第3章|波紋|誰彼|流転|夢現|マスターより|
3.流転
夢魔道士ルナリオンは落ち着かない日々を過ごしていた。どうも最近目覚めがよくない。一日の大半を愛する睡眠にあてている彼女にとって、これはゆゆしき問題であった。賢者の家でちょいと拝借してきた小瓶を、取り出してはためつすがめつしてみる。輝く液体が、静かに波打った。
「もうちょっとお金になるかと思ったのに」
雑貨屋の戸口で、ため息をつくルナリオン。
街でさばこうとしたのだが、買い取りを断られたのだった。さすがに彼女も、賢者の家で拾ったとは言えないから大人しく引き下がったのだが。その一言を出せば値はつりあがるだろうに残念である。このような得体の知れない小瓶にそうそう金は出せない、というのが雑貨屋の意見であった。
腹いせにブーツでがつんと一蹴りし、扉に向かって舌を突き出した。
「もういいや! 価値のわかんないヤツには売っても仕方ないもんね。べーっだ! ……ふわ〜。でもこのままじゃほんとに路銀が底をついちゃうなあ」
かくなるうえは。ぽりぽりと頭をかきながら、ルナリオンは頭上の森を見上げた。ふと、暗い影が投げかけられたような気がしたのだ。大きな雲が太陽をさえぎり、王城へ続く森の小道に陰を落とした。
ディルワースの王城。ここになら、いくらなんでももっといいお宝があるに違いない。
「背に腹は変えられないってヤツよねぇ。どうせもう誰も使っていないお城だもん。あたしが有効に使ってあげるわ、お宝ちゃん」
黒いレースのスカートをはたくと、ルナリオンは足取りも軽く歩き出した。
道端に座り込んで、泣きじゃくっている女性がいる。
……うるさいのはいやなんだよねえ、と思いながらルナリオンはそっと声をかける。
「あのさあ、邪魔なんだけどー」
かわいそうなくらいびくっと身を縮こまらせて、泣きはらした顔を上げたのはゴド=シシューだった。溢れる涙が、彼女の服に大きなしみをつくっている。
「あれ? アンタって賢者の家で……」
「……る、ルナリオンさん! ウチ、その……うえっええっん」
「アンタ商人だっけ。ねえこの小瓶、賢者様の家からちょこっと持ち出してきたんだけど、いくらで買い取ってくれる?」
「ご、ごめんなさい……怖くて、ウチもう……」
いたずらを見咎められて泣きじゃくる子どものようだ。ゴドはつかえながら胸のうちをルナリオンに打ち明けた。モースの家では楽しかったけれど、《なりそこない》が怖くて逃げ出してしまったのだと。友だちにも、誰にも言わずにそっと逃げた。青い髪が乱れて、ゴドの白い肌にはりついていた。
「はあ。怖い?」
ルナリオンは不思議そうにゴドを見る。
「ううっ。うううう……ひぐっ」
たしかに《なりそこない》は、正体不明でその能力がわからないという点では恐ろしい相手だったかもしれない。でもあの場にはモースもいたし、手練の戦士たちもいた。だからルナリオンはのんきに昼寝をしていたのであるが。
「ウチ、怖くて、それに……逃げ出しても一人だし、行くところもなくって……うううぇええ、うぐぅ」
「逃げたことは誰も何にも言わないと思うからさあ」
一人のほうが、静かでいい。でもそう思わない子もいる。
「賢者様の元に戻ったら? みんないるし、寂しくないんじゃないの」
「……」
ゴドは小さくうなずいた。うなだれてルナリオンにもごもごと礼を言う。ルナリオンはその丸まった背中を見送りながら、ため息をついた。
「結局、アンタも買い取ってくれないわけねー」
ゴドは旅籠に帰り着くと、自室に鍵をかけて座り込んだ。足を抱えて、涙が込み上げてくるのをこらえる。一人で生きていける人ってすごい。例えばルナリオンのような、孤独を愛する生き方は自分にはできそうもない。
モースのところへ? 戻れるはずがない。他の仲間たちに比べて自分はあまりにも無力で、足手まといにしかならないのだから。戻っても迷惑をかけるだけだろう。親指の爪を噛みながら、ゴドは考える。剣の腕や武術、魔法、人の心を慰める歌。そういったものを持たない自分に、できることはなんだろう。それを見つけなければ、このままでは戻ることなんてできない。
怖い。《なりそこない》の正体がわからないことよりも、誰からも相手にされず、必要とされないことが。
「あれ? そういえば、どんな夢を見たんだっけ」
ルナリオンは一人首をかしげた。鐘楼の風見の竜が見えるところまで来て、ふいに、自分が夢の中でこの王城に来ていたことを思い出したのだ。
「うーん、夢の中のお城はもっと綺麗だったような気がするんだけど」
蔦だらけの門を見て、腕を組むルナリオン。鍵はすでに他の者の手によってはずされている。夢の王城には、この門はなかったはずだ。他にも違うところがあるのだろうか。間違い探しでもしてみようかとルナリオンは足を踏み入れる。
ミスティ=デューラーは鉛筆のお尻をかじりながらディルワースの街をぶらついていた。手には街の地図。歩きながらもぼんやりと思い返すのは、夜毎の夢のことだった。いくら記憶が不確かであっても、毎晩見ていればいやでも気が付く。
「あれは、やっぱ関係あるってことなのよね、このミスティさんに」
人ごとのようにつぶやいた。夢の景色はどう見てもディルワースではない、別のもっと大国だ。まあそうね、このミスティさんに似合わないもの《大陸》の辺境だなんて。
ふらりと街角の店先をのぞき、気に入った食べ物をあれこれと買い求める。
「あれとあれとあれ、1こずつ頂戴」
そんな注文の仕方は楽しかった。どうしたわけか服のポケットにはちゃらちゃらと金貨も入っている。かつてのミスティは、それなりに不自由ない暮らしをしていたのだろうか。あの、同じ服をきた人々がせわしなく行き交う建物で。
旅籠に戻れば、青年魔法使いが赤ん坊に離乳食をつくっているころだろう。城に出かけた手品師も戻ってくるかもしれない。水筒に彫られた名前、ミスティ=デューラー。これだけが、ただひとつの手がかりとは、人生ってなんて脆いものなんだろう。
「ぷは! 生き返るぅ」
水筒の中身は地酒・竜殺し。口に含むと馥郁たる香りがたちのぼる。
「んー甘露甘露」
爺臭いことを言いながら、ミスティは地図にうまいものチェックのマルをつけた。
川のせせらぎ、街のざわめき、森のささやき。……どうも自分は、都市に所属している人間らしい。ディルワースを散策しながらミスティは結論を出した。人々の話を聞いているうちに、ひとつだけ思い出したことがある。
「あのお医者様、ランドニクスから来たそうだねぇ」
その一言で、ランドニクスという名前が、ただの音から意味を持った地名に置き換わったのだ。お医者というのは、最近シャッセについて世話をしている黒衣の男らしい。街人の評判は上々である。
「ランドニクス、ていこく、か」
大きな国らしいから、その医師が自分の素性を知っている可能性は低い。それでも一瞬、ミスティは姿を見せてよいものかためらった。今の暮らしが楽だから? 今は今、だけど、やはり自分の帰る場所は……ランドニクス。それがきっとミスティの《まことの国》なのだろうから。
たとえこれ以上、何も思い出せなくても。向こうの人間が他人としか思えなくても。自分を待つ人が、たとえひとりもいなくても。夢の中でしか、たどり着けなくても。
風読みジェラ=ドリムは長いこと腰を抜かしてはいなかった。《なりそこない》の訪問を、独特の思考で良いほうに考える。どんなときにも負けたくないと思う負けん気の強さと、無謀な空想癖が加わるとどういうことになるのか。
「あーびっくりした! びっくりした! びっくりしたぞっ!」
「そんなに繰り返さなくってもわかるわよ、リラ」
「人形たちのマネ。モースを探してたみたいだけど?」」
騒ぎ立てる飛びうさぎを横目に、ジェラは風の匂いを敏感に感じ取る。街の方角から吹く風は、旅人たちの血の匂いを運んではこなかった。
「あの血の匂いは、たぶん《なりそこない》さんのものね。でもどうして賢者様を探していたのかしら」
「愛の告白には見えなかったなー」
ジェラの足元で、人形たちがきゃあきゃあとかしましい。リラはそんな彼らの頭上をひらひらと飛び回っている。ジェラは小さく吐息をもらした。こんなところで考え事なんて、できそうにない。エプロンをはずし、自分の荷物を急いでとりまとめる。
『どうしたノ、モウいっちゃうのォ?』
「うん、ごめんね。また今度林檎ジュースをつくりに来るから……」
少女は身を翻すと、一陣の風のように賢者の家を飛び出した。
「オイ! どーするつもりなのさジェラ!」
飛びうさぎは、駆けて行くジェラの後を追いかける。三つ編みの髪がジェラの背ではねた。リラはその先っちょをむんずとつかまえる。
「痛いっ!」
「落ち着け、落ち着けよー。そんなに走ったら、オレサマ疲れちゃうだろ」
「だってこうしちゃいられないんだもの。ねえリラ、あの《なりそこない》さん、きっと強いわ」
リラは目を丸くして、少女の蒼い瞳をまじまじと覗き込んだ。ジェラの夢想癖はいつものことだが、ことここにいたって、ついにおかしくなってしまったらしい。自分を襲おうとした相手を、救国の英雄にスカウトする気だとは。母国愛も極まれり。
「本気でご招待するつもり? モースたちを襲ったはいいけど、負けて逃げちゃってんだろ、どうせ」
「そうかしら。意外に改心したりして、味方になってくれそうだと思うんだけど」
「思わない、思わないよフツー。一回裏切ったヤツなんてどうせまた裏切るのがオチさ」
「ドラマチックでいいじゃない」
モースを追いかけていったのならば、きっとディルワースの街に向かったのに違いない。あれに街中で暴れられては、それこそ大迷惑だ。何とか手前で追いつけないだろうか。
「ああ〜美兎薄命ってホントだな〜……オレサマ、こんな可愛いうちに華と散ってしまうのか……」
「大丈夫、あと100年は固いわよ」
「《なりそこない》なんか追いかけなかったら200年は固いぜ」
リラの言葉は、ジェラの耳には入っていない。
『ダッテ、オレたち代わりにつくらレたんだモンなぁアア、ギャハハ』
人形たちは、モースと《なりそこない》の関係を尋ねたとき、そう言って笑った。
「代わり?」
ジェラが人形の言葉を聞きとがめる。足元に人形たちがまとわりつく。
『そうよ、あの賢者サマが代わりにつくったノ』
「どういうこと? あなたたち、《なりそこない》の身代わりなの? 《なりそこない》って、《竜》になれなかった存在なの?」
『アッタマわりいなあ、違うチガウ!』
『でもジェラはジュースくれタから教えてあげル。あのネ、モースが《なりそこない》をつくったノヨ』
「昔々、まだ《大陸》が夢を見ていた頃……」
そんな出だしで始まる物語を、ふと思い出した。わくわくするような物語を好んで探しては、城の書庫で読みあさっていた頃を思い出す。随分遠くまで来てしまったものだ。
ジェラは森の中を急ぐ。《なりそこない》に会うために。会えたら名前をつけてあげよう、《なりそこない》が名前だなんて、そんなの寂しすぎるもの。行き先は風が教えてくれる。頬を冷たい風が通り抜けていった。
旅籠では、魔法使いディルウィード=ウッドラフが食事の支度を整えていた。
「でぃー!」
「はいはい、お待たせしましたねリーフ君」
「まんま!」
幼いリーフはすくすくと育ち、つかまり歩きもできるようになっていた。数日たてばおしめもとれるかもしれない。舌足らずのかたことが何ともかわいらしく、ディルウィードは呼ばれるたびに相好を崩す有様だった。
いけないいけない、どうも親ばかの素質があるらしい。たまに自戒するけれど、次の瞬間にはまた嬉々としてリーフの世話をしてしまうディルウィードである。
「ミルクと野菜のリゾットですよ。熱いからもう少し待ってくださいね」
色も綺麗な離乳食を小さな取り皿にさまし、木のスプーンでリーフに与える。
「デザートは、林檎のすったのですよ」
「みー?」
「ん? ミスティさんですか? あの方は今日も散歩に行ったみたいですよ。まんまの後は、僕たちも公園に行きましょうね」
リーフはきゃっきゃと笑った。琥珀色の髪と瞳が、きらきらと陽光を浴びてきらめいている。そうだ、子どもを嫌いになる親なんていやしないだろう。ふいにディルウィードの瞳から涙がこぼれた。
「でぃー……」
「ああ、大丈夫ですよ」
リーフの小さな指をそっと握り返し、ディルウィードは泣き笑いを返す。
「ちょっと、自分の家族のことを思いだしただけなんです。ありがとう、リーフ君。慰めてくれたんですね」
「でぃー」
夜毎の夢で両親と会うせいか、最近涙もろくなっているかもしれない。それはディルウィードにとって、まだ辛すぎる記憶だった。ぐすんと鼻をすすると、ディルウィードはリーフを抱き上げた。
「さぁ、出かけましょう。昨日仲良くなったお母さんたちは、もう来てますかねぇ?」
無理矢理気持ちを切り替える。大丈夫、今は昼。ここは夢の中ではない。リーフを求めて伸ばした手が、空をきることもない。子どもを嫌いになる親なんて……いないと思いたい。願わくば、リーフ君の進む道が光に包まれていますように。
血を分けた親でもないのに、そんなことを、とリーフは怒るだろうか?
「こんなところがあったんだ」
ミスティは街のはずれ、小高くなった丘の上に立ち風に吹かれていた。爽やかな風が気持ちいい。見下ろすと緑の森に囲まれたディルワースの街が一望できる。街を挟んだ反対の山腹に王城が見えた。
「箱庭みたい。こうして見るとディルワースもちっちゃいのね」
手元の地図に、眺望良しの花マルを書き加えた。周囲にはなお険しい山々が、横たわる竜のようにそびえている。天然の要塞だ。攻めるには難しそうである。大軍を動かすことはできないし、物資の補給も困難だろう。それに厳しい冬の気候も問題だ。《竜の牙》の軍事的意味を別にしても、警戒すべきエリアかもしれない。
「って私、何でこんなこと考えてるんだか」
訳もなく腹立たしくなったミスティは、丘の上に一本だけ立っていた林檎の木をがつんと蹴りつけた。水筒からまた酒を一口。
「ん?」
蹴りつけた木の幹に小さな字が彫られている。ミスティは碧眼をこらしてその字を読みとった。
「……フューガス……&エシャンジュ」
小さなそれは、相合い傘。ミスティは腹立たしいのを越えてげんなりした。
「こんなところにいたのね?」
やさぐれていたミスティを見つけたフィリスが声をかけた。
「あら、眺めがいいわね。最高!」
フィリスの肩にとまっていた白鳩が飛び立ち、眺めを楽しむかのようにゆっくり旋回した。
「ねえミスティ、これを見てちょうだい」
フィリスはオルゴールを取り出した。幾度も確かめた旋律が流れ出す。ミスティの身体が、ばねのようにびくんと跳ねた。
「この曲、何?」
鋭い目つきでフィリスをにらむ。フィリスはその反応に満足そうにうなずいた。
「やっぱり、ミスティもね? 同じ夢……私もそうよ。きっと彼も」
「ディルウィード?」
「ええ。ほら、旅籠に戻りましょう。このオルゴールをリーフに聴かせてみたいのよ」
そして本当は、あなたのことも気にかかっていたの。そう心の中で付け加えると、フィリスはミスティに微笑んだ。私とリーフは天涯孤独の孤児どうし、でもあなたもそれに似ているのよ、ミスティ。
リーフの公園デビューは、何も問題なく成功した。周りの母親たちは皆、ディルウィードを評して若いのに子育てに協力的な、理想の父だと褒めそやしたのだ。ディルウィードはいらなくなった子供服を交換したりしながら、街の情報を集めていた。その中には、マリィ家に嫁いだローズの話もあった。
「それがね、あそこの家はすごいのよ」
噂好きそうな一人がしゃべりだす。ディルクラートは、手のかかる妹のようなローズのことを思い出し、彼女の薬指の指輪を思い出した。
「ご当主のランディ氏はもういい年のおじいちゃんなの。78とか、そのくらいよ。そんなところにわざわざ嫁ぐのも、不思議でしょう? お嫁さんはぴちぴちで、少女とも言えるくらい若いのよ。年の差カップルって、やっぱり男の人はあこがれるのかしらね」
「はぁ……」
曖昧な笑みを浮かべて、てきとうに相槌をうつディルウィード。世間のローズに対する目はいろいろあるようだ。しかし年の差60以上とは、大したものである。
「……で、ランディ氏はローズちゃんのことをそりゃあ可愛がってると評判なんだけどもね」
けっこうなことじゃないですか、と言おうとしたが、まだ先がありそうだ。
「なんと、幼なじみのサンディさん……彼女もランディ氏と年が近いんだけど、ランディ氏とサンディさんは、もうずっと長いこと熱烈純愛中で、そりゃあ有名なの」
「はぁ……」
「私だったら耐えられないわね、老いらくの恋も悪くはないけど、嫁いできた立場がないじゃない? 老夫婦と孫娘じゃないんだもの、間違ってるわ」
ローズの立場はかなり微妙なもののようである。ディルウィードは彼女に同情を禁じ得なかった。
彼が旅籠に戻ると、待ちかねたフィリスとミスティがリーフを出迎える。
「ひー! みー!」
「おおよしよし」
フィリスが差し出された小さな手に、そっとオルゴールを手渡した。きょとんとしているリーフは、ぱくんと開いたふたの内側の鏡のほうに興味を示したようである。
「あらら、ちょっと待ってね。……ほうら、きいてごらん」
「フィリスさん、これは一体?」
しー、と細い指を立てて静かにするポーズ。ディルウィードは言葉を飲み込んで、オルゴールのメロディに耳をすませた。再び蘇ってくる夢の記憶を、必死にうち消す。
「これはね、お城にあったオルゴールなの。私たち、夢の中でキミに会ったわ、リーフ。この曲も夢の中で聞いたの。ねぇ、キミはいったい……」
『愚かなり、愚かで弱い、そは許されざる』
リーフの口の動きが、オルゴールの旋律と重なった。たどたどしいかたことではなく、重苦しい老人の声のようにそれは聞こえた。
『いざ赴かん、アングワースへ』
リーフの琥珀の双眸から、ぽろぽろと涙が流れていた。知らず魔法使いは子どもを抱きしめる。
ふいに旅籠に差し込んでいた陽光がさえぎられ、瞬間室内が闇に沈んだ。ミスティが窓辺にかけより、空を見上げる。上空に浮かぶ巨大な塊が、太陽を隠している。ディルワース全土が日食のように、影に包まれていた。巨大な塊は、ゆっくりと流れる雲のようなスピードで空をたゆたっている。下から見上げたそれは、奇妙な十字型をしていた。
かちん。無機質な音をたて、オルゴールの音がやむ。影は一瞬にして消え去り、浮遊する塊もまた幻のようにかき消えた。
「ディルウィード父さん、フィリス母さんとミスティ母さん」
リーフがはっきりとした言葉でしゃべりだした。
「母さんじゃないっつーの」
ミスティがぽきりと手の関節を鳴らす。反射的にディルウィードはミスティからリーフを隠すように抱きしめた。
「さっき泣いていましたよね、リーフ君」
こくんと少年はうなずいた。
「僕が……とても遠いところにいるってわかったから。本当のパパとママが、遠い遠いところにいるから」
「本当のパパとママ? その人たちはどこにいるの?」
フィリスがミスティの口を押さえながらたずねた。ミスティが、どうせあんたは卵から孵ったんだ、というのがわかっていたからである。
「あそこに、いるの」
リーフがそっと指さしたのは、窓の外、空の上。ちょうど先に巨大な塊が浮かんでいたあたりであった。
4.夢現へ続く

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