第1章|死に至る病森の賢者マスターより

1.死に至る病

無駄なものなど きっと何一つとしてないさ
突然 訪れる鈍い悲しみであっても

 ディルワース王城前に、怪しい影があった。すなわち茶色の猫と、それを抱く少女の姿である。
「ねー、これおしろなん?」
 赤茶けた髪を午後の日差しに透けさせながら、少女は目の前にそびえる門を見上げた。鉄格子には、頑丈そうな鍵がかかっており、もちろん門は固く閉ざされている。
「見りゃ、わかる。お城だな」
 答えている猫の名はカロン。病に伏したというシャッセ姫との面会を志し、従者の少女に命じて山道をえっちらおっちら、ここまで登ってきたのだが。
「ううん、みゅー、もうつかれたんよ。ここまでとってもとーーーってもとおいんよぅ」
 少女は門の前で座り込んでしまった。カロンは舌打ちして、彼女の腕の中からするりと抜けだした。
「おいミュー、なんだか妙だぞ」
「みょうって、なにが〜」
「衛兵のひとりもいやしない。それどころかこの錠前、とんと開けられた形跡がなさそうだ」
 猫はさらに森の奥にそびえる鐘楼を眺める。風見鶏ならぬ、風見竜がそのてっぺんに見えた。カロンはひげをゆらして、あたりのにおいを探る。
「参った。最近鼻の利きが良くないな……それでもここには、人気はなさそうだぞ。もう随分と長い間」
「おしろ、だれもいないん?」
 ミューは日なたでまるくなっている。お昼寝モードに入る寸前だ。
「あてがはずれたか。おいミュー、戻る」
「ええ〜、おひるね……」
「ヘンだな、じゃあシャッセ姫はどこにいるんだ? 神殿か?」
 鐘楼の風見竜がきしみながら向きを変える。黒雲が連れてきた北風が、鉄格子をがたがたと不吉に鳴らした。ひとりは午睡を邪魔されて目をこすりながら、一匹は心中不安なものを感じながら、城下町へと引き返す。

 結局シャッセ姫が街中にいると分かったのはその夜のことだった。カロンは非情にも、ミューに情報収集を命じる。
「ええーっ、だってもう夜なんよ、真っ暗なんよぅ」
「ウルサイ。私は姫のことをもっと調べなければならん。よって、ミューは《狂乱病》なる病について、調べてくるように」
「……」
「返事は?」
「びじんがすきなん?」
「姫が美人かどうかなんて分かるかっ」
 先が思いやられる、と肩を落とす茶猫。

 夜風に吹かれながら、その旅人は街道を歩いていた。肩までの長さの金髪がふわりと広がる。身体にぴったり沿うズボンに黒い革靴、仕立てのよいシャツの襟を立て、薄手の長衣を羽織ってすたすたと歩く彼女の姿は、どこかのモデルのようだ。すれ違うディルワースの街人たちは、皆振り返ったことだろう。その完璧なるスタイルに付け加えられた、斜めがけの水筒に目をとめて。
 何の変哲もない、魔法の品でもなさそうなただの水筒。それにぶらさがる名札には、ミスティ=デューラーの文字。
 おそらくはこれが、自分の名前なのだ。自分がなぜこんな森に来たのか。なぜ記憶がないのか。すべてが白紙なのも悪くない……楽観的なミスティはとりたてて悩むわけでもなく、目の前にあった道を歩き続けていたのだ。
「星の位置からして、えらく北にいるみたい、ね」
 立ち止まり、頭上の星を眺めるミスティ。そこに見えたのは、自分の知っている星座だった。ふうん、私ってば星も読めたんだ。
「ようやく街の灯りが見えてきた。この街には何かおいしいものがあるんでしょうねー? なかったらただじゃすまさないとこだわ」
 ぐぐう、と鳴る空き腹を抱えたミスティは、とるものもとりあえずディルワースの街へと急ぐ。

 その時。突然前から彼女にぶつかってきた者がいた。無警戒に歩いていたミスティはもろにそれにあたり、尻餅をついた。と同時に、彼女の口からは怒濤の罵声が流れ出した。
「ばかやろう、どこ見て歩いてる訳? 当たり屋だったら容赦しないわ、有り金全部置いてきな! それとも新手のナンパなの、どこのどいつだか知らないけど、このミスティ様に声をかけようなんざぁ千年早いんだよ、このタコ!」
「……ごめんなさい」
 ぶつかってきたのは、高価そうなマントに身を包んだ少女だった。年はミスティよりももっと下だろう。燃えるような赤い髪がのぞいている。ふと、ミスティの記憶になにかひっかかるものがあった。
 少女はゆっくり立ち上がると、まだ地面に尻をついているミスティに片手を差し出し、彼女を起こすと、そそくさと立ち去ろうとした。
「ああっと待ちなよ、君……もしかしてシャッセ姫?」
 少女は歩みをとめて振り返る。何か言いたげに唇が開き、苦しそうな咳がこぼれる。そしてマントがひるがえった。少女は鈍く光る刃を握りしめている。
「うわ!」
 とっさにミスティは身体をいれかえ、少女が振りかざした刃をかわした。そのまま上背の差を利用し、少女の手から短剣をはたき落とす。少女の動作は、ミスティにはど素人に見えた。反対にミスティ自身は、かなり体術の訓練をしているらしい。身体を思い通りに動かすことに、不自由をまったく感じなかった。
 ミスティはこの少女を知っていた。ディルワースの姫君シャッセ。直接会ったことがあるわけではない。資料で見たことがあったのだろう。……資料?
 瞬間蘇った記憶に気をとられているうちに、シャッセの姿は街道の奥、暗い森の中へと消えていった。
「しまった……ホントにシャッセ姫だった。だったら、恩をうっとかなきゃ」
 名医も紹介してもらえるかもしれないし、と頭の中で付け加え、ミスティはシャッセを追うことにする。空き腹がまたぐるぐると鳴った。

 街道だけが星明かりをうっすらと映して、暗い森にほんのりと浮かび上がる。ついにミスティはシャッセに追いつくことができなかった。
「おかしいな。確かにこっちに駆けていったんだが。まいっか……って、何だこれ」
 代わりにミスティが見つけたのは、大きな大きな卵だった。たっぷり一抱えはあるだろう大きさだ。あたりには巣らしきものも見えない。木陰にただ、置いてあるようにころがっていたのである。危うくミスティはけとばすところだった。
「シャッセ姫が卵になった? わけないよね」
 そっと触れてみると、殻はほんのり温かい。すべすべの大理石をさわっているような感触である。なぜだかミスティは、自分が涙を流していることに気づいた。こんなふうに訳もなく涙をただ流すなんて、いつ以来だろう?
 ふと強烈な眠気に襲われて、いつの間にかミスティは、その場でねむりこけてしまっているのだった。

 次の日は朝から小雨が降りしきっていた。
「いやな雨だわ。何もかも灰色で」
 雨に霞む灰色の街並みを眺めながら、ローブをまとった旅人がひとりごちた。ディルワース領を囲む森も山も、今日の天気ではただ幻のようにうつるばかり。建物の陰でため息をひとつつくと、旅人は長衣の裾をたくしあげてぎゅうっとしぼる。連れがいるわけでもない気ままな一人旅、というにはその衣はくたびれすぎていた。
「一体何なのかしら、このあたりに立ち込めている不思議な匂い」
 小首をかしげながらも旅人は、軒を借りていた建物の扉を押した。
 看板に《精秘薬商会》とあるその建物は、《大陸》でも有数の規模を持つ道具屋の支店だった。道具屋といっても扱っている品目は、風邪薬から護身の短剣、はては黒竜のため息なんていう錬金術師御用達アイテムまで幅広い。そのうえ店主の道楽で、情報交換の場と称し、冒険好きな連中のために酒場まで併設されているのである。
「はいよ、いらっしゃい」
 眼鏡をかけた親父が店主らしい。店内には冒険者たちがたむろしていた。彼らは新しい客が、室内だというのに濡れたローブを脱がず、顔まで隠したままでいるのを気にもとめず、なにやら議論を戦わせているようである。
「あのう……」
 小さいけれども、心地よい歌のような声で旅人は尋ねた。
「シャッセ姫は、どちらにいらっしゃるのでしょう。わたくしの知識が、あの、お、お役に立つのではないかと思うのですが……」
 ローブの陰から垣間見える陶器のような肌にとその美貌に、店主は片眉を大きく動かした。
「珍しいね、妖精族のお客さんとは。これはうちのおごりだよ」
 出てきたのは温かいミルク。グリースボーナはにこっと微笑んだ。顔を隠していたフードをようやく脱ぐ。現れたのは、白磁の肌には似合わぬ、黒い髪だった。光によっては赤にも見える。ことに薄暗い酒場の中では、濡れた血の色のように妖精の顔を流れる。
「シャッセ姫の噂を聞いたのかい? 王城にいっちゃいけないよ。あそこは随分長い間、廃墟になっているからね。離宮にいってごらん」
「離宮、ですか」
 こくん、とグリースボーナはミルクを飲む。親父の眼鏡に、自分の姿が映っていた。赤黒い、妖精族にあるまじき色を帯びた自分。

「あなたもおふれを見て?」
 急に声をかけられたグリースボーナは、声の主を振り返った。目に飛び込んできたのは、鍔広の大きな大きな帽子である。その奥から、涼しげな灰青色の瞳がいたずらっぽく輝いている。帽子からのぞく明るい茶色の髪は、きっちりと一つに束ねられていた。革のブーツといい、この大きな帽子といい、どこかの荒野で馬に乗っているのが似合いそうなスタイルである。
「びっくりさせちゃったかしら? ごめんなさい、私はフィリス。こう見えても手品師なの。うん、あなたと同じで私もおふれを見たの。だからもし姫の元へ出かけるならご一緒したいと思って」
 にこっとウィンクすると、フィリスは帽子をとって恭しくお辞儀をした。ばさばさっとそこから白い鳩が飛び立つ。鳩はくるりと店内を一周すると、グリースボーナの肩にちょこんととまった。グリースボーナは逃げない鳩とまじまじと見つめ合う。
「ねえ親父さん、姫の主治医にはどこで会えるのかしら?」
「主治医というより、そういう治療全般は神殿の仕事だからねえ。ディルワースの街人と同じで、姫さんも領主も、みんないざってときは神殿のご厄介になるんだがな」
 ついと飛び立った鳩に眼鏡を奪われた親父は、腕をめちゃくちゃに振り回しながら答えた。

 さてそのころ。
 ジェイス・オールドマンは朝一番で、ディルワースのはずれにある離宮を訪れていた。ここは、王城と城下を抱える丘陵の中腹に位置する、明媚な場所である……はずなのだが、あいにくの雨だ。ジェイスは腰まで伸ばした黒髪を束ね直し、旅用のマントが少しでもこぎれいに見えるようにはたく。
「これでよいでしょうかね、門前払いされてはかないませんし」
 ひとりつぶやくと、衛兵に姫へのお目通りを願う。
「私、ジェイス・オールドマンと申します。何卒シャッセ姫にお目にかかりたく……」
 だがジェイスの言葉が終わる前に、衛兵の槍が門前で交差される。門の奥、離宮の様子はジェイスの位置からは見えない。緑の庭園と、白い砂利が敷き詰められた道だけがうつる。ちっ、あそこまで行くことができれば金貨が1万枚……。 
「姫はご病気なのです。旅のおかたにこんなことを申しあげるのは心苦しいのですが、今は安静第一なのですよ、オールドマン殿。失礼ですがあなたの生業は」 
「旅芸人です」
 ジェイスはマントをひるがえし、舞台用のお辞儀をする。それを見た衛兵は、申し訳なさそうに続けた。 
「姫が回復に向かわれたなら、オールドマン殿の芸をご覧になれると思いますが、今はどうかおひきとりを」

「私は医者だ。お力になれると思うのだが」
 ジェイスと衛兵のやりとりに、新しく加わった者がいた。ハスキーな声にジェイスが振り向くと、そこに立っていたのは意外にも、彼よりは10も年下であろうと思われる若い女性である。医者という言葉に、衛兵が構えていた槍をひいた。
 コルム・バルトローと名乗った女医は、手にしていた大きな黒い鞄をぱくりと開いて衛兵に見せる。
「このとおり、怪しいものではない。中身は薬と医療道具だ」
 ひそかに武器にしている火薬は衛兵の目に触れないように注意する。ほどなく彼女は衛兵の信用を得ることに成功した。面会ついでに、ジェイスも知り合いだということにする。
「恩に着ますよ、バルトローさん」
「いや、こちらこそよろしくお願いします」
 半ば上の空で答えるコルム。彼女はほっと胸をなでおろしていた。なぜならコルムはまだまだ駆け出しであって、《狂乱病》に対する有効な手だてはもとより、その病名すら聞いたことがなかったからだ。経験上、病人を元気づけることは、いい影響が出やすいことを知っている。だから、旅芸人というふれこみのジェイスが、シャッセ姫の力になるように思えたのだった。

 先に離宮に到着し、待たされていたフォリル・フェルナーは、いつのまにか面会を望む者たちが増えているのに気づいた。連れ立ってやってきたコルムとジェイス。エルフのグリースボーナに、茶色の猫を抱いたミュー。彼は、コルムの持っている大きなかばんを見て、同業者だと見抜く。他の者たちも、ここまで通されるのだからそれなりに医学の心得があるのだろう……とフォリルは考えた。
 もっともフォリル自身の外見は、およそ医師というよりは、僧侶に近いものがある。琥珀の刺繍の縫い取りがある黒上衣に、いくつかの装飾品。ゆったりとした上衣は、彼の華奢な体つきをかえって印象づけている。コルムが最初フォリルのことを、不吉な僧侶か何かだと考えたのも無理はない。どこか浮世離れした雰囲気をまとっている男だ。 
「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」
 近衛隊長に通された寝室は、いかにも姫の寝所にふさわしいものだった。天蓋つきの寝台に、幾重にも重ねられた薄絹のカーテン。部屋の窓は大きく、美しい庭を眺めることができるようになっている。床はふかふかのじゅうたんが敷き詰められ、部屋のそこここには花が飾られているのだった。
 そのベッドに半身を起こしているのが、シャッセだった。寝巻き姿の姫は、燃えるような赤い髪の美しい女性だった。透けるように白い肌に、うっすら血管までが浮き出ている。頬は上気して色づき、小さな唇はしっとりと濡れて光っていた。見る者によっては、あやうい色気とも思えるかもしれない。彼女のかたわらには、近衛隊長と並んで、年老いた主治医が控えている。
 客人たちに会釈すると、シャッセは思いついたように人払いをする。主治医や近衛隊長までも立ち去らせた後、ようやく彼女は口を開いた。
「寝台から失礼する。僕のために、わざわざ名高き名医にお越しいただけるとは。このシャッセ、大変うれしく思う」
 ぴんとはりのある声音は、病人のものとは思えない。
 
「先日より姫様はご気分がすぐれず、夜ごとの眠りも浅くなり、食べるものも受け付けなくなった……と伺っておりますが」
 フォリルが尋ねる。よく響くバリトンだ。
「うん」
「それで高熱が続く、と?」
「今は下がりましたが、時折思い出したように、急に熱が」 
「それでは今のご気分はいかがですか」 
 できるだけ自信たっぷりに聞こえるよう祈りながら、コルムが続ける。コルムの専門は、切ったり縫ったりのいわゆる外科だった。未知の病に対する興味半分でここまできたけれど、ベテランらしいフォリルの落ち着き払った態度は、彼女の居心地を良くも悪くも左右する。
「そうだな……今朝は悪くはない」
 シャッセは咳混じりに答えた。フォリルにはその咳が気になる。伝染病ならば、という不安がよぎったのだ。その時、ジェイスはシャッセの瞳に宿った光を確かに見たと思った。この嬢ちゃん、もしかして……。
 フォリルは渋い顔で彼らの会話を聞いていた。彼はシャッセの病状を詳しく調べ、まずは対処療法で時間を稼ぎ、原因を特定しようと考えていたのだ。しかしこの様子だと特に変わった点は見られない。フォリルは頭に思い浮かべていたいくつかの病名を、次々にうち消していった。
「失礼ですが、今朝のお熱は……まだ計ってらっしゃいませんか。では失礼……」
 
 コルムとフォリルは、二人でシャッセの診察を開始する。その結果は彼らを失望させた。熱はやや高めだが平熱。食欲はないが、果実を食べて水分を補給している。数日前から寝付きがよくないので、寝室の向きを変えた。眠りが浅く、よく夜中に目を覚ます。時々発作のように、全身が苦しくなることがある。

「ねー、カロン?」 
 退屈してきたらしいミューが、あくびをかみ殺しながら胸元の猫に話しかける。 「何だミュー」
「ちょうこうで、びょーきなおせるん?」
  「今やろうとしていたところだ」
 カロンはやらいでか、とミューの腕から抜け出し、彼女に何やら指示をする。言われるがままに従者ミューは、ポケットからいくつかの小瓶を取り出し、猫に渡した。そう、カロンはミューの主人なのである。
「その猫……そうキミ! しゃべるの?ねえねえ!」
 フォリルは眉をひそめる。患者が寝台をするりと抜けだし、今まさに小瓶の中身を注意深く取り出そうとしていた猫を抱き上げたのだ。姫の仕草ときたら猫なみに柔軟だった。
「ふにゃぁあ!」
 ばらばらと小瓶が床に転がった。カロンが大慌てで抵抗する。
「ねえ、しゃべってよ」
「……姫様はものいうけものをご存じないので?」
 ジェイスが割って入った。こくんとうなずくシャッセ。
「《竜》は知恵があるから、人間と同じ言葉をしゃべるというけれど、見たことなんてないしさ。僕はじめて見たんだ。ものいうけもの」 
「私はけものではない」 
 力無くカロンがつぶやいた。シャッセの目の高さに、両手を広げてだらりとぶらさがっている格好である。御年42才の壮年男性としては、いささか情けない格好だった。 
「カロンは、にんげんだったんよ〜」
「まあ、今はこんななりだがな。そろそろ離してもらえないかね?」
「あ、ごめんね」
 シャッセの腕から解放された猫は、先ほど書きかけた魔法陣の続きを作成する。彼の本職は魔法使い。それも、香を操る調香術師である。それゆえ、シャッセ姫はいい匂いがしたなぁ、なんて思いつつ陣を描いているのも、職業病のようなもの。断じて、色香に迷ったわけではないはずである。そんなカロンを、ミューの冷たい視線が追っていた。
「すみませんね、てっきり私は、あなたもものいう猫の仲間かと思っていまして」
 ジェイスが頭をかきながらカロンに謝った。

「ふうん、この香りは……一体??」
 カロンは鼻面にしわをよせ、シャッセの周りを数回まわる。未知の香り。でもかいだことはあった。ディルワースに着いたとき。それと昨日、王城に上ったときにも確かにこの香りがした。
「なんだい、僕におう?」
「いや、違う。肉体の香りじゃないんだ。私が……感じているのは」
「《狂乱病》はもしや、精神にも影響を及ぼすのでしょうか」
 コルムが茶猫の動きを面白そうに目で追いながら、つぶやいた。
「《狂乱病》の症状は人によってさまざまだと言う」
 シャッセが遠くを見るようにして答えた。
「だから父上が、僕のことを心配して《狂乱病》じゃないかって言うのもわかるんだ」
「人によってさまざま、ですか。例えばどんな?」
「父上から聞いた話だけど。血を吐いたり、眠りからずうっと覚めなかったり、食べ物を食べることができなくなったり。後は、言葉をしゃべれなくなったりというのも聞いた。でも共通するのは、体が衰弱していって最後には消えてしまうんだって」 「消える?」
「そんなの病気とは言えないわ!」
 腕組みするコルム。
「そうかもしれません。でも、健康な人間ならばそうはならない。何か原因があるはずなのです。そして病気ならば、正しい治療法をもってすれば必ず治る。私が、治してみせます」
 かつての苦い思い出がフォリルを襲う。
「苦しい発作とおっしゃいましたが、痛みは? どの程度ですか?」
「焼けた杭を打たれるような感じ。目の前が真っ白になって、何も見えなくなる。そして声が聞こえるんだ」
 コルムとフォリルは顔を見合わせる。
「声?」
「……僕にしか聞こえないみたいだ。幻聴なんだろうね。その声を聞くと僕は」
 シャッセは微笑み、紅い唇を動かして言った。
「自分が誰なのか分からなくなる」
 その表情をジェイスは知っている。信じてもらえないかもしれない時の怖れと、それを隠すための自己防衛。

 姫との謁見を終えた一同は、ぞろぞろと離宮を後にした。シャッセがもう疲れた、休むと言い出したからである。退出する彼らにシャッセは、いつでも離宮に来ていいよ、と言った。

 またそのころ。
 ディルワース神殿の扉をたたいている青年がいた。破風からぽたりと落ちたしずくが、きちんと切り揃えられた短い黒髪にかかって身をすくめる。
「ひゃあ、冷たいっ……やはり北の雨は冷たいですね。これでじきに夏だというんですから、冬になったらどんなに寒いことか」
 青年が眉をひそめて頭上の破風を見上げたとき、神殿の扉がようやく開かれた。待たせたことをわびる女神官に、彼は丁寧な口調で挨拶をする。
「ボクはフューリン・ベイト、面打ち師です」
 フューリンの職を聞いた女神官は、目を見張った。
「面打ち師、では貴方は《大陸》東部からこちらまで? 《大吊り橋》を越えてはるばるといらしたのですか? 御用向きは奉納でしょうか」
「ええ、その、そのつもりだったのですが」
 フューリンは、布にくるまれた包みをそっと差し出す。彼が丹誠込めて作り上げたそれは、東部で篤く信仰されている神の似姿だった。面打ち師とは、《大陸》を去りし神々の尊顔を見、それをかたちあるものに残すことによって様々な祈りを体現する人々である。例えば鄙の社のご神体として、あるいは祭事に用いる神具として、神の面を刻むのだ。力ある面打ち師の技には文字通り神の力が宿る。身につけた者に、持てる以上の力を呼び覚ますことができるのだ。フューリンは見習いなのだが、その技を疑うことはなかった。なぜなら、かつて疫病で生死の境をさまよった彼が今あるのは、幼い自分を救ってくれた祈祷師のおかげだからである。幼い頃の自分の苦しさを思い出し、姫君と重ね合わせていた。
「まあ、これは美しい。フューリンさんがお作りになったのですね」
 包みの中から出てきた面を見て、女神官はにっこり微笑んだ。フューリンが選んだのは、東部に伝えられる神の一柱、《十重の蕾》を模した面だった。
「《十重の蕾》……寡聞にして初めて耳にいたします。でも美しい、力を感じます」
「そうでしたか。東部でも《十重の蕾》信仰はそれほど盛んな訳ではありません。ご存じないのも無理はありませんね」
 《十重の蕾》は、病を退け安らかな心をもたらすと言われているのだった。
 肩をすくめる若き面打ち見習いを、女神官は優しく神殿に招き入れた。
「こちらでお祀りしておりますのは三兄弟神ですが、けして他の神をないがしろにしているわけではありません。よろしければ、お話をお聞かせくださいな。それにお時間があれば、《三兄弟神》の面もぜひ、作っていただきたく思いますわ」
 こうして。
 話し相手を探していたらしい神官と仲良くなったフューリンは、この神殿に保存されているさまざまな記録の閲覧を許されたのだった。ともかくも、信心深い彼は《十重の蕾》に心の中で祈りを捧げた。いつか自分も、かの神の御名を知るときがくるのかもしれない。神と人とを結ぶ道を、歩いているのだから。
 破風を見上げたフューリンの黒い瞳に、雨に打たれた三柱の神像が神々しく映った。

 そこまで話をしたところで、また神殿の扉をたたく音がした。やってきたのは、フィリスとグリースボーナ。彼らも一緒に、神殿の記録を調べることにする。
「《狂乱病》の記録ですって? あら、うちにあったかしら。書庫になければディルワースのどこにも記録は残ってないことになるけれども」 
「風土病と聞きました。過去の事例があれば、シャッセ姫の病気に対抗するすべが見つかるのではと思ったのですが」
「ええっと……前に《狂乱病》にかかったのは誰だったかしら? いえ、私は知らないわ。まだディルワースに来る前ですもの」
「でも、神殿に記録が残されていないなんて」
 神官たちの話を聞くに、この神殿は施療院の役割も果たしているとのことである。簡単な診察治療、薬の処方などを行い、手に負えないようなことがあれば賢者を頼ることが多い。
「では、シャッセ姫の診察も?」
「ええ、たしか神官の一人が離宮に出向いて……その時は姫様はなかなかお休みになれないということでしたので、睡眠薬を処方したのですわ。でもあまり効き目がないとか。あまり強いお薬をさしあげても、お体にさわると思うのですが」
  「睡眠薬、ですか。私も薬の調合にはちょっとした自信があります。今度さしあげてみましょう」
 とグリースボーナ。彼女は薬学を得意とするのだった。
「そうね。寝不足はお肌の大敵ですものね……っていうのは冗談だけど、眠りで癒されないのは、とっても辛いことだわ」
 フィリスがうなずいた。
 神殿での調査は、思うような結果には終わらなかった。記録には《狂乱病》の一切が残されていないのである。どこにも書かれていないのに、ただ存在だけが噂で伝わる病気なのだろうか。そんな病気にどうやって対抗すればよいのだろう。
「ですから、治った人もいないのです」
「不治の病、というわけですか」 
 眉根をひそめるフューリン。《十重の蕾》の加護をそっと祈った。

 神殿を出た彼らは、街へ戻る途中、街道の入り口で異様な光景を目にした。小雨降りしきる中、眠り続ける美女ひとり。そしてその横にある、大きな卵。
「あの、風邪ひきますよー」
 フィリスがそっと女性を揺り起こす。
「ん? あれっ、明るい……」
 ミスティは目をこすりながら、なんだか良い夢見たなあとうーんと伸びをした。
 と。
 ばき。彼女のあげた手が卵にあたり、乾いた音を立ててその殻は砕け散った。
「うわあ!」
 卵の中にいたのは、赤ん坊。
「……お姉さんの子?」
 おずおずと赤ん坊をのぞき込んだフューリンの頭は、思いっきりミスティの正拳で殴られたのだった。

第2章へ続く


第1章|死に至る病森の賢者マスターより