶりを振る。
「いえ。それよりも今のグロリアの顔……ご覧になりましたか、盾父ルドール」
「大きくなったな」
「もうあれは、女ですね。涙を自在に操るところなぞ立派なもんだ。クレドもすっかり騙されて」
「……そこまで気づかなかったな。ということは盾父アダマス。女の扱いも随分上手いのだね」
「まあ、貴方よりは上かもしれませんがね」
「とんだ聖騎士もいたものだ」
「上官侮辱罪ですか?」
 ルドールは口元をゆがめた。
「無論だ。その調子でこれからも父親役を務めるがいい」
 ルドールなりに、後のことをアダマスへ託した物言いのようである。

■Scene:貴方への第一歩

 あれは、神だったのだろうか。
 カインはひたすらに考えていた。
『感謝する、すべての願いが過たずその生のために願われていたことを』
『願い続けさえすれば生きてゆくことができる』
『生きるために生きよ。その先に我らの出番がある』
 生き続けよだと? 神の影に触れたその向こうにはもはや何も願うことなどないというのに。
 彼にとっては酷な言葉。
 カイン自身は気づいていなかったけれども、残されていた選択は可及的速やかで安らかな死しかなかったのだ。それなのに神々は、カインのとりうる選択肢を奪ってしまった。
 あれが、神ではないとしたら?
 カインは首を横に振った。
 あれは、神であった。カインひとりの願いなど一顧だにせず超越した者として、あの瞬間あの場所にだけ降臨していた。
「生きねばならない」
 カインは乾いた唇で呟いた。身の毛のよだつ感覚に、衣服の合わせをしっかりとにぎりしめる。衣の中でひとつ欠けてしまった聖印が音を立てた。
 クレドはさぞ自分を軽蔑しているだろうと思う。
 もはや誰にも会いたくなかった。これまでの旅路で常にそうしてきたように、彼はわずかな間を共にした人々を置いて立ち去った。
 そして……。
 街道のどこをどう辿ってきたのか、景色も季節も移り変わり、見知らぬ村をカインはたった一人で訪れた。
 燃えるような夕日の丘。山あいの谷から見上げる空は、カインの金髪までもを炎の色に染め上げるほど輝いていた。山の稜線は黒々と横たわり、空と大地を切り分けている。
 ミスティルテインの色だとカインは思った。
 急勾配の山腹には、背の低い果樹の畑と水田が段々に連なって、わずかな水面は夕日の空を黄金色に反射しきらめいている。長細くいびつな形の水田が連なって浮かび上がり、谷へと落ち込んでいく様は、暗闇の中にめぐらされた神への螺旋階段のように見えた。
 この、未だ名も知らぬ村に滞在することはできるだろうか。ひとりの旅人として自分を受け入れてくれる場所はあるだろうか。
 村がすっかり夕闇に包まれる頃、一軒の家をカインは見つけ、扉を叩いた。見落としてしまいそうなほど控えめに兄弟神の紋章が刻まれたその家が、どうやらこの村の神殿がわりなのだった。夕餉の煙も明かりもない、人気の感じられない家の扉を数度叩いても、中からのいらえはない。家人は留守のようだった。
 肩を落としてカインが踵を返したその時、何者かにぶつかった。
 明かりも携えず闇の中をこの家目指して歩いてきた若い女性である。カインは反射的に手を差し伸べ、相手を助け起こした。
「大丈夫ですか、失礼しました」
「ありがとう、旅のお方」
「あ……いいえ。その」
「どうされました? ああ、今宵の宿をお探しでしたら、遠慮なくどうぞ。私は神官、ここは神の家ですから」
 相手の胸に《涙の盾》の聖印を認め、そして彼女が光を失っていることを悟り、カインはそのまま跪いて言った。
「今宵といわずどうか……しばらくおいていただくわけにはいかないでしょうか。私は……」
 わずかに言葉を途切れる。逡巡の後カインは続けた。
「私は……一生を神に捧げたいのです。神官になりたいと思っています」
 瞳を閉じたまま、女神官はじっとカインを探るようにその手を重ねる。
「不思議な方。貴方の胸には聖印が下げられている。こんなに大きな音をたてて。それなのに神官になりたいとは……貴方はいったい?」
「それをお伝えするには……長い長い懺悔となります」
「……わかりました、では」
 女神官は神殿の扉を開き、慣れた所作で孤独な旅人を迎え入れた。
「夜を通して伺いましょう。朝になれば使いを出します」
 朝になれば。
 女神官の言葉は、懐かしい旋律を耳にしたときのようにカインの心に沁みていった。
 こうして、神官のふりをしながら旅を続けてきた孤独な青年は、初めて村の一員として、そして神官見習いとして兄弟神の教義を学ぶ場所を得たのだった。
「本当の本当に、ここからが貴方への第一歩なのですね」
 ひそかにひとり、心の内で呟くカイン。
 見習いを卒業し正式に神官として認められるにはどれほどかかるのか、カインにもわからない。けれど調査隊の面々と再会することがあれば、少しは違う顔で相対できるかもしれない。

■Scene:小さな幸せをたくさん集めて

 ミルドレッドは、《精霊の島の学院》へ戻ることにした。
「そこから先は……まだ考えられないんだけど」
「へーきだってば。先のことは、明日考えたって明後日考えたってサ」
 いつの間にか、それが当然であるかのようにミルドレッドに寄り添っているダージェが言った。
 少年剣士の武者修行の旅、当面の目的地は《学院》に決まっている。
 というよりも、ミルドレッドの目的地が、ダージェの目的地になる。
「ほんとかよ」
「ウン。だって、誰に縛られることもないし、誰も文句を言わないヨー」
「そうなんだろうけどさ」
「じゃ、いーじゃナイ」
「けどさー」
 つい、ダージェの言葉に口応えしてしまうミルドレッド。ダージェはくすくすと笑う。一旦は相手の言を疑ったり否定したりする、そんなミルドレッドの癖を理解した今は、前よりも彼女から目が離せない。
 つまりは素直じゃないのだ。もっと言うと、子どもっぽい。年下の自分がそんなことを言えば彼女は傷つくかもしれない、とそういう分野だけは気が回るダージェは思っていたから口には出さない。だが、なんだかんだいってダージェが正しいことがわかれば、あっさりとミルドレッドは謝ってくれた。男女の情愛というよりも、不思議にさばけた乾いた感覚も珍しく、また面白くて、ダージェも退屈はしていない。
 急ぐ旅ではないから、主には徒歩だ。
 危なくないかと心配するミルドレッドに、ダージェはここぞと胸を張る。
「あのネ。ボクこー見えても、ちゃんと剣士だから。ミルサンに手を出すよーな奴らがいたら、返り討ちにしてあげるヨ。ミスティルテインもいるし、荒事はオトコに任せておけばいーの」
 ミルドレッドもダージェもミスティルテインを宿していた者どうしである。
 気まぐれな12分の1たちは《炎湧く泉》で休息するのかと思いきや、ダージェと親しくなった欠片は時々旅路を追いかけてきて、ダージェの太刀に炎の球を吐き出させたりする。
 ミスティルテイン曰く、『人間の街を燃やすよりも技巧が要る』とか何とか。
「よーするに、カッコつけたいんでしょ、ミスティ」
 ダージェの言葉は図星だったらしく、しばらくミスティルテインは現れなかった。
 ともかく、並の旅人よりはよっぽど安全が保障された旅なのである。
「ねえ、ミルサンは変なトコで心配症だよね」
「そっか? ……違う。ダルが能天気すぎるんだ」
「なーんにも心配しないで、旅を楽しんでほしいんだけどナー」
「ていうか、ダルこそどこまでついてくる気なのさ」
 気づくのが遅いヨ、という言葉を飲み込んで、ダージェはまた笑った。
「言ったでしょ。ボクはミルサンと一緒にいたいの! 好きだから」
「……」
 ミルドレッドは黙り込んだ。逃がさない、とダージェは下から彼女の顔を見上げる。
「あ。ミルサン困ってる? それともボクがいるとめーわく? ボクと一緒に旅すんの、イヤ?」
「別に……迷惑とか……そんなんじゃないけど」
 答えながらおぼろげにミルドレッドは思う。何と巧妙な誘導尋問なのだろうか。
 この、策士。
「えへ。迷惑じゃナイならよかったあ! 《精霊の島の学院》まできちんと護衛するからね、そんで、よければ、その先も!」
 満面の笑みを浮かべて、ダージェはミルドレッドの腕に子どものようにすがりついた。
「ダルがしたいなら、そーすれば」
「あー。ミルサンだって嬉しいでしょ? ホントは。ね、嬉しいって言ってー」
「言わない」
「ちぇー。でもそーいうトコも、ミルサンらしくて好きだけど」
 と、ダージェはミルドレッドの手を放し、街道脇の木陰に身を休めていた商人の元へ駆けていく。
 すぐに彼は戻ってきた。この季節この地域ではめずらしい氷菓子を両手にひとつずつ持って。
「おいしいんだよコレ、知らないでしょ? ねえねえ食べてみて!」
「えー」
「今すぐ食べて。でないと溶けちゃう」
「え、あ。ん。おいひい」
 ミルドレッドは、氷菓子にはつきものの、あの、きいんとしびれるような頭痛に耐えている。
「……あー、ボク幸せ!」
 氷菓子にしかめ面をすることも彼女はきっとこれまでなかったんだ。そう思うと、何だか心の中がミルドレッド色に染まる気がするダージェである。
「ミルサン。ねえ、毎日ちょっとずつ、幸せを感じられる日々にしていこーよ。受身でいたって始まらないモンね! 色々なものを見て、聞いて、触れて。そんな旅にボクがしてあげる!」
 目的地が《精霊の島の学院》と決まっていても、どこを経由するかを選ぶのは、旅人であるミルドレッドであり、護衛の自分である。そしてどうせなら、ミルドレッドにとって忘れることができないような、とっておきのデートコースを選んで回ってしまおうとダージェは企んでいた。
「ダルって変な奴」
 口のまわりについた氷菓子の汁をぬぐいつつ、ミルドレッドが呟いた。
「いーのさ。何て言われても、ボクはオトコノコだからね」
「関係ないだろ、男とか女とか」
「大ありだよ」
「……ねえダル。あのお菓子、自分でも作れるかな……?」
「あ。気に入ってくれた? まだまだ、こんなもんじゃナイんだからネー! 」
 これほどまでにダージェの好き好き光線に晒されていては、ミルドレッドがついうっかりダージェへの好意をそれ以上の何かに発展させてしまう日も、そう遠くはないのかもしれない。

■Scene:ずっと、強くなりたかったんだ

 たくさん泣いて、泣いて、泣いて、涙を流し尽くす。
 滲んでいたティカの視界がようやく澄みわたり、新しい朝が来るのだと彼女が理解するまでには、それなりの時間が必要だった。
 《炎湧く泉》から帰還する道中も、ティカは不自然なほど黙りこくっていて、大人たちからも心配されるほどだった。
 剣士仲間のダージェやシュシュが声をかけても、クレドやグロリアがちょっかいをかけても、
「あ……うん」
と生返事で答えるだけのときが続いた。頭と心がぐちゃぐちゃになって、自分でもきちんと言葉にできなかったし、それだけの気力もなかったのだった。
 ティカの中で螺旋の渦を巻いていたのは、たったふたつの――13歳の傭兵見習いが初めて眼前に突きつけられた謎。
 ひとつ。悪者って何?
 ふたつ。ミストはもういない。おれはどうすればいいんだろう?
「グラファさんが作った魔法人形みたいなもの……だったんじゃないのかな」
 ミストのことを、シュシュはそう捉えていた。かりそめの命を与えられて、創造主に従って動くことはできるけれども、創造主が死んだりいなくなったりすると自分も死んでしまうような類の存在。その手の魔法や術があることは知っていたし、ホールデンからも聞いていた。
 だが、だからといってミストのことをティカに説明するのは難しい。
 そもそもシュシュの考えも、唯一絶対の正解というわけではない。なんとなくこう考えたら辻褄があうというくらいのものでしかない。
「俺たちは精一杯やったよ」
 シュシュはそれだけをティカに伝えた。
「……でも、ミストはもういない」
 泣きべそでティカはぽつりと答えた。その手には、花飾りのついた編帽子。
「一緒に旅するつもりだったんだ。ミストが見たことないものをいっぱい見せてあげて……たぶんすっごく喜ぶと思ったんだ」
「そうだね」
 どう伝えればよいのだろうかとシュシュは思った。
 グラファがいなくなればミストも消えてしまうのだ、と、たとえ知っていたとしても自分は同じことをした。グラファを滅ぼそうとした。違っていたとすれば、ミストがひとりでも生きていける手段があるかどうか聞いてみることくらいだったと思う。
「俺はグラファを斬る役がどうしても必要だったと思うから、それが俺で良かったと思ってる」
 ティカは小動物のように、兄貴分の顔を見上げた。
「グラファを斬る役」
「剣士だから」
 俺のは自己流だけど、と付け加える。
「弱い者を守ってやるのが仕事じゃないのか?」
「ダルもきっと同じことを言うと思うよ。剣は武器だ。命を絶つために作られた道具なんだ。武器を振るうことを生業にする者には、こういう役目に対する覚悟が必要だ」
 ティカの頭がまたぐらぐらし始める。
「ミストだけじゃない。ピュアもいなくなっちゃった……お守りなんておれ、いらなかったのに……」
 こんなに喪失感を――ティカの語彙には喪失感などという言葉はまだなかったが――味わったのは初めてだった。
 お金を貰う仕事で友達を見つけたのも初めてだったし、彼女たちと二度と会えないかもしれないのも初めてだ。
 編帽子を手の中でぐにゅぐにゅと弄びながら、ティカはこっそりと心に決めた。
 おれ、このままじゃダメなんだ。
 皆に心配されてばっかりで、頭の中がぐるぐるだし、シュシュ兄やダルと並んでいられるほどには、まだまだ追いついてないんだ。シュシュ兄の言う覚悟のことも、ぴんと来ていないし……ともかく、まだまだ半人前だってことが、やっとわかった。悔しいし恥ずかしいから、言えはしないけど。
「シュシュ兄は、パルナッソスに戻ったらまた旅をするんだろ」
「冒険者稼業に戻るよ。ティカはどうすんの。傭兵の口を探すか?」
 ティカは首を横に振って言った。
「ううん、傭兵はちょっとお休みだ。でも引退じゃねーぞ! ちょっと……やりたいことがあるからさ」
 つまりそれは、家出してきた村に帰るということであった。
 村に帰って、もう一度、いろんなことをきちんと向き合って、考えてみたい。それがティカのやりたいことであり、やらなければいけないことだった。
 ティカはもう泣いてはいなかった。

■Scene:妙な相棒

「で、結局ついてくるのかよ」
 肩につくほどの長さの髪を結び直しながら、ヴィーヴルは小鳥に言った。
 赤い髪は、小鳥の纏う火の色に似ている。
『ああ』
 ミスティルテインは、ヴィーヴルに同行することを選んだ。
『心配だからな』
「よく言うぜ」
『お前のことではない。その……黒曜石だ。それをどうするつもりだ?』
「あ」
 はたとヴィーヴルは思い出した。ミルドレッドから借り受けたままの、黒曜石のナイフ。
 取り出して輝きを陽に重ねて眺める。あれ以来熱を帯びることはないものの、ミルドレッドが手にしたらどうなるのか、あるいは他に反応を誘発させる物質があるのか、興味は尽きない。
 小鳥はびくびくして、遠く離れた場所からヴィーヴルの様子をうかがっていた。
『それをしまえ! 早く!』
 ヴィーヴルはため息混じりに、ミスティルテインに従った。
 錬金術師の旅の目的地は、寄り道する前と同じく《聖地》アストラである。信仰ゆえの巡礼ではなく、師匠の言いつけであるからだ。見聞を広めるために弟子には旅をさせるというのが、ヴィーヴルの師匠の方針であった。
 確かに、とヴィーヴルは思う。
 自分はまだまだ未熟だけれど、調査隊でいくつか不思議な出来事も経験して、錬金術に対して考え方も少し変わったように思う。果たして成長といえるかどうかは、師匠が決めることではあるが。そうだ、師匠はこの小鳥――ティカ曰くひよこ――を見て何と言うだろう。
『ひれ伏すだろうな、確実に』
「それは、ないな」
 ミスティルテインの想像をあっさりとヴィーヴルは否定した。
「師匠はそんなタマじゃない」
 実際、火山の精霊として力と権勢を振るっていれば、それこそ「偉大なる炎湧く主」なのだろうが、今の小鳥――ティカ曰くひよこ――の形では、とてもひれ伏したくなるような気迫は感じられない。
『相棒の夢を壊すのか』
「本人に会ったとき、あんたががっかりしないようにと思って、あえて苦言を呈したまでだ」
 こんなやりとりばかりであるが、ヴィーヴルもミスティルテインも、この関係を気に入っている。
 アストラでは、何者かが小鳥の正体に気づいて事件に巻き込まれたりしないかとひそかに気を張っていたヴィーヴルだが、そのような目に遭うこともなかった。
 収穫といえば、《大陸》の中でも比較的進んでいる魔法理論や生体研究について、実際に見学させてもらえたことだろう。師匠の口利きがあったらしく、ヴィーヴルは幸運にも《学院》の学者と《聖地》の学者の共同研究現場を訪れる機会を得たのだ。旧帝国の学術書を目にすることもできた。
『どうも頭でっかちぽくて気に入らん連中だなあ』
 ミスティルテインは見学の後そんなことを漏らした。
『お前は面白いのか? あんなのが』
「面白かったさ。あんたにゃ分からんだろうけど」
と意地悪く答えながらヴィーヴルは酒場に入り、エールを頼む。元々酒好きのヴィーヴルにとっては嬉しいことに、《聖地》であっても酒場はちゃんと存在している。よほど禁欲的な制限を自らに課す異端宗派でない限り、神官であっても飲酒は罪にあたらない。
「あんたも見たよな、ミスティルテイン。アダマスさんのくれたお守りの中身は人工の模造真珠。知り合いに頼んで作らせたとか言ってた……」
 エールを流し込むと、ほてった頭が逆に鎮まるような気がする。すぐにヴィーヴルは二杯目を注文した。
 見学した中で気になったものがあった。それが人工真珠だった。ヴィーヴルが今日見学した中に、「アダマスの知り合い」本人がいたかどうかは分からない。
「この黒曜石と他の物質の反応についてもっと研究する余地がありそうだな」
 ヴィーヴルはエールに濡れた唇を舐めた。
「人工的に熱を生み出す技があれば……精霊の加護が弱い土地、やせた土地でも、材料が石なら運んで貯蔵しておける……自在に火の代わりに使うことができるかも。そうだなあ、まずはナイフをもう一度剣の形に加工して、その過程で試してみる価値がありそうなのは……いや、やっぱり刃毀れしてるのがよくねえよな。まずは、黒曜石を手に入れて再加工、だな」
『……』
 不機嫌に黙り込むミスティルテイン。分かりやすい精霊王である。
「……あんたを軽んじるわけじゃねーんだよ。ただオレは」
 病気の妹の笑顔を思い出し、ヴィーヴルは呟いた。
「錬金術の研究が、やっぱり好きなんだよ」
 アストラから先、ヴィーヴルは旅の目的地を《精霊の島の学院》へと定めることにした。
 ミルドレッドに会い、黒曜石のナイフを返すことを口実にして、黒曜石の再加工や錬金術の実験を手伝わせようという密かな魂胆である。錬金術に必要な実験器具にしても、《学院》ならば揃っているに違いない。そして何らかの成果が出せたなら、堂々と師匠のところへ報告しに戻ろう。
 火山性岩石の特殊な発熱・吸熱理論によって、爆薬を使わずに硬い物質を破砕できる化合物をヴィーヴルが作り上げるのはもう少し先である。
『だからなんだと言うのだ』
 ミスティルテインは言った。
『計算式だの鉱物粉だのをこねくり回して出来上がったものがソレか? 我が炎球による破壊と何も変わらんではないか』
「確かに。オレは別に武器を作りたかったわけじゃねえしな」
 ヴィーヴルはあっさりとミスティルテインの非難を受け入れた。
 発熱・吸熱理論の応用で、錬金術の大掛かりな実験器具がなくとも、ある程度物質の温度変化が可能になったことのほうが、よほどヴィーヴルにとっては有用だったのである。後、彼の技は、道具を使わぬという意味で「魔法のような錬金術」と形容されることとなる。

■Scene:立つべき場所が用意されている

 主のいない学舎の一室は、元調査隊の仮住まいとなっている。
「それにしても、まいっちゃったよね。アダマスさんのいないパルナッソスなんてさ」
 言葉ほどにはまいっていなさそうな口ぶりでイーダは言った。もう何度同じ台詞を口にしたか分からない。
「ねー」
 ヨシュアも机に顎を乗せ、口を尖らせた。
「アダマスさんがいたら、面倒そうなこと全部お任せできたのに」
「こればかりは仕方ないことですよ。宮仕えみたいなものですからねえ、アダマスさんも」
 リュシアンが宥め役に回るのも、いつものことだ。
 調査隊が解散した後もパルナッソスに滞在することを選んだ面々は、ここで共同生活を行っている。
 エディアールがパルナッソスを去った今、必然的にリュシアンに、最年長者としての振る舞いを求められる。昔ならそれとなく、その立場を避けようとしていたに違いないリュシアンだが、さすがにこの頃は気づいている。何度逃げてもまた、立つべき場所が目の前に用意されるのだということを。
「そりゃそうだけどさー」
 ヨシュアはむっくりと起き上がった。
「アダマスさんを実行委員長にするつもり満々だったから、なんていうか……うあー。次はどんな人が来るんだろうとか考え始めちゃうとさ」
「まあ、気持ちは分かりますけれどもヨシュアくん。そこのところは、私たちにはどうすることもできませんから」
「だよねえ。決まるまでなんとか、あたしたちだけでやってくしかないんだよね」
 言いながら、イーダはぽんと手を叩いた。
「いっけない。思い出したよリュシさん。昨日ラハの店に顔を出したんだけどね、これ」
 《精秘薬商会》でリュシアン宛てに受け取ったという書簡をイーダは取り出して見せた。書簡を見るなりヨシュアは声を上げる。
「聖騎士団の印だ。アダマスさんからかな?」
「二重になっていますね。これは……誰からでしょうか」
「これは《精秘薬商会》の紋章だね」
 中身を検めてリュシアンは、困ったように眉根を寄せた。
「ふうむ。直接の署名はありませんが、アダマスさんからだと考えるのが妥当なんでしょう。しかしもう一通のほうは……」
「んもーじれったいなあリュシさん! で、何て書いてあるんだい?」
「ねーねー見せてよ!」
 イーダとヨシュアはふたりして、額をぶつけそうな勢いで二通の手紙を覗き込んだ。
 ひとつ。パルナッソスに次の教区長が派遣されるまでの間、聖騎士団所有の土地と建物並びにオアシス《炎湧く泉》周辺の維持管理を《精秘薬商会》に委託するということ。
 ふたつ。ラハの《精秘薬商会》は当面の間、現地での土地建物の維持管理業務をリュシアン・ソレスに依頼するということ。帳簿管理については当商会のイーディス・ディングラーデンを指名し行うということ。
「つまり?」
「つまりですね、アダマスさんは、パルナッソスの学舎と孤児院の面倒を見るという仕事を、ラハの《精秘薬商会》にお願いした形なのですね。で、《商会》は、イーダさんと私に、それを任せるということのようです」
「……むちゃくちゃ好都合じゃないですか、ソレ」
 ヨシュアはまじまじとリュシアンの顔を見つめた。
「ええ。好都合ですね、我々にとって」
「でも誰が……?」
 イーダは腕組みして呟いた。
「あたしがラハにいることは、お店の人なら皆知ってるけど……リュシさんのことをどうして知ってんだろ? いくらソレスの家が名門だからって、リュシさんが今パルナッソスにいるってこと、どうやって知ったんだろうね?」
「アダマスさんが言ったんじゃないの?」
「一通目の手紙には、個人の名前はどこにもない。聖騎士団と《精秘薬商会》の間での契約です。そう言われてみれば、イーダさんのおっしゃるとおり不思議ですね」
「あ。てことはさ、少なくともコレだけは決まりだよね?」
 ヨシュアはにんまりと笑って言った。
「リュシさんがパルナッソス精霊祭の実行委員長!」

■Scene:商売のイロハ

 こうして、商人としての拠点は相変わらずラハにあるものの、店の手伝いをしているよりも、外に出ていることのほうが多くなったイーダである。
 パルナッソス精霊祭を成功させるために事前準備が重要であること、ソレス家の手による箱ものが出来るまでの期間を商品の仕入れに充てることで、パルナッソスを訪れる人々にいっそう満足感を与えられるはずであること。イーダはここぞとばかり《商会》に掛け合い、実力を試す機会を得た。
 つまり、イーダがパルナッソスに出入りしているのはサボっているのではないということだ。
 店主は半信半疑であったとイーダは言う。乾ききって干からびたパルナッソスなぞ、病人と坊さんと学者先生にしか価値がないんじゃないか、というのが、ラハの人々がパルナッソスに対して持つ共通的印象なのだ。仕方がない。実際に見て理解するまでに時間はかかるものだから。
 穏やかな昼下がり。
 椰子の実を削って油をつくるイーダをヨシュアが手伝っている。
「このくらい実を削ればいいかな? 熱を加えずに油を抽出するんだってさ。成分が変質しないからお肌にも使えるんだって」
「ヴィーヴルさんがいればよかったね」
「あらヨッシー、手伝うのがイヤ?」
 以前はヨシュアに対して「さん付け」だったとは思えない口ぶりのイーダである。
「油が変質とか抽出とか、ちょっとした錬金術だよなって思っただけですー」
 ヨシュアの言うとおり、学舎の一室は実験室の様相を呈していた。
 イーダが施療院の老人たちと世間話をしているうちに、秘伝の作り方を教えてもらったそうだ。屋外では日光にあたってこれまた油が変質してしまうから、日のあたらぬ暗がりで行うのもコツだと言う。そうすると濁りのない透明な油を絞ることができるのだ。
「お肌によくって料理にももちろん使えて、家具の手入れにも使えるんだよ」
「そういうの、錬金術では賢者の石って言うんです。万能の物質」
「さしずめ賢者の椰子油ってトコ? 派手すぎる名前だね。ただでさえ名前負けしてるってのにさ」
 イーディスと言う名は富や繁栄を意味するのだと、ヨシュアの記録帳にもしっかりとしたためられている。
「いいんじゃないですか、繁栄の椰子油」
「売れるかな?」
「悪くないと思う。お肌にいいなら間違いない」
 ヨシュアが同意すると、イーダはにんまりと笑った。
「実はさ、施療院の人たちって、ずっしりつまった知恵袋なんだよ。椰子油の精製ひとつにしても、そう。ほら覚えてる? あたしの持ち歩いてる鞄の中に、グロウブロウがあっただろ」
「もちろん覚えています。何でも出てくる鞄だなって思いましたから」
「前の店の常連おばあちゃんが教えてくれたんだよ。他にもたくさん……あたし、思い返してみるとお店のお客さんから教えてもらって仕入れたものばっかりだった。施療院の人たちはきっと他にも、あたしやヨッシーも知らないような独特の治療法や料理法や、豆知識を知ってると思うんだ」
 確かに、とうなずくヨシュア。
 グロウブロウを煎じたら喉の痛みに効くなんて、薬草学に通じている自分でも知らなかった。砕いて粉末を傷口に塗るだけだと思っていた。
「あたしはパルナッソスを何て言えばいいのかな。とにかく行ってみたら、自分の知らないような民間療法だとか、変わったスパイスだとか、そういうものが集まってる場所にするつもり。施療院のおじいちゃんおばあちゃんも、地元のやり方が効いたって話を聞けば、また元気になっちゃいそうじゃない?」
「でも、その地域特産の、例えばリディアの民の黒菱金盞花の根っこみたいなものはどうやって手に入れ……あ」
 そこまで口にしてヨシュアは思い至った。
 《精秘薬商会》は《大陸》最大の情報網と流通量を誇っている。風邪薬から護身の短剣、はては黒竜のため息に薔薇の精油。扱う品は千とも万とも。
「仕入れてきて売る。決まってるだろ。もちろんお求めやすい価格でね。商品や情報をほしがる人に渡して、皆が喜ぶ。お客さまが要るものを適正な価格で売る……」
「きっと皆喜ぶだろうなー。でも《大陸》じゅうから仕入れするわけでしょ。椰子油はともかく、まずはモノをそろえないと」
「それもちゃあんと考えてあるよ」
 指を立ててイーダは言った。
「仕入れの旅、護衛つき。血の気の余ってるのをひとりくらい連れてってもいいよね?」
「孤児院の子を連れてくんですか!」
「商売のイロハも仕込んであげるよ」
 けろっとしてイーダは言った。
「でも無理ならヨッシーやフートさんに頼もうかな」
「俺はいいですけど……」
「皆忘れちまってるみたいだし、記憶喪失事件もあったからあんまり言いたくないけどさ、こっちは売掛があるんだからね?」
 イーダの一言で、ヨシュアは買い占めた紙とインクのことを突然、本当に突然思い出したのだった。

■Scene:少女のまま、まっすぐに

 元からパルナッソスの住人であったラムリュアにとっては、住み慣れた自宅に戻ってきただけのはず、であった。薬や香料が積まれた棚。集中を高めるための様々な道具類。衣服と装身具。ふかふかのクッション。それらが雑然と周囲を取り囲む、妙に広く豪奢な寝室。
 だが、我が家だという感覚は沸き起こることはなかった。
 何もかも、あの幻覚の嵐の中に置いてきてしまったのだと思うラムリュア。レディルやヨシュアのおかげでひょっこり思い出す記憶もあるにはあったが、それでも――肝心なところで、自分の中の何かが変わってしまい、もう元には戻れないのだと、ラムリュアは感じていた。
『これがお前の巣か?』
「ミスティルテイン流に言うならそうね。人間は、寝台とか寝床とか言うものだけど」
 寝台の上に膝をつき、ごそごそと枕元の隠しから目当ての物を取り出す。その仕草は背を伸ばす猫のようだ。
『寝るための場所というわけか、それにしてはごちゃごちゃしすぎではないか? 空も見えぬしそもそも風の通りがよくない』
「あなたの巣についてなら、私だって言いたいことがあるのよ」
『ふん』
 機嫌の悪くなったらしいミスティルテインを放って、ラムリュアはしばし方策を練った。
 やがて……。
 占い師・芳夜が帰ってきた、という噂が、パルナッソスやラハを人知れず駆け巡る。
 彼女の帰還を待ちわびていた常連客がひきもきらず彼女の家を訪れた。学士たち。商人たち。旅人たち。彼らの目当ては芳夜の占い、加えて、彼女そのものであった。
 客と二人で過ごす時間に、芳夜は甘えた口調でこんな話をする。
「ねえ。砂漠を旅するのって、大変じゃない? もっと街道がきちんとしていたら便利なのに」
 それを聞いた男が、突然どうしたんだとか、街道が整ったら行きたいところでもあるのかだとか尋ねると、彼女はとっておきの微笑を浮かべてこう言うのだ。
「素敵な温泉があるって話を知ってる? ただ私の足じゃとうてい無理ね。砂漠を越える隊商だけが知る秘境らしいもの。想像してみて? 砂漠の中に蛍舞う花畑と湯気の立つ温泉があるの……」
 男はすっかりその気になって、それくらい連れて行ってやる、と芳夜に請合う。
「本当? 実は私の友人が、街道を整備する事業をやろうとしているの。それでもしよかったら、貴方にも協力してもらいたいのだけれど……」
 その気にならない男には、これまたとっておきの微笑でこういうだけだ。
「あら? じゃあ貴方の奥様――それとも上司のあの方? もしくは恋人の……ええ。言ってもいいかしら? 貴方と私の睦言を」
 このどちらかで事は足りた。常連客と順繰りにこの会話を繰り返すだけで、ちょっとした額のお金がラムリュアのものになった。片目が赤になり美貌を増した占い師に未練がましく付きまとおうとする客からは、もう一押ししてさらにお金をいただいた。つまり、富める者からは巻き上げられるだけ巻き上げたのだ。
『女は恐ろしいな』
「あら」
 ラムリュアは心外そうに頬を軽くふくらませた。
「そうは言ってもミスティルテイン。貴方にとっては私も愚かな人間のひとりだものね。本当は恐ろしくなんかないのでしょう?」
『イヤイヤ……』
 恐れ入ったといわんばかりにミスティルテインは、珍しくもしおらしくラムリュアを立てて言った。
『人間も人間でなくとも、女は恐ろしいわ。とくと分かった。ところでそのカネはどうする気なのだ』
「私のやることをいちいち貴方に説明しないといけないの?」
 そう言うとミスティルテインがムッとして押し黙るのも、最近は分かってきた。時折鬱陶しいこともあるが、概ねミスティルテインは退屈しない同居人であった。
 ある日ラムリュアはパルナッソスの住まいを引き払った。
「パルナッソスの町興しと街道整備の足しに。たいした額じゃないけど」
と言って、リュシアンにお金を手渡す。
「こんなに……ああいえ。それよりも、旅に出られるのですね?」
 あの人を追って? リュシアンは無言で問うた。
「ええ。精霊祭をお手伝いすることができなくてごめんなさい」
「不思議ですね。パルナッソスの住人であったラムリュアさんが旅に出るのを、余所者の私がこうして見送るなんて」
 ラムリュアはくすりと笑った。
「この街のことはお任せするわ。私は私のしたいことをするの」
「お元気で。そしてまた、いつか」
「ええ」
 そして――ラハ、《精秘薬商会》。
 薄紫色の紗を持ち上げて、ラムリュアは尋ねた。手にはエディアールの襟元をかつて飾っていたバッジ。
『もしも、私が命を落とすようなことがあれば、それらを持ち《精秘薬商会》に行ってほしい』
 彼は、あの時、私を必要としてくれていた。私が信用するに足ると言い、彼にとって大切な品であるバッジを預けてくれた。信頼関係は儚いものと思いかけていたラムリュアにとって、甘すぎる記憶であった。
「どこでこれを」
 見たことのない男が店の奥から出てきて、ラムリュアに逆に尋ねる。エディアールより少し年長で、雰囲気がどことなく彼に似た感じの男だと彼女は思った。
「このバッジの持ち主を探しているのです」
 ラムリュアのほうも、男の問いに素直には答えない。男は胡乱そうにラムリュアの全身をとっくりと眺めた後、奥の部屋へとラムリュアを通した。
「エディアール・ノワイユという人から預ったものです」
 祈るような気持ちで、再びラムリュアは言った。
「私はエディアールを探しているのです」
「残念ながら、そのような名前を持つ者はいない」
「嘘。あの人は、《精秘薬商会》に行けと……」
 男はじっとラムリュアの目を見つめ、かぶりを振った。
「嘘ではない。エディアールという男はいない」
『おい……』
 ミスティルテインが嘴を挟みかけたがラムリュアは制した。エディアールと似た雰囲気を纏う男は、嘘を言ってはいないだろうと思えた。
「そう。そういうこと……あの人がいた証拠はこのバッジだけということですか」
 バッジをそっと握りしめラムリュアは考える。
 エディアールにどんな理由があるにせよ、目の前の男はエディアールの秘密を守る立場にあり、そのことをそれとなく自分に教えてくれている。エディアールという名が男性のものだとは、ラムリュアは言ってはいないのだから。
 男は無言で肯ずる。
 ラムリュアはぺこりとお辞儀して、長い髪とたっぷりとした服の裾を翻し、その部屋を後にしたのだった。
『よかったのか、あのままで』
「いいわけないでしょう、何を寝言を言っているの」
 《精秘薬商会》の戸口に立ち、ラハの喧噪を見やりながら、ラムリュアは指で髪先を弄ぶ。
 行き交う隊商。乗合の馬車。買い手を待つ家畜売りの商人。
 エディアールならば、どうやって、どこへ?
「さ。ここからは貴方にも手伝ってもらうわよ、ミスティルテイン」
『何だと』
「あの人が何処の誰だったのか、一緒に探してもらうわ。ほら手始めに、街道を辿って次の街の《商会》へ……」
 捲った札の絵は、凶暴な獣を従えて立つ女性。その意味は力。
 少女のまま、まっすぐに。自分を抑えるのはやめて、思ったとおりを貫いて生きる。そのことを思い出させてくれたあの人を追いかけよう。もしも再会が叶うなら……彼のそばで信頼に足る人間として、ふさわしく生きていたい。たとえ、彼が何者であっても。
 目の前を過ぎる馬車の行き先も確かめず、身軽にひらりと乗り込んで。
 ラムリュアは新しい自分の誕生をひとり祝った。

■Scene:誰も争い傷つかないように

「マレーク、ラハから」
 かつて、調査隊ではエディアールと名乗っていた男は、懐かしい地名とともに新しい――否、元々の――名を呼ばれ振り返った。彼の本名を知る者は、バッジの紋章の意味を知る者同様、ごくごく少数に限られていた。大きな組織の情報部員である以上、生きていくことと、活動の痕跡を消すこととはほぼ同義であった。
 来たか、と思う。
 ラハ並びにパルナッソスは、彼がとりわけ注視している地域だ。
 《神の教卓》周辺におけるエディアール・ノワイユとしての活動は大きな成果をあげた。《涙の盾》神殿の一派が《聖地》主導による統一王朝復活を画策していたという事実は、消しきれぬ歴史の暗部としてエディアールの指にひっかかった。つまり、《精秘薬商会》の情報網に。
 組織の中でのマレークの立ち位置は、エディアールとしての成果によって大きく変化した。これまでは匿名で多くの遺跡を巡り様々な情報を入手するのが任務であったが、この活動に区切りをつけるべき時が来たと彼は感じていた。
 今後はマレークも、情報の売買のほうに本腰を入れるつもりであった。陰謀を阻止し、争いが起こらぬ世界を手に入れるため、《大陸》の上で神々が弄ぶ天秤の傾きをコントロールすることに残りの人生を賭けるのだ。そのために、まずは情報部を再編し、収集した情報の価値を高めていくところから着手してゆく。
 マレークに宛てられた短い手紙は、ラハに滞在していた同胞からの知らせだった。
 片目が赤い美女がエディアールを探し訪ねてきた由。
 ほんの少しの感傷が、エディアールだった男の心を波のように襲い、退いていく。
「もういないのだ。貴女が追いかけている男は」
 そう言って、手紙をたくさんの書類の山の一番下へと滑り込ませる。
 エディアールとして、あるいはその他多くの偽名での活動がそうであったように、現地での潜入調査には限界があり、危険も高い。自分を探しているのはラムリュアだけではないのだ。自分はまだ暗殺者の手にかかって死にたくはない。父の最期の姿がよぎるのを、彼は容易に打ち消した。
 もう一通手紙が届いていた。アンデュイルの聖騎士団からだった。
 ふと、思う。アダマス師は、自分の正体を知っていただろうか?
 薄々は。そう考えるのが妥当だ。
 さもなければこのような依頼をわざわざ自分に――《商会》宛てではあったが――持ってくることもないだろうから。
 王朝と神殿を揺るがしかねない火種を手に入れつつ、なおそれを表にしない。いわば彼は双方に対し貸しを作ったのである。貸した分はもちろんにっこり笑って取り立てるのだ。もっとふさわしい時、ふさわしい人間が。
 アダマス師も駒だ。統一王朝と聖騎士団の。自分もまた《商会》の駒のひとつである。
「お互い様というわけか。いいだろう、付き合う価値はあるだろうから」
 聖騎士団からの手紙に数言書き足して息を吐く。アダマスが寄越してきたその依頼は、《精秘薬商会》にとっても次の段階へ進む足固めになる。聖騎士団の領地管理を一介の商人ギルドが任されるはずもない。《商会》は聖騎士団にとっても重要な存在になるということだ。
 代理人には適役がいることを彼は知っていた。精霊祭開催までの間という条件でならば、確実に引き受けてくれるに違いない男。
「へえ。さばくのが早い。この任務が来ること、知っていたのか」
 同僚が珍しく、マレークの仕事ぶりに口を出してきた。
「予想より大物だった」
 言葉すくなにマレークは答える。
「さすが、幹部候補は違うね」
「……仕事のうちだ」
 いずれそう遠くない未来、きちんと情報を売買する仕組みを整えた暁には、元調査隊の仲間たちが何処で何をしているか、その消息をすべて把握しておきたかった。誰かが誰かの行方を尋ねてくることがあれば教えることができるようにしたかった。無論、エディアールという男の行方だけは杳として知れぬのだけれども。
 マレークは遠いパルナッソスのこと、《炎湧く泉》での出来事を思った。
 過去、偽名で通り過ぎてきた幾多の遺跡、束の間親しくなった人々との関係に比べれば、彼のパルナッソス学術調査隊に対する想いは破格といっていいほど情熱的であった。
 仲間たち。
 彼らは、仲間であったのだ。
 そしてこれからも、仲間であり続ける。同じ場所にエディアール・ノワイユが居合わせることこそ二度とないけれど。
 

■Scene:再会を待ってる

 ラハで骨董品管理人に戻ったレディルは、主人の用を済ますついでにちょくちょくパルナッソスにも立ち寄る。仲間たちの中では、以前と変わらぬ生活に戻ったほうであるが、炎をまとう珍しい小鳥と駱駝を4頭連れて戻ってきた使用人レディルを見て、主人は目を丸くした。
「ミスティルテイン? 炎の主?」
「はあ」
 主人の詮索に、レディルは何と説明したものかと思案しながら答える。
「調査隊の任務の最中に、気に入られたみたいなんです。こっちの駱駝はコラン、プル、コハク、ルウ」
「おまえのお宝なのかね」
「はあ……お宝っていうか、預り物というか」
「そんなら、きちんと世話をすることだ。それからたまには人間の友人も作りなさいよ」
 いないわけではないのだ。レディルにだって、人間の友人が。
 とはいえ寛大な主人はパルナッソス精霊祭にも大乗り気で、使用人が祭の手伝いをするのを大いに奨励している。
 骨董品の管理に加えて駱駝の世話もレディルの仕事に加わった。思ったよりも生き物の相手は大変で、変わらぬ生活の中にも刺激は充分といえる。
 お給金も少し上がった。自分の働きぶりを変えたつもりはないとレディルは思っているのだが、主人の金回りがよくなったということらしい。詳しいことは分からないが、《精秘薬商会》が仕事の幅を広げたということも関係あるかもしれない。いずれレディルは、お守り石のあの風景を探す旅に出たいと思っていた。そのためにはお金を貯めなくてはならなかったから、お給金があがるのは大歓迎であった。
 さて――。
「このまえ、《精秘薬商会》でラムを見かけたよ」
 いつものようにパルナッソスに来たレディルが、学舎の前にいたヨシュアに告げた。
 ヨシュアはやっぱり、という表情を浮かべた。
「リュシさんも言ってた。なんでも大金を寄付してくれたんだって」
 その時ヨシュアは学舎の裏手で魔法の練習をしていたのだが、ラムリュアに会えずじまいだったのだ。
「大金?」
「けっこうな額だって」
 占い師ってそんな儲かるのか、とレディルは思う。
「でもさ。つまりラムリュアさん、やっぱ、探しに行ったってことなんだね」
「え? 何を」
 きょとんとレディルはヨシュアを見返す。
「エディさんか、カインさんか……それともふたりとも、か」
「え? えええーっ」
 大仰なほどレディルは驚いた。
「……知らなかった。ラムってエディさんのことが好きだった訳? カインさんも?」
「嘘でしょ? いや、好きかどうか分からないけど……まあ、いいや、うん」
 詳しく知るわけではない3人のことを、当人たちのいないこの場であれこれ推測するのが馬鹿馬鹿しくなって、ヨシュアははあ、とため息をついた。
 とはいえ、ラムリュアの旅立ちに居合わせることができなかったのがなんとなく悔しいヨシュアは、以来、魔法の練習は学舎の前で行うようにしていた。もっとも、フート兄とはまた毛色の違った「魔法使い」の登場に、興味津々の孤児たちがまとわりついてくるのが、難といえば難であるが。いきおい、練習できるのは、そう危険ではないものに限られる。
「会えるといいね」
 レディルが言う。そう言った自分の胸が少し痛んだことに、レディルは驚いた。
「そうだね」
 答えるヨシュアの胸も痛い。
 助けられなかった少女の面影がふたりの上に影をおとしているのだ。
「で……ヨシュアが、魔法の練習?」
「うん」
「あんたって魔法使いだったのか」
 がくっとヨシュアは傾いた。かつて《砂百合の谷》でシュシュからも、そっくり同じことを言われた。
「そんな、別に珍しくもないでしょ。本業はいちおう博物学者なんです」
「すげーのな。薬の調合もできて、魔法も使えるんだろ。俺は“遠見”しかできないのにさ」
「好きなことを仕事にしたのは、お互い様でしょー」
 レディルが骨董品を前にしたら、どれだけでものめりこめることを知っている。ヨシュアが興味ある事象を記録帳にどれだけでも、何百行でも書き付けられるのと同じだ。レディルのお宝帳とヨシュアの記録帳は、どちらもさして変わらないとも言える。
 ヨシュアは、鳥の魔法の術式をああでもないこうでもない、と唸りながら書き換えているところだったのだ、と説明する。
「鳥の……魔法?」
 博物学者兼魔法使いはこくりとうなずくと、左手を宙にさしのべる。風変わりな仕草と聞きなれぬささやき。レディルの目の前で、魔法の鳥が姿を現した。ヨシュアの左手を掴み、翼をふくらませながらこうべを垂れている、灰色の鳥。
 と。
 わらわらわら。
 それまでどこにいたのやら。孤児たちが十人ばかり大騒ぎしながらやってきて、あっという間にレディルたちを囲んでしまった。
「ヨシュア兄の魔法だー!」
「とりだぜ、とり!」
「あたしこの魔法すきー」
「そーお? あたしはフート兄の魔法のがカッコいいと思うよ」
「じゃーいいじゃん、おまえはフート兄んとこいけよー」
「ヤダヤダ。やっぱりあたしも鳥見たいっ」
 無邪気な二十の瞳に見つめられ、ヨシュアは苦笑する。
「大人気だなあ。ヨシュア兄」
 呆気にとられてレディルが茶色の目を細める。暗い倉の中で骨董品と戯れるばかりのレディルには、好奇心に満ちた子どもの存在は目のくらむほどに眩しく見えた。
「すげー力だ。なんていうの、お肌がつやつやになりそう。こりゃ負の想念もいっぱつで飛んでくわ」
「生きてるって感じするでしょ」
 手馴れた所作で、草で編んだ小箱を差し出す。中にはヨシュアが書き溜めた記録の束が入っている。灰色の鳥はしっかりと両足で小箱をつかむと、一気にパルナッソスの青い空へと飛び立っていく。子どもたちがどよめきをあげる。
「ねえねえ鳥さん。どこへとんでいったの?」
「白い峰の、魔女のところへ」
 ヨシュアは言った。
「しろいみねー?」
「そ。ここからずーっとずーっと遠く離れた、《大陸》で一番高い山の上」
 手庇で鳥の行方を眼で追うレディルがうんうんとうなずく。
「あんたの故郷だっけ」
「第二のね」
 この魔法を、もっと成熟させたい。ヨシュアはそう思っていた。今はまだ、ヨシュアから白い峰の魔女さまに宛てた一方通行にすぎない術だけれどきっといつか――よく知っている人に想いを届けることができたなら。
 もしかしたらパルナッソスは第三の故郷になるのかもしれない。
 大事な場所、大事な人。それらが増えていく度に、ヨシュアはもっともっと術を磨かなければと思う。魔女さまだけでなく、伝えたい人が《大陸》中にいるのだから。

■Scene:旅の後も一緒に

 子どもたちが再び自分たちの遊びに戻っていったころ。レディルのくすんだ金髪の色を、骨董品の持つにぶい輝きにも見えるなあなどと考えていたヨシュアは、突然の問いかけに一瞬驚く。
「お守り石のことだけれど」
 そう言って、着衣の下から肌身離すことのない首飾りを取り出すレディル。
 元は緑色であった小石は、ある時美しい宝石のような紫に色を変えた。ミスティルテインとグラファが目に見えぬ戦いを繰り広げた、あの時から。
 お守り石の輝きを久しぶりに目にしてヨシュアは息を呑む。
 ずっと気になっていたことを突きつけられた気になる。自分たちふたりの上に影を落とすあの少女は、いったい何処へ消えてしまったのか……。
 目も眩む輝きなのに、不思議にヨシュアの心の奥底は凪いでいた。まるで心を躍らせることを禁じられたかのように。
「レディルさん、俺の気のせいかなあ。紫色がすごくきれいに澄んでいるように見える」
 これはアメジストだと思った。この紫。
「ああ、あんたもそう思うだろ。気のせいじゃないよ、たぶん」
 そう言ってレディルは空を見上げる。青空。よくこうしてカインさんも空を見てたっけ。そんなことまでも思い出す。
「今夜は満月のはずだ。それど思ったんだが、月の満ち欠けによってこの石、少しずつ毎日色が変わっているみたいなんだよな」
 あの子は、月光浴が大好きだった。
 砂漠にひとり、テントの外で眠ってしまうような子だった。
 月の光を浴びていると気持ちがいいのだと笑って、真似したグロリアちゃんがくしゃみしたら、珍しく慌てたような早口になっていた……。
「屈折の具合や光線の反射、アメジストに似てる。アメジストそのものかもしれない」
 お守り石の端っこを削ったり燃やしたりしない範囲でヨシュアに分かったことは、そのくらいである。つまり、ほとんど何もわかってないのに等しい。
「アメジストだとすると……鉱石の中でもわりと硬いほうだから、ナイフで傷ついたりはしないはず。ナイフのほうが傷むと思う」
「そんなこと……できない」
 レディルがお守り石をかばう。
「も、もちろん俺だってしないよ、そんなこと!」
 慌てるヨシュア。
「思い出した。ミルドレッドさんの看病をしているとき……アメジストは月の力を帯びているんだって言ってた。もしかして、今夜がうってつけなのかも」
 レディルもうなずく。
「あんたなら、そう言うと思ってた。ヨシュア」
 もしかしてもしかしたら、お守り石の中にあの子が存在しているのかもしれない。
 お互い口には出さなかったけれども、同じ気持ちを抱いていた。もしかして、もしかしたら。
 ……あの子に会いたい。
「じゃあ、今夜」
「わかった、今夜だね」
 ひそやかに約束をかわしたふたりは、夜半に再び集う。
 なぜか、フートにクレドにグロリアも、いる。
「どこで聞きつけたんだよ、一体」
「いーじゃない。あたしだってピュアに会いたいんだもん」
 グロリアがにんまりと笑って言った。ヨシュアとレディルの胸がざわめいた。どうして子どもは無邪気にあの子の名を呼べるのか? どうして自分は呼べないのだろうか?
 パーピュア。その名を呼ぶことをいつの間にか避けていたような気がする。なぜか。
 もしも失敗したら……辛いから。
「フート兄は、夜更かしは駄目って言うんだけどさ」
 クレドは両手を頭にやって、ちらっと大人びた視線をフートに送る。
「今さら、いいよね? 俺もグロリアも、調査隊で頑張ったんだしさー」
「見事な満月っすねえ」
 誤魔化したごまかした、とふたりの子どもたちから文句を浴びているフートは、教区長なき今、孤児院の世話係をなんとなく担当している。本来は、子どもたちを寝かしつけるのもフートの役目である。
 根が生えたんだね、なんてイーダにからかわれたりもしたが、やはり勝手知ったる古巣の居心地のよさは、格別であった。
「ほら、砂漠がどこまでも見渡せるっすよ。このまま、向こうの果てまで歩いていけそうな気がするくらい……」
 フートが眼下の光景を見晴るかす。砂の海のはるか彼方、ほんの小さな突起にしか見えないのがアリキアの樹であった。
 ラベンダーと月見スミレ。パーピュアが選べなかった香草をひとつまみ、ふたつまみ振りまいた。きっかけが必要なら、どうか、お願い。
「いい香りっすね」
 呼ばれてもいない精霊たちが芳香につられて集ってきたのはご愛嬌。
「しぃ……」
 フートは人差し指を唇に添え、人には聞こえぬ精霊たちのざわめきを鎮める。
 柔らかな満月の光が降り注ぐ中、レディルの手にしたお守り石が輝き始めた。
 クレドとグロリアが短く声を上げる。大人たちは息を飲み、お守り石の変異をただ見守った。
 明るい太陽の下では濃い紫色を宿していた石は、日が落ちるにつれ、一層すっきりと澄みわたりきらめいていたが、今は淡い紫色を基調として、春の花のような薄紅色、あるいは海底の砂のような白水色へと、ゆらめく光であたりを照らしていた。
「パーピュアちゃん……」
 レディルは思わず名を呼んだ。
 クレドとグロリアの間に、パーピュアがにこにこ笑って立っている。全員が、それを見た。
「パーピュアちゃん!」
 聞こえないはずがない。呼ばれたほうの少女はじっと彼らを見つめ、何か言いたげに、けれど無言のまま微笑んでいる。
 少女の姿が一瞬揺らいで、薄れた。フートははっとして空を見上げる。
「月に、叢雲っすか」
 ちょうど風に流された雲が月を隠してしまっていた。
「シルフ」
 精霊への願いが届くか届かぬうちに、再び月が顔を出す。
 パーピュアの姿は、今度は少し離れたところに現れた。石段の上、両足を無造作に投げ出して座りこんでいるおかっぱ頭が見える。彼女は喉を弧にそらして月を見上げていた。文字通り月光浴を楽しんでいる。
「ピュア、楽しそう」
 グロリアが小さく呟いた。
「うん。笑ってるね」
「月の光がお守り石の中で像を結ぶのか……」
 光をさえぎる雲は去り――シルフの計らいだろうか――濃紺の夜の庭を散歩するパーピュア。やがて満月は中天に差し掛かる。パーピュアの周囲の風景が揺らいだ。圧倒的な存在感を持って、そこに映し出される景色は。
「あ……」
 レディルが鼻をすすった。
 遠い日、両親に連れられていった《ミゼルドの大市》の記憶が溢れてきた。年老いた宝石道師。思い出す。
 ――君にあげよう。石も君が気に入ったようだから。
 何度も何度も石が見せてくれた景色。緑に萌える山、そして水面に山を映す深い泉――パーピュアは立っていた。裸足で、お気に入りの日傘の柄をくるくると回して。それはパルナッソスが見る夢のように。
 フートもクレドもグロリアも、もちろんヨシュアもそれを見た。
 泉に映った山の端をかき乱すのは、銀の鱗の魚の群れ。光る腹を見せた大きな魚も身をくゆらせ泳ぎ去る。水に沈んだ桜の花びらがゆらゆらと揺れる。花びらはよく見ればパーピュアの服の柄だ。袂一面にあしらわれた桜の花吹雪。山と、空と、泉の水面が、同時にそこにあった。
「あんたが……あんたが先に行っちゃ駄目じゃねーか。あんたが教えてくれたから俺は」
 レディルはぐしゃぐしゃと顔をゆがめ、しどろもどろになって言った。
 言いたいことはたくさんあった。
『いいんです、レディルさん』
 やっぱり、パーピュアはにっこりと微笑んで答えた。
『私、待ってますから。ここは気持ちいいところですよう』
「いつになるか分からねーよ、そんなの。でも……でもお給金上がったし。俺いつか、この景色を探し当てるつもりだから……」
『ふふ。石の言ったとおりですね。出会ったお宝は、大事にしてあげてくださいねえ』
 お宝どころか、駱駝だって大事に大事に世話をしている、とは言わないレディルであった。
 月が傾きはじめると、少しずつパーピュアの影も薄れ、お守り石の光も弱まっていった。
「再会っていうのは、いいものっすねえ」
 朝焼けに空が燃えるころ、欠伸をかみ殺しながらしみじみとフートが言った。
 余談であるが、しばらく後……。
 満月の夜になると出没するという少女の幽霊の噂がラハで話題になった。
 どうもレディルが知らぬ間に、パーピュアは月光浴を楽しんでいるようなのだ。あまりに人心を騒がせるのも問題になるというので――ただでさえラハには暇を持て余す冒険者という連中がいる上、主の商売にも差しさわりが出るといけないし――レディルは満月の晩はパルナッソスで旧友たちと過ごすことにした。駱駝も連れて行くのでけっこう大変だ。満月の夜だけは孤児院の子どもたちも、フート兄公認で夜更かしができることになった。

■Scene:胸を張っていえないけれど

 ラージがパルナッソスに滞在した時間は、それほど長くはない。
 およそ一ヶ月。精霊祭としてどんなことをするかを話し合い、住民とも積極的に話をして大体の形が出来上がってきたところで、パルナッソスを発った。もちろんカッサンドラも一緒である。
「あれでよかったのですか、ラージ」
 気ままな二人旅を続けるうちに、カッサンドラもどうにかラージのことを恥ずかしい敬称で呼ばなくなった。
「精霊祭のこと? うん。僕に出来ることはやったと思ったから」
「でも、本番を見ないままですよ」
「また見に行けばいいさ。お祭りの本当の主旨は、パルナッソスの人たちが自分の力で元気になる仕組みを作って、盛り上げていくところにあるんだろうから」
「そんなことを言ってラージ。面倒くさくなったわけではありませんよね?」
「……ない、ない」
 手を振って打ち消すラージ。
 施療院の人たちひとりひとりと話をして、彼らの街に対する思い入れを聞き、町興しの中で形にしていくという手順はなかなか興味深かった。意外な視点、思いもよらないアイデアに驚くこともあった。また、これといって特徴のないラージに老人たちは勝手な設定を付け加えるらしく、家族のひとりと思い込んで話を始めたり、あるときは初恋の人になっていることもあった。たいていはラージも成り行きに従い、話にあわせて振舞ったり相槌を打ったりする。
 言われてみれば、多少そういうことに疲れていたかも、とラージは思う。自覚はあまりなかったが、こういうのも、人あたり、と言うのだろうか。食べつけないものが身体に合わず食あたりを起こすように。
「人間同士の付き合い方が極端なのですよ、ラージは特に」
 ある日カッサンドラがそんなことを言った。
「遠まきに眺めてるだけだったり、突然深いところに首を突っ込んでみたり……」
「ああ、そうなのかもね」
 よく見られてるなあとラージは思った。
「だからきっと次は、深い付き合いをしないところに行くと思うのです」
「次の目的地のことかい?」
 カッサンドラはうなずいた。
「それなら当たり……といいたいところだけど」
 ラージは財布をひょいと持ち上げる。路銀はだいぶ軽くなっていた。
「まずは、ちょっと稼がなきゃね。だから次の街は、稼げるところだな」
 カッサンドラは分かったような分からなかったような顔で、じっとラージを見つめていた。
 かくしてふたりは、緑の豊かな商業都市にやって来た。
「パルナッソスと大違いですね」
「うん、そうだろ。緑がいっぱいで、活気があって、水路が流れてて、人も多い……特に、お金持ちがね」
 初めは、カッサンドラに説教をされるのではないかと思った。
 だが彼女は意外にもラージの稼業についてとやかく言わず、協力的であった。ラージはアダマスに感謝した。カッサンドラの振る舞いや思考が、これまでの主であったアダマスの判断に由来しているのだ。思えばアダマスも、調査隊にのこのこ志願してきた泥棒を軽んじたりはしなかった。
 相変わらず胸を張っていえるような仕事はしていないけれど、以前と違うところもある。
「今夜……ですね」
 ラージとカッサンドラはうなずきあった。
 深夜の街、闇に紛れるラージの隣には優秀なる助手カッサンドラが控えている。
「あっちをお願い」
 カッサンドラは主に陽動を担当する。闇と人混みに紛れるのが得意なラージが、その間に仕事を済ませるという寸法である。
「ラージ。今日こそは早めに終わらせてきてください。陽動は十分しかもちませんから」
 もはや、彼女には頭が上がらない。
「……今じゃ僕よりも腕前は上かもしれないな」
 そんなぼやきも、聞いてくれる相手がいればちゃんと返事があるものだ。
「何か言いましたか? ラージ」
 追っ手を引き付け軽く街を駆け巡らせた後、息も乱さずカッサンドラが戻ってくる。
「一丁上がりさ」
 二人組みの泥棒は、今夜も華麗に一仕事を終えたのだ。
 影薄き男はその名は知られていなくとも、仕事のほうは次第に有名になりつつあった。

■Scene:街の行く末は

 パルナッソスの施療院に入りたいと手をあげる者が増えたという。それもラハや近隣の街ではなく、もっと離れた都市でも噂になっているらしい。
 他の地域へ足を伸ばした仕入れの帰途、《精秘薬商会》でその話を耳にしたイーダは、「不思議じゃないよ、ぜんぜん」と胸を張った。
「パルナッソスに来ると皆言うよ。どういうわけか元気になっちまうんだ、ってね」
 施療院に入るや腰がしゃんと伸び、頭も冴えて、持病もどこへやら、前よりも肌をつやつやさせて颯爽と街を後にする元病人たちを、実際に何十人もイーダたちは見てきたのだ。
 かつてのパルナッソスを知っている者が今の活気を目にしたら仰天するくらい、街の雰囲気は変わった。
「嬉しい悲鳴とはこのことですねえ。どうしましょうね」
 一方、リュシアンは帳簿とそろばんを前に真剣に思案する。
「人が集まりすぎることなんて、まったく考えていませんでした」
「いいじゃないか。お客さんたちは詰まるところ“パルナッソスに来ると元気になる”ってことを体験しに来たいわけだろ」
「そうですね。後はまあ、楽しいものを見たいとか、元気の素について研究したいとか、難しく考えずにちょっと変わった場所で過ごしてみたいとか」
「あはは、まるで行楽地だねえ」
 人々の訪問動機は、まさに行楽地そのものだ。
「……アダマスさんも驚くでしょうねえ」
 リュシアンは密かに願っていた。栄転したアダマスが再び、この街に戻ってきて教区長を務めることが万一にでもあるのではないか、と。縁起でもない妄想なのは承知している。街の図面を描く度、声が聞こえるような錯覚に陥るのだ。
 建築家君。あんたは責任を果たせているかね? あんたのやろうとしていることは、あんたにしか出来ない最上のものだと胸を張れるかね?
 大丈夫です、とリュシアンはそっと答える。この街に住み人々と暮らしていると、街をより豊かにする思いつきが、着手するのが間に合わないほど浮かんでくるのです。
 きっと、新しく遣りたいことが思い浮かばなくなったら……自分のここでの役割が終わったということなのでしょう。
 ソレス家には、調査隊が解散してすぐに、当分帰らない旨の手紙を出してある。自分にしか出来ないことがこの街にあるのだから、それが済むまでもう少しパルナッソスに住みます、と。それきり便りは途絶えていたものの、イーダの話ではパルナッソスの噂は各地に広まっているようだ。家族の耳にも遅かれ早かれ届くに違いない。

■Scene:繋がるということ

 冒険者宿の、夜の食堂。
 酔っ払いの哄笑と食器がぶつかり合う喧騒の中で、シュシュは手紙を書いている。
 生まれて初めて自分で紙を選んで買って、筆記具は今の仕事仲間の誰かのを借りるつもりだったのだけれど、「おまえの馬鹿力でペン先を潰されるのは嫌だ」と断られたので、自分用のペンとインクも買った。
 買い物で、イーダの鞄を思い出した。あの何でも必要な物が入っていた不思議な鞄。
 パルナッソスでの別れの場面も、ついこの間の出来事のように鮮明に蘇ってくる。
 『そのうち気が向いたら来るがいい。というか、来るだろう?』
 ミスティルテインはなぜだか、決め付けるふうに言った。
「まあね。ミスティも元気で」
『愚かな人間めに心配などしてもらう必要はないわ』
 言葉とは裏腹に、ミスティルテインは嬉しそうに答えた。
「困ったことがあったら、ぜひとも《精秘薬商会》を頼っておくれ」
 これからもごひいきにね、とイーダはおどけた。
「もちろん。仕事も飯も商売道具の調達も、きっと行く先々で厄介になるよ。でもお店を持ったら教えてくれよな……」
 イーダの将来の夢をいつだったか聞いたことを、あの時シュシュはちゃんと思い出すことができたのだった。
 そして時は過ぎゆき……。
 自分のペンを持ってみたら、書くのが楽しくなった。あれもこれもと話題を詰め込んで、まだ書き終わらない。
 相変わらず冒険者家業を続けていること。
 一緒に仕事をした仲間たちのこと。
 訪れた町の風景や、名物料理のこと。
 時々、綴りが判らなくなると、周りに尋ねる。大抵は誰かが教えてくれる。時には、シュシュの手元を覗き込んで、ここが違うとペンを取り上げて修正を入れてくれる。シュシュは、明らかに筆跡が違うその部分に矢印を引っ張って、「ここは仲間の誰々が直してくれたとこ」と注釈を入れる。そうすると、その仲間について書きたくなって、また手紙が長くなっていく。
 仕事のこと。剣術は相変わらず好きなこと。
 なのにあの時、どうして自分は剣を投げ捨てたのだろうとずっと考えていたこと。
 あの瞬間、剣が途方もなく重くなったように感じた。同時に、血と腐臭と何かもうひとつ、どろどろとして気持ちの悪いものが刀身を通して自分の身体にまで染みてきそうな気がして、咄嗟に手を離したのだと、今なら思い当たる。
 遠見のレディルが教えてくれた、物にも記憶が残るのだと。
 あの時あの剣が背負ったものは、自分には重すぎた。だから、あの剣は《炎湧く泉》に置いてきた。ミスティルテインにとっては、勝利の記念碑になるだろう。気が向いたら浄化でもしてみてくれとも頼んでおいたから、何百年かしたら、精霊王の浄化の炎を宿した霊剣になって、時の勇者たちがミスティルテインに剣を借りに来るかも知れない。
 いつかあの剣を手にする誰かは、あの時の自分の気持ちを受け止めてくれるだろうか。それを考えると、ちょっと怖いような、嬉しいような気持ちになる。
 きっと、この広い《大陸》のどこかに、自分が受け止めるべき想いを持った剣もあるはずだと、パルナッソスに戻って、新しい武器をどうしよう、と考えた時に思いついた。
「よし、俺の剣を探しに行こう!」
 どこにあるのかは知らない、どういうのが"自分の剣"なのかもよく判らない。でもきっと、出会えば判る。
 だから、また冒険の旅に出た。お祭りの時にはきっと帰ってくるとみんなに約束して。
 ただ最近、とりあえずのつもりで調査隊の報酬で買った新品の剣が、だいぶ手に馴染んで使いやすくなってきた。もう少し使い込んで、自分の体の一部のように感じられるようになったら、デン爺さんの愛剣メランコリイのように、名前をつけてみようかとも思う。

 その時は一緒に名前を考えてほしいことも手紙に書いた。
 それから、今受けている仕事を片付けたら、パルナッソスに向かって出発するつもりでいることを書いたら、紙面が尽きた。表も裏も使ってしまって、もう署名をする隙間すらない。
 封筒に入れて封をして、宛名を書く。《精秘薬商会》の流通に乗せれば、イーダが開くと言っていた支店まですぐに届けてもらえるだろう。
 書ききれなかったとっておきの話は、パルナッソスで直接話そう。

 ────ねえ、俺、背が3センチも伸びたよ。きっと、もっと大きくなれるよ。

『海辺の町にて、チトラ=シュシュナより。
 パルナッソスのヨシュアへ』

■Scene:まだ根つかない

 孤児院。グロリアが自分の寝台に横座りになって髪を梳かしていたところを、クレドに呼ばれた。
「グロリア」
 その口調は妙に改まったものだった。もう何年も一緒に育ったグロリアは、振り向かずにただうなずいた。わかってると言うふうに。
「……もうそろそろ、限界みたいだもんね」
「だよなあ。だから、さ」
 何度目かの満月を越え、元調査隊の人々の新たな旅立ちを幾度か見送った後のことだった。
 クレドの背は随分伸びていた。グロリアも、幼いころから使い続けてきたこの寝台が、ちょっとばかり窮屈に感じていたころだった。
「いつまでたっても根つかないのね」
 グロリアの視線の先、窓の外にはフートが見える。
「でも、アリキアの樹だって根ついたぜ?」
「じゃあ訂正する。“まだ”根つかないのね、フート兄は」
 ふたりがやきもきしていたのは他でもない兄貴分、フートのことである。
 近頃――特に満月の翌日は、塞ぎこんだようにぼんやりしていることが多かった。まあ、元々フートは、ぼんやりしているように見られがちな性質ではあったのだけれど。
 だから、クレドとグロリアは旅立ちを決めたのだ……。
 と。
 そんな秘話を三人で囲んだ夕餉の席で聞かされて、フートは大いにむせた。この店自慢の熱々かぼちゃのスープが勢いよく喉に入ったのだ。
 しばし咳き込んだ挙句、
「僕……そんなに心配されてたんっすかねえ?」
と所在無げに呟くフートに、クレドとグロリアは同時に大きくうなずいたのであった。
 クレドとグロリアは今パルナッソスを離れ、聖騎士団領の都市エンベールに滞在している。クレドが入団試験に挑戦するというのでグロリアもついてきた。こちらは物見遊山で気楽なものだ。入団試験が終わればパルナッソスに戻ってくる。その頃には精霊祭の準備も佳境に入っていることだろう。
 最初が肝心だから、と理由でもちろんフートも同行した。しかし、それすらも子どもたちの計算どおりだった訳だ。
「で、試験はどーだったの?」
 はふはふとスープを冷ましながらグロリアが尋ねた。
「大人がいっぱいいた。ごつそうな人はあんまりいなかったな」
「女の人は?」
「いたよ、もちろん。でも駄目だなあ俺。模擬戦闘で女の人にあたって、負けちゃった」
 悔しそうにパンにかぶりつくクレド。
「傭兵で鍛えてからのほうがいいんじゃない? ティカみたいに」
「待ってらんないよそんなに。遠回りしてたらいつまでたっても勝てねーもん」
「……クレドにミスティルテインがついてたらよかったのかしら」
「いらない」
「そう言うと思ったわ」
 グロリアは肩をすくめるとフートのカップにミルクを注ぎ足した。
「クレドは騎士見習いとして、グロリアはどうするつもりなんっすか」
「それが、目指したい道がいっぱいあって目移りしちゃう」
 目に見えぬものに対峙していたラムリュアやパーピュア、レディル。彼らの技に対する憧れが、半分。
 人の求めるものを必要な時につくりだすことのできるイーダやリュシアン。彼らの振る舞いへの尊敬が、半分。
「でも……まだまだ勉強したいかなあ。あ、そだ。ミルドレッドさんのところに弟子入りしよーかなあ」
「《精霊の島の学院》っすか。あそこも、入学試験があると思うっすよ、名門ですし」
「ちゃんとした呼び方は、《大いなる悠遠の旅路にかかげられし灯火たる学び舎》っていうのよ」
 覚えたての知識を披露して嬉しそうなグロリアに、うええ、とクレドが舌を突き出してみせる。
「勉強ならどこだってできるんじゃないのか? わざわざ試験なんてさ」
「その言葉そっくりそのままあんたに返すわよ、クレド」
 フートはずずっと温めたミルクを飲んだ。そうはいっても何の前置きもなく弟子入り志願をされるミルドレッドのほうも迷惑じゃなかろうか、と思うのだった。
「エンベールも、炎の力が強いと言われている街なの。フート兄、知ってた?」
 何食わぬ顔でグロリアが水を向ける。フートは瞬いた。
「炎の力……そうなんっすか?」
「昔々の伝説で、白い炎を操る魔法使いっていうのが出てくるのよ」
 だからエンベールの騎士の紋章は、炎だしね、とクレドも付け足す。
「……その割には、あんまり……精霊さんの力を強くは感じないっすけど……そうっすかー」
 いくばくかの期待を胸に、その夜フートは古ぼけたランタンに向かってひとり呼びかけを行ってみた。
「誇らしく立ち上る炎らよ どうか僕の声を、この街の景色を……
 熱き心を灯す友へと送り届けて頂けないっすかね……?」
 見知らぬ街の空気はしんと静まったままであった。
「やっぱ、駄目?」
「駄目みたい」
 その様子を物陰から覗き見ていたふたりも、ため息をつく。
「せっかく、エンベールなら炎の加護がありそうって思ったのに」
「《学院》に行ってみれば? あらゆる精霊が強力に働いてるんだろ、あそこって」
 フートが友なるサラマンダーとの再会を願って、こっそりと精霊召喚の術を試していることをふたりは知っていた。だが、なかなか上手くは行かないらしい。どうしたものかと、ふたりなりに気にかけているのであった。

■Scene:新都アンデュイル

 新都アンデュイル。
 聖騎士団のために建てられた館のひとつが、アダマスの居所であった。館といえば聞こえはいいが、そこは質実剛健な騎士団のこと。華美な装飾の類は廃されており、部屋にあるものといえば寝台がひとつと机がひとつくらいで、パルナッソスのおんぼろ神殿での暮らしぶりと大して違いはない。
 それもそのはず、アダマスがこの館にいることはほとんどない。執務では王城と神殿と《精秘薬商会》をいったりきたりであるし、夜は夜でこれまた馴染みの食堂をいったりきたりする生活なのだから。
 夕暮れ時の鐘が鳴る。
 アダマスは疲れた目をこすりながら背を伸ばし、神殿を後にする。新しく入隊した聖騎士の配属に関する長い長い会議を終えての感想は「やれやれ。頭の固い連中の相手はつまらんなあ」というものであった。
 パルナッソス教区長を解かれたアダマスの新しい仕事は、ひとことで言うと聖騎士団内部の人事である。さらには、各教区の運営計画作成と、他勢力――ありていには《聖地》の大神殿や統一王朝並びに旧帝国派残党、そして近年多大な金と情報を動かすことにより政治への影響を与えつつある《精秘薬商会》等の商人ギルド――との協力関係構築も含まれていた。
「何がご栄転だ」
 うっすらと白い三日月が、統一王朝の聖都とそのなかの一人である自分を見下ろしている。
 今日の会議もひたすら長かったわりに、ほとんどの議題は結論まで到達していない。若手の神官たちに命じて各課題の解決案を作らせ持ち込んでいるのだが、「頭の固い連中」に説明するだけでも大仕事なのであった。
 唯一パルナッソス教区長の後任問題だけは、原案どおりに落ち着かせることができたけれども、この調子ではいつになったら温泉にゆっくり浸かることができるのか、とアダマスは憂えた。
「お客さまがお待ちです、盾父」
 アダマスが出てくるのを待ち構えていた少年神官に言われて、アダマスはしょぼくれた目を瞬いた。
「客? 本日の業務は終了したんだよ。用があるなら朝の鐘が鳴った後だ」
「あのう、それが……」
 少年神官は言い難そうにもごもごと呟く。
「なんだ?」
 扉を叩く音。そして懐かしくも賑やかしい声。
 少年神官が事情を説明するより早くアダマスは悟った。
「これはこれは老勇士殿」
 来客とはホールデンとスィークリールである。
「よくここが分かりましたな」
「おまえさんの自宅に寄ったんじゃがな、こっちのほうが早いと教えてもらったんじゃ」
 ちらりとアダマスは少年神官をにらみつけた。
「で、ででですが盾父。この方は……かの伝説の“天駆ける憂鬱”ホールデン卿なのでしょうっ!」
「ん?」
 アダマスとホールデンは互いに顔を見合わせ、同じように首をかしげた。
 少年神官ひとりだけが興奮気味に続ける。
「こ、光栄です。まさかあのホールデン卿がご存命で! ああ神よ」
「やめなさい、みっともない」
 少年神官の聖印をきりかねない手つきを無理やり押さえ込むアダマス。
「ところで今日はな、迎えに来たんじゃ。博物学者の坊やの魔法は未だ完成できんでな。っと彼の名誉のために付け加えるならば、完成はしたが暴発もするというわけじゃ。さてさて、忘れたとりゃせんじゃろうな? パルナッソス精霊祭が始まるぞ!」
 ホールデンは芝居の台詞のように高らかに言うや否や、大吟醸・極星を一瓶無造作にアダマスへ放り投げる。
「おっと……」
 腰をかばいながらアダマスはかつてよく飲んだ酒を受け止めた。沈思はほんの数秒であった。
 手にした酒瓶を少年神官に渡してアダマスは言った。
「そういうわけで、しばらくパルナッソスの視察に行ってくることになった」
「……は? ……は!?」
「落とすなよ。落とすくらいなら飲みなさい。そうだな、せいぜい十日、長くても十五日あれば戻れるだろう。いない間のことは、適当にやっておけばよろしい」
「でも盾父っ! ホールデン卿っ!」
「ちゅうことじゃから、上司の世話はこの年寄りに任せるがよろしい」
「私がいてもいなくても、どうせ何も決まらんのだ。それに教えただろう? 人生には退屈しのぎが必要なのさ。たまには君も羽根を伸ばしたまえ。それとも……」
 アダマスは上着を羽織りながら言った。
「君も視察に同行するかね? 温泉に飲み放題に美女もついてくるぞ、多分」
「美女ですか……あ、いえ」
 少年神官ははっとなって頬を赤らめ、出過ぎた己に恥じ入った。
「多少性格に難ありの精霊だがね」
 そう言ってアダマスとホールデンは呵々大笑しあったのだった。

■Scene:精霊祭の夜

 灰色の鳥が彼らの前に姿を現す。
 仲間を結ぶ魔法の伝書鳩は、伝説の白い鳥のように夜を越え、幾度目かの精霊祭のはじまりを告げる。

「じゃあ、ちょっと遊びに行ってくる」
 そわそわしていたクオンテは、きちんとそう言って家を出た。今度はただの家出にならないように、そこは気を遣った。
 新妻が彼を見送る。ついていきたいのは山々で、クオンテも彼女を見せびらかし――否、見せたい景色や紹介したい仲間のこともあったのだけれど、彼女のおなかのなかには赤ん坊がいる。家族で遊山に出かけるのは来年か、そのまた次の年になるのか。見送るだけであったクオンテもついに祭祀兼墓守の役目を引き継ぎ、妻子もこしらえ、どうにか一人前になった。
「相変わらずよの」
 クオンテの父親が、すっかり好々爺になって呟いたとか。
「あれでも大分我慢したんだ。そこはわかってやっとくれ」
 できた妻はうなずいて見送った。

 家出の前科者はもうひとり。
「止めても行くんだろうから、言って出かけてくれたほうがマシ」
 母親はそう言ってティカにお弁当を持たせた。売るほどたっぷりのおにぎりだ。父アクスが傭兵仕事に出かけるのと同じだけの量を、夜中のうちにこしらえたらしい。
「スッキリしたらちゃんと戻っておいで」
「おう」
 その言い方はアクスにそっくりだ、とティカの母は思った。誰に似たのかいちいち考える必要のないほど、娘は父親に似た。女の子だからと言う理由で、ティカの口調や乱暴なところを治すように口を酸っぱくしてきた母であったが、そもそもそれがティカを家出させた遠因であったのかも、と思うところがあったらしい。随分と旅の仲間に恵まれたようでもある。
「じゃ、仲間に会いに行ってくる」
 元気に手を振ってティカは再び旅立った。閉塞感に満ちた村や母親の女の子像に当てはまらない自分が嫌で逃げるように出て行った前回の家出とはまったく異なる旅立ちだった。
 シュシュ兄やダルに会ったら、何て言おう?
 ミスト……ミストのこと。うん、そうだ。
 ミストがやりたいことを見つけたら、おれの中の弱いのも、やっつけられる気がした。だからミストが消えちゃってすごく悔しかったんだ。いろんなことさせてやろうと思ったのにって。うん、最初はそう思ってた。だけど本当はおれがそうしたかったんだ。
 弱くてちっちゃいのは……おれだったんだ。
 ミストはいなくなったけど、おれは覚えてる。ミストのことも、ドールのことも。おれの中にいて、消したりできないんだ。父さんもきっとそうなんだ。父さんのなかにも、弱いところがある。シュシュ兄、そういいたかったんだろ……?
「あ。夜明け」
 街道に曙光が射し染める。夜の影が払われ光が溢れていく様を見てティカは誓った。
「どうしたらいいのか、まだよくわかんないけど……ミストの分まで、おれ、がんばろうと思うんだ」
 おにぎりはまだ温かかった。

 人里離れた寒村へは、別の便りが届いている。
「そんな」
 カインは神殿からの知らせを見てわなないた。過去の見苦しい振る舞いの数々を悟られ、神官となる道を断たれたかと思いきや、現実は思わぬ方向へ彼を導こうとしていた。
「神よ……」
 震えながら聖印をきるカインを落ち着かせるべく、女神官がそっと背に手を添えた。
「どうされたのです? 神殿からの、ということは……」
「招かれました」
 カインは答えた。
「一年間、各地の神殿を回り修行せよと。私が初めに任じられたのは、《神の教卓》、パルナッソスでの研修です」
 かみのきょうたく、と女神官は繰り返した。
「断ることも、貴方はできるのですよ」
 カインはかぶりを振った。
「それでは……どうか立派な神官におなりください」
 彼の震えはもう止まっていた。

 パルナッソスからラハ、その先に点在するオアシスを含めた一帯は、毎年2週間、旧き精霊王ミスティルテインと新たなる契約の証アリキアの樹を讃え、精霊祭一色に彩られる。
 最初、イーダやリュシアンが自分たちの手でつくろうとしたパルナッソスの町興し案は、回数を重ねるにつれ、彼らの手を離れた場所でも話題にされるようになり、いつしか、それ目当てに観光客がどっと押し寄せるほどの恒例行事となっていた。
 街道沿いに日陰を作る椰子の木は、日暮れてからは灯火を掲げる役になる。孤児院の子どもたちが作る数ではとうてい足りないので近隣の子どもたちも総出でこしらえたものだ。線状の小葉をつける植物の葉を丸く編んである。中には何種類かの香料をまぜた芯が入っていて、火を灯すと薫香が漂う。この灯火に火をつけて回る役は、最初の年だけはクレドが務めた。毎年大人気で、クレドが無事に騎士見習いになってからは、灯火役をめぐって子どもたちが大騒ぎするのが常である。

 パルナッソスの学舎前には、リュシアンが苦労してやっとのことで水を引き、作り上げた噴水がある。周囲は《砂百合の谷》から株分けして、これもヨシュアがなんとか根つかせた砂百合の亜種が、釣鐘型の花を揺らしている。
 混雑しきった学舎の前に、ふわりと現れた旅人がひとり。
 まるで空を飛んできたように突然その場に降り立った風変わりな旅人だが、今宵は精霊祭。住人の十倍、いや百倍の人数が旅人として訪れるのだから、少しぐらいの不思議には誰も気を留めない。
 風変わりな旅人はしばしパルナッソスの風を楽しむように深呼吸をし、可憐に揺れる砂百合を愛でると、満足げにその場を立ち去った。真っ白な封書を扉に残して。

 アリキアの樹の天辺、特別な目を持つ者にだけ見える、ふたりの姿。
 片や、炎湧く主、偉大なるミスティルテイン。
 片や、彼の旧友、アリキアを守護するドリアード。
『どうした、サールージュ』
 ふたりの間の距離がほとんど密着と言っていいほどであることに、心なしか動揺しながら、ミスティルテインは何気なさを装って尋ねた。
『鳥よ。ほら』
 サールージュと呼ばれたドリアードは、金枝の杖をついと伸ばした。
 灰色の鳥がアリキアをとりまく魔力の渦に乗って飛んでいる。ふたりの目の前を横切っていく。
『鳥? 違うぞ』
 ミスティルテインは鳥をよく見ようとするフリをして、さらにサールージュとの距離を縮めた。
『あれは……』
 何よ、とドリアードはすごんだ。
『やっぱり鳥だな、うん。鳥だ』
 はっはっはとミスティルテインは誤魔化した。ついでに、さっき縮めた分だけドリアードから身を離した。

 《炎湧く泉》では、アリキアの樹を囲むように十二のやぐらが組まれている。崩れてしまったキノコ岩の代わりに、これらのやぐらは見習芸術家たちが思い思いに炎を表現する舞台となっている。
 祭りの終わりには、十二の芸術作品が一斉に炎に包まれることになる。儚い芸術だ。ただしミスティルテインが気に入った作品は一晩中燃え尽きることなく、赤々とまばゆく夜空を焦がす。
 この火を分けてもらい、持ち帰る見物客もいた。そのご利益について定かではないが、気紛れなミスティルテインのことだから、「愚かな人間」の情にほだされて張り切ることもあるのだろう。精霊祭を見終えた人々が連なって帰途に着くさまは、この貰い火によって遠くパルナッソスからでもよく見えた。

 この年一番の作品として今なお燃え続けている炎の前で、フートはぼんやりと佇んでいた。
 聳えるアリキアの大樹を見上げ、黒く煤けたやぐらに目を遣り、そして衰える気配も見せず燃え盛る十二分の一の炎を見つめる。
 フートの唇が、精霊へのささやきを紡ぎはじめる。
「誇らしく立ち上る炎らよ どうか僕の声を……僕の友までどうか……願わくばまた共に旅をしたいんす」
 彼にもういちど会いたい、とフートは思った。
 僕の友なるサラマンダー。
 その名は、熱き心を灯す者。
「本当に欲張りで、我侭で……恥ずかしい限りなんすがそれでも……それでも。僕と僕の世界の変化を共に、見て欲しいんすよ……ね」
 赤い炎が大きく歪み、フートの眼前でいきなり弾ける。
 がこん!
 衝撃に顔を覆い目をつぶる。何故か逃げるという発想はフートにはなかった。
 彼はすぐに気がついた。あのランタンに、赤々と灯りがともっている。見覚えのある輝き。あのサラマンダーが再びフートの元へとやって来たのだった。
「おかえり。そして……ありがとっす」
 ミルクをたっぷり用意しなくちゃと嬉し涙でフートは思った。

 出会いと別れを繰り返し、旅人たちの旅はこれからも続く。
 けれど、この先はまた別の物語である。



おしまい


マスターより

 PBeM2007はこれでおしまいです。一年間おつきあいくださって、ありがとうございました!
 書いてみたら通常の章をマスタリングするのと変わらないくらいの量になってしまいました。精霊祭前後のいろんな出来事、という感じになりました。お楽しみいただければ幸いです。

 それから、イベントチャットに来てくださった皆さん、楽しい時間をありがとうございました。予想以上に盛り上がってめちゃめちゃ楽しかったです。アリキアのドリアードの名前は「サールージュ」となりました。イベントだけのNPCのはずが最終章まで出張るとは何てキャラでしょう。

 この後の予定は未定なのですが、また何か物語を書きたくなったらPBeM200xを運営するかもしれません。ご縁がありましたら、もう一度《大陸》に遊びにきていただけると嬉しいです。

 愛はいつでも大歓迎です。ご意見、ご感想もぜひぜひ! お待ちしております。

 それでは皆さまに素敵な朝がやって来ますように。
 アカツキでした。


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