1.万極星の道

Petite et accipietis,pulsate et aperietur vobis.


 ツェットは混乱していた。当初パレステロスからの依頼は《夜魔》退治だったはずだ。それがいつの間に《朱の大河》の洞窟探検になったり、《星見の民》の儀式をのぞいたり、いろんなことに変わったのだろう。
「あたし、今気がついた。そういえばはじめの目的ってちっとも解決してないね」
 がく。一行の肩の力が抜ける。こののほほん娘は今まで漫然と、《星見の里》の空気を満喫していただけなのだろうか。
「でも、でも、ちっとも解決していないのではなく、少しずつ真実に近づいているのですわ」
 グリーンがそっとイェティカに寄り添って答える。

 ここは《星見の里》の真ん中にそびえる塔。《星見の姫》の居城である塔の主は、今はイェティカとなっている。《成人の儀式》を終えて里に戻ったイェティカの瞳を見るなり、里長は何事かを察したらしい。双眸が金色に変わったイェティカ。《成人の儀式》について里長がみた《星見》の話を聞くと、少女はぼうぜんとしつつもこくりとうなずく。
「《その瞳に宿る星もちて すべてのくびきをたちきる刃となる》……」
「イェティカは、強い子だね?おまえには友達ができたのだろう?迷った時には、友達のことを考えるのだよ」
 里長はそう少女にいった。儀式以来、イェティカのそばには常にグリーンと、クロード・ベイルの姿があった。身を案じてくれる友達がついている限り、イェティカは大丈夫だろう。そう里長は安堵する。
「イェティカちゃん、なんで目の色が変わったのー?」
 サーチェスが不思議そうに金色の瞳をのぞき込んだ。
「万極星の光が、瞳に宿ったのじゃな。ラステルはもともと金色の髪だったが、ときどき我らの中には、金色を帯びた者が生まれる。それは万極星の力を強く宿した、先祖返りのようなものなのだよ。瞳が金というのは、はじめてだがのう」
「かっこいいなあ。ねえ、金色の世界が見えるの?」
「見えるのは……今までとかわんないよ」
「せんぞがえりってなあに? 里長さま」
「最初の《星見の民》の力を受け継ぐってことさ。子どもは親に似るだろう?」
「イェティカちゃんは、その最初の人に似てるのね。金色の世界が見えたらおもしろいのにねー」

 ツェットは数日ぶりに《万極星の神殿》に出かける、といった。
「あのときはよく分からなかったけど、何か見落としてることがあるかもしれないし、グリューンが見たっていう不思議な獣?それを見てみたいんだよね」
「……あいつ? 銀色の? なんか感じ悪いヤツだったけどな」
 グリューンは獣にされた仕打ちを思い出して口をとがらせる。瞳の奥が熱くなった。彼の一族に伝わる緑の瞳の力。あの獣にまたひどいことをされたなら、その力を解放できるかもしれない。
「じゃ、これから行ってきまーす。ちなみにジェニーもいっしょだから」
「うん」
 ジェニー・クロイツェルも立ち上がり、スカートの裾をととのえてからイェティカに声をかけた。
「お姉さんのことは、ちゃーんと頑張って探してるからね。イェティカちゃんも、泣かないでね」
「あ、俺も行くっ」
 グリューンが慌てて棍を持ち、ツェットを追いかけた。サーチェスも立ち上がる。
「サーチェスもっ★」
「うん、みんなで行ってみよー」

「気をつけてくださいね。私も、あの神殿にはまだ秘密があると考えているのですが……」
 グリーンは、心配事があるのでここを離れたくない、かわりにこれを、とツェットにランタンをさしだした。
「《クロノスの光》。精霊たちに頼んで、消えることのない、真実を照らし出す裁きの光を宿らせましたの。連れて行ってくださいまし」
 こくんとうなずいたツェットは、あたたかな光をもらしているランタンをそっと受け取る。
 ぱたぱたと出かけていった仲間を見送って、グリーンはにこにこと微笑んだ。
「ほんとに、グリューンさんは頑張りやさんですわ」
「分かりやすいよなー」
「ツェットさんが早く気づくといいですね。すてきな騎士がそばにいることに」
「先は長いんじゃないの?」
 クロードも頭の後ろで手を組んで、通りをかけていく4人の姿を窓から見下ろした。

 アデルバード・クロイツェルは、門のところでジェニーに手を振った。今度もふたりは別行動なのだ。また待ってるだけは退屈だ。里の外に出るのも久しぶりなので、わくわくする。
「バードはどうするの?」
「泉を調べるって。お父さん、一度はまっちゃうとひたすらやり続けるタイプなのよね。この前も、なんとかっていう香辛料にはまっちゃってさ、大変よー!何食べても、その香辛料振りかけるの。全部同じ味になっちゃうのに」
 ぷっ、とツェットは吹き出した。その様子がかんたんに想像できた。
「バードらしいや」
「じゃ、行きましょ!お父さんと打ち合わせしてるの……」

「生きてれば勝ち」
 らくだを操りながらグリューンはつぶやく。大切なお守り、ツェットの銀髪はターバンの中に巻いてある。よもやツェットの前でぶざまな行動をとるわけにはいかない。万一あの獣が襲ってきたときは、全力で守りに入ろう。
 彼はあの獣の恐ろしさが骨身に染みていた。たぶんあいつは、とんでもなく強い。でもツェットには良いところを見せたいし……。複雑な男心である。

 一方ツェットは、そんなグリューンの悩みを知らず、サーチェス、ジェニーと夢の話をしている。
「儀式の時にみた夢?」
「うん、サーチェス、銀色の狼さんを見たの。そんでね、サーチェスもね、おとなになったんだよ。イェティカちゃんも、おとなになったんだよね?フィーナちゃんもかな?」
「そうねえ、言われてみれば、フィーナちゃんもなんだか儀式の日以来、様子がおかしいわね」
「おまえが、大人に? まぁ、そんなとこに朱印してると、《星見の民》にも見えるけどな」
「ねえねえ、ツェットお姉ちゃんはどんな夢見た?」
 舌足らずの口調は相変わらずだが、サーチェスは嬉しそうだ。
「どんなのだったかな、銀色の狼は出てきた気がする。変なことしよーとするやつ」
「変なことだとっ」
 語気荒くグリューンが反応する。変なことってどんなことだ!
「しよーとしただけで、されてはないよ。それに夢だし」
「あいつめ、男には興味ないっていってたんだ。やっぱ危ないぜ、神殿に行くの。な、ジェニーもさ、バードが心配するよ」
「そんなこといっても、もう着いちゃったよ」
 目の前にそびえる、巨大な三角錐。

「《万極星の神殿》っていう名前の割に、入り口が南向きってのが気になるんだ」
 グリューンは気を引き締め、大きな階段を登った。
「万極星は真北にあるんだろ。アヤシイ!」
「うん、ほらあそこが真北なの。あのお星様が、万極星なのよ」
 サーチェスは小さな指を神殿に向けた。神殿に隠れて見えないけれど、どうやら間違いなく万極星の位置を示しているようだ。
「もしかして本当に《星見の民》になっちゃったわけ?サーチェス。万極星の場所が見えるのか?」
「えへへー。よくわかんないけど。お星様の場所はわかるの」
「《星見》もできたりして?」
 ジェニーがたずねると、小さな踊り子は首をかしげた。
「この印があれば、できるかもしれないの」

 扉を開けると儀式の時と変わらぬ部屋が目の前にあった。さすがに荒れていた部屋は掃除されていた。
「ここで儀式をしていたのね〜」
 ジェニーがきょろきょろ見渡した。父親との打ち合わせでは、この神殿のどこかに地下水路への道があるはずだというのだが。バードが里で泉を調査し、ジェニーが神殿から地下水路を調査して、つながっているかどうか確かめるつもりなのだ。グリューンも床に耳をつけ、地下への入り口の音の違いを聞き取ろうとしていた。
「窓、ないのね」
「だろー?」
「グリューンはそのとき、どこにいたの? 中に入れなかったんでしょう?」
「いや、俺も入れたんだけど、この部屋じゃなかった……なんていうのかな、別の部屋だったんだよ。どっかにからくりがあるんじゃないかと思ってさ」
 彼は北側を重点的に探索することで、神殿の構造をの謎を解こうと思っていた。
「もしかしたら、神殿がぐるんと回った、とかさ。俺途中で寝ちゃったから、その間に」
「どうかなあ。砂漠の砂に、動いたあとはなかったから、神殿全部が回転したんじゃないと思うよ」
「そっか。おかしいなあ。二重構造みたいだったんだけどな。間違いなく、部屋は二つあるんだ」
「部屋が回ったって可能性はあるかもしれないわね」
「だろ!? だってツェット、俺に声をかけたろ。俺がツェットの声を聞き分けないわけないからな!」
「……それが根拠なの」
 ジェニーはグリューンに、ある意味父親の影を見た。もしかしたら彼は将来、とってもいいお父さんになったりするのかもしれない。

 サーチェスはとことこと祭壇のそばに寄ってみた。儀式の時の夢と記憶がよみがえる。
「サーチェス、何かいった?」
「なんじのほっすることをなせ、なの」
 軽やかなステップを踏んで、くるくると少女が踊る。サーチェスはいつだって踊りたい。踊ること、それがサーチェスだから。3拍子、4拍子、くるくるターン。グリーンお姉ちゃんがいたら、あのきれいな歌と一緒に踊れたのになあ。イェティカちゃんも、踊りが好きだったらいいなあ。
「あれー?」
 とんとんとサーチェスのステップを響かせていた祭壇が、がたがたと妙に重い音をたてた。少女は回りながら祭壇からぴょんと飛び降りる。みんなを呼んで、祭壇を調べてみた。全員の力を合わせると、祭壇はがたんと音をたて、その下に隠していた階段をあらわにした。
「ここから地下に降りるのね!」
「ちょっと暗いわね。待って、魔法で明かりを……」
 ジェニーはグリューンのターバンに明かりをともす。
「何だよコレ。グリーンがあの、くろのすをくれたじゃないか」
 憮然とした顔の少年に魔法少女はにっこり笑い、
「だって男の子が先にいくものでしょ、《クロノスの光》はツェットが持っててね」
と答えた。わあい、とサーチェスが拍手するのでグリューンは黙って棍を握りしめ、地下への第一歩を踏み出した。

 久しぶりのイェティカの生家で、クロードはイェティカの護衛に立候補したい、と切り出した。
「《星見の姫》には、護衛も必要だろ?《剣》たちもいるんだろうけど、俺だって、イェティカのために何かしたいんだ。何とかして、助けてあげたい……」
 イェティカの涙が、クロードの脳裏から離れない。そして神殿で出会った魔物、銀色の獣のことも。
 あいつはスケベなやつだった。あの場にいた全員にあんなことをしたんだったら、変態だよな、うん。魔物のくせにスケベなんて、ヘンだけど。イェティカのあのとき見た夢について、聞きたかった。
 そう、イェティカにいろいろ話を聞いたりしたいんだ。だったらまず、護ってあげなくちゃ。
「クロード、ありがとう」
「よかったら、俺からも聞きたいことがあるんだ。落ち着いたときでいいから、話を聞かせてくれないか」
「もちろん。……クロードもグリーンも、ごめんね。あたしの儀式にこなかったら、ふたりとも」
 いやな夢を見ることも、なかったのに。
 お茶を淹れていたグリーンはいたたまれず、そっと少女を抱きしめた。イェティカの温もりを胸に感じながら、やさしく言葉をかけ続ける。もういないイェティカの母親が、かつてこの家でしたはずのように。

「大丈夫ですわ、そんなに自分を責めたりなさらないで」
「うん、単なる夢だからな」
 クロードは手の甲にうっすら残る傷あとをそっと隠していった。夢にあらがおうとしてアクアの切っ先で切りつけた傷は、もう治りかけている。
「イェティカちゃんは、すてきな力を授かったのですわ。その力は人々を幸せに導く力、不幸から遠ざけようとする力、希望を生み出す力ではありませんの?そしてもちろんその力は、イェティカちゃんもラステルさんも導くはず」
 グリーンの胸に顔をうずめたイェティカの頭を、クロードがそっとなでた。よく弟にしたように。グリーンの淹れたお茶が湯気をたて、家族のような3人を包んでいる。
「姉さまは泣いているの。今でも聞こえてくる。そして見える。あの塔の部屋にいると息がつまりそう」

「ラステルさんは、貴方に何かを伝えたくて、星の力を愛しい妹に託したのかもしれませんわ。貴方のお姉さまを案ずる気持ちが《万極星》に届いた証、それが《星見の姫》となることなのなら、ラステルさんのところに貴方が近づいていることの証には、ならないでしょうか」
「でもね、グリーン?あたしが《星見の姫》になっちゃったら、姉さまはどうなるの。あたしはまだ、みんなを導く星は見えない。姉さまは誰にも助けに来てもらえずに、暗いところにずうっといるの」
「見えるのか? ラステルさんの姿」
 イェティカはうなずいた。
 泣いてるの。つらいのね、姉さま。どうしたら出られるのか、わからないのね。小さな鳥かごに閉じこめられて、まるで小鳥のよう。その声が聞こえる人は、もうこの世にいないの。
 あたしだけ。でもあたしには何もできない……。
「ちゃんと見えてるじゃん。イェティカはちゃんと《お姫様》してるよ」
「少しずつ近づいていけばいいのですわ。泣きたいときには思いっきり泣いて、甘えてくださいな」
 温かく微笑むグリーンは、イェティカの言葉を漏らさず心に留めておこうと決めた。イェティカの髪の一房に手をあてる。もしもこの子に危険が及びそうになったなら……心の準備をしておかなければならない。予想が正しければ、きっと次の満月に何かが起きてしまう。

 冷めたお茶をグリーンがいれなおした。
「んじゃ改めて……イェティカが見た夢について聞きたいな。儀式の時に、俺たちみんな何かしら夢を見ていたようなんだ。グリーンとも話してたんだけど、銀色の魔物が登場したことが共通してた。砂漠狼のもっとでっかいようなやつ」
「魔物っていっていいかどうか……私、あの獣は悪者には思えませんでしたの」
「ええっ、そおかあ? 俺あいつキライ」
「銀の髪の男性なら出てきたわ。あたしの中に何かを入れた……たぶんそれが《万極星》の力。《父なる者》、そうだわ。《父なる者 光る夜より来る》」
「あらっ、ではやはり銀髪の人影というのが《父なる者》でよろしいのですね? まあ、どうしましょう、私てっきり砂漠の悪意が、その《父なる者》かと考えておりました」
 グリーンは、獣は人影とは別だと思っていた。
「獣がどうとかはわかんないけど、クロードたちにそいつがしたことって、あたしがされたのと同じようなこと?人影も獣も、同じことをする?」
「同じ、だと思うよ……」
 クロードの身体の奥底に、何かが眠っている。負けるもんか。

「獣さんと人影は、同じ者の両面なのかもしれませんわね」
「銀色ってとこは同じだしな。そいつなんかいってた?」
 クロードは、自分の記憶に残っている言葉《ドゥルフィーヌ》についても尋ねてみた。けれどそれにはイェティカは首を横に振った。
「《ドゥルフィーヌ》、聞いたことない……」
「そう。でもきっと何か関係があると思うんだ。これは、魔物がいった言葉じゃないけどね。なんていうか、そう、妙にひっかかってる言葉だったんだ。魔物はね、俺に望めば力をやろうみたいなコトいってきたけど、俺はゴメンだね」
 イェティカが顔をあげたので、クロードは腰に携えた二振りの剣を示した。
「俺の目標はね、一人前の語り部になることさ。そりゃ勇者にはあこがれちゃうけど。グレイスやファーンが歌うような、サーガに出てくる勇者になれたとしても、アイツからもらった力でなったんなら、意味ないじゃん」

「その魔物は……望めば力を与えるっていったの?」
「うっ、ビミョ〜に違った。おまえの願いをかなえる力がもうすぐ目覚める、っていってた」
 クロードはさすがに記憶力がいい。
「願うがいい、請うがいい、ってね。……その力って《星見の姫》、っていうかイェティカのことじゃないのか?」
「違う。《星見の姫》は、何も望んではいけないの。《星見の姫》は鏡でなければならない。何かを望んで行う《星見》は禁じられてるの」
「なんかそれおかしくない?アイツは、望めっていってたんだぜ」
「だめなの、望んじゃいけない。里長さまにもいわれた……望まないのって、むずかしい」

 その他のことについては、イェティカはよくわからないと答えた。
「分からない言葉といえば、トリアさんも調べごとっておっしゃってましたわよね?」
 トリア・マークライニーは、バードと二人で見つけたプレートの言葉について、しばらく頭を悩ませ続けていたのである。
「難しい話や歴史のことなんかは、あたしよりも里長さまに尋ねるか、塔にある書庫かなって教えたから、きっと今頃本をめくってるよ」
 ようやくイェティカは、ふたりにかすかな笑顔をもらした。
 グリーンの心はまたちくりと痛む。私は、何をしようとしているのかしら。愛しい幼子に、世界は何を求めているのかしら。

 そのトリアは、書庫で本の山に埋もれそうになっていた。プレートに刻まれた言葉についての調査で里中駆けめぐった後、結局ここにたどりついたのだった。
「はぁ〜さすがに千年分の本があると迫力が違うなあ。おっ師匠様にこんなトコ教えたら、すっとんでくんだろーな。アイリさんも同じ反応するかなー」
 この書物の整理は誰の仕事なのだろう。儀式の前のイェティカなんか、整理してたのかもしれない。

 地下水路で見つけた、解読前のその言葉を何枚かのカードに分け、並び替えては文意をつなげてみる。
「どうにも断片的だからなあ、《する 呼ぶ 名前 憂鬱》だもん」
 憂鬱、という字を見ただけで気分が重くなってくる。
「仮定法……でもあのおじさんの翻訳だし」
 いまだにおじさんと呼ばれ続けるバードは、知ってか知らずか今日もまた、泉に身を投じているはずだ。
 カードの並べ替えで一番しっくりくるのは、「憂鬱の名前を呼ぶ」だった。思いついて、書棚から辞書を探すことにする。もう一度文法から見直そうと思ったのである。見当をつけたのは、古代神聖語と呼ばれる難解な言語の辞書。《大陸》の言語なのでないかもしれないと思ったが、似たようなものを探すことはできた。憂鬱。憂うこと。愁うこと。憂鬱の名前。
「《愁いの砦》」
 神の名前を呼べば。
「ってことはおじさんが探しているほうにあるのは……」
 トリアは調べた言葉を書き付けると、書庫を飛び出した。バードに知らせなくては。水路が三角なら、それぞれの頂点には同じようなプレートがあるはずだ。
 発見に夢中になっていたトリアは気づかなかった。いつか見た銀髪の人影がそっと書庫にたたずみ、また姿を消したのを。いや、視線に気づいて書庫の扉の前で振り向いたが、そのときすでに影はかき消えていた。

 バードはトリアの浮き袋と、またグリーンに作ってもらった精霊つき水袋を携え、水路を探索中である。今回は前よりも先に進むつもりで、グリーンには「強い精霊を頼む!」とオーダーしたのだが、歌姫はちゃんと応えてくれたようだった。水路の移動は快適である。グリーンはこの里や神殿、地形や街並みそれ自体が魔法陣のような役割を果たしているのでは、と伝えた。バードも同じ考えである。アゼルの地図を見る限り、他に考えられない。そして魔法陣なら、何かの封印、もしくは何かを呼び出す仕掛けのはずだ。
「無茶をなさらないでくださいね」
 歌姫はそういったけれども、バードにとって「ジェニーの身元を《星見》してもらう」という大義の前には、無茶という言葉は存在しないも同然であった。
 プレートを発見した分岐では、左の水路を選ぶ。細い水路には怪魚はいないらしい。予想があたっているとすれば、この先は《万極星の神殿》行きの水路となるはずである。
「ジェニーが向こうから調査してくれてるからな。楽勝だぜっ!」
 余裕で泳ぐバードは突然身体をひっぱられてもがいた。
「ぶわっ!な、なんだぁっ」
 呼吸も苦しくないので溺れてはいないのだが、理由がわからないのでバードは焦った。とにかく前に進まなくなってしまったのだ。
「なんですか、誰かいるんですかーっ、もしかしてジェニー?」
 そんなわけはない。グリーンの精霊が、より強い精霊に支配されているのだった。狭い水路であるうえバードにははっきりと見えないが、青い大きな渦巻きが、小さな水流を留めてしまっている。
「(オマエハ ナニモノ?セイレイツカイ?ケイヤク カワシタ?)」
「俺か、俺は魔法剣士アデルバード。その精霊さんを放してくれないかな?仲間からの借り物なんだ」
「(ナカマ セイレイト ケイヤク?)」
 焦っていたバードも、呼吸まで奪われていないので安心した。すぐにとって食おうとされているのではないようだ。ガガとしゃべっていると思えば気も楽だった。
「契約、かもしんないな」
 グリーンはどのように精霊の力を借りるのだったか。歌にのせてお願いする、とかそういうような話だったかもしれない。契約とはちょっと違うか。この上位精霊は契約に従っているのだろうか。
「(ケイヤク ナカマ トオス。モウジキ センネン)」
「専念? あ、千年か」
「(スナドケイ トトモニ ……ナカマ トオル)」
 そのとたん、ぶわっと身体が軽くなり、水流が復活した。上位精霊は何かに納得したようだ。とりあえず、質問にははいと答えておけばいいのかな。そんなことを考えながら流れるままのバードであった。

 そこにジェニーがいたので、バードは予想が正しかったことを確信した。ただ違っていたのは、ジェニーの機嫌がちょっとだけ悪そうだったこと。
「お父さん、朱印なくても神殿に入れたわよー!」
 《万極星の神殿》から階段を下ったところ。そこには地下水路がちゃんと存在していた。
「プレートはどこだい?」
 ツェットが指さす先にそれはあった。語句は前に見つけたものとほとんど同じ。
「憂鬱じゃなくって、苦痛になってるな。《する 呼ぶ 苦痛 名前》」
「なるほどな。こっちの水路の先にあるものも、だいたい予想がつくなあ」
「これ、やっぱりラステルさんがいなくなったのって」
「うん。間違いなくこの水路を利用したんだろうな。ここを使えば、らくらくで移動できちまうからな〜。時にジェニー、おまえ、魔法使うときに精霊と契約したり、する?」
「何よお父さん、しないわ。精霊ってふつう契約なんかしなくても力を貸してくれるしね」
「そうか、そうだよなあ」
 首をひねって考え込むバードに、ツェットがいう。
「あたしたち、遅くなる前に里に戻ろうかなって」
「ん? 水路だと早いぞ」
「らくだがいるしね」
「ああそうか。じゃあ俺はもうちょいと足をのばして、一周にどれだけかかるかやってみよう」
 この後バードは《朱の大河》と思しき方向に流れてゆき、硬直するパレス、ぬれねずみのルーファとアイン、そしてシウス、アーネスト、ダグザたちと再会するのである。

 というわけで、神殿から階段を降りてきた組は、またしんどいながらも階段を登っている。
「うう、これ足にくるー」
「あの水路は、何のためなんだろうね?」
「それをいうなら、この神殿こそ何のためなんだろ」
 ひいひい言いながらもとの祭壇のある広間に戻ってきた一行は、そこにあの銀色の魔物を見た。
「出たあっ!」
 グリューンがすかさず棍をかまえる。ジェニーは大切な杖を両手で握り、目をぱちくりさせた。
「俺たちに、何のようだっ!」
 ぐるるる。獣がうなる。サーチェスはにこにこしていた。
「あのね、サーチェス踊ったの♪ なんじのほっする、ことをなせなの」
 てくてくと歩み寄ると、毛皮にすりすりしている。仲間たちはあっけにとられた。
「サーチェス、怖くないの?」
「おい、それはくまぬいじゃねぇぞ!」
「怖くないよ、ねえ。サーチェスもおとなになったんだよね。フィーナちゃんも?」
 にっこりと天使のスマイルで微笑むサーチェスを、魔物のかぎ爪が引き裂くのではないかとはらはらして見守っている仲間たちだったが……獣は何もせず、ただ少女の頬をざらついた大きな舌でぺろりとしただけだった。
「(私を呼んだのだろう?)」
「? ううん、みだすみだすみだす、って考えてたのー★」
「(そうか)」
 会話はそれだけだった。獣はすっくと四本の足をのばすと、姿勢を低くし、神殿の外へと大きく跳躍して立ち去った。外はもう夜になっていた。満ちてゆく月の光がまっすぐに神殿の中へと差し込み、仲間たちの影を刻んでいた。

「イェティカ、何か見えたのか?」
 クロードが、塔に戻った少女に尋ねる。
「《獣の姫》……姉さまを、いじめるのやめたのかな」
「どういうことだ?」
「姉さまが戻ってくる。でも、心と体がばらばらのまま……姉さまを救うことができれば、《獣の姫》の力をそぐことができるみたい」

 グリーンは、イェティカの前では涙を見せないようにふるまっていたが、里長にはつい弱いところを見せてしまう。
「ああ、私はどうしたらよいのでしょう。このままですと、私、イェティカさんを更に苦しめてしまうのではないかと」
 ぽろりと大粒の涙が流れ落ちた。里長は、グリーンの手を握ってこういった。
「パルティシア。よい名前ではないか。おまえさんが苦しむことはない。その優しさは十分にイェティカにも、他のものにも、きっとラステルやディリシエにも伝わるはずだ」
「……ディリシエ、さん?」
「金色の姫は、心を金色にするという。おまえさんのような人がイェティカのそばについているなら、老い先短い私も安心なのだがの。クロードもな。あれも強い子だな」
「まあ、そんな、まだまだご健勝でいてくださらないと困りますわ」
「ほれ、その顔だよ」
 涙を拭いたグリーンは、胸元に手をあてて里長に深くお辞儀をした。イェティカの髪にかけた魔法、水輝の幻鏡が、発動を待っている。もしもイェティカが狙われたときには、自分が囮になって護ろう。そう決めて魔法を使った。ごめんなさいね、イェティカちゃん。でも、貴方の髪が、私にとってお守りになるのは本当なのですわ。
 貴方のことが、大切だから。

第5章へ続く