第5章|白の願い赤の願い黒の願いマスターより

2.赤の願い


■Scene:神殿〜与えうる限りの喜びを


 ミゼルド神殿も今日ばかりは慌しい。冒険者たちの作戦の一端を、イオも担っていたからだ。信徒たちには、《ミゼルの目》の不正取引を摘発するとだけ説明してあった。評議会長相手だと知らないほうがいいだろう、というイオの判断だ。
「広い場所が必要になるかもしれない。部屋をいくつか空けておいてほしい」
 イオの手には、今日の競りの目録がある。アルテスたちが持ち帰ってきたものだ。出品される人形だけで五十体近くある。彼らを保護できる場所が必要だった。

「我らも同罪だ。そう思うだろう、セイエス殿」
 眩暈をこらえるようにして、イオは壁にもたれかかった。
「人の命の上に成り立つ街で、のうのうと暮らしているなど。おぞましい……我らのしてきたことは、何だったのだろうな」
 疲労と困憊が、自嘲めいた言葉に変わる。
「すまない、セイエス殿」
「いいえ」
 短く答えると、セイエスはイオの手にある目録の文字を辿った。ミゼルド神殿でただ一人の聖騎士。人心の安寧のためにふるわれる精神の槌。五十名近い人名の羅列とその重さ。
「僕でよろしければ何なりとおっしゃってください」
 神殿の中、あるいはミゼルドの中で、イオの相談相手たる人物がいないだろうことはセイエスにも見てとれた。彼女はたぶんたったひとりで信徒たちを指揮し、神殿のこれからを決めていかねばならないのだ。
「……聖地に報告をされるか」
「聖地は……見張り番ではありません。顛末を報告したとしても、それだけです」
「ふふ、分かっている」
 イオは壁から離れ姿勢を正した。
「ミゼルドのあり方をこれから決めるのは、我らミゼルドの住人でしかないということは」
「協力は、できうるかぎり」
 セイエスが答える。

「セイエス、いるかい? ちょっと話を聞いて欲しいんだが……」
 ぶっきらぼうな口調はハルのものだった。自分で修繕したままの皮鎧姿が、調査を終えたばかりであることを示している。
 青年は入ってくるなり、ちらりとイオを見る。
「こちらのほうは手は足りている。構わないぞ」
 視線に気づき、イオは先に部屋を出た。
「リヴさんはいないのか」
 セイエスの傍らにはリヴがいるのが当然、とハルは見渡すが、そういえば今日はまだ、と答えるセイエスに、肩をすくめるだけにする。
 別に俺が、気にするようなことじゃないんだが。リヴにも聞いてもらいたかっただけなんだが。心の中で繰り返すもうひとりの自分。その妙な言い訳に、ハルは憮然とした表情をつくる。

■Scene:旅団〜濡れた涙の乾く間に


 ミゼルドの街に静けさが戻るはずの休息日がやってきた。もっとも、休息日だからといって、ミゼルドに人の往来が途絶えるわけではない。通りの両側には、明日から再び営業を始める出店がそのまま建ち並んでいた。がめつく稼ぐつもりで、今日も目抜き通りに店を広げた露天商は、評議会の雇った冒険者連中に笛を鳴らされ退場させられる。広場も相変わらずの混雑ぶりだ。露天商たちも休日の散歩を楽しんでいるとすれば、人通りもいつもより、商人の分だけ多くなっているに違いない。
 ちなみに大市期間中の休息日について、《ミゼルの目》はこう説明している。
「《大陸》津々浦々から、はるばるミゼルドへやってきたのですから、一日くらいは商売を忘れて、ミゼルドの空気を楽しんでください」と。もちろんこれは建前にすぎず、実際のところはこうして中休みをいれないと、評議員たちめいめいの、取引税の勘定が追いつかなくなるからである。

 この日ばかりはサーカスもお休みだ。旅団のお手伝いカルマ・アイ・フィロンは、はあ、と一息ついて傍らの黒猫に話し掛ける。
「お休みばっかりもらっちゃってるんだけど、いいのかなー?」
 ハルハのお使いから戻ってきてしばらく寝込んでしまい、ようやく起きられるようになったと思ったら、もう休息日だったのだ。
「せっかく雇ってもらったのになあ。これじゃだめだね、俺。頑張らなくちゃ」
 朝からすでに、ハルハ団長の姿は見えない。カルマは薄茶色の外套を羽織り、両手をポケットに突っ込んでテントを後にした。黒猫と子羊がついてくる。
 頑張らなくちゃ。そう言ってみたものの、カルマの心は乱れていた。
 団長が悪い人だなんて……。友人ラフィオの苦悩。彼の相棒がさらわれたこと。評議会長の悪事に荷担しているらしいこと。ソラを酷い目にあわせていたこと。にも関わらず、ソラはハルハに会いたがっているということ。
「カルマ、泣いてる」
 黒猫がぼそっと指摘した。カルマはぶんぶんと首を振り、ずず、と鼻をすする。こういう時だけいじわるな黒猫。でもアルトとリリプ〜がいなかったら……そんなこと、考えられない。
「夢を見たんだ」
 カルマがちらりと背後を振り返り、呟いた。
「ゆめ?」
 心なしか、足が早まる。目指しているのは、地下の奴隷市会場だ。
「うん……昔の夢」
 まだカルマが、旅の空になる前のこと。父親を知らないカルマの家族は、遊び歩いてほとんど帰ってこない母親だけだった。2年ぶりに再会した息子に向かって、他人同然の彼女はこう言い放ったのだ……ねえカルマ、あたしを殺しておまえも一緒に死んでおくれ。
 ごしごしと外套の袖で、乱暴に顔をこする。人の内の闇は、カルマには分からない。彼女は救われたかったのかもしれない。息子に罪をきせてまでも。今では漠然とそう思うようになった。結局母親は自分で命を絶った。カルマの目の前で。カルマは生き延び、母親の分まで命を背負うことになった。
「あの時、ソラちゃんがいれば……おかあさんだって死なずに済んだんだ。きっと」
 人の心は、すぐそばにあっても見えない。触れない。でもソラなら。 
「みんながソラちゃんみたいな力を持っていればいいのに。ハルハ団長も、アキも、俺も……みんな」
 そしたらもう誰も、誰かを傷つけないで済むから。
 ソラは、ハルハの心も見たのだろうか。それで酷い目にあわされてもなお、会いたいと言えるのだろうか。
「……だったら、会わせてあげなきゃだよね」
 カルマの足どりが、また早くなる。

■Scene:評議所〜高潮


「人身売買だって!」
 ざわざわざわ。ユズィル・クロイアをとりまく人垣が、一斉にざわめいた。
「ああそうだよ。例えばこれがバレてみな、自分はやってないとどれだけ叫んだって、評議会の信用はガタ落ちじゃないのかい」
 ユズィルはお目通りがかなった宝石商に頼み、評議員たちを集めて説得していた。
「こちらのお嬢さんの言うとおりではなくて? 我々の力で、いけすかないおかまたちをひきずりおろす、絶好の機会ではないかしら」
「……言うねぇ、おばさん」
 頼もしいよ、とユズィルは宝石商を小突いた。老婦人は楽しげに、ほほほと笑う。
「いいか、ミゼルドは自治都市。これまでは金の力で自由を買っていた。だがそれも、ミゼルド経済の基盤があってこそ、ミゼルドの生み出す富があってこそ、だろ」
 ユズィルは両手を広げて評議員たちに説明する。
「だがその信用がなくなったらどうだ? あんたたちの財産だって、すぐに消えちまうよ! 今は会長の下で甘い汁を吸えてるかもしれないけどね、そんなもん、あっという間に毒に変わっちまう。それに奴隷市に買い手として参加してる連中は、筋金入りの悪党ぞろいだと聞いてるよ。この辺りを根城にしてるよからぬ連中が、まさに今、このミゼルドに大集合してるって訳だ。こんな噂が、正義の味方どもの耳に入ったら面倒なことになると思うがねぇ。どうだい? 目を覚ましたほうが、得じゃないかい?」
 得。この言葉は、商人魂を持つ評議員たちにとって、魔法の呪文のようによく効いた。
「……そうだな」
「カイーチョの奴らばかりが儲けているのは、許せないよな」
「取引の機会は、もっと平等にするべきだよな」
 ざわざわざわ。評議員たちのざわめきを、ユズィルは少々意外に思いながら聞いていた。烏合の衆かと思いきや、さすが損得勘定に長けているだけあって、なかなかいい感触である。
 もう一押しか。傍らの宝石商をちらりと窺い、ユズィルはさらに声を張り上げる。
「牢獄だった街を救ったのか、街の創始だか何だか知らんが、そういう存在だからこそ、今ここで人間として、いいかい、ミゼルドに生きる人間として、叩いておかなきゃならない。奴らはのうのうとつけあげるだけだよ。まっとうな取引の積み重ねで評議員になった、あんた方とは違う。あるいはミゼルドの信用が一旦は落ちたとしても、だ。裏社会の連中をとっ捕まえて自分たちできちんと後始末さえ出来りゃ、住人や外への印象は大分変わるはずじゃないのかい」
 ざわめきは今や、どよめきに変わっていた。ユズィルの一言ひとことに、うなずく評議員の姿がある。
「奴らの悪事の証拠はちゃんとある。仲間が持ってるんだ。だから……」
 手の中にある薔薇の印章に目を落とし、再びユズィルは顔をあげる。
「奴隷市なんて、ぶっ潰してやろうじゃないか!」
 ミゼルドへ来て以来初めて見る、熱意に溢れた評議員たちがそこにいた。

■Scene:ミゼルドの街角〜象牙の仮面


「ほほう、火事騒ぎ」
 スイは扇子をはたはたさせながら、相変わらずの緩やかな笑みを浮かべながら答えた。
「面白そうですねー。火って怖いですもんねえ」
「エレインさんは、もう運び込まれたみたいだった。ハルハが自分で持っていったか、サーカスの人を使ったんだろうなあ」
 ラフィオ・アルバトロイヤは身を震わせると、腕に抱くノヴァをそっとなでさする。まるでそうすれば、やがてノヴァが息を吹き返すかのように。
「踊り子さんたちも、エレインさんと同じところですかねえ」
 布で覆われた目がどのように光っているものか、仲間たちには分からない。
「これはハルハの罠だよ、スイさん」
 ラフィオは唇を噛んだ。
「今までずっとこういうやり方で、ハルハは欲しいものを手に入れてきたに違いないんだ」
 ラフィオの脳裏に、色とりどりの硝子珠が浮かぶ。自分と同じ気持ちを抱いているはずの、何十人もの人々。
「ははあ」
 スイは生返事で、ラフィオに風を送る。
「私ってば、真っ白で目立つと思います?」
「え?」
「捕らわれのお姫さまが三人もいるんですよ、これは助けに行かなけりゃ。王子さまのキスでエレインさんが元に戻ったりしたら、いいと思いませんか?」
「……スイさんが王子さまなら、ノヴァにキスしてもいいよ」
 ラフィオは肩を落としたまま、力なく笑った。
「それでノヴァの目が覚めたとしたら、間違いなく噛みつかれるだろうけど」
「……じゃあ、やめときますねー」
 はたはたはた。黒い扇子から見え隠れするスイの黒髪。彼が一体何を考えているのか、ラフィオにはまったく分からない。とりあえずは味方で良かったと思う。敵に回すと恐ろしいような気がするのだ。何せハルハにその身を狙われるくらいなのだから。
「ハルハさんって、黒髪がお好きなんですかねー?」
 スイは、いたって真面目であった。
 たぶん。

■Scene:廃屋〜燃え殻に足る誘い


 北の丘は、アーサー・ルルクにとって思い出の場所と言っていいくらいの場所だった。彼が廃屋に足を踏み入れるのは、これで三度目だ。
「まだばれていないみたい、だな」
 廃屋の地下、隠し扉を持ち上げて、たくさんの木箱が残っているのを確かめる。
「もともと会長たちは、必要最小限の人手でまかなってるはずだものね。評議会内部に手の者を置くのも危険すぎる。足元を救われないように、旅芸人を利用するとは」
 うまい手口だな、と思いながらアーサーは、木箱の隅へ身を滑り込ませ、アルテスがでかでかと開けた穴を確認した。その先の滑り台を使えば、地下まではすぐだ。
「……よし」
 そっと廃屋の陰に身を潜め、アーサーは待つ。会長に雇われた人間が、木箱を運びに来る瞬間を。

 何だか似ている。アーサーはひとり、こみあげる笑いに背を丸めた。あれはいつのことだっただろう。ばあちゃんがいて、父や母も、その頃はまだいたかもしれない。小さな子どもの頃。こうやって家の陰に隠れて、ばあちゃんのことを脅かしたっけ。ひとつ処に長く住むことのなかったアーサーには、友だちと遊んだ記憶よりも、大切な大切な祖母との思い出のほうが多い。
 ばあちゃんが探しに来てくれるのを、息を止めて待っている。もしかしたらばあちゃんは、私の考えていたことなんてお見通しだったのかもしれないな。
 ……それでも、あんなに驚いてくれて。
 ああ。しばらく思い出すこともなかったけれど。そしてこんな時に思い出すことじゃないけれど。
 大切な人をなくすのはもう嫌だ。

 がたん。廃屋に人の気配があった。がさつな足音、乱暴に仕掛けを探る物音。
 会長たちもハルハも許せない。誰かの大切な人を、我侭に奪うなんて。
 ひやりと冷たい石壁に背をあてて、アーサーは愛剣の柄を握る。
「こんなにあんのかよ、人遣い荒すぎだぜ」
 相手は一人。ミュシャに絡んでいたごろつきの仲間だった。アーサーの目の前を、独りごちながら通り過ぎ、積みあがっている木箱のひとつを無造作に抱える。
 その頓着ない動きは、中身を知らされていないからだろう。ごろつきのひとりやふたりくらい、会長にしてみれば使い捨てにすぎない。
「……悪いね」
 哀れみを感じながら思い切り、相手のみぞおちを柄で突いた。

■Scene:神殿〜ありふれた理由


 人形にされたバウトの姿は、今日はもう神殿にはなかった。聞けば、すでにジャグの手で廃園のほうへと運ばれたということだ。
「さっきまで、神殿の地下を調べていた」
 そう前置きをして、ハルはぽりぽりと赤い髪をかきむしった。
「それで……そう、夢を見たんだ。俺も、白い少女の」
 どうもうまく言葉が出てこない。もどかしい。ハルの呼吸が、少し荒くなる。
「ほら前に、セイエスも言ってただろう? 白い少女の夢」
「薔薇を差し出されましたか」
「ああ」
 大きく息を吐き出すようにして、ハルはうなずいた。
「薔薇……そう、白い薔薇なんだ。神殿の地下にあったのも。いや、そうじゃなくて」
「大丈夫ですか、ハルさん」
 セイエスが、ハルの額に浮かんだ汗をそっとぬぐった。この動悸は何だろう、ハルは自問する。何故だ。つい先日、森の中で「あれ」は済ませてきたはずなのに。
「彼女たちは人間じゃない。薔薇の精霊だ」
「ばらの、せいれい」
 不思議そうな顔のセイエスに、ハルはこう説明した。
「薔薇と人間が交わって生まれたか、生み出されたか。その薔薇が特別なものだったために、彼女たちはその薔薇の力を受け継いでいて……俺たちに夢を見せる」
「白い薔薇を差し出す夢を?」
 そう口に出しながら、セイエスははっと表情を変えた。薔薇を差し出す。薔薇の精霊が。それは人間ならば、たとえば自分自身を差し出すようなもの?
「彼女たちは、薔薇と人間の両方の力を持って存在している。それでも彼女たちは、薔薇でも人間でもない」
 動悸が静まった。ハルは安堵する。
「……俺には分かる」
 憎くはない。そうやって生まれついたのだから。そしてそれは、少女たちのせいではない。顔を上げると、心配そうなセイエスと目が合った。
「俺の先祖は森に深く関わっていた。俺も狩人だし、森で長い時間を過ごしている。今でも森と深くつながってるんだ。そのせいかな。気になるのは」
 セイエスは微笑んでいた。
「なんで、笑うんだよ?」
 笑ってしまうような面白い話をしているつもりは、ハルには毛頭ないのだ。
「ごめんなさい、だってハルさんが自分の話をこんなにしてくれたのは、初めてだから」
「あのな」
 相変わらずの仏頂面で、ハルは無理矢理話を戻した。
「……だから。薔薇も茨も、森と波長が合ったのかもしれない。そういうことさ」

「《茨の民》への迫害は……本当にあったんですよね」
 セイエスは目を伏せた。
「《愁いの砦》が、女神がそんなことをお許しになるはずがないのに……」
「《愁いの砦》や《風霜の茨》にも、事情があったのだとは思う。だが」
 女神の事情はさておいても。人間たちが、同じ人間を踏みにじる。その行為をハルは許せなかった。
 リヴが前に言っていた。《茨の民》は可哀相だと。仲間はずれにされてしまって、可哀相だと。崇高でもなんでもない正直な気持ちで、ハルは彼らを救いたい。ハルは自分自身を《茨の民》に重ね始めていた。
 だがそれゆえに、ハルは気づいていない。《茨の民》を救うのは、ある意味自分自身を救うことになるのだとは。

■Scene:奴隷市〜不従


 円形闘技場の客席は、すでに半数くらいは埋まっている。ユズィルはターバンを心もち深めに引き下げ、口元をそっと覆ってそ知らぬ顔で会場へ近づく。入り口は評議会の真下にあった。スラム方面からも通路がつながっているらしい。街中で会ったら忘れられないような面貌の連中も見える。参加者には連絡が行き届いているらしく、人の流れは一定で混乱もない。
 毎年やってりゃ、客も慣れるわけだよね。ユズィルは眉をしかめながら印章を差し出し、見咎められることもなく入り口をくぐる。両脇は当然のように会長たちが固めていたのだが、彼らは通り過ぎる顔なじみに挨拶するのに忙しい。やっぱり女性の顔は覚えられないようだ。
 少し先へ進むと、角にいたアルテス・リゼットが軽く手を挙げた。別の通路からやって来た彼は、出口を封鎖するべく待機している。先日までの地味な格好ではなく、いつもの彼らしい、原色模様に装飾品じゃらじゃらという出で立ちだ。
 ユズィルはそれとなく人の流れを逸れた。
「分かりやすくていいね、その格好」
「ハレの日ですから。神殿のほうは?」
 アルテスがささやくのへ、ユズィルはうなずき返す。
「イオが率いてくれてる。評議員たちも自前の護衛を連れて、外で待ち構えてくれるってさ」
「おおっ」
 アルテスはぐぐっと拳を握り締め、居並ぶ人の頭ごしに、闘技場の客席に目をやった。幼い子どもやきれいなお姉さんが混じってたらやだな、と思っていたけれど、幸いにして客連中の顔つきは、そろいもそろってアルテスのやる気を倍増させる出来だった。
「人波も、そろそろ落ち着くでしょう。もうすぐ会長たちの挨拶の時間になる」
 入り口が閉ざされてからが、アルテスの出番だった。
「気をつけなよ」
「もちろん」
 アルテスは顔を緩ませながら、ハルハを探しに人波へ消えるユズィルを見送る。頬はゆるんだままだった。
 ああ、ようやく会長に一矢報いることができるのだ。村を追い出されることになったあの技術も、ここでなら遺憾なく試すことができる。

 やがて、入り口の扉が閉められた。
 壇上に会長たちが姿を現し、挨拶を始める……。

■Scene:奴隷市〜正々堂々


「別に助かりたいなんて、今さら思ってないから」
 ソラを連れたニクスとイリスが、雑多な物置と化した小部屋からエレイン人形を見つけ出し、アルフェスの札を貼るやいなや、エレインの言い放った第一声がこれであった。
「あたしは戦うべきときにきちんと戦ったの。だからこれでいいのよ」
 イリスはおてんばな妹が、かすかにきしむ関節をひねりながら起き上がろうとしているのに手を貸した。
「エレイン君、私は手伝うよ」
 鍛冶屋の姿とその手甲に気づいたエレインは、一瞬菫色の瞳を細める。
「何、君が動けないのなら抱えてやって、君のやりたいようにやれるよう手伝うつもりだったんだがね」
 大きな手で顎をさすりながらイリスはそう言った。
「ありがとうイリスさん。アルフェスの札のおかげで、その必要はないみたい」
 エレインは皆が見守る中、ゆっくりと腕や足を動かした。多少の疲労感はあるものの、鉛のような手足もどうにか思い通りになるようだった。
「上等よ。あの鶏冠頭、目にもの見せてやるわ!」
「あんまり危ないことは、よしてくれよ」
 ニクスが眉根をひそめる。アルティトといいエレインといい、若いお嬢さんの無茶はどうも落ちつかず、見過ごせない。自分の娘が無茶しているような気になってしまうニクスだ。
「危なくなんかないわ」
 楽しそうにエレインは答えた。
「あなたたち誰も見てなかった? あたしの初舞台、《ディルワースのサーガ》。はん、おお笑いよ! 剣が突き刺さったってあたし、死にやしなかったんだもの!」 
 あの瞬間、剣の切っ先がエレインの身体を突き抜けて、背後の柱まで貫いたのがエレインにも分かった。ずしんと響く衝撃。でもそれだけ。
 あたしは死なない。これは、ハルハのトンチキのお陰。
「スイもいるなら言っといて。くれぐれも邪魔だけはするなって。身代わりなんかいらないからって。いい? それはあたしに対する侮辱なんだから。ああ、ソラ、あんたもよ」
(は、い)
 ソラは毒気を抜かれたように答えた。砂漠の部族は、何よりも侮辱を嫌う。そんなことを知らないソラにも、エレインの迫力は怖いほど伝わる。
 エレインだって負けない自信があった。たとえスイが何者であっても……彼が普通の人間ではないことをエレインは確信していたのだが、これだけは譲れなかった。

(もうすぐはじまる)
 ふいにソラは首をめぐらせた。ニクスとイリスにしがみついていた手に、力が入る。
「そうだ。ハルハを探さなきゃな」
(ハルハ……)
「大丈夫さ」
 ソラの手を握り返し、ニクスは微笑んだ。そうだ、ハルハがどんな奴なのか、対面してみなきゃ分からない。ひょっとしてソラにだけは、とてつもなく甘い顔を見せるのかもしれない。
「ハルハにちょっと手をとめてもらって、頭を冷やしてもらえばいい」
(やっぱりハルハは、悪いことをしてるの?)
 悲しげな顔つきのソラを、エレインは叱咤した。
「奴隷市なんかやっちゃいけない。それだけのことよ。口にすれば一言だわ。ソラ、あんただって知ってるはず。あたしとつながって、あたしの心を見たのなら」
 少女はうつむいた。
 ハルハにも何か目的があるのだろう。そのことは、薄々エレインも察していた。それは悪いことじゃないとも。ただエレインの正義と相容れないだけだ。これまでも、これからも。
「ソラ君、ハルハ団長の居場所は分かるのかね?」
 こくり。かすかにうなずいたソラは、イリスと握り合った手を一角へと向けた。
 ニクスは銀色の篭手を軽く叩く。ちらちら光る粒が、ゆっくりとたゆたいながら、ソラの示した方向へ流れ出してゆく。かろうじてニクスの思い通りになるもの、光の粒たち。それ以外のすべてはままならない。
「ようし、行こうソラ」
 エレインも気をつけて。そう言うニクスに、エレインは不敵な笑みを浮かべた。
「あたしは死なないんだから、そっちこそ頼むわ」
 ニクスとソラが去っても、イリスはその場に佇んでいた。行かないの、と聞くのもおかしく、それでも気にしながらエレインは彼を見上げた。イリスの黒い瞳と、目が合った。
「そろそろ行くかね、ディルワースの姫君」
 よしてよ、ろくでもない。いつものエレインならそうやって一笑に付しただろう。
 だがエレインは、優雅な所作で貴婦人のごとく一礼し、イリスの差し出す無骨な腕にその手を乗せて微笑んだ。

■Scene:奴隷市〜道理の声


 楕円の闘技場の真ん中に、ひときわ高く舞台がしつらえられていた。会長たちの挨拶が、大音声で響き渡る。アルテスは首を伸ばして覗いてみた。恐ろしくもおぞましい、白鳥のような羽毛の衣装に身を包んだ会長たちが、かわるがわる熱っぽい声をはりあげている。
「うえええ」
 どのようなセンスの持ち主がデザインしたものだろうか。
 頭の天辺からつま先までを包み込む肌着は、身体のラインを隠さず示している。肌着はふわふわの羽毛で覆われており、さあ触れて撫でてと言わんばかり。首から肩にかけてのラインには、これまたごてごてと悪趣味な装飾品がぶらぶらしており、際めつけにその背には、大ぶりの白翼が広がっている。そのせいで足は短めに、頭は大きめに見えるうえ、ふたり並ぶとこの翼が邪魔なことこのうえない。
「悪趣味だ。悪趣味が服を着て歩いてる……」
 今にも熱を出しそうだったが、アルテスは耐えて待った。それに、今ぶっ倒れようものなら、白鳥親父の幻影を見ることは必至であった。

「上はもう片付いたよ」
 移動してきたアーサーが声をかけた。
「物足りないくらいだったな。人が来なかったから」
 人を見る目のない連中だったんで、遠慮なくやってきちゃったよ。そう言いながら、アルテスの頭越しに観客席を一望して、アーサーは嘆息した。
「こっちは大入りじゃないか。彼らも人脈だけはあるんだねえ」
「人望じゃないとこがミソですよ」
「ハルハはどこにいるのかな?」
「さっき見ましたよ。白い礼服姿でした」
 そう言ってアルテスは思い当たる。もしかして白鳥親父の衣装は、ハルハの白と色を合わせたものだろうか。いずれにせよ、悪趣味に変わりはないのだが。

「商品の箱はどこだ?」
「まだ運ばれていないのか? 日雇いの奴はどうした?」
「へい、只今……」
 アーサーとアルテスの脇で、会長に雇われたらしい人足が怒られている。手際が悪い、賃金は半分だと難癖をつけられ、あげくに荷物を急いで運び込むよう指示されていた。
「あいつら……ミゼルドに来たときにぶいぶい言わせてた奴ら?」
「そうみたいだねえ」
 《ミゼルの目》に雇われたことを居丈高に叫んでいた連中だった。
「これでミュシャ君の仕返しにはなったかな?」
 アーサーは声を殺して笑う。

 もちろんミュシャは、それしきで満足はしなかった。
「ざまみろー。へへーんっ」
 彼らが顎で使われているのを見届けてからも、なおも彼の頭は働く。
「……ここにいるってことは、みんな悪い奴らなんだよね」
 観客席を見上げ、そこに座っている人々を眺める。でっぷり太った人間が多かった。懐同様に、胃袋も肥えているとみえる。彼らは、けして広くはない観客席に詰め込まれていた。
「いいこと思いついたっと」
 小さく舌なめずりをして、ミュシャは観客席へともぐりこむ。

■Scene:奴隷市〜まやかしの義務


『届け、届け、この想い……どうか気づいて、ソラ』
 はっとソラは空を見やった。
「どうした」
(……セレンディアと、カイの声が)
 ニクスは小さくうなずいた。廃園で出会った、不思議な少女セレンディア。どこか面影は、マンドラゴラたちと似ていた。儚げで、生きているとも思えない、言葉を持たない少女。
 報告する必要があるのかもしれない。そんな考えがニクスの脳裏をかすめた。セレンディアは追われているらしかった。では、誰に? 何のために?
「まあいい。そんなのは後、だ」
 自分に言い聞かせるように、そうニクスは呟いてソラの手を引く。
 光の粒たちが、ハルハを見つけ出したのだ。今はまだ、自分はミゼルドにいる。セレンディアと名乗る少女について調べるのは、ソラをハルハと会わせてからでも遅くはない。
 目的があって放たれているわけではないのだから。
 もう働く必要も、本当はないのだから。

3.黒の願い へ続く


第5章|白の願い赤の願い黒の願いマスターより