第2章|夢の少女と、少女の夢と無限のかたち支配するもの、されるものマスターより

2.無限のかたち

■Scene:影の行方

 ミゼルド神殿に仕える聖騎士イオの頼みを、旅人たちは快く引き受けた。まずはセイエスとともに手分けして、影にまつわる情報収集にあたることにする。イオの表情がふと緩み、一同に礼を述べた。
「本当に助かる。神殿の人手はそれほど割けないし、かといって少ない人数では、できることも限られていたからな。何か必要なものがあれば言ってほしい。できるかぎり準備しよう」
「ああ、そりゃありがたい話だが、今のところは特に、ねえ?」
 メルダ・ガジェットの問いかけに、一行はうなずいた。
「その影が、泣いているというのが気になります」
と、まだ影を見たことのないエルフィリア・レオニス。
「亡霊だったら、もっと人を怖がらせそうなもんだしね。確かに正体は気になる」
 ジャック・コーデュロイトは先日の騒ぎで影を相手にしたひとりだったが、思い出しても不思議はつのるばかりだった。彼の射た矢があたったと同時に、影はどれも抵抗せずに、すぐに霧散してしまうのだった。
「バウトさんにも、聞いてみるわ。向こうでも何か情報を握っているかもしれないもの」
 カリーマ・ルアンの意見に、バウトのことなら知っている、とイオがうなずいた。
「《精秘薬商会》の店主だな。彼のことは知っている。最近は神殿にも顔を出してくれるしな」
「意外と信心深いんだな」
 ハルが低い声で呟く。彼は、あの店主が神像に祈りを捧げているところを思い浮かべてみようとした。《大陸》のたいていの村がそうであるように、ハルの故郷の村には、小さな社しかなかった。神殿に足を踏み入れたのも、冒険者として旅立ってからだ。街の中に神殿があれば、自然と立ち寄るものなのだろうか。
「……あ、イオさんの気を悪くしてしまったなら、すまない。俺には聖職者すら珍しいんだ」
「いや、そんなものだ。神々が《大陸》を去って以来、神殿の扉をくぐる人の数は減る一方だからな。ミゼルドほど大きな街ともなればなおさら、銀貨の数を数えるのに忙しい人が多くてね」
 イオは苦笑する。
「だからバウトとはすぐ顔見知りになった。困ったときの神頼みではないが、彼にも何かかなえたい願いがあるのかも知れぬ。立ち入ったことまでもちろん聞く気はないが」
 ハルはあいまいにうなずき、《愁いの砦》の女神像に目をやった。この神像はそうやって、長い間人々の願いを聞いてきたに違いない。
「いずれ僕たちも、彼の力になれる時が来るでしょう」
 セイエスの言葉は、予言めいていた。

■Scene:神殿

「幽霊探し……! もうなにそれ、ほんと、このあたしが……ヒーッ……」
 リヴ・スプリングハートの腰が、完全に引けている。それでも手はしっかりと、セイエスの服の裾を握り締めていた。
「リヴさん、怖いのならこちらで待っていてもかまわないんですよ。イオさんも無理はするなと言いましたし」
 セイエスがかける声にも、彼女は首を振る。
「いいの。決めたの。怖いけど、頑張ることに決めたの」
 だって、食事と寝台にありつけるんだもの。
「ありがとう、リヴさん。それに神殿にいても、安全だとは限らないかもしれないですし、一緒にいたほうがいいのかもしれないですね」
「ヒ〜」
 セイエスが何の気なしに口にする言葉も、リヴの心を騒がせるばかりだ。取り立ててとりえのない、いたって普通のあたし。そんなあたしに、イオさんやセイエス君のお手伝いが、ホントにできるのだろうか。……きっと、できないに決まってる。だってそうだもの。できるわけないもの。
「護衛してやろうか」
 神殿前に残っているふたりに、ハルが声をかけた。イオやセイエスを手伝いたい気持ちはあれど、なかなか人付き合いは苦手だと自覚している彼にとって、彼らの護衛は丁度よい口実でもあった。
「怖いんだろ」
「いえ、その、あ、あたしなんかより、セイエス君を守ってあげてよ」
「……もちろんふたりとも守ってやるさ」
「そ、そ、それならいいんだけど」 
 リヴは体格のいいハルを見て、少し安心したらしい。
「で、どこで情報を集めるつもりだったんだ?」
 ハルは目の前の広場を見渡した。メルダたちは影が現れた場所を見に行くと言っていた。エルフィリアも、同じ場所に行くつもりらしい。カリーマは何か考えがあってだろう、ひとりでどこかへ飛び出していった。彼らなら、万が一の事態でも切り抜ける力はあるだろう。ハルはそう見ていた。一番危なっかしいのが、このふたりだ。
「そうね、そうよね。セイエス君、どっ、どこに行く?」
「はあ。ええと……うーん、こういう時って、何からはじめたらいいんでしょう」
 セイエスが、助けを求める瞳でハルを見上げた。
「手始めに、ここで話を聞いてみるのはどうだ?」
 ハルは頭痛がしてくるのを隠しながら、神殿のほうへと顎をしゃくった。
 弓を背負ったジャックの大きな背中が、ちょうど柱の陰に消えるところだった。

 ジャックはもう少し神殿で話を聞くつもりだというので、リヴたちも一緒について回ることになった。イオのつとめが一段落するのを待って、彼女からもう少し詳しい話を聞く。
「知りたいのは、まず影の騒ぎがいつ頃から起こったか。そして、過去の記録に、同じような事件があるかどうか、なんです」
「ふむ。何人かが噂話を始めたのは二月ばかり前だろうか。私自身が影に出会ったのはもう少し後だが、一月前には、聖地にあてて手紙を出した」
「はい。僕がここに来るまでに、2週間くらいかかりましたから」
 聖地の大神殿はかなり迅速に決断をくだし、セイエスを送りだしたらしい。イオは神殿の記録係を呼び出して尋ねるが、
「影が現れたという記録は、残念だが残っていないようだ」
 もちろん記録の類は自由に見てもらってかまわない、とイオが続ける。ジャックはふんふんとうなずきながら、メモをとった。
「何かきっかけとなる出来事が、二月前、あるいはそれ以前にあったはずではありませんか」
「一見関係なさそうなことでも、つながりがある場合がある」
 ハルが低い声で言った。まだ小さい彼を連れて旅をしながら、同じ冒険者だった母親は、よく謎解きの考え方などを教えてくれたものだった。
 長身の彼らの背丈は、セイエスの頭ひとつ上になる。ふたりが話しているのを見ていると、セイエスは自分が子どもになったように思えた。ジャックが端正な顔立ちをしているのに対し、ハルはどこか野性の荒々しさを感じさせる。金髪と赤毛も対照的なふたりだが、ともに弓を得手とする冒険者どうしだ。
「影の出現は、何か大きな出来事の一部かもしれない」
「それならば、たしか同じ頃に起きた事件がありました」
 記録係が、分厚い書物の1頁を広げて示した。 

 神殿に、泥棒入る。しかし神のご加護であろう、盗まれたものは何もなかった。

「確かに影が出没する前は、この出来事で頭が一杯だったはずなのだが。この出来事も奇妙といえば奇妙なのだ。盗まれたものは何もないのだから」
「……たしかに、盗賊が好んで盗みそうなものはありませんしね」 
「次の朝、あの神像の位置が少し変わっていたのだ」
 イオは祭壇の《愁いの砦》像を示す。
「それで賊が侵入したことが分かった。おおかた何かめぼしいものでも盗もうとして、神像にぶつかったのだろう。信徒たちは神殿の構造はもちろんよく知っているから、ぶつかることなんてないだろうしな」
「罰当たりな人もいるものね。よりによって神殿に盗みに入るなんて」
 リヴは嘆息した。
「そんなことがあってからも、特に扉に鍵をかけたりはしていない。誰かが祈りたいときに扉を閉ざしているわけにはいかないから。それにその後、変わったことは起きていないし……」
 何か関係があるだろうか、とイオは順繰りに、一同の顔を見渡した。

■Scene:女神の御座

 ジャックがノートを閉じて神殿を後にしてもなお、ハルとリヴは立ち去りがたく、セイエスとともに記録簿をさらいながら、とりとめのない話をしている。
「ハルさんは、女神に興味があるのですか」
 ハルの視線がしばしば神像に向けられることに気づいて、セイエスが問い掛けた。
「……駆け出しの頃、世話になった冒険者が時々、《愁いの砦》の女神さまや兄弟神のことを話していたんだ」
 ハルの語りは少しぎこちない。
「へえ、ハル君物知りね」
「よくバウトさんのところに泊まっては、冒険談をやりとりするのが、昔っから……彼女の流儀らしくてね。他にもいろんな話を聞いたもんだ。十字架に囚われた貴婦人の話とか」
「この女神さまも、なんだか囚われてるみたいに見えるわ」
 リヴも女神像に目をやって、独り言のように呟いた。
「ねえセイエス君、神さまに自由ってあるのかなあ」
「自由、ですか?」
 セイエスは急流に放り出された稚魚のような顔をしている。
「あたしたち人間に敬われて、崇められて、神さまたちは一生懸命お願い聞いたり救ったり……よくわかんないけど、あたしにはこの女神さま、自由があるようには見えないな」
「リヴさんには、リヴさんの言う自由ってヤツがあるのか?」
 ハルが振り向いた。わずかに語気が荒くなる。
「えっ……うーん……あたしは、踊り子なんて職業を選んでしまってるけど」
 それが自分に合っていないこと、エレインに小馬鹿にされたことを思い出し、リヴはひとり嫌悪の念に駆られながら答える。
「少なくとも自分で選んだ職業なわけだし、なんとかそれなりに……っていうよりホント、ギリギリやってきてるけど。女神さまはそうじゃないんじゃない。このポーズも、ほんとに女神さまが受けた苦難だけを表してるのかな……?」
「女神さまが実際に何を選んだのかは、女神さまにしか分からないだろ」
「ううん、そう、そうなんだけど」
 もごもごとリヴの言葉は口の中で消えた。
「兄弟神がお選びになった結果が、今のこの《大陸》なのです。もしも、はありません」
 セイエスが白い手でそっと神像に触れながら言った。
「選ばれなかったものを、今を生きる僕たちに量るすべはない……でも、おふたりの意見は僕にはとても新鮮でした」
「気をつけられよ、セイエス殿」
 新たな書物を手にしたイオが、厳しい顔つきでやって来た。
「……そなたの考えは、どこか危うい。女神の教えを忘れるな」
 はい、とセイエスは視線を落とす。女神の教えは、癒しの教えだ。《大陸》に満ちるものたちに心を開き、ゆめ閉ざすことなかれ。なんとなれば女神の鍵は、常に信徒のもとにあり、一切の愁いから彼らを守る砦こそ、女神の御座であるのだから。

■Scene:人心

 カリーマは、ミゼルドの街の地図をほぼ頭に入れていた。
「疲れたけど、街を歩き回っておいてよかったな。位置関係を把握できるし、うん」
 仲間同士組む者たちもいたが、彼女はあえて単独行動を選んだ。もちろん意図あってのことだ。
「それにしても今日も大市。明日も大市。細い通りは抜けるのが大変だなあ。影さんなら、するするくぐりぬけちゃえるんだろうけど」
 景気づけに屋台で林檎あめを買い求める。カリーマはすべての情報を手に入れる意気込みだった。

「黒い影? ああ、広場に出るヤツね。あれでしょ、《ハルハ旅団》の連中がやってるんでしょ?」
「そうそう、サーカスの宣伝じゃないの」
「気にしたことなかったな。確かに不気味だけど、それだけだし、子供だましって感じだね。どうせなら暗雲たれこめさせるくらいのこともしてくれないと」
 カリーマはぐっと眉根に力が入るのを、無理矢理こらえた。めげてはいけない。どんなインチキくさい噂も、全部聞き出してやるって決めたんだから。
「時間……は、まちまちだと思うがなあ、この前は朝っぱらだったよな? ……そう、やっぱりわしや家内が見とるだけでも、夜だったり昼だったりな。まあ朝は、見ている人も少ないだろうがな」
「せめて決まった時間にしてくれれば、役に立たないかしらねえ。何のって、ホラ、子どもを叱るときなんか……その林檎あめ、あそこの屋台の? ダメよ、子どもにはね、反対側の店で買いなさいって言ってあるの。あの屋台のは、林檎が小さくてねぇ……」
 めげてはいけない。
「そうだなあ、ひいひいひい……じいちゃんくらいの代からミゼルドに店を構えているけど、影が出てくるなんて話を聞いたのは、最近になってからだなー」
「ぐ、具体的に言うといつ頃からでしょう」
「神殿騎士のねーちゃんが、聖地に手紙を出したのが、いつだっけ? その頃じゃないの」
「同じ頃、ほかに事件はありませんでしたか?」
「あったら苦労しないよ。みんな大市の準備におおわらわだったな。今も大市で、おおわらわだけどな」
「……はあ」
 みんな、けっこう気にしてないみたいだ。何十軒めだかの店を辞して、カリーマは考える。
 これが商人気質ってやつなのだろうか。怖がってることは怖がってるけど、でもそれだけ。影が悪さをしていないから、みんな慣れてしまったのかもしれない。
 自分は怖がっていないことを喧伝すれば、影をおびきだすことができるかもしれない。そう考えていたカリーマはがっかりする。
 サーカスの宣伝説が有力なのにも驚いた。《ハルハ旅団》が来たのはついこの間だと。時期が合わないことくらい、誰でも気づきそうなものなのに。それとも誰か意図的に、《旅団》の仕業だという噂を流しているのだろうか。
「《旅団》の敵……いやいや、そんな人いそうになかったって、カルマ君やライ君が言ってたしなあ」
 カルマたちはサーカスを見に行くんだと言って、あれこれと騒ぎながら《旅団》の話を聞いて回っていたのである。
「影さんにしてみたら、張り合いのない話だな」
 自分たちが一生懸命やってるのに。と、ちょっと残念な気持ちになるカリーマ。
 イオさんも、こんな気持ちをずっと持っていたのだろうか。誰からも感謝されず、手伝ってくれる人もおらず。
「ちょっと休憩。バウトさんとこに行ってみよう」
 もしかしたら誰か、別の話を持ち帰ってきているかもしれない。

■Scene:影の跡

「街の地理なら分かるからね、今までに黒い影が出たって場所をあたっていこうじゃないの」
 メルダはルドルフを連れて、エルフィリアとともに街中を調べ回る。
「うちの店の方では、目撃はされていないようだね」
 地図につけられた赤い丸印は十箇所にも及ぶ。街や神殿で集めた情報から、影の出現場所を割出すつもりだった。
「出現場所に法則があれば、あたりをつけて先手を打つことができますものね」
 地図を見つめていたエルフィリアが顔をあげた。彼女は実際に、影に会ってみたかった。不思議と怖さは感じない。ただ会って、話せるものなら話してみたかった。
「万一の事態になったとしても、事を構えるのは最終手段だよ。ジャックと合流もしたいからね」
 メルダは必ず、影の出現場所には何か共通点があるに違いないと踏んでいた。地図を見る限りでは、出現場所どうしに関連があるようには思えない。等距離だったり、何かの近くに密集していたりはしていない。現地調査は、その法則の手がかりを探し、裏付けるためのものだった。
「あ、これ、ルドルフ!」
 目を離した隙に、巨漢は地図のあちこちに赤い印をつけまくっていた。メルダとエルフィリアの作業を、遊びと勘違いしたらしい。でたらめに印が増えた地図を手に、メルダは嘆息する。
「まったく、なりはでかいが中身は子どもだね。いまさらわんぱく坊主が増えたところで、ひとりくらいどうってことはないが。エルフィ、悪いがもう一枚地図をもらってきておくれ」
 これでも、あんたの鋭い感覚を頼りにしてるんだよ、ルドルフ。
 あんたの周りにはきっと、あまりにもあんたの価値を知らない奴らがいすぎたんだね。
 メルダはルドルフの手から、そっと赤鉛筆を取り上げた。ルドルフは、引きちぎられた鎖のついた足をぼりぼりと掻きながら、へらへらと笑っていた。

■Scene:《精秘薬商会》


 バウトとカリーマが話していると、ジャックも顔を見せた。相変わらず趣味の悪いドアベルが、不気味な音を立ててジャックを出迎える。
「へえ、うちが拠点なのか。考えたな」
 バウトはお茶を出しながら、ふたりの情報交換に耳を傾けた。
「イオさんには世話になってるからな、よろしく頼むわ」
「もちろんですバウトさん。それでですが、カリーマさん」
 ジャックに呼ばれて、カリーマはコップから顔を上げた。
「神殿の記録簿を見せてもらったら、気になる記述があって。一足先にこちらに来ることにしたんです」
 ジャックが調べたところによると、ミゼルド神殿にもうひとり、聖騎士が所属していたことがあったという。だが信徒の名簿から、その名は不自然に消されてしまっていた。
「……ミゼルドでは聖騎士の任命は行えないんでしょ。その人も、よその街からやってきたってことかしら」
「イオさんが来る前の出来事ということで、他の信徒にも聞いてみたのですが、その人のことは神殿では完全に秘密にされているようでした」
 ジャックは言葉を切った。昔からいる信徒たちは一様に、首を横に振ったまま固く口を閉ざしていた。何かあったことは知れるが、あくまでもそれは神殿の秘密ということらしい。イオがミゼルドに来たのは3年前だという。もっとも彼女がかつて所属していた街とミゼルド神殿の間には、何らの軋轢もなかったそうだから、異動は純然たるイオの意志らしい。
「その人、不祥事起こしたのかな」
「神殿から除名されているわけですからね。バウトさんはこの件、何かご存じではありませんか」
「……神殿の中のことは、俺たちには分からない世界だからな」
 バウトはちらりと東の窓に目をやり、再びジャックを見据える。
「そうですか、メルダさんに聞いても、きっと何も知らないでしょうね」
 ジャックは肩をすくめ、出されたお茶を飲み干した。
「それじゃあ調査に戻ります。夕方にはまた寄らせてもらいますね」
 あたしも、とカリーマも立ち上がる。店を出ようとする二人に、バウトはふと声をかけた。 
「なあ、もしも……女神のように救いの力を持っていて、苦難の道を選ぶことができるとしたら、あんたたちはどうする?」
 旅人たちは顔を見合わせた。バウトのほうは、やめた、忘れてくれと手を振って、それっきりだった。

■Scene:辻

 メルダとルドルフ、エルフィリアは、影の出現場所を順番に調べている。というよりも、ふたりの調査に、ルドルフがただついて回ると言ったほうが適切かもしれない。
 中央広場に始まって、あちらの通りから、こちらの通りへ。周辺の店を覗いては聞き込みを繰り返すメルダの後ろで、ルドルフはずっと彼女の真似を繰り返していた。メルダが腕を組む。ルドルフが真似をする。メルダがメモをとる。ルドルフも、メモをとるふりをする。エルフィリアはその横で、こわごわと大男の所作を見守っている。
「これ、ルドルフ! もうちょっと真面目にやっとくれ」
 メルダがあきれて振り返る。ルドルフも同じように、誰もいない後ろを向いた。
「メルダさん、ルドルフさんは真面目なつもりなんですよ、きっと」
 つい、とエルフィリアがメルダの服をひっぱった。
「ああ……」
「それと、いくつかの場所を見て分かったのですが」
 エルフィリアはほそい指を伸ばした。菫色の瞳が、まっすぐに何かを見つめている。
「どの場所にも、辻にあれがあるようです」
 街角には、背よりも高い位置に、通りや番地を示す金属板がはめこまれていたが、彼女の指はその上を示していた。年経て古びた、小さな小さな祠がしつらえてある。
「おや、見慣れすぎてて気づかなかったよ。あれは《愁いの砦》の女神さまの祠だね」
 言われてみれば、祠には金の鍵の絵が描かれていた。
「ほら、よく街道沿いにもあるだろう、安全祈願の祠ってやつ。ミゼルドではああやって、街中も女神さまに守ってもらおうって魂胆らしい。それにしちゃ、だいたい目にするのは女神さまの祠だけで、他の兄弟神のはないんだけどもね。あんなのどこにでもあると思っていたけれど……そうか、エルフィ」
 地図をのぞきこみ、またメルダは顔を上げる。
「あんたの言うとおりだ。確かに祠のある場所と、影が現れる場所は一致するね」
「次に向かう場所が決まりましたね。祠があって、まだ影が現れていない場所……」
「よし、ルドルフ、行くよ」
「ぐわあああ」
 大男は従順な犬のごとく、メルダに付き従う。 

■Scene:スラム

 剣士ジェシュは、スラムにある酒場に居候の身となっていた。頼み込んで有り金をはたいたのだ。
「物好きも極まれりだな、客人」
 店主はあきれ顔で、ジェシュを汚い小部屋へ通した。
「何も好きこのんで、こんな店に住み着くことはないだろうよ」
「ここには俺の知りたいことがあるようだからな」
 そう答えてジェシュは、背中の大剣を静かに下ろした。牢獄跡にたつ、荒くれのための安酒場。彼が不思議だったのは、この店主の居ずまいだった。
「強さを求めて旅をしてるんだろう。ここには、そういうものはないぞ」
「あるかないかは、俺が見て決める……そう困った顔をするな。迷惑をかけるつもりはない。ただ、知りたいだけだ。この店のことを」
 勝手にしとくれ、と店主は呟いて、店の準備を始めたのだった。

 ジェシュの生活は奇妙なものだ。一日中無手で型の稽古に励んでいたかと思えば、飲まず食わずで座り込む。肉体と精神を鍛え上げることに、彼の生活のすべてがあった。人生の半分を過ごしてきた山での修行を、ここでも繰り返しているようだ。
 まだ薄暗い早朝に、身体を動かしている時などには、よく朝帰りのスラムの住人が通りがかった。安酒で酔っぱらった人々と声をかわすのは、ジェシュにとっては興味深い経験だった。
「よお兄ちゃん、ずいぶん早いんだねえ」
 ろれつの回らぬ口調で、酒臭い息を漏らしながら、彼らは面白そうに話しかけてきた。
「この店に住んでるなんて、よしな。羽虫の巣になってるだろうよ」
「うちに来いや。なあに、屋根はないがなかなか快適だぜ」
 ジェシュは筋骨隆々の身体に流れる汗をふきながら、そんな申し出を断るのだ。
「俺は強い奴を探している。強い奴と戦い、強くなりたいのだ」
 もう兄ちゃん充分強そうじゃねえか。そう言って酔っぱらいたちは、楽しげにげらげらと笑う。
「ここの店主は、俺以上に強そうなところがある」
 ジェシュにとっては、強さという道を追求することに生きる意味があった。もともと重い口を開く時には、強くなりたい、とひとことで済ませてしまうのが常だったが、そこには彼なりの哲学がある。自分の決めた剣の道に殉ずる。たとえばジェシュがこれまで斬り合ってきた、求道者たちのように。その途上でたとえ息絶えても、それは是とされた。己の主人は、己の中にあるからである。
「そりゃあ奴は、もう何人も殺っちまってるからな」
 酔っぱらいは声をひそめた。
「あいつも故郷にいられなくなって、あちこち点々としたあげくミゼルドに逃げてきた口さ。この街はいい……俺やあいつにも、居場所があるからな。少なくとも自分の足で歩き、おてんとさまの下で暮らす自由がある」
 下卑た笑いを浮かべながら、それだけ言うと酔っぱらいは満足したのか、スラムの奥へと消えていった。
 そしてジェシュはまた、己の修行に励む。誰かを活かすためではなく、自分自身が生きるために。

■Scene:導き

 ルドルフが立ち上がり、鼻をひくつかせた。ぴくりと彼の眉が動く。ルドルフは全神経を集中し、影を追うことに決めていた。影を追いかけて、つかまえることができれば、イオが喜ぶ。メルダも喜ぶのだ。彼の全身が総毛だった。一瞬で彼の目が、野性の獣に変貌した。
「ルドルフ、追いかけとくれ!」
 彼の変化にいちはやく気づいたのはメルダだ。途端にルドルフの息づかいが肉食獣のそれになり、縄を解かれた狼のごとく駆けだしていく。彼の目が、黒い影の生まれ出る瞬間をとらえたのだ。エルフィリアの指摘どおり、今度も女神の祠の前だった。
「スラムでよかったよ、ここなら大市の店も観光客もいない。追いかけるには打ってつけだ」
 メルダは昔の籠手を持ち出してきていた。テスラ戦役での苦労を共にした戦友だ。手入れを欠かさなかった籠手は、変わらず鈍い輝きを放っていた。
「9年ぶりか、懐かしいねえ。またこいつを着ける時がくるなんてさ」
 牢獄跡と言われる石造りの廃墟の中を、ルドルフは走る。影を見失わないように、石を蹴散らし、石壁にぶつかって崩れるのも気にせずに、ただ追いかける。
 ジャックとカリーマが、彼らに合流した。リヴとハル、セイエスもそれに続く。
「やっぱり、こちらに向かっては来ません。影たちは、敵ではないのかも」
「気を抜かないで。この先に影の巣があるのかもしれない」
「……もちろん」
 ハルはセイエスとリヴを守るようにして、周囲に気を配る。だがその心を占めていたのは、先に飛ぶように駆けていった巨漢の姿だった。獣の心を持った大男。ハルの心の奥が、彼を見た時からどうしようもなくうずく。彼の孤独な心が、手に取るようにハルには見えた。

 人気もまばらなスラム街を、足並みをそろえて駆ける一同。ちょうど、ジェシュが大剣の手入れをしている前を通り過ぎる。ハルの脇腹をかろうじて留めていた皮鎧の紐が、ぱちんとはじけた。
「騒がしいな」
 眉をひそめるジェシュの隣に、無音でもう一体影がわいた。ジェシュと同じくらいの大きさの、いびつな人型だ。
「気をつけて!」
 カリーマが叫んだ。反射的にジェシュは飛びすさり、両手で大剣を構えて相手を見極めようとする。ジャックも背中の自動弓を準備するが、メルダの計画どおり、向こうが襲ってくるまで矢は射ないつもりだった。
「オオオオオ……」
 影の周囲に冷気が生まれた。追いかける一同の肌を冷たい風がなでていく。
「何だ、こいつは」
 ジェシュが切ろうと思えば、おそらく一太刀でそれは倒れると思われた。躊躇は、影の泣き声を耳にしたからだった。
 エルフィリアが駆けだして、影の前に進み出た。両腕を広げ、話しかけようとする。
「お願い、どうして泣いているの? 悲しいことがあるの?」
 影がエルフィリアの方を向き、彼女にゆっくりと近づいた。エルフィリアは震えながら、すくむ足を意志で押さえる。
「おやめ、エルフィ!」
 メルダが籠手をはめた手を伸ばした。影はゆっくりと、小柄なエルフィリアに覆い被さった。使おうと思えば、エルフィリアは魔法を使うことができた。けれど、彼女は準備をしない。腰より長いプラチナブロンドが、静かに黒い影をまとう。
「……ああ」
 今や影の中にすっぽりとくるまれてしまったエルフィリアの心に、すすり泣きが流れ込んできた。それは悲しんでいた。どうすべきか分からないいらだちに、嘆き悲しんでいた。
「どうしたの。どうしてあげたらいいの」
『眠りを……安らかな眠りを』
「安らかな眠り……誰かが、あなたの眠りを邪魔しているの?」
『……救いたまえ』
 影が少女を解放した。エルフィリアは知らず、両の目から涙を眺めていた。
「大丈夫? エルフィリアさん」
 カリーマが駆け寄って、彼女を介抱する。恐ろしく冷え切っていたものの、その様子に異状はないようだった。はあ、とカリーマが吐息をついた。
「やっぱりあの影さんたち、人間を傷つける力は持っていないのね。だとしたら、操っている奴がいるわけではなさそう」
「ええ。少なくとも、自分の意志のようなものを持っているみたいでした……」
 エルフィリアから離れた影は、スラムの奥、ルドルフが先に進んでいった方へと向かう。

「店主! これは、どういうことだ?」
 ジェシュが酒場に向かって叫ぶ。うろんな顔つきでやってきた店主は、おおよその話を聞くとこう言った。
「この先の廃墟の中に、地下へ通じる入り口がある。ミゼルドの地下には、でっかい迷宮が広がってるんだ」
「地下迷宮!?」
「そうだ。そのごく地上に近いところは、スラムの住民が仮住まいに使ったりしている。誰か怪しい奴が通れば耳に入らない訳はないが、そういう話は聞かない。だが何かあるとすれば……」
 店主は一同を、その入り口にまで案内した。ぽっかりと真っ暗な階段が、地下へ向かって伸びているのが見えた。
「かげ……はいった……ここ」
 ルドルフが太い腕を伸ばして示す。地下への階段は、ルドルフでも入れそうなほど、大きなものだった。一段の高さは人間のサイズだが、幅が広い。
「さっき、香料と塗料を混ぜ合わせた玉を投げつけた。まあ影が相手だし、消えちまうんじゃどうしようもないが、目印にはなっているかもしれない」とメルダ。
「どのくらい深いんだ?」
「わからん」
 店主は首を振った。何のためにつくられたものなのかも不明だという。
「と、とりあえず、イオさんとバウトさんには報告しなくちゃね。よ、よかったらあたし、伝えてくるけど」
 リヴがことさら明るい声をはりあげた。
「ね、セイエス君」
「は、はい」
 廃墟の全貌をとらえるように、セイエスは一歩後ろに下がってあたりを見渡した。
 かつては牢獄の門だったのだろうか、今はもう原型をとどめていないアーチの上に、小さくしつらえられた女神の祠が見えた。普段は遺跡の影となり、昼間でも薄暗いスラムの中で、はげかけた金の鍵の紋章だけが、高い日差しを浴びて鈍く光を放っていた。 
 

第3章へ続く


第2章|夢の少女と、少女の夢と無限のかたち支配するもの、されるものマスターより