第4章|空へゆく道|彼方からの風|夢路の迷子|誰が為に鐘は鳴る|マスターより|
4.誰が為に鐘は鳴る
久しぶりに、コルムは姉のことを思いだしていた。まさか姉の方も、思い出されているとは思うまい。《まことの国》へと通じる魔法陣の、その中の空間でなんて。それとも姉は、日毎母のことを考えているのだろうか。コルムはふるふると首を振った。妙に寒々しい気がして、ゆったりした長衣を首の上まで伸ばす。よいしょ、と黒鞄を持ち直すと、ゆっくり周りを確認した。
どこまで続くともしれない灰色の世界は、雪を降らせる寸前の黒雲のように見えた。父が亡くなった時を思い出す。暗く寒い朝だった。母は夜遅くまで病院で診察を続け、その後は運び込まれた父にずっと付き添っていた。あっという間に朝が来て、父は息を引き取った。私は姉とともに、呆然と父の棺を眺めていた。
さく、さく、さく、さく。
足元の感触が変わった。うっすら雪が積もっている。灰色だった世界は、まだらに白く染められる。
「これは……ここは……」
見上げるとそこに、懐かしい病院が建っていた。ぽつんと、唐突に。周囲の景色は靄がかったように霞んでいる。
「何だ? ここは、私の故郷の村なのか?」
「止めても無駄よ、コルム。あたしはもうたくさん。こんな辺鄙な田舎で一生を過ごしたくないの。あんたも出ていくなら今がチャンスだと思うわ」
コルムに負けないくらい大きな黒鞄を抱えた女性が、コルムに指をつきだして興奮気味にまくし立てた。
「姉さん、ほんとに出ていくのか……?」
コルムは、自分の口からこぼれ出た言葉に驚いた。
「出ていきますとも。世の中やり方次第なのよ。高価な薬を安く安く売って、それで新しい人を雇えないだの、いい設備が買えないだの、当たり前じゃないの。母さんだって、倒れるまで働くことないのよ。都会の医者が見たら笑われるわ。ばかばかしくて」
「父さんと母さんのやり方が気に入らないなら、一緒に変えていけばいいじゃないか」
「無理だわ。あたしは自分のやり方でもっと成功する。母さんのことは、あんたにまかせるわ。さよならコルム。あんたもいつまでも、お金のたまらない村の病院にしがみついていることないのよ。じゃあね」
姉の後ろ姿は、どんどん小さくなっていく。ああ、なぜもっとうまく言えなかったのだろう。行かないで、姉さん。豪華な暮らしがしたいならそれでいい。姉さんの力が、この病院には必要なんだ。
『素敵。いただくわ』
どこからか声が聞こえた気がした。コルムの行く手に、出口の魔法陣の光が見えた。彼女はそこに向かって走り出す。
「いたわ、キュルちゃん、あそこ」
麒麟の背でジェラが叫んだ。彼女の聡い目は、森の木立の中に素早く動く黒い影をとらえていた。すぐさまキュルは、黒い影に向かって急降下する。
「モース様のおうちがあったあたりかしら? あの湖」
「ああ、でもこっちの世界にはそれらしきものは見えないね」
飛びウサギが麒麟の頭上から身を乗り出し、眼下を見定める。
「やっぱり、魔法陣のこっち側は、微妙に違うのね。どうしてかしら……ととと」
ジェラの言葉は、舞い上がる風に流されていった。
「オイ、キュル! 曲芸飛行は一言断ってからやりやがれっ」
「黙ってリラ。あれは……リュカだわ!」
森の中の黒い影は、《なりそこない》ではなかった。
リュカが気がつくと、湖のほとりだった。見覚えのある景色だと思ったら、前に賢者を訪ねてきた時に来た場所だったのだ。
「え? お前キュルなの? なんだよ〜チョーかっこいいじゃん!!」
リュカは額に角を持つこの麒麟の姿に大喜びだ。
「すっげーなぁ、でも肉球、もうなくなっちったの? もうぷにぷにできないのは残念だなぁ、角がかっこいいから、いいかぁ」
キュルの毛並みに顔をうずめるリュカの服を、ジェラがひっぱった。
「ねぇちょっと、紛らわしいことしないでちょうだい。私たち、《なりそこない》さんを追っていたのよ!」
「失礼な奴だな、そっちが勝手に間違えたんだろ」
《なりそこない》と間違えられたと知ると、リュカは口をとがらせた。
「だいたいお前だって、何《なりそこない》に拉致られてんだよ、だっせぇ〜」
「私だってなぜさらわれたのか知りたいわ。だから血のにおいを追ってきたんだもん。でも《なりそこない》さんの流した血のにおいがどうしてリュカに? あなた、《なりそこない》さんに会ったの?」
「会うかよっ。魔法陣の出口がここだったんだから、俺着いたばっかなの」
「そう……どうしてかしら」
「キュルが大人になったのも、何か関係あんのかなあ。な」
リュカがキュルを見上げた。キュルはリュカの服をくわえると、ジェラと並んでその背に乗せた。ジェラがぽんぽんとキュルに合図する。
「そうよ、今度こそ《なりそこない》さんを探しに行くわっ! しゅっぱーつ」
「ちょっと待てよ、キュルのご主人は俺なんだかんな、もう。てコトでキュル、モース様の居場所もよろしくなっ」
ふわり、二人を乗せた麒麟は舞い上がる。
「おや、ここは」
エルムはあたりを見回した。あろうことか建物の中である。鐘楼のてっぺんであればまだ、救いがあったものを。ため息をつき、不要となったマントをまた丁寧に畳んで荷物にしまう。
そこはついさっきまで人がいたような気配がした。部屋の四方には本の詰めこまれた本棚がみっしりと並んでいる。中心の床は一段高くなっており、そこに木製の机が置かれていた。机の上にも本が積み上げられている。つややかに光るランプの光が、部屋の中を照らしていた。
「……エ、エルムさん」
「ゴド? ああ、やはりそうでしたか」
魔法陣に飛び込む前に見た黒ずくめは、商人ゴド・シシューだったのだ。彼女もエルムと同じタイミングでこの部屋に現れたのだと言った。
「それでは、ゴドはあの声を聞きましたか?」
「声? いや、ウチそんなんわからんかったです……」
本棚に並べられた書物を眺めながらゴドは答えた。
「見てくださいエルムさん、ここ、まるで賢者様の家みたいですね」
ああ、とエルムはうなずいた。だから見覚えがあったのだ。一面の本棚、雑然と並べられた不思議な実験器具の数々。どれひとつとしてほこりをかぶっておらず、それでいて使い込まれている。
「『魔との対峙』『防護の砦--安全な儀式のすすめ--』『祈願と代償』『召喚奥義』……」
ゴドはぶつぶつと題名を読み上げていった。商人の勘で、かなり危険な内容に思える。高く売れそうだが取引に出したが最後、色んな方面から声がかかったり命を狙われたり、つまりは手を出してはいけないしろものたち。ある意味で金にならない。
「《竜》に関する書物はありませんか?」
「えっと……守りの術に関するような本ばかりで……」
エルムは机の上の図面を手にとった。弓と矢の絵が描かれている。ふと、猫の姿が脳裏に浮かんだ。
「ゴド、ここは賢者様のお宅ではないようです。この部屋は、カロンさんが儀式を行った王城の地下室……その、机の置かれていた場所に、《竜の牙》たる古弓が置かれておりました」
「!!」
「しかし今ここには弓はありません。ランプがついているのですから、人がいるのです。その方が、持ち出したのかもしれませ……」
エルムの手から、ばさりと図面が落ちた。
「エルムさん、大丈夫ですか! 痛いんですか?」
駆け寄るゴドをエルムは制した。ずきずきと脈打つ左手を隠すようにその場にうずくまる。
「誰だ!?」
鋭い誰何の声が飛んだ。ゴドとエルムはびくりとして扉を見やる。そこには見知らぬ男性の姿があった。中肉中背で、片腕をだらりと下げているその姿は、仲間たちの誰とも違う。ゴドがぶるぶると震えながら、うずくまるエルムをかばうように動いた。黒ずくめの格好と仮面が、少しでも強い戦士に見えることを願いながら。
「誰だと聞いてるんだ、おめえたち、どこからきやがった? ディルワースの人間か?」
大きな剣をやっとの思いで構えながら、ゴドはゆっくり首を振る。
「何だ、びびらすんじゃねぇよ、追っ手かと思ったじゃねぇか。この城は俺の獲物だよ、首突っ込む前にずらかんな。見つかったらつかまっちまうぜ、そんななりじゃ」
「アナタは……」
「あん? 俺のことなら詮索すんな。どうせもう会わないんだからな」
踵を返すと、男は片手を上げて立ち去る。
その時エルムは見た。男の右手にはめられた似合わぬサファイアの指輪と、その手のひらの刻印を。
「お待ちなさい」
すっくとたちあがり、エルムは静かに名乗った。
「私は《野の百合の門》エルムと申します」
男はゆっくり振り返った。不思議なものを見るようなおももちで、小柄なエルムを見下ろしている。エルムは怖じることなく彼の目を見返した。《野の百合の門》、と呟いて、ようやく男は口を開く。
「俺はグレイ。まさか、おめえは審問の」
「さようでございます、グレイ殿」
ゴドははらはらしながら、ふたりのやりとりを見守っている。どうやらふたりは同族のようだった。しかし再会を祝しているようには見えない。エルムの表情もどこか固いのだ。
「ちっ、俺は《門》を離れた人間だ。もう《門》の掟には縛られねぇよ」
言うなり男はもごもごと詠唱に入ると、魔法の靄をふたりにぶつけた。
「う……《小さき死》の魔法か」
ゴドがことりと倒れると、すうすうとその場で寝息を立て始めた。
「命はとらねえ。だが《門》の指図もうけないさ。しばらくそこでおねんねしてな!」
エルムの意識が遠くなる。修行不足を悔いる中、グレイの声だけが響いていた。
モースとともにやって来た旅人たちは、鐘楼のてっぺんに出現した。ベネディクトンがきょろきょろあたりを見渡す。
「ううむ、そっくり同じような場所だな」
「それでもここは、風の精霊の力が強い。ディルワースとは違っています。モース様、お気をつけください。彼は空をも自在に飛ぶようですから」
レイスはそう言うと、さらさらと滑るような指使いで《清流弦》をかき鳴らす。和音に合わせて小さな光の粒がいくつも出現し、一行の周りをくるくると回って消えた。
「モース様が傷つくところを見たくありません。差し出がましいようですが《光の護り》をおかけしました。みなさんのお役に少しでも立つならば」
「召喚師の少年が見あたらないな……無事だといいが。無鉄砲な奴だな」
「そうですね。待ちきれずに先に行ってしまったのでしょうか」
レイスは最後に残った光の一粒を指ではじくと、モースの表情をうかがった。
「ここが新しい世界、という訳か。行こう、子猫ちゃんたち」
モースは今にも泣きそうな顔に見えた。
「僕とフューガスは親友だった。それなのに僕が彼のことを思い出さなくなったのは……思い出そうとしなくなったのは」
鐘楼を吹き抜ける風の音が強くなる。
「彼がここに眠っていたからだ。……ごらん」
鐘楼を中心として、巨大な十字の形に浮かぶ島。雲さえもはるか下を流れ去っていく。
「……浮遊島。ではここは、ディルワースから見えた、あの空飛ぶ島なのか?」
剣士の問いに、賢者はうなずいた。
「彼は、どこに?」
「おそらく彼のいるべき場所に。急ごうか、子猫ちゃんたち。きっとここで、僕の研究は完成するよ」
「研究?」
ベネディクトンとレイスは顔を見合わせる。
アフリートがキィ、と鳴いた。オシアンの腕を伝って衣服の影に隠れようとする。
「おいでなすったか!?」
舌なめずりをせんばかりの勢いでアーシュが槍を構える。
「嬉しそうだな」
「そりゃもう♪ あーーーんなに探索して、ぜんっぜん収穫がなかったんだからね、これでようやくカタつけてスッキリできるってもんだ」
アーシュはなまった腕をぽきぽき鳴らす。
二人はひとまず王城内部を探索していたのだが、労多くしてなんとやら。こぎれいな部屋が次々現れるばかりで人影はおろか、怪しげなものはみつからなかった。エントランスに戻ってきてもう一度奥の間へ、というところで、アフリートが鳴いたのである。
「この奥は玉座の間だもんな。ボスがいるにはうってつけだよな」
オシアンは、狭い空間で戦う方が、相手の動きを封じやすいと踏んでいたのだが、そうはいかなかったようである。
「ぐだぐだ言ってないで黙って作戦通りに動け!」
オシアンのキレ具合にアーシュはただ肩をすくめ、玉座に通じる扉を開けた。
真っ赤な絨毯がまっすぐに玉座に向かって伸びている。玉座の頭上には、色鮮やかなステンドグラスで《竜》が描かれており、両側の高窓からこぼれる光とともに、広間を美しい色彩で飾り立てていた。
玉座は数段高くしつらえてある。闇がうごめいているのかと二人は思った。《なりそこない》がそこにいた。それはこの空間にまるで不釣り合いだった。
「先制攻撃で生け捕りだぞ、分かってるのか!」
「はいはい、オシアン先生の言うとおりです」
茶化すように言いはしたが、オシアンの放った一撃は的確だった。相手を挑発するかのように小さく風を巻き起こし、《なりそこない》がぼろぼろの翼を広げたところを狙って、かまいたちで切り裂いたのだ。予想通り、翼を狙う魔法は効果をあげたようだ。その間にアーシュは走り寄って間合いを詰める。空中戦は絶対的に不利だが、翼をもいでしまえば2対1で分があるのだ。足回りを狙って突きを繰り出す。アーシュは手応えを感じたが、すぐに蹴りをくらい飛びすさる。《なりそこない》は玉座の高さからジャンプするとアーシュを飛び越えた。すぐにぶわりと翼を広げる。
「追いつめろ! 広い空間で戦わせるんじゃない! 鱗はダメだと言っただろう!」
叫ぶ間にもいくつもの魔法を準備した。アーシュと挟み撃ちの形になったが、これはこれでいい。自分の盾がないのが不安ではあるが。一撃くらったら終わりだという考えを捨てると、オシアンは気休めに《風の護り》を自身にかけた。
「まったく、口やかましい軍師さんだねえ」
つい、その場にいる者の命を預かった気になってしまう……ついオシアンが本音をもらしたことがあった。謙遜めいた言い方ではあったが、あれは彼なりの誠意であり正義という意味だろう、とアーシュは考えた。悪気があってやっているのではなく、そういう風にしかできないのだ。苦労しているんだろう、きっと。
アーシュが槍を上段に構える。携えた《竜の牙》が、どんどん熱を帯びてきた。《なりそこない》が、ぼろぼろの剣を振り回した。アーシュがしゃがんでよけると同時に、オシアンのかまいたち2発目が《なりそこない》の翼を引き裂いた。アーシュは立ち上がりざまに切り払い、翼の片方を落とす。
「おしっ、やったぜ!」
鱗がはじききれなかった魔法の残滓で、顔をちりちり焦がしながら、アーシュはVサインを送る。
『オマエ……』
《なりそこない》は動きをとめず、アーシュにまたも斬りかかった。
「妙だな、武具を用いる知能はあるくせに、こいつはなぜアーシュばかり相手にするのだ?」
オシアンは眉をひそめた。挟撃になった以上、魔法使いの自分が標的にされるものだと思ったのだが、《風の護り》は発現せずにアーシュだけが狙われている。オシアンは必死で理由を探し始めた。モースを狙い、ジェラをさらい、そして今、アーシュが狙われている理由。
ガッシャアアアーーーーーン!
玉座の間に響き渡ったのは、ステンドグラスが割れる音だった。無数の破片とともに、麒麟が飛び込んでくる。その背にジェラとリュカを認め、オシアンは即座に状況を理解した。状況は悪化している。
「愚か者! なぜまた舞い戻ってきたのだ、ジェラ! おまえは一度さらわれているのだぞ!」
「そーだそーだっ」
小さくリュカが同意した。
「指図はうけません」
ジェラは軽やかに麒麟の背から飛び降りると、すっくと《なりそこない》の前に立ちはだかった。その顔はオシアンをにらみつけている。下賤の指図は受けない、と言われたような気がして何故だかオシアンは非常に不愉快になった。
「指図めいてしまったことは謝りますから、そこをどきなさい、生け捕りにすれば誰も傷つかない。貴重な情報源でもある。洗いざらい話してもらわなくてはならないのだ」
いらだちながら諭すが、ジェラは聞いてはいなかった。オシアンの言うことが、分からない。誰も傷つかないですって? 《なりそこない》さんが、血を流しているじゃないの。
「こっちよ」
《なりそこない》の手を引くと、エントランスに向かって走り出す。
「さあモース様、どこにいらっしゃるの!」
ベネディクトンとレイスを従え、モースがやって来る。
「さあ、おふたりとも、気が済むまでどうぞ。お話が終わるまでぜぇ〜ったいに、帰らせません」
ジェラが腕組みして、二人の対面を見守った。《なりそこない》の腕がふるふると震え、幾たびか持ち上げられ、しかしそれは振り下ろされることなく弛緩し、また繰り返す。
モースが一歩、近づいた。
「フューガスだろう? 随分待たせてしまったね」
《なりそこない》が、がくりと膝をついた。両足から流れるどす黒い血が血だまりをつくる。ジェラは駆け寄って、そっとその足に薬草を塗った。オシアンは額に手を当て天をあおいでいる。《なりそこない》フューガスは、ぼろぼろの剣に両手でつかまり、身体を支えるのがやっとの様子だ。
「キミは僕に、これを見せたかったのかい、この、世界を」
『モース……モルゲンステルン……』
「うん」
フューガスのまとっていた鎧が零れはじめる。
『俺は……《竜》の生命力を……宿そうと……人間に……《狂乱病》に克つ……』
《なりそこない》だったときよりもはっきりとした言葉だった。怪物としか見えなかったその姿は、いびつにゆがんだところも残っているものの、次第に人間らしさを取り戻していた。
『君のおかげだ……自分でも……また人間に……戻るとは……』
頭髪が生えそろうと、フューガスのそれは燃えるような赤だった。
『モース……俺は……みっつの罪を、犯した……気をつけろ、ここには、ディルワースの、敵が……』
「ディルワースの敵?」
モースはフューガスの肩を抱きながら、その言葉を繰り返した。
『ああ、少し、休ませてくれ……』
それだけ言うと、フューガスはぐらりとくずおれる。ジェラがその身体を受け止めた。
「熱い!」
アーシュが叫んだ。《竜の牙》が発火しそうなくらいに熱を帯びていた。その包みを開くと、筒をとりまく揺らめく陽炎の中に、魔法陣に描かれていたのと似た文字が浮かぶ。
「そうだ、モース様なら読めるんじゃないかな?」
モースはそっと手をかざし、静かに読み上げた。
「《竜》の賛歌が数節……だね。そして《竜より出でて竜へと帰る アングワースの子ら》とある」
「防護の魔法がかけられているようなのですが」
「そうだね、随分古いものなのにまだ効力を失っていない。どうやら敵に反応しているようだね」
「《なりそこない》探知機は、あながちはずれじゃなかったんだな、やっぱり」
アーシュが火傷寸前の背中をさすりながらうなずいた。
「フューガスも敵、と言っていたな。《竜の牙》にとっての敵とは、何者なのだ? 剣で斬ることができる相手ならよいが」
ベネディクトンが嘆息する。
「難しいでしょうね、すべてを砕く《竜の牙》の、敵、ですから」
レイスが首をひねった。フューガスの敵はディルワースの敵。《狂乱病》をもたらし国土を荒廃させる者。だがフューガス自身が一時は《なりそこない》となっていた訳で。
「《竜の牙》の敵なら、そいつは《竜》の敵じゃーん。すっげぇ強そう!」
「《貴石の竜》は最強の戦闘種族だよ。ディルワースにこの《竜の牙》が存在しているということ、これが、フューガスの研究の端緒だった。まだ僕たちが、学生の頃だけどね」
昔を懐かしむように、モースは続ける。ジェラの膝枕で死んだように横たわる旧友を見つめながら。
「《竜の通い路》ディルワースは、かつて《貴石の竜》たちが戦い、死んだ場所だという仮説をフューガスはたてていた。だから《竜の牙》というアイテムが残っているのだと。そして、時折目撃される《竜》の姿は……古い時代の幻影、《大陸》が見せている夢なのだと」
「ロマンチックだわ〜」
ほわわんと乙女の表情で、ジェラはうっとりと呟いた。その肩でリラがトホホとため息をついている。無鉄砲な少女趣味、ジェラの本領発揮であった。
がら〜ん、ごろ〜ん、がら〜ん、ごろ〜ん。
頭上から降ってきた鐘の音に、一同はびくりと鐘楼を見上げた。誰かが魔法陣をまたくぐったのだろうか。しかしその疑問は口にするまでもなかった。
城門前を歩いてくるのは、シャッセであった。ふらふらした足取りは、例の夢遊病の時のそれそっくりである。寝間着に裸足という姿は異様だった。そこへ……脇からひょいとローズが現れた。がしっとシャッセに腕組みするも、彼女の足もどこかふらついている。いつも元気いっぱい、何か面白そうなことはないかと光っている緑色の大きな瞳も、伏せられたまま歩いているのだ。そして。
色んなことが一時に起きた。
シャッセとローズの前に、背の高い青年が現れた。シャッセをそのまま青年にした風に見えるくらい、彼らの赤い髪も白い肌も似通っていた。シャッセが彼に走り寄り、ローズは両手を口にあてて驚いている。モースの胸に飛び込んだように、シャッセは青年に抱きついた。
「カミオ、ほら、配達しなくちゃ! 《白馬の君》よ!」
そう叫んでいるようだった。
そして、青年の胸に顔をうずめるシャッセの頭上に、銀色の大鎌が降ってきて、
「危ない!」
青年は叫びながらシャッセとローズをかばい、
「見つけたぞ!」
茶猫カロンが林檎の芳香とともに出現して大鎌に体当たりし、
「シャッセ姫!」
ばたばたと黒鞄をひきずりながら駆けつけたコルムが手製の薬物爆弾を放り投げ。
『こら、はなれなさいっ!』
子どもがだだをこねるような鼻にかかった声が響き……。
すべてそれらはかき消えた。地面にはりついているコルムと、あたりに漂う林檎の香りだけを残して。一同は、青年が姿を消す間際、シャッセとローズを抱きしめたままこちらを振り返り、たしかに一礼したのを見た、と思った。
「ミュー、どこだ?」
ぼろぼろの麻袋のようになりながら、カロンはひたすら少女の名を呼んだ。ミュー。ミュー?
暗くてあたりはよく見えない。でも、うまくいったみたいだよ。シャッセ姫のかわりに、ちょっと一発くらってしまったけれどね。大丈夫。こんな傷、なめておけば治るから。
ぺろ、と毛繕いをしようとして、カロンは気づいた。両手、両足。猫のしなやかさではなく、動かし易い指。
「人間の、姿か……」
ひどく寒かった。冷気が肌を刺した。がくがくと震えながら、カロンの意識は薄れていく。
『美味しそうだけど、ナマイキ』
じゃきん。大鎌がカロンの上に出現する。
『うふ、もう少しガマンしよ』
もう一度、じゃきんと刃を鳴らして、それは消えた。
第5章へ続く

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