第4章|空へゆく道|彼方からの風|夢路の迷子|誰が為に鐘は鳴る|マスターより|
1.空へゆく道
『愚かなり、愚かで弱い、そは許されざる』
その口から紡がれたのは、まるでリーフらしくない言葉だった。オルゴールの曲が何かの鍵であったかのように、小さなリーフは自分の足ですっくと立ち上がり、まわりを囲む父母の目をひたと見据えて語り出したのだ。
『いざ赴かん、アングワースへ』
そしてリーフは小さな手を差し伸べた。ディルワースの大地に大きな影を落とす、巨大な塊に向かって。アングワース、《貴石の竜王》。伝説の存在。この琥珀色の髪の少年もまた、それに連なる存在なのだろうか。
手品師フィリスはひざまづき、そっと少年の細い肩を抱きしめる。リーフは泣いていなかった。琥珀色の瞳がただ頼りなげに、フィリスのブルーグレイの瞳に映る自分を探し、見つめていた。
次第にかぼそく、スローテンポになっていくオルゴールの音色がついにやんだ。ぱたんと蓋を閉じる音が、やけに大きく響き渡る。
「大丈夫よ」
落ち着いたアルトで、フィリスがささやく。白い細い手が、少年の頬に添えられた。
「ここにいる私たちみんなで、リーフ君を本当の両親の元に返してあげる。だから、ね。大丈夫」
魔法使いディルウィード=ウッドラフが、うんうんとうなずいた。誰より先に父さんと呼ばれたうれしさも手伝って、一人もらい泣きしてしまいそうな勢いだ。
「もちろんですとも。僕たち、リーフ君のためならどんなことだってできますから。そうですよねフィリスさん、ミスティさんも」
振り向くディルウィードだが、ミスティ=デューラーの姿はない。
「あ……あれ? もう空を飛ぶ方法でも探しに行ったかな……いやそれとも、リーフ君の服を探しに……」
「ミスティ母さん、怒っちゃったかな」
「ああ、彼女はまだ未婚のようでしたし、それとも記憶が戻って本当の子どものことを思いだし……あわわわわ」
フォローを入れようとすればするほどハマってしまうディルウィードに苦笑しながら、フィリスは立ち上がった。リーフが追うようにしてフィリスを見上げる。
「さぁ、まず服を着替えましょうリーフ君。そんなにお腹出してたら風邪をひいてしまうわ。そして……ミスティが戻ってきたら、みんなで相談しましょう」
もちろんミスティは、怒ったわけではなかった。ディルウィードが口走ったように、忘れてしまっていた家族の記憶を取り戻した訳でもない。オルゴールの音色に、我知らず動揺したのは事実だったけれど……そしてそれは、かつてその曲を耳にしたことがあったからだけれど。
胸を突かれるようにして、旅籠を飛び出してしまった。頭上に浮かぶ影が、ミスティの白い肌に落ちる陽光を遮る。彼女はぎり、と口の端を噛んだ。前にも一度あの影を見たことがある。生まれたての帝国の、できたての組織の中で。新品の機材に囲まれて、揃いの制服に身を包み、彼らは帝国内外・周辺諸国の各種調査にあたっていた。あれはもう……思い出せないくらい昔の出来事だ。
《空飛ぶ島》と呼ばれていたそれの正体を確定するのに、2班が出動した。調査隊の引率を命じられ、不承不承ミスティは出かけていった。くっそー、あんなに単独行動にさせてくれって言ったのに、頭の固いジジイどもと来たら。
思い出せないくらい昔? 本当に?
ランドニクス。《大陸》の地図中央部、かなりの面積を占めている新興の帝国。皇帝は戦好きではあるが、ディルワースのような小国に食指を動かすことはまずない。
「よしんばあったとしても、それはまだまだ先の話のはずだわ。そのためにあのうっとうしい連中がいるんだし。ちょっとは働けってーの、元老院のくたばりぞこないども。やつらに《竜の牙》の話をしたら飛んでくるかしら、目の色変えて」
……それがどうしたというの。
がつ。黒い革靴が地面を蹴った。薄手の長衣が風に翻る。
何かが心の奥で警鐘を鳴らしていた。ずっと失っていたものに肉薄している手応え。自分にとって大きな分かれ道が、この先に待っている。不安を紛らわすようにミスティは考えをまとめ始めた。影から逃げるようにして、先日見つけた丘へと駆けだしていく。手には自前のディルワース食べ歩きマップをつかんで。
不安?
ばかばかしい。このミスティさんに、不安なことなんてない。あるわけないじゃないの。たかが自分の記憶を取り戻すだけじゃないの。
魔導操師クーレル・ディルクラートは、こみ上げてきた感情にひきずられるようにして、その場所へとやってきていた。大きな術を使った反動が残っているのか、まだ体調万全とは言い難い。時折めまいが彼を襲う。そうした時にはいつも、金色の美女の姿が浮かぶ。
「エシャンジュ、か」
モースはなぜ今頃になって、自分に伝えたのだろう。エシャンジュは幸せだったのだと。ディルワースが優しい土地だと彼は言った。さすらう旅人クーレルにとっては、ディルワースもまた、ただ通り過ぎていく場所にすぎない。そう思っていたのだが。
丘の上に一本だけ立つ林檎の木。その根元に、すらりとした四肢を投げ出して座り込んでいるミスティを見て、クーレルは眉をひそめた。記憶の中にある金色のエシャンジュと、派手な格好のミスティがあまりにもかけ離れていたからだ。
「……俺も愚かだな。なぜ、ここに来れば会えるかもしれないなどと思ったのだろう」
「何よ、なんか用なの魔導操師」
「いや」
ミスティは機嫌が悪いらしい。クーレルは彼女に構わぬようにして、ゆっくりと林檎の木の幹をなでた。小さな小さな相合い傘に、フューガス&エシャンジュの文字が彫ってある。クーレルの胸に、温かい何かとぞっとするような冷気が同時に流れ込んできた。
「う……」
小さくうめき、まぶたを閉じる。こぼれるようなエシャンジュの笑顔。
「アンタも、昔この場所にいたんだね」
クーレルの動作を見てミスティが呟いた。その目には、何の感情もこもっていない。
「貴公は記憶を取り戻したのか」
「いいや、肝心なところはまだ。記憶の断片をよく夢に見るようになったけど、それだけ。そっちは?」
「……」
クーレルは答えず、静かに腰を下ろした。眼下に広がる、緑の森。そしてディルワースを囲む山々が、おもちゃのような王城を抱いてそびえているのが見える。そよそよと、草がそよぐ音だけがあたりを包んでいた。
「フューガスのことは、まだ思い出せない」
「エシャンジュ王妃は?」
「……知っていたのか」
「いや、勘」
クーレルは、その手をなでる草をそっとつむと、口にあてた。それはかまをかけたというのではないか。それが失われた記憶を誘い出す鍵となるなら、呼び名は何だってかまやしないが。
「ディルクラートの思い出の場所ってわけ? いーじゃないの。うらやましい……なんて言わないけど」
高く澄んだ草笛の音が、どこまでも響いていく。もう何度も聞いた旋律。ミスティはかたちのよい眉をひそめ、クーレルをにらみつけた。
「それ、何て曲」
「《夢のあとに》」
そうだ、その曲は、フィリスの持つオルゴールのメロディ。そしてリ夜毎の夢で耳にするメロディ。
「アンタもあの夢見てるわけ」
「何の話をしているんだ? この曲はエシャンジュが好んでよく楽士に奏でさせていた」
《夢のあとに》なんて題名の皮肉さに、あの時の自分は気づきもしなかった。エシャンジュは分かっていたのだろうか? あの甘い時間の中で。
「そうか、アンタも当事者ってわけなの。賢者はどこ!?」
はじかれたようにミスティが立ち上がる。オルゴール、そうだなぜ気づかなかったんだろう。フューガス、エシャンジュ、そしてモース。3者をつなぐもつれた糸。いや、クーレルを交えて糸は4本か。
「糸だ」
ミスティの心を読んだかのように叫ぶと、クーレルもまた草葉を捨て立ち上がった。彼の視線の先にあったのは、山間に抱かれたディルワース王城。そしてそこから細く細く伸びる金色の光だった。
「猫か!」
柄になく焦りの混じった声でそれだけ吐き捨てると、クーレルは呪文の詠唱に入る。携えていた杖が淡い紫に光り出した。ミスティが口を挟む間もなくその詠唱は完成し、次の瞬間、杖は猛スピードでクーレルを王城へと連れ去っていった。
「……なっ!!!」
残されたミスティは、ひとり大地を蹴る。何か……仲間はずれにされたようで気分が悪い。
ディルワース王城地下室。
茶猫カロンは、ミューとともに儀式の仕上げにとりかかっていた。あたりの魔力を吸収し続けた魔法陣は、解放される瞬間を待ち望むかのように明滅している。飴色に鈍く光る古弓が、中心に置かれていた。細かい装飾に中に彫られた《すべてを帰せしめん》の文字は、平易な魔法語である。《竜の牙》の使い手は《竜》ではないのかもしれない。なぜなら《竜》たちは独自の《竜言語》を持っていたというのだから。そんなことも考えながら、カロンは最後の香をひとつまみ蒔いた。あたりに林檎の香りが満ちる。
地下室を照らしていたランプの明かりが、瞬間激しく燃え上がった。まばゆい光。
「うにゃあっ、カロン〜!」
あまりのまぶしさに、ミューが目を覆う。
「大丈夫だ、よく頑張ったなミュー、成功だ」
鐘楼に上っていたシャッセがフォリルに連れられて帰ったことを、カロンたちは知らない。だが彼は、シャッセから伸びていた光の糸を思い描き、たぐり寄せようと試みた。後ろ足で直立し、その姿勢をしっぽで支える。瞳を閉じてカロンはシャッセの香りを探した。
シャッセ姫と王城のつながりを探り、そこに潜んでいるはずの《狂乱病》の根元を暴く……そうら、見えてきた。カロンの中に、光の糸を通して様々なイメージが流れ込んでくる。カロンを通過していくもの、通り過ぎず留まるもの、かたちをとることのない雑多な思念までも様々に。
王城がそびえている。今の荒れ果てた廃墟ではなく、王家を慕う人間たちの想いで包まれたディルワース城。20年前ほどまでは、こんな立派なお城だったのに。カロンは人知れず王族たちを哀れんだ。
赤ん坊とゆりかごのイメージ。まだ髪も生えそろわない赤子が、にこにこと微笑んでいる。カーテンを揺らす風に、赤ん坊の燃えるような赤い髪も揺れている。暖かい日差しのように、金色の糸がまっすぐに赤ん坊めがけて伸びているのが見える。するするするする。音もなく、糸は赤ん坊にからみつく。
赤ん坊をあやすように、けれども逃れることができないように。カロンの見ている前で、くん、糸が張った。
『まだ《大陸》が夢を見ていた頃……』
またイメージが変わる。くるくると変化する万華鏡を覗いているかのようだ。カロンはそのたびに出現するイメージに集中し、全力でそれを追おうとした。大丈夫だ、香りを辿れば自分の居場所に帰ることができるはずだから。
『殺せ!』
突然あまりにも異質すぎるイメージが、カロンを襲った。引きずられるのをかろうじてこらえる。そのイメージの叫ぶところはただ一つ。
『見えざる敵を蹂躙せよ、駆逐せよ、破壊せよ、我が名において。我が名は《アングワース》、《貴石の竜》統べる王。我らが蒔ける種のためすべてを帰せしめん』
全身の毛が逆立った。衝動に負けてはいけない。もしもこの衝動に身を委ねたら? ミューが切り刻まれるイメージだけは、決して見まい。カロンは自身に言い聞かせた。
「カロン、カロン〜」
「なんだ、心配するなと……言っただろうが」
玉ぎる汗を気取られないように、平静を装った口調でカロンが答える。ミューが指さす先で、弓がふわりと浮き上がっていた。そこだけ空間がゆがんでいるように、弓がまとう魔力が破裂しそうなくらいにふくらんでいるのが見てとれた。調香でつくりあげた空間も、何か異質なものの侵入によってわずかに揺らいでいる。異臭、または腐臭とよばれるもの。
「こ、これは」
魔導操師の術の時は、何者かが妨害をしてきた。この城を支配しているものが、儀式に気づいたのだろうか。
確証をつかめぬままカロンは弓に手を伸ばした。焼けつくような痛みが毛皮を貫く。じゅうっという音とともに、毛皮が焦げる匂いが立ち込めた。
「いかん、この匂いが紛れ込んでは術が!」
「カロン〜」
ミューはほとんど泣き出しそうになりながら、最後に蒔いた林檎の香をどばっとふりかけた。
「ああっ」
ランプの炎がさらに勢いを増す。こうこうと照らし出される地下室で、浮かび上がった弓はひときわ強く、幾筋もの金色の光を放った。
「見えた、この糸だ! でかしたぞミューっ」
毛皮が焦げるのもそのままに、カロンはその一本をしっかりとつかみ、自身に結びつけるイメージを描いて固定した。
「ミュー、お利口でお留守番をしているんだぞ」
「カロン、カロンはどこにいっちゃうん?」
ぺたんとおしりをついたまま、ミューはカロンを見上げる。茶猫の身体は、弓とともにかなりの高さにまで浮かび上がっている。
「この糸が、シャッセ姫に、通じているものなら……」
『殺せ! 殺せ!』
声なき声に、耳を塞ぐこともできず、ただカロンは目を閉じて言葉を絞り出す。
「わかった、みゅー、おひめさまのところでおるすばんするん」
「いい子、だ」
糸の先から流れ込んでくるおびただしい力をこらえながら、カロンはにっこり笑って見せた。少女はこくりとうなずいた。
「できたら、対になる矢を探しておくれ」
「矢?」
「そうだ。弓は、矢が無ければ、その効果を発する事は無い。矢も然り……そして、一対で有ればこそ、真を成す。もしも匂いをたどって見つけることができたら、ここに持ってきておくれ」
カロンは詠唱のように呟いた。
「みゅー、ぜったい探してくるんよ!」
少女はそう言って、駆けだした。
「……うう、さすがは《竜の牙》。これだけの、魔力を蓄えられれば、シャッセの身代わり……十分、時間を稼げるだろう。頼んだぞ、ミュー……」
幾本もの光の糸の中。カロンは遠ざかる意識の果てにシャッセの姿を思い浮かべながら、その姿を消した。残されたのは力を失った魔法陣と、ことんと落ちて転がった弓、おき火のようにくすぶるランプだけであった。
「猫!」
王城の前で、クーレルは門からまろびでてきたミューとぶつかりそうになった。
「でぃ、でぃるく」
少女の言葉に、クーレルは我に返る。携えている杖は、紫色の光を失いつつあった。急激に自分の中から何かが流れ出ていったような喪失感。
「《飛翔》の魔法……? いや、今はそれどころじゃない。猫はどうした? 光の糸が見えたからやって来たんだ」
「カロン、もういないんよ。おひめさまのところなんよ。でぃるくのマネして、光の糸、ぐるぐるなん」
「何だと? 無茶する奴だ。俺の時は邪魔が入って、あんなになったというのに。俺の二の舞にならなきゃいいんだが。さ、来い」
ミューの小さな手をぐいと引き寄せる。
「うう〜、みゅー、矢を探しにいくんよぅ……」
「分かった、分かった。一緒に探してあげるから、おいで」
クーレルは脱力しながら、ミューをあやすようにささやいた。ようやくミューが彼のローブにすり寄ると、クーレルは少女をかばうようにしてローブに包み込む。ミューの温もりが、クーレルにも伝わった。ばくばくばくばく、早い拍動。それは、小動物を抱いたときのような妙な安心感をクーレルに与えた。
『そうだよ、キミが守ってあげたいって思ったなら、とやかく考えすぎないで、そうすればいいんだよ』
はい、師匠。そう口に出す代わりに、彼はミューを抱きしめて言った。
「危ないんだ、この城は」
しっかりと、杖をにぎりしめる。力を取り戻しつつあるクーレルは、見上げた鐘楼の先に、はっきりと魔力のひずみを見て取っていた。
ディルウィードは、フィリスの提案で、もう一度卵を見つけた場所を調べに来ていた。リーフ自身には、まだ彼が卵から生まれたという事実は伏せてある。本人が知りたがったならば教えればいい、というのがディルウィードの意見だったし、フィリスもそれに同意していた。
「どう、このあたりの森に見覚えはあるかしら」
殻の破片はまだ少量だが残っている。前と違っているのは、小さな林檎の木が生えていることだった。季節はずれの白い花が、満開に咲き誇っている。
「ここ……ディルワース?」
「そうですよ。ディルワースとアングワースって、響きが似ていますよね」
殻の破片を小さな瓶に入れて振りながら、ディルウィードが答えた。感知の魔法をいくつか唱えてみる。ディルウィードが詠唱するたびに、彼の指輪がちかちかと輝いた。
「反応してきらめく破片もあれば、かけらが小さすぎて、効果がわからないものもある……魔法的な物体なのは確かなんですが。もっと大きなかけらがあれば、あるいは」
「無茶言わないで、ディルウィード……ちょっと、聞いてる?」
魔法使いの視線の先に、リーフの姿を認めてフィリスは笑う。
「いや、失礼しました。リーフ君自身にこの魔法をかけたら、と思ったんですけどね」
「どんな魔法なの」
「その物体の持つ記憶を引き出す魔法です。かけらだけでは、映せる記憶も小さすぎて。ちらりと見えたのは」
魔法使いは一旦言葉を切った。草むらで遊んでいるリーフを少し眺め、そして続ける。
「なんというか、こういう物質は見たことがありません。《大陸》そのものに近いのかもしれない」
「《大陸》そのもの? 《大陸》って、何でできているの。土ってこと?」
フィリスが首をかしげる。鍔広の帽子に白鳩のタマがちょこんととまって、フィリスと同じ角度で首をかしげた。
「ああ、すみません。僕の語彙ではうまく表現できない。すごく強力で、普遍的で……太古の記憶のような。あー、やっぱりうまく言えないですね」
ディルウィードは照れ笑いしながら、右手の薬指に目を落とした。きらめくアメジストの力を借りても、自分の魔法はここが限界なのだ。指輪がもしなければ、自分はリーフに何をしてあげられるだろう。親代わりではなく、本当の親ならば。
遊んでいたリーフは卵のかけらをひろうと、それをディルウィードに差し出す。
「ディルウィード父さん、これ、探してたの?」
「うん、ありがとう。指を切らないように気をつけてくださいね」
魔法使いは小さな指からそっとかけらを受け取った。
「見〜ちゃった」
いつからそこに立っていたのか、黒髪をショートに切り揃えた、小柄な女性が仁王立ちになっている。
「ローズ・マリィ!」
「まあまあ、お久しぶりだわフィリス! もしかして、あなたがママなの?」
「えっ」
目を白黒させる手品師。
「聞いたわよディルウィード。この子、あなたのことを父さんって呼んでた! 子どもがいたなんて、教えてくれなかったじゃないの! それにミスティとも同じ旅籠にいるし……ケッコンしてないって言ってたくせに、ディルウィードったら!」
「は、はぁ……」
たじたじとなる魔法使い。だが、公園デビューの時耳にした、マリィ家に関する口さがない噂を思い出し、言われるままだ。そうだ、たしか夫のランディ氏と幼なじみのサンディ氏がどうとか。
「優しそ〜うな、人の良さそ〜うな顔しちゃってさ! 完全に騙されてたわ! あああ、独身の身で愛人を二人も囲えるほどディルウィードに甲斐性あったなんてっ……って、ちょっと聞いてるの?」
「はぁ」
「ストップ、それはローズの誤解だってば」
「あなたものんきに構えてたら損するだけよ、フィリス。女だってガンガン言いたいこと言って」
「だから、違うの。この子は」
きょとんとローズを見上げているリーフ。腕を腰にあてているローズ。二人の顔を見比べながら、フィリスは手短に説明する。
「ふうん、ディルウィードが名付け親なのね」
「そうですよ、いい名前でしょう」
親ばか全開のディルウィードに、ローズは冷たく言い放つ。
「寂しそうな名前だわ。知らないの? 『一枚の葉っぱ』っていうお話。シスターに読んでもらったの。目が覚めたら独りぼっちで樹の枝にくっついていた葉っぱのリーフ君が、川に流されながら、お父さんとお母さんを探しにいくお話よ」
「ディルウィードやフィリスは登場しないの?」
「……絵本には、出てこなかったわ」
「少なくとも、うちのリーフ君はひとりぼっちじゃありませんよ」
ディルウィードは、リーフの髪をぱふぱふとなでた。
「分かったわよ。絵本の葉っぱは寂しそうだったけど、ディルワースの森の葉っぱだったら寂しくないわよね。仲間がいっぱいだもんね。よかったね、リーフ君。ふん!」
「おねえちゃんは……」
ふいにリーフが口を開いた。その目はまっすぐローズを見ている。ローズは彼に負けないくらい大きく目を見開いて、ずいと顔を近づけた。
「どうしてここにいるの?」
きょとんとするのは、今度はローズの番である。
「どうしてって、私がいちゃいけないのかしら」
「ううん、ええと……この前会ったと思ったんだ」
「おあいにく様、私そんなふらふらと出歩くような女じゃないわ。こう見えても夫もいるし、誰かと間違えてるんでしょ? 今度からは、素直に初めましてって言った方がいいと思うわよ。じゃあまたね。ランディおじーちゃんに、林檎を届けに行かなくっちゃ。そうそう、ディルウィード?」
「はい?」
ころころ変わるローズの表情を眺めていたディルウィードは、ふと我に返る。
「さっきの話ね、『一枚の葉っぱ』の物語の最後、どうなるか知ってる?」
首を横に振る。ローズは絵本で読んだものらしいが、彼はその話を知らなかった。
「……教えて、あーげない! ばいばい、リーフ君。うちにも遊びに来てね!」
来たときと同じように、唐突にその場を後にするローズ。
「リーフってのは、葉っぱの意味じゃないつもり、だったんですけどねぇ」
いいようにあしらわれてしまっている、ディルウィードであった。
「ねぇリーフ。あのおねえちゃん……ローズとどこで会ったの?」
フィリスがそっと尋ねる。
「僕、長い長い夢を見てたんだ。ずっと。きっと、おねえちゃんは覚えてないんだ」
「そうなの」
「僕たちも、毎晩見ていますよ。リーフ君の夢を」
「僕、ずうっと夢を見ているみたいだ。今目が覚めて、パパとママがいるんじゃないかって思う。でも僕は、まだ目を覚まさない。いつまでも、夢の中に閉じこめられている」
リーフは、空に浮かぶアングワースを指し示す。
「夢の中なら……空を飛んであそこに帰れるのに。ママが寂しがってる」
二人は顔を見合わせる。
「結局、あまり収穫はありませんでしたね」
疲れて眠ってしまったリーフを背負いながらの帰り道。ディルウィードはフィリスに役立てなかったことを謝った。
「そんなことないわ。リーフもよく話してくれたし、林檎の木だって育っていたし、何よりも、卵の殻が、太古の記憶で出来てるってことが分かったわ。それに、ちょっとはリーフ君の気も晴れたみたい」
こくりとうなずくディルウィード。
「夢の中なら、か。そういう魔法もあるにはあるらしいんですが、僕の力じゃまだまだです」
「分からないわよ。この場所、《ディルワース》は、いろんな力が集まっている場所なんでしょう? 夢への入り口が、どこかに開いてたりするかもしれないわ。」
「……夢を操ることを得意とする夢魔導士なら、さくっと見つけられるんでしょうけど、僕にはできないし」
「ん、もう! 気に病まないでディルウィード」
フィリスは気落ちしている青年を励ました。なんだか私、こういう役回りばかりだわ、とちらりと思いながら。けれど放っておけないのだ。ディルウィードが時々、まるで何かの代償のような態度でリーフに接しているのを見るにつけ、フィリスはそこに踏み込もうか迷い、とどまる。きっと彼も、もっと自由になれるのだ。
「私、魔法って可能性だと思うわ。いろんなことができるじゃない? 可能性を広げる魔法使いって、すごいと思う。何もかも破壊しちゃう《竜》なんかより、ずっと」
「魔法使いなんて、そのへんにいくらでもいますよ」
「そうよ、だからすごいの」
ふいに彼らに影が差した。頭上を過ぎゆく、巨大な十字。
『いざ赴かん、アングワースへ』
聞き覚えのある言葉が、遠くから響いてくる。両足の下にあるはずの、大地を踏みしめる感触が薄れてゆく。立ったままぐらぐらと回転しているような感覚に、二人は襲われた。ディルウィードは指輪の力を借りてあたりの魔力を探る。移動魔法のたぐいではない。その力の源は、頭上の影。強大な力の奔流が怒濤となって押し寄せてくる。
「こ、これは! どうやら防護の力みたいです……あそこにいる何者かが、僕たちをはばもうとしている」
『我らが眠りは、《大陸》への憧憬。《大陸》を夢見、けれど決して辿り着き得ぬ』
「まさかアングワース……」
「リーフはアングワースの人間じゃないの? 追われているの?」
フィリスは胸をつかれてリーフを見た。すうすうと静かな寝息。
「アングワースから逃げてきた? いや、それなら、戻ろうとはしないはず。この防護の力は僕たちに対してのものです。フィリスさん、意識をしっかり持って」
ディルウィードはリーフを背負ったまま、フィリスの前に立った。普段の穏やかで、ちょっと自信なさげな魔法使いとは別人のように。
「余所者を拒む意識の砦、聞いたことがあります。選んだものだけを招き入れようとする、これは罠です。これで確実になりましたね。アングワースは、リーフを欲しがってるということが」
「リーフをひとりでなんて行かせないわ」
いんいんと、声は響き渡る。
『眠りに落ちよ、夜毎訪れる死の記憶にこそ我らは在り』
「誰が邪魔だてしようと、同じことです。僕たちは、リーフ君を帰してあげるって決めたんですから」
ディルウィードがきりりと唇を結び、頭上を遮る浮遊島を見上げた。
第5章へ続く

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