《朱の大河》に入り口を開く洞窟にて。冒険者たちは窮地に陥っていた。怪しげな銀髪の人影に一連の騒動の原因を求めたものの、洞窟の中にいたのは肝心の銀髪ではなく、自ら《獣の姫》と名乗る女性ディリシエだったのだ。彼女は妖しい笑顔をふりまくと、冒険者たちに攻撃を仕掛けてきたのである。
広間を飾っていた石像と《夜魔》がディリシエの命令に従って襲いかかる。戦いの帰趨を見るまでもなく姿を消したディリシエ、彼女を追いかけるパレステロス、そして冒険者たちの選択は……。
「夢に……夢に見た場所……」
誰にいうともなくつぶやきながら、3体の石像が跋扈する戦場と化した広間をくぐりぬけ、螺旋階段に駆け寄るパレステロスの目は、異様な光を帯びていた。
「ディリシエ、行ってはだめなんだ……」
彼の目にはもはや、他の何もうつっていないらしい。
「少し冷静になれ、《剣》!命を落とすぞ!」
シウス・ヴァルスが普段から大きい声をさらに張り上げて叫ぶが、《剣》は振り向きもしない。そのままシウスの視界は、戦場の流れ魔法でまばゆく眩んでしまった。気合いとともにハースニールの剣で一閃し、目の前の敵を遠ざけた時には、すでにパレスの姿は見えなくなってしまっていた。
「うぬう」
歯がみして追いかけようとする戦士の横を、するりと駆けていく姿があった。ちゃりん、と戦輪が金属質の音を奏でる。ルーファ=シルバーライニングはとっさにパレスを追いかけることに決めたのだった。
「あっ、おい坊主!」
ダグザが気配を察して振り向いたときには、少年は立ちふさがる石像の振り下ろした大剣をひらりとかわして階段に向かっていた。ついでに事のなりゆきを傍観していた黒猫アインを拉致っている。
「ルーファ、ひとりで行っちゃだめだ!」
ルーファの師匠ダグザとシウスが、すでに遠く離れたところから叫んでいる。彼らの声に歩みを止めたルーファは、向き直ると一瞬だけ、にっこりとかわいらしい笑みを浮かべた。まるで年相応の少女のように。ダグザとシウスがその笑みの意味をはかりかねている間に、ルーファはその場を立ち去る。
「ひとりじゃないさ。ね。アイン♪」
「(なんだよう、どこに行く気なのさ!?)」
「あそこにいても、大してすることないだろ? 一緒に来てくれよ」
ルーファの言葉に、
「(お互い様だろーがっ)」
と反発する黒猫である。ルーファは自分でもそう思っていただけに、ぐっと言葉につまる。ディリシエたち、というよりもパレスを追うことにしたのは、自分の力量では石像に傷をつけることすらできなさそうだったからである。戦輪も小剣も、あんな堅い奴が相手では話にならないだろう。
「そうそれに、俺をかばいながらじゃみんなも戦いにくいしさ」
常に自分を気遣ってくれていたシウスの邪魔にはなりたくなかった。へたにちょこまかしているよりは、と思ったのである。
「みんなすごいよなあ。俺も早く仲間を守って戦えるようになりたいよ」
「(別に、急がなくてもいいんじゃないのか?)」
「ん?」
「(ちっちゃくてすばしこいなりの、戦い方もあるってことさ。先生がいるうちはいろいろ教えてもらった方が、あとあといいとは思うけど)」
「なんだよ、アインにも先生とかいたのか……って、こらっ、ヘンなトコさわんじゃねぇよ!」
「ニャア!」
螺旋階段は、鈍く光を放っていた。近づけば近づくほど、なぜか周りの景色が薄れていくように感じる。すぐそこでは仲間たちが石像との戦いを繰り広げているはずなのだが、その剣戟も遠い。ルーファはアインを抱いたまま、階段の一段目に足をかけて上と下を見比べてみた。光のカーテンに包まれているように見えた頭上は、もやもやしたものに覆われてかすんでいる。一方下へと続く方の螺旋は、その階段自体が一定のリズムをもってゆっくりと明滅していた。
「(どっちにいっちゃったんだろうあの人たち)」
「ん〜」
迷ったけれども、ルーファは上に行ってみることにした。もしも階段が崩れたり、何か物が落ちてきたりしたら、下にいたら生き埋めのぺちゃんこだけど上にいる分には飛び降りたりなんなり、とれる手段が多そうだからである。螺旋階段は触ってみた限りでは、頑丈そうだった。ひんやりとした感触となめらかな手触りは人工物のようだが、さびることもなく、真新しいものにも見える。ルーファは身軽な駆け足で、螺旋階段を一段とばしに登っていった。シウスに教えてもらったとおり、いざというときのために石灰で目印をつけながら。
「やれやれ! 坊主はすばしっこいからなぁ。俺たちじゃあいつみたいな身軽な真似はできないぜ?」
ダグザはちょこちょこと石像の攻撃をかわしながら進むルーファに、感嘆した面もちである。彼のクレセントアックスは、振り回せるか微妙な距離だ。狭くはないものの室内なので、動ける範囲は限られてしまうのだ。しかし腰の長剣はパレスに貸そうと考えていたので、なんとかアックスで強行突破をすることにする。
「まったく、あれで無茶をして危ない目に遭わなければいいんだが」
アーネスト・ガムラントが心配そうな表情を見せた。ルーファは瞬発力に優れているうえ、いつも一生懸命仲間から様々な分野のことを吸収しようとしていた。その姿勢に、アーネストはなかなかの素質を見ていたのである。
若くして武術の達人の域にまで達していたアーネストであるが、ルーファの様子を見ていると、なぜか自分のことと重ねて見てしまうのだ。むろん育ちや家族構成が似ていたわけではない。むしろアーネストの中には、ルーファが未だ覚えたことのない悲愴な決意や、肉親への断ちがたい思い、途方もない空虚というものが居座って離れなかった。ルーファは屈託なく笑う。アーネストがしばらく忘れていたような笑顔。そして、ダグザもシウスも、あの駆け出し冒険者についついかまってしまうのは。
自分たちがみな通ってきた道、そしてその途中で遠ざかってしまった何かのようなものを、あの子が持っているからではないか。アーネストはそう考えるようになっていた。もちろん、彼は彼なりにさまざまなしがらみを持ち、生きているのだろうけれども。
長い睫毛をふせた後、舞踏戦士は言った。
「私も彼らを追う。事のすべては、あの女性が握っているのだろう?」
「よし」
3人は顔を見合わせてうなずくと、それぞれの武器を構えてルーファの後を追うように螺旋階段へと向かった。
「アインを連れて行ったのか。ちゃっかりしてる奴だ」
「まああの物知り猫と一緒なら、少しはマシかねぇ」
「急ごう!」
なんてことのないような会話であるが、すべて戦場で攻撃をかわしながらのやりとりである。クロードあたりがいたら、また彼らを感動のまなざしで見たことだろう。石像は身体も武器も大きいものの動きが機敏というわけではなかったので、3人もなんとか無傷で螺旋階段に着いた。
「どっちだ?」
彼らは下を選んだ。ルーファが気にかかるけれども、どっちに行ったのかわからない。
砂漠狼が、3人の後をついてきた。ガガが、助けになるようにと気遣ってくれたものらしい。
「悪いな! よろしく頼む」
ダグザの声は、戦いのさなかガガの耳に届いたかどうか。がんごんがんごん、派手な音を立てて大男たちと一匹が、並んで階段を降りていった。
数十段登ったところでルーファは明るいもやのようなものの中に突入していた。師匠たちの冒険の手順を思い出しながら、考えをめぐらせてみる。
「ええっと、どんなものにも危険はあるから、まずは様子見」
「(おいおい、大丈夫か?)」
空気より軽い毒風だったらたまらない。ばさばさ衣服で風を起こしてみるが、もやは一向に散らない。階段はさらに上へ上へとぐるぐる続いている。意を決してなるべく姿勢を低くしたまま突破を試みるルーファ。だが、予想外にもやはしぶとくたちこめつづけている。さらに数十段、手すりから手を離さぬように螺旋階段を登ったルーファは目が回ってしまった。
「ほんとにここ、ディリシエが通ったのかな?」
「(俺においは専門じゃないんだってば。このもやもや、毒じゃなさそうだけどなあ)」
「うっわ、よく考えたらここってものすごーく高いところなんだよな!」
全身すっぽりもやの中にいるので気づかなかったが、本当ならばかなりの高さのところに身一つ猫一匹、足下もおぼつかない階段の途中にいるはずである。
「ここで《夜魔》でてきたらやばいよな」
「(それはさすがにないだろ。砂はないし。もやを操る力がディリシエにあったらやばいかもしんないけどさ)」
「うーっ、はやく抜けちまおう」
再び階段に足をかけたルーファの鼻孔に、記憶をくすぐる香りが漂ってきた。
「なんだっけ、この香り。俺、知ってるはずなんだけど……」
一段とばしをやめて、ゆっくりルーファは登っていく。ようやく首がもやの上に出た。そこに広がっていたのは。
「……ここは」
懐かしく、見覚えのある風景。あるはずのもやは花畑に変わっていた。《大陸》のとある村はずれ。石畳の街道が続いている。両側には花々が揺れ、村人たちがルーファに挨拶する。煙のたなびく煙突。夕餉のにおい。街道の彼方には、真っ赤な夕日が姿を消そうとしている。
「俺……」
ふと気づくと、左手に大きな包みを提げていた。右手には、ぴかぴかの剣。
「おう、おかえりルーファ!待ちかねたぞ」
恰幅のいいおじさんが、にこやかな笑顔でルーファに駆け寄ってきた。白いエプロンのすそで両手をぬぐいながら、ルーファの包みを大事そうに両手で受け取る。
「ありがとうよ、おまえのおかげで助かったよ!」
ぐりぐりっと乱暴に髪をかき乱すと、彼はばかでかい手袋をはめた手で、包みの中からまだぐつぐつと煮立っている鍋を取り出した。ふたを開けると、あたり一面にふわっとおいしそうなにおいが広がる。
「夕陽のシチュー……」
「そうさ、材料をそろえるのは割にカンタンなんだ。このとろ火の煮込み、これが、あっちの村のばぁさんの《夕陽石》、こいつを借りなきゃだいなしになっちまう。いやー絶品だなぁ! ルーファ、おまえも好物だっただろ?俺ぁヒヤヒヤしてたぜ。なんせ、おまえにお使いを頼んだはいいが、道中ついつい味見してるんじゃねえかってな!」
村一番の料理好きのその男性が、ルーファの初めての「依頼人」だった。そのときの彼の笑顔、感謝、報酬のシチューの味。どれもがルーファの宝ものとなった。
遠くで声がする。
(……ほらよ、坊主どもには、これな。うまいだろ? スープもこうやってひと手間かけてやりゃ、野宿の時だってぐんと立派な食事になるのさ)
(ほんとだ、おいしいよ )
(だろ? いいか、冒険者っていうのはな……)
あれ、これ誰だっけ。依頼人のおじさんに似てるけど。すごくよく知ってるような気がするんだけど。
(おまえにはおまえの戦い方があるだろ?)
そもそも、俺は何をしようとしてたんだっけ?
村もシチューも最高に気に入ったけれど、自分はやっぱり旅立つことを選んだはずである。そして、次にどこにいったんだっけ。
「アイン?」
黒猫の姿はなかった。
あれっ、アインって、誰だ? なんだか訳がわからない。混乱してきたルーファをそっとあやしてくれたのは、祖母の温かい手だった。
「ばあちゃん!」
「おやおや、また領主のとこのと喧嘩してきたのかい? ルーファ」
ぱっと頬を染めたルーファは、うつむいて祖母に走り寄ると、その膝元で丸くなった。喧嘩のあとをさとられまいとしたのに、ばあちゃんにはやっぱりお見通しだった。照れ隠しに昔語りをせがむルーファに、祖母がしてくれたのは遠い砂漠の物語。夜空の星々の光を身に宿し、はるかな時を見通す《星見の民》の物語。
「ルーファはこの物語が好きなんだねぇ」
「うん、いつか絶対、《忘却の砂漠》に行ってみるんだ……」
ひさしぶりに頭をなでられる感触に、ついついまどろみそうになる。
ええっと。たしか誰かを探していた途中だったんだけどな。穏やかな眠気に誘われてついにルーファは目を閉じ、心地よい安らぎと温もりに身をまかせた。
がんごんがんごんがんごんがんごん。
「どこまで行けばよいのだろうな?」
「どこかに着くまで、さ」
アーネストはがんごん組ではなかったが、永遠に続きそうな階段には二人と同じようにうんざりしていた。降りたら登らなければ、元のところには戻れない。先頭きって下っているのはシウス。その後にアーネストと砂漠狼をはさんで、ダグザがしんがりをつとめていた。もう丸一日階段を下り続けているような奇妙な錯覚を振り払うように、とりとめのない会話が続いている。
「ディリシエとやらとパレスは、かなり先にいるのかねえ」
「そうだなあ、話し声は聞こえてこないしな。なあ、バクちゃん」
「がるる」
「バクちゃん……もしかしてダグザ、その狼のことか?」
「ん? いい名前だろ?」
「がるる……」
おどけてはいるものの、ダグザのいらいらは頂点に達していた。この階段にではなく、あの女、《獣の姫》にである。命令され誘導され仕組まれることを、ただでさえ嫌っているところに彼女の言動。ダグザには見事な逆ストレートだった。
「力を試すだと? 何様のつもりなんだ、まったく」
「まだ言ってるのか貴方は。もう何遍も聞いたよ、それは」
「俺は、ああいうことしゃあしゃあという奴が大っ嫌いなんだよ。どんな理由があろうと……」
「人をいたぶって嘲笑するような真似は許さない、だろ。それも聞いた」
ぶつぶつ繰り返されるダグザの言葉を引きとって、今度はシウスが続けた。まさにダグザにとってディリシエは天敵ともいえる。シウス自身も、ディリシエにはよからぬ印象を抱いていたので反論はしない。
「《剣》との間に、何があったのだろうな」
手すりの向こう側に何個目かの小石を落として、高さを測りながら言う。今度も床に落ちた音は聞こえなかった。まあしかし、石はほんの小さいものだからな。などと考えて気を紛らわす。
「こころあたりがあるようだな、パレスの方には。ただの《星見の姫》とお付きの《剣》以上に見えた」
アーネストの言葉に、ダグザも同意する。
「ああ、俺も考えてみた。10年前に失踪した《星見の姫》。ディリシエは、なぜ失踪しなければならなかったのか。鍵はそこにあるんじゃないかと思う」
彼女に相対するのが、一連の《夜魔》騒動の真相に迫る一番の近道だ、とダグザは踏んだ。そして、まだ言葉をかわしていない銀髪の人影のことも気にかかっている。自分たちを誘導したわりに姿を見せず、ディリシエに「力を試させ」ているのはなぜだろうか。次の思惑があるとしたらそれは何だ。ディリシエに命令しておきながら、都合が悪いと現れないようなふしがあるところからも、ろくな奴ではなさそうではあるが。
「パレスも傷ついていた、と里長は語ったそうだ。グリューンがいっていた。痛ましい出来事が10年前にあったのだろうな。10年たってもいやされない傷を持つ男か。その原因がディリシエにあるのなら、気持ちは分からなくもない」
シウスの胸に去来するのは、薄汚れた路地にうずくまる、みすぼらしい男性の思い出であった。小糠雨の中、左足を失い、右腕もない身体で、ただじっとうつろなまなざしを向けているその男性に出会ったとき、シウスはたとえようもない思いに襲われたのだ。そのとき自分に流れていた時間は、パレステロスと同じ10年。どうしたらいいか分からなかった。今も、分からない。
俺は正しい選択をしたのだろうか?
シウスのこめかみに今も残る古傷が、ずきんとうずいた。
「がるる!」
足下が砂地に変わったとシウスが思った瞬間、バクちゃんが鋭くうなりをあげた。後ろの二人の場所をあけて移動した戦士の目に、何体目かの《夜魔》がうつる。なるほど、床に砂が敷いてあれば小石の音は聞こえないわけだ。考えている間にも、身体は無意識のうちに得意の間合いをとって動いた。
「お出ましか?」
アーネストが脇差しを構え、頬にかかる黒髪を払った。ダグザは長剣をシウスに放る。
「使ってくれシウス! 俺の勘が正しければ、おまえの剣じゃだめだ!」
鞘から抜かれ放物線を描く剣を気配だけで受け取って、シウスは《夜魔》に対峙する。舞踏戦士が最初の切りを繰り出した。その間も熟達した戦士たちは、互いの予想を確かめ合う。
「だめとは……そうか、パレスの剣も《夜魔》には歯が立たなかった。だが俺の光牙舞闘術は奴にダメージを与えていたから、攻撃は属性によるのかと思っていた。違うのだな? 《星見の民》の武器は、《夜魔》に通じない……」
「アイリの手甲はどうかわからんがな! 《剣》の武器の力の源が《夜魔》のそれと同じなら、そんなこともあるんじゃねぇかと思ったのさ」
ダグザは慎重にクレセントアックスをふるう。砂漠狼が波状攻撃を繰り出している。弱点は分かっているので焦りはしない。頭部を砕くとあっけなく相手は砂に消えた。
「よく気づいたなダグザ」
シウスはしゃがみこみ、床を調べながらダグザにいう。なあに、おまえさんがハースニールの剣を持ち出してきたから、確信したんだよ。答えながら彼は、さらさらと砂をすくって指の間からこぼした。ロンパイア、アゼルに預けてきたんだろ? うまく魔法の力が宿るといいな。あーそれにしても腹へったぜ。アゼルのホットケーキが恋しいなあ。
「ただの砂か」
さすがに砂は食べられそうにない。洞窟に入ってからかなりの時間が経っているはずだ。空腹になるはずである。
「《夜魔》が現れたなら、近くに《獣の姫》がいるということだな」
「行こう、ふたつの足跡が残っている」
シウスの指した足跡は、ルーファのものではなかった。
「がるる!」
慎重にかつ大胆に。3人は砂地を走り足跡を追いかけた。
ルーファがきょろきょろあたりを眺める。祖母の姿はない。すがすがしい風が一陣通り過ぎていった。万色の花々が咲き乱れる庭園だ。ああ、夢の中でも花を見たような。でも花を見るのって久しぶりな気がする。暖かな日の光が、庭園に注がれていた。金色の髪を腰まで伸ばし、はかなげに微笑む美しい女性がたたずんでいる。女性は優雅に会釈する。透けそうに白い肌。いや、文字通り透けかけているのだ。
(ねぇ、教えてくださいませんか。大切なものを守るために必要なことを……)
ざあ。強く、あたたかな風が吹いた。
『あの、どうかお気をつけて』
『かたじけない、姫。かならず吉報を持って戻ります。どうかご心配なさらぬよう』
『……あ、お待ちください。これをお持ちになって』
『ん?これは、お守りですか。ふふ、あなたらしいね』
『いえそんな』
『このことは、内密にしておきましょう。姫手づからのお守りを、私だけが賜ったとあっては士気にかかわりますから。それでは失礼いたします』
『……』
ざあ。
(ああ、信じてはもらえないかもしれないけれど私、幸せだったんです。たとえそれが、しきたりに定められたまま、形だけのものだったとしても。忠誠がいつか、それ以上のものに生まれ変わる日を待ち望んでいました。ずっと)
ざあ。
(でも、分かっていました。そんな日はこないこと。だからせめて、その形だけでも大切にしたかったから。私にも大切なひとがいるって、そう思いたかったから。大切に思われているのだと、感じたかったから。ああ……)
ざざざああああ。
がば。
ルーファは汗びっしょりになって跳ね起きた。長い長い、これは夢? あたりを確認する。螺旋階段のてっぺんは、小さなドーム状の空間だった。半円型の天蓋にすっぽりと覆われ、光のカーテンが差し込む。石像がいた広間よりもはるかに小さい。すごく胸が痛い。これは、さっきのあの女性の痛み?あんなにおだやかに微笑んでいたのに。大切なひとがいるっていっていた。
横では黒猫が、腹を見せて眠りこけていた。ルーファはその黒い首筋にそっと手を這わせ、もう片手で黒猫をゆっくり抱きかかえると、女性が立っていたあたりに歩いていった。そこから、風を感じたのである。
「魔法陣だ」
足下に発光しているのは、二重線で描かれた三角形。ルーファは深呼吸をひとつして、その中に足を踏み入れた。パレスはどうしただろう、彼にもっと話を聞きたいと思いながら。
螺旋階段の下の果て。
さらさらと聞こえるのは、これは流砂ではなく、地下を流れる水のせせらぎだ。下に向かえば、水脈があるだろうと考えたダグザの予想はあたっていたことになる。罠や《夜魔》をものともせずパレスを追いかけてきたアーネスト、シウス、ダグザとバクちゃんは、ようやくふたりに追いついた。
白い布に身を包んだディリシエが、水の流れを背にして立っている。水面から吹く風に豊かな金髪をなびかせ、裸足で立つ彼女の正面に、苦渋の表情のパレステロスが立つ。彼はきっと口を結び、両手を剣の束にかけていた。そのふたりのあいだには先ほどの広間で目にした、大きな球体が奇妙な位置に浮遊している。今ではその中にあるものが、うっすらと見て取れた。
「うふ、嬉しいわみなさん。ここまで来てくださったのね?」
尻上がりに語尾をのばし、ディリシエは幼女のようににっこりと笑った。心の底から、楽しそうな笑みだった。それぞれに熱いまなざしを向け、褒めそやす。
「やっぱり《大陸の民》……わたくしごときでは太刀打ちできませんわね。お手並み見事でしたもの。アーネスト、あなたの武術、本当にうっとりしてしまいますわ。ダグザ、そんな大きな斧を軽々と扱うなんてすばらしいですわ。的確な判断力もお持ちですこと。そしてシウス? ハースニールの剣は、お気に召していただけたかしら?」
3人が3人とも、背筋に冷たいものを感じていた。
「やめろ、《獣の姫》」
ダグザがふたりの間に割って入った。片手を伸ばしてパレスの動きを牽制する。ダグザの真剣な動作にも、ディリシエはおもしろそうに見ているだけで動じていない。パレスは何とも情けないような、あくびをかみころしたような顔をした。悪戯を見咎められた子どものような、今にも泣き出しそうな顔。
「パレス、俺はおまえが心配だからいっておく」
ダグザはパレスに背を向け、ディリシエの顔を見据えたままいった。
「過去にあんたたちの間に何が起きていようが、それはそっちの問題だ。俺には何にもいうこたぁない。勝手にやってくれ。だがな、おまえは今でも、《星見の民》を代表する俺たちの雇い主だ。俺たちは全力で、おまえのことを守るからな。勝手ながら……冒険者の、礼儀として」
ディリシエは何もいわない。
「満足したかい、姫さんよ。《大陸の民の力量》は」
ダグザはぶっきらぼうに問うた。彼女は鷹揚にうなずき、《父》も喜びますわ、と答えた。
アーネストは刀から手を離すことなく、語気鋭く尋ねた。
「さあ、教えてくれ。貴女は行方不明の《星見の姫》について、知っているのだろう?」
「《星見の姫》なら……」
ディリシエは愉快そうにころころと笑った。何をおっしゃるの? 《星見の姫》ならばもう里に。
「何だと!?」
「ご存じないのも無理はないわ。あなた方がお探しの《星見の姫》はね、新しい子に代替わりしたの。そして、今はもう姫でもなんでもない、《先代の星見の姫》だった女なら……ここですわ」
大きな球体に、うずくまってひざを抱える女性の姿が浮かび上がった。パレスの肩がびくりと動き、小刻みにふるえる。駆け寄った剣士は、その姿を確かめた。
「ラステル!?」
「なぜ、なぜだ?それも、貴女の《父》が命じたことなのか?」
アーネストは畳みかけるように尋ねる。ディリシエは首をかしげると、誇らしそうにあごをそらした。
「違いますわ。わたくしはただ、ほんの少しこの子に力を貸しただけ。ほら、ご覧なさいな。こんなに安らかな顔で眠っているの。かわいいでしょう?」
「ラステルをどうする気だ」
パレスの声だった。
「うふふ、そうね、どうしましょう?」
「貴女の《父》は《大陸の民》を使って何をするつもりだ?それにはラステルは関係ないのだろう?」
アーネストのせりふに、ディリシエは不思議そうだ。
「《父》はわたくしに、こうおっしゃいました。《大陸の民》の手の元に、契約が成就する、と。砂漠の悪意にも負けぬ、強い者こそ必要なのだと。《父》にお会いになるならば、その名前をお呼びになることですわ」
この子は、もはやあなた方がお探しの《星見の姫》じゃありませんわよ? それでも、あなた方はこの子を求めてらっしゃいますの? 話したこともないというのに? それにアーネスト、あなたの尋ね人は、別にいるではありませんか。
そうですわ、ではこうしましょう。
「先ほども申しましたが、わたくしはこの子に力を少し貸しただけ。この子は自分で逃げてしまったのですよ。うふふ、妹がそのあとを引き継いで、苦しむとも知らずにね……ですから、みなさんでこの子を起こしに行かれてはいかが?」
3人は、うろんな目つきで彼女を見やった。
「ラステルが目覚める保証がどこにある?」
パレスが声をしぼりだした。
「ラステル、ラステルって、何をやっきになっているの、パレス? ヒントを差し上げるわ。この子が閉じこもっているのは、心の中の迷宮。その心の闇を払うことが、あなたにできるかしら? 心に闇を持つあなたが?」
口元に白い手をあてて、ディリシエは楽しそうに笑った。
「試しているわけではありませんわ、パレステロス! あなたがけして口にしてくださらなかった言葉、そのかわりになるものを手に入れたのですもの。首尾よくラステルを助け出すことがおできになったなら、そのときは……ああ、もうすぐ鐘が鳴り響きますわ。そろそろおいとましなくては。さぁ」
シウスの両手に、かつて《星見の姫》と呼ばれていた女性が入っている球体がのせられた。それはまったく重さを感じないほどに軽かった。
「うふ、シウス、あなたならどうやってこの子を守りますか?」
「ふざけるな! 守ることと、逃げたままほうっておくことは違うぞ!」
かすれがかった声は、ぞっとするほど冷たいディリシエの手に頬をなでられて止まってしまった。
「覚えておきますわ、戦士さま。パレステロスにも教えてやってくださいまし。その子がいなくなったところへそれを持っていけば、心への入り口が開かれます。ごきげんよう! そしてぜひまたお会いしましょう……」
「待て! 《獣》とは、《獣の姫》とはどういう意味だ!?」
アーネストの最後の問いには、いらえはなかった。
ディリシエは、背後の水流の上を渡るようにして姿を消した。と思うまもなく、派手な水音をたてて上から飛び込んできたものがあった。
「ルーファ!」
ぷしゅう、と水しぶきを吹き上げて顔を出したのはルーファとアイン。
「冷たっ!」
「にゃあああああ!」
「なんてとこに落ちてきやがるんだよ、まったく」
手を貸す戦士二人に、ルーファはしめった石灰を見せた。
「これでも俺、ちゃんと教わったとおりに目印つけてったんだけど……こういう時はどうしたらいいのさ!?」
某所、とこしえの闇。
「ラステルを返したのか?」
「うふふ、だってもう用済みなんですもの。あの子が宿した光はもう吸い取ってしまいましたわ。ほら、ここに。父さまだって、いらないっておっしゃいましたでしょう」
「ラステルが意識を取り戻したら、おまえの秘密も暴かれることになるぞ」
「あら、彼らにできるものですか。相変わらず優柔不断なパレステロスと、《大陸の民》のご一行さま、うふふふ、楽しみですわ。誰が最初に食べられるのかしら」
「あまりあなどるな。彼らにはまだ演じてもらわねばならない役がある」
「うふふふ……それより父さま、わたくし、なんだか最近力が弱まってきたような気がするのですわ」
「ラステルが、目覚めつつあるのだ。もうよい」
「父さま……」
「失敗したな、彼らはきっとラステルを取り戻すだろう」
「父さ……」
第5章へ続く