第7章|万華鏡|モモ|竜の牙|そして|マスターより|
1.万華鏡
ディルワースと《まことの国》をつなぐ魔法陣の中。迷い込んだものの思い出をむさぼるための、そこは夢魔のすみかだった。旅人たちのほぼ全員が、この巣穴の中枢部に集っている。ディルワースを巡る因果の螺旋を断ち切るために。それぞれが背負う重みと向き合うために。あるいは、それぞれが何かを選び取るために。また、選ばないために。
ディルワース領主ボーペルはその居室でひとり、ため息をついた。
これまで何回、こうやって長い長いため息をつき続けてきたものだろうか。万感去来のなか、それでも最後までボーペルの、もうあまり多くない後ろ髪を引っ張っていたものは、シャッセのことだった。
片翼を担った者、そうしなかった者。
(どっちが幸せだったのかな。彼と、僕らと)
モースの言葉が思い出された。思いを貫いた者フューガス。それを止められなかった自分たち。片翼を担ったモース。そうしなかった……間に合わなかった自分。
行き着く先が違おうが、道中の辛さは変わるまい。そう思っていた自分は間違っていた。
「わしらのことは、もう過ぎた時代の話だ。どうにでもなればいい。いかに辛さを味わおうとも何も言うまいて」
当事者は苦難の道を進む。ごくあたりまえに。
だが、残された者は?
残された者の苦しみも、等しいと言えるだろうか。
「……言えやしないな。まったく阿呆の極みだ」
つかの間ボーペルは目を閉じて、覚悟を決める。
病気の経緯を突き止めた。そう言って出て行った医師。ボーペルの手には、彼が残した手紙があった。領主はシャッセの寝室への扉を開ける。
広い部屋でひとり、シャッセが眠りつづけている。今は呼吸も規則正しく、まるで静かな死に向かっているとは思えない。旅人たちのほとんどは、彼らが《まことの国》と呼ぶ場所に赴いていった。その中にはフューガスとモースもいる。
「また、遅れをとってしまったのかな、わしは」
愛娘シャッセ。たとえ血を分けた娘ではなくとも、家族であることに変わりはなかった。親友の娘だからではなく、王家の嫡子だからでもなく。
「旅人たちよ、どうか頼む……」
祈りながらボーペルは手紙の封を切った。
ジェラ・ドリムは黙りこくっていた。傍らに賢者モースが立っている。その肩に身をあずけたまま、フューガスはじっと目を伏せていた。重苦しい表情で、ジェラは二人の手を握りしめる。フューガスの手にはまるで力がこもっていない。モースの手は驚くほど冷たかった。
ジェラの目に悲しみの色が浮かぶ。この人たちは、傷つきすぎているわ。お二人とも、まるでもう死んでしまっているかのよう。
「目を覚ましてください、フューガス陛下」
少女は涙まじりに訴えた。飛びウサギは不安げに三人の頭上を回っている。
「子猫ちゃん」
モースがつないだままの手で、ジェラの頬に流れた涙をぬぐった。
「ごめんなさい。私より泣きたい人も、いらっしゃるでしょうに」
言葉にしながら少女はやっと悟った。なぜ、自分がこんなに涙を流しているのか。
「フューガス陛下の思い。国を愛する心。王妃様を、ご家族を愛する心……」
「キミはフューガスじゃないよ、子猫ちゃん」
「そう……いいえ、違います。私だってフューガス陛下の」
気持ちは痛いくらい分かる。そう言おうとした口は、そっとモースの指に塞がれた。
「キミは違うよ、ジェラルディン。キミはきっと、違うやり方で国や家族や友人を愛する。そうだろう?」
ジェラは唇をかんだ。リラはうんうん、とうなずいている。ぽろぽろとこぼれる涙はそのままに、少女はフューガスを揺すぶり続ける。
「目を覚まして。お願いです陛下……」
もしも自分だったら。
自分だったら、正しいやり方で国を愛することができるかしら?
正しいって、何だろう?
アーシュ・アーシェアは、両手に《竜の牙》たる弓矢を持ちながら、ただ立ちつくしていた。
「俺には……選べない。今は、まだ」
一介の傭兵には、その決断は重すぎるようにアーシュには思えた。考えるのは得手ではない。もちろんそれは前々から分かっていたし、頭脳労働は専門の、たとえばオシアンなどに任せるのがアーシュの常だった。雇われの身である以上、頼まれればどんな依頼もこなしてきた。幸いにして寝覚めの悪くなるような事件に巻き込まれたことはなかったけど、でも。
「本当にそれで、いいのかな。こんなこと、俺が言うのも何なんだけど」
弓は飴色に鈍く光っている。矢筒はどくどくと脈打つように、アーシュにそのエネルギーを伝えていた。強力な破壊衝動。
「だってさ、悪い奴っていないじゃないか。存在自体が悪だなんて、俺たちに決められるか?」
傭兵は、敵味方や善悪を考えない。考えるのは雇い主だ。傭兵に求められるのは、敵を倒す戦力、その一点である。戦いがこの世からもし無くなったとしたら? そんなことは、アーシュは考えたことがなかった。なぜなら戦いは、無くならないからである。少なくとも、アーシュが元気に《大陸》を旅して回っている間は。
黒衣の医師が姿を見せた。フォリル・フェルナーだ。カミオ・フォルティゴも一緒である。初めて足を踏み入れた異空間に、おびえたようにきょろきょろ視線をさまよわせるカミオとは正反対に、フォリルはまっすぐにアーシュを見つめている。決意のこもったまなざしが見据えているものは、傭兵の手にある《竜の牙》だ。
「失礼」
フォリルは慇懃に、アーシュの持つ弓矢を手にとった。今ごろディルワースでは、お人よしのボーペルが、フォリルの残した言葉について悩んでいることだろう。
さようなら領主殿、貴方のご厚情に感謝する。シャッセ姫の寝台のかたわら、大きな楡の木の丁度木陰に当たる位置。小さな椅子と、それに似合った小さめの机が、所在なげにぽつんと置かれているあの部屋。ディルワースに来てから、一番長い時を過ごした場所。ある意味では、ここが私の居場所だった。
はるか遠い景色のように思い出されるのは、記憶を奪うという夢魔のせいではない。もう二度とあの場所に戻らないことを、フォリル自身が決めたからだった。
「誰かが幕を引かねばならない。分かっているだろう、アーシュ?」
カミオの頭上で、背の高い傭兵と医師の視線が交わった。
「これは戦争じゃない。憎くもないのに、殺すなんて」
アーシュの声は弱弱しい。
「戦争じゃなければ何もしないのか。ご立派なことだ」
「フォリルせんせ……」
カミオの抗議は、フォリルの手にさえぎられる。無骨で大きな手はたくさんの命を救ってきた。シド以外の命を。
「俺、傭兵だから、お医者のあんたにゃそれこそ敵みたいなモンかもしんないけどさ。一度矢で打ち砕いてしまったら、取り返しはつかないんだよ」
武器を手にしていうせりふじゃないな、とアーシュは自問した。それでも、言いたかったのはその一言だった。射ることができる矢は、ひとり一本だけ。それすら、重すぎた。
カミオは人の輪からそっと後ずさり、肩掛け鞄の中から一通の手紙を取り出す。シャッセが《白馬の君》に宛てて書いた、まだ配達していない手紙。
「まだ間に合うかな」
帽子をかぶりなおし、カミオは灰色の道を駆け出した。手紙を届けたときの高揚感をまた味わいたかった。サーカス団員ジェイクに手紙を渡したときの、あの気持ちを思い出したかった。
郵便配達人の名誉にかけて、請け負った仕事は必ずやり遂げなくては。
リュカ・シー・オーウェストは、召喚が成功した喜びを隠し切れず、そわそわと落ち着かなかった。
「へへ……すっげぇな! 《竜》だぜ。それも《貴石の竜》の、王様!」
憧れの賢者モースと一緒に、《大陸》最強の種族を召喚することができたのだ。そして、かの王は自分に力を貸すとも言ってくれた。
「きゅるるるる」
「何? キュル心配してくれてんの?」
麒麟の角を少年はそっとなでた。不安がないわけではない。最強で怖いものなどないはずの《竜》が、あんなに弱気だなんてリュカには信じられなかった。もっと堂々として欲しかった。黒く大きなその威容にふさわしい態度でいてほしかった。
『期待に添えず申し訳ないな』
アングワースの声が、リュカの心に響く。アングワースの精神は、離れていてもリュカと会話することができる。リュカは目を閉じた。
《竜》の力と《大陸》の共存方法を、とにかく探したい。《大陸》や、今《大陸》に住む者たちのことを考えれば、最善は確かに《竜》を滅ぼすことだろう。リュカだって《大陸》の人間である。《まことの国》を通じて召喚しているからまだしも、《大陸》でアングワースの力を奮えば、フューガスの二の舞になっておかしくない。けど、このまま《竜》が消滅してしまったら勿体ない。勿体ないのだが、起死回生の妙案はちっとも浮かんでこなかった。リュカの思考は堂々めぐりだ。ポケットの中で小枝のお守りをもてあそぶ。自分にできることは、何だろう?
「《竜》の力のありようを変えることができればなあ」
頭を働かせるのがもっと得意だったらよかった。
「きゅるる、るるる」
「……お邪魔しますよ、レディ」
はっとリュカが身を起こす。麒麟に会釈していたのはオシアンだ。二人は同時に口を開いたが、咳払いをひとつしたオシアンが、リュカに言葉をゆずった。
「俺、無茶やってた昔みたいな失敗はもうしたくない。これはやり直しできないことなんだから」
少年は、自分の足元を見つめている。耳飾りが揺れた。
「だからオシアン、教えてほしいんだ。アングワースは滅ぼしてくれって言う。俺はそうしたくない……そうするのがベストだってこと、理屈じゃわかってるつもりだけど。そんでもって、矢は3本ある。誰もが納得いくような使い方、アングワースの意思も尊重した使い道を決めてくれないか? 俺が無茶やるより、そのほうがゼッタイいい結果になるはずだ。俺、オシアンのことすげーって思うからさ」
「買いかぶりすぎだ」
リュカはふるふると首を振る。オシアンは苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。まずいこと言っちゃったかな、と一瞬リュカは焦ったが、すぐに思い直した。俺が召喚するようしむけたのと、おあいこだよな。
「アングワースにとって最もいい形の決着、ということなら、リュカ」
オシアンは目の前の少年をひたと見つめた。その場の全員の命を預かった気になってしまうこと。それが己の悪い癖であることは承知だ。だからこそ、この少年を危険にさらしもできるのか。リュカが委ねた決断を、自分が下す。それを評価するのは誰だろう。
「アングワースを受け入れる器となってほしい。ふさわしいのは君しかいないのだから」
リュカは深くうなずいた。
(聞こえる? アングワース)
心で竜王に呼びかける。ごく近いところから、答えがあった。
(今でも、夢魔と戦うつもりはある?)
『おまえが望むなら。少年よ』
(終止符を打とうよ。あんたたちの戦いに)
そう言いながら、リュカはモースの側へと近寄った。
「モース様、お願いがあるんです。万一、俺が戻れなくなったら……」
モースは少年の髪をなでながら、彼の不安をうち消した。
「もちろん戻れるさ、子猫ちゃん。君が帰る場所は、《竜》のそれとは違うんだ。僕が、キミの灯台になってあげる」
「ハイ」
誇らしげな表情でモースに答えたリュカは、最後にキュルに抱きついた。
「戻れなくなったりしたら、許さないんだから!」
ジェラが叫ぶ。
(行こう)
指先から、ちりちりと爆ぜるような感覚が広がってくる。リュカは目を閉じた。最後に見えたのは、モースとフューガスの間で泣きじゃくるジェラの姿だった。
(我が命に従え《貴石の竜王》アングワース。《原初の炎》の名によりてふさわしき力を奮い、モーヴェレーヴと戦い、その役目を終えよ)
リュカの体内に、灼熱の闇が舞い降りた。
(そして……《大陸》に還るべし)
闇は肉の衣を纏い、さらにその姿を変えた。漆黒の翼を持つ巨竜がゆっくりと上体をもたげる。夢魔が作り出していた灰色の雲は、たちまちのうちに霧散する。今やむき出しになった十字架は、墓標のごとく荒野に屹立していた。
「すまないモース」
咳き込みながら、ゆっくりフューガスは身を起こした。
「やはり、人の身に《竜》を宿すなど無茶だったな。あの少年は大したものだ」
「信じているから、できるのよ」
ジェラがそっと答えた。
「リュカは自分が帰ってこれることを信じてる。自分の力だけじゃだめでも、モース様やキュルちゃんや、オシアンさんがいるもの。みんなのことを、信じてるんだわ」
「耳が痛い」
そっぽを向いてフューガスはまた咳をした。二度目の咳には鮮血が混じっていた。傷ついたフューガスの身体は、もはや限界のようだ。
そういえば、と吟遊詩人レイスは首をかしげた。《なりそこない》としてのフューガスは、ディルワースに出入りできた。だがもはやフューガスの肉体は、いくばくと持たないだろう。……《まことの国》での死は、どうやって訪れるのだろう?
「行きましょう、王妃様の元へ。今ならまだ間に合います」
レイスが静かに声を掛けた。
「これは必要なこと。お互いを許すも許さないも、すべては向かい合ってからでしょう。それにお互いに枷をつけたままでは、前に進むことは決してできません。あなたは、逃げ続けるほど卑怯な人間ではない。そうですよね、フューガス様」
ジェラが握っていた手を振り払うように、フューガスは乱暴にその口をぬぐった。ジェラは悲しげに王の仕草を見つめている。レイスはだだっ子を諭すように言葉を続けた。
「したいようにすればいいと、おっしゃいましたよね。ですから私は、あなたを連れてゆきます」
フューガスは観念したように、そうだな、と呟いた。
「そうです」
ようやく引き出した諾に微笑むと、レイスは王の手をとった。
この夫婦はとても不器用なのだ。フューガスは王としての立場と信念に縛られている。エシャンジュは自ら二心という名で磔となっている。不器用なのは悪いことではないが、結論をごまかしているだけでは何も変わらない。レイスはそう思う。
「例え結果がどうであれ、私は何もいうつもりはないのです」
つと後ろを振り返り、吟遊詩人は胸の内を口にした。
「怒っているわけではありません。ただ、悲しいだけです……」
湖の底に沈んだ街。無惨な最期を遂げた王子。レイスの心の奥底に、不吉な思い出がよぎる。夢魔に食べ散らかされた思い出は、細部をかたちづくらない。ただ広がる、茫漠とした忌まわしさ。それに触れようとすると、心が痛かった。
ああ、これが悲しみということなのだ。
感情を高ぶらせることのなかったレイスの中で、何かが溢れようとしている。
少年召喚師の変容を見て取ったフォリルは舌打ちした。
「あんな子どもに宿らせたか、酷いな」
彼は、フューガスこそ竜王の再降臨先にふさわしいと考えていた。年端もゆかぬ子どもを、大人の都合で巻き込むことには反対するつもりだった。だが予想以上にリュカの根性は座っていたようである。
「まったくオシアン殿ときたら重病人もいいところだ」
これ見よがしにため息をつくと、アーシュがけげんそうに振り向いた。フォリルは矢筒から矢を一本抜き出した。意思あるもののように、光が脈動している。指先が溶けるような熱は、瞬時に骨までも焼き尽くすかのようだった。
「……お呼びですか」
オシアンがフォリルに答えた。
「先生にかかれば、誰も彼も病人のようですが」
「病人が多すぎだとも。シャッセ姫にオシアン殿。それにローズ夫人。私が関わった以上、全員すっぱり治してみせるがね」
アーシュが冷や冷やしている前で、フォリルが矢を一本オシアンに渡した。
「どんな交換条件をのまされるのか、楽しみです」
まるで平気なそぶりのオシアンは、挑戦的に微笑んだ。
「アレか! アレが《竜の牙》か」
あごの無精髭をなでまわしながら、興味津々のグレイ。エルム=アムテンツァとゴド・シシューが、その両脇を固めている。
「だめですってば。今は我慢してください。へたをするとここから戻れなくなるのですから」
「戻れなくなるだと?」
眉根を寄せたグレイに、エルムは脱力の思いで解説する。
「アングワースが消滅すれば、《まことの国》も消えてしまうかもしれない。それならばまだいいですが、悪くすると閉じこめられる場合だってあるかもしれませんし」
「はぁ? 《まことの国》だぁ?」
盗賊は素っ頓狂な声をあげた。
「何を言ってやがんだ、ここはディルワースだろ?」
「ま、まさかここも《大陸》だと思ってらしたんですか」
エルムの声が震える。なぜクーレルは、こんな盗賊と手を結ぼうとしたのだろう。愛ゆえに? それとも反面教師として?
「《竜の牙》が用いられた際の反動に備えるのが私たちの役目です」
エルムは矢を手にした人間を確かめるように、あたりを見渡す。ゴドは泣きそうになるのを必死にこらえた。怖かった。巨大な《竜》の姿も、厳しい顔で帰趨を論じ合う男たちの姿も、傷ついた人々の姿も。
「射ようとしてるのかな……オシアンさん」
ゴドの視線の先をエルムも見た。
「熱くないのかな……」
「そりゃあ熱いはずです。《竜王》によって封印を解かれた今、《竜の牙》は破壊衝動の塊ですから」
さりげなくグレイに対して牽制を挟むエルム。
「ありゃ誰に《竜の牙》を使うつもりだ?」
「アングワースに」
「《竜》か……だが、ありゃあエルムちゃんたちの仲間のガキんちょ様なんだろ?」
そうだ、今アングワースを支配しているのはリュカなのだ。使役している召喚獣が受けた衝撃や苦痛は、召喚主にも跳ね返る。エルムは顔をしかめた。
エルムたちが作り上げ、夢魔を追い詰めた光の防護陣は、今でもモモを捕らえていた。後ろ手に縛り上げられ、ぱんつが丸見えの状態で、モモはうつぶせに転がされている。じたばたと短い足を蹴り上げても、みじめな状況は変わりそうもなかった。
そんなモモの隣に、駆け寄ってくる者がいた。ぐいっと首を動かして、モモは救い主の姿を見ようとする。そして失望。
「なぁぅ、がんばったんよねー……」
カロンにしてもらったのと同じ仕草で、ミューがモモの頭をよしよししている。
『ばっかじゃないの! ちくしょー、こらぁ、この光外してよぉっ』
「お口悪い子は、いい子になれないんよ。めっ」
『ばかー。ばかばかばかっ!』
ミューは、モモをうっとり眺めているような、我が子を誉めているような、悲しみの淵で慰めているような、そんな不思議な笑みを浮かべていた。
「なん、ねっ、カロン」
しゃがみこんでモモの側を離れようとしないミューは、背中越しにカロンを呼ぶ。
「カロン、みゅ〜ねぇ、兄弟ほしいんよぅ」
「何!?」
あたりに漂う香りの収集に没頭していたカロンは、突然のミューのお願いに目を白黒させた。
「兄弟……ねえ」
「にゃっ♪」
抽出した香りを指先ほどの瓶に封じて蓋をする。白衣のポケットには、同じような小瓶がすでに4本入っていた。作業はあとひとりぶん。この場所に満ちる思いと、この場所を通り過ぎていった記憶を集めるのだ。周囲から魔力を集めるのはカロンが得意とするところだった。
ぱくん。最後の瓶に蓋をしたところで、カロンはゆっくり深呼吸した。
さまざまに入り混じる香り。それを打ち消すように強烈な腐臭が漂っていた。もはや、根源は明らかだった。腐り落ちていくもの、夢魔モーヴェレーヴ。オシアンに正体を暴かれ、寄せ集めたイメージで作り上げた、つぎはぎの入れ物が毀れだしている。夢魔が動くたびに隙間から漏れる腐臭。
「ミュー、離れなさい。その子は」
すべての腐臭はそこからくるのだから。
「ちがうん。いい匂いなん。みゅーも知ってるんよ、林檎なん」
首を横にふるミューは、モモの側を離れない。
たしかに……それは林檎の匂いだった。カロンは困惑し、ひとつの結論にたどり着いた。
林檎は《狂乱病》をくいとめられた。夢魔の腐臭が、林檎が腐った匂いだとしたら。共通するのは林檎、欲望の果実。ミューとオシアンが作ったお守りも、林檎の小枝。夢魔の力をしりぞける。
同じものなのか?
「兄弟、か」
つかの間、カロンの意識は切れ切れの思い出にひたる。優しい両親はいたけれど、カロンには兄弟はいなかった。良き師匠はいたけれど、兄弟弟子と呼べる存在もいなかった。化け物、と呼ばれさげすまれた時代があっただけに、カロンは他者とのかかわりには慎重になっていた。
化け物といったって、コーディアが何かしたわけではなかったのにな。
他人事のようにつぶやく。コーディア。まるで他人のようなその名前。
「そうだな」
カロンの声は優しかった。
2.モモ へ続く

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