第3章|波紋誰彼流転夢現マスターより

1.波紋

 ディルワース離宮。美しく手入れされた庭と、領地全体を覆う緑の森とに囲まれた瀟洒な建物には、連日のように客人が訪れる。だがもしかすると、領主が本当に望んでいたのは、賢者モースが来てくれることだったのかもしれない。月明かりがうっすら差し込む部屋では、ランプさえ灯さずに、密やかなささやきがかわされていた。
「まだ、言っていないの?」
 若くはりのある声が、たしなめるようにささやいた。
「言えるものですかね。それがどれだけ酷い仕打ちか、あなた方には、きっと」
 くぐもった嗚咽まじりの声が、低く答える。
「分からない、と言うんだね。それでもいいよ。キミがそう思うならば」
「分かってやしないとも。あの子は私の宝ですからな」
「……そうだね」
 ため息が、闇に消えていく。
「彼にとっても、宝だったからね」
「お願いだ、これ以上我々を苦しめないでくれ。そっとしておいてくれ」
「どっちが幸せだったのかな。彼と、僕らと」
「どっちだって変わるまい。行き着く先が違おうが、道中の辛さは変わるまいよ」
 月光が流れる雲にさえぎられ、部屋は重い闇の中に沈む。
「キミはいつもそうだった。中庸ばかり唱えていたよね。変わらないな、そういうところ」
「そんなふうに言われたくないわ!」
 嗚咽もまた、闇に消えていく。

 オシアンは領主の部屋を目指して、陽光差し込む離宮の回廊を渡っていた。
 やせぎすの白い肌に黒い髪、それを彩る極彩色のターバンといういでたちは、いやでも離宮の女官たち、衛兵たちの目をひいた。オシアン自身は彼らの視線を気にもとめない。先日王城の鍵を借り受けた時もそうだったが、好奇のまなざしには慣れているのだ。
 傍らには、賢者の家までも同行していた傭兵アーシュ・ノワールの姿がある。肌と瞳の色は同じなのだが、傭兵というだけあって、鍛え上げられた体つきはオシアンとは似ても似つかない。
 アーシュは学者でもあるが、専門分野はもっぱら武器防具といった品々だ。生来のお人好しから、シャッセの病気は何とかしたいと思い続けていたが、とりあえずは頭が良さそうな人と一緒に意見交換をしてみよう、と考えたのであった。
「三人寄ればなんとやら、って言うじゃないか。なあ」
 ぽんとオシアンの肩を抱くアーシュ。オシアンは、やや上に位置するアーシュの顔をちらと眺めると、漂ってきた酒気に眉をしかめた。
「朝っぱらから一体どういうつもりだ?」
 肩の手を払いたいのを押さえ、代わりに手にしていた錫杖をしゃんと鳴らす。
「うん? いや、昨日ちょっとベネディクトンたちとね。大丈夫だって、深酒は禁物ってのは分かってるからさー。敵さんが出てくるなら、手元はしっかりしとかんとねぇ」
 言いたいのはそういうことではないのだが。
 その言葉も飲み込んで、オシアンは歩き出した。
「あ、悪い悪い、もしかして誘って欲しかった?」
「断る。胃が荒れるからな」
 傭兵という連中は、揃いもそろって酒好きなのだろうか。ディルワースの為政者の居城でのこの振る舞い、まったく理解に苦しむところである。酒が絡まなければ、手練れの戦士の意見は尊重したいのだが。
「あ、モース様ぁ」
 回廊の向こう側に賢者の姿を認めた傭兵は、子どものように手をぶんぶんと振った。モースの方も子猫ちゃんたちを見て、片手をあげる。
「あ〜会えてよかった。やっぱ話合いには、モース様もいてくれたほうがいいよな」 「その意見には同感だ」
「酒もある方が、よくない?」
「……くどいぞ」
 溝はまだ、深い。

 領主ボーペルの居室。近くで見るモースは、こころなしかやつれているように見えた。お茶うけに出てきたのはディルワース特産の林檎。嬉々としてそれをつまみながらアーシュは、まず《なりそこない》に襲われたことを告げた。人の形をしていながら鱗に覆われ、翼を持った存在。それは、モースを狙っていたということ。
「まさか、そんな」
 眉根にしわを寄せる領主。対照的にモースは、豊かな金髪をかきあげながら窓辺に身をもたせかけ、話を聞いている。
 《なりそこない》は元々人間なのではないか、とアーシュは考えていた。武具も言葉も操るという知性、そして、剣を持ち出して消えてしまった雑貨屋先代。
「符号が合うといえば合うね」
「だろ? だろ? モース様もそう思うかい。でさ、俺気になってるんだけど《竜の牙》って、何なわけ?」
 領主はぽかんと口を開けた。その次に、泡を飛ばして怒り出した。
「りゅっ、《竜の牙》! 何だ、お前たちは! 王城の鍵の次は、何を企んでるのかね!」
「まあまあ、落ち着いてボーペル」
「《竜の牙》と《狂乱病》の関係についての意見を、お話させていただいてよろしいでしょうか」
 それまで黙っていたオシアンが、モースの目を見て尋ねた。オシアンは元々、領主と直談判のつもりでこの場に来たのだった。モースが同席しているならば話は早い。賢者に対する敬意のしるしに丁寧な言葉を選びながら、オシアンは自分の考えを述べはじめた。

「まず先日お借りした鍵で実際に王城に行ってみたところ、異常な気が満ちていました。以前から鼻の利くカロンが、再三ディルワースに漂う匂いのことを指摘しておりましたが、城でのそれは、我々にもはっきり分かるほどでした。瘴気と言ってもよろしいでしょう」
 オシアンは、聞き手の反応を一瞬待った。領主は相変わらずしかめ面だ。モースは顎をつと動かすと、話の続きをうながした。
「この瘴気が《狂乱病》の原因である可能性があります。《狂乱病》の症状は精神に作用する。幻覚を見たり、シャッセ姫自身が語っておられるように、自分が誰だか分からなくなるなどです。ディルワースの民のうち、何らかの条件に合致した……おそらくはある精神状態におかれた者が、《狂乱病》を発病するのではないか、そう考えました」
「自分が誰だか分からなくなる、とな」
「はい」
 オシアンは領主に向き直る。鍵を借りた時の態度から、領主はまだ何かを隠していると感じていた。
「そしてアーシュも述べました《竜の牙》との関連ですが、私はこう考えます。モース様、《なりそこない》とは《狂乱病》患者なのではないでしょうか」
「そう! 俺もそれを言いたかったんだ!」
 アーシュが身を乗り出して、細身のオシアンの背をたたく。
「でも俺の場合思いつきだったからさぁ、根拠が今ひとつなくってねー」
「私の考えも推論の域は出ていません。が、こう考えるとつじつまが合うように思えるのです」
 シャッセが何者かに呼ばれ続けているように、《狂乱病》患者たちはメッセージを受け取っている。絶え間なく送られてくるメッセージを受け取るうちに、ついには何かに変異し……その結果《なりそこない》になる。
「俺そこまで考えなかったよ、お前やっぱアタマい〜なぁ!」
「……瘴気の源が《竜の牙》だとしたら? 王城に漂う瘴気は、そこに《竜の牙》があったから。シャッセ姫が発病したのも、《竜の牙》の近くにいたから」
「じゃあ何か? オシアン殿の言われるメッセージの送り主は《竜の牙》そのものだというのかね」
「かもしれない。調べてみなければ。可能性はあるでしょう」
「《なりそこない》がモース殿を襲った件については、どういう見解かね?」
「それについては」
 オシアンは大仰に肩をすくめてみせた。
「まだ判断しかねます、今ある材料だけでは」
 暗に、手の内を明かすようほのめかすオシアン。
「《竜の牙》が原因だとすれば、それを手放す用意はおありですか、ディルワース領主ボーペル殿」
 通りすがりの旅人にそこまで言われたくはない、という反応を覚悟したオシアンだったが。

「……シャッセが無事であればよい」
 ボーペルの言葉は、領主のそれではなかった。
「貴公はそんなことを言う立場ではないだろう。一国の頂点に立つ存在なのだぞ」
「お、おいオシアン?」
「黙っていろ。いいか、領主ボーペル殿、貴公の両手には何百何千というディルワースの民の暮らしがかかっている。それはお分かりだろう。この街は魔力に包まれている。他国のこととは言いながら、何も知らぬ無辜の民が苦しむ様を見て、見ぬふりで通り過ぎるわけにもいかぬ。貴公の知ることが救いにつながるのだ。領主たる責務を果たすためにも、ご存知のことを語っていただく」
 しゃらん。錫杖の音が響いた。
「《竜の牙》はどこにあるのです」
「オシアン殿には、手にできまい。それでも見たいというならば」
「言うだろうね、この子猫ちゃんは」
 モースが言葉を引き取った。
「手にできるかどうかは、キミが決めることじゃない……分かってるんだよね、子猫ちゃん?」
「何をです」
 モースの問いかけに、オシアンとアーシュはともに顔をあげた。賢者の蒼い瞳がふたりを射る。
「《竜の牙》が瘴気と《狂乱病》の原因だと言ったよね、そこに近づくということは」

 なにやら遠くで、甲高くわめく声が聞こえる。
「おーい、おーいってば。ねー、モースのおにーさぁん! 中にいるんでしょーっ」
 ローズ・マリィ、ただ今離宮の門から叫んでいる。
「聞こえてる? ここにいるって聞いたのよ、ねえちょっとぉ、わたしも入れてよお願い!」
 どうやら衛兵と押し問答になっているらしい。
「シャッセ姫とお話がしたいのー!」
「入れておやり」
 モースが領主に微笑んだ。ボーペルは苦笑しながら、衛兵に指示を出した。
「あれはマリィ家なんだそうだよ。知ってた?」
「ディルワースの民ならば、皆知っとるんじゃないだろうか。ランディの妻、だろう。フォリル殿は、ディルワースの民をシャッセに近づけないほうがいい、とおっしゃっていたが。まあ好きにするがいい」
 領主は薄くなりつつある頭を抱えた。

 魔導操師クーレル・ディルクラートは、モースを探しに離宮にやってきた。
 先日は不覚にも、魔法を発動させながら途中で気を失うという失態を演じてしまった。だが得るものも多かったと考えている。
 常にクーレルを脅かす疑問……自分は一体何者なのか。
 仲間たちは言葉に出して、クーレルの身の上を尋ねてくることはしない。けれど彼の帯びる珍しい力は、好奇の目にさらされていた。たとえば、茶色の猫のような。
「やあやあ、ディルクラートさん」
 その猫カロンは、モースを探して離宮を歩くクーレルの前にひらりと現れた。従者だという少女ミューも姿を見せる。小走りでやってきた彼女は息をはずませていた。
「カロン、カロン、さがしたんよう。準備ととのったん……」
 茶猫カロンは前足でミューの言葉をさえぎると、再びクーレルに向き直る。
「実は先日、貴方が行った魔法についてなのですが」
 ほら来た、とクーレルは、うろんな目つきを足元の猫に投げかけた。
「古城が見える、とおっしゃいましたね。ディルワース王城に間違いない、そうですか?」
「ああ。あんたは王城探検に行ったんだったな。風見の竜や鐘楼も見えたように思うぞ。このあたりで大掛かりな築城など、他には行われてないんじゃないか。ほぼ間違いなく、ディルワース王城だろう」
 クーレルは顎に手をあて、光の糸につながれていたシャッセを思い出した。
「城門はいかがでした?」
「城門? 別に普通だったはずだが。開いていたか閉まっていたかまでは……」
「蔦が絡まったり、頑丈な錠前が下りていたりは、しなかったのですね?」
 うなずく魔導操師に、カロンはにっこり微笑んだ。
「ふむ、ありがとうございました。いやいや、気にはなさらないでください」
 いぶかりながらも、立ち去るクーレル。その細身の背を眺めながら、カロンはひげをしごいた。
「どしたんカロン? おしろのことなんかたずねて」
「……やはり城内で術をかけるほうがいいだろうと思ってさ」
「ほんとにほんと? ミュー、あのおしろしめっぽくていやなん」
「オシアンも同じこと言ってたぞ。気が合うかもな」
「いやん」

 クーレルは今のやりとりを思い返し、ふと気づいた。
 自分の素性も知れぬのに、シャッセ姫につながる糸のことを詮索して、一体何になるというのだろう。怪しげな猫は、クーレル自身に興味を持ったのではない。彼の力とその結果に、興味を持ったのだ。欠けた記憶をすべて取り戻した時には、自分はどうなるのだろうか? 誰かに興味を持ってもらったり、シャッセ姫のように人気者になったり。人気はともかくとしても、人の記憶に残る存在たりえるのか。
(そんなのずるいと思いませんの?)
 ……昔誰かに、そう言われたことがあるのを思い出した。
 誰だろう。暖かな光あふれる庭。咲き乱れる花々。北方にようやく訪れた春。
(ずるいって、どういうことだ)
(だって貴方は、人に興味を持たないように生きているじゃありませんか。できるだけ深入りしないように、しているんじゃありませんの)
 そんなつもりはないのだけれど。
(ずるいと思うなら、思えばいい)
(ですから、そういうところが貴方らしいのですけれどもね、クーレル様)
 そしてその人は、ころころと笑ったのだっけ。
 そしてその人は、姓ではなく名で俺を呼んだのだっけ。
 思えばあの時から、自分の中のどこかがとまってしまったような気がする。

 シャッセの居室は、常に旅人たちが出入りしていた。夜には女医コルム=バルトローのみが付き添い、隣室で医師フォリル・フェルナーが万一の場合に備えて待機する。しかし日中は……シャッセが顔を覚えた者なら自由に出入りできるのだ。さすがにこれだけ話し相手がいると、シャッセも退屈とは言わなくなった。
「結構結構。退屈で死んでしまう動物もいるからな」
 寝巻き姿でジェイス・オールドマンとカード遊びに興じるシャッセを眺めて、コルムがつぶやく。
「コルムさん」
「はいっ、フォリル先生」
 艶のあるフォリルのバリトンに、コルムは振り返って居ずまいをただした。経験豊富なフォリルは、コルムにとってまさに先生だ。
「ウサギは退屈ではなく、寂しくて死ぬと言われているのだが」
「……はい」
 以前街角で見た少女の抱いていた飛びウサギ。あれならばきっと退屈で死ぬのではなかろうか。ちらと考えたコルムは、医師の視線に気づいて慌てて目をそらした。
 フォリルは立派な先生なのだが、無口なところが時々ちょっと怖い。それに時折発作のように見せる一面に、コルムは気づいていた。ひたすら患者を救おうとする情熱、それだけではない何かがあるようだ。多分ある時、それがフォリルを変えてしまったのだろう。
「王城へ行くつもりだと?」
 フォリルの言葉には、珍しく荒々しさがこもっていた。
「あ、はい。たまには姫も外の空気を吸った方がいいのではないでしょうか」
「王城の空気は、お世辞にもいいとは言えないようだがね。長い年月廃墟となっているそうだし、何よりも」
 一瞬言葉を切ったフォリルを、コルムが見つめた。
「いや、また後で話そう」
 なんて軽率なことを、といさめるつもりだったフォリルは、その言葉を飲み込んだ。姫とコルムの間には、深い信頼関係があるようだ。私には、コルムのような真似はできない。患者の心に始終そっと寄り添うような、そんな真似は。
 ならば、その思いつきも、軽率ではないかもしれない。

「じゃあ私は、このカードを。……っと、はい揃いました。私の勝ちです」
 ジェイスはストールの上に、ぽいと手札を投げ出した。シャッセの頬がふくれる。
「ジェイス、ずるいぞ! 僕だって次の手で揃ったのにっ」
「何ですか姫、私は別にカードが得意ではないですよ。これは正々堂々の勝負です」
「もう一回やる。勝つまでやる」
「休憩してからにしましょう」
 苦笑しながらジェイスは、この姫君のこういうところが人気があるのだろう、と考えた。サーカスを見に来る子供たちと、何にも変わらないのだ。自分が17才の時にはどんなことを考えていただろう。もう10年以上も前のことだ。
 シャッセは、ジェイスがカードをシャッフルする様をぼんやりと眺めていた。寝台の上であぐらをかいて、背を丸めて頬杖をついている。目覚めているのに、半ば夢を見ているかのような、そんな陶然とした表情。それがジェイスには気になる。
 女の子がこういう表情をするときは、だいたい決まっている。
 ……恋。

 郵便配達人カミオ・フォルティゴは、コルムと同じく18才。ちょうどシャッセと同年代にあたる。腰まであるジェイスの長い黒髪をもてあそびはじめたシャッセに、カミオは肩掛け鞄から取り出した小さな包みを差し出した。
「はい、これ、お姫さまに」
「僕に郵便? 何、お見合い写真だったらいらないよ。僕は結婚なんてしないんだから」
「違う違う」
 カミオは包みを開けようとしないシャッセに代わり、自分でひもをほどく。ジェイスが口を挟んだ。
「おいおい、人様の郵便物を勝手に開けたりしたら……」
「ん? ていうかね、これは僕からのプレゼントだよ。いやプレゼントっていうと大げさだけどさあ」
 紙と色鉛筆、そして封筒。
「誰かに手紙を書いてみるってのはどう? 暇つぶしになるんじゃないのかな」
 カミオは、シャッセの病気の一因が、寂しさにあるのではと考えていた。《大陸》の端っこディルワース。対外交渉もほぼないに等しそうなこの国は、《大陸》中を仕事場とするカミオにしてみればあまりにも狭すぎる。旅人たちと話している間のシャッセは楽しそうだった。
「病は気から。手紙を書いて楽しい気分になったら、きっと病気もよくなるよ」
 シャッセは寝台の端で足をぶらぶらさせながら、お手紙セットを受け取ったままうつむいている。しばらく考え込んだ後、おもむろにそれをジェイスの前に突き出した。
「私!?」
 ジェイスは滅相もない、と両手を振ってそれを拒む。手紙をくれた子どもたちに返事を書きたいのは山々なのだが……いかんせん、彼は字が汚い。みみずののたくりで、子どもたちの夢を壊すわけにはいかないのである。
「だって、手紙を書く相手なんかいないんだもん」
「誰だっていいんだよ。別に、お父上や自分に宛ててもいいしさ。なんだったら、亡くなった人にでもいいから、書いてごらんよ」
 消印ハンマーを寝台の脇に立てかけると、彼はシャッセの隣にぽんと座った。寝台のばねが波うってきしむ。シャッセの手に強引に鉛筆をにぎらせて、カミオはにこにこ微笑んだ。
「……夢にでてくる人でもいい?」
「いいよ、もちろん。その人に伝えたいことがあるんでしょ」
「名前、知らないんだけど」
「ま、配達にはちょっと時間がかかっちゃうかもね」
 シャッセは鉛筆のお尻を噛みながら、文面を考え始めた。

「なかなかうまい作戦ではありませんか」
 カミオのやりとりを眺めていたコルムが、そっとフォリルに言った。
「何がだ」
 奥まった城の一室で、百年の眠りにつくという姫君のお伽噺を思い出していたフォリルが答える。父王の命令で、精霊がその城をいばらで覆い、近づこうとする者たちから、道を閉ざしてしまったという。領主の過保護ぶりが、その父王と重なって見える。たしかあの物語は、姫を見初めた王子の口づけで姫が目覚めて終わる。
 ……ばかばかしい。
「ほら、あの手紙の内容には、今の姫の気持ちが込められているでしょう」
「覗き見などできるわけないだろう」 「ああ、もちろんそうですが。でも手紙を書きながら、それまで気づかなかったことに、自ら気づくということはよくありますよね。字を書くと冷静になりますから」
 コルムはフォリルの記したカルテに目を落とす。細かな文字が、きちんと水平に並んでいる。
「夢の登場人物に宛てて書く、とおっしゃったな」
 よほど毎晩同じ夢を見ているとみえる。フォリルはしばし考え込んだ。
 
 旅商人ソロモン・ウィリアムスは、医師たちに薬草を商うというふれこみで離宮にやってきた。
「それにしても、支出がずいぶんと最近多いなあ。情報もお金になる世の中とはいえ、せちがらいもんです。とほほ」
 薬草各種を詰め込んだ籠から漂う、何とも身体に良さそうな香りに閉口しながら、彼は回廊を歩く。と。
「……ああ、カロンさん」
 視線を感じて目をやると、彫刻の台座から茶猫が見下ろしていた。
「そちらは、いかがですか」
「ふむ、これから仕上げをしてくるつもりです。今従者を使いにやっていまして」
「ではアレの在処が分かったと?」
 カロンは前足でひげをしごくと、藍色の目を細めた。
「そっちは残念ながらまだです。できればお力をお借りしたいのですが」
「私も素人ですからねえ。なんとかやってみますけれど」
 ソロモンが答え終わるのも待たず、すでに茶猫の姿はなかった。準備とやらに忙しいらしい。ソロモンは肩をすくめると、シャッセの居室へと向かった。なんとしても、《竜の牙》のことを聞き出したい。雑貨屋の話が本当ならば、シャッセが小さい頃の話を聞くのがよさそうに思えるのだが。

 ソロモンが来たとほぼ同時に、シャッセの元を訪れた人物がいる。
「まったくもう、失礼しちゃうわ! 《狂乱病》? 伝染病? そんなモノ怖がって、部屋の中に閉じこもってるなんてとうの昔に卒業したっていうのよっ」
 ローズであった。首尾良く離宮入りを果たした彼女は、開口一番シャッセに向かって思いの丈をぶちまけたのである。それはもう、その場に出くわした皆が口をぽかんとあけるくらいに。
「こーんな、ちっちゃな時からおなかがペコペコでひもじくっても、毛布がボロボロで寒くっても、独りぼっちで寂しかったのも、全部、ぜーんぶ、我慢してきたんだから。強いんだから、わたしは。……あなたと違ってね? 昨日ぶり、ご機嫌いかが? シャッセ姫」
「やぁ……えっと、会ったっけ?」
 シャッセは目の前で仁王立ちになっている少女の姿に心当たりがないようで、片手をあげたものの行き場に困っている。ジェイスもコルムも、ローズの剣幕に気圧されていた。カミオだけがいつものマイペースで、深緑色の帽子をとってやあ、なんてやっている。
「あらあなた、いいところで出会ったわ。お手紙運んでくれるのよね? 今度お願いしたいことがあるの。……で、シャッセ姫ったら、やだ。覚えてないの?」
 腰に手をあてたポーズのまま、ローズはずいと顔を突き出した。緑色の大きな瞳が、シャッセの瞳をのぞきこむ。
「僕、ずっと離宮から出てないけど」
 ローズが近づいた分だけ頭を引きながら、シャッセが答えた。
「その黒髪と、ディルワースじゃ珍しい額の印……マリィさんとこの、お嫁さんだよね?」
「ん、もう! わたしが言いたいのはそんなことじゃないってば!」
 ずい。二人の額がふれあった。
「夜よ、夜。あなた街中でわたしにぶつかったじゃない。覚えてないの?」
 その言葉に、部屋中の視線がローズに集まった。フォリルが眼光鋭くシャッセを見守る。とうの本人は、きょとんとしたままだ。
「えー? それほんとに僕? 覚えてないんだけど」
「《鐘楼へ帰りたい》って言ってたわ。何のことなの? それどこにあるのよ。あなたが帰りたいのは、どこなの?」
「鐘楼……?」
 まあまあ、と間に割って入ろうとしたコルムのことはそっちのけで、ローズの語り口は、意地悪そうなトーンと、その裏のコンプレックスがないまぜになって、シャッセを責める。
「そこには、ココよりも豪華なお城があって、贅沢な暮らしができて、あなたを大切にしてくれる召使いやら王子様やらが、いっぱいい〜っぱい、待ってるっていうの? だからそこに帰るっていうの? そんな夢のような世界へ」
「待ってよローズ、僕がそんなことを君に話したの? 僕は鐘楼の夢を見る。お城の夢を見る……でも」
「ははん、文字通り夢の世界だったって訳ね! わたしもぜひ一緒に連れて行ってほしいわ」
 触れた額にそって、ローズはシャッセの髪をかきあげる。癖のある赤い髪がぱらぱらと束になってこぼれた。シャッセの熱が、ローズの額にも伝わった。 「病気がうつるよ」
 シャッセの唇から、熱い吐息が漏れる。
「かまわないわ。さあ、連れてってよ、鐘楼へ」

「ストップ」
 フォリルが、そっとローズの肩に手を置いた。
「絶対安静の病人の感情を刺激しないように。お嬢さん、めったなことを言うものではない。《狂乱病》がうつってもいいなどと」
「なぜ? ずるいわ。みんな同じようにしゃべってるじゃない」
「あなたがディルワース人だからだ。心配する人もいるのだろう? 病気にかかるというのは辛いことだ」
 ローズは息をのんで黒衣の医師を見上げた。年老いた夫ランディと、その幼なじみサンディの姿が脳裏をよぎった。
「わざと病気にかかって、それを治した人の血をお薬にすることもできるって聞いたわ」
 負けん気強く言い返すローズ。
「そうだとしても、あなたに頼むつもりはない。病気になって苦しんでくれと、健康な人間に言える医者などいないからな。だがそこまで言うなら」
 コルムがシャッセと王城へ行く約束をした、と聞いてから思いをめぐらせていたのだが、ここへきて意を決した。
「王城が姫の病気の鍵というのは、私も同感だ。だから、行ってみようではないか。ただし!」
 フォリルは寝台脇のワゴンを示した。毎食、喉の通りが良い物を準備しているのにもかかわらず、相変わらず食事は手つかずのままであった。
「外出するからには、体力をいける意味でも、無理にでも食事をとっていただく」
「えー」
 肉が溶けるほど煮込んだスープ、果汁のゼリー寄せ、野菜をすり下ろした和え物。それらを見やってシャッセは舌を出した。
「わがままをおっしゃるなら、私の口移しでも食べさせる」
 無表情で見下ろすフォリル。シャッセは肩をすくめると、ひさしぶりにスプーンを手に取ったのだった。

「口移し……」
 笑いをかみ殺しているジェイス。シャッセの想い人として、これほど意外な組み合わせもないように思えたからである。先ほど姫がしたためた手紙の宛名は、夢のあなたへ、となっていた。それが姫の想いを寄せている相手であるに違いない。シャッセの気を悪くしないよう、そっと聞いてみる。
「夢にでてくる人っていうのはどんな人なんですか」
「どんな人って……優しい人」
 鏡台の前で、髪をすきながらシャッセは首をかしげた。すかさず、そういう話題が得意なローズが加わる。
「なあに、なあに、シャッセ姫ったら恋してるの? 相手はどんな人? 優しい人ということは、夢の中でしゃべったことがあるのよね?」
「うん。夢で会ったらいつも、話しかけてくれるよ」
「で、どうなの? 顔は美形? 背は高い? 髪はさらさら? その人がシャッセ姫の白馬の王子様? もしかしてその人がいるから、縁談を断ってるの?」
「……」
「きゃ〜当たっちゃったかしら、ねえわたし、相談に乗ってあげてもよくってよ! 鐘楼に行ったら、その人に会えるかもしれないものね。お見合いなんてしてる場合じゃないでしょうねえ」
「僕、病気だしさ」
 ぼそっとシャッセがつぶやいた。
「こんな状態でよそに嫁いでも、迷惑かけるだけだろ。だから結婚なんてしない。……そうだね、夢のあの人となら、結婚してもいいけどね。あの人は、僕が病気なのを知ってて、何も言わないで優しくしてくれるから」
「声が聞こえてきて、自分が誰だか分からなくなるっておっしゃっていましたが、その声の主と、その人とは違うのでしょうか?」
 ソロモンがふと尋ねた。シャッセは違うという。
「あの声はね、やっぱり聞こえてくるけど……最近はあの人がさえぎってくれるし」
「んもう、紛らわしいったらないわ。ややこしいのよ、あの声だのあの人だの! これから先、あの人は《白馬の君》って呼びましょ。あ、基本的なこと聞くけど《白馬の君》って男の人よね?」
 もちろんシャッセはうなずいた。

「ついでに聞いちゃいますけど、シャッセ姫、小さい頃を覚えていらっしゃいますか?」
 ソロモンがついでを装って本題を切り出した。《竜の牙》の場所を聞き出すのが目的である。しかし頭では、相手に信用してもらわなくては、と分かっているのだが……なかなか思うように話することは難しい。
「あんまり覚えてないや、でもどうして?」
「城下町で、小さい頃から人気者だったって話を聞いたものですから。その頃はもう、一家で離宮にうつってらしたのですよね」
「うん」
「引っ越しされた時には、大事なものなんかも一緒に離宮にうつしたり、とかって……いやあの、ぶっちゃけて言いますと、《竜の牙》っていまどこにあるのかなーなんて」
 結局うまく伝えることができずに、ソロモンはそう言うと照れ笑いした。
「《竜の牙》……あ〜あれかぁ。売ると高いんでしょ、あれ」
「ど、どうしてご存じなので? いや、私のような一介の商人には手が出る価格ではありませんけど、その価値は莫大です。で、それで遊んでいた、とも聞きましたよ」
 シャッセは嘆息した。そして、父には内緒にしてくれという。
「内緒もなにも、まだお小さい時の話でしょう」
「そうなんだけどさ。触っちゃいけない、って言われてたから余計に触りたくなるんだよね。確か、あれだけは……あ、いや……あれ」
「どうしました、姫?」
 シャッセはこめかみに両手をあてて、何かを思い出そうとするように身を丸めた。カミオとローズが、心配そうにのぞき込む。
「どっちだっけ。記憶が曖昧なんだけど……そうだよ、《竜の牙》は王城にあるんだ。見つからないように持ち出すのが面白くて、何度も……でも、僕……」
「シャッセ姫、王城に行かれたことが?」
「ううん、ないはず。行ったことはないはずなんだよ」
「行ってみればわかるさ」
 カミオは気楽にそういうと、消印ハンマーを肩にのせて立ち上がり、シャッセに片手をさしのべた。
 
 オシアンとアーシュが王城に向かった後も、クーレルはモースの前に残っていた。部屋の主である領主は、仕事だかで席を外している。二人きり。
「教えて欲しい。俺があの城を魔術で関知することを、貴公はご存じだったのでは」
 モースは首を横に振る。金髪がさらさらと揺れた。
「あの時、他の力の干渉を感じたのだ。まるで、見られることを拒んでいるようだった。シャッセ姫自身は、魔法を使うことはないという。では、誰が一体」
「迷子ちゃん、少しは思い出したかい?」
「……その手には、もうのらない」
 一瞬クーレルは、カロンと出会った後に思い出した記憶を味わいかけたが、すぐさまモースに意識を戻す。
「貴公もあの城をご覧になっただろう。俺があの城を見ることも」
「キミの力は、他者に対してより強く発揮されるようだね」
(……ずるいって、どういうことだ)
(そういうところが貴方らしいのですけれどもね、クーレル様)
「迷子ちゃん、キミからも糸が伸びている。……僕も思い出したことがある」
 モースは言葉をきって、クーレルの紫の瞳を眺めた。
「忘れてしまっていた僕を許してくれるかい? ごめんよ、ディルワースの大地は、悲しみに優しいから」
「?」
「僕はキミを知っていた。直接じゃないけれど、ある事件を通じて。キミが行った魔術で、糸の先に王城を見たとき……そしてその糸が、キミからも伸びていたのを見たとき、気が付いたんだ」
「どういうことだ」
「それを尋ねる迷子ちゃんの勇気に敬意を表して、答えるならば……エシャンジュは幸せだった、と」
 ふいにクーレルは、ある肖像を思い描いていた。かかっていた霧が急に晴れたように、乱れた屈折が急にはっきりと像を結ぶように。金髪を高く結い上げたしとやかな女性。
「幸せってなんだろうね」
 モースは窓辺に身をもたせかけ、目を閉じた。どうしようもなくいたたまれないような気持ちに襲われたクーレルは、落ち着かずに視線を部屋中にさまよわせる。領主が政治をとるであろう机上には、羽根ペンやインク壺、たくさんの紙束がひしめいている。何か、思い出せそうだ。
「……エシャンジュ」
 低く、口に出してみた。久しぶりに唱えた魔法の呪文のように、まるでそらぞらしい響きだった。
「キミは幸せかい」
「それが何かと関係があるのか?」
「ううん」
 モースはクーレルを見ようとせず、ただ肩をすくめて、ごめんねとつぶやいた。

2.誰彼へ続く


第3章|波紋誰彼流転夢現マスターより