第5章|白の願い|赤の願い|黒の願い|マスターより|
3.黒の願い
■Scene:奴隷市〜幕開け
白い礼服姿のハルハは、会長たちが壇上から招くのに応じて舞台へとあがる。細身の彼が醜い白鳥たちの間に立つのは滑稽だった。会長たちが、ハルハを引き立てる役にしか過ぎないように見える。
「お集まりの皆さま、ご紹介に預かりました私、ハルハ・シーケンスです」
(ハルハ)
ちらちら光る粒を周囲にまとわせて、ソラは目を瞠った。その脇で、ニクスも食い入るように壇上の三人を見守る。
「今日もまた、この一年の間に集めた極上の品を皆さまにお見せできること、この上ない喜びです……」
なんて顔だ。舞台の陰でイリスは思う。薄く口の端を上げたハルハの表情は、言いようのない違和感を漂わせていた。猛禽? 違う。商人の顔つき? それも違う……。
イリスの眼前には、ハルハが言うところの極上の品々が、出番を待っていた。
木箱からそっと取り出された、みずみずしい果物のような人形たち。彼らの準備をしているのは、サーカスの道化だった。取り出したのが、かつての仲間であるはずの踊り子であっても、彼は顔色ひとつ変えない。淡々と作業をこなしている、その姿こそハルハに従順な人形のように、イリスには見えた。
エレインは道化をからかうように、彼が目を離している隙に、そっと人形たちの間に滑り込む。これで舞台にあがることができるだろう。売り物ですらないあたしでも。
「それではご観覧の皆さまと、この場にお招きくださったカイーチョ家のお二方に、心より祝福を……年にひとたびのこの機会、存分にお楽しみくださいますよう……」
ハルハはしなやかに白鳥親父たちの手を取ると、深深とお辞儀した。
「見え見えの芝居だな」
イリスがつまらなさそうに鼻を鳴らす。
その瞬間、部外者の存在に気づいた道化がくるりと身を翻し、イリスの背後から刃物を振りかざして飛びかかった。
「やれやれ」
ゆっくりとイリスは振り返り、その太い腕であっという間に道化をふっ飛ばした。
「そんな玩具では動じんよ」
ぱきり、ぱきりと腕の関節を鳴らしたイリスは、凄みをきかせて道化をにらむ。
「邪魔はせん。ただ見ているだけだ」
あんたはあんたの仕事を続けるがいい。呟くようにそう言うと、イリスはまた関節を鳴らした。どうも、身体が鈍っているようだ。
「ハルハちゃんありがとね〜。それじゃあさっそく、競りへと参りましょ」
何時の間にか、ハルハの挨拶は終わっていた。
会長たちが競りの開始を告げると同時に、灯りの色が切り替わった。ハルハの魔法だろうか、サーカスの演出によく似ている。色とりどりの紙ふぶきが舞い上がり、赤黄青桃、ちかちかとまばゆく明滅する照明球が、闘技場一帯を落ち着かない色彩で照らし出した。白鳥親父は、不気味なまだら模様に変わる。
「毎年言ってるからみんなもう覚えたと思うけど、注意事項よ?」
「お買い上げはひとり一点まで、いつもにこにこ現金払い」
「お人形は、どのように扱うも自由。お支払後に人形の鍵は外してあげるわ」
「それでは最初の品。旅団の踊り子の登場でーす……」
わああああ……。
割れんばかりの歓声と拍手の中、道化は最初の人形を抱え壇上へと登る。入れ替わるようにして、ハルハが舞台を降りた。うつむき加減の赤髪に隠れ、ハルハがどのような顔をしているのかは分からない。
■Scene:奴隷市〜死せる願い
「あ、見つかっちゃいましたね」
ハルハと対峙したスイは、緊張感の欠片も感じさせない声で言った。
「ソラの身代わりのつもりかい?」
「違いますよ。だってソラちゃん、貴方に会いたがってるらしいですから」
「そう」
さも当然のことのように、ハルハは鷹揚にうなずいた。おやおや、自信家ですねえ。スイは内心でため息をつく。
「ソラはどこに?」
「仲間がね、ニクスっていうんですけど、彼が連れてきているはずですよ」
するり。扇子を持つ手が、しなやかに伸びる。長衣の袖からのぞく腕には、色鮮やかな朱印が刻まれていた。
一万……二万……五万……。
奇妙な抑揚のついた声で、踊り子に値がつけられていく。
五万……十万……三十万……。あっという間に、スイと一夜を過ごした踊り子の値札が書き換えられていく。
百万の金貨を重ねたって、あの満月の夜、楽しんだ思い出を買うことはできないというのに。
むなしくて、愚かな行為だ。なぜ人間たちは、命に値段をつけられるのだろう?
「貴方は自分では探さないんですね。ソラちゃんには、貴方の居場所も分かるというのに」
「探しているよ」
「待っているだけでしょう?」
黒い扇子が送り出す風が、ハルハの長い前髪を揺らした。
「貴方にはソラちゃんは渡せませんね」
「君に何が分かる?」
「何も。貴方の女の子の扱いが下手すぎること以外には」
ハルハは冷ややかにスイを見据えた。
「もうすぐ私たちのサーカスが始まるんですよ……ほら」
スイは背後の舞台を振り返る。踊り子の寝顔がちらりと見えた。観客席からでっぷりと肥えた老人が進み出て、硬直した踊り子の身体を横抱きに受け取るところだった。
「お次も踊り子よ。今お買い上げいただいた子の同僚、サーカスではお姫さまの役もこなした、この人形は……それでは十万から」
道化の姿に化けたイリスの手で舞台へ運ばれたのは、そっと目を伏せたエレイン人形だった。
■Scene:奴隷市〜すべてを今ここに
二十万……四十万……五十万……百万……。
ラフィオは即座に術を組み立てた。
「万物の定めの欠片……定まらぬ影、炎の象り、そして透明なる痕跡」
青年が巧みに動かす両手の間、ふつふつと沸騰するように沸きあがった光が、たちまちのうちに色と形を生み出していく。ゆらめく魔力で魔法陣が描かれる。
幻影の式に煙と匂い。方術と呼ばれているその技は、魔力を込めた指先の、複雑な動作によって術を編み出すものだった。
「欠片たちよ、ここに来たりて力と成れ!」
鋭い気合とともに、ラフィオは魔法陣の中心を突く。
そして光がはじけた。
百万、お後は……はい百と二十万……。
「火事だぁーっ!!」
一斉に、四方から叫び声が上がった。ざわついた観客席の中ですぐさま立ち上がったのはユズィル。彼女は即座にラフィオの居場所を指差した。
「煙だっ! 火の手が上がってるぞっ!!」
ざわついていた観客席は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。ラフィオはそっと後ずさり、駄目押しでもう一回、同じ式を組み立て放った。
ノヴァ、聞こえたかい。エレインが言ってたんだけど、あらゆる兵器のなかで一番破壊力が強いのは、火、なんだってさ。ノヴァ、君がいてくれたら、君の力があったなら……ホンモノの炎の息を吐くことだってできたのに。《竜》の炎はすべてを破壊する。
「でも今は、自分でやるしかないんだよね」
少し気分の晴れたラフィオは、ハルハの旅行鞄を探して駆け出していく。なぜ年若いエレインに、軍事用兵の知識があるのかをかすかにに訝りながら。
「こっちにも、火が回っているぞお〜」
楽しげにそう叫ぶと、アルテスは一息吸って合言葉を唱えた。
「ぼーん、ぼやーじゅう!」
ドカン、バリバリバリ。そして、ざらざらざらざら……。
隣にいたアーサーが、思わず耳を押さえてうずくまるほどの破裂音。彼の背後には、さっきまで出入り口だったものの残骸が、がれきとなってその先を埋めていた。
「あー、すっきりしたぁ」
アルテスは土埃にまみれた顔に満面の笑みを湛えた。
「君の技かい、アルテス?」
「いやぁ、さすがに一軒家をふっ飛ばしただけのことはありました。って考えてみると、僕が村を追い出されたのも無駄じゃなかったんですねえ」
「何だって? 村を追い出された?」
「恥ずかしながら」
どっかと瓦礫の上に身体を投げ出し、アルテスが答える。アーサーもその横で、これまたのんびりと四肢を伸ばした。
「新しい付与魔法を研究してたら、組み合わせが強すぎたらしくて。気づいたら家が粉々になっちゃってたんですよね……」
■Scene:奴隷市〜蠢動
ずずず……ん。
地底深くから、腹に響く鈍い衝撃が伝わってきた。
「ハルさん」
セイエスは途端に頼りなげにハルを見る。
「なんて顔してんだ」
ずずず……ん。
「始まった、か。アルテスさんが通路を塞いだんだ」
「アルテスさんが?」
「俺たちみんな、そのくらいの力はあるんだよ。セイエス、あんたにも」
ハルは急いで身支度を整えた。俺やセイエスの持つ力。あくどい奴らを懲らしめたり、見る夢の意味を確かめたりできるくらいの力。
「僕、僕にも力はありますか? 皆さんの助けになるような」
戦斧を手にしたハルへ、セイエスはすがるように尋ねた。
「もちろん、あんたにしか出来ないことがある……行こう。人手が必要だ」
ハルは大きく腕をあげ、セイエスを渦中へと誘った。
遠くから、また足元から、たくさんの悲鳴が漏れ聞こえてくる。
■Scene:奴隷市〜騒乱
「へっへー。百人斬り達成〜」
観客席の反対側から、ミュシャのバンダナ頭が突き出した。狭い客席の間を縫うように走り回った間に、彼のカーゴパンツには百人分の財布がぎゅうぎゅうにつまっていた。さすがに端まで来ると、脇をすり抜けるのも大変だった。
瞬く間にすべての財布から一枚だけ銀貨を取り出し、ちゃっかり自分のポケットへ入れると、ミュシャは来た道へ再びもぐりこんだ。
「お返し、お返し。僕に乱暴した奴ら、みんなぼこぼこになっちゃえばいいんだー」
盗賊の本領発揮。ミュシャはスった財布を、きちんとひとつ隣の席の人へ返して回る。ミュシャをいじめたことのある奴には、数人分の財布をまとめて返却するという念のいれようだ。
「火事だぁ、火事だぞう! みんな燃えちゃうぞう〜! 大変だ大変だ〜!」
精一杯叫びながら、ミュシャは観客席を駆け回る。お頭たちのことは、今だけは頭になかった。それでいいんだ、僕は、ひとりでもここまでやれるんだから。
「ああ、財布がない!」
「それは俺の財布じゃねえか。この野郎っ」
たちまち、血気にはやった数人がつかみ合いを始める。観客席は輪を掛けた混乱の中に陥った。
「おい」
はしこい盗賊の首根っこを、ひょいとユズィルがつかむ。
「わわっ、ユズィル姉さん! 見てたの? 姉さんのはスってないよう〜」
「当たり前だ」
ユズィルはミュシャを引っ張ったまま、壁際へと連れて行った。ただでさえ狭い通路は、その場から逃げ出そうとする人々で身動きもとれないくらいになっている。
「ハルハは? ソラはどうなったんだ?」
「しらな〜い」
ぷるぷるとミュシャが首を振ったその時。
(ハルハ!)
悲鳴にも似たソラの叫びが、旅人たちの心に響き渡った。
壇上の会長たち、不気味な白鳥の衣装に身を包んだ中年ふたりは、烈火の如く怒っていた。
「誰よ! 誰なのよ、邪魔をする奴は」
「冗談じゃないわ、あいつに決まってる。バウトよ。きっとそうだわよ!」
「ちょっとみなさん、聞いて。火なんてすぐ消させるわ!」
「競りよ、競りの続きをするのよ」
だが。
一度ひっくり返った水は、もうもとの入れ物には戻らない。会長たちの目にも今やはっきりと、闘技場のあちこちで上がる煙と火の粉が見える。そして煤けた苦い臭いまでもが、彼らの鼻腔を刺激した。
「ウソよ、ウソよこんなの」
「ハルハ、ハルハ! どこにいるの」
次第に火の手が強くなる。黒い不吉な煙が頭上にたちこめ始めた。ラフィオの幻影方術は、ほとんど完璧にそれらを再現していた。
「熱く……ないじゃないの」
熱以外は。
「そうよ、これは魔法よ!」
「ハルハ! 助けなさい!」
彼らがしきりに叫んでも、ハルハの姿はまだ見えない。売りに出された直後のエレイン人形と並んで、会長たちは舞台に置き去りにされた格好だ。
■Scene:奴隷市〜慄き
「会いたいのなら、会わせればいいじゃないか!」
逡巡していたニクスの手を振りほどいたのは、カルマ。
「ソラ、行こう。ハルハが待ってる」
(本当?)
おずおずと問うソラには答えず、カルマは彼女の手を引いて駆け出した。
「おい、待てよ!」
ニクスが銀の篭手から光の粒を開放する。きらめきがふたりを追いかけた。光の粒の数に比例して、ニクスの肩には疲労がのしかかる。先にラフィオの方術を拡大させていた疲労と重なって、ふらりと足がよろめいた。
ソラと駆けていくカルマの身は軽い。もう手の届かない先を走っている。
「カルマ! ……くそっ」
ニクスは舌打ちして身を翻す。成るようになればいい。ソラが決めることだ。
「これだけでも残しておく価値はあるだろ」
懐から取り出して、目に付くところにそれを置く。帝国の印のついた偽封書は、ニクスが準備しておいたものだった。誰も見つけてれなければそれまでだが、策は多いほうがいい。
「……何だかんだ言って、俺ってこの仕事、好きなのかねぇ」
よろめく足どりでニクスが辞した後、会長たちの悪事を糾弾する文書は、ひたすら発見される時を待っている。
「いいんだ、遠慮なんかしなくていいんだ」
手だけをつないで、顔は前を向いたまま、カルマは吐き捨てた。半分は自分に言い聞かせた言葉だった。
「大好きな人にずっと会えないままだなんて駄目だよ。誰だって人を好きになっていいし、それを止めることなんてできないから」
(みんな……別々のことを言うの)
ソラの心が揺れている。ハルハを信じる想い。ついていきたいと願う気持ち。
その反対側に、心を許した旅人たちそれぞれの言葉がある。
(わたし……行きたい。でもわたし……こわい)
「僕も、怖いよ。いつだって」
カルマは明るくそう言って見せた。ハルハは悪い奴なのかもしれない。カルマには分からない。ソラには分かるだろうか? 分からなくてもソラがそれでいいなら、行かせるべきだと彼は思った。
「ねえソラ、どうしてソラはハルハ団長のことが好きなの? 乱暴に扱われて、それなのにどうして?」
それはソラに対しての、素朴な疑問だった。
優しさを受けたことのない相手を、カルマは好きだと言えないだろう。そして逆に、優しくされた相手をカルマは好きになる。そして自分と相手の距離に思い悩み、傷つき続けてきたのだった。
(だってハルハは……)
「うん」
いいね、ソラは。そう想える相手がいて。
(ハルハはわたしのことが、必要だって、いったの)
だからわたしは、ハルハのそばにいたい。
「僕分かるよ。その気持ち……」
行く手に、ハルハがいた。
■Scene:奴隷市〜佳人の誇り
エレインは壇上でひとり、高らかに笑った。
「あっはは、馬鹿みたい! あんたたちあれだけ偉そうにしておいて、ハルハに頼り切ってるわけ?」
腰に手を当てて顔を突き出すエレインを見て、会長たちは飛び上がらんばかりに驚いた。
「きゃああああああ」
「しゃ、しゃべった! 人形なのに!」
「ハルハ、ハルハの術が聞いてないのよ! ハルハーっ」
馬鹿じゃないの。エレインは壇上でくるくると踊り、挑発的な仕草をして見せた。
「これはハルハの意志、ハルハがあたしに命じたこと」
「なんですって」
会長たちが目をむいて、エレインにつかみかかろうとするのをひょいとかわす。
「ハルハが命じたの。すべて燃やせ、灰にしろ、これはハルハの意志!」
くすくすと楽しげに、エレインは踊る。会長たちをからかい、虚仮にしながら、叫び続けた。
これはハルハが命じたことだと。
ハルハは言った、お好きなようにって。だから気の済むまで引っ掻き回してやる。好きなようにして何が悪いの?
「ハルハが裏切るはずないじゃない、騙そうったってそうはいかないわ」
「そうよそうよ」
「あんたたちが騙されたのよ。まだ分からないの?」
エレインは腕を組み、ひらりと会長の頭上を飛び越える。
「あの鶏冠頭はあんたたちを利用しただけ。あいつはあんたたちのことなんか、全然見てない」
だからほら。あたしのことだって、ハルハは人形にしなかったのよ。
エレインの言葉に、会長たちは顔を見合わせる。激昂で茹であがったその顔色は、赤を通り越してどす黒い。
「あんたみたいな小娘なんかより、あたしたちのほうがずーっとハルハとの付き合いは長いのよ」
「ハルハ、許してあげるから早く来て頂戴」
「……何て滑稽なの。捨てられた女が男を必死に呼び戻す台詞でしょう、それは」
エレインは確信した。みじめな会長たちは、ハルハの駒にすぎない。
本当にミゼルドを今支配しているのは、《ミゼルの目》の背後にいるのは、ハルハ・シーケンスだ。
それなら真っ向勝負しかない。エレインはそう決めた。
ハルハの正義とエレインの正義。信念を賭けて戦うしかない。
「砂漠流だってことは、分かってるつもりなんだけど」
顔は向けずに、けれども言葉はイリスに向けてエレインは呟いた。
「あたしは他に方法を知らないし、ミゼルドで通用するかどうかも分からないんだけど……」
イリスは黙して、エレインの次の言葉を待つ。いたずらっぽくきらめく菫色の瞳から、その気性から、だいたい予想はついていたのだが……。
「決闘を申し込んだら、鶏冠頭、受けて立つかしらね?」
こればかりはイリスには、返事のしようもない。
■Scene:奴隷市〜余震
アルテスの魔法で封じられた出入り口には、混乱の極みに達した観客たちが殺到していた。
「はいはい押さないで、慌てないで」
観客たちを誘導する先は、一つだけ残した階段だ。
「危ないんで走らないでくださいねぇ」
「この先は狭くなってる。くれぐれも通路を壊さないようにね」
アーサーは剣の鞘を左右に振りながら、彼らが列を崩さないよう誘導していった。
階段は評議所へと続いている。ユズィルに説得された評議員たちが、自警団を引き連れて待機しているのだ。出てきた奴らは片っ端からふんじばるという寸法である。
「なかなか地下通路も便利だね」
「ええ。引っ立てられてくのはイヤですけどね」
アルテスは景気づけにもう一発、魔法を使って壁をぶち抜いた。
ずずずう……ん……。
ざらざらざら。土砂が崩れ落ちる音が聞こえると同時に、アーサーの鎧にぱらぱらと小石が振りかかった。
「ちょっとやりすぎた、かな?」
頭上を見上げるアルテス。さらさら、ぱらぱらと降り注ぐ小石の雨は、やみそうもない。
「千年経ってるわけだからねぇ」
「急いだほうがいいかな、みなさーん……」
■Scene:奴隷市〜自覚
メルダもリヴもカリーマも、ハルもセイエスも、そしてミュシャも。
ルドルフの側には誰もいなかった。混乱の極みに達している観客たちは、口々に罵りわめきながら、てんやわんやでルドルフの前を行き過ぎていく。こんなにたくさんの人を前にして、ルドルフはひとりぼっちだった。
「お……ご、人形」
人形の踊り子を抱えた貪欲そうな老人が、口汚い言葉を連ねながら足早に通り過ぎる。
目を閉じたままの人形にふと視線をやったとき、ルドルフの心の片隅がふっと軽くなった。引きちぎった鎖輪は、まだルドルフの足をつないでいる。その先にいた老婦人、彼を奴隷生活から救ってくれたはずの恩人はもうこの世を去って久しい。
「おお……ぐごうわべあがあぢっるぐ……」
ルドルフの口の端から、だらだらとよだれが垂れる。その異様なふるまいにも、混乱の中で目を留める者はいない。
老婦人がいなくなった空白、その悲しみが突然ルドルフの元へと舞い戻ってきた。周囲に人がいればいるほど、ルドルフの孤独はいや増した。彼は人間以下の化け物として、常に人々に虐げられてきたのだから。だからルドルフは物言わぬ獣になった。獣は彼に優しかったから。
「ああ、おおう……メルダ。ハル……ミュ、シャあああ」
旅人たちは彼に優しかった。対等の扱い、それすらルドルフは知らなかった。一度知ったその甘さを、忘れることは辛かった。
「面白いな、君は」
何時の間にか、ハルハが目の前に立っていた。力なく背を丸めていたルドルフの、したたるよだれを彼はそっと手でぬぐった。
「獣が人間になったのか、人間が獣になったのか……珍しい」
彼が何を言っているのか、ルドルフには理解できない。自分を恐れず近づいてくるハルハの顔には、甘い笑みが浮かんでいた。
怖い。でも知りたい。
ルドルフの野性が告げる。これは危険な相手だ! ぞわぞわと体毛が逆立つのに、ルドルフはその甘い笑みをもう少しだけ見ていたい、と思った。ハルハはルドルフの懐で、丸太のようなその腕や、足首の鎖輪をそっと撫でた。
「キミのことだよ、ルドルフ?」
分からないのかい、まあいいや。ハルハはふんと鼻を鳴らす。
ずずず……、ずず、……。
「キミに答えを、僕があげよう」
ルドルフはゆっくりと瞬いた。ハルハの赤い髪が視界に焼きついた。体毛はルドルフに、変わらず信号を送り続けている。……だがルドルフは動かなかった。赤い髪で視界を満たしたまま、心地よいハルハの声にすべてをゆだねた。
「僕とおいで。僕のものにおなり」
闘技場に満ちる叫喚は、ルドルフの耳にはもう聞こえない。
「そうすれば二度ともう、キミはひとりじゃなくなるよ」
「うぐ、がぅわおおお……」
ハルハが口をゆがめて笑う。
「いい子だ」
ルドルフは立ち上がった。いい子だと言われるのが嬉しかった。老婦人はいつも言っていた。困っている人を助けなさい、苦しんでいる人の力になりなさい。彼女の元にいた時の満ち足りた気持ちが、ハルハの側で再び味わえるのなら。
■Scene:奴隷市〜壁
「ソラ、ハルハ団長だよ! 団長、ソラちゃんを連れてきましたよ!」
カルマはソラの背中を押すようにして、ハルハの前へ連れ出した。ラフィオの幻影方術が生み出した、熱なき炎の舌が、ソラの白いスカートやハルハの白い衣装の上に、赤々と模様を描き出す。
「お帰り、僕のかわいい歌姫」
巨人の奴隷を従えて、ハルハは凄惨な表情で笑う。その手がソラを招くように伸ばされる。
ぱしん!
ニクスの放った光の粒が、ソラの周囲にまとわりつくように浮かんでは眩しい光を弾けさせた。ニクスは不満げに眉根を寄せる。
「歌っておくれ、僕のために。そして哀れな古代の残り香のために」
ずずずう……ん……。
一際深いところから聞こえる響きとともに、がたんと何かが崩れた音がした。会長たちが立つ舞台が、土台から揺れて倒れたのだ。エレインとイリスは難なくその身をかわしたが、装飾過多の白鳥たちは互いに身動きもとれず、途中から割れた木材の隙間にはまりこんでしまった。
「ユズィル姉さん、あれ!」
ミュシャが観客席から身を乗り出すようにして、階下の闘技場を指さした。
「うへ」
崩れた舞台の下に隠されていたものが、再びあらわになっていた。黒々と聳える断頭台。幻影の炎に照り映えて、ぬめぬめと怪しく光沢を帯びている。
「なんでアレの上で競りなんてできるんだ? どういう神経なんだい!」
「見て、影が」
ミュシャの聡い目は、むせび泣く黒い影たちが再び形をなして闘技場をたゆたっているのに気づく。
「旅行鞄!」
ラフィオはようやくそれを見つけた。ハルハが立っている足元に、無造作に置かれている古びた鞄。
「あれさえあれば、ノヴァが」
あの中に光る珠があるはずだ。ラフィオは手馴れた手つきで方術を組み立てた。幻影、力、そして《竜》。光る指先で描いた陣から生まれる、子犬ほどの大きさの翼もつ《竜》。
「行け、式よ。あの鞄を奪うんだ!」
ふぉん、と掻き消えた《竜》型の幻は、次の瞬間その輪郭を滲ませながらハルハの傍らに現れた。後肢の爪をのばし、使い込まれた革の持ち手をつかむ。
ずずずう……ん……。
「またキミか」
ソラと対峙していたはずのハルハは、ラフィオをねめつけた。
「くっ」
ハルハが手を伸ばし、式に触れようとする。ラフィオは素早く式を変化させた。《竜》型の幻は青白い火花を纏い、鞄をつかんで上昇しかけた。
(ハルハ、やめて。そんな怖い顔、しないで)
ソラが悲鳴をあげる。
「だめか、間に合わない」
冷笑を浮かべたハルハの動きは速い。ラフィオは顔をゆがめながら、陣の中心を突いて式を解いた。青白い火花の閃きと輪郭の残像だけを残し、《竜》型の幻は引き裂かれるように消えた。
残った火花は鞄の持ち手を焼き焦がし……鞄は空中でぱくんと口を開け、中身が大粒の雨の如くばらばらと転がり降り注ぐ。
「……」
ハルハは小さく舌打ちした。ラフィオはすかさず叫ぶ。
「ノヴァ! ノヴァーリーストレティア! 真のその名において、真実の姿を解放せよ!」
ひときわ明るく光を放った珠があった。ラフィオは銀糸のマントを翻し、その珠をつかむ。
これで起きてくれ。お願いだよ。
「大好きな肉じゃないけれど」
祈るようにしてラフィオは珠をノヴァの口に押し込んだ。
ずずずう……ん……。
■Scene:奴隷市〜残酷な甘露
ハルとセイエスが闘技場に辿り付いた頃は、評議員たちが総出で捕縛の真っ最中だった。出口を求めて殺到していた人波も、半分は神殿送りにされただろうか、火事騒ぎの初端よりは通路も通りやすくなっていた。
「まずいな。石壁が脆くなっているぞ」
「え?」
「崩れるかもしれないってことさ。アルテスさんとアーサーさんは、どこだ?」
「人だかりがあそこに」
セイエスが白衣の裾を乱しながら、闘技場へ駆け出した。
「あれは……影!」
ハルも後を追う。
『我らの砦に徒なした者よ、迅く立ち去れ……』
幾体もの影が闘技場に湧き出した。
ハルハを囲もうとし、輪を作る。だが、気圧されたかのように近づくことが適わず、無念のうめきを残して次々と消えていく。
セイエスの歩みがとまった。怪訝な顔でハルはその視線を追う。
ハルハと対峙する、カルマの隣にソラがいた。
「白い少女……マンドラゴラの歌姫ソラ」
元気になったんだな。ハルはまずそれを安堵し、次いで、セイエスもこうしてソラに会うのは初めてなのだと思い当たった。ハルハは薄く笑っていた。ソラはどこか怖れているように見える。カルマとつないだ手は、なかなか放されなかった。
くそ、赤い髪。ハルは不機嫌に団長をにらみつけた。自分と同じ赤い髪が、とてつもなく不吉なものに思われた。そして……ハルハの背後に巨大な壁のように佇む男に気がついた。
どくん。ハルの身体の奥で再び脈動が始まる。
カルマとソラの、手が離れた。
(ハルハ、みんなを苦しめるのはやめて! わたしはあなたと行くわ。だから)
「勘違いしちゃいけないよ、ソラ」
面をあげた少女の顎をつかみ、その顔を覗き込んでハルハは笑った。
「僕は誰も苦しめない。僕は僕を満たす相手を探しているだけだ。ソラ、キミもそのひとり。僕にはキミが必要なんだ」
カルマはぐっと唇を噛んだ。いいのだ、これで。ふたりは求め合っているんだから。
(でも……ラフィオの犬が)
ソラはのけぞるようにして、床にふしたままのラフィオを見やる。
「やがて人は忘れるだろう。ひととき大切だと思ったものをなくした痛みも、そのことの大切さも」
ラフィオの胸元に、弱々しくも温かい拍動がよみがえっていた。
「でも僕は忘れない」
その言葉とともに、ハルハはソラを抱きしめた。
「赤い……」
セイエスが目を瞠る。足はすくんだように動かない。かわりに視線は、外すこともできない。
「ソラの服が」
白いワンピースの裾が、赤く染まっていた。まるでハルハの赤髪を映したように。まるで鮮血を浴びたかのように。
「約束どおり、今回は《竜》は返そう」
(ハルハ!)
弾むソラの声。だが次のハルハの言葉に、ソラは硬直した。
「だからルドルフ、ラフィオを倒して子犬を奪っておくれ」
ルドルフの逡巡、瞳の奥にかすかに灯ったのは禍々しい光。
「そう……いい子だ」
(ハルハ!)
ソラがハルハにすがりつく。けれど目覚めた野獣は、彼らの脇をすり抜けていく。
「くそっ」
ルドルフの動きに合わせ、ハルが地面を蹴った。彼が脱いで放った革鎧を受け止め、セイエスは茫然と佇む。
「ハルさん、ルドルフさんっ!」
観客席から見ていたミュシャも、手すりをひらりと飛び越えて、階下の闘技場へと身を躍らせた。
「ルドルフさん、やめてよおっ」
カルマの連れていた二匹の仲間、黒猫と子羊が、ルドルフの丸太のような腕でなぎ払われ、軽々と吹き飛んだのがゆっくりと目に映る。
「アルト! リリプー!」
駆け寄るカルマの力では、もちろんルドルフを止めることなどできない。
ラフィオは懐にノヴァを抱いたまま身をよじる。
(ハルハ、わたしがいるよ。わたしがいるから、おねがい。ラフィオさんには!)
「おで……いいご」
絶叫と咆哮がこだました。
■Scene:奴隷市〜本能が求めるもの
降り注ぐ土埃の中で、セイエスは見た。
ルドルフが無理矢理ノヴァを奪おうとしたその時、一声咆哮を放ったのはハルだった。見る間に筋肉質な彼の身体は濃い色の毛皮に覆われていく。
「うぐぉおあああああっ!」
胸元に月の形を頂いた赤い大熊が、ルドルフと取っ組み合っている。
「ハル、さん?」
セイエスは受け止めたハルの革鎧に、つと目を落とした。裏側に丁寧な字で縫い取りがある。記された名前は、ハリュードと読めた。
二匹の猛獣は互角の力で、辺りの障害もなぎ倒し転げ回る。
「人なる獣、キミもそうだったのか」
ハルハの台詞はハルに向けられたものだった。
ハルと心を通わせるソラには、彼の心の深淵が見えた。ハルは苦しんでいた。獣の力を秘めた自分に。ハルハの言葉が、彼の深く柔らかい場所を刺したことも、ソラには分かった。
「キミも連れて行こう。ハル。キミの居場所も、故郷にはないのだろう?」
ソラはハルハから身を引いた。
「だからハリュード、キミもおいで。僕はキミを認めてあげる」
駆け出す。ソラがカルマの元へ。傍観していたセイエスの元へ。ノヴァを抱いたラフィオの元へ。
(……たす、けて)
彼女の服が、次第に赤く染まってゆく。
「おいで、ソラ。おいで、ルドルフ。おいで、ハリュード」
甘い言葉は、誰のためのものなのか。
■Scene:神殿〜宴の始末
評議所で捕らえられた観客たちは、ぞろぞろと神殿へ運び込まれていく。一方では、商品にされた人形たちも無事に保護され、丁寧に別室へと横たえられた。最初の踊り子を百万で買った老人もお縄になっていた。
「この女性が、人形だったのか?」
その踊り子を目にして、イオは訝った。
「彼女は自分で動けるじゃないか?」
以前旅人たちが、人形の歌姫を連れてきたことを思い返す。あの時はアルフェスの札の力で、わずかばかりソラは力を得たように見えたのだが……。
「はあ、確かに買ったときは人形だったそうです。でも、支払を済ませると身体は動くようになるんだとか」
信徒のひとりが、評議員から聞きかじった話ですが、と締めくくる。
イオは踊り子を前にして、あれこれ聞き出そうと試みた。何と言っても、彼女は生き証人なのだ。
「安心するがいい、ここは神殿。何人も危害は加えぬ」
踊り子はゆっくりと目を開いた。綺麗な緑の瞳が、猫のようにイオを見つめた。
「まずそなたの名前を聞かせてほしい」
……沈黙。閉ざされた唇。かすかに震える頬。四肢は動く、首も、目も動いている。
「話せないのか?」
サーカスではしゃべっていたし、スイとも会話していたという。話せないのは、ハルハの術がまだ残っているからか。
「彼女を買い求めた老人は何と?」
「はぁ、それが、支払の時には会長がいて、黒い鍵で触れるのだそうです。そうすると、身体は普通に動くようになるんですって」
ふうむ、とイオは考え込む。
「ゆっくり休んでいくがいい、踊り子殿」
今はまだ、こう言ってやることしかできなかった。
第6章へ続く

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