第2章|森の影離宮主なき場所光に向かってマスターより

1.森の影

今ここにいる自分を誰もが信じていたいのさ
過ぎた日々に別れ告げて

 その朝、一行はディルワースへと出発した。今度は賢者モースも一緒である。朝の森は薄靄に包まれていた。木陰からまだ低い太陽が顔を覗かせる。先日のメンバーのうち、数人が一足先に街へと戻っていたが、まだまだ一行は大所帯である。モースの許可を得て彼の家に留まっているジェラを除いても、両手に余るのだ。
 何があるか分からないから、と主張したベネディクトン・ヴァリアントの頭をなでなでしながら、モースは純白のマントをふわりと羽織った。

 そして道中。
「昨日はよく休めたかい?」
 モースは大きく伸びをしながら、客人たちに尋ねた。
「そりゃあ、もう♪ まぁ欲を言えば、酒なんかあったらもっとうれしかったけどね、十分十分。ぐっすり眠ったさ」
 槍をぶんぶんと振り回しながら、傭兵アーシュ・ノワールが答えた。実は人形たちに愛用の槍を古いといわれたのがショックで、夢にまで見てしまったというのは秘密である。
「そう? 秘蔵のカルバドスもあったんだけど、言ってくれればよかったのに。じゃあまたの機会にね」
 モースは片手を自分の顎にあてたポーズで、アーシュを見下ろした。
「おっと、やっぱ賢者さんもイケるクチなんだね? そうかそうか、うん、楽しみにしとくぜ!」
「カルバドス、というと林檎のお酒ですか」
 レイスが竪琴を取り出しながら話に加わる。まだ少女といっても通用しそうな吟遊詩人の言葉に、アーシュが相好を崩した。
「お? 姉ちゃんも酒好きかい? いいねぇ〜! 俺が飲みだしたのもけっこう早かったんだ」
 鍛えられている腕で、アーシュは細身のレイスの背をぱんぱんとたたく。レイスは両手で竪琴を抱きしめながら、深緑の色の瞳をぱちぱちさせた。
「いえその……」
「林檎のお酒なら、あんま強くないのかな? ディルワースといや《銘酒・竜殺し》が有名だってソロモンから聞いたけどな」
「《竜殺し》か、やめておけ。お前みたいなのが飲むとろくなことにならないぞ」
 と、ベネディクトン。涼しい顔をして彼女も、実は酒が好きである。
「どういう意味だい、ベネディクトン。そんなこと言うと、今度勝負しちまうぜ?」
「だからやめておけと言うのだ。お前みたいな血の気の多いのが、強い酒を飲んでも腕が鈍るだけだ。戦いに身を置くならば、せめて仕事中は控えるものだ」
「そうそう、そうですよ」
 とエルム=アムテンツァがうなずいた。
「お酒をたしなむのは悪いことではありませんが、過ぎたるは猶及ばざるがごとしです。分別ある飲み方をなさってくださいね」
 耳あてのついた帽子を目深にかぶったエルムが、傭兵の隣に並ぶ。
「なんだいなんだい。もう、お堅い詩人ちゃんに剣士サマに修行僧の姉ちゃん……とほほ」
「両手に花どころの騒ぎじゃないですね」
 傭兵の胸までしかない小柄なエルムが、にっこりと微笑んだ。

「ディルワースでは林檎がたくさんとれるのですか?」
 ベネディクトンの陰からイコ=ラッテが、大きな眼鏡ごしにモースを見上げた。イコは難しいことを考えたりせず、ただモースと話がしたかったのだ。その隣には、少し緊張しながらも、ゴド=シシューが寄り添っている。イコとゴドは仲がいい。いつも一緒のようだった。
「林檎、おいしかったです……ウチ、あの林檎好きです」
「病気の人に林檎をあげる、っていうのはよく聞きますよね。《狂乱病》にも効果があるかもなんて、なんだか魔法の林檎ですね」
 はにかみながら、イコが言う。
「林檎、気に入った? 子猫ちゃん」
 二人とも黙ってうなずいた。
「僕も、そしてあの子たちも、林檎が大好きなんだよね。それが僕がディルワースにやってきた理由のひとつだよ」
「あの子たち……?」
 首をかしげるベネディクトン。モースはその様子をいたずらっ子のような表情で眺めていた。
「僕のつくった人形たちさ。今頃、あの三つ編みの子猫ちゃんに悪いことをしていなけりゃいいんだけど、ね。ちょっと心配だな」
 なんとはなしに会話を聞いていたエルムが、柔和な顔をしかめた。賢者の家にいる間、何度帽子を深く下ろして耳を塞いだことか。

「賢者さま、お人形を作るのが仕事なんですか?」
 イコの問いに、モースはしばらく答えなかった。ただ、彼女の目を見て、そして。
「君の仕事って、なぁに? 子猫ちゃん」
「はう……イ、イコの仕事、ですかぁっ」
 泥棒です、などと言えるわけがない。いや、その腕が一流ならばカッコよく堂々と言えるのだが、まだまだ半人前のイコなのだ。
「ウチの仕事、えっと、物を仕入れて売るコト……あんまり得意じゃないから、好きじゃないです」
 ゴドは旅商人だが、気が向いたときに商売をするだけだった。そして弱気になってしまうことが多いので、気が向いたとき、というのはほとんどない。本当は、故郷に帰りたいといつも考えていた。そして、そういう女々しい自分のことも、いいとは思えなかった。
「ああ、ごめんね。気を悪くしないで。でもね、自分の仕事なんて……自分が何をするべきかだなんて、決めるのは難しいから」
「じぶんがなにをするべきか」
 ゴドが繰り返す。ベネディクトンは無言で、じっとその言葉を考えた。
「自分が何をするべきか……」

 森の中の広場で一行が休憩をとっている時。
「賢者さまがどれほどの時の中を歩んでいらっしゃったのか、お聞かせ願えませんか?」
 レイスが一礼して切り出した。大切にしている竪琴をそっと取り出し、大木の根元にするりと腰を下ろす。ぽろぽろと数弦かき鳴らすと、木の枝に灯りがともったように、光がちらちらとまたたいた。
「おやおや、これはまたいい腕を持っているんだね、子猫ちゃん」
 モースが差し伸べた指に光のひとつを宿らせた。彼がふわりと腕を回すと、その光はベネディクトンの右手へと移る。
「レイス殿、これは一体?」
 ベネディクトンの右手は、肘から下が剣なのだ。切っ先で明滅する光に驚いて、剣士は吟遊詩人を見やった。
「失礼しました、彼らは私の友です。いえ、友というには失礼かもしれませんね。時々そばに寄ってくるのです、風や光が。お気になさらないでください」
 レイスの言葉が終わらないうちに、森を一陣の風が通り抜けていった。光のひとつが竪琴にともる。精緻な細工がひときわ美しく輝いた。彫られていたのは、水を司り守るという幻獣の姿だ。
「……《清流弦》」
 アーシュがそっとその細工に触れ、つぶやいた。

「僕の過ごしてきた時の長さも、子猫ちゃんが過ごしてきた時の長さも、変わるところはないんじゃないかな? 昔のことは大分忘れてしまったから」
 レイスがつまびく竪琴の音色にあわせて唄うように、モースが言った。
「私も長い間《大陸》を旅してきましたが、あなたのような賢者にお目にかかったのは初めてです」
「だから、言ったとおりだろう? 子猫ちゃん、キミは僕に会うために旅をしてきたって」
 後に続けるつもりだった言葉をとられてしまったので、詩人はくすりと笑う。彼女が随分と久しぶりに、あらわにした感情だった。
「旅の間、いつも考えていたことがあります。いつもいつも。『ここは私の居場所じゃない』……どんなに居心地がよく、明媚で気に入った場所であっても、また旅にでてしまうのです」
 レイスと同じ木にもたれながら、イコは自分と同じくらいに見える少女の言葉を黙って聞いていた。大地の色のローブに、緑の衣服のレイスは、森そのもののように見えた。もしかしたら、レイスさんは自分とはまったく違う、どっちかというと賢者さまに近いような人なのかもしれない。イコは漠然と思う。

「旅をすることが、いやになっちゃったの?」
「いいえ、そうではありません。ただ」
 吟遊詩人は演奏を止めた。ふっと光がかき消える。去来するさまざまな想いの中から、レイスは一番上にあった言葉を選んだ。
「ただ、私も自分の居場所を見つけたいのです……」
「恋をしたこと、あるかい?」
「は!?」
 いつも落ち着いた口調のレイスが、それこそ少女のようにすっとんきょうな声をあげた。
「あれもやっかいな病気のひとつだよ。ホント、《狂乱病》よりもたちが悪いんじゃないかな。でも、あれにかかれば世界がすべて変わるんだ。誰かを恋してみてごらん。少なくとも、誰かに興味を持ってごらん」
 とどめにモースの完璧なウィンク。レイスは、しばらく真っ白になっていた。
 ……ああ、質問の御礼には、竪琴の演奏をと考えていたのに。

 にわかに頭上が暗くなった。
「雨雲かな?」
 アーシュが手をかざしながら空を見上げた。どこからか、地鳴りのような雷のような、低い響きが聞こえてくる。さらに一声、悲鳴のようなものが混じった。
 はっと気づいたエルムが、鋭く一行に声をかける。
「アーシュ、槍を。ベネディクトン、剣を準備してください!」
「わ、わかった」
「何かがこちらに来ます!」
 エルム自身も両手に棍を構え、腰を低くして戦闘態勢に入る。自然の中で修行した彼女の感覚は、その音の正体が不吉な来襲者であると告げていた。モースは白いマントを翻す。

 何かがこすれるような、しゅるしゅるという不快な音とともに、相手はその姿を現した。蛇のような鰐のような、鱗で覆われた肌。
「《竜》……!」
 イコが悲鳴をあげ、ぺたんと地にお尻をつけた。モースの家で見た絵の《竜》に似ていたのだ。
「違うよ子猫ちゃん、こいつはもっと……」
 モースがマントの後ろにイコをかくまった。鱗が鈍く光っている。時折青白い光が舐めるように、ちらちらと火花を散らしながら鱗を這い回っていた。ゴドががたがた震え、その場にぺたんとお尻をつく。恐ろしくて身体が動かない。魔法を使えば、みんなの役にたてるのに、呪文を唱えることもできないなんて。
「大丈夫、落ち着いて」
 モースが振り返り、イコとゴドを抱きしめた。 
「子猫ちゃん、できることなら危ないことはしないでほしいけど、自分の戦いになったら、ちゃんと動けるね? キミたちにはちゃんと力があるから、それを信じればいいんだ。うん、でもここは、じっとしておいで……」
 信じれば力になるの?
 ゴドは不思議に思う。信じれば、それはかなうのだろうか。だったら今すぐ、故郷の村に帰りたいのに。みんなと仲良くしたいのに。

「敵さんかっ!?」
「だから言っただろう、深酒しないで正解だ」
「貴方は何者ですか? 私たちに害をなそうとするなら容赦はいたしません」
 エルムが一歩前に踏みだし、静かに警告を発する。
 鱗を持ったそれは、古びた剣とぼろぼろの鎧で武装している。背には蝙蝠に似た皮翼が広がっていた。不自然な動きで直立歩行をする、気味の悪い鰐。
「あの絵の《竜》は、こんなのじゃなかったですう」
 少なくともイコは、《貴石の竜》の絵からは、強大さや厳しさこそ感じたものの、今目の前にいる存在のような醜悪さと、剥き出しの敵意は見えなかったのだ。
「なんだこいつは?」
 ふいに振り下ろされた相手の剣をかわしながら、アーシュが乾いた唇をなめた。こんなボロい剣には負ける気はしないけど、パワー勝負になったら分が悪いかもしれない。それにしても、武装してるなんて、こいつは知恵があるのだろうか。
「《竜》になれなかったもの、とでも言えばいいかな」
「賢者様、これは敵でしょうか」
 レイスが魔法を準備しながら、それでもなお淡々と尋ねる。この異形には、何が効果的かを考えながら。
「……敵だね。残念だけど」

 《なりそこない》がとびかかった。冒険者たちに挟撃されながら、激しい戦いを繰り広げている。ベネディクトンは、《なりそこない》が賢者を攻撃しないよう、少しずつ間合いを調節して敵を誘導していく。
「飛べない翼なら、もぎとってやるぜっ!」
 アーシュの槍がうなり、《なりそこない》の片翼を貫いた。そこからはどす黒い液体がぼとぼとと零れ落ちる。
「うへー、きたねぇっ」
「《波動に揺れる大気 その風の腕で切り裂け》……悪意よ去りなさい」
 レイスが涼やかな声で詠唱を完成させると、一条の閃光が風とともに飛来し、《なりそこない》の鱗にぶつかってはじけた。鱗に帯びていた青白い光が激しくぶつかりあい、あたりは一瞬まばゆく照らされる。
「やりましたか?」
「いいえ、まだです」
 戦況を観察していたエルムが素早く近寄り、その足に棍の一撃をくらわせた。続いて身を反転させ、柔らかそうな喉元へふところから一撃。さらに飛び退って剣の攻撃をかわす。ディルワースの街中で迷った挙句うずくまってしまったり、人形の声にひくひくしていた彼女からは想像もつかないような戦いぶりである。エルムの薄緑の瞳がきらりと光ると同時に、彼女の右手に奇妙な紋章が透けて浮かび上がった。
 《なりそこない》は、ぎゃあ、ともぐげえ、ともつかないおしつぶしたような悲鳴をあげると、背中の翼を広げて戦場から離脱した。

「逃してしまいましたか」
 エルムが帽子をぬいで汗をぬぐう。久しぶりに一門の技を使って戦った。裏返せば、技を出さねば際どい相手ということである。
「賢者様、あんなのがいる森に、よく住んでるね」
 木の上で傍観していたルナリオンは、安全になったと分かるや、ぶらさがったままひょいと首だけ突き出した。そして片手に枕を持ったまま、くるくると膝だけで回転して地上へ降りる。
「そんなとこにいらしたのですか。危ないですよ、あれはどんな攻撃をしかけてくるか分からない。逃げ場のない木の上なんてもってのほかです」
とエルム。
「まあまあ、あんたアタシがあそこにいること分かってたじゃない。へーきへーき」
 ルナリオンは意にも介さず答えた。彼女の魔法の腕は確かなものだったし、今までに一度もへまをしたことはなかったのだから。
「もうこんな朝早くから戦闘なんてしたくないじゃない、めんどくさい」
 と、大きなあくびをひとつはさむ。ちなみに太陽はとっくに天頂高く上っている時間だ。
「で、見たところあいつ……《竜》になれなかったもの、っていうの? あれと賢者様は共存してるの?」
「共存はしてないさ、子猫ちゃん。僕は昔あいつにかじられたことがある」
「に、肉食……」
「でも、さっきのあれは、空腹だから襲ったのではなさそうだった」
 ベネディクトンは汚液に塗れてしまった右手を丁寧に拭いている。
「じゃあ、何のために襲ってきたんでしょう」
 モースはするりとマントをはずすと、襟から肩口をあらわにする。なめらかな白い肌に、異質な継ぎ目が見えた。かつて《なりそこない》に食い破られた傷跡だという。
「モース様を狙っているのですか」
「分からない。この傷は、もう20年も前のものなんだ。友人と一緒にいる時に襲われて、僕は友人をかばった。うん、さっき僕が子猫ちゃんをかばったようにね」
「それで、その友人さんは」
 モースはアーシュの頭をぐりぐりとかきまわすと、両手を腰にあててそっと言った。
「もういない」
 賢者の銀色の瞳は、はるか上空、あるいはもっと遠くを眺めている。
 ルナリオンはポケットから小さな瓶を取り出した。路銀が底を尽きそうだったので、ちょっと賢者の家から拝借してきたものだった。中には輝く液体が入っている。それなりのところへ持っていけば、高く売れるだろう。またそっとしまい、にんまりと笑う。
 
 そのころジェラ=ドリムは。
 賢者の家の地下書庫で、人形たちを相手に上を下への大騒ぎを演じることになった。
『だーかーら言ったのに。オレサマ、コイツら嫌い。生意気だもんな』
「お友達になったんじゃなかったの? リラ、いい子だから手伝ってよ〜」
『手伝ってるじゃんか、いたいけなリラくんよりもでっかい本を、もう何十冊も運んだゾっ』
 飛びウサギは、珍しくもジェラのいいつけを守ってお手伝いをしていたのだが、人形たちも興味深々で、彼らを手伝ったり邪魔したりからかったりしていた。
『ジェラがいけないんだ。書庫を見せてもらえるなら、こーんな汚い家の掃除までやるとか言っちゃってさ』
「ちょっとリラ、口が悪い。汚いなんて言ってないわ。実際汚くないし……ちょっとその、古くてホコリは多いけど」
 ジェラは本が大好きだ。本を読んで、その中の世界を空想するのが好きだ。だから本がたくさんある場所なんてそれだけでどきどきするし、古くたって汚くたって、いくらでもそこにいられるのだった。人形たちもは、書庫に足を踏み入れたことはなかったらしい。ジェラが言えば、字が読めないなりに本探しの手伝いもしてくれたし、本を破ったり落書きしたりすることもなかったのだ。
「みんな、モース様が大事にしている本ですもの。いたずらしちゃいけないって、ちゃんと知ってるのね」
 いくつも重ねられた本棚によじのぼるようにして、片手にランプを持ったまま、器用にページをめくるジェラ。リラはこれみよがしにごほごほ咳き込む真似などしている。

「ああ、あった。このあたりだわ」
『きゃははは、アッタカ? あったのカ?』
『よかったネ、ジェラ! ねえねえ、ごほうびハヤク!』
「だめよ、特製林檎ジュースはおやつの時間になってから。もう少し教えてちょうだい? さあ、こういう絵が書いてある本よ……」
 ジェラが探しているのは、《竜》にまつわる事柄だった。《竜》も《狂乱病》も未知の存在である。ふたつをつなぐ糸が、どこかにあるような気がするのだ。そういえば、商人ソロモンもそういう意味のことを言っていたっけ。
 同じようにディルワースに暮らしていても、《狂乱病》にかかる人とかからない人がいるのはなぜだろう。病気の存在は知られているのに、その記録がないなんて、どういうことだろう。
『隠してるんだよきっと』
「なぜ? 隠す理由がないじゃないの。治療方法が見つかっていない病気なのよ。隠しても広がるだけじゃ、意味がないわ」
『じゃあ隠してないんだよ』
「ちょっと、リラ! 真面目に考えてよ!」
 あくびまじりの飛びうさぎの態度に、ジェラがつっかかった。
『オレサマ、いつだってマジメではーどぼいるどじゃないか。ジェラこそ、こんなトコで道草くってる場合じゃないだろ。旅の目的はどーしたのさっ』
 少女は言葉に詰まる。彼女の旅は、故郷のために力を求める旅だった。
「道草じゃないわ、失礼ね。ちゃんと考えてる。ルナリオンやオシアンたち魔法使いさんの話も聞いてみたいし。アーシュやベネディクトン、武術の腕前はどのくらいなのかしら? ……じゃなくて……っと、これかしら?」
 ひっくり返していた本の山から、それらしき記述をようやく拾い出すことができた。何かの論文の草稿のようだ。のたりくねった筆記体をどうにか追っていく。読みながらジェラの頭は、次第に混乱してきてしまった。

「3頭の《貴石の竜》……《竜王アングワース》と、その子供たち。《竜の通い路》。彼らはどこから来て、どこへ行くのか。《なりそこない》……在るものと、在りしもの、そして在らざるもの。目には見えぬが確かに存在する。《貴石の竜》の避けられない悲劇……ここに?がついてるわ」
『何の話なんだか、サッパリ分からないよ』
「悪かったわね、この論文ほとんど魔法語なんだもの。これモース様が書いたのかしら」
 どうやら断片的ではあるが、分かったことはある。ディルワースには《貴石の竜》の王アングワースという存在があったらしい。そして《貴石の竜》になれなかった存在、《なりそこない》という存在も。
『キセキノリュウって、なるものなの? リラくんも、レベルアップしたらなれる?』
「さあね。なりたいんだったら、モース様に聞いてみれば? 《なりそこない》になっても知らないから」
 ……《なりそこない》、あるいは《捨石の竜》とも。
 もとは同じ竜族でありながら、《貴石の竜》の力を持つに至らなかった存在。
「強力な力を秘めた《竜の牙》って、どっちの竜の力を持っているのかしら?」
『キセキの方がヒゲキなんだったら、やーめた』
 リラがふわふわと羽をひろげて本棚から飛び立った。
 ジェラはため息をひとつつくと、本をぱたんと閉じてランプの火を消した。

『リンゴジュース! リンゴジュース!』
 人形たちが一列になって、待ちわびている。
「はいはい、今作ってあげるってば。我が家の特製レシピなんだから」
 と、ジェラが林檎の皮をむき始めた時。激しい地震が起きた。
「きゃあ!」
 ずしん、ずしん、と規則的に揺れが来る。窓の外を見た人形の一体がわめいた。
『チガウ、ちがうゾ! あいつだよ、《なりそこない》だヨ!』
 ばん、と扉が開いた。突然の来訪者にジェラは立ちすくむ。鱗に覆われた、直立する異形の姿。先ほどから扉に体当たりしていたのが、地震のように思えたのである。
「な、ななんなんあんなあああ何よっ」
 真っ黒の球体のような瞳を、それは3つ持っていた。鰐のようなごつごつした顔、両目にさらに額にひとつ。つっぱった皮膜のようなまぶたがゆっくりとまばたきして、それは言った。
「……どこだ?」

「けっ、賢者様ならお留守なのよっ」
 言葉にしてから、ジェラはしまったと思った。力ある賢者が在宅のふりをしておいたほうが、とってくわれずにすんだかも。
「……かくすとよくないぞ」
 ジェラはぶんぶんと首を横にふる。
「……とおくない」
 ふんふん臭いを探っていた侵入者は、ひきずっていた尾をぶんと振り回した。部屋の中がぐちゃぐちゃに荒らされる。
「……かならずみつけてやる」
 侵入者は最後にジェラを一瞥すると、背中の翼を広げて割れた窓から飛び去っていった。翼からしたたったどす黒い汚液があたりに残された。腰を抜かしたジェラは、その場にぺたんと座り込んだ。

第3章へ続く


第2章|森の影離宮主なき場所光に向かってマスターより