第2章|森の影|離宮|主なき場所|光に向かって|マスターより|
4.光に向かって
はがゆくとも 切なくとも
微笑みを
「子猫ちゃん、ねぇ。はあ、この僕のどこが一体……」
賢者の家を一足先に出てきた魔法使い、ディルウィード=ウッドラフ。己のまとう藍色の長衣の背に無造作に広がるのは、皮紐で束ねた銀の長髪。後ろだけ見れば、毛足の長い銀猫に見えなくもないかもしれない、と思ったがやはりそんなことはない。華奢だがれっきとした成人男性である。
「あの方は賢者様なんですし、凡人にはおよびもつかないような言動のひとつやふたつ、あってあたりまえですけど。……は〜あ」
もともと真面目なディルウィードのこと。あれこれ気にしても仕方が無いのであるが、冒険者であり魔法の師匠でもあった父親のことを考えると、どうも情けない気持ちになってしまう。
「だいたい子猫ちゃん、だなんて……まだ一人前じゃないってことじゃないですか」
ため息はとどまるところを知らない。
父は。あんなに力ある魔法使いだったのに。
でも、母には素質がなかったから。だから自分の魔力は。
ディルウィードは逃れ得た事のない思考の迷宮に陥りそうになったことに気づき、ぶんぶんと首を振った。ああ、だから自分はだめなんだ。シャッセの病気を口実にして賢者様に会おうとしていた自分を恥じる。悔し紛れに蹴った小石が、音をたてて小川に落ちた。握りしめていた右手を開くと、アメジストの輝きが彼の目を射た。
「どうして僕って、こうなんでしょう」
そういえば、右手に抱きついてきた子猫のような女性がいた。ローズ・マリィ。賢者の家で、彼女は望む答えを見つけたように見えた。
「ふう、もう悩むのはやめましょう。『困っている人がたくさんいる時は、一番弱く、そして一番手を差し伸べられていない者に手を貸しなさい』って教えられたんですから」
ディルウィードはもう一度、右手を固く握りしめた。
そしてディルワースの街へと歩き出す。彼の両親が出会い愛し合った、彼の名前の由来となった街へ。
「っと思ったのに、どうしてこんなとこにいるんです?」
ディルウィードのせりふは、いつのまにか隣でしっかりと腕を組んでいる、可憐なローズに向けられたものだった。早朝薄暗い森の中。賢者の家から一歩でたところである。
「どうしてって……わたしも街に戻るからよ。決まってるでしょ」
けろっと答えるローズ。みんな支度に時間がかかってるみたいだったし、ほら、わたし急いでるの。どーしても、早く街にもどんなくっちゃだめなの。モースのおにーさんには、挨拶はしてきたわ。朝ご飯おいしかった、ありがとーって。
「はあ……」
「さ、《狂乱病》にはとにかく林檎っ!って教えてもらったんだから急いで林檎を買いに行かなきゃ」
そういえば、ローズの大切な人も《狂乱病》なのだと聞いたっけ。彼女のペースにしっかりはまりながらも、道連れができてうれしいディルウィードである。
「うーん、留守中使用人たちはちゃんとやってくれてるかしら? 万一ランディおじーちゃんに何かあったりしたら、おしおきなんだからっ。ああ、もうどうしてこんな森の中って暗いの?」
怖さを紛らわすためにぶつぶつ呟くローズ。その様子がおかしくてつい魔法使いは笑ってしまった。
「使用人って、ずいぶん裕福なお住まいなんですねー」
「え? うん、そうかな……そうかもね、今は。わたし、孤児院で育ったのよ」
「ああ、それで……」
貴族特有の高飛車な態度が感じられなかったのだ。が、ディルウィードのこの相槌はローズのお気に召さなかったらしい。
「何よ、それでこんなじゃじゃ馬だって言いたいの? 失礼しちゃう。いいの、今わたしとっても幸せなんだから」
「あーいえいえ、そういうつもりではなくてですねぇ」
「いつか王子様が迎えに来てくれるはずだって、孤児院で信じ続けるキモチ、あなた分かる? わたし、自分で手に入れたわ。三食昼寝付きの今の生活」
「えーと、失礼ですがローズさん、おいくつなんでしたっけ」
「何ですって! 信じらんない、どうしてレディに年なんて聞けるの! 仕方ないから教えてあげるけど、最初の一回だけよ。今年で17才、どう? 素敵な大人のおねーさんでしょう。ついでに言うと、女の人の体重も聞いちゃダメだからね。まったく、ママに教わらなかったのかしら」
一気にまくしたてると、ローズはぴたりと口をつぐんだ。ふいに訪れた静寂の中で、ディルウィードの指輪がローズの左手薬指にあたり、かちんと澄んだ音を立てる。
ローズは先ほどの剣幕がうそのように、その指輪に話題を移した。
「あら、大ぶりのすてきなアメジスト。でもね、マリッジリングは左手にはめるものなのよ?」
「……これは」
反射的に彼はローズの手をふりほどき、両手を握りしめて指輪を隠す。
「聞いちゃいけなかったかしら」
捨てられた子猫のような瞳で、ローズが青年を見上げた。
「いいえ、僕が悪いんです。でもこれは、君が考えているほどいいものじゃありませんよ」
「ん〜、というと。別れた彼女がくれたとか。結婚を約束した相手に贈るはずだったとか。誰かとペアだとか。それとももしかして、あなたの想い人って、同性?」
「なんでそうなるんですか」
ローズの発想に苦笑するディルウィード。彼女の頭の中は常にコイバナでいっぱいのようだ。でもなんとなく、それが幸せな有閑若奥様、という姿と一致している。彼は自らの秘密をほんの少しだけ、出会ったばかりのこの女性に打ち明けることにした。
今までそんな気持ちには、なったこともなかったのだが。
「これはね、僕の母さんが作ってくれたものなんです」
「まあ素敵。お母さま、細工師なの? あら、さっき教育がなってないとか言っちゃってごめんなさい」
「……細工師というか、錬金術師ですね」
「素敵!!」
この後ディルウィードは、ディルワースの街でローズが婚家に戻るまで、紹介してちょうだい攻撃にさらされ続けるはめになったのだった。
さて。
道端にいた二人を拾ったのは、手品師フィリスだった。拾われた二人とは、半ば茫然自失状態にいたミスティ=デューラーと、彼女の身に覚えのない赤ん坊だ。赤ん坊は気持よさそうな寝息をたてていた。
孤児院育ちのフィリスは、この異様ともいえる組み合わせが気になって、声をかけたのだった。
「変だわね、どう考えても」
黒く染めたデニムパンツの足を組みながら、ミスティはふかーっと煙草の煙を吐き出した。
「なんでこのガキ……じゃない、この子、卵から生まれたわけ?」
疑問は他にもある。不覚にも眠り込んでしまったときに見た夢。シャッセ姫の逃亡。そして自分の中にわきあがる、窺い知れぬ不安。
「ちょっとちょっと、赤ちゃんに煙草はだめよ!」
フィリスは帽子の中からハンカチーフをふわりと取り出し、ミスティの白煙をぱたぱたと追いやった。起こさないよう注意して、赤ん坊を抱き上げる。
「ん?」
ミスティは傍らの女性を見上げた。乗馬服のようないでたちに、つば広のテンガロンハット。ブルーグレイの瞳がミスティを見下ろし、にこりと微笑んだ。
「はい、これ。夕べの雨で冷えているんでしょう?」
フィリスの手から、魔法のように大きな布が現れた。夜露で濡れたミスティの肩にそっとかける。
「こんなとこにいるなんて、赤ちゃんにもあなたにもよくないわ。その濡れた服を乾かさなくちゃ」
余計なおせっかいかしらと考えながら、フィリスは旅籠に行かないかと持ちかけた。うなずいてミスティも立ち上がる。肩までの金髪をきゅっと握ると、ぽたぽたとしずくが垂れた。
気が強い女性に見えたから、何か言われるかと思ったけれど。フィリスは安堵した。いずれ彼女の事情も聞かせてもらおう。意外に事情通らしいこの旅人は、もしかしたら自分の求めている情報を持っているかもしれない。
一方ミスティは。
「何してんの?」
髪のしずくをふきとりながら、手品師が手際よくあたりに目印をつけているのを眺めていた。人の言うことに従うのは大嫌いだが、旅籠に行くのはいいアイデアだ。何より温かい湯船につかりたい。……ディルワースに湯船というものがあるのかは、定かではないけれど。
「後から落とし主があらわれるかもしれないでしょ。……というのは冗談だけど、何か役に立つかと思って」
答えたフィリスは、卵の殻のかけらを拾ってミスティに見せた。日に透かすと葉脈のような筋が縦横に走っている。しかしそのかけらも、ふとした拍子に砕けてしまった。ミスティのいた草地には、殻の破片と思しきものがきらきらと光っていた。草の上とはいえ、重いものをひきずったような跡は見当たらない。
「お腹空いたわ、食べ物持ってる? ああないの。んじゃいいわ、さっさと行きましょ」
まくしたてたミスティは、フィリスの返事を待たずにさっさと歩き出している。それが当然といわんばかりの勢いだった。
「あ! 手品師ちゃん、君、ディルワースの名物を売ってるお店、知ってる? できれば体があったまるのがいいわ」
拾ったのは、赤ん坊二人かもしれない。
フィリスはこっそり思う。
ソロモン・ウィリアムスも、やはり城下に戻り情報収集にいそしんでいた。賢者の話を聞き、よりいっそう《狂乱病》が《竜》と関わっているのではないかという思いが強くなった。神殿などの街の施設で得られた話や、酒場や市場での噂を総合してみる。
「ふうむ。どうも芳しくありませんね。公的な記録は一切なし。聞き込みだけに頼るというのも奇妙ですが」
不思議なのは、《狂乱病》で死んだとされる者の年齢や性別、性格などにちっとも一致する部分が見いだせないのだ。あえていうならば、ディルワース人であること。過去の例では、神経質なタイプがかかりやすいようなのだが、シャッセについてはそれはあてはまらないかもしれない。
「でもディルワース人だなんて、大前提だしなあ。病気にかかる者とかからない者、違いはどこにあるんだろう」
今まで消えてしまった人も含めて、ディルワースではここ数世代の間に少なくとも10人は《狂乱病》で死んでいる。これは神殿の記録ではなく、街の人に実際に聞いてみた結果だった。置き薬よろしく、扱っている品物をいくつか渡したりした成果といえよう。これも必要経費。ちなみにソロモンは、食べ物以外で持ち運べるものなら何でも取り引きする旅商人である。
ある雑貨屋からは、こんな話が聞けた。
「うちは10年くらい前から離宮に出入りしてるんだけどね……そうそう、まだシャッセ姫さまがおちいさい頃だよ。まだ親父が店を取り仕切ってたんだが、一度だけ、《竜の牙》を見たことがあるって自慢してたんだよ」
「本当ですか?」
ソロモンは身を乗り出した。
「ほら吹きの癖のある親父だったけど、本当だと思うよ。シャッセ姫さまが、見せてくれたそうだ。ホラあの姫さま、やんちゃだからね。ふりまわして遊んでたらしいよ……親父は今もういないんだけどな」
「まさか、《狂乱病》にかかって」
「いや……実は、そうかもしれない。俺もガキだったからうろ覚えなんだが、あの時の親父は普通じゃなかった。うわごとをぶつぶつ言ってたからな」
「《竜》の話でしょう?」
そこはかとなく期待を込めて尋ねるソロモン。
「《竜》? 違うねぇ、なんとかと戦うとか言ってたぜ。あとは、自分は誰だとか、そんなヤバそうなことをね。そこらにあったボロい剣を持って出ていっちゃったんだ。アレは怖かったよ。親父、別人だったからな。で、それっきり。行方不明ってわけさ」
ソロモンは長い金髪をもてあそびながら考えた。
まず、シャッセ姫は少なくとも小さいときに、《竜の牙》を見ている。子どもが振り回せるんだから、大がかりな装置などではなさそうだ。雑貨屋の先代もそれを見た。そして二人とも、《狂乱病》に……これだけじゃ、根拠としてはまだ弱い。だが。もしかしたら今でも姫の手元には、《竜の牙》があるのかもしれない。
「ありがとう、今度仕入れにくるからよろしく」
ソロモンは手を挙げてその店を後にした。
やはり、《竜の牙》の実物を見てみなければ。でも、どうやってそれを頼もう?
ミスティは、旅籠の2階で格闘中だった。といっても、彼女が得意とする素手と素手との戦いではない。寝台の上ですやすやと寝息をたてているのは、謎の赤ん坊である。子育ての経験が皆無のミスティに、女将があれこれ口出しするのだが。
「で、赤んぼにあげるミルクはどこだい。他にも必要なものがいろいろあるだろ」
「これくらいあれば足りるでしょ?」
ミスティが買い物袋を寝台の上でひっくり返した。ごろごろといろんな瓶や包みが転がりだした。なぜだか、ミスティのポケットにはけっこうな額の銀貨が入っていた。とりあえずそれを使って、面白そうな食べ物を手当たり次第購入してきたのである。
女将はひとつの瓶を手にとって、思い切り眉をひそめる。
「銘酒竜殺し……」
包みはすべて大人向けの食材だった。
「あぁ、ソレ? ディルワースの地酒なんでしょ? つまみはこれ。竜舌蘭の種の揚げたのと、軟骨串があったから買ってきたわ。海産物がないのは仕方ないか。こっちは珍味ツマドリの眼。これ辛子で食べるとうまいよねー。エリウマのこーがんなんてのもあるのよ。きゃっ★」
そこにディルウィードがひょいと顔を出した。
「女将さん、こちらにいらしたのですか。教えていただいたとおり、賢者様に教えを請うて来ましたよ……って、この赤ちゃんは??」
「落ちてたのよ」
「落とし物ですか」
「うん。だってこの子、卵から生まれてきたんだもの」
さらりと答えるミスティ。ディルウィードは、寝台の上の赤ん坊をしげしげと眺めた。
「お待たせしたわね、はいこれ。赤ん坊用のミルクと清潔な布。こっちはおむつにしてね」
買い物好きだから、と言って買出しを引き受けていたフィリスが戻ってきた。かくかくしかじかとディルウィードに事情を説明しているうちに、ミスティのきょとんとした表情に気が付く。
「どうしたの?」
「はぁ? ミルクですって?」
「赤ちゃんが、私たちと同じもの食べられるはずないじゃない。だいいち、まだ歯も生えてないのよ」
呆れ顔でフィリスは説明した。ミスティはどうやってこの子を育てるつもりだったのだろう。もっとも本人に言わせれば、彼女は別に育てるつもりなんかなかったのだが。
「誰だって、自分が赤ん坊の時の記憶なんてありませんからね。どうやって大きくなったのか、知らなくても不思議ではありません」
ディルウィードがフォローするが。
「うるさいわねっ」
ミスティの両の拳が、ぱきりと乾いた音を立てるのを聞いて口をつぐんだ。
しばらく後。ふにふにと泣きながら目覚めた赤ん坊の世話を、てきぱきとこなすディルウィードを、ミスティは尊敬のまなざしで眺めていた。この泣き声、猫みたいなどと彼女がほおづえをつきながら見ている間に、魔法使いは手際よくミルクを温め、飲ませ、後ろ向きに抱いてげっぷまでさせている。フィリスはその手腕に拍手した。
「近頃の魔法学校じゃ、子守りも教えるの?」
「ホントよねえ。魔法使いを失業しても、ベビーシッターとして十分やってけるわ、君。何なら知り合いに紹介してもいいわよ」
ミスティが悪意なく発する言葉がつきささるディルウィードだったが、平静なふりをして答える。
「いえ僕、妹弟子がいるんですけど、その子の面倒をずっと見ていたんですよ。生まれたときから。ほら、お腹がいっぱいになったみたい。また寝ちゃいましたよこの子」
ディルウィードの肩にもたせかけられた頭は、とても小さい。
「寝る子は育つ。いいことだわ。手がかからなくっておとなしいわね」
フィリスは、かたく握り締められた赤ん坊の手を見て微笑んだ。
「赤ん坊って、泣くわよね。普通」
「泣きますとも。彼らの唯一の、自己表現ですからね。……それにしても、確かにリーフくんは、おとなしいかもしれません。妹弟子の時は、きっかり3時間おきにぎゃあぎゃあ泣きわめかれましたからねぇ」
「いろんな子がいるわ。心配しなくてもいいんじゃないかしら」
「……フィリスって言ったっけ、手品師ちゃん。君もその若さにしちゃ、やけに育児に詳しいじゃないの。やばいくらいよく知ってるわ。アンタ何者なの?」
「ただの手品師よ」
そう答えると、彼女はぽよぽよの産毛のような髪の毛にふれる。やわらかで、気持ちの良い手触りだった。琥珀色のそれは、今は閉じられている瞳と同じ色だった。
ディルウィードはそっと赤ん坊を寝台におろす。
「で、リーフくんって?」
「ああ、この子の名前です。リーフ。優しそうで強そうで、いい名前でしょ?」
父親のように慈愛の笑みを浮かべた魔法使いに、ミスティはぼそりとつぶやいた。
「竜殺しのほうが、強そうだと思うけど」
その晩はなぜか宴会になった。口実は、酒があるから。
「いいからいいから。だってさあ、赤ん坊のために買ってきたのに! ミルクしか飲まないなんて言うんだもの、つまんないじゃない!」
強引にディルウィードに杯を空けさせるミスティである。
「そうかしら、赤ちゃんにとってみれば、食べられるものはミルクしかないんだもの。つまらないとかつまらなくないとか、そういう問題じゃないかもよ」
フィリスがさくさくとカードを切っている。戯れに興を添えるマジックを披露するつもりだったのだが、お酒のせいでカードが乱れて数枚落としてしまった。
「考えてみれば、生まれてすぐひとりぼっちで……ううう、リーフくんのご両親はどこにいらっしゃるのでしょうね」
「見つかるわけないじゃん、捨て子の親なんてさー」
ぱらぱらぱら。フィリスの手から、カードが散らばる。
「ヘンに事情があるに決まってるんだから、下手に会わせるよりも、一人で生きていけるよう教育すべきだって! ……どうかした? フィリス」
「ううん、手が滑ったの」
「でも、でもですよミスティさん。赤ちゃんっていいと思いませんか? これから先、リーフくんにはありとあらゆる未来があるんです。未知数ってことですよ」
「そんなこと言うなんて、君今の自分のこと嫌いなんだ?」
「まあまあミスティ、絡むのはそのへんになさいな」
フィリスがディルウィードの表情を察し、矛先を変えるべくミスティの杯を満たした。
「絡んでなんかないわ。何が未知数よ。ええ? 既知だっていつまでも既知ではいられない。未知がいいなんて誰が決めたわけ? 赤ん坊ってふにふにしてて面白いと思うけど、だからって明るい未来だけがあるわけじゃないでしょ」
「ちょ、ちょっとミスティ、そのあたりで……」
しかし、所詮手品師の腕力では、体術を得意とするミスティを止めることはできない。
夜はだんだん泥沼と化してゆく。
ディルワースの夜道を、小走りにローズは急いでいた。数日ぶりに婚家に戻っていて、すっかり遅くなってしまったのだ。彼女の大事な夫、ランディには林檎をたくさん食べてもらったので、一安心である。
「よかったわ、ランディおじーちゃんあの様子じゃ、まだまだ大丈夫。うん、きっと治るはず」
自分に言い聞かせるようにつぶやき続ける。本当は……年老いたランディには、病にうち勝つ体力もそんなにはない。彼女の夫は78才。それがローズの手に入れた、三食昼寝とお小遣いつき、白馬に乗った王子様の正体だった。孫とも年の離れたローズにとって、大切なおじーちゃん。孤児院で育ったローズの、かけがえのない家族である。
「ああ、やっぱり林檎なんかじゃなく、ちゃんとした治療法を探さなくっちゃ」
気ばかり焦るローズだが、ひとまず離宮への道を急いでいる。日が暮れたのだから明日にすればいいものを、彼女の頭からは、同じ病で苦しんでいるシャッセのことが離れない。見舞いたい一心で足を進める。
どしん。
「ちょっとお、どこ見て歩いてるのよアナタ! 謝るのがスジってもんでしょう、転んで顔に怪我でもしたらどうしてくれるのよっ」
威勢のいい啖呵を切ったローズは驚いた。ぶつかったのは、なんと伏せっているはずの……
「シャッセ姫!」
マントをはおった人影は、見間違うはずもないディルワースの姫君である。しかも、マントの下はただの寝間着。足元は裸足だ。まるで孤児院で友だちと大喧嘩しては、家出のように抜け出していた、若かりしローズそっくりだった。やんごとなき姫君を、孤児院育ちのローズと一緒にしてはいけないのだが。
「なんなの、けっこう元気そうじゃないのよ」
しかしよく見ると、肌は青白く唇だけが赤みを帯び、熱にうかされたような表情だ。苦しげに咳き込みながら、何事かつぶやいている。
「アナタ本当にシャッセ姫?」
「……鐘楼に……還る……まことの国へ……」
「え? なあに、聞こえないわ。一体どうしたの? みんなにかしづかれて、おいしいものをいっぱい食べて、何不自由ない暮らしでしょう? ずるいわあなた。逃げ出してどこへ行くのよ!」
ローズの問いかけには答えず、シャッセはただマントを翻し、夜の闇に沈んでいった。
毎日毎晩、あたりまえだがリーフの面倒を見なくてはならない。
慣れているから、という理由で、フィリスとディルウィードが交代でその役にあたることになった。
ミスティの役目は、毎日きちんと新しい酒を買ってくること。もちろん二人が頼んでいるわけではないのだが。
「もう、どうしてまたお酒を増やすのよミスティ」
「あれ? 赤ん坊が飲むかなと思って」
「リーフに酒を飲ませないでください! ミルクしか飲めないって、何度言ったら分かるんですかっ!」
「でもさぁ、この子少し大きくなってない?」
たしかに。ミスティが拾った当時はまだほんの乳児だったのだが、数日たってみると明らかにリーフは成長していた。手足が少し長くなったし、起きている時間も少しずつ長くなっている。
「そういえば、ミルクを飲む量も最初より多くなっている。どういうことでしょう?」
ふぎゃああ、と甘い声を出しながら保護者たちの指を追い、リーフは笑っている。ぽやぽやの髪も伸びた。ばたばたと両足を動かして、彼は機嫌がよさそうだった。
ミスティは寝台にまたもほおづえをつきながら、指をぐるぐると回してリーフをあやす。きゃっきゃっと声をあげて、彼はその指をつかんだ。
「いたっ! 噛まれた!」
「あ、本当ですね。歯が生えてる」
「この子、私にけんか売ってるわけ!?」
「うーん、この分じゃもう離乳食、は飛び越して普通の食べ物もいけるんでしょうか?」
「ホント? そーこなくっちゃ。んじゃ明日からミスティ姉さんが、スペシャルグルメメニューを! 料理の得意なフィリスちゃんに作ってもらうから。ねーっ」
ミスティは、ぐい、とリーフの両頬をのばして微笑んだ。
「えっ?」
フィリスが振り向くと、幼子はにこにこ笑いながら、みー、と答えた。
その夜から、彼らは奇妙な夢を見始めた。明るいけれども冷たい光が満ちた場所に、旅人たちは立っている。荘厳な声が、幾重にも反響を繰り返して投げかけられる。
ディルウィードは、光の彼方に両親の姿を見たと思った。
フィリスは、光に包まれた二人の少女と飛び立つ鳩を見た。
ミスティが見たのは、見知らぬ大都市と、揃いの衣服に身を包んだ人間たちだった。
「リーフくん!」
ディルウィードが、光に向かって手を伸ばす。出会ったばかりの赤ん坊が、そこに見えたからだった。泣いているリーフはぼろぼろの赤い布にくるまれて、ふわふわと宙に浮いていた。後少しで、手が届く。ああ、泣いている。あやさなくちゃ、ほら。僕は何をやってるんだ。こんなにこの子が訴えているのに。
「リーフ!」
フィリスは涼やかな声で、幼子の名を呼んだ。しかしステージではよく響くと誉められた声も、今はただ、どこへ続くと知れぬ光に吸い込まれてしまう。呼ぶ声は届かない。
声はやがてフィリス、フィリスとこだまする。フィリスは私。呼ぶのは誰なの?
「愛するフィリス」
光はやがて黒にも近い青へと変わる。自分のことをそう呼ぶ人はいないはず。あの指輪以外には。
彼女は声が聞こえるほうを目指して駆け出した。この場所がどこへ続いていてもかまわない。声の主に会わせて、お願い。
「リーフ?」
ミスティは動けなかった。自分はこの子を知っている。だから、あんなに……涙を流していたのかも。
「……私の涙、タダで見るとは生意気よ! 竜殺しも飲めないクセにっ!!」
疑問はなぜか怒りに変わる。手甲をつけた拳を握り締め、尖ったブーツで足元を蹴とばした。
違うわ、知ってるわけないじゃない。こんな話あいつらに知られたら大変だわ。それこそ、あることないこと騒ぎ立てられるに決まってる。特にアイツ、あの白髪の、ええっと……誰だっけ。
あー腹立つ。ただでさえ思い出せないことが多いのに、こう中途半端に顔だけ出てくるヤツってのが、一番むかつく。何なの一体。
荘厳な声は途切れることなくあたりを満たしている。リーフの泣き声とそれは奇妙に調和して、いつまでも耳に残っている。アングワース、アングワース。ほむべきかなアングワース。
愚かで弱い王。さようなら。
そこで、目が覚めるのだ。リーフは無邪気に笑っている。琥珀色の瞳を大きく開いて、にこにこと笑っている。
第3章へ続く

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