第3章|波紋誰彼流転夢現マスターより

2.誰彼

 ディルワースの街では、迷子がひとり孤独な戦いを強いられていた。下唇をぎゅっとかむ、その名はエルム=アムテンツァ。物心がついたときから人里離れた暮らしをしていたために、野山での生活や方向感覚になら、誰にもひけをとらない自信を持っている。彼女が所属する集団《野の百合の門》は、《大陸》東部で魔術や武術を磨いている修行僧たちの一団であった。いわゆる神官と異なり、千年以上前に《大陸》を治めていた《天宮》の神々を信仰しているわけではない。魔術や武術の修行を通じて、また自然の中でのあらゆる営みが、精神の高みへと導く道になるというのが《野の百合の門》の基本理念であった。
 そしてその中で生まれ育ったがゆえに、彼女は街が苦手だった。石造りの四角四面の建物の数々は、どれをとっても同じに見える。エルムにとっては灰色の迷宮に他ならない。ディルワースの森の木々を見分けろ、と言われたならば、たちどころに答えることができるのに。
「ああ……」
 嘆息したエルムは緑灰色の帽子を脱ぐと、はたはたと汗ばんだ額に風を送った。先ほどから王城への道を探しつづけているのだが、いっこうに見つからない。街のどこからでも目にすることの出来る鐘楼に、腹立たしささえ覚えながら、彼女はまたも通りすがる人に道を尋ねる。
「あの、突然失礼いたします。ディルワースの王城へは、どうやって行けばよろしいのでしょうか」
「お城かい? ほら、風見の竜が見えるだろう、あそこがお城だよ」
 地元民の指差す先に、くるくると翻る風見竜。もちろん、それはエルムにだって見えている。
「は、はい。あそこですね」
「そうそう、そんなに遠くないさ。少し街はずれに行くと道が森の中に入るけど、深くはないからお嬢ちゃんでもひとりで大丈夫だと思うよ」
「ご丁寧にありがとうございます」
 いっそ、ここが森の中ならば。人は何故、平地に同じような石の家を建て、そこに住むのだろう。立ち去る街人に深くお辞儀しながら、エルムはため息をついた。
 彼女が目指す王城へたどり着くのは、もうしばらく先、旅人仲間に拾われてからのことになる。

「美しいけれど、淋しげな音色」
 妖精族グリースボーナは、先日何かにひきあわされたように手に入れた小さなオルゴールをもてあそんでいた。鈍く光るぜんまいを巻き、オルゴールの小箱を耳にあてる。緑色と柘榴色の、二つのピアスが音もなく揺れた。
 それは今まで聞いたことのない曲だった。白昼夢のようにつかの間見えた幻影が、グリースボーナの心から離れない。曲を耳にする度に、幻影はより色濃くグリースボーナの心に刷り込まれていくようだ。
「もっと音楽や詩歌に詳しければ、この曲のことも分かったかもしれない……」
 グリースボーナが人間と積極的に交わり始めたのは、つい最近のことだ。100年ほど前に両親が亡くなるまでは、妖精族の里に住んでいたし、その後もしばらくは人目を避けて隠遁生活のような暮らしをしていたのだ。そういった中で記憶に残るメロディは、自分でも意外なほど少ない。
「わたくし音楽のことって、ほんとうにぜんぜん知らないのですわね」
 オルゴールのことは知っている。芸術を愛する妖精族の中には、手先が器用で楽器を自在につくりだし、操る者たちもいるからだ。オルゴールの小箱は宝石箱のように、黒くつややかなびろうど張りである。蝶番がついていて、ぱくりとふたを上下に開けることができる。内側も、ふかふかしたびろうどで覆われていて、ふたの裏には小さな鏡がはめこまれていた。年を経たものらしく鏡はくもっていた。グリースボーナはぼろぼろになった長衣のはしっこで、そっと鏡を磨いた。
「きれい。何かを入れておくもの、なのでしょうか」
 細い手でそっと小箱の裏をひっくり返してみる。オルゴールのぜんまいが奇妙に曲がって伸びているほかは、特に変わったところはないように見えた。
「あら」
 よく見ると、鏡の隅に小さく文字が彫られている。
「……我が子へ」
 愛する子どものために、両親からの贈り物というわけですのね。小首を傾げて彼女はもう一度ぜんまいを巻く。せつないメロディが、朽ち果てた王城の片隅から流れ出す。

「誰なの!」
 語気荒い誰何に、グリースボーナは飛び上がるほど驚いた。
 入ってきたのは、手品師フィリスである。彼女はお城でオルゴールが見つかったという話を聞いて、ぜひともそれを借り受けようと思ってやって来たのだった。
「もう、驚かさないでよ、妖精さん」
「わ、わたくしのせりふですわ」
 ソプラノよりもまだ高い声で、グリースボーナが抗議する。
「王族の方に見咎められたのかと思いましたもの。何も、悪いことはしておりませんのに」
「それじゃあ堂々としていればいいのよ」
 驚かせてごめんなさいね、と謝りながらフィリスが言った。
「でもだって、ごらんなさいよこの部屋」
「?」
「廃墟になった部屋。頑丈な扉。ホコリだらけの調度に、部屋の前には炭になっちゃった人間! そんなところからオルゴールの音色が聞こえてきて、見てみたらあなたがいたのよ」
 くすっとフィリスは笑う。
「まるで、幽霊みたいだったんだから!」
「ひ、ひどいですわ。わたくしだって、盗賊まがいのこと、するつもりではありませんでしたの」
 蒼い瞳を丸く見開くグリースボーナ。
「だから、みたい、って言ったじゃない。……それね、オルゴール」
 グリースボーナは差し出されたフィリスの手に、そのオルゴールをそっと載せた。フィリスは大切なもののように、その小箱を眺め、そしてぜんまいを巻く。
「フィリスさんはこの曲をご存知ですか」
 手品師は、明るい茶色の髪をすっとかきあげ、形よい耳にそれをあてた。
「不思議ね。私、この曲を、聴いたことがあるような気がするの」
「本当ですか? ディルワースで?」
「そうね……最近見始めた、夢の中で」
 二人は目を見合わせた。

 突き当たりの部屋を出て、旅籠へ戻ろうとするフィリスは、リーフのことをグリースボーナに伝えた。
「そうなの、それでそのオルゴールを、赤ちゃんに?」
 フィリスはグリースボーナたちが見たという幻影が、リーフの家族ではないかと考えていた。もしこの曲をリーフに聞かせることができたなら、彼にまつわる秘密も少しは分かるのかもしれない。
「ええ。リーフはもう赤ちゃんっていうよりは、子どもくらいまで育っているけれどね」
 今ごろリーフは魔法使いディルウィード=ウッドラフに連れられて、散歩しているはずである。
「人間って、成長するのが早いって本当なんですのね」
「そう? そうかもね。もしかしてリーフが、早く大人になりたがっているのかもしれないわ」
「早く大人に……」
 グリースボーナは不思議そうに、前を行く手品師の背中を眺めた。もしも大人になる時を自由に選べるとしたら、それをいつ決めればよいのだろう?
「早く大人になれるなら、なりたいと思う? グリースボーナ」
 まったく同じ問いかけを、フィリスが口にした。
「ねえ、妖精族は人間よりもはるかに長い寿命を持つのよね。まだ《大陸》に神々がいたころを知っているって言うわ」
 ひらりと廊下の穴を避けるフィリス。彼女のようにはグリースボーナはいかない。転ばないよう長衣の裾を持ち上げ、いまにも崩れそうな回廊を注意深く歩く。
「ええ……っと、はい。わたくしも、たしか今年で1400を数えるのですわ……きゃあ」
「大丈夫」
 振り返ったフィリスは手を差し伸べて、転びそうになった彼女を支えてやる。
「1400年ね。それだけの時間があれば、何だって出来そうな気がするわ」
「そうかも、しれません」
 グリースボーナはフィリスにしがみつきながら、大きく開いた裂け目を渡る。
「わたくしもまだ若いほうです。これから先も長い時間を過ごすことになるかもしれません。でも正直、何をすることが出来るのかなんて、まだぜんぜん分からないのです」
「そう。じゃあ、人間も妖精族も、そんなに変わらないのかもしれないのね」
 フィリスは微笑んだ。

 修行僧エルムは、やっとのことで森へ続く道とやらを発見し、王城に来ることができた。すでに数人が中で調査していると聞いている。合流することができるかもしれない。
「これは……」
 口元を覆い、予想以上の崩壊ぶりに眉をしかめた。そして独特の臭気。この城にはどこか違和感があった。それが何なのか、自分に見つけることができるだろうか。
 そもそも。エルムは自分がなぜ王城に行こうと思ったのか、それにすら自答することができないでいた。自分は何ができるのだろう。何をするつもりなのだろう。何もできないことを認めたくはないのかもしれない。
「ここはもう、死んでしまっているのですね」
 王城は国の象徴、民のよりどころだというオシアンと違い、エルムにとっては城は大きな石の家。かつてそこに王族が暮らしていたはずなのに、その気配もない。王城は、ただ巨大な空洞だった。
「人の営みの一切がむなしいというわけではないけれど……」
 それでもこうして廃墟に佇むと、自分の生き方を問いかけられている気がしてならない。《野の百合の門》が目指す境地は無我であり自然との合一である、とエルムは理解していた。無我とは自分を失うことではない。さらに高い次元への昇華、あらゆる自然と人とが同じ位階から関わりあって生きること。時とともに、すべては何事もなかったように移り変わるのだ。この城のように、そしてここで生きていた人のように。
 エントランスに一歩踏み込む。エルムの耳に低い詠唱が聞こえてきた。細かな呪文までは聞き取れないけれど、独特の節回しはやはり魔法使いのもののようである。耳を澄ますと、低くささやきを交わす声も聞こえる。
 旅の仲間の顔を順番に思い浮かべながら、エルムはその声のするほうへと歩いていった。

 一方コルムはシャッセを連れて、ここ王城へとやってきた。フォリルとローズも一緒である。
「うわー、うーわー。ひどいもんだなあ、こんなに壊れて」
 吹き抜けを見上げたシャッセは、楽しげだった。いざという時のための仕事道具一式を愛用の黒鞄に入れて持ち込んでいるコルムは、そんなシャッセの様子を見て、連れ出してよかったと思う。
「姫はお城に来るのは初めてとおっしゃっていましたが」
「うん。ずっと離宮で暮らしてたから。父さんは昔お城にいたらしいけどね」
 そういうとシャッセはごほん、と咳き込んだ。
「ほら、慌ててしゃべろうとなさるからだ」
 影のように付き従っているフォリルが、清潔な布をそっとシャッセの口元にあてた。……精霊に守られ、百年の眠りにつく姫君。いや、私らしくもない。
「ちょっとお、先生たちシャッセ姫を甘やかしすぎじゃなくって?」
 口をとがらせているローズが、シャッセが他所を見ている間にそう漏らした。
「夜中に裸足でうろうろできるくらい元気があるくせに」
「甘やかしているわけではないぞ」
 コルムがたしなめる。
「病気とは、それだけで辛いものだ。肉体も精神も。その苦しみは本人にしか分からない……そう本人が思ってしまうことが、病気を悪化させてしまう」
 ローズはきょとんとしている。コルムはその表情に気づくと、申し訳なさそうに付け加えた。
「いや、難しいことを言うつもりはなかったんだ。カミオ君も言っていたが病は気からということもある。それに、自分の苦しみを分かってくれる人がいないと悲観してしまったりしたら、それこそ辛いじゃないか」
「でも自分の苦しみは、やっぱり自分にしか分からない、と思うわ」
「そう言うな。少なくとも私は、分かち合いたいと思うし、分かち合っているつもりだから」
 ふうん、さすがお医者様ね、とローズは分かったような分からないような相槌をうった。

 元気だった人が、次第にその活力を失い衰弱していく様を、見ていたくない。コルムはそう思う。もしかしたらただの自己満足にすぎないのかもしれない。《狂乱病》を引き起こす魔術的要素に対して、コルムは無力だ。
「しょうがないじゃないか、他にできることが思いつかなかったんだから」
 天井を見上げているシャッセを、家族を見るようなまなざしで見やり、コルムはひとり呟いた。夢遊病のシャッセが何を求めているのか、《まことの国》とはどういう意味か。すべての答えがこの城に隠されているような気がする。
「《まことの国》とは、ディルワースではないのだろう。姫君は《まことの国》に属する人なのではないか?」
 フォリルはこう考えていた。シャッセは《まことの国》たる異世界からの招待状を、知らぬ間に受け取っているのではないだろうか。本人にその記憶がない以上、それはシャッセの意思ではない。例えばシャッセが生まれる前に由来するなど、本人が知らない理由はいくらもある。
 私は、患者を自ら危機にさらそうとしているのだろうか。親友を見殺しにした、あの時のように?
「コルム」
「はい、フォリル先生」
「姫君はお疲れのようだ」
 フォリルが示すままに、コルムはふらつくシャッセに駆け寄った。額に手をあて、熱があると叫ぶ。その姿は医者と患者というよりも、仲の良い姉妹のそれだった。
 ああ、私の感情は、やはり凍り付いてしまっているのだ。ひとに対して、優しく思いやることなど到底できやしない。ここにいる私は、ただの技術にすぎない。
「フォリル先生、どうすれば! ああ、見てください、姫の瞳が……」
「落ち着くのだコルム、医者が慌ててどうする」
「でも先生! 発作です!」
 シャッセがふらりと歩き出す。それに肩を貸しているコルムの、蜂蜜色の三つ編みが跳ねた。フォリルはちらとシャッセの顔を見る。焦点があわない茶色の瞳は、淡い輝きを帯びていた。

「さあ、行こうよ。鐘楼へ」

「行くわ」
 ローズがすかさず答えた。シャッセの手を取り、城の奥へと走り出す。
「待ちなさい、ローズ!」
 コルムは鞄を両手で抱えると、ふたりの後を追いかけた。グリースボーナがそれを見て首をかしげる。
「今のは、お姫さま?」
 街へ戻るフィリスと別れた矢先にこの騒ぎに遭遇した妖精は、姫が病気であることを思い出した。もしかして、わたくしの薬の知識が必要になるかもしれませんわ。それに、街へ戻ってお姫さまのお見舞いに行こうと思っていたところですもの、ちょうどよかったのかも……。
 グリースボーナは長衣を翻し、自身もまた城の奥へと舞い戻った。

 声を追いかけているエルムは、城の地下にいた。光差し込むエントランスと違い、地下は暗くじめじめしている。幸い、階段を一回降りただけで灯りが漏れている部屋をひとつ見つけることができた。手に棍をにぎりしめ、深呼吸をしてからその扉に耳を近づける。
「他に方法はなかったんですか?」
 青年の声だ。聞いたことがある。エルムは漂ってきた芳香に気が付いた。城にたちこめる異臭ではなく、初夏の薔薇園にいるような甘い香りである。ということは。
「ミューもとめたんよ。でもカロン、いっつもこうなん……」
「いいからミューは、結界の点検をもういちどやってくれ。……ソロモンさんには感謝しております。《竜の牙》を用いることができれば、この術の成功率は格段にあがるはずですから、ねえ」
 扉の向こうではカロンとミューが儀式の真っ最中のようだ。ソロモンはそれを心配そうに見守っている。それもそのはず。カロンはなんと、シャッセと城とのつながりを魔法で感知するというのである。
「ディルクラート氏が意識を失ってしまってるんですよ。この城は何かに見張られているんです。それをわざわざ、こっちから手をださなくっても」
 ソロモンは《竜の牙》のありかをシャッセに尋ねてみた。地下の宝箱。確かに、シャッセの説明通りの地下室に、それはあった。いとも無造作に。
「ミュー、香をもっとこっちにも」
「うう〜、待って待って」
 耐えきれなくなって、エルムは扉を押した。儀式が佳境に入るより、今姿を現した方がよいと判断したのである。

 エルムが押すと、木製の扉はたやすく動いて中の灯りを解放した。エルムの影が廊下に長く伸びる。彼女は予想通りの面子を確認し、棍を持つ手をゆるめた。
「エルムさん! どうして、またこんなところに」
「いえその、声が聞こえてきましたので……何をなさっていらっしゃるのかと。それにもしや賊でもと警戒したのですが、それは無用でしたね。こちらもおたずねしたいのですが、一体、何をなさろうといていらしたのです?」
 エルムは、ミューが部屋の床に描いた結界に目を落とした。どうやらあたりの魔力を吸収するもののようである。芳香は、調香術師カロンが魔法を発動させているからであった。結界の真ん中に、布に半身をくるまれた古弓が置かれていた。
 ソロモンは彼女の視線を追い、うなずいた。布ごとそっと弓を持ち上げる。
「まさか、これが《竜の牙》」
「シャッセ姫が振り回していたというシロモノです」
 弓は飴色に使い込まれており、地下室に灯されたランプの光を鈍く映していた。弦は新品同様ぴんとはりわたされている。握りに当たる部分にまで、細かい装飾が施してあった。エルムは目をこらす。
「お気づきですか。字が彫られているんですよ」
 ソロモンがランプを手に取り、装飾を照らした。エルムにも読むことができる文字で記された言葉は、《すべてを帰せしめん》。
 宝箱が置かれていた地下室はそんなに破壊されていなかった。本来この部屋にも鍵がかかっていたのだが、カロンが魔法で開けたのだ、とソロモンは語る。エルムは興味深く、けれどカロンたちの邪魔をせぬように注意しながら、部屋を眺めて回った。壁には山々と森の絵が描かれている。ディルワース周辺の眺めらしい。絵の具が一カ所だけ剥がれているところを見つけ、調べてみる。
「これは抜け道なのでしょうか」
 静かに壁の一部が動き、隠し通路を表した。暗闇の果てから一陣の風が吹き込み、部屋に蒔かれた香を巻き上げた。
「城にはいくつも、こういった通路があると聞いておりましたが」
「幼い姫は、こうして侵入していたようですね」
 ソロモンの言葉にうなずきながら、なおもエルムは壁を眺めた。この壁画の意味するところはなんだろう。シャッセの語る《まことの国》、それはこの山と森に囲まれたディルワースではなく……。
 エルムは歩みをとめた。
「姫はお城に来たことはないと、おっしゃっていませんでしたか?」
 壁画にそっと手を触れたままソロモンを振り返る。金髪の青年の向こうに、猫と少女がまるでじゃれているように儀式を続けているのが見えた。
「姫が生まれる前に、城は捨てられたと聞いています。街人の話ですから、真相までは裏付けがとれませんでしたが」
「ええと……それは盗賊が来る前、になるのですね。はて。これはどう読み解けばよろしいのでしょうね」
 《すべてを帰せしめん》。飴色の弓に刻まれたのは、誰の言葉なのだろうか。
 壁画には弓を示すようなもの、あるいはエルムが漠然と考えていたような、竜とディルワースとの関係を示すようなものは何も描かれていない。山と森。
「もしや、この山と森に何か秘密が?」
 エルムとソロモンが首をひねる横で、着々とカロンたちの儀式は進められていく。

「もういいぞ、ミュー」
 カロンの声に、ミューはその手をとめた。弓を中心にした魔力収集の陣が完成したのだ。カロンはこの城と、《竜の牙》そのものが持つであろう膨大な力をうまく集め、シャッセにぶつけるつもりであった。
「ぶつけて、いいん?」
「いや、ぶつけるというのはものの例えであってだなあ。シャッセ姫の環境を再現して重なるというか、シャッセ姫の思考に同化するというか……まあそういうことだ」
 少女は不服そうにその場に座り込んだ。
 ミューにはよくあることだったので、それを気にするカロンではない。心配をかけて悪いとは思いつつ、頭はすでに別のことを考えていた。
 おかしい。本当にあらゆるものを打ち砕く力を持つ《竜の牙》の、これが魔力のすべてなのだろうか。自分のキャパシティを越えるほどの力を予想して身構えていただけに、彼は面食らっていた。これならば制御はさほど難しくはないだろう。仕上げに林檎の香りを少々ふりかけて、カロンの術は完成した。

3.流転へ続く


第3章|波紋誰彼流転夢現マスターより