第7章|万華鏡|モモ|竜の牙|そして|マスターより|
3.竜の牙
森の中で、コルム・バルトローはようやくシャッセの肩をつかまえた。
まったくおてんばな姫である。体力の心配がいらない世界というのも考え物だ、とコルムは思った。病人となめていたつもりはないが、思った以上にシャッセは元気だった。少なくとも、体力の上では。
「心配したぞ。倒れるかと思ったじゃないか」
荒い息をつきながら、コルムが叱る。
「どうしてこんなところに……」
咎める言葉は、シャッセの頬に一筋流れたものに気づき、立ち消える。シャッセは頬をぷうと膨らませている。
「彼が、《白馬の君》が言っていたぞ。ディルワースで会おうって」
ぷしゅ。シャッセの顔が元に戻る。
「ねぇシャッセ。《狂乱病》は治る。仲間たちがその原因をつきとめたんだ。だからディルワースへ戻ろう」
コルムの説得の言葉に、シャッセは肯んぜなかった。
「コルム先生は、あの人の言う役目が何か、知ってるの?」
「それは」
「何か話していたじゃない。知ってるんでしょう? ねぇ、僕を連れて行って。あの人が向かったところへ。お願い!」
シャッセはコルムの両腕をぎゅっとつかんだ。温かくて強い力だった。
「ディルワースに向かったんじゃないことは僕だってわかる。あの人に役目があるのなら、僕はそれを手伝いたいんだ。僕を守ってくれたこと、その理由はなんだってかまわない。あの人が選んだ役目って、何?」
「シャッセ」
コルムは逡巡し、それでもシャッセのためを思い、小さくうなずいた。
彼女にだって知る権利はある。夢から覚めて、苦い真実を目の当たりにすることになっても。
どうやって彼の人を捜し当てることができたのか、カミオは自分でも分からなかった。灰色の雲の中を、ただシャッセとその手紙のことだけを考えて突き進んでいたら……まさに目の前に《白馬の君》が立っていたのだ。
「よかった」
額の汗をぬぐうと、カミオは大切な手紙を《白馬の君》に差し出した。
「シャッセ姫から、夢の中のあなたへ。確かに届けたからね」
「ありがとう」
《白馬の君》はにっこり微笑んだ。年上の人だと思っていたのに、笑うと本当に幼い感じがした。そして、確かにシャッセ姫とよく似ていた。なるほど、こういうタイプがシャッセの好みなんだ。優しげで、お兄さんみたいな人。
十字架の丘。
傷ついた両親を前にして、リーフは膝をついていた。ディルウィード=ウッドラフが駆け寄って、跪く。その手は優しくリーフの肩に添えられていた。ソロモン・ウィリアムスは腕を組んだまま、そんな二人を見下ろしている。唇は固く結ばれたままだった。
「やっと、ご両親と会えましたね」
ディルウィードの声に我に返ったかのように、リーフは顔をあげた。安堵と恐れが入り混じる。
「君はご両親に会いたがっていました。ここまで君と来ることができてよかった」
ディルウィードは、リーフの心を落ち着かせようと丁寧に言葉を選ぶ。
「短い間だったけれど、一緒に泣いたり笑ったり、僕はどれだけ幸せをリーフ君……いや、リーフ、お前にもらったでしょう」
リーフの視線は、ディルウィードの顔から切り裂かれたローブに移った。夢魔の攻撃からリーフをかばった跡を、肩の汚れが伝えていた。
二人の姿を見ながらソロモンはずっと考えていた。リーフという存在が仲間たちにもたらしたもの。彼はどうして《まことの国》からディルワースにやってきたのか。《竜の牙》を使うことのできない存在であれば、夢魔にとって脅威ではないから、モモは目こぼししたのだろうか。
「決まった?」
さらりとミスティ=デューラーが尋ねる。今日の夕ご飯、肉と魚どっちにする、と聞くのと同じ調子だった。それでも、ミスティなりに気を遣った結果ではあったが。
「選べて得よね。《竜》の力を望む人間が、どれだけ《大陸》にいるか知れないのにさ」
ミスティの中にも《竜》の血が流れている。薄まっているせいか、破壊衝動に悩まされることはもうない。それでも若い頃は……今でも見た目はじゅうぶん若いが……自分の中に宿る灼熱の奔流を押さえるのに苦しんだこともあった。
「そうね、もし自分が選べたのなら、私はきっと自分であることを選ぶ」
髪をかきあげながら、ミスティはリーフの気持ちになってみようとする。
「じゃあ聞きますが、ミスティさん、自分であるとはどういうことです?」
目を細めた商人が切り返した。
「……難しいこと聞かないでよ」
「私だって難しいと思いますよ」
ソロモンは再び視線をリーフに戻す。時に人は目的を見失いがちだ。感情が混じるからこそ、背反の中に身を落としてしまう。
「リーフが人であれ《竜》であれ、僕にとって大事な息子に違いはありません」
ディルウィードは力強い口調で続ける。
「生贄の悲痛、なくならない《狂乱病》の苦しみと絶望。繰り返される悲しみの連鎖を断ち切ることができるのは……」
リーフは立ち上がった。
灰色の荒野の彼方から、まっすぐに歩いてくる人影がある。長い赤髪も、細身の長躯も、鏡に映したかのようにそっくりの、もうひとりのリーフ。
「《白馬の君》じゃないの」
手をかざしながらローズ・マリィが驚きの声をあげた。
「そっくりさんがふたり。どっちが本物の《白馬の君》なのかしら」
「あの魔法使いの男の息子だとよ」
グレイの答えに、ローズは思い切り眉をひそめる。
「ディルウィードの?もうあんなに成長しちゃったの? それよりも……あの子が、シャッセ姫のお相手だったの?」
まったく意味が分からない。ポケットに入れた手にアメジストの指輪が触れた。
……とても大事なものだって、言っていたのに。
たわむれに、指を通してみた。男性用の指輪はローズの親指にぴったりだった。
エシャンジュの傍らに、何者をも退ける気迫をまとった魔導操師クーレルが寄り添っている。人の輪の反対側から、足を重そうに引きずったフューガスがやってきた。クーレルは彼をひとにらみして、一歩後に下がる。エシャンジュが磔られている高さまで、するするとフューガスの身体が浮き上がったのは、クーレルの《魔導》の力だった。
「エシャンジュ」
フューガスの声は、死に瀕しているとは思えないほど明瞭だった。
「はい、陛下」
エシャンジュが答えた。ぎし、と骨の十字架がきしんだ。打ち付けられた両手がフューガスに向かって伸ばされようとし、かなわず空をきる。クーレルはそっと目をそむけた。
「ここまでご苦労だった」
レイスは心の中で、意地っ張りと呟いた。それが愛する妻にかける言葉だろうか。
「……もう充分だ」
「貴方」
エシャンジュの双眸から、ぽたりと熱い涙がこぼれた。フューガスは、血塗れの指でそっとエシャンジュの頬をぬぐう。頬に血がつき、よけい汚れてしまったのを見ると、フューガスは憮然とした表情になって袖で乱暴にこする。何やってんだ、と叫びそうになるのをクーレルは耐えた。
「ここまでよくやってくれた。そして礼を言うぞ」
「貴方」
「立派な息子を産んでくれたことを」
フューガスはエシャンジュの前髪をかきわけ、額にそっと手のひらを滑らせ、頭をなでた。
「「僕は《竜》を選びます」」
リーフの声は、エコーがかかったように響いて聞こえた。《白馬の君》が正面に立っている。リーフは両手を伸ばして彼に触れた。《白馬の君》は何も言わず、リーフが伸ばした手を握り返した。
「さすがはディルワース王子。けじめは自分でつける、か」
ミスティは感慨深げに言った。《竜》を選べば、この場で《竜の牙》に滅ぼされるだろう。ディルワースの民のために。もう二度と、あの頼りなげな声を聞くこともない。
ディルウィードは、やはりショックだった。もしかしたら心の奥で、人間を選んでくれることを祈っていたのかもしれない。そういう考えに行き着いてしまった自分がいやだった。自分の息子。そう呼んだことに偽りはない。
「……二度と会えないんだ」
「それがあの子の選択だろ」
「これから生きていくうえで、無数の選択がリーフを待ってると思っていました」
ディルウィードは肩の傷痕に手をやった。
「その分かれ道、その時々で悩んでもいい。全部受け止めてあげようと……それが、僕がリーフにしてあげられることだと」
「甘いよ、ディルウィード」
ミスティは、ディルウィードと目を合わせぬまま答える。
「これがあの子の、文字通り最後の選択ってわけさ」
彼が犠牲になるという状況を、ひっくり返したかった。けれど、遅すぎた。
ミスティのブーツが、乾いた地面を蹴る。
「やめて!」
悲鳴が空間を切り裂いた。半狂乱になったシャッセが、裸足で駆けて来る。コルムが追いつき、暴れるシャッセを羽交い絞めにする。
「やめて! やめて! いなくならないで!」
シャッセが見ているのはただ一点。手を固く握り合った二人の青年だけ。悲鳴が聞こえないのか、青年たちは振り向きもしない。
握り合った両の手のひらから、白い光が幾筋も伸びていく。細く、太く、次第に激しく。
「あんなに優しくしてくれたのに! どうしていなくなっちゃうのさ!」
まるで、親猫とはぐれた仔猫のようだ。シャッセがめちゃくちゃに振り回した腕で、何本も傷をつくりながら、コルムは思った。
光がどくんと脈打つように跳ね、青年たちの身体がゆっくりと溶け合っていく。白い光に照らし出されながら、現実味のない映像のように、ふたりがひとつになっていく。
「お願い、おいていかないで! どうして優しくしてくれたの? 僕は貴方に何をしてあげられるの? 知りたかったんだ! このまま行かないで!」
『君にしかできないことをするために……』
光の中心から、ただひとりに向けた言葉が聞こえてきた。
『僕にも、僕たちの両親にもできなかったこと……』
白く荒野を染め上げた光がかき消えた。リーフたちが立っていた場所は、空間がひずんだかのようにぶるぶると収縮を繰り返している。
二人の青年は、ひとりに生まれ変わった。薄く白い光の膜に包まれたような青年は、リーフとも《白馬の君》とも違っていた。長い赤髪だけが変わらぬ色彩を宿していた。
茫然となりゆきを見守っていたローズに、フォリルが手招きをしている。訳もわからずローズは従った。エシャンジュを縛り付けている十字架の根元にやってくる。けげんな表情でクーレルが二人を見やった。
「これを」
ぽんとローズの手に《竜の牙》たる弓矢が乗せられた。じわりと感じられた熱さは、直後に火傷しそうなほどローズの手を焦がした。
「ちょ、ちょっと先生」
フォリルはまさにクーレルを突き飛ばし、エシャンジュの喉に短刀をあてがったところだった。
「この……!」
クーレルが歯噛みする。まさか、この医師がこんな荒業にでるとは思っていなかった。
「射るのだ、ローズ」
「一体何の冗談なの? わたし知らないわ! 関係ないもの!」
叫んだものの、ローズはフォリルの目を見てびくりと身体を振るわせた。猛禽の目だ。
エシャンジュ王妃を助けるのか裁くのか、どちらにしても自分は傍観者にすぎないとローズは思っていた。
「わたしじゃない! どうしてわたしなの? フューガスぱぱでも、クーレルでも……名前のない王子様でもいい……他の誰かにしてよ!」
名前のない王子。生まれる前に捧げ物にされてしまった赤ちゃん。捨てられた子供。ローズの脳裏に、それらの言葉は波のように浮かんで消えた。顔の無い一組の夫婦が、孤児院の前にローズを捨てて立ち去っていく幻が、きりきりとローズをさいなんだ。
ローズの苦悩する姿を見ながら、フォリルはだめ押しに続ける。
「私が昔住んでいた港ではな、こう言ったものだ……船が沈み、助けを求めて自分にいくつもの手が差し出されているとする。つかまることができる板は小さい。その中でただ一人しか助けられない時、さて誰を助けるか」
フューガスは黙って、フォリルの話すに任せている。クーレルはこらえた。どうせ、やるときは一瞬だ。《魔導》をさえ使えば、状況を止めるのは一瞬でいい。《魔導》は呪文の詠唱も身振りも必要としないのだから。
「……分かるか?」
ローズは首を振る。さすがに孤児院では、そんな例えは習わなかった。
「この娘、と思う娘がいるなら、それは恋。自分が手を離し、娘の手に板を握らせることができるなら、それは愛だ。エシャンジュ王妃、貴女ならどうなさる?」
「私は……」
エシャンジュの喉で、冷ややかな刃物の感触が上下する。
「話なら、そんなものをつきつけなくともできるだろうが!」
クーレルが押し殺した声で洩らした。フォリルは一瞥もくれず、寝なければ大威張りか、と返す。肝心なときに逃げられなかった坊や、おまえの愛情は、その程度のものなのか。
「愛情のかけらも残らぬよう、始末をつけるのが義務ではないのか?」
「そんなこと、頼まれてもできるか!」
「少なくとも私はそうした。これからもするだろうな」
実際、フォリルに覚悟はできていた。信頼、厚情、寄せられたすべての好意を無に返し、この場に幕をひくことを。記憶を持たないクーレルにとっては、それは再び浮き草の暮らしを強いる言葉でもあった。
「だから放て。遠慮はいらんぞ」
ローズはゆっくりと、弓を引き絞った。
武器すら持ったことのないローズだが、弓と矢が響きあうように、自然に腕が動いていった。やや上向きに、エシャンジュの胸元に狙いをつける。
「そうだ。それでいい。それだけで、今まで貴女がうらやんでいた人々の幸せを、みな打ち砕く
ことができるのだから」
「幸せな、ひとたち……しあわせを」
目の高さに矢がつがえられる。引き手側の目の端に、ちらりと紫色が映った。
アメジストの指輪……ディルウィード。
的はフューガスに移り、再びエシャンジュに変わる。ローズはまだ射ない。
「わたし、シャッセのことは好きだけど、嫌いだわ」
だってシャッセにはパパもママも居るし、朝昼晩、美味しい食事に、ふかふかのベッド。毎日取り替えたって余るくらいの沢山のドレス、靴、鞄に帽子。……ううん、そんなんじゃなくって。シャッセはディルワースの人たちからいつだって好かれて愛されて褒められて。病気になったら皆にうんと心配して貰って慰められて。
「わたしがずっと欲しかったものを、みんな持ってる。だから嫌い……ねえ、フォリル先生、ディルウィード、こんな風に思っちゃう私って、やっぱり嫌な女の子かしら」
言葉をつむぎながら、次第にローズは落ち着きを取り戻していた。目覚めたばかりのようにすっきりした気分は、《狂乱病》になってから久しぶりだった。
「……いいわ。こうなったらご期待通り、全部ぶつけてやるんだから」
ふっ。
《竜の牙》が、まっすぐに放たれた。
クーレルが一瞬遅れて《魔導》の力を解放し、エシャンジュを守ろうとする。フューガスはその場にたちはだかったままだ。フォリルの身体は《魔導》の衝撃で後に吹き飛ばされ、鈍い音を立てて地面にぶつかった。銀色の刃をきらめかせながら、短刀がくるくると落ちてゆく。
カッ。
鋭い衝撃音が響いた。
次いで、悲鳴のような、何かがきしむ音。
クーレルは驚いた顔で《魔導》の防護を解いた。ローズは寸前で的を変えたのだ。矢はエシャンジュではなく、骨の十字架につき刺さっていた。無数の亀裂が赤々と燃え上がったかと思うと、屹立していた墓標は見る間にがれきに変わっていった。
エシャンジュの自由を奪っていたいましめが消える。茫然としている彼女の身体は、ゆっくりと着地した。
エシャンジュを間にして二人の男はしばしにらみあう。
自由となったエシャンジュは、晴れ晴れとした表情でフューガスの方に歩を進めた。
彼女の戒めは、彼女自身が科したものだったのか。
クーレルは、ただ目の前の夫婦を眺めている。彼らがかわしている会話も、クーレルの耳には聞こえない。映像だけが目前で展開しているかのようだ。クーレルの立っている場所は、夫婦のところからは遠かった。
フューガスが苦しそうに咳き込んでいる。エシャンジュはその背に優しく手を当てて、夫の顔に浮かんだ汗をぬぐった。
「ディルウィード、指輪をありがとう。さっそく助けてくれたわ」
かつん。ローズの手から弓が落ちる。
「フォリル先生。わたし、もううらやんだりしない……でもね、こんなことして、わたし、怒ってるんだから……」
ふらり。数歩歩いたところで、ローズはその場に崩れた。エルムとゴドが駆け寄る。素早くエルムがローズの脈をとり、頬に手をあてる。全身が熱を帯びていた。エルムは羽織っていたマントでローズの身体をくるみ、声をかける。ぼそぼそとローズが呟いた。
「御礼は、たっぷり……みんな、一緒に、ディル……に帰っ……」
「すごい熱」
「《狂乱病》と同じだ。《竜》の力に近づきすぎたんです」
エルムはきっと面をあげた。不安げな表情のゴド。
「このままでは彼女も消滅してしまう。それに、これから矢を射るつもりの人も。《竜》の力、やはり《大陸》の人の身には重すぎます」
「それでも、射ねばならない」
エルムたちが振り返る。
二本目の矢を手にしたオシアンが、弓を拾い上げていた。
「手早く済ませまよう。夢魔が滅び、骨の十字架が崩れた今、《まことの国》はもう長くは持たないだろうから。向こうの魔法陣が壊れたら、魔法陣のはざまにあるこの世界もどうなることか」
「オシアン殿、ご覧になっていなかったのですか。矢を射たローズさんがこのような……」
エルムの叱責をしらっと聞き流すオシアン。
「お忘れか、我らは《狂乱病》を無くすためにここまで来たということを」
「それは」
エルムは口ごもった。
「《狂乱病》が無くなれば、それらの症状も治るはず」
オシアンは静かに弓を構える。
「だから《竜》を滅ぼすのだ。アングワースの望み通りに」
その先に、リーフだった青年、ディルワース王子が立っている。
人間ではなく、《竜》として生きることを選んだ青年は、今やアングワースと同じ漆黒の炎を宿し、ゆらゆらとゆらめいて見えた。
「《竜》を選んだのだな」
オシアンが、乾いた声で問いかけた。王子はうなずいた。結構、とオシアンが答える。
さすがはフューガスの息子。ちゃんとその血を受け継いでいると見える。為政者であればさぞかし良き治世となっただろうに。しかし政治は残酷だ。あらゆるものを駒にする。それが、かつてオシアンも属していた世界。そして、おそらく将来ジェラが足を踏み入れるだろう世界。
「ディルワースだけが《竜の通い路》として、《竜》の影響を色濃く受けたのは、誇り高いアングワースの子らが同士討ちで果てたため……違うか?」
『そうです』
王子のなかの《竜》が答えた。
『《貴石の竜》は、彼らをむしばむ絶望に耐えることができなかった。絶望、それは死に至る病です』
「誇り高いがゆえに……か」
似ている。フューガスが誇りを選んだために滅びに瀕したディルワース。自分が同じ立場であれば。その問いはずっとオシアンの中にあった。
だから、今オシアンは自答する。
自分は決して、フューガスと同じ道はたどらない。
自分が愛する人を、自分の世界に閉じこめたり、心身を拘束したりすることはない。
だから。
「望み通りにしてさしあげよう、アングワース。残された者たちが、この顛末を永く記憶にとどめ、語り継ぐことをここに誓おう」
オシアンはきりきりと弓を引き絞り、矢をつがえた。
王子はそっと腕を広げ、自らを的に差し出した。王子の後ろに、漆黒の翼を広げた巨大な竜の姿が、かげろうのようにゆらめいて浮かび上がった。
オシアンは指を離した。
『とうさん……かあさん……』
リーフの声だった。《竜の牙》が、まっすぐに王子の胸を貫き、まぶしいほどの炎をあげて一瞬のうちに彼を燃やし尽くした。
『僕は人間になりたかった……だから《竜》を』
「リーフ!」
奪われた記憶を取り戻したディルウィードの絶叫が、王子を燃やす炎に照らされた荒野に響き渡った。
どさりとオシアンの膝が崩れる。アーシュが彼を支えた。
「軍師は軍師らしく、後ろで采配をふるってりゃいいんだ」
「アーシュ」
「あん?」
「逃げ……誘導を……頼む」
オシアンのささやきが終わらないうちに、がたがたがたと断続的に地震が起こり……。
「崩れちまう!」
モースが前に進み出た。
「夢魔がつくっていた出入り口が、消滅してしまってる」
「そんな! 閉じこめられちまったのか!」
「……いや」
モースがまっすぐに片手を挙げる。高く低く、歌うような呪文がモースの口から紡ぎ出される。一行の前に、ディルワースの鐘楼で見たのとおなじ魔法陣が、ゆっくりと姿を現した。ひとつだけ違っていたのは、モースの魔法陣が一重円だったことである。
「子猫ちゃんたち、力を貸して……」
モースの腕が複雑な模様を描き始めた。下ろしたままの腕を、レイスがぎゅっと握る。レイスの手をディルウィードが握り、ルナリオンが握り……。
彼らの魔力を結集し、新たな扉が出現した。
がたがたがたがた……。
地震がだんだん強くなってくる。
灰色の雲がたれ込めていた空に、ぼこぼこと穴が開き始めた。荒野のあちこちで、亀裂が走り始めている。
「子猫ちゃんたち、早く……向こう側は、ディルワースに通じているから」
モースが全力で魔法陣を維持しながら叫んだ。
クーレルが、フューガスの腕をひっぱってつれていこうとする。
「いいんだ」
フューガスの声は、ひゅうひゅうとくぐもっていた。
「エシャンジュ」
クーレルは困ったように、かつての思い人を見た。ディルワースに戻ったら、二人には何も告げずに去ろうと思っていた。エシャンジュにとって、幸せなのはディルワースだと思ったから。
「……もう充分、ですわ」
微笑みながらエシャンジュが言った言葉は、フューガスが口にしたのと同じだった。
「でも」
「……貴方は迷い人。ここにも一時に立ち寄ってくださったに過ぎないのでしょう……」
クーレルは理解した。エシャンジュの強さ。自分で口に出した言葉に縛られるほどの。
立ち去れと言っているのか。
魔導操師はローブを翻し、夫婦を後に残してモースの助力に向かった。
だから、彼は目にしなかった。
二人が夢魔と同じように、幾千もの破片となって崩れ去った場面を。
アングワースが夢魔とともに滅び、契約が終わりを迎え、時を越えて存在し続けていた二人も、その役目を果たし終えたのだ。
レイスはそれを目にしていた。
そして、止めることはできなかった。フューガスもエシャンジュも、過去の人間だったのだ。役目を果たし、ようやく彼らも《大陸》に還ることができたのかもしれない。でも……こんな結末は、淋しすぎる。
「やっと二人、向き合えたのに」
これしかなかったのだろうか。エシャンジュは知っていて、フューガスを選んだのか。
「遅すぎたの……?」
わからない。もっと早く出会っていれば、あるいは。
ふとレイスの前に、大きな波が押し寄せてくるのが見えた。これまでも幾度か目にしたことがある、それはレイスを押し流す時の大津波。
「わたし……わたしの居場所は……」
レイスの中で高ぶっていた感情が、津波に呼応するように溢れ出す。
手にしていた《水流弦》が、するりと抜け落ちた。
「ああ、だめ」
大切な竪琴は、時の大津波に流されていく。そして、レイスも。
「思い出がありすぎる。それでも竪琴は、大切な……」
レイスは知らなかった。大津波を呼び寄せているのは、自分自身であることを。時からはずれ、時から忘れられた少女は、時を見、時を呼び寄せることができる力を持っていた。感情が高ぶりすぎたとき、溜め込まれた時は大きな波となってレイスを彼方へ運んでいく。そこで新たな試練を課すために。
「でも、これからも探します。王子の《水流弦》を」
津波はレイスを魔法陣の奥へと流し込む。
がたがた……。がたがた……。
「なあううう……だめなんよぅ」
ミューは泣いていた。カロンの足元にしがみつき、ぐずぐずと鼻をすすっている。
カロンは先ほど集めた瓶の中身を注意深く混ぜ合わせ、調香を試みようとしていた。瓶にはモモが残した記憶も入っていた。前から準備を進めていた浄化の結界は、今や時満ちて、仕上げを待つばかりとなっている。
「ミュー、手伝っておくれ」
ミューの指に、桃色の髪が数本絡んで残っている。カロンはそれをそっと手に取り、瓶の中に入れた。自分の魔力のすべてを放出しても、この魔法だけはやりとげたい。夢魔の悲鳴が耳に残っている。カロンは決断した。
「私は、コーディアル。無限の魔力を紡ぐ者」
記憶の雪は、カロンにも降り注いでいた。彼は自身のかつての名前も取り戻していた。
化け物コーディア。そっとカロンは首を振る。それでも、彼の師匠が話してくれた、大師匠グリーンの話には遠く及ばない。
「《大陸》の夢よ……その眠りを妨げる者はもういない。それでも」
カロンは瓶の蓋を開け、中身をひとしずく、浄化の結界の中に注いだ。
がたがた……。がたがた……。
「もういちど、生まれておいで。《大陸》の夢を知る者よ。浄化の扉をくぐり抜け」
結界が、光の柱を天に立ち上げる。
「なあぅっ。そうなん、おいで、おいでなんよ。知ってん〜? きもちいい風の意味、ぽかぽかの太陽、わくわくさせる朝日、遠くからかおる花の香り、あたたかくなんと見える緑の芽……」
ミューの祈りが、光の中にひとつの卵を形作る。
「そうだ。やり遂げて見せよう。もういちど、な。ミュー?」
カロンは成功を確信していた。《竜》がなんらかの形で、一部を《まことの国》から抜け出させ、リーフの姿になることができたのなら……そしてリーフは、選択を許されていたのなら……夢魔だって、選択することができるはず。
もういちど生まれてくることができるなら、今度は夢魔ではなく。
「なっ、いっしょに、遊ぼ……?」
友達として。
がたがた……。がたがた……。
「《竜の牙》はどこだぁっ!」
グレイが倒れたままのフォリルの手から、乱暴に矢筒をひったくった。
「これか? やっと手にしてやったぜっ」
「グレイ!」
「これくらいはもらってもイイよな? 力を貸してやったんだからよ。それにエルムちゃん、約束したよな? 記憶を取り戻したら、宝物は俺のものってなぁ?」
がれきの山の上で、高々と矢筒をかざしている盗賊。
彼は、何が起こったのか分からないまま、胸元から小さなナイフを飛び出させ、赤々と飛び散る自身の鮮血にまみれゆっくりと倒れていった。
「な……」
ゴドが両手を口にあてて凍りついた。エルムは目を疑う。
グレイのいた位置に立っていたのは、道中をともにした手品師の女性。
「フィリス、さん」
フィリスは悲しげに、血に濡れた右手を見下ろした。テンガロンハットから、ぱたぱたと白鳩が飛び立つ。鳩はグレイの身体から何かをくわえ、フィリスの元へと舞い戻った。
「これは、私のものなの……」
鳩のタマに頬をすり寄せながら、フィリスが夢見るように呟いた。
「エメラルドの指輪!」
エルムは思い出した。グレイの無骨な指に不似合いだと思っていた、魔法の指輪。
「グレイがかつて盗みを働いたという村の、生き残りがあなた……フィリスさんなのですね」
「……グレイは、誰も殺しはしなかったわ」
フィリスの目が、すっと細められる。
「ただ、すべてを奪っていっただけ」
ゴドはグレイだったかたまりを見下ろした。ずっと見ていた……監視して、妙な動きをしたら全力で止めるつもりだった。それなのに。グレイの最期の瞬間を見届けることが、ゴドの役目だったのだろうか。世界は無慈悲だと、そう感じることが?
違う。違うと思いたい。ゴドは握った拳を震わせながら、傍らのエルムを見た。
無慈悲じゃない。できないことはない。みんなの力があれば。
エルムは、今はただの物と化した盗賊のため、そっと祈りをささげた。大いなる意志と、高貴なる精神と、過酷な世界でひとり生きてきた手品師のために。
「さようなら。私の旅の、ここが終着点だったみたい」
その場に腰を下ろすと、フィリスは帽子をグレイに投げた。手向けのように、テンガロンハットが盗賊の顔を覆い隠す。
エルムは力なくうなだれた。まだグレイの審問の途中だったのに。グレイは自分で自分に決を下してしまったのだ。救えたかもしれなかったのに。
「……いいえ、終わりではありません」
フィリスの目を見て、エルムは訴えた。
「あなたにつながる糸であったかもしれませんが、グレイは私とも深く関わっていた人間でした。教えてください、グレイのことを。一緒に、戻りましょう」
「消えたか、フューガス」
モースは小さく微笑んだ。
「ちょっと、モース様!」
ぴょんぴょんと、ルナリオンが飛び跳ねてモースの気を引こうとする。
「教えてよ、どうすれば目覚めることができるの? 夢魔にとらわれちゃった人を助けるのに、どうしたらいいのよ?」
いつか、ルナリオンは生き返ろうと思っていた。生身の体でなければできないことが、あるかもしれなかったから。
「身体があれば、ね。子猫ちゃん」
「身体?」
モースは答えた。
「子猫ちゃんの場合は、夢魔導士の里に身体があるから……、そこまで戻れば、あとはうまくいくだろう」
まずは《大陸》に戻ること。そして夢魔導士の里への道を見つけだすこと。ルナリオンは心にとどめた。そんなに難しくはなさそうだ。ディルワースに戻る魔法陣が、ここにあるのだから。
それならば、まずできることを頑張ろう。ルナリオンは珍しくやる気を出していた。
「他の人の場合は……そうだな」
モースはつかの間考え込んだ。
「モモが食べた分の記憶はもう戻っている。分かるね? だからモモにとらえられた人を目覚めさせることはできるだろうね。モモが手を出していない人の場合は、夢のどこかをまださまよっているんだろう」
「夢のどこかを」
「それは僕よりも、子猫ちゃんたちのほうが専門じゃないのかな?」
ルナリオンはうなずいた。そうか。夢魔なき今、夢の世界を誰よりもよく知るのは、自分たち夢魔導士だ。
「わかった。あたし探しつづけるわ。そんでもって、さまよってる人たちもみんな助けることにする」
ルナリオンは、魔法陣に片足を踏み入れながら、ポケットから何かを放った。
「それ、返すわ。なんだか知らないけど、あたしには使えそうにないから」
かつてルナリオンが盗み出していた、虹色の小瓶だった。モースはそれを受け止め、ディルワースへと帰っていくルナリオンに手を振った。
がたがた。ゴゴゴゴゴゴゴゴ。
揺れはどんどんひどくなっていく。がくん、とついに地面が傾いた。
足に根が生えたようなシャッセをずるずると引きずって、コルムがモースの元にたどりついた。
「モース様、シャッセ姫ときたら、もう何を言っても返事をしてくれないんです」
いつものようなふくれ面ではなく、精気が抜けきったような、うつろな目のシャッセだ。
「やっぱり……ここに連れてくるのはよくなかったのかもしれません」
コルムは唇を噛んだ。多感な少女には荒っぽすぎたかもしれない。シャッセは、自分の両親があのような目にあったことを知らない。知らずにすませることができれば、そのほうが良かったかもしれなかった。
「時がたつにまかせたほうがいいかもしれないね」
コルムがモースの目を見る。
「薬や術で記憶を封印しても、いずれそれが明らかになったときのことを考えると……」
「今なら、思います。いっそ《白馬の君》にまつわる記憶だけを、夢魔とやらが食べていってくれたらよかったのにいと」
「とにかく、ディルワースにお戻り」
モースはふたりの髪をそっとなでた。
「ボーペルが待ってる。後のことは、ディルワースで考えようよ」
コルムは再びシャッセをずるずる引きずり、魔法陣をくぐった。シャッセは抵抗しなかった。
……人間を選んでいたから、《竜》を……。
リーフであり《白馬の君》だった青年が、最後に残した言葉。
シャッセにしかできないこと。
それは、ディルワースに戻ること。戻って生きていくこと。それから……?
「みんな、戻ったかな」
モースが肩で息をつきながら、周囲を見渡した。
地面が傾き、地割れが激しくなっている。荒野を引き裂く大地の力は、やがて魔法陣も引き裂いてしまうだろう。
「俺で最後だ」
「迷子ちゃん」
モースが顔をあげた。憮然とした表情のクーレルが立っている。モースは微笑んだ。
「ね。エシャンジュは、幸せだったんだよ」
「あんたは幸せじゃなかった」
「僕は……僕のことは、いいんだ」
「そういう態度は嫌いだ! あんたは何を望んでいた?」
クーレルは言葉を荒げた。モースは笑みを絶やさない。
「僕の望みはもう何もない。あの子の幸せを望むのは、他の子猫ちゃんにまかせることにするよ」
「だめだ、それじゃ!」
クーレルはモースの両肩をつかんで揺さぶった。
「ディルワースを取り巻く深い業は、アングワースの力と《竜の牙》の力で取り除くことができた。もうあんたを苦しめる物はないはずだ。あんただって、あんたの人生を生きていいんだ」
「迷子ちゃん」
「少なくとも、俺はそういう生き方を望む。みんなが幸せであること。等しく幸せを分かち合えること。誰かひとりが犠牲にたつんじゃなく」
師匠。よく言っていましたよね。めでたし、めでたしって。
みんなの幸せが一番だって。
がたん。がたがた……がくん。
二人の足元まで亀裂が走ってきた。次の揺れが来れば、魔法陣も崩れてしまうだろう。
「お行き。さあ早く」
「あんたと一緒だ」
「ふたりでくぐったら、誰が魔法陣を閉じるの?」
肩をつかむ手をそっと外し、モースはクーレルをそっと押した。
魔法陣の最後の輝きが、とまどう魔導操師を包み、消えた。
4.そして へ続く

第7章|万華鏡|モモ|竜の牙|そして|マスターより|