第5章|白の願い赤の願い黒の願いマスターより

1.白の願い


■Scene:廃園〜夢への供物


 短い腕と、小さな手のひら。自分のその手をじっと見つめたまま、セレンディアは薔薇色の唇を閉ざす。愛する人と遠く離れ、閃光のように夢をひらめかせ、周囲に不合理な死をまとわりつかせて、あとどのくらいさまよえばいいのだろうか。血にまみれた夢は、夜毎セレンディアを招いている。
 オールフィシスの庭園は、もう薔薇を咲かせない。目の前に美しく咲き誇る数輪をのぞいては。立ちこめる芳香は、セレンディアの慰めになった。しかしこの花もやがて枯れてしまうだろう。その時オールフィシスとその妹たちは、どうなってしまうのか。
 そうはさせない。させたくない。でも、どうすればいい? 森の鳥たちに教わったような肥料や水では、緩慢に庭園が向かう死の歩みを遅らせることはできても、美しい緑をよみがえらせるまでには至らない。
 小さな小さな手のひら。この手で、何ができるというの?

「……せれん」
 かすかな声に、セレンディアは顔を上げた。薔薇の茂みから、マンドラゴラの少女が微笑んでいる。オールフィシスの笑みによく似ている。
「……せれん、なかないで」
 立ちすくむセレンディアに、自分の両手をそっと重ねて少女は目を閉じる。
(夢、みないの? どうして?)
 セレンディアは赤い瞳を瞠り、おずおずと少女の温もりに感情をゆだねた。重なる温もりから、ふたりの意識がゆらゆらと溶け合いだす。
 ああ、オールフィシスさんの時もそうだった。抱きしめられても、オールフィシスさん、夢を見なかった。
(……わたしたちも、夢をみるわ。でもそれは、わたしたちの夢じゃない)
 セレンディアが小さく首をかしげる。
(……わたしたちの夢は、このばしょにのこされた記憶。このばしょにいただれかの、血のなかにねむる思い出だけだもの)
 きゅ、とセレンディアの手に力が入る。血の思い出。誰かの記憶。それらを映して咲く薔薇たち。
(……きてくれてありがとう、せれん)
 少女が微笑む。セレンディアの心にある罪悪感を、読み取ったかのような言葉だった。
 セレンディアは迷っていた。庭園の薔薇たちを、庭園の最後の力を呼び起こしてしまったのは自分だ。悪気はなかったのに。枯れ果てた庭園があまりにも侘しげだったから、色褪せた緑が可哀相だったから、元気に咲くようにお祈りを捧げたのに。オールフィシスがその後見せた悲しげな表情を、セレンディアは忘れなかった。
(……あなたが祈ってくれたから、わたしはここにいる)
 少女の思いに、セレンディアが笑った。
(わたし、あなたと出会えたこと、とても嬉しい)
 それは、セレンディアの素直な気持ちだった。ようやく出会うことができた相手、お互い気兼ねなく触れ合える存在。もしかして、ともだちってこういうこと。
 手をつないだふたりは、見つめあってうなずいた。

『謳え、笑え、楽しみの園。一時の幸を分かつ時が有り』 
 わたしは、しってる。
『私の声が響くこの場所は、人々の救いの瞬きとなり』
 大切なひとたちはいつも、いい匂いがすること。
『汝らが和するこの合唱は、私の救いの瞬きと成る』
 そしてわたしのなかに、力があること。
『刹那の楽園知りし皆、全て幻、夢を見ん』
 おもいだしたの。
『救いは幻想、希望は悪夢、祈りは虚無に服すのみ』
 でもそれを……許して……もらえるの?

■Scene:廃園〜日差しのまどろみ


 オールフィシスと向かい合い、アルティトとアルフェス・クロイツハールがとりとめのない話を続けている。マンドラゴラの少女たちも、その輪の中に加わっていた。アルフェスの連れている使い魔たちは、マンドラゴラたちの前をいったりきたり、あちこちから顔を出したりしてからかっている。
「ふふ、みんな妹みたいに見える」
 オールフィシスが微笑んだ。
「この石のテーブル、いつもはわたしと、妹3人で座っていたの。今はこの大きさでも狭いくらいですね」
「家族が多いのも、いいもんだよな」
 ニクス・フローレンスがしみじみと呟く。彼が帝国へ残してきたのは、実際は娘ひとりだ。が、ひとりっ子であれだけかわいらしかったのだから、もっと子どもがいればなおさら楽しかっただろうな、などと思ってみたりすることもあるニクス。
 廃園で過ごすうちに、枯れたと思っていた感情が少しずつよみがえってきたのかもしれない。これもセレンディアの祈りのせいなのか、と思いかけてニクスは打ち消した。家族の元に戻りたい気持ちは、前からあったんだ。俺はまだまだ、枯れたわけじゃない。この庭園のように。
「子どもたちには、温かいミルクでいいのかい? 人肌に温めるんなら任せな」
 頭を切り替えるつもりで、声をかけるニクス。
 新しく生まれた「妹」たちは、何時の間にかすくすくと育っており、赤ん坊時代を一気に飛び越えて少女といえる年齢に達している。それでも薔薇なんだし、ミルクが悪いってことはないだろう……知らぬ間にノスタルジーに浸りたがっていることに、ニクスは気づかない。
「リク、カイ、クウなんて名前はどうだ?」
と、新しい「妹」たちに名前をつけてしまったほどだ。とくにリクは、最初に抱いたせいか、ニクスによく笑いかけるようになっていた。懐かれてみれば、少女たちの違いもなんとなく感じ取れるようになってきた。
「それが、ミルクはもう切らしてしまったの。またバウトにお願いしなくては」
 ニクスの背を追いかけるように立ち上がろうとしたオールフィシスの、裾をにぎりしめた少女のひとりが何事かを伝える。
 さっとオールフィシスの表情が曇った。

「バウトが人形に!? どうして?」
 アルティトが口を尖らせた。浅黒い肌の青年が、《精秘薬商会》カウンターの中で、どこか遠い目をしていたことを思い出す。
「何かに巻き込まれちゃったの? ……へえ、そっか」
 疑問系の後の独り言は、口に出すよりも先に、マンドラゴラがその意識をアルティトに伝えたからである。うなずきながら顔をあげ、得意そうにアルティトは伝える。
「バウト、こっちに来るって」
「何だって? 動けないんじゃあ」
 ないのかよ、と眉をひそめるニクス。
 ほぼ同時に廃園の扉が開いた。ジャグ=ウィッチが、バウトを背負って戻ってきたのだった。その隣には、バウトに付き添うように立つ格闘家カリーマ・ルアンの姿もある。
「……お帰り、なさい……」
 オールフィシスは両手で覆った口から、やっとその言葉を押し出した。

■Scene:廃園〜帰還


 一行が心配そうに見守る中、バウトの身体は寝台へ横たえられた。
「どうしてバウトがハルハ団長にやられちまったのか、まだ理由は分からない。彼は庭園やマンドラゴラのことは知っているけど、それが原因なのかどうかも定かじゃないし」
 ジャグが低い声で呟いた。ここまでバウトを背負ってくるのは難しくはなかった。庭園までの道は、彼にとって石畳の街道と同じくらいはっきり見えていたし、人形と化したバウトの身体は、思ったよりずっと軽かったからだ。
(……ハルハが)
 オールフィシスの服の陰から、ソラがジャグを見上げた。
「……ハルハが、やったの? バウトに鍵をかけたの?」
 おびえたような、かすれたソラの声。不意にジャグの胸の奥が苦しくなる。どんな状況にあっても、女性を傷つけることは嫌いだ。たとえそれが、女性のマンドラゴラだって……きっと。
「たぶんな」
 ソラはハルハの元に帰りたがっていたのだっけ。ハルハを救いたいって言っていたんだっけ。
 だが、ジャグには、どうしてあげたらいいのか分からない。ただバウトを連れてこれば、ソラが元気になったように、バウトも治るんじゃないかと思っただけだ。ソラには、ハルハの行動を目の当たりにさせることになってしまったけれど。
 でも、ハルハを救いたいというソラを、手伝いたいとは思ってる。

 カリーマにとってもそれは同じだった。
「突然やってきて不躾なお願いだと思うけどごめん。あたしもバウトさんにはお世話になった人間なの。それでミゼルドの事件あれこれを調べてたら、こんなになったバウトさんを見つけちゃったの。それでね、バウトさんのことと、バウトさんが大事にしてた庭園のことが心配になっちゃって……」
「大事にしてた庭園」
 オールフィシスが繰り返す。あ、とカリーマは口篭もって、ぶんぶんと両手を振り回し、
「ええと、ええと、その。いっつもバウトさん、庭園のほう眺めてたし……庭園があるってこと、まだあたしたちは知らなかった時の話なんだけど、特別な精油の話とかもあったし……そんなわけで」
 きゃるきゃると早回しでしゃべるカリーマだ。
 そうですか、とオールフィシスは呟いて、視線をバウトに落とす。彼はまるで眠っているように見えた。
「父はバウトを通じて精油を売ることで、私たちを養う生活費の足しにしていました。バウトは父とも仲が良かったですし、私たちのことも知っていましたから。そのせいで評議会長に目をつけられてしまったのは、申し訳なかったのですが」
 問題の精油は、今まさにトレジャーハンターが調合中だと聞いて、カリーマは安堵した。マンドラゴラさんたちを酷い目にあわせて搾りとったのならばどうしてくれよう、と正義感の強い彼女はひとり悶々と悩んでいたが、その心配はなくなったのだった。

「ハルハが掛けた鍵なら、この庭で解くことができるかもしれません」
 オールフィシスがその手をソラに置く。
(でも……ハルハがやったなんて、嘘)
 ソラが首を振る。黒髪がさらさらと広がり、檻のようにソラの顔に翳をつくる。
(ハルハはそんなことしない……だってわたし、バウトのことも好き……いつも遊んでくれたの。わたしたちに優しくしてくれて……)
「ソラ」
 少女は目を閉じたまま、首を振り続ける。
「そんなに言うなら、ソラ。一緒に行くか? 会わせてあげるよ。ハルハに」
 ニクスがソラの目の高さにしゃがみこみ、その頭をなでた。黒い髪は銀の篭手に絡みもせず、するりと流れぬけていく。砂時計の砂の流れのように。
「その代わり、自分の目で確かめな。自分がどうしたいのか。いいだろ、オールフィシス」
 彼女の姉は、逡巡の後うなずいた。その顔には、いつもの微笑みはなかった。

「《茨の民》……」
 ふと、カリーマが洩らした言葉を、ジャグが聞き咎める。
「何だって?」
「ううん。古代のミゼルドにいた人たちのこと。《風霜の茨》っていう女神さまの民らしいんだけど……」
「そういやブリジットが、そんな話をしてたな」
 トレジャーハンター向きの話題だと思いながらジャグは相槌を打つ。
「怒らないでね。なんとなーく、似てるなって思ったの」
 思った、を強調するカリーマ。その視線が、ジャグの赤黒い瞳へと泳ぎ、ソラへと戻る。
「似てるってと、オールフィシスが?」
「ん〜ん……《茨の民》と、マンドラゴラさんたち、が」
 付け加えれば、自分とも。
 マンドラゴラさんに、神さまは、あるのだろうか。ううん、それとも。
 神さまならマンドラゴラさんのことも、どこかで見てるはずだよね。

「そっか、バウトさんを連れてきたのね。安全だし、いいかも」
 ロジオンの研究室から戻り話を聞くと、ブリジット・チャロナーはうんうんとうなずいた。
「目を覚ましたら、とっちめてやんないといけないからな」
とジャグが言うのを、ブリジットは笑いながら制する。
「だめよジャグ、とっちめるにしても、軽いトコで留めておいて」
「俺たちを最初から信用してくれれば、面倒にならずに済んだんだぜ」
「気持ちは分かるけど、ほら。オールフィシスさんの宝物を傷つけちゃ、コトでしょ?」
「じゃあ、生きてる意味がどうこうって……」
「勝手に引き受けちゃった。オールフィシスさんの宝物、またの名を眠れる王子さま、バウトさんの心探し! ……あたしってやっぱり、お節介かな」
 ジャグに片目をつぶってみせると、ブリジットはよいしょと仕事道具一式を背負った。
「おい、どこに行くんだよ」
 地下通路は探索し終えたはずだった。地図もほぼできあがっている。それなのに、彼女の装備の理由は。まだ、お帰りだって言っていないというのに。
「ハルハさんてさあ、寂しがりやなんだと思うのよねー」
「あ?」
「……この時間なら、まだ間に合うかな。よし、行ってきま〜す」
 素早く駆け出すブリジット。一瞬の間。
「こらーっ」
「休息日が終わったら、教えてあげる!」
 ブリジットの背中越しのせりふに、初めてジャグは、今日がミゼルドの休息日であることに思い当たった。

■Scene:廃園〜在り処


 オールフィシスとともにまったりとお茶など飲みながら、アルティトは一人ごちた。
「なんかもう、みんな言ってることが難しすぎて」
 どこからか調達した林檎を綺麗にむきつつ、アルティトの口がとがっていく。気ままな旅を楽しむのが彼女の信条だった。それなのに、ミゼルドに立ち寄ってからの出来事は、急速に複雑化していった。13歳の歌唱術士には、どうしたらよいのかさっぱり思いつかない。
「難しい、ですか?」
 林檎の一切れをさっそく奪おうとする小猿を叱りながら、アルフェスが問う。
「難しい難しい。一体誰が一番悪い奴なの? そしたらそいつをなんとかするのに」
「そうねえ」
 頬杖をつきながら、カリーマも林檎に手を出した。
「悪いのは……奴隷市で大儲けの会長たちとか、仲間を人形に変えちゃいそうなハルハ団長とか、かなあ」
 しゃくり。大ぶりで甘味のある果汁は、ディルワース産だろうか。
「人としてさー、許しちゃいけないじゃない、そーいうの」
「あー」
 分かったような分からないような返事を返すしかないアルティト。何だろう、この気持ち。流れに取り残されちゃったような疎外感。
「じゃあオールフィシスさんとか、ソラとかは? 確かに最近、例の夢はあんまり見てないんだけど。覚えてないだけかもしれないんだけど」
「……はい」
 オールフィシスがアルティトを見つめ、口を開く。ソラはもう、行ってしまった。
「マンドラゴラに生きる意味があるのならば、それを知りたい。そうわたしは思っています。人の想いを受けて咲く薔薇。人なくしては、わたしたちは生きていけず、枯れるだけ」
「ほむむ……このお庭のお花がどうして枯れてしまったのかは、まだ分かりませんけれど」
 小猿を抱いて、アルフェスがとまどいがちに言う。もしかしたら枯れた理由は、今のオールフィシスさんの言葉にあったのかもしれない。でもそうだとしたら、それはとても悲しいこと。
「どんな命も、それなしでは、私たちは生きてはいけないのではないでしょうか。この子たちだって、そうですもの」
 アルフェスの手にある小猿も、肩にとまる小鳥も、服に隠れる仔犬も、元々はかりそめの命である。アルフェスが旅立つにあたり、魔術師の父がくれた贈り物、札に封じられた3匹の使い魔たち。父の札術と、母ゆずりの操術を身に付けて、アルフェスは故郷を後にしたのだった。
「もちろんマンドラゴラさんも、オールフィシスさんも、おんなじです。意味がないように見えて、どこかでつながっている。意味がある。偶然も必然なのですって、母さまがよく言ってました」
 小猿のいたずらでずり落ちてきた帽子を直しながら、アルフェスは言葉を紡ぐ。
「アルフェスのお母さまは、優しい方なのですね」
 オールフィシスが微笑んだ。
「それだけじゃないです。きっとこのお庭にも意味があるはずです。だから教えてください、このお庭の意味を」
 オールフィシスさんは園丁なんですもの、ご存知ですよね。念を押すように付け足して、アルフェスはじっと目の前の女性を見つめる。
「オールフィシスさんの父さまも、園丁だったんですか?」
「父が? いいえ……父は追われたのです。ミゼルド神殿や、評議会から」
 そっと胸を押さえる仕草で、オールフィシスが答える。
「どうして追われたの? ロジオンさんは《薔薇の精油》を会長連中に売っていたんでしょ?」
 反応したカリーマに、オールフィシスはこう説明した。

 初めロジオンは学者として評議会や神殿に出入りしていた。やがてその研究は、ミゼルドの歴史の深奥、また神殿の秘部へと向けられていく。
「古代ミゼルド、巨大な牢獄だったもんね」
 カリーマが相槌を打った。
「父に言わせれば、この庭園はひとりの女性のために残されていたそうです。その人はかつて貴族の奴隷であり、地下迷宮にその身を落とされた後、その貴族とある約束をかわしました……迷宮から見事脱出することができれば、その命を救うと」
「命を救う……」
 林檎をかじる手をとめ、アルティトが呟いた。
「……その女性が、ミゼル?」
 ユズィルが前に言っていたっけ。どこか遠い国の言葉で、その名前は悲劇を意味すると。カリーマはふるふると三つ編みを揺らす。
 《愁いの砦》? それとも《風霜の茨》? 人間たちに苦痛を課すのは、何のため?
「あたし思ってた。《ミゼルの庭》に咲く薔薇は、何か亡くなった人の無念とか、そういう想いを今の世に伝えたかったんじゃないかって」
「人の血、人の死、人の思い出の上に咲く。《ミゼルの庭》に咲く薔薇は、そういう薔薇です。踏まれても千切られたとしても、私たちは人から離れては生きていけません。もしかしたら妹たちの持つ力、人と交感する力は、そのあらわれなのかもしれない」
「はにゃ、そのミゼルさんはその後……どうなったんでしょう?」
 全員の視線が、オールフィシスに集まる。再び温かいお茶を注ぎながら、彼女は答えた。
「迷宮の出口は、大きな広場のようになっていたそうです。そしてそこには、大きな断頭台があり……」
 くらり。旅人たちはその様子を時を越えて一瞬垣間見た。
 黒々と聳える斬首台。いびつな人形のように、大きな刃を振りかざすその姿。
 ざりざりと音を立てるのは、幾多の血を吸いつづけてきた足元の土。
 熱狂する観客たちが、声をはりあげて処刑を叫んでいる。
 断頭台への階段をのぼると見えるのは、敷き詰められた薪と、今まさに火をくべようとする処刑人の姿。
「……その女性は目を塞がれたまま、燃やされました」
 こぽこぽこぽ。お茶を注ぐ音が、彼らを今に引き戻す。
 オールフィシスは静かに微笑み、お茶を勧める。

■Scene:廃園〜呼び声は其の耳に


「行くのか」
 イリス=レイドはうっそりと、ソラと手をつないだ魔道剣士に声をかけた。
「俺も連れて行ってくれ。どうしても、気になることがあるんでな」
「いいぜ」
 イリスの口調には否も応もないことを感じながら、ニクスはあっさり答えた。
「この廃園も、迷宮とつながっている。ここから行けば直に奴隷市に乗り込んでいけるだろう」
「なるほどな」
 イリスは何となく身をかがめると、ぽっかりと穿たれたように地下へと続く階段を覗き込む。
 ゆっくりと円を描くように、ニクスが右手を動かした。きゅっと左手に、ソラがしがみつく。銀色の篭手は、ちらちらと明滅する光の粒をいくつも生み出すと、ふわりと漂いながら階段の先へと流れ出していった。
「どういう魔法だ」
「さあてね、魔法といっていいのやら」
 おどけて肩をすくめてみせるニクスは、階段の先へとイリスをうながした。ソラのもう片方の手が、イリスの太い指を握る。小さい温もりが、エレインの贈り物を通してじわりとイリスを温めた。
(……エレインが)
 ソラが唇を開いた。こぼれる音。和音のような声。
「エレインが待ってるの」

 テスラ戦役以来の鍛冶修行、祖父とふたりきりの生活の中で、ソラにつながるような出来事は欠片もなかった。だのになぜ、ソラは自分と心をつなぐなどということができたのだろうか。
「お礼を言わなきゃならんのだ」
「うん」
 受けた恩は忘れない。何倍にもして必ず返す。イリスにとってそれは呼吸と同じくらい自然なことだ。
「それに見届けたくもある」
 世話の焼ける妹。戦役で失った家族の代わり。そんな言葉に置き換えては失礼だと思いながらも、イリスはその存在を暖かく感じはじめていた。

■Scene:廃園〜主を待つ庭


 セレンディアは小さなナイフを握り締めて立っていた。
(……せれん、どうしたの。こわい顔)
 鏡に映したように、セレンディアとよく似た少女、ニクスによってカイと名づけられたその子は、セレンディアの様子に気がつくとかすれた悲鳴をあげた。
(……せれん!)
 セレンディアの瞳から、大粒の涙がこぼれる。白い頬を伝い、やがて涙はドレスへ吸い込まれた。ドレスには赤い星が飛び散っている。セレンディアの小さな両手が赤に染まり、握り締めたナイフの刃から、ぽたりと赤いしずくが生まれる。
(……カイ、もうお祈りだけじゃ足りないの)
(痛いよ、せれん)
 傷だらけのセレンディアの手をとると、カイは頬にあてた。
(こんなに痛いのに)
 カイは目を閉じ、セレンディアの傷口を優しく舐める。
 カイを苦しめるつもりはなかったのに。セレンディアの視界がゆがみ、赤く染まった。痛みまで一緒じゃなくてもいいのに、カイ。ああでも……ともだち、だもんね。
(人間の血には、ふしぎな力があるの。でも、だからって、せれんの血をもらうわけにはいかない! そんなことしたら、そんなことしたら……せれんがくるしいよ。痛いよ。せれん、しんじゃうよ)
(ごめん、ごめんね)
 セレンディアは振り返った。点々と血の跡がついている。彼女が薔薇に、自分の血を注いで回った跡。
 もしも、自分のできることが、自分を捧げることだけだったら。
 セレンディアは思った。まだ知らない《風霜の茨》に問い掛けるように。
(……孤独は、ひとりぼっちはいや。でも薔薇とひとつになれるんだったら、淋しくは、ないの)
 大切なものを見つけた。でも、どうやったら守れるのだろう。
(せれん、だめ)
 カイが泣いている。心がきしむよう。
 セレンディアは、閉じかけた目をゆっくりと開く。嗚咽まじりのカイの声が、セレンディアの意識に溶け始める。カイの心が、引き裂かれるように悲鳴をあげている。
(会えてうれしいって、いったじゃない、せれん。どうして行ってしまうの。ひとりぼっちはいやなのに)
 ああ、わたしたち、本当によく似ている。
(せれんの血で元気になったって、せれんがいなかったら……)
 セレンディアは微笑を浮かべ、血まみれの手でそっとカイを抱きしめた。
(……どこにもいかない)
 だってどこにも、いけないから。

 茂みの中に、二輪目の赤い薔薇。

■Scene:廃園〜残り香


「呼吸が戻ったぞ」
 ジャグが呼ぶ声に、オールフィシスは立ち上がる。マンドラゴラたちとともにアルティト、アルフェス、そしてカリーマも、ぞろぞろと寝台を囲んでバウトの様子を見守った。
「血の気もさしてきてる。よかったな」
「お礼の言葉もありません、ジャグ」
 オールフィシスは深く礼をする。
「いや、魔法のベッドかい? これは」
 ぽんぽんとジャグが寝台のばねを揺らした。
「人形になっちまったものを元に戻すことができるなんてさ」
「あのあたし、考えたんだけど。バウトさんって、自分で人形になっちゃったってことは、ないかな?」
 カリーマがびしっと指を立て、ジャグにつきつけた。
「ほら。人形になっちゃえば自分の持っている情報とか、奪われずに済むじゃなーい」
「どっかの秘密組織の諜報員みたいだなあ、それ」
 ジャグを眉をしかめた。今は地下に潜っているニクスは、くしゃみしていたりするのだが。
「誰に何を奪われるんだ? 会長たちか? ハルハ相手だったら、効果はないだろうしな。会長だったら、バウトを人形のまま放っておくなんてことしないだろ。罠にしても、連携がとれていなさすぎる」
「あれー? そっか」
 ジャグにびしっと返されて、カリーマは首をかしげる。
「じゃあ……黒い影さん。だめか、無理があるなー」
「大体あの、ハルハの力は何なんだ」
 反則だ、とジャグがうめく。
「ほむむ。すごく強い魔法使いさんかもしれませんです。人の心を奪って操る、ってお話なら人形遣いさんになるんですけども」
 そういうアルフェスの表情は、かすかに曇っていた。マンドラゴラがそっと彼女に手を重ねる。
「ありがとうです、トワさん」
 アルフェスはマンドラゴラのトワの優しさに笑った。そしてふと、思い当たる。
「ほむむ。ちょうど、反対なんですね」
 トワもにこにこと、笑顔を返す。
「……ハルハさんは、心を奪うのです。でも、マンドラゴラさんたちは心を通わせるのです」

■Scene:評議所会長室〜精油遊戯


「見つけてきましたぁっ!」
 ブリジットが駆け込んだ先は、早朝の評議所だ。休息日で人気もまばらなその中を、案内人の手を振り切るようにして、階段を2段飛ばしで駆け上る。
 その手に聖なる炎よろしく掲げられている、小さな瓶が《薔薇の精油》だ。即席で抽出したものだから、効果のほどに自信はない。あるいは、薬学に通じているエレインがいればまた別だったのだろうが……それでも、あの会長を釣るにはこれで充分。あたしの作戦が、うまく行けば。
 言い含められていたものか、会長室の警備人は小瓶を一瞥するだけで、仕事道具満載のブリジットをあっさりと中へ通した。

 会長室の床一面に、みょうちきりんな衣装が敷き詰められていた。その周りを、ほとんど下着同然という犯罪に近い格好で、歩き回っている二人の中年親父。見苦しく突き出た腹を抱えるようにして一着を手にとったものの、ううんとうなってまた戻す。その繰り返し、掛けることの2。
 予想通りというか、予想以上というか。
 ブリジットはため息をつきたい気持ちをおくびにも出さず、つとめて明るく、かつ息せき切った様子で叫ぶ。
「会長、会長! 見てください、これ! 《薔薇の精油》を見つけてきましたよ!」
 ぴたりと双子の動きが止まる。
「「《薔薇の精油》ですって!?」」
 鼻息荒くオッジは詰め寄り、ブリジットの手から瓶を奪おうとする。
「ええ。一刻も早く、お伝えしたくて」
 彼女は息を止めたまま、抵抗せずに手を放した。音もなく落ちていく瓶をどうにか受け止めた会長たちは、我先にと瓶の中身を確認する。
「ちょっとオッジ、アタシにも嗅がせてよ!」
「待ちなさいよパーチェ、これは……ホンモノだわ」
「本当? 《黒輪》の小娘が持ってきた目薬みたいに、騙されたんじゃなくて?」
「違うわよ、疑うなら試してみなさいよ」
 ほわん。ブリジットの鼻腔にも、甘い香りが漂ってきた。ほわん、ほわわん。濃厚な薔薇のエッセンスが描くのは、目には見えない薄紅色の幻の美女か、それとも会長相手なら、薄紅色の青年か。おお、こわ。そんなのよりもあたしだったら、現実の謎とロマンのほうがいい。
「どこでこれを手に入れたの? 全部買うわ。買い取ってあげるわ!」
 商人の目つきだ、とブリジットは思った。目の色を変えるとは、まさにこのことだ。
「そのことなんですけれど、お兄サマ」
 にこ、とブリジットは商売用の笑顔を貼りつけ、ことさら可愛く言ってみた。
「精油のレシピを見つけたんです。だから、これからはお兄サマたち、お好きなだけ精油を作れるんですよ。あたしは精油作りなんて興味ないし、大金を持ち歩くのも嫌だし、大体金貨よりも夢とロマンが欲しいんです」
 自分でもこのぶりっこぶりはどうかと思うのだが、これも人形にされてしまったバウトの、その他たくさんの人々のためだ。
 ごめんジャグ、だから許してよ。
「単刀直入にいきましょ、小娘ちゃん。アナタ、何が欲しいの」
 会長たちの視線は、ちらちらと窓の外、次第に高く昇っていく日ざしを追っている。そうよね。奴隷市が始まっちゃいますものね。ここまでは計算通り。ブリジットはちろりと舌を出し、唇を湿らせるとこう言った。きめの細かい毛織物でそっと素肌を包まれているような、父親ゆずりの美声で。
「実はあたし……お兄サマのすてきなコレクションの噂を聞いたんです。レシピのお代がわりに、あたしにも、お人形遊びさせてくださ〜い!」

 年頃の娘にはふさわしくない作戦であったが、見事会長たちには功を奏することができた。
 会長たちは何やらふたりで相談し合った後、ブリジットにちいさな鍵を見せた。
「小娘ちゃん、レシピと交換よ」
 オッジの首に、なかば食い込むように巻きついている、細い金鎖の先につけられた黒い鍵。瞬間、セイエスやイオの持つ《愁いの砦》の聖印が思い浮かんだ。
「持ち出すのはちょっと難しい場所にあったの。その精油は、記憶を頼りに作ったサンプル」
 素早くブリジットは答えた。
「だから、お兄サマの御用が済んだら、ご案内します。他人に出し抜かれないよう、罠もしかけてきましたし」
 さりげない牽制だった。あくまでも、ブリジットに価値があることを認めさせなくてはならない。罠だって、本当はないのだ。マンドラゴラたちの泥遊び場と化している、ジャグの落とし穴くらいしか。これは賭けだ。会長たちが、人形を元に戻す方法を見せてくれたらブリジットの勝ち。よしんば閉じ込められたとしても、仕事道具があれば脱出は訳もない。
「……こっちよ」
 書棚の裏に、隠し扉があった。ブリジットの勝ちだ。

■Scene:評議所会長室隠し部屋〜人に似た玩具


 そこは、石造りの通路だったようだ。一目でカラーラ産の大理石製と分かる。なるほど、この部屋も地下迷宮とつながっているのか。そう思ったのも束の間、すぐにブリジットは、居並ぶ美青年美少年たちに心を奪われた。
「うわぁ〜、こんなに……」
 通路の両側、規則正しく並んだ壁がんにそれぞれ一人ずつ。古今東西選りすぐりの人形が、片手を胸元に当て、両目を伏せた姿で等しく立っている。肌の色も髪の色も、纏う衣装も皆違うけれど、彼らの姿勢だけは変わらない。忠誠を誓う騎士のような姿の美男たち。知らなければ、ただの見事な美術品だ。さらに悪趣味というか、当然予想通り通路の真ん中には、魔法の炎が燃え盛る暖炉と巨大な寝台が置いてあった。
「そうね、30人はいるかしら」
 ふふんと得意げな様子のオッジは、ブリジットにお気に入りを見つけるよう促した。
「え、えーっと……じゃあ、このお兄サマとこの男の子とこっちのオジサマと……」
 うきうきしながら、ブリジットは手当たり次第に人形を指差していく。
「ちょっとちょっと、一度にそんなには無理でしょ?」
「そうなんですかー?」
 ブリジットは残念そうに肩を落とす。どういうことだろう、一度には無理って。
 あの寝台は一度に軽く10人は寝られそうなのに。どう考えても、人形のままではつまらないことは間違いないのだ。少なくとも身体の一部くらいは、自由にして遊ぶはず。会長ひとりに5人としても……あまりにも美しくない光景だ。想像するのをブリジットは止めた。
「悪いこといわないから、この子にしておきなさい」
 精悍な青年の前に立つと、パーチェは先の鍵を胸元から引っ張りあげた。秘密よ、とブリジットを制したオッジだが、なんとかブリジットはその様子を目にすることができた。

 パーチェは人形の身体に黒い鍵を差し込み、軽々とその鍵を回す。
 かちり。耳に聞こえないような音をブリジットは感じた。
 青年の身体から急に力が抜ける。くずおれる青年をパーチェは抱え、寝台に乗せた。
「しばらくは、意識も朦朧としてるから優しくしてあげてね」
「え、これでもう目が覚めちゃったんですか?」
「そうよ。ハルハが作ってくれた魔法の鍵」
 パーチェは自慢げに、その鍵をくるくる回して見せた。何が、秘密よ、なの。ブリジットは笑いをこらえる。単純な自慢したがり屋さん。この手合いは、ブリジットの客にも多い。コレクションを誉められるのが、大好きなタイプ。
「じゃああたし、ここで大人しく遊んでますから〜」
 にっこり笑って、ブリジットは会長たちを見送った。

 その数分後。
 ブリジットが精悍な青年相手に奇妙な気を起こすより早く、どすんという音がした。音のしたほうへ駆け寄り、壁を調べる。一筋ぼふっと土煙が舞った。壁に穿たれた穴から、土埃にまみれた少年がひょこっと顔を出す。
「あんた……誰?」
 ブリジットが腰に手をあて目を細め、美形といえなくもないその少年の、曖昧な笑みをにらみつけた。
「お」
 長めの黒髪から蒼い瞳がのぞく。ライ・レーエンベルクは壁の穴からのそのそ這い出ると、空色のローブをはたきながら辺りを見回した。
「あんたも奴隷市を見にきた口なの? ああ、廃園に来たことあったっけ、そういえば見覚えある」
 こくりとライはうなずいた。その視線は落ち着きなく、通路に並ぶ人形たちの上に泳いでいる。
「人形……いっぱい」
「うん。あたしは心の珠のトリセツを探してるの」
「トリセツ?」
 取扱説明書、と区切るようにブリジットは発音してみせる。
「……会長さんたち、心の珠の使い方まで見せてくれると思ったのになあ」
 見えたのは黒い鍵。ハルハが作ったという鍵だけ。
 ぼんやり立っているライに、どうしてここへと尋ねると、ライは途切れ途切れに口を開く。
 エレインが気がかりだったこと。彼女が人形になったのは、自分にも責任があると思っていること。面白そうなものがあるかと思って、評議所へやってきたこと。ちなみにここへは、土の精霊に頼んで地中を移動してきたこと。
「へえ、精霊遣いなんだ。いるよね、そーいう人」
 屈託なくブリジットが笑うのを、きょとんとした顔でライは見つめた。
 いるよね、そーいう……人。
「いる?」
「いるでしょ。《大陸》は広いもの」
 あたしの母さん冒険者やってたけど、その仲間にもいたし。ブリジットは付け加えて、ライを見返した。少年は不健康なまでに白い肌をしていた。
「ふーん。いる、のか」
 ざわざわざわ。ざわざわ。ライの周囲で、精霊たちがさんざめいている。ライの友だち。兄がいなくなってからは、彼らだけがライのそばにいてくれた。ある意味では、ライをけしてひとりにさせてはくれなかった。孤独は嫌だ。これまでも、これからも。
「できるなら、ちょっと精霊さんにお願いしたいことがあるんだけど、いい?」
「……ん」
 かすかな感傷に囚われつつも、ライはいつものようにうなずいた。
 兄がいたころのレーエンベルク家は、もう遠い。家を逃げ出したときから、ライは自分で考えることをやめていた。エレインのことを気に掛けたりなんて、するはずもないライだったのだ。先日までは。変わっていくんだろうか、こうやって自分も。
 少し怖い。

「ない。見えない」
 ブリジットの思いつきは、心の珠を探してもらうことだったのだが、精霊たちに頼んでもそれは見つけることができなかった。
「歌も、ない」
 あの美しい歌声で歌っていたのは、薔薇の精霊だったのだろう。聞こえないなら、ソラはいないということだ。ニクスたちはもう、市に着いただろうか。ぼんやりとライは考える。
「……珠がないなら、会長たちは珠を使うことができないのかしら。珠の代わりが、ハルハの鍵。鍵を回せば、少しの間だけ心が戻る。珠を扱えるのは、そうするとハルハだけ……」
 ブリジットは天井を仰ぐ。
「淋しがり屋のハルハ団長。いったいあなたの目的は、何なのかしら、ね」

■Scene:廃園〜迷宮の糸玉


 バウトの呼吸が荒くなり、喉の奥からかすかなうめきが漏れた。オールフィシスとともに寝台を囲む旅人たちは、息を呑んで注視する。
「マンドラゴラの力で、バウトと交感することはできないの?」
 アルティトの言葉に、少女たちは顔を見合わせうなずいた。
(……やって、みる)
 そうしてバウトの手を握り、そっと目を閉じたトワは。
(もうすこし、時間が……かかるみたい。心が、すこししかもどってきてないの)
 もう片方の手をオールフィシスに重ねて呟く。唇からかすかに音がこぼれる。
「奪われた心は、ここにいれば戻ってくることができるの?」
 カリーマがオールフィシスを見上げる。
「それがミゼルの力なの?」
「《ミゼルの庭》……囚われた心の戻る場所」
 どんな罠におちようとも。ジャグが自問する。貴族の奴隷。迷宮へ堕とされた女性。
「ミゼルとは、何者なんだ……?」
 バウトの瞼が、ぴくりと震えた。
(ばらのかぎ)
「薔薇の鍵、ですか」
 鸚鵡返しに口をついたその言葉は、つとアルフェスの脳裏にひっかかる。
(ばらのかぎをさがしに行ったの)
「行ったって、誰が?」
「……俺、が、だ」
 トワの代わりに、うっすらと目を開けたバウトがささやいた。

■Scene:バウトの回想


 彼はその時、神殿から地下通路を通っていったのだという。薔薇の紋の扉、その先を確かめるために。
「バウトさんは扉のことを知っていたの?」
「ロジオンが……研究していたからな」
「父が? まあ」
 オールフィシスは意外そうに、口元へ手を添える。
「自分の死んだ後のことを、ロジオンはとても心配してたんだ」
 バウトが語る言葉は、静けさに満ちていた。
「だからあの人は俺たちにこう言った。オールフィシスなら《茨の聖母》になれるのだ、と。そのためには《薔薇の鍵》を取り戻せ……と」
「私は知りません、何も。本当です」
 オールフィシスは寝台から後ずさり、いやいやをするように身をよじった。
「何も知りません。父が私に何を望んでいたのか、バウトに何を託したのかも」
「《茨の聖母》って何? 《茨の民》さんたちのえらい人のこと?」
 カリーマがくるりとバウトに向き直る。寝台の上で青年は目をそらした。
「マンドラゴラさんたちは、《茨の民》とは違うでしょ? だったら何故、昔の《茨の民》のえらい役に、オールフィシスさんがつかなきゃいけないの?」
 ロジオンさんは、《茨の民》を救いたかったのだろうか。そんな疑問がふとよぎる。今はもういない人々のために、かの学者はマンドラゴラを生み出したのか。
「違う……違うんだ」
 バウトは弱々しく腕を持ち上げ、オールフィシスに触れようとした。
 身を引いたオールフィシスは、けれども動かない。
「君を謀るつもりじゃなかった。君たちには嘘などつけないことは俺も知ってる。だからこそ……ロジオンがかけた願いがどんなものかを確かめたかったんだ。あの時ハルハ団長が来なければ」
 地下へ辿り着き、黒い扉を開けようとした瞬間に。
 なぜか目の前に、ハルハが立っていた。気配も風の動きすらもまったく伴わずに、突然その場に現れた。あるいはそれは、幻だったのかもしれないとバウトは思い返す。
 人差し指を口にあて、ハルハはすっと目を細めた。
「静かに」
 そう言うと、腕を伸ばしてバウトに触れたのだ。遠くでかちりと音がして、あっという間に、身体の自由が利かなくなって……。目利きのバウトにとっても、あんな魔法は初めてだった。

「オールフィシス、これだけは分かってくれ」
 バウトはすがるような目で、オールフィシスの蒼白な顔を見上げた。
「何があっても生きていて欲しい、俺たちがそう思っていることを」

第6章へ続く


第5章|白の願い赤の願い黒の願いマスターより