第2章|夢の少女と、少女の夢と|無限のかたち|支配するもの、されるもの|マスターより|
3.支配するもの、されるもの
■Scene:薔薇
「薔薇の精油、薔薇の精油……あ!」
《精秘薬商会》から首を振り振り出てきたブリジット・チャロナーは、ちょうど罠師のジャグ=ウィッチと鉢合わせた。
「夕べはありがとう。あんたの調べものと関係あるかわかんないけど、御礼に精油の件、こっちで調べておいてあげるわっ」
ブリジットは相変わらずのハイテンションで、ジャグの仏頂面にウインクする。深酒も何のその。彼女の頭は、乙女心をくすぐるアイテム、薔薇の精油でいっぱいのようだ。腕をあげた拍子に、切れ込みの深い胸元がぷるんと揺れる。
「あ……そのことだけど」
ジャグは自分の荷物一式を持ったまま、戸口に佇んでいる。
「俺も手伝おうと思って」
ぼそりと呟いて、ジャグはそっぽを向いた。女性は苦手だったし、自分は夢の少女を追いかけるつもりだった。それがなぜ、また酔いどれトレジャーハンターに会いに行く気になったのか。
ブリジットの放ったせりふを、ジャグは忘れなかった。……お宝を見つけた時の感動も、そこに至るまでの謎を解いた時の爽快感も、分からない、だって? ジャグはぶるぶると首を振った。灰色の髪が揺れる。そればかりは、訂正したかった。
「あっそう」
ブリジットはあっさりと返す。どうせ夜には彼を探して、情報交換会という名目で一杯やろうと思っていたのだ。それに彼の装備一式からは、彼がそこそこ手練れであることが見て取れた。よもやブリジットの邪魔にはならないだろう。
「な、な、何だよ?」
「……どいてくれなきゃ、出られないわ」
ジャグはどこかむっとした顔つきのまま、使い古された麻のマントを翻して戸口を空けた。
「バウトさんにコレ借りたのよ」
得意げに彼女が取り出したのは、精油の小瓶だった。ブリジットの思った通り、《精秘薬商会》でも件の品を扱っていたことがあったのだ。小指ほどの瓶が、金貨を袋でやりとりするくらいの値がついていたものらしい。
「幸先いいな」
「残念ながら空き瓶だけどね。香りもすっかり飛んじゃってるし。でも、ラベル見てよ」
ジャグは革手袋をはめた手で、注意深く小瓶をひっくり返す。金で縁取りされた黒いラベルに、薔薇を模した飾り文字が書かれていた。
「読める?」
女性に精油だの香水だのを贈ったこともないジャグにはさっぱりだ。
「《ミゼルの庭》謹製、って書いてある。まあドメスティックブランドってことかな」
「??」
「そのラベル、初めて見たの。たぶん手書き。本当にミゼルドでしか流通してなかったみたいね。それに、《ミゼルの庭》っていうからには、このあたりで作られてるってことじゃない」
「ははあ」
ようやくジャグにも、ブリジットのいわんとしていることが飲み込めてきた。
「精油売りは、ミゼルド出身だったってことだな」
空き瓶ひとつで、これだけの情報を読みとるとは、トレジャーハンターの名は伊達ではないらしい。ジャグは足取り軽いブリジットの後ろについて歩きながら、彼女を少し見直した。彼女の口は休む間もなく、幻の薔薇の精油にまつわる妄想あれこれを語り続けている。
「特別な効果があったのかもしれないわね。何てったって、幻の精油だもん! バウトさんは錬金術の秘薬として売ってたらしいけど、それじゃあつまんないと思わない? きっと麻薬みたいにくせになっちゃったり、恋のおまじないに使えたり……ああ、気になるなあ!」
「……バウトさんは、精油をどこから手に入れたって?」
「忘れたって」
ジャグの眉根がけわしく寄せられた。ブリジットはひらひらと手を振り、付け加える。
「もちろん、そうよね。高価な道具の入手先を、商売人が忘れるわけないわ。あの人、何か知ってるのよ。だから」
ブリジットの足は、評議所の前で止まった。
「会長さんに聞いてみて、その後でバウトさんをきっちり問いつめてやることにしたの」 ジャグは目の前にそびえる豪奢な建物を見上げた。歴代の評議会長の像たちが、無言の圧力で彼らを見下ろしていた。
■Scene:街角
アルテス・リゼットは迷っていた。評議会長たちからもちかけられた話は、うますぎるくらいの好条件だ。期日までには時間があったのを幸い、彼はそれとなくこの件について探りをいれてみることにした。アルテスはまだ、大市で店を出すことをあきらめてはいなかった。
だが下手に動いては気取られる。あくまでも、こっそりと、ばれないように調査をすすめなくてはならない……でも、どうやって?
そうしてアルテスが何十回目かのため息をついたとき。
「おい、アルテス! この前は心配したんだぞ。あんただけ特別扱いで……別にうらやましくはないけど」
もう顔なじみのユズィル・クロイアの声だった。ハスキーな声が、無遠慮に投げかけられる。
「一体どうしちゃったのさ。冴えないよ、顔」
「はあ」
渡りに船。けれど余計なことを洩らして、ユズィルを危険にさらすわけにはいかなかった。確信ではないけれど、アルテスは自分が誰かに見張られていると感じていた。おそらくは、評議会のさしがねだろう。面倒なことになったものだ。
「ここじゃちょっと……」
「あ、そう」
ユズィルはすぐに話を飲み込み、あたりさわりない話を続けながら、《精秘薬商会》へと場所を移すことにした。
「しかし、知れば知るほど妙な街だね、ここは」
「ユズィルさんもそう思いますか」
女性にしては長身のユズィルは、付与魔術師と肩を並べてひとりごちる。
「妙なことが多すぎて、どれから手をつければいいか分からないくらいだ」
「ユズィルさんも、お店を出すんでしょう」
「そのつもりだけど、あたいは隠し事されるのが大嫌いでさ。できればこのもやもやを晴らしてから商売に専念したいんだけどね」
肩をすくめるユズィル。
「おや、バウトはいないのかい」
毎度怪しげなドアベルの音に顔をしかめたのもつかの間、ユズィルの目にからっぽのカウンターが映る。
「ご主人なら、仕入れに出かけましたよ」
明日には戻るでしょう、と手伝いの少年が答えた。
「まあいい、冒険者の連中も出払ってるようだね。ここなら大丈夫だろ、アルテス?」
「それが、詳しくは話せないんですけれど」
アルテスは声をひそめて、満月の夜に何かありそうだ、とだけ口にした。
「満月っていったらもうすぐだね」
「でもこれ以上言うと、ユズィルさんも僕も」
「狙われるって? 奴らのやりそうなことだね、怪しいったらない。わかったよ。下手に動かないと約束する」
ユズィルは自分の情報収集ついでに何か聞き出せたら、それを教えると約束した。アルテスは安堵する。
「あんたはあまり動かないほうがいいんじゃないか? 一番安全なのは、その日まで評議会長の部屋にいることだね」
ユズィルはいたずらっぽく笑った。
「か、勘弁してください……」
肩を落とし、うなだれるアルテスだった。
■Scene:評議所
「噂には聞いていたけど、趣味の悪い建物だなあ」
傭兵アーサー・ルルクは、きらびやかなその建物を目の当たりにして驚いた。彼はバウトの話を聞いて、結局評議会の依頼を受けることにしたのだ。自分の目で見てみなくては、真実は分からない。ミゼルドの街だって、こんなにも楽しげにみえる。他の旅人たちが言っていたように、本当に楽しいのか、そうでないのかは、自分で答えを出さなければならない。
アーサーは評議会長の部屋へ案内される間に、先のバウトとのやりとりを思い出していた。
「……評議会長に会ってみることにするよ。それで、私が結構使えるほうだと分かってくれたら」
彼は落ち着いた口調で、バウトに言ったのだ。灰色の瞳で店主を見つめる。
「君の話を聞かせてもらえるだろうか」
「使えるとか使えないとか、そんなふうには言わないでくれ」
それじゃあの会長どもと一緒だろ。と、カウンターのバウトは言った。
「俺はこんな商売をやっているから、人を見る目は曲がりなりにもあるつもりだ。けど……」
「けど?」
「もしもあんたに、誰かを救う力があったら……《愁いの砦》のようにね。そしてその力を使えば、あんたは苦しむことが分かっていたら、あんたはどうする?」
「なぞなぞかい? そうだなあ」
アーサーは腕を組んだ。バウトは、どこか遠くを見ているようだった。アーサーには傭兵として、少なからずの実績があった。けれど、そういうことではないのだろう。今はまだ、アーサーにはバウトの意図はつかめない。
「君だったら、どうするつもりだい?」
「……分からない。どうすればいいのか。俺にはそんな力はない。ただ、見ているだけしか」
「少し時間をもらおうかな。答えは夜でもいいかい」
「ああ……別に、いいんだ。たわいもないことだから」
そうして彼は、《精秘薬商会》を後にしたのだった。
評議所の会長室には、先客がいた。トレジャーハンターと罠師の、見知った二人組である。ブリジットは、とっておきのアクセサリーを手土産に用意してきたことが効を奏し、どうにか門前払いをくらわずに済んだ。会長たちの興味が連れのジャグに集中していたせいもあり、彼らの口は羽根よりも軽かった。
「《ミゼルの庭》の精油っていったらアナタ、別名三本足って呼ばれてたのよ。使い方? お酒に混ぜるもよし、お皿に落として燃やすもよし、あれは好評だったわねぇ」
オッジもパーチェも、身をくねらせてうっとりしている。案の定、会長たちは、精油の効果を身をもって体験済みのようだ。
「昔はバウトから買ってたのに、アイツときたら、仕入れ先は絶対に教えてくれないし……つれないのよね、昔から……最近じゃ手に入らなくなったの一点張りよ。もしもあれを入手できたなら、一番先に教えてちょうだいね。誰よりも高く買ってあげるわ」
「できればジャグちゃんが、アタシたちのところに売りに来てね。すぐに効果を試してあ・げ・る」
会長たちは、ひげのそり跡も濃い頬を、ぞりぞりとジャグに押しつけた。青年は悲鳴をあげそうになるのを、懸命にこらえる。その顔は、自分を人身御供に差し出したブリジットを情けなくにらんでいた。ブリジットは終始にこにこと満面の笑みをたたえ、調子よく、若いつばめ談義に花を咲かせていた。
「アーサー・ルルク様です」
警備係が、アーサーを会長室へと通す。その後に起きたのは、アルテスの時とほぼ同じ。違うのは先客がすでにいたことだった。
「「まあ、アーサーちゃん、ようこそ!!」」
中年親父の野太い声のハーモニーに出迎えられ、アーサーは思わずたじろいだ。
ジャグは会長頬ずりの刑から解放された瞬間に、猛ダッシュでブリジットの手をつかみ逃げ出した。聞きしにまさる破壊力。バウトが彼らを嫌っているわけが、少し分かったような気がしたアーサーだった。
会長たちは彼の全身を舐めるようにチェックした後、満足そうにこう言った。
「アーサーちゃんにも、ぜひお願いしたいわ。例の件」
「そうね、そうね、もちろんそうよね」
「自警団の仕事ももちろんあるんだけど、かわいいアーサーちゃんには、別の仕事をお願いしたいのよ。いいでしょ?」
アーサーはごくりと息を飲んだ。
その後。道端の水飲み場で、ジャグは何度も顔を洗い続けた。やっぱりブリジットを誘って、サーカスでも見に行けば良かった……後悔、先に立たずであった。
■Scene:もうひとつの街角
少年ミュシャは、今日も元気にミゼルドを駆け回っている。先日起こしてしまった騒ぎのことは、しっかり反省していたので、あれ以来へまはしていない。時折、例の大男やその仲間を見かけたが、その度彼は姿を隠してやり過ごしていた。
また彼は、勇気を出してあちこちあてをたどっては、評議会が雇った人間について調べていった。会長たちは《精秘薬商会》のバウトにそれなりの信頼を置いているらしく、彼の紹介した冒険者たちは、周囲からもその働きぶりが認められていた。
「そうだよね。カリーマさんとか、助けてくれたもんね。あの人たちは優しかったなあ」
ミュシャに言いがかりをつけてきたような荒くれたちは、バウトの人脈ではなく、会長たちが独自のつてで招いたのだという。冒険者と呼ぶにはあまりにも柄が悪く、目の余る振る舞いに、酒場の主人や食堂のおばさんたちも、そろって頭を痛めていた。
「会長たちが自分で呼ぶなんて……一体どんな仕事をしているんだろう?」
少年はいぶかった。自分の記憶と、街の人々の話を合わせてみると、荒くれたちがやってくるのは毎年大市が始まるころらしい。市が終わると、彼らの姿もミゼルドから消えるのだった。
「何か秘密がありそうだな」
何とかして荒くれの鼻をあかすことはできるだろうか。ミュシャはそのすべをあれこれと思い浮かべながら、ミゼルドの街を歩き回っては「お仕事」に手をつける。
「えへへ、やったあ!」
人混みをすり抜けるようにして、ミュシャは裕福な商人のふところを狙った。時々は財布の代わりに、土産袋のミゼルドまんじゅうなんかも拝借しては、おやつがわりにいただいていた。
「きなこ餅味〜。ん、おいし。これ、パン屋のお姉さんも気に入ってくれるかな」
パン屋の屋根裏に居候の身であるミュシャは、ほんのりとそこのお姉さんのことを思い浮かべる。もぐ。もう一口頬張ったミュシャは、ふと自分を見つめる視線に気がついた。
「……もしかして、盗賊団かな!?」
小柄な少年の全身がこわばった。彼はかつて、盗賊団に身を置いていた。今のミュシャがミゼルドで行っているような、かわいらしいスリなどとは比べものにならないくらい、その盗賊団は残忍に周囲の街を荒らし回っていた。彼らがミゼルドに戻ってきたならば、ミュシャは彼らのための道をつくらなければならない。そのために盗賊団は、ミュシャをミゼルドに残していったのだ。
暗い青緑色の髪を少しだけ揺らして、ミュシャが振り返る。
「あ……!」
見つめている視線の主は、小さな子どもだった。長く波うつプラチナの髪が、ミュシャの視界に飛び込んできた。りぼんとフリルのついたドレスと、細い首にかけられた、銀色の鳥笛も。
「……l……a」
セレンディアは小さく唇を奮わせて、悲しげにそれだけ口にした。
「君、確か」
確か、ガジェット商会の。ミュシャは立ち上がると、セレンディアの細い肩をつかむ。その時不思議な光がひらめいた。とっさにミュシャは手を離し、光から目を背けるように身をひねった。
……ミゼルドの南方、街道をそれたところに待機している騎馬の盗賊団。
……大きな幌をつけた馬車。
……幼い子どもを抱き、一人戦う戦士の姿。
……子どもをさらう大鷲。戦士の屍は、眼下にぐんぐん小さくなってゆく。そして。
……「どう考えても、やはりあなたは……いや、すぐに家族になれなんて、強いるほうが無理を言っているんだな。ごめんな。無理をさせてしまって」
「待って、君……セレンディア、君は」
少女の姿は、雑踏の中に消えていた。光が見せた幻影の中には、ミュシャの見知った風景があった。大鷲にさらわれた子どもの姿は、ミュシャの心をちくりと刺した。最後のせりふは、誰かがセレンディアに向かって言った言葉だろう。その人の言葉は、セレンディアに届いているのだろうか。
「ボクも、キミみたいに、誰かに助けてもらえたらよかったのに」
生まれたばかりのミュシャを拾って育て上げたのは、かの盗賊団だった。彼らが来ているなら、出迎えなければならない。もちろん、《ミゼルの目》をかいくぐって。ミュシャは唇を結ぶ。
「調べなくちゃ。《ミゼルの目》のことを」
あの時助けてくれたルドルフさんに、きちんと御礼も言いたかったけれど、言えるだろうか。言えるチャンスは、来るのだろうか。セレンディアにも、この言葉を伝えてあげることが、ボクに出来るだろうか。
■Scene:真実のかけら
冒険商人は《ミゼルの目》とミゼルド、それらを取り巻く人々について、まずは調べることにした。が、評議会の恩恵に与っている商人たちの話を聞いても、得られるものは少なかった。判を押したように、評議会の手腕を絶賛する人々ばかりだったからである。
「評議会長たち? ああ、あの人たちはすごいよ。人柄は置いておくとしても、家柄がね」
恰幅のいい商人が、手放しで彼らを褒めそやす。
「でも評議員になれるのは、家ごとにひとりだけなんだろ? おかしいじゃないか。同じ家の人間がふたり。子どもにだってわかる計算だよ」
「まあそうなんだが」
商人は、登録証を弄びながら声をひそめた。
「実際のところ、評議会に納められる取引税は、かなりの割合をカイーチョ家が……会長たちのことだが……払っているということだ。二番目に高名な宝石商だって、オッジ・カイーチョやパーチェ・カイーチョがそれぞれ払ってる額の半分にも満たないらしい」
つまりは、金がすべて。会長職だけは別の選出方法があるのかと思っていたが、そんな小細工を弄する必要もないほど、カイーチョ家は裕福だということか。
「そんな有名な家柄かい? カイーチョ家だなんて、悪いけどあたいは聞いたことないが」
ユズィルは不満げに鼻を鳴らした。だいたい、ふたりともに会ったことはあるが、どっちがどっちだか、見分けすらつかない。
「彼らは年に一度の取引で、それだけの額を売り上げる。取引に関わる人間も少ないから、不思議なことに誰もその商売の中身を知らないんだ。評議会という組織はあっても、実際は会長たちの私物のようなもんだ……っとと。これ以上は、儂も知らないよ」
「待って。あとひとつだけ。この街を造ったのが《ミゼルの目》なのかい? それとも、《ミゼルの目》が取り仕切る場所だから、ミゼルドって名前なのかい?」
「元々ミゼルドは、古代の遺跡の上に建てられているそうだ。だからまあ、街のが先で、《ミゼルの目》は後からできたのだろうが、さぁてね。まあ知る限り、この街はずうっと昔から、王だのなんだのの権力の下にはなかったらしいね。だから自治都市、だから自由の街ってね」
話を切り上げて立ち去る商人。その背を見やりながら、ユズィルは考えた。おそらくアルテスが巻き込まれているのも、その取引だろう。地の利のないミゼルドで、宝石よりも高価なもの。きっとろくでもない取引に違いない。
ミゼルドと、《ミゼルの目》。ユズィルの知る言葉で、ミゼルという響きは悲劇を意味していた。
■Scene:スラム街
評議会に批判的態度をとっている人間がもしいれば、そいつが何かの手がかりを持っているはず。ユズィルは街を歩き回った末、スラム街へとやってきた。安価で薬草を売りさばくついでに、スラムの住人から意見を聞こうとしたのだが……。
「《ミゼルの目》のおかげで、俺たちはこうして生きていけるのさ」
またか。ここでも《ミゼルの目》は擁護されているのか。ユズィルは嘆息する。
「評議所を見たことあるだろう? 《ミゼルの目》は潤ってるんだ。それならアンタたちの暮らしも、もうちょっと保障されてよさそうなもんだけど」
「俺たちが一番欲しいものが、ここにある。それ以外に望むことはない。だから奴らも、それ以上のものを俺たちに与えない。それだけのこと」
答えたのは、ジェシュを居候させている安酒場の主人だった。
「ここにいるのは、他のどこにもない自由を求めて、ミゼルドへ逃げてきた奴らだ。俺も含めてね。よそじゃあ十回以上断頭台に載せられても、おかしかない」
店主はかかと大笑した。その笑いには、暗い影は見えなかった。
「自由都市ミゼルド。《ミゼルの目》の持つ力が、その自由を守ってる。もともとはこの街はミゼルっていう名前だったらしいがね。この街の歴史を研究していた学者が、昔よくこの牢獄跡に来ては、うちで安酒を飲んでいったもんだ。もう何年も昔の話だが」
「街を見守る《ミゼルの目》……か。うまいネーミングだな」
あてつけまじりに、ユズィルは呟く。ターバンを巻いた頭に手をやり、大きく伸びをした。
彼女の足元に、少女セレンディアが佇んでいた。手には数枚の銀貨を握り締めている。
「ああ、お客さんかい」
ユズィルが視線を合わせてしゃがみこむと、セレンディアはにこりと微笑んだ。
「……薬草、じゃないよな。お嬢ちゃん、別に具合が悪そうじゃないもの。何がほしいんだい?」
見たところ、銀貨は本物だった。ユズィルは商売道具の中から、女の子が好きそうな装飾品の類をいくつか見せる。セレンディアは一枚のスカーフを手に取った。
「へえ。お目が高いじゃないか。そいつはオリザールの手織りだよ。そう高価なもんじゃないが質がいい。ああ、まいど」
ユズィルは少女の手から銀貨を受け取った。このあたりではあまり流通していない型の銀貨だった。そして軽い眩暈と光。
……冒険に入った遺跡で出会った、魔法の道具。
……家長の祖父が率いる巨大な商会、クロイア家の家紋。
……まだ知らぬ悲しみ。そして。
……「せっかく巡り会ったんだ。私たちのことを、少しずつでも信じてくれないか?」 顔の見えぬ男声。
……「わたしは、だあれ?」 それは幼い子どもの声。おそらくは、めったに発せられないセレンディアの。
「セレンディアちゃん、こんなとこにいた〜!」
「この辺で遊んでると、お母さんに起こられちゃうんだよ」
「あっちで遊ぼ!」
シグとアイビーは、ようやくセレンディアを見つけてほっとする。そのまま子どもたちは、どこか別の遊び場へ駆けていった。
ユズィルはしばらくぼうっとしたまま、セレンディアの微笑を思い出していた。あの光と幻影は、少女が垣間見せたものなのだと、理解するまでに少し時間がかかった。
セレンディアの求めたスカーフは、愛する母親がわり、メルダへの贈り物。ガジェット商会に戻ったセレンディアは、こっそりとメルダのほうきにスカーフを結んでおいた。メルダが戻ってきて、毎朝の日課どおり、おもてを掃除しようとした時に、きっとこれに気づいてくれるだろう。
メルダが抱きしめようとしてくれたとき、セレンディアはその腕からするりと逃げた。いたずら心が半分、怖かったのが半分。シグ、アイビー、そして旦那様と、メルダさん。あたたかい家族の輪の中に、自分がいることはできない。ミュシャに触れたときに見た幻影が、さらにセレンディアをさいなんだ。
……逃げるんだ、君を利用する人がいないところまで。
あの戦士は仲間を裏切って、旅の半ばで逝ってしまった。
「a....rig....at...」
鈴の音のような声でメルダに呟くと、その夜セレンディアは姿を消した。
第3章へ続く

第2章|夢の少女と、少女の夢と|無限のかたち|支配するもの、されるもの|マスターより|