第1章|死に至る病森の賢者マスターより

2.森の賢者

世界は幸福に満ちている
それ以上何を望むことがある?

 ディルワースの混乱ぶり、旅籠の女将のたっての願い、そして《竜》の誘惑。
 もろもろに心動かされ、東の森へ賢者を訪ねようと思い立った旅人たちは多かった。彼らは酒場で話を聞いたり、賢者の家への道を聞いたりしているうちに知り合い、仲間とは言えないまでもつかの間の道連れとして、ともに東へと森の小道を歩みを進めていた。
「それにしても、どんな方なのでしょうね」
 ディルウィード・ウッドラフはやや憤慨気味であった。人の良い、いかにも旅の冒険者といったいでたちの彼の右手には、しっかりと……若い女性がしがみついていた。
「知らないわ。でも変人でもなんでも、賢者様ったら賢者様なの!」
 まくしたてているのはローズ・マリィ。健康そうな小麦色の肌に、緑の大きい瞳、短くそろえた黒髪は少女といっても通用しそうな雰囲気だ。彼女は自身を、ディルワースの近くに住んでいる者だと説明したっきり、あとはディルウィードに向かってただひたすら、賢者の元に連れて行けの一点張りなのである。
 そこはディルウィード、人が良いのと頼られると断れない性格で、ローズの薬指にはまっている豪奢な指輪にはあえて気が付かなかった振りをして、東の森への案内人を探していたところだった。それなのに。案内をかって出てくれた少女を見つけた瞬間、その子の親が登場して断られてしまったのである。いわく、うちの子を怪しいところに連れて行かないでくれとの由。
「まあいっか、他の人に聞いてみれば。……君もこの近くに住んでるなら、誰か案内してくれそうな人、知りませんか?」 
「知らないってば、もう何度言ったら分かってくれるのよ!? 知ってる人がいるなら、その人と一緒にとっくに出かけてるに決まってるじゃない、いいからさっさと別の案内人を探してよ!」
「……はいはい」
「あなたが親切な人でよかったわ。わたしひとりじゃ、森の奥なんて行けそうもないもの。でもなるべく急いでよねっ、こうしてる間にもシャッセ姫様が苦しんでらっしゃるんだから」
「ええっと僕はまだ日が浅くて知らないのですが、東の森は危険なところなのですか? いや、いちおう僕も魔法の心得はありますから、身を守るくらいはできますけれど」
「そんなのしらなーい。でもか弱い女の子ひとりで森の奥になんて、行けるわけないじゃない? あ、もしかして賢者様って変わり者らしいから、それはそれで危険なのかも。でもディルウィードが守ってくれるのよね。あーホントよかったわぁ〜」
 どうにも、言うこととやることがちぐはぐなである。それでも年下の女の子に頼られて悪い気はしないディルウィード。ローズにしっかり握りしめられている右手を気にしつつ、案内を引き受けてくれそうな人を探す。彼の右手には、何よりも大切な指輪が光っていた。
 
 酒場では、同じ目的で声をかけている少女がいた。妙に大仰な荷物から旅商人と知れる。行商の合間にディルワースまでたどり着いたのだろう。彼女は緊張しながらも、旅の道連れをつのっていた。
「ウチ、ゴドっていいます。ゴド=シシュー。あの、おふれを見ました……ウチも、ここのお姫さまの力になりたいって思うんです」
「ご一緒させていただくわ」 
 酒場の隅から返事があった。すっくと立ち上がった女性は二人連れ。返事が返ってきたことに、とうのゴドが一番びっくりしていた。誰からも、相手にされないと思っていたのだから。いつものように。でも今日は違っていた。もしかしたらこれからも。
「わたしも、何か協力できないかと思っていたところです」
 大地の色のローブを翻し、その女性はレイスと名乗った。深緑の髪と瞳は、ディルワースの森の色のよう。竪琴を片手に、もう片手をゴドに差し出す。ゴドはためらいながら握手を返した。レイスはにこりと微笑む。そのすらりとした体格とあいまって、どこか中性的な笑みだった。
「私はエルム=アムテンツァと申します。よろしくお願い申し上げます」
 小柄なもう一人が、蜂蜜色の髪を払いながら丁寧にお辞儀した。ゴドと同じくらいの年齢に見えたのだが、凛とした雰囲気をまとっている。反射的にゴドはびくりと身を震わせた。自分がとてもちっぽけな存在に思えたのだ。
「私の出身地にも、お姫さまと同じくらいの年頃の子がいます。こちらでそんな状況に居合わせたのも何かの縁です。そのまま通り過ぎる気にはなれませんので」
 そう言うエルムは、修行僧なのだ。
「ウチ、うれしいです……二人ともありがとう」
「二人だけじゃないわ。他にも、同じように森へ出かけるという旅人は多いみたい。もっとも、《竜の牙》や報酬目当ての者もいるようですけれどね」
 レイスが旅支度をしている何人もの旅人を示す。
「良いことですね。動機はどうあれ、他人への思いやりはめぐり帰ってきます。シャッセ姫は、随分人望がおありのようですね。さぁ、私たちも出かけましょう」
 エルムは自分の棍を手に、二人を促した。

 こうして巡り会った旅人たちは、総勢10人以上。気安くなる者あり、一歩引く者もありではあるが、とりあえずは道行きをともにしたのである。それぞれの思惑を胸に秘めながら。
 東の森と簡単に言われたものの、賢者の家まではかなり長い道のりだった。山がちなディルワースのことである。登山並みの登りはないにしても、上り下りの連続だ。鳥や野生の動物はいたるところにいるが、敵意のある存在は感じられない。時折、背の高い樹木の木漏れ日がすべて遮られ、ふと暗闇に包まれる時もある。頭上を見上げると、たいてい大きな雲が流れていくところであった。
 この深い森の中に、本当に賢者の家があるのだろうか? 一行が不安に思い始めたころ、ようやくあたりが開けてきた。

「これが賢者様の家なの? まあ素敵じゃない!」
 ローズはすっかり気に入ったようだ。すっかり年相応の少女に戻っている。
「こんなとこに住んでるなんて、やっぱり変わり者だな。これじゃ郵便配達が大変じゃないか」
 とカミオ・フォルティゴ。しかし郵便配達人という職業柄、奇妙な住まいは見慣れているので、口で言うほど驚いてはなさそうである。
「でも、街中よりはよっぽど落ち着いて住めるのでは」
 とは、自身も長らく人里離れた場所で過ごしてきたエルム。

 彼らの前に現れたのは、森の中の湖。中ほどにある小島には一本の木が生えているのだが、その枝先からは煙がたなびいているのだ。木が家なのか、家が木なのか。ともかくもこれがモースの家らしい。
「船がありましたよ!」
 湖のほとりの桟橋にもやわれていた小舟にルイン・ディル・オークが気づいた。実は彼は盗賊として生きてきた時間が長い。今回の話にも、《竜の牙》をあわよくば……という考えでのったのである。ディルワースからはひとり、賞金の独り占めを夢見て森を目指したのだが。
「いってぇコラ、クラッカー! 貴様邪魔すんなって何度言ったら……いてててっ!」
 お供、というにはやや態度が大きい赤オウムの、心からの説教に、しぶしぶ協力を願い出たものである。もちろん彼とて世渡りのすべは身に付けている。先のような口汚い言葉遣いは、けっして人前では見せることはない。

 小舟と言っても、乗れるのは二人がせいぜいだろう。軽々と水辺まで降りた少年は、さらに目ざとく、小島まで続いている飛び石を見つけた。首と腕にはめている金色の輪が、健康的な肌の色に映えてきらりと光る。
「ちょっと待て。船がこちら側にある」
 どちらが先に小舟に乗るかでもめているリュカ・シー・オーウェストとルインを制し、オシアンが無表情に言った。黒ネズミのアフリートをとまらせたままの杖で、木製の船をついと押す。ちゃぷん、と音をたてて、小舟はゆらゆらと水面をさまよいだした。
「賢者様はお留守かもしれぬぞ」
 オシアンの物言いに、リュカが反論する。
「なんでぇ? 煙があがってるじゃん」
 そのすきにルインは素早く小舟に乗り込んでしまった。彼の連れている赤オウムが何事かわめいている。オシアンは頭が痛くなるのを隠せない。
「ちぇっ、ズルイやあいつ。手柄を独り占めする気だ!」
 リュカの脳裏には、ルインがひとりで賢者に会いに行き、お姫様の病気を見事に治して超有名人になっている姿がまざまざと浮かび上がる。負けてなるものか、と飛び石にかけよるリュカの、大ぶりの耳飾りが揺れる。

「手柄……手柄ってなんのことかしら」
 不思議そうにイコ=ラッテが首をかしげた。彼女は表だってはあまり言えない、盗賊の一族出身だった。同業者の勘でルインのことは何となくわかるのだが。もっとも盗賊の家系とはいえ、イコは金儲けには興味はなかった。今回賢者を訪ねようと思ったのも、純粋に《竜の牙》に対する好奇心からで、それを自分のものにしようなどとは想いもよらなかったのだ。
「少なくとも、賢者様のご都合もお伺いせずいきなり訪ねる非礼を、手柄とは言わぬだろうな」
 と、クーレル・ディルクラートが静かに答える。この魔導操師は、必要以上の他人の干渉を好まない。賢者がひとりで住んでいるのなら相応の理由があるのだろう。自分達に都合よく会ってくれるとは限らない。少なくとも、こんな私的な理由では。
「そ、そうですよね……」
 こわい顔の青年二人に挟まれたイコは、緊張しながらつぶやいた。3人が見守る中、ルインは意気揚揚とオールを操り、小島へと漕ぎ出していく。リュカはふたつめの飛び石までの跳躍を成功させていた。

 カミオはリュカの後を追い、最初の飛び石にジャンプする。と。さっきまでそこにあった石が、突然消えた。
「えっ、うわ、うわっぷ!」
 着地点を失ったカミオは、派手な音をたてて湖に落ちる。
「へったくそ〜」
と、カミオの失態を笑うリュカに、カミオはもがきながら反論する。
「違う!この石、動いたんだ!」
「ヘン! な〜にを言ってる、単にアンタがのろまなだけじゃ……」
 リュカの言葉の残りは、足元の石とともに湖に沈んでいってしまった。

 岸辺でその様子を眺めている者たちの反応は二通り。つまり、慌てて助けにいく者と、面白そうに、あるいは我関せずと傍観している者。
 ルナリオンはもちろん後者だった。とっとと居心地のよさそうな木陰にはいるや横になり、愛用の枕に頬をうずめた。あくびまじりにつぶやいた言葉は、
「賢者さんが出てきたら、教えてね。ふわぁぁ……」
「出てこなかったら、ずっとここで眠ってるつもりなのかな?」
 すうすう寝息をたてはじめている少女を見て、ソロモンが肩をすくめた。アーシュ・ノワールがソロモンの視線につられてルナリオンを見る。
「いいんじゃねえの。彼女寝るのが好きなんだろ。寝るのが仕事みたいなモンか」
 アーシュが答える。そういえば、ルナリオンは騒がしいのが苦手だ、と洩らしていた。酒と宴会が大好きなアーシュにしてみれば、飲ませたらこの子はなかなか面白そうだと思うのだが。
「どんな夢見てんのかねェ」
「ていうか、よくこんなとこで寝られますよねー。私だったらこの状況ではとても」  ソロモンはやはりあきれ顔である。

『きゃははははっ』
『スッゲーおもしろいぜぇーー』
『今の見た? アイツらおぼれるトコ!』

 けたたましい嬌声が、どこからか聞こえてきた。油の切れた機械のような、抑揚のない、けれども音というよりそれはたしかに笑い声なのだった。
「何だ? 誰だっ」
 アーシュはうれしそうに槍を構え、ぐるりと周囲を見渡した。ぺろりと舌なめずりする。
「なんか出るんじゃないかと思ってたのさ、さーあ、来るなら来い!」
『あははっっはっはっ、バッカじゃね〜ノ?』
『あんな槍、見たことないよ! きゃははは』
『キット、古〜い古い武器なんだゼー』
 ぷちんとアーシュが切れた。
「バッカ野郎、こいつは俺の自慢の槍だ! お手入れも欠かしたことねぇ新品同様だぁぁ!」
 ぐるんぐるんと槍を振り回すアーシュの横で、ソロモンが身を縮める。
「ちょっとアーシュさん! 落ち着いて、落ち着いて。賢者さんの番人じゃないでしょうか?」
『ケンジャ? あーあんたらモースに会いに来たノ? ダメダメ、帰りな!』
『モースは忙しいんだよ、きゃははは』
『仲間がおぼれてるけどイイのーー? 次は誰が泳いでくれるノーー?』
 湖からふたつの水柱があがる。カミオとリュカが吹き上げた水だ。二人はどうにかおぼれずにいるらしい。しかし小舟を漕いでいるルインも転覆した様子。
「ああもううるさいなあ! 邪魔しないでよ眠いんだからっ」
 半分寝言のようにつぶやいたルナリオンは、猫型まくらを小脇に抱えると、魔法の呪文をぶつぶつ呟く。
「くらえ夢魔法、これでうるさい奴らもおねんねしてよね、もう……ふわぁあ」
 だが、あくびまじりの魔法は効果をあらわさない。またもや嬌声が響く。
『夢マホーだってさ』
『効くわけないじゃないノ、きゃははは』
『こーんなトコで眠ってるほうが悪いんじゃないかーーー』
 ようやく姿を現した声の主は、小さなからくり人形たちだった。きいきいわめきながら自在に動けるものらしい。背丈は膝下くらい。意外な相手に、アーシュは槍を構えたまま動きを止めた。
「なにコレ……もういい。寝る場所変える」
 面倒になったルナリオンは、魔法を一発放っただけでまた昼寝に戻る。
『ナンだよ、せっかく出てきてやったのにサ! 張り合いないじゃないか!』
『もーいいや、つまんないからカーエロ』
『かえろかえろーーー』
 人形たちは器用にぴょんぴょんと飛び跳ねると、カミオとリュカをも踏み台にして湖の中の小島に消えた。

 そして人形たちと入れ替わりで、小島からやってきた人物がいる。背の高い青年だ。彼は湖の上を歩いて、こちら側へと渡ってきた。性格には、その青年が歩く部分だけ、水が引いているのである。ルインのボートはすとんと湖に着艇し、リュカとカミオも、水を吸った衣服のままどすんと落ちる格好になった。
「やけに騒がしいと思ったよ、子猫ちゃん?」
 真っ白の長衣に身をつつみ、波うつ金髪は胸までもある。前髪を物憂げにかきあげながら、彼は一行を眺めた。
「ここは僕の庭なんだよ。こんな所まで迷い込んできた、その訳を聞かせてほしいな、かわいい子猫ちゃん?」
 彼の視線は、とりわけ女性の上で長く留まっているように思われる。
「……いやいやいや、キミ自身は気づいていないかもしれない。でも僕にはちゃあんと分かっているんだよ。キミは……そう、ある日突然、僕の顔が脳裏にやきついて離れなくなった。違うかい? 僕に会いたい一心で、この広い《大陸》でたったひとり、僕を、僕自身を捜し当てた……そうだろう?」
 レイス、ジェラ、イコの上をゆっくりとさまよった青年の視線は、華麗なウインクをエルムに決めた。修行僧であるエルムは何も言わず、ただそれを薄緑の瞳で受け止めた。得意の毒舌はまだなりをひそめている。青年の言葉はよどみなく流れ続ける。
「そしてようこそ僕の庭へ。もう大丈夫だよ、子猫ちゃん。僕はいつだってキミを歓迎する。もちろんさ。ね、長い旅もここで終わりさ、分かるだろう? だって僕たちは、ここで出会うことができたんだから……」
 青年はきざったらしく金髪を払うと、今度はローズの目をじっと見つめた。
「かわいそうに、キミの心が泣いているのが分かる。キミには誰か大切な人がいるんだね? ああ、子猫ちゃん、キミはなんて強く、愛らしいんだ。その涙が、可憐なキミをよりいっそう世界の中で輝かせているんだ」
 ローズは大きな緑色の目をぱちくりさせている。
「キミのために、とっておきのスイーツを準備させよう。キミが思い描く甘い夢からできた砂糖菓子。もちろん僕がそれを一さじずつ、キミのその薔薇のつぼみのような口に運んであげるから」
 白衣を静かにひるがえすと、青年はその両手でゴドとベネディクトン・ヴァリアントの肩を抱いた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。人違いだと思うのだが」
 ベネディクトンが肩に置かれた手をはねのけ、否定する。滅多なことでは動じない自信があったベネディクトンだが、さすがにこういう攻撃には慣れていなかった。
「はうっ……そ、そうなのです……ウチ、その、あなたがお探しの子猫ちゃんじゃあないです……」
 内気なゴドはひたすら小さく縮こまる。白い肌を上気させながら青年の顔を見上げ、やっぱり知らない人だ、と首を横に振る。
 青年は大仰に両手をひろげ肩をすくめてみせた。どこかこの状況を楽しんでいる風であり、悲しげにも見える。
「やれやれ、僕の言うことを信じてもらえないのかな? そんな悲しいことを言わないでおくれ、子猫ちゃん」

「だから、私はお前など知らぬ。私たちはたまたまディルワースの街で知り合ったのだ。だが、お前の知り合いだと言う者はいそうにないぞ」
 ベネディクトンが低い声で答える。長身の彼女も見上げる位置にある青年の顔は、優しい微笑をたたえたままだ。 
「それともお前が誰かを探しているというのなら、できるかぎりの協力はしよう……私たちは皆、この森に住む賢者を訪ねてきたのだ。その用がすんだら、お前の尋ね人探しに協力すると約束しよう。だから、もし知っているなら教えてくれ。賢者モースにお会いするにはどうすればよいのだ?」
 青年の腕がつと伸ばされて、ベネディクトンの傷だらけの頬に触れた。
「子猫ちゃん、キミはもう僕の目の前にいるのに、まだそんなことを言うのかい?」
「も、もしかして賢者モースさんって」
 きざな青年はゴドの頭に手をおいてなでなですると、にっこり微笑んだ。
「だから、僕の庭にようこそって言っただろう? これで僕のこと信じてくれるかい?」
 男性陣はすっかり蚊帳の外だ。ルナリオンが寝返りをうった。

 とにもかくにも、一行は賢者たる青年の家へと入ることを許された。そこは、家というよりむしろ実験室のような場所だった。天秤、ランプ、そのほか不思議な道具がところせましと並び、色とりどりの煙を吹き上げている。大鍋はぐつぐつと音をたてていた。壁にはたくさんの書物と薬瓶が並んでいる。 ずぶぬれの旅人には乾いた衣服が用意されたが、それを運んできたのは小さなからくり人形たちだった。続いて一行の人数分のお茶が、お茶くみ人形によって運ばれてくる。冒険者たちは目をまるくしながらそれを眺めた。ここまでの高度な魔法は、広い《大陸》でもめったにお目にかかれない。
 オシアンは堅苦しく一礼し、持参した包みをモースに渡す。
「ほんの手土産ですが、モース殿はこれが何よりお好きだと聞いております」
 中身はディルワース特産、色づき始めた大玉の林檎だった。
「なかなか感心な客だね。たしかにこれはディルワースの林檎。僕はこれが大好きなんだ」
 あらかじめ旅籠の女将から聞き出しておいた賢者の好みに、間違いはなかったらしい。モースはじっとオシアンの目を見、次に身をかがめて、オシアンの杖にしがみついている黒ネズミを見た。アフリートはついとオシアンの袖の中に身を隠した。モースはまた微笑むと、背筋を伸ばして一行を振り返り言った。
「それじゃ子猫ちゃん、キミの話というのを聞かせてくれるかい? シャッセちゃんが倒れたというのは本当なの?」
 
 口火を切ったのはローズ。
「そうなの! 《狂乱病》を治せるのはモース様だけって聞いたわ! ねえお願い、シャッセ姫を助けてあげてっ」
「《狂乱病》?」
 モースがティーカップを運ぶ手をとめる。
「どうかご助言いただきたい。《狂乱病》とはこのディルワースの風土病と聞いている。私はあてどのない旅の身だが、困っている者はなんとかして助けたいのだ」  と、ベネディクトン。
「そう、それがお姫さまとあればなおさらよ。ね? モース様なら《狂乱病》についてご存じなんでしょう?」
 胸に飛びウサギを抱いたジェラ・ドリムが、彼女の言葉に同意する。
 ゴドは黙ったままだったが、じっとモースの顔を見つめていた。賢者はにこやかな笑みを絶やさず、彼らの話に耳を傾けている。
「あっ、あのう……なにか治療に必要な薬があるなら、私、お手伝いします……」
 おどおどしながらイコが言う。まだ見ぬシャッセ姫は、イコと同じ17才。それを知ってから彼女は、お姫さまのことが他人事だと思えない。
「そうだよ、薬とか、調合に必要なモノとかさ、あったら遠慮無く言ってくれよ!」と、アーシュが片手に力こぶをつくってみせる。

 エルムが一礼し、続けた。
「シャッセ姫が本当に《狂乱病》なのかどうか、専門的な医術の心得がない私にはわかりかねます。しかし貴方が診察にお越しいただければ、きっと街人も心休まりましょうし、姫君のお力にもなるのではありませんか? さしでがましいかもしれませんが、どうか一度姫君の元へ」
 モースはエルムの言葉に軽くうなずいた。一瞬エルムは、モースの碧眼に何か奥深いものを垣間見たと思った。心なしか左手が熱いような気がする。
「シャッセちゃんが高熱に苦しめられているなら、その熱はやがてさがるだろう。うわごとをつぶやいたり、幻覚を見たりするとも聞いているね。そんなことはないのかな?」
 モースはティーカップをからくり人形に渡すと、ゆっくりと立ち上がった。
「《狂乱病》は、ディルワース地方にだけしか見られない、不思議な病気だよ。不思議で、そして恐ろしいんだ」
 そして今にも泣きそうな顔で立っているローズの肩に手を置き、こう付け加える。
「でも泣かないで、子猫ちゃん。僕は約束しよう。キミとシャッセちゃんのために、できる限りのことをするとね」
 なぜって、それをキミが望むから。
 モースの最後のつぶやきは、ローズではない誰かに向けられたもののようだった。
「もしも《狂乱病》だったら、どうすれば治るのさ?」
 両手を頭の後ろで組みながら、アーシュが尋ねた。
「もしも《狂乱病》だったら……かい? そうだね、僕にできる限りのことをするしかないよね。そしてシャッセちゃんに、できるかぎり闘病してもらうしかないんだよ。食事をとるのは辛いはずだから、果汁があればいいな。そう、林檎とか。今のところは対処療法しかない……しばらくは、林檎、林檎、林檎。そして様子を見ないとね。子猫ちゃん、林檎は君の大事な人にも効くと思うよ」
 ローズはこくんとうなずいた。

 ここまでちょうど一日がかりの距離だったこともあり、一行はモースの家で一晩を過ごすことになった。翌日モースはディルワースの城下を訪れると約束した。夕飯の支度は、なんとからくり人形の仕事であるらしい。その様子を見たり、賢者の機嫌を損ねない程度に家を探検したりと、めいめいが思い思いにくつろいでいた。
 郵便配達人カミオは、闇と同化してゆく暗い森を眺めながらモースに尋ねる。
「ねえ、賢者様。賢者様は一人で暮らしてて寂しくないの? 誰かに手紙出すなら僕が引き受けてあげるよ?」
 カミオは愛用の大型ハンマーをモースに示す。消印になる、彼の仕事道具だ。
「そうだね、それじゃあ、僕のお願いを聞いてくれるかい? 古い友人への手紙なんだけど」
 モースはさらさらと手紙をしたためた。カミオは目にもとまらぬ早業で消印を押すと、宛名を確認する。
「……ふうん、《精霊の島の学院》かあ、りょうかーい! ここの学院長に届ければいいんだね? まかせてよ」
 カミオがその手紙をかばんにしまおうとしたとき、血相変えて突っ込んできた少年がいた。リュカだ。カミオの胸ぐらをつかむ。
「オマエ今、《精霊の島の学院》っつった? マジで?」
「うん、今度の手紙の配達先なんだ。なんだよリュカ君、僕の仕事邪魔するつもり?」
 あくまでもマイペースなカミオは動じない。
「僕がお願いしたんだよ、子猫ちゃん。《精霊の島の学院》の、《獣の学派》宛の手紙をね」
「仕事……あっそう。イヤ、別になんでもないよ。悪かったな」
 リュカがうなだれた拍子に、耳飾りがしゃらんと音をたてた。そしてふと、思い当たる。賢者モース。どこかで聞いた名前だと思った。
「もしかして、《獣の学派》一優秀だった学者って……アンタのコトかぁ!?」
 何を隠そう、リュカ自身が《精霊の島の学院》の学生なのだった。もっとも、素行に問題ありということで、退学処分になりかけの身なのだが。いくつか派閥があるなかで、リュカの所属する《獣の学派》は一番力を持っていた。それは過去に優秀な学者がいたからだと教えられていた。
「それはね、もう随分昔のことだよ。確かに僕は、一度だけあそこで教鞭をとったことがあるけれども、ね」
 つかの間、モースは遙か彼方を見晴るかす。まるで、この森の向こうに《精霊の島》が見えるかのように。
「リュカ君、賢者様の後輩なのかい?」
「うるさいっ! その話はするなよ!」
 《学院》の話は、リュカの劣等感を刺激する材料だった。モースはますますうなだれるリュカの髪をなでた。
「キミの一族のことを、僕はよく知っているよ。でもね、キミはキミの思うとおりに進めばいい。僕がちゃんと見守っていてあげるから」
「勝手なことばっかり言うなよ!」
 リュカはモースの手をはねのけると、やってきたのと同じ唐突さで部屋から出ていってしまった。カミオは一部始終を見て、何も言わない。ただ、《精霊の島の学院》に行き着いたときには、リュカの名前をその場所で聞くことができたらいいな、と漠然と思うだけである。彼は郵便配達人。一族の誇りを持って、人から人へ想いを運ぶ。運べないものはない……今のところは。
「さあ子猫ちゃん、キミもお休み」
 モースはカミオの背を軽くたたき、部屋を出ていった。

 実験器具に囲まれた部屋を見て回っているのはルイン、ジェラ、そしてイコ。ルインは赤オウム、ジェラは飛びウサギを連れているので騒がしいことこの上ない。
「見てください、これ一体なんだと思います?」
「うーん、何かと何かを混ぜているのね。綺麗な色だわ。魔法の薬かしら?」
「ええっと……うぅん、ごめんなさい。私、こんなの全然、わからないんです……」
「いいんですよイコさん。分からないのは私も同じですから。でもほら、もしかしてココをこう動かすと……」 
 ルインは後に続く言葉を、目を白黒させて飲み込んだ。涙目になっている。
「っ、げほごほっ……うう」
「大丈夫? 君さっきから、身体の具合がよくなさそうよ。もう休んだら?」
 ジェラが咳き込み続ける少年を気遣った。
 少年を縛る魔法のことは、まだ誰も知らない。赤オウムは知らん顔で頭上を飛んでいる。好奇心猫をも殺すというけれども、ルインを苦しめるのは彼自身の好奇心。そして、ほんのちょっとの出来心なのだ。
「心配、しないでください(げほげほ)。ちょっと持病の癪が」
「……ルインいくつ?」
「15」
「古いこというのねぇ……っていうか私と同じ年だわ。ふぅ〜ん、シャッセ姫といい、君といい、このあたりでは病気になりやすいのかしら」
 ジェラは見当違いの方向に想像の翼をはばたかせている。
『うう〜っ、なんだかオレサマのかわいい翼も、痛くなってきちゃったぜ、助けてくれジェラ! オレサマが死んじゃったら、ディルワースの林檎を家一つ分供えてくれ……』
「リラ、それ演技でしょ」
『なぁんでわかるんだよお……』

 クーレルも同じ部屋にいるが、少し離れたところから黙って彼らの会話を聞いていた。彼は一人で静かに物思いにふけることが好きだった。今、彼の目の前に掛けられているのは、古びた一枚の絵だった。
「ふむ、素描というところか。着色されていないし完成度は低い。保存状態は悪くないが……しかしこれは」
 描き上げられていたのは、紛れもない伝説の《竜》の姿だった。
「こ、これ、りゅう……ですか」
 いつの間にかクーレルの隣に、小柄なイコが並んで絵を眺めている。近眼のイコが大きな眼鏡を動かして見ようとしているので、そっとクーレルは半身をずらし場所を譲った。
「す、すみませんクーレルさん。ありがとうございます……」
「悪いが俺のことは姓で呼んでもらえるか?」
「え……ああっ、あ、そうですよね。私、なんて失礼を……ごめんなさいごめんなさい」
「いや。そう謝るな。名を呼ばれるのに慣れていないだけだ」
 クーレルは必要以上に謝り続けるイコに、かえって申し訳ないような気持ちになる。なるがそれを顔には出さない。かわりに言葉を続ける。

「本物の《竜》を見た者が描いた絵だとしたら、すごいことだな。《竜》は謎に包まれている。名をなんと言ったか、あの旅商人だって高い値をつけるだろうな」
「旅商人……ゴドさん?」
 イコの目に映るその絵は、描線が荒いながらも奇妙に迫力がある。これを手に入れるだけでも、金貨を積む者がいるのだろうか。自分にはただの絵に見えるけれど。ゴドにソロモン。自分の家族達は、この絵を欲しがるだろうか。

 そういえばゴドという女性も旅商人だったか。ソロモンのことを考えていたクーレルの脳裏に、イコと同じくらい低姿勢だったゴドの姿が浮かぶ。果たしてあれで旅商人がつとまるものだろうか。
「あのぅ、ディルクラートさんは《竜》について調べていらっしゃるのですか?」
「俺か? 俺はただ興味があっただけだ。このディルワースの二つ名《竜の通い路》と、《竜の牙》にな」
「私も、その、興味があるんです。ふ、不思議な響きなんだもの。《竜の牙》って……どんなものなんでしょうね?……って、ごめんなさい」
「なぜ謝るのだ」
 肩をすくめながらクーレルは、イコに自分の知るところを説明する。
「《竜》は絶大な力を持つのだと、書物で読んだことがある。それがまことがどうかは確かめようもないけれどな。その牙はどんなものでも打ち砕くという」
「そんなに強いものが、その、どうして……《大陸》から、い、いなくなっちゃったのでしょうか」
「け、賢者様がお描きになったのでしょうか」

「残念ながら違うのさ、子猫ちゃん」
 モースがソロモンとともに部屋にやってくる。ソロモンはこのあたりの伝説について賢者を質問攻めにしていたのだが、それならばということで彼は自分の実験室に説明の場を移したのだ。
「もしも僕に絵の才能があったなら、キミのその愛らしい顔を永遠に留めておけるのだけれども、ね。でも心配しないでおくれ。僕の心には、その笑顔はいつまでも焼きついているんだよ」
「これがさっきモース様がおっしゃってた《竜》の絵ですね。ふむふむ……なるほど確かにいい仕事をしている。名のある画家のものじゃないけれど、迫力がありますねぇ」
 ソロモンの商人らしい目利きにモースはうなずいた。
「これはね、もう思い出せないくらい昔にもらったものなのさ」

「《狂乱病》と《竜》に、何か関係がありそうに思うんですけど」
 ソロモンがふいに問う。
「どっちも、ここディルワースだけに見られるものでしょう? まぁ素人の憶測にすぎないといわれちゃえば、それまでなんですけどね。私はしがない旅商人ですし。だからモースさん、《竜》についてのお話を、もっと聞かせてもらえませんか」
 ソロモンは、様々な珍品を扱う旅商人だ。《竜》に関する品々をそろえたいという思惑もあってのことだった。
「それは俺も知りたい」
 クーレルのつぶやきに、モースはウィンクする。
「キミが知りたいのは、もっと違うことじゃないのかい、迷子ちゃん」
「……できれば姓で呼んで欲しいのだが」
 クーレルのつぶやきは、今度はモースに聞こえなかったようである。
「オーケイ、子猫ちゃん。僕の話をそんなに聞きたいんだね。でも僕は、《竜》についてもほんの少ししか知らない……それで許してくれるかい?」
 うんうんとうなずく一同に、気を良くしたのか賢者は語る。《竜》の力は虚無に通じる力。その翼は空を裂き、その牙はすべてを打ち砕く。
「クー……ディルクラートさんの言葉、あってたのですね」
「古い歌にもうたわれているんだよ、子猫ちゃん。さて……昔々3頭の《竜》が、ディルワースにいたんだよ。彼らは《貴石の竜族》と呼ばれる一族の、最後の血を引く生き残りたちだった。いまはもう定かではない理由によって、彼らは滅んでしまったのだけれど。でもね、彼らの身体の一部は滅びずに残ったといわれている。どういうことか分かるかい?」
「金貨1万枚ですね?」
「そんな話になっているの? 残されたのは《竜の牙》……彼らの牙は文字通り、強力な武器となるんだって。でもね、子猫ちゃん。この僕もそれを実際に見たことはないんだよ。ただそう伝え聞いているだけなのさ。ごめんね、ふがいない僕で」
「どんな力があるにせよ、そんなのがディルワースにあるって分かったら、他の国が手に入れようとしたりしないのかしら? 強力な武器なんでしょう?」
 神妙な顔つきのジェラ。彼女の思いは、ふと故郷に帰る。
「そうかもしれないね。きっと領主のことだから、国ひとつよりもシャッセちゃんの命をとったんだろうね。僕にもその気持ち、たぶん分かると思うな。大切な子猫ちゃんに、何かしてあげられることがあったらね」
「ディルワースは《大陸》の端っこですし、《大吊り橋》で中部とは隔てられていますから直接的に戦争に結びつくことはないと思いますが」
 ソロモンがジェラを慰めるように答える。
「でもやっぱり、《竜の牙》があることで暗黙の不可侵条約が成立しているのかもしれませんから、《竜の牙》を狙う人がいるのかもしれませんね。……て、あんまり慰めになってなかったですね」
「か、仮定が多すぎる話だと、思いますの……」
「《狂乱病》がもしも《竜》と関係があるならば、《竜の牙》を入手してみる価値はあるんじゃない? ねえ賢者様、その秘宝、私たちにも見ることはできるのでしょうか?」
「シャッセちゃんに会って、お願いしてみることだね」
 モースはジェラの蒼い瞳をのぞき込む。
「でも僕ならば、子猫ちゃんにはそんな危険なものを渡したくはないな」
 またクーレルに向き直る。長身のクーレルとモースが並ぶと、彼らはよく似ていた。片や、黒の長髪を結び、褐色の肌と端正な顔立ちのほとんどをローブで覆っている魔導操師。片や賢者は、白のローブに波うつ金色の巻き毛。背丈も同じくらいである。
「迷子ちゃんの探し物のお手伝いをするのは、きっと僕じゃない。そんな気がする。……ああ、気を悪くしないでおくれ。僕はキミの行き先がとても気になるんだよ。キミがこの地を立ち去っても、僕はキミの夢を見るだろう。キミは僕の夢を見てくれないかもしれないけれどね。悲しいけど、そんなの慣れてる。だから今は、ひとことだけ伝えておくよ。キミはキミであるために、キミのふりをする必要なんてないんだ」
 ぽんと魔導操師の肩をたたいて、立ち去るモース。
「ディルクラートさん、お探しものなんですか?」
 おずおずと掛けたイコの声は、クーレルの耳に届いていない。彼はただ、賢者の真意をはかりかね、去りゆく白い背中を見つめるのだった。

「いい夜だね。あたし、こういうの好きだな」
 大きく伸びをしたルナリオンが、夜の森を背にひとり、湖水の際にたたずんでいる。彼女は夜を領分とする夢魔導士だ。静かな眠り場所を求めて旅をする。ディルワース、嫌いじゃないけどにぎやかすぎる。その点この森は、彼女の好みにあう場所だった。
「気に入ってもらえてうれしいよ、子猫ちゃん」
「あん?」
 あくびの途中で口をあけたまま、彼女が振り返るとモースが立っている。両手を腰にあててたたずむその姿は、黒い森と夜空のなかで、白く明るく浮き上がって見えた。
「賢者様も、うるさいのがイヤでこんな森に住んでるの?」
「ここが、僕のいるべき場所だからだよ」
 ルナリオンは小首をかしげ、あらためてこの賢者をとっくりと眺めた。蜂蜜色の髪が揺れる。モースは常に微笑んでいる。いろいろ考えてみたが面倒になったので、ルナリオンは愛用の枕をかかえこむようにして、水際にしゃがんだ。
「やっぱり、静かなほうがいいよね。あたし眠ってるの邪魔されるとすごーく腹立つの」
 彼女は、ついさっき見た夢を思い出そうとしていた。何かが邪魔をして、それとも何かが入り込んできて、自分の安眠は妨げられたのだ。左腕には、ちゃんと金の腕輪がはめられている。ルナリオンにとって、悪夢を払うなんて初歩の初歩、それこそ眠っていてもできるくらいたやすいはずだった。 
「キミの大切な大切な眠りを邪魔する奴なんて、許せないな。僕がキミの夢に入ることができるなら、どんなものからも守ってあげるのにね。約束するとも、子猫ちゃん。心配しなくていいよ。だからここでは、安心してお休み」
「……夢を、見たのよ」
 それはルナリオンがはじめて見る夢だった。
 なんと表現すればいいのだろう? まばゆすぎる光の中、ともいうべきところに彼女はいた。そこにはなにもなかった。なにもなさすぎて、彼女は目覚めてしまった。なにもない? もしかして光もなかったかもしれない。深淵の闇。それならば、この森と変わらない。
「いやな夢だったかい?」
 ルナリオンには分からなかった。ただ、感情を揺すぶられるような夢だった。
「気をつけるんだよ、僕の子猫ちゃん。キミの夢路はキミのものだ」
 そんなのあたりまえだ。ルナリオンは思った。そしてそのまま、次の夢の中に落ちていった。

第2章へ続く


第1章|死に至る病森の賢者マスターより