第4章|空へゆく道彼方からの風夢路の迷子誰が為に鐘は鳴るマスターより

2.彼方からの風

「すごいすごい」
 ジェラ・ドリムはぱちぱちと手を叩いていた。ここは《なりそこない》によって連れてこられた魔法陣の先。鐘楼を抜けた向こう側、もう一つの鐘楼のてっぺんである。
「魔法陣って見たことあるけれど、実際こんな風に使われているのって初めてよ。しかも自分で体験しちゃったわ!」
「感動してる場合じゃないよ、ったく〜」
 ため息混じりに飛びウサギが肩を落とす。
「ここがどこかわかってんの?」
 3方吹き抜けになっているつくりは変わらない。ここだけ見れば、魔法陣など動作していないようにも思えるほど、そっくり同じだ。遙か眼下に広がる風景も、見慣れたディルワースの森。ただし森を囲むようにそびえる稜線の向こう側は、切り立った崖だ。そしてその先は、ただ青い空。
 浮遊島。
 風の声を聞き、風の色を見分ける風読みの心をくすぐる響きだ。
「空のてっぺんだよ。見てみな、あんな低いところに雲! どうすんのさ。知ってると思うけど、オレサマのこの可愛くて綺麗でちょー便利な翼は、ジェラを運ぶ用にできちゃいねーんだからな?」
「いいもん、平気。キュルちゃんがいるから」
 頬をぷうとふくらませると、彼女は傍らにたたずむ獣の、ふかふかした毛皮にもたれかかった。召喚師リュカの連れていた召喚獣、キュルだ。猫もどき、と表現しては失礼にあたるような高貴なムードを漂わせている。ジェラたちと一緒に魔法陣をくぐってみると、どういうわけか……成長していたのである。白い毛皮は白金に近い色となり、さざ波のようにキュルの体表で波うった。猫というより鹿に近く、すらりとした脚が伸びている。額には先端が丸まっている角が一本。召喚獣の中でも特に気位が高く、選んだ主人にしか仕えない聖なる獣、麒麟。
「ねえ、リラは大きくなれないの?」
「なれません。てか、オレサマの場合はこのミニサイズだから愛らしさ倍増、ひとめで美しいフォルムが見て取れるんじゃねーか! おい、麒麟ちゃん、悪いんだけどうちのをもうちょっと乗っけてやってくんない?」
「……リラ、口が悪すぎよ」
「ジェラが飛べないのが悪い」
 飛びウサギの態度の大きさは、相手の如何に関わらない。図らずもジェラが再確認してしまっていると、黒ネズミのアフリートが、小さく鳴いた。
「ああそうか、キミもいたのよね。オシアンさんとこの」
 オシアンは自身を旅人だと言っているけれども、あの居ずまいである。きっと力ある魔法使いに違いない。そして皮翼を持つ黒ネズミ、アフリートもきっと、超強力な使い魔なんだろう。少なくとも、リラよりはうんと頭が良さそうだ、連れて帰りたい……と思ったけれども口には出さない。
「キミたちも、ご主人さまのところに戻るなら戻った方がいいわ。私は、この塔を降りてみることにするから」
 ジェラは魔法陣に向けて手を伸ばした。アフリートはちらりとジェラの蒼眸を一瞥すると、するりと少女の腕をかけぬけ、魔法陣を再びくぐる。一方キュルは魔法陣の前にちょこんと座り、ゆっくりと尾をふっていた。
「もしかして、リュカを待ってるの?」
「きゅるるるる」
 麒麟はジェラの服をぱくんとくわえ、くるりと身をひねった。少女の体がすとんとキュルの背におちる。
「ありがと! じゃあ一緒に《なりそこない》さんを探しましょっ」
 ジェラはしばし風を待つ。《なりそこない》を追いかけて、ここに自分を連れてきた理由を尋ねるつもりだった。《なりそこない》の目的は、賢者モースだったのではないのか? そして、どうして自分が選ばれたのか。いや、選ばれたという考え方は適切ではないかもしれないけれども。
 少なくとも《なりそこない》は意思を持つ、話が通じる相手だとジェラは信じた。モースとの確執があったとしても、それは話し合いで解決できるに違いない。
 だって、そうできたら、誰も傷つかなくてすむはずだもの。
「お城……ううん、森ね。この血のにおい。大丈夫かしら《なりそこない》さん……行きましょうリラ。キュルちゃん」
 麒麟は少女を乗せたまま、空に向かって駆けだした。

 ディルワースの鐘楼。しゃらん、とオシアンの錫杖が音を立てた。
「戻ったか」
 帰還したアフリートの姿を見て、主オシアンは目を細める。
「ジェラはまだ向こうのようだな。無事でいるといいのだが……《なりそこない》め」
 暗い青を帯びた切れ長の瞳が、妖しく輝いた。
「よっしゃ、行ってやるぜ!」
 傭兵アーシュ・ノワールが、《竜の牙》なる矢筒に手をかける。《なりそこない》が出現したときには持っていられないほどの熱を帯びていた矢筒は、アーシュの手のひらを今もなお温める。その温もりと、飴色に輝く不思議な材質、身体のカーブに沿うようにわずかに湾曲したその曲線。人間の腕をつかんでいるようだ、と思ってアーシュはいやな気分になった。
「これを使うがいい」
 オシアンが極彩色のターバンをほどき、アーシュに放った。つややかな黒髪が腰ほどまで流れ落ちる。
「おう、悪いな。これで熱くなっても大丈夫っと」
 ターバンでぐるぐる巻きにした《竜の牙》を担ぐと、アーシュはぐっと指を立てた。
「いいか? では、いざ」
 オシアンは魔法陣に右手をあてた。背丈ほどもある魔法陣が温かく波うって、生き物のようにオシアンを飲み込んでいく。
「あ」
「どうしたアーシュ!?」
 いつになく焦りを見せてオシアンが身体を引いた。錫杖を構えて傭兵に向き直る。
「あ……いや」
 アーシュは照れるように両手を振ってその動作をうち消した。
「なんかさ、オシアンって細くて髪長くて女みたいだなーって」
 数秒間見つめ合った後、結局オシアンは何も答えずするりと魔法陣に身を投じた。
「冗談の通じないやつ」
 アーシュもその後を追う。

 それはきっと一瞬のことだったのだろう。アーシュが想像していたよりも、魔法陣は何の抵抗もなく彼の肉体を受け入れた。魔法陣から幾筋もの青白い閃光がほとばしった。解放された魔力がびりびりとあたりの空気を震わせる。
 
  がらーん、ごろーん。がらーん、ごろーん。がらーん、ごろーん。

 鐘の音が大音声で響く。鐘楼からの音をこだまが追いかけた。身体全体に音が反響している。まるで自分も楽器になったかのようだ。この向こう側が、狭いトコロだったら困るなぁ、槍を振り回せる場所がいいなぁ、などとアーシュが考えているうちに明るい光の渦が見え、さらにあれが出口かなぁと思った瞬間にもう、そこは向こう側なのだった。
 ただ。光の渦に目を向けた時、何かが自分の中を通り過ぎたような気がした。何か。感覚とも気配ともいえないけれども、それは自分がよく知っているものだということは分かった。
 軽い違和感を覚えてぱちくりとまばたきする。オシアンの華奢な背中が見えた。そして、その向こうに広がる一面の青。
「ジェラは先に行ってしまったか。追いかけるぞ。……いやその前に、《竜の牙》に変化はあるか?」  もともと《なりそこない》探知機になるのではと考えて持ってきたのだが、
「見てくれ。装飾が……浮かび上がっている」
アーシュはしげしげと矢筒を眺めた。先ほどまでは飴色の表面はただ鈍く光るだけだったのが、陽炎のような模様が見える。陽炎は矢筒をくるむようにほんの少し浮き上がり、ちらちらとゆらめいた。
「魔法陣を囲む文字と似ている」
「貸してみろ」
 オシアンはアーシュから矢筒を奪うようにして調べる。確かに、魔法陣に描かれていた文字と同じもののようだ。あの文字はオシアンも見たことがないものだった。魔法陣と《竜の牙》の制作者は関係があるか、または同一人物なのか。モースならば分かるのだろうか。ゆらめく陽炎は、矢筒を守っているようにも見える。何かの防護魔法のたぐいかもしれない。
 そこまで考えたところで、オシアンは《竜の牙》をアーシュに突き返した。今は、ジェラの安否と《なりそこない》の生け捕りが、最重要の課題なのだ。
「ついてこい」
 見えない風に寒気を感じたかのように皮の上着のあわせをかき抱き、オシアンは鐘楼を降りる梯子に手をかけた。

 鐘楼のつくり、そしてその先にあった城のつくりは、ディルワースのそれとまったく同じだった。ディルワースの鐘楼で《竜の牙》を見つけた場所や、途中の小部屋などを調べてまわるが、これといったものは何も見つからない。
「腐臭がしないな」
「しないねぇ」
 二人は顔を見合わせ、探索の手を城の内部へと伸ばした。

 さて、それよりはやや時間をおいて、鐘楼にきた者たちがいる。
 修道僧エルム=アムテンツァは、王城を探索していた果てに鐘楼までやって来た。地下室で行われていたカロンたちの儀式は、間もなく成就するだろう。クーレルが試みた術に似た方法で、シャッセに連なる力を探るのだ、と猫は言っていた。カロンという存在は、その場合どうなるのだろう。エルムはただ、クーレルの時のように何者かの妨害に合わないことを祈るばかりだった。そもそも王城が見張られているのだから、こうした自分の思いすら、その相手には見抜かれているのかもしれないけれど。
 つらつらと思いをまとめるようにして鐘楼への階段を上る。ひたすら上る。地下室で見た壁画、その山と森。鐘楼へ上る螺旋階段の、ところどころにしつらえられた窓からその景色を眺めるたび、エルムの思いが次第に一つの形になっていく。
「ディルワース全体に、魔法がかけられているとしたら……どうでしょう」
 見張られているのが王城だけではなく、領土全域が魔法の影響を受け、その結果歴史に残るべき出来事や伝承が忘れられているとしたら。《狂乱病》の記録が残されていないこと。残されなかったのは、都合が悪かったからだろうか。誰かの意思が介在しているのか、それとも。
「これほど強力な魔法を扱うには、相応の代償が必要なはず。それとも《竜》の力をもってすれば、たやすいことなのでしょうか。ならば、その意図はいったいどこにあるのでしょう」
 長い階段の途中で、ふと息をつく。石組の壁面につくられた窓に目をやると、石のすきまから小さな花が茎を伸ばしているのが見えた。《野の花の門》での職務をふと思いだす。望んで離れた訳ではなく、門からの指令を待っている間のこれも修行。エルムはひとりこくんとうなずくと、けなげに生きようとしているその花に向かって祈りを捧げた。
「……おや」
 ついぞ忘れていた感覚に、エルムは下唇を噛んだ。どうしてこんな時に、という思いが先立ち、すぐにそう考えてしまった自分をいさめた。左手がうずくのだ。そこに彫られた小さな刻印が、エルムになすべきことを告げている。
「ディルワースに来たのは、無駄ではなかったと、考えることにしましょう」
 緑灰色の上着の袖から、細く白い手が覗いている。両方の手のひらをそっと返して、エルムは確かめた。右手には《野の花の門》の紋章。左手には、その逆の紋章。選ばれた者だけが左手の紋章を持つ。その意味するところを知るものはほとんどいまい。
 ふう、と一息ついてエルムは立ち上がった。螺旋階段を登り切り、鐘楼へ行くのだ。シャッセがそうしたように、《まことの国》を確かめるのだ。

 てっぺんには先客がいた。黒いマントに身をつつんだ人物。
 床から首だけ出したエルムは、それが《なりそこない》かと思い梯子を転げ落ちそうになった。だが、よく見るともっと小柄である。マントの下からは、とげとげがついた黒光りする鎧が見える。顔は傷だらけのようだが、髪は綺麗な青色だった。
「あの……」
 マントの人物は、突然のエルムの声にびくりと震えると、エルムの方を見もせずに魔法陣へと飛び込んでしまった。
 呆然とするエルム。もしや自分はとてつもなく失礼なことを、今、してしまったのだろうか。それとも《なりそこない》と間違えられたのか。だがあの青い髪には見覚えがある。ジェラの三つ編みの藍色とはまた違った色合いの青が気にかかった。仲間なのだろうから、《まことの国》へ着いたら一緒に行動しようと思う。

「ああ、そういえば」
 鐘楼を吹き抜ける風に衣をはためかせながら、エルムはぽんと手をついた。目の前の魔法陣は想像していたよりも大きい。果たしてこれをくぐった先には……《まことの国》に着くのはかまわないが、それが固い大地であるという保証はどこにあるものだろうか? あまり考えたくはないが、ここはディルワース全体を見下ろせるほど高みにそびえる塔のてっぺんである。石壁へだてた反対側は、空。
「《なりそこない》は、空を飛んでましたよねえ」
 エルムは吹き抜けのひとつから身をのりだしてみる。視界に広がる景色に、汗がいっぺんにひいていった。
「うう、考えたくないけれど仕方ありません」
 荷物の中からマントを取り出し、ていねいに半分に折る。
「これを手にして飛びこめば、少しは落ちるスピードも遅くなる、でしょうか」
 うんうん、と自分を納得させるようにうなずくと、エルムは足を踏み出した。左手の紋章がうずくのを感じながら。

 魔法陣の中は暖かだった。エルムはその空間に満ちる温もりを味わう。魔法陣の中が広いなど、考えもしなかった。エルムは大股ですたすたと歩いていく。ああ、街中よりも歩きやすいなんて思いながら。両手につかんだマントは、エルムの身体につかずはなれず、ふわふわと後ろに広がっている。我ながら間抜けな姿だとは思うが、ここは《まことの国》ではないのだから、まだ手を放す訳にはいかない。出口はどこなのだろう。この、奇妙に暖かい空間を早く通り過ぎ、《なりそこない》のいる《まことの国》へ辿り着かなければ。
 ふいに雲間から光が差したように、エルムの足元に柔らかな光が投げかけられた。それを見て彼女は、自分のいる場所が光も色彩もない灰色の空間だったことに気づく。手をかざしながら光の来し方を見上げた。
「おや」
 手にしたマントは、白い大きな布に変わっていた。いや、それとも最初から私がつかんでいたのはこの敷布で、光が当たるまでマントのように見えていただけだったのか。両手で敷布を広げ、ぱんぱんとはたいて干す。ああ、あとはとうさんの服を干せば終わりだ。明日も天気が続くようなら、畑の世話をした後、とうさんの古鎧も陽にあてよう。
 よっこいしょ、とかがんで手編みの洗濯籠をかかえる。中身が入っていない時はエルムでも持てるほど軽い。
「おかあさん、全部ほしたよ!」
「あら、ありがとう。エルムが手伝ってくれて助かるわ。もうすぐお誕生日ね。これだけきちんとできるなら、あっちでも大丈夫よね。お勉強も頑張りなさいね」
 寂しそうな微笑み。そうだ、母はいつもあの微笑みを投げかけてくれていた。父も母も、《野の花の門》のことをどう思っていたのだろう。
 ずきん、と右手の刻印がうずく。はっと我に返り、エルムは後ろを振り返った。幼い日々の思い出はかき消え、跡目もわからぬ空間が広がるばかりだ。
「何者の仕業か分かりませんが、いささか感心いたしませんね。人の思い出を弄ぶとは……」
 雲間の光と見間違ったあたりをにらみつける。行く先に、とってつけたように出口の光が見えた。あの先に、《まことの国》があるのだ。左手の紋章はずきずきと務めを果たすよう訴えている。

『つまんないの』

 どこかで声が聞こえた。エルムはもういちど、精一杯怖い顔をつくってあたりをにらみつけ、そしてその空間を後にした。

 一方、精霊使いレイスは賢者モースを誘って魔法陣をくぐろうとしていた。
「彼がなぜジェラさんを誘ったのか分かりませんが、放ってはおけません。それにシャッセ様が彼に声をかけていらした。すべての鍵を握っている存在、それがあの《なりそこない》さんだと思うのです」  シャッセも連れて行くつもりだったが、あいにく彼女は医師フォリルによって絶対安静を命じられ、すでに離宮へと戻されてしまっている。レイスは《なりそこない》と話をするために、賢者モースに同行を願った。どこかで自分をいさめているもうひとりのレイスがいることを感じながら。《なりそこない》とモースは因縁のある間柄なのは間違いない。直接ふたりが対峙するのは、謎の解決以上の何かをもたらすような、そんな予感がするのだ。
 でも、とレイスは言い訳するように心の中で付け加えた。なんだかおふたりとも、目を背けているような気がしたんです。だから。乱暴なやり方かもしれないけれど、いつまでも逃げてはいられないから、だから。
「《なりそこない》は負傷していましたもの。魔法陣を抜けて逃げたからとて、急に回復するわけでもないでしょう。追いかけるなら今だと思います」
 レイスはすがるようにモースの目を追いかける。モースの視線は、レイスとは交わらずにはるか遠くをさまよった。
「でも僕は、子猫ちゃんたちに危ない目にあって欲しくはないんだ」
「私……たちだって、モース様を傷つけるようなことは許せない」
 困ったような表情で、レイスは賢者をじっと見つめた。この人はどこか他者を拒絶している。優しく、そっと、誰も傷つかないように。一番苦しいところを自分だけで引き受けるつもりなのだ。他人より長生きしているから? 賢者という立場に置かれているから? 《なりそこない》と自分の間だけでなんとかしようとしているから? それは知られたくないこと?
「《なりそこない》さんがジェラさんを連れて行ったのは事実なんです。彼女だけでも助けにいかなくては。そしてそのために、モース様、あなたの力をお借りしたいのです」
「なんで流されてばっかりなのさ!」
 召喚師リュカ・シー・オーウェストが割って入った。モースの煮え切らない態度に、つい言葉が堰を切ってあふれ出る。
「なんでなのさ、俺に出来ないこと、なんでもいっぱいできるクセにどうして、なんで流されてばっかりいるんだよっ! アンタに初めて会ったとき、悪いけどそりゃ疑ってたよ。子猫ちゃんなんて人をバカにした呼び方だし……でもさ、すぐに俺分かったんだ。底知れない力を持ってる人だってあこがれて……うん、隠すことじゃないから言っちゃうけど、実力あるんだなって尊敬してたのに。アンタみたいになりたいって、マジ思ってたのに」
 ぶんぶんと首を振るたびに、じゃらんと音をたててイヤリングが揺れる。白い肌を紅潮させてそれだけ叫ぶと、リュカはだっと魔法陣に駆け寄った。複雑な文字に囲まれた二重円が、リュカを誘うようにちかちかとまたたいている。
「記憶が定かじゃないとか、覚えてないとか、そんなのごまかしじゃん! 負い目があるから、わざとそうしてるだけなんだろ。ホントにその気があるなら、待ってるようなマネすんなよ!」
 何言ってるんだ、俺! あこがれの、賢者様に向かって!
 でももう後には引けない。
「俺先に行く。キュルのことが心配だもん。じゃーな!」
 リュカは捨てぜりふのようにわめくと、頭から魔法陣につっこんでいった。

 リュカの思考はどうどう巡りを続けている。魔法陣の中は混沌としていて、自分が上下どちらを向いているのかも分からなくなる。出口を探さなくては。キュルが、向こうで待ってるはずだから。
 でも言っちゃった。言ってしまった。あこがれのヒトに対して。きっとキュルは、あの大きな瞳をくりっと開いて、俺のことを見てるんだろう。そんなコト言っちゃっていいのって。いーんだよ、ほっといてくれよ。猫もどきの正体不明のくせに。
 自分の腕が未熟なのを棚にあげ、リュカは勝手なことを思う。
「……ああ、違う。キュルいないんだっけ」
 声に出すと、途端に実感が沸きあがってきた。こんな気持ちでひとりでいるなんて、いつ以来だ? あの日、《精霊の島の学院》を、オーウェスト家を出て以来、なのかな。兄の顔、両親の顔、同級生の顔、先生の顔。ぐるぐるぐる、どうどう巡りの出口は見えない。このままもし魔法陣から出られなかったら? きっと何もかわらない。名門オーウェスト家は兄が継ぎ、《獣の一派》の指導者になるのだろう。落ちこぼれの自分がどうやったって、そんな未来は当たり前にやってくるはずなのだ。

『美味しいわ、それ』

「誰だ!?」
 謎の声に反射的に答えるリュカ。けれどもどちらを向いても、見えるものはない。ただ一つ、彼方にぽつんと出口の光。リュカはそれに向かって駆けた。
「ぷは!」
 やっと迷路から抜けだした人間のように、少年は大きく息をついた。声の主の正体をあやぶみながら。幼い、けれど妖艶な、魔性の声。だがその声の余韻は、出口の光にかき消されていった。

「行っちゃいましたね」
 レイスが呟いた。
「元気があっていいな。失礼といえば失礼だが」
 女剣士ベネディクトン・ヴァリアントが答える。彼女もまた《なりそこない》を追うつもりでやってきたのだった。
「ジェラは返してもらわなければ。賢者殿はどうされる? どうやら《なりそこない》は、賢者殿にご用がある様子だったが」
 右手の剣が、外套のあわせから覗く。レイスにはそれが、奇妙に痛々しいものに映った。ベネディクトンの、どこか悟っているような部分を見ると、自分の写しを見ているような気になるのだ。歴戦の果てに、若さに似合わぬ落ち着きを得てしまった剣士。
「やっぱり僕が担ぎ出されるんだね」
 モースはそっと手をのばし、ベネディクトンの額に流れる銀髪をかきわけた。負傷して光を失っている左目があらわになる。だが、ベネディクトンからはちょうどモースの手に遮られ、賢者の表情を伺うことはできない。
「もともと賢者殿の戦いなのではないのか。リュカの叫びは……まあ本心ではないにせよ、あれも多少なりとも賢者殿に期待しているわけで、どうかな、ご一緒に? もしかすると、20年前の記憶のてがかりもつかめるかもしれない」
 それまで黙っていた商人ソロモン・ウィリアムスが割って入った。
「ストップストップ」
 片手でベネディクトンとレイスをさえぎる。
「私は魔法陣に飛び込むつもりはないんですが、これだけは聞かせてくださいよ、賢者様」
 落ち着いた声でソロモンが問いただす。
「モース様はこうおっしゃった。20年前に、親友とともに《竜》を呼び出そうと試み、それは成功した。その親友さんはどうなったのです? もういない、でもそれはイコール死んだということではないですよね」
 モースはゆっくりとソロモンに向き直った。ソロモンはなおも推測をぶつける。
「《竜》を呼び出すくらいだから、あなたは《竜》のことを、人一倍ご存じのはず。まさか、それも忘れてしまったのですか? その、親友さんのことと同じように」
「違う、フューガスは」
 たたみかけるように続くソロモンの舌鋒をかわすように、モースが口を開いた。
「……フューガスはここにはいない。だけど僕は、彼を感じる。死んではいない。忘れても、いない……」
「フューガスとおっしゃるその方が、魔法陣の向こう側にいるとしたら。いや、ただの憶測です。でもそう考えれば、ベネディクトンさんが言ったように記憶の手がかりを見つけることもできるのではないでしょうか。私はこちらに残ります。より多くの鍵を、こちらで見つけるために。モース様、あなたが端緒を担っているんです」
「お、おいソロモン、言い過ぎでは……」
「ベネディクトンさん、あなたがたが魔法陣をくぐるというのならなおさらです。モース様がご存じのことをもっともっと教えてください。《狂乱病》、《竜の牙》、あるいはディルワースそのものに関すること。モース様が大切ではないと思うことどもの中からだって、私は手がかりを見つけてみせましょう。皆不安なんです。少しでも、情報は多い方がいい。今、フォリル先生が領主殿に同じような質問をなさっているでしょう。過去に何が行われたのか?」
「キミは何を見たんだい、子猫ちゃん」
 モースの金髪が、ざわめくように広がった。その迫力に、ソロモンは気圧されそうになる。かろうじて首を横に振り、すべて推論だと付け加えた。賢者の反応に、自分の予想がいくばくかあたっていたと感じる。
「この魔法陣はフューガスが描いたもの。彼は独力でこれを仕上げたんだと思う。図形を教えたのは、僕だよ」
 モースはソロモンの手をとって、そっと魔法陣が描かれている石壁にはわせた。ソロモンの手のひらに、何とも言えない、人肌のような温もりが伝わってくる。城自体、陣自体が意思あるもののように思えた。
「この図形の意味するところは、何です?」
「文字は《竜》族のものだ。内側の円に沿って書かれているのは、《竜》の力に対する賛歌なんだ」
「《鱗を飾りし赤流の 生あるものを閉じこめし 切り裂く牙のその果ての すべてを砕きて砕きえじ》……」
 レイスは《清流弦》をぱらりと奏でると、詠唱のように言葉を刻む。モースはレイスの頭をそっとなでた。
「よく知ってるね、子猫ちゃん。それは《竜》賛歌のなかの、《貴石の竜王》をたたえる古い古い一節だよ。まだ伝えられていたんだね。
「この歌は、今は廃墟となったある夢魔導士の一族から教わったものです。私はこれを、まだ《大陸》が夢を見ている頃の歌だと聞きました」
「面白い言い回しだな」
 ベネディクトンの目がレイスと合うと、レイスはこくんとうなずいた。
「遙か昔々……という、物語のはじまりをさす言い回しです。夢魔導士たちも、この歌が《竜》の賛歌だとは知らないようでした。もっと、詳しいことを聞いておけばよかった」
「まあ、それは今度訪れたときにでも、伝えたらいいさ」
「いいえ、彼らはもういないのです」
 レイスの深緑の瞳に、光る粒が浮かんだ。
「もともと小さな村ではありましたが、もう廃墟なのです。夢魔導士の中には、夢に囚われて戻れなくなる者が多いとか。その村の人々も、そうやって夢を操り続けた果てに皆いなくなってしまった」
「《狂乱病》じゃないか!」
 ソロモンが声をあげた。
「その話、ディルワースの《狂乱病》とそっくりじゃありませんか。レイスさん、今のお話は重要です。《竜》賛歌を伝える夢魔導士が、夢に囚われて消えてしまう。モース様、いかがです」
 賢者は驚いたようにレイスを見つめ、ひとりごとのように呟いた。
「その話は、知らなかった。そうか、そういうことがあったとは。知っていれば、僕はフューガスに教えたりしなかっただろう」
 モースはレイスのあごに手を添え、その面をあげさせた。吟遊詩人は消え入りそうな思いで《清流弦》を抱きながら、うるんだ瞳でモースを見上げる。
「ありがとう、子猫ちゃん。キミの言葉で、いくつものことがつながったみたいだ」

 《竜》はたしかに存在している。ただし、今や人間がその存在にふれることができるのは、夢を介してのみ。なぜならば、夢の中では《大陸》も未だ夢を見続けているから。《大陸》の眠りは《竜》に通じるのだ。

「は? ああ……その、何だ。夢の中では夢を……」
 ベネディクトンが眉をひそめ、ぶつぶつと繰り返す。夢の中で夢を見る、そうするとどうなるのだろう。右手の冷ややかな切れ味の方が、自分には理解しやすいのだが。哲学的すぎて、頭が痛くなる。
「僕は、ディルワースでならば《竜》の召喚も可能かもしれないと思っていたから、フューガスにそのことを伝えた……でもね、僕が教えた魔法陣は、一重の円陣だったんだよ」
 ベネディクトンは、石壁に描かれている二重円を見上げる。ソロモンはその陣に手をあてたまま次の言葉を待っている。
「誰かが、もうひとつ円を書き足したってことか? ……私は頭脳労働には向いてないのでな、よく分からないが、一体どういうことだ?」
「それを知る必要が、僕にも出てきたみたいだよ子猫ちゃんたち」
 モースは腰に手を当てると、子猫ちゃんたちの顔を順番に眺めた。
「これはフューガスの字じゃない。この、外側の円はね。僕の知らない誰かがいる」
「行こう、《なりそこない》をつかまえに。ジェラを奪還しに。そしてフューガスとやらに会いに」
 ベネディクトンの目つきが、鋼の鋭さを帯びた。
「《なりそこない》が仕掛けてくるのなら、いくらでも、喜んで相手をつとめてやるぞ。だが守るための戦いだ。無用の殺生はしないと誓おう、賢者殿」
「ありがとう、子猫ちゃん。じゃあ、行こうか」
「おっと、私はこちらで待ってます」
 ソロモンが魔法陣から手を放した。
「お気をつけて、みなさん。私はこちらで、お帰りをお待ちしてます。カロンたちや領主の方も気になりますのでね」
「お前のほうこそ、気をつけてな。《なりそこない》がでてくるようなことがあれば、お姫さまを守ってあげてくれ」
 ベネディクトンが気がかりそうにそう言い残すと、レイス、モースとともに魔法陣の中へと身を投じていった。

第5章へ続く


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