第4章|崩れゆく聖域砦への道不浄の果てと心の行方歪んだ天秤マスターより

1.崩れゆく聖域

■Scene:廃園〜変わらぬ朝

 ううん、とセレンディアが伸びをする。安らかに眠りに落ちたのは、ガジェット家の寝台を借りて以来だった。廃園を囲む木々の梢から、朝日がようやく顔を出しはじめる。まだ眠っている旅人たちを起こさぬように、間借りしている部屋の片隅から、そうっと抜け出すセレンディア。
 ちち、ちちち。最初の小鳥の鳴き声に顔をあげると、いつものように木の実がぽとりと落ちてきた。井戸の水で喉を潤し、ささやかな朝食をすませる。時が止まったかのような、平和な時間。生あるものが動き出す前の、影のような時間。
 オールフィシスに抱きしめられた感触がよみがえってきて、セレンディアは少しだけ笑った。そう、大切な人はいいにおいがするの。今、思い出した……。

 どこか陰のある彼女と、その妹たちの居場所として、ここはとても似合っている。
 夢を見ないオールフィシス。遠くを見ているオールフィシス。

■Scene:廃園〜色褪せぬ緑

 研究室を調べることにしたのは、ニクス・フローレンスとブリジット・チャロナーである。オールフィシスの了承を得て、自作した廃墟外観のスケッチと、廃園全体の見取り図を広げるトレジャーハンター。
「なんで精油のレシピを探しに行くのに、地図を広げてるんだよ?」
 ジャグ=ウィッチは、やれやれといった表情で突っ込みを入れた。ここまで行動をともにしてきた二人だが、ジャグは少女とともに過ごすことを選んだ。ブリジットは地図を前にして満面の笑みを浮かべている。
「決まってるじゃないの」
「「謎と、ロマン」」
「そうそう、わかってもらえて嬉しいわ。でも冗談抜きで、隠し通路とか隠し部屋とかあるかもしんないし」
 職業病、とブリジットは肩をすくめた。
「とにかくね、白薔薇の美女を救う勇者さまを探してあげたいの」
「勇者だって?」
「そうよ、ニクスさん。もしかして、あなたの役目かもね? なーんて」
 くすくすとブリジットが笑う。少女のように心を読めないニクスは、ただ訝るだけだ。

「ねぇ。目、そらさないのね今日は」
「なんだと」
 口をとがらせさまようジャグの視線が、ブリジットの胸元で焦点を結ぶ。いつもはまぶしく露出されているのだが、今日に限っては、ジャケットのボタンをきちんとかけてあった。
「あははー、やっぱり。ねえ、おっきい胸は嫌い?」
 彼が自分と話しているとき、いつもそっぽを向いてしまうのを、気にしていたのはブリジットのほうだった。 
「つるぺたが好みなの? あ! まさかそれで夢の少女を探してたとか? いいのよ照れなくて。あ、はしたないなんてお説教ならいらないからね。若いうちに見せなくていつ見せるのよ。でも好きなんだったら……」
 ちゃんと言ってくれたら、見たり触ったりもさせてあげるのに。
 そう続けようとしたブリジットは、真赤になったジャグの怖い顔に気づいて口を閉ざした。今にも手をあげそうだった。実際振りあげられた手は、彼自身の灰色の髪を、がさがさと乱暴に掻くにとどまった。
 ジャグは背を向け部屋を出た。一言だけ言い残して。
「……危なくなったら、すぐに呼べよ」
 外見だけならば彼らと変わらない魔道剣士が、ふたりのそんな様子を、懐かしげに眺めている。オールフィシスに感じた懐かしさではなく、置いてきたものを見つめる優しい視線だった。
 美女を救う勇者だって? これほど自分に不釣り合いな役もあるまい。愛する家族すら、遠い俺なのに。

■Scene:廃園〜一瞬の不可視


 アルティトとアルフェス・クロイツハールは、少女たちの部屋で遊ぶことに決めたようだ。時折くすぐったいような笑い声が漏れてくるところをみると、仲良くやれているらしい。声こそなけれど、そこにはセレンディアの姿もあった。
「エレイン君は、あっちには行かないのかね」
 鍛冶屋のイリス=レイドが、テーブルについたままのエレインに問い掛けた。彼は廃園の話を伝え聞き、エレインとアルフェスを追いかけたのだった。そして今、オールフィシスに温かく迎えられ、遠慮なく飲み物をご馳走になっている。
「行くもんですか。だいたいあの子たちが、あたしに懐くはずないもの」
 菫色の瞳がちらりとイリスを見、テーブルの上に組まれた無骨な手指に投げかけられ、そしてまた、ぷいと逸らされる。熱と火と焼けた金属を御する手と、ささやかな贈り物のことに一瞬エレインは思いを馳せ、すぐにまた、射るような目つきでオールフィシスをにらむ。
 その女性は、調査を申し出た人々と何事か話し込んでいる。
「……あの子たち、心を読めるらしいわ」
「その話は聞いたよ。ざっくりとだが」
 イリスは謎多きオールフィシスとじっくり話をしたかった。湧き上がる数々の疑問。そして、相変わらず鋭い、エレインの視線。
「だったら分かっちゃうじゃない。あたしのこと。そしたら好きになんて、なる訳ない」
 ふむ、とイリスは顎をさすり、立ち上がった。 
「オールフィシス殿はまだかかりそうだな。少し、アルフェス君と話をしてくるよ」
 エレインが見上げると、イリスの顔がはるか上にあった。
「奥にいるわ。……それとイリスさん」
 エレインも、テーブルに両手をついて立ち上がった。
「この間はありがとう」
 イリスは半分も年の違う少女に微笑んだ。
「なあに、気にするな」

 そして、アルフェスから話を聞き出したイリスは、ようやく合点がいった。
「預かりものだ」
 と神殿で受け取った小さな包みは、鍛冶の仕事の時にぴったりの、新品の手甲。
「一体誰から」
 訝るイリスに、イオは微笑んだ
「アルフェスから……ということに、なっているらしい」

 素直じゃない。いや、それとも素直なのか。彼女はまっすぐに感謝を表現することを知っているのだから。
「……やれやれ」
 きょとんとしているアルフェスに手を振って、イリスは苦笑しながらその部屋を後にした。

■Scene:廃園〜追憶


 少女たちの寝室は、小さいながらも居心地のいい部屋だった。冷たい石壁は柔らかく布で覆われ、居間の暖炉の熱が届くのか、ほんのりと暖かい。大きくてふかふかの寝台がふたつ並んでいた。一つは三人の少女たちの寝台。もうひとつはオールフィシスの寝台らしいが、今はソラが使っている。蒼白だった彼女の顔色も、ほんのりと血の気がさしてだいぶ良くなったように見えた。
 トワ、ミオ、ワカ。そしてソラ。
 四人の少女たちには名前こそあれど、外見は言うに及ばず所作までそっくりで、ほとんど見分けはつかない。彼女たちは皆、心から楽しげに笑いさんざめき、歌った。

「ララ、ラ……そうそう、上手だわ」
 歌唱術士アルティトは、少女たちに簡単な童謡を教えている。アルフェスも一緒に歌ったり、アルティトの高音域を真似ては少女たちの拍手を浴びていた。
「歌が大好きなんですねぇ」
「……ラララ、トゥルルルルル……」
「トゥルルル、ルルルル……」
 セレンディアは、かすかなトリルを見事に再現する。トリルはやがて、あの旋律へ変わる。
「そのメロディ!」
 すぐに気づいたアルティトが、声を合わせた。夢の中で、少女が歌っていた曲だ。アルフェスも加わり、少女たちも美しい和音を作り上げる。

 一緒に歌いながら、彼女たちは感じていた。
 聖なる和音の癒し手。かつてソラはそのように呼ばれていた。それが真実であること。すべての苦しみから解き放たれた、穢れのない音の調和。耳に心地よいその旋律は、聞く者の心を激しく揺さぶった。
「分かりました。この歌の意味が」
 歌いながら、アルフェスの目から涙がこぼれた。
「旋律と音階が、みなさんの、ことばなのですね」
 なぜ涙が流れるのだろう。なぜこんなに響くのだろう。不思議な力に、邪悪さは感じられなかった。とまどいだけが不安をかきたてる。
「心があるわ。この歌には」
 アルティトが少女の手を握る。その少女は、セレンディアの手を握った。温かい手のひらを伝わって、セレンディアの夢が目覚める。
 くらり。翻る幻影。かつて存在した記憶のかけら。

 ……緑の庭園。両親の影。
 時間が混じっている。セレンディアの紅い瞳からも、涙が一筋。

「rrrr.......rrllll..r..」
 自身も泣きそうな表情の、ミオ、あるいはトワ、ワカ、ソラ。
 旋律の中にある意識が伝わる。
(だいじょうぶ)
 優しい意識に、セレンディアは顔をあげた。握った手からそれを感じたアルティトも振り向いた。ミオの声? トワの、ワカの、ソラの、声?
「分かる……聞こえるわ」
 アルティトが目を閉じて呟いた。
 セレンディアは無言で手を握り返した。両親の影に、オールフィシスの姿が重なった。いいにおいのする、たいせつな、ひと。近くにいる。また会える。きっと。
「大丈夫って、どういうことですか?」
 アルフェスは、その意識のなかにあるとまどいを感じながら答えた。ばふ、と小さく鼻を鳴らしたアルフェスの子犬が、握りあった手を伝って歩く。ひょこひょことしっぽを振りながら。
 ああ、この力、この意識。アルフェスは思った。
 みなさんの中にある力。持ち主がもてあますほどの大きな力。外にだしてはいけないものかと思いましたけれど。
「やっぱりできないですね。みなさんの力を、押さえてしまうなんて」
 かぶりを振るアルフェス。

(だいじょうぶ、こころはわかちあえるの)
(くるしいこともつらいことも)
(ときのかなたに)
(わたしたちがあたえられるもの)
(それとも、わたしたちがもっていくもの)

■Scene:廃園地下〜過酷な慈悲


 オールフィシスとその妹たちが住まいに使っているのは、ほんの数部屋だった。廃墟と見えた石造りの建物は、氷山の一角にすぎないらしい。オールフィシスに案内されるままに扉を開くと、暗闇の中に細く続く下り階段が見えた。
「妹たちが迷い込むといけないので、いつもはこの扉は開けないように言っているんです。さ、どうぞ、こちらへ」
 オールフィシスが灯りを手にして、ニクスとブリジットを先導する。かつん、かつん。闇へ吸い込まれるように消える靴音は、ふたりの警戒心をかきたてた。

 荒く削りだされた石壁とは対照的に、ゆるやかな階段は同じ段差を守り、丁寧に作られている。ブリジットがかがんで見てみると、長い時を経た石段がそうであるように、大理石が足の形に磨り減っているのが分かった。ニクスの銀の篭手が、ほのかに灯りを映して輝いている。
「こりゃどこまで続いてるんだ?」
「そんなに深くはありませんよ」
 オールフィシスの言葉が終わらないうちに、灯りが小さな空間を照らし出した。長い間閉ざされていたと思しき扉が目の前に現れる。階段は、さらに下へと続いているようだ。
「おっ、ちょっと灯りを貸してくれ。あれは何だ?」
 ニクスが示した先には、小さくしつらえられた祠があった。ミゼルドの街中によく見られる、金の鍵の絵ではなく、薔薇の花らしき絵を描いた祠。
「やっぱり……ここはミゼルドとつながっているのね」
 ブリジットが感嘆の声をあげた。
「ミゼルドの地下迷宮にあるものと同じだもの。今はミゼルドを囲む丘になっているところまで、昔はきっと大きなひとつの街だったんだわ」
「まるで要塞だな」
 ニクスが相槌を打った。ミゼルドのような地形は守るに易い。古代は要衝だったと言われてもうなずける。その旨を述べると、ブリジットは首を振る。
「違うと思う……まだ予想だけど」
 トレジャーハンターの声は、ジャグとじゃれあっている時とはうってかわって沈んでいる。そのことを指摘しようものなら、どのような反論が返ってくるかはニクスにも想像がついたので、黙ってはいたが。

 オールフィシスが静かに扉を押し開けた。鈍い音とともに、古い研究室が現れた。こぢんまりした文机と、その周りを囲む本棚。静かな部屋で研究に没頭している男の幻影が、今にも見えそうである。
 机の上に灯りを置いたオールフィシスは、ぐるりと本棚を見渡して微笑んだ。
「ふふ。父のにおいがするような気がします」
「日誌があるぞ。ほら」
 ニクスが見つけたその棚には、同じ背表紙の、おびただしい量の日誌がきちんと並べられていた。
「少なくとも貴女の父は、すごく几帳面だったってことが分かるね」
 数字の若い一冊を手に取って、ぱらぱらと眺めるニクス。細かい記述の間には時折グラフが混じる。
「ふーむ、生育記録ってところか」
 青年はさらに数冊を抜き出し、小さな文字を追いかけた。表紙の裏の署名を辿る。
「お父さんの名前かい? この、ロジオンって」
 オールフィシスは誇らしげにうなずいた。

 一方ブリジットは奇妙な道具が並ぶ一角を、興味深げに調べていた。調理道具と実験器具のあいのこのようで、いろんな管があちこちに伸びている。丁寧にラベルの貼られた薬瓶は、幾段もの棚を占領していた。後で薬のことは、エレインに聞いてみるのもいいかもしれない、などと思う。
「これかなあ。精油を作る道具」
 ランプと管が一緒になったような硝子器具を見つけ、ブリジットは首をひねった。水栽培の花瓶のようにも見える。乾燥しきった瓶の底に付着しているのが、薔薇の花弁だろうか。
 また別の棚には、試験管が何十本も並んでいた。ひとつひとつに活けられた枝はかすかに棘を残しており、庭園の薔薇のものだと思われた。もちろんとっくに枯れたそれらは、ドライフラワーの域すら越えていたのだが。
「M……Mi、o」
 試験管のひとつに書かれた文字を読みとったブリジットは、ぎゅっと目をつぶる。そしてもう一度。何度見ても、そこに書かれていたのは、記号のような名前。あるいは、名前のような記号。

 評議会長の言葉が、ずっと彼女の脳裏にひっかかっていた。《三本足》。彼らは精油をそう称していた。用途はまあ想像がつくし、彼女もプロであるから、それこそ顔を赤らめたりなどしない。だがそのイメージは、オールフィシスやその「妹」たちの雰囲気とはかけ離れすぎていた。
「ねぇ、オールフィシスさん」
 はい、と女性が振り返る。
「あなたは、ロジオンさんの研究のことを……?」
「あまり詳しくはありません。歴史を修めていたということくらいしか。たしか、昔は神学者だったそうですが」
「おいおい、どう見てもこの部屋は実験室って感じなんだが」
 ニクスが様々な器具を顎で指した。史学や神学の研究に、こんな実験道具を使うとは思えない。
「ニクスの言うとおりね。それにこの研究室、思ってたよりすごく綺麗。何年も閉ざされてた研究室なんて、放置された薬品だの何だので、やばくなっちゃってるかと思ってた」
 ふう、と吐息混じりに顔をあげるブリジット。その瞳は、まっすぐオールフィシスを見つめる。
「オールフィシスさんも心が読めるの? だったらあたしの考えてること、分かる?」
「心が読めるなんて、そんな、そこまではっきりとは……」
 女性の顔の微笑みが、翳りに変わる。ニクスは事のなりゆきに眉をひそめた。
「ごめん、困らせるつもりはないの。精油のレシピはここにあった。たぶんこの通りに作れば、うまくいくと思う。でも」
 ブリジットは手元の帳面を弄ぶようにめくりながら言葉を続けた。ロジオンの残した実験記録の、最後の日付は十年前。精油は別の実験の途上に精製されたものだった。
 いや、実験なんて言葉はふさわしくないかもしれない。「父」の筆致は、日付を追うごとに迷い、うねり、苦しみ抜いている。精油は生活の糧を得るための手段にすぎなかったのだ。ブリジットの予想は当たっていた。重い帳面だった。
「まだ他にも、秘密があるんでしょう。オールフィシスさん、ずっと迷っている風に見えるもの。ねえ、オールフィシスさん。あなたが本当に欲しい宝物は何?」
「たからもの……」
 単語をなぞるオールフィシスに、ブリジットはうなずいた。
「そうよ。あたし、トレジャーハンターだもの。宝物を手にする手助けをしてあげたいの。誰でもみんな、その人だけの宝物を持っているはずなの。それが手元にあるか、まだ巡り会っていないか……その辺はそれぞれだけどね」
 黙りこくったままのオールフィシス。彼女の目の前まで近づいて、ブリジットはその顔をのぞき込んだ。
「口に出すのが怖いなら、先にあたしが調べてあげようか? そしたらあなたは、あたしのおせっかいに首を縦か横、どっちかに振るだけでよくなるでしょ?」
「私には、分からないのです」
 遠くを見つめながら、オールフィシスはそう言った。
「父が、何のために私を育てたのか。私たちはなぜ生きているのか……」

■Scene:廃園〜薔薇の陰


 ジャグは一身に視線を浴びていた。トワたちの熱いまなざしが、しゃがんで作業に没頭している彼の背中に注がれている。シャベルと網を両手に持ったままジャグが振り向くと、彼女たちはいっせいにころころと笑った。
「なんだよ、そんなに面白いか?」
 ころころころ。少女たちが楽しげに笑う。
「まったく……危機感ってものがないのかよ」
 ジャグは立ち上がり、背筋をのばした。腰ほどの背丈しかない少女たちが、わっとジャグにまとわりついた。
「お、おい! それは、危ないったら。こらっ」
 棒だの糸巻きだのロープだの。ジャグの商売道具を、少女たちが次々とおもちゃにし始める。
「トワ! ミオ! ワカ! ソラ! ええい、どれが誰だよ? じゃなくって、こらーっ」
 ジャグはせめても団長に一矢報いるべく、自前の道具たちを活用し、廃園の入り口にたくさんの仕掛けを作ったところだったのだ。罠師の得意とするところである。そしてさっそく、ずぼっという音が聞こえる。いやな予感に目をやると、少女のひとりが落とし穴の中からジャグを見上げては、ころころと笑っていた。白いワンピースは泥だらけだ。
「そりゃ遊ぶために掘ったんじゃないんだぜ」
 ずぼ。また向こうで、ひとり落ちている。ころころと、楽しそうに笑う少女たち。
 ぽい、とジャグはシャベルを投げ捨てた。
「廃園の外には出ていくなよ。まあ言わなくても、出られやしないみたいだけど。門のとこにも、罠を仕掛けてあるんだからな。おい、その小石は目印のために置いてあるんだから、持っていくなよ」
 少女たちはにこにこしながらうなずいて、薔薇の茂みで遊んでいる。ジャグはその場に腰を下ろした。目の高さが少女たちのそれと近くなる。見上げれば、茂みに切り取られた蒼穹が、変わらぬ青さで雲を流していく。
 この子たちは、どこまで自分の心を見ているんだろう。ハルハが来たらやっつけて追い返してやる、と思っていることぐらい、分かってくれてるんだろうか。
 土の匂いを吸い込みながら、ジャグはぼんやり考えた。
 ……いや、別に。トレジャーハンターの胸のことなんて、考えてないから。考えて、ないってば。
 律儀にジャグは、その想いをうち消し続ける。
「あ……赤い薔薇、みっけ」
 視線の先に、一輪だけ赤い薔薇が咲いている。
「赤いのなんて、なかったよなぁ、な? 白いのだって、数輪しか咲いてないし……返事くらいしてくれよ、なあ」
 少女たちは、茂みの中でにこにこと笑うばかり。

 結局のところハルハ本人は、廃園にはやってこなかった。彼の使いだという妙な二人組が来たものの、ソラを連れて行きはしなかった。ジャグの仕掛けたたくさんの罠は、少女たちの格好の遊び道具として、有効にその使命をまっとうした。

■Scene:廃園〜過ぎたる実り


 オールフィシスは、研究室のさらに奥の扉にふたりを案内した。
「薔薇だわ」
 ブリジットが気づいたそれは、黒い扉にはめこまれた白い薔薇だ。
「そっくり同じものが、ミゼルドの地下迷宮の中で見つかったって聞いてるわ」
 独り言のような彼女の言葉に、声もなくニクスはうなずいた。先ほどから、ニクスは籠手の異変に気づいていた。びりびりと震える感覚が、右腕から伝わってくるのだ。
「古い力が息づいているみたいだな」
 籠手の銀色が、ほのかに脈打ったような気がした。扉に手を滑らせて、そのつややかな感触を楽しみながらブリジットは続けた。
「千年以上前に、ここには、薔薇を象徴として栄えた街があったのね………どうして滅びたのかしら。《愁いの砦》に罰せられて、存在を消されてしまうような事件があった? それとも、何か大きな災いが起こって、地下迷宮に眠る《風霜の茨》がその人柱となって災いを封じ、《愁いの砦》がその封印を守るために自らの砦で街を覆い隠したのかしら。どっちにしろ、神々がまだ《大陸》を去る前の神話の時代のこと」
 廃園が《ミゼルの庭》で、オールフィシスが園丁ならば、その主が存在するはずだ。あの少女たちは、はるか神話時代にまで遡る最後の残照。街が滅んだのなら、もう庭を守る必要なんてないはずなのに、それでもオールフィシスがこの庭に留まり続ける理由があるならば。
 確信を持ってブリジットは問う。
「ここに、あるの?」
 オールフィシスは微笑む。変わらぬ笑みもどこか淋しげだと、ニクスは思った。
「それとも、いるの、かしら? ロジオンさんが守ろうとしたもの。そしてたぶん、バウトさんも守ろうとしたもの……」
 オールフィシスは静かに背を向け、黒い扉に触れた。白い薔薇の紋が、淡い光を放ちながら赤く染まる。扉が開け放たれた。

 何重にも織り重なった茨の茂み。その枝の色がまず飛び込んできた。蔦の絡まる堅牢な空間。湿った土の、穏やかな香り。白くて大きな丸い実が、三つだけ実っている。
「ほら、おいでなさい」
 オールフィシスが手を広げると、丸い実はするするとほぐれだし、中身をそっと差し出した。
 実とみえたものが花のつぼみであることに、ふたりは気づいた。つぼみから生まれたのは赤ん坊だ。
「もうこの庭には、つぼみをつける力はないと思っていました」
 赤ん坊を両手に抱いて、オールフィシスが微笑んだ。赤ん坊は泣きもせず、オールフィシスの黒髪をもてあそんで笑う。つぼみから生まれ落ちた時には、葉の緑色をしていた赤子の髪も、しばらくすると次第に黒く変わっていった。
「薔薇の精なのか」
 ひとりをニクスが抱き上げた。幼子がにこにこ微笑むのを見て、ニクスは失われた時に涙した。
「このあたりでは昔、たくさんの人間が血を流し、死んでいったそうです」
 オールフィシスはそんなニクスを見つめて言った。
「だからでしょうか、人の血を受けて咲く薔薇は、人の想いを映して咲くのです」

■Scene:廃園〜花の冠


 新たに「妹」が増えたのを見て、当然彼らは驚いた。
「それはいったい、どういうことなのかね? 夢を見る人間が増えたから、妹さんも数を増やしたのかね?」
「いいえ」
 イリスの問いに、微笑みながらオールフィシスが答える。
「逆なのです。この子たちを目覚めさせたのは、きっと……セレンディアの祈りです」
「セレンディア? あの、両親を捜してるとかいうお嬢さんが?」
 イリスは目を細める。少女の姿は、ここにはなかった。両親の手がかりを探しに行っているのだろうか。
「あるべきようにと祈った彼女に、庭が応えたのです」
「あんたがたは、一体……」
「神殿を追われたロジオン氏は、あなたがたをこう呼んだ。マンドラゴラ、と」
 オールフィシスの代わりに、魔道剣士が答えた。イリスは目を瞠る。ニクスの腕の籠手が、まばゆい輝きを放っているのが見て取れた。名のある品か、かなり強力な魔法がかかっているように見えた。
「マンドラゴラ?」
「私たちは人ではないのです……エレインの言葉には、何も返せませんでしたけど」
 オールフィシスはイリスに語る。父ロジオンが、この地に咲く薔薇の精たちに命と名前を与えたこと。バウトはそれを知っていて、何かと手助けしてくれていること。
「バウトが。なるほど、そうであったか。ならばあなたがたも、協力者を得て不自由なく暮らしていたと、そういうわけかね」
 小さくうなずくオールフィシス。
「私たちはこの場所を離れては生きていけないのです。ただひとつ、心から通い合える相手を見つけた時以外には」
 イリスの脳裏に、弱々しくくずおれたソラの姿が浮かび上がった。今はもう回復した彼女は、他の姉妹たちと一緒になって、楽しく遊んで回っている。
「だが、団長はソラを置いてはいかんだろう。どうされるつもりだね?」
 癒しの歌姫として舞台にたつのと、こうして姉妹と一緒にいるのと、果たしてどちらが幸せなのか。イリスには自明に思えた。
「ソラに選ばせるしかありません」
 オールフィシスの後ろから、白いワンピースを泥だらけに汚したソラが顔を出した。その唇から洩れる旋律が言葉なのだと、今は分かる。彼女はこう訴えていた。
(例え傷ついても、ハルハと一緒に行きたい。だってハルハは、私が必要だっていうのだから)
「ハルハが、あんたの思ってるような人間じゃないとしても、かね。お嬢さん」
 ソラは頭を振った。
(信じない。ハルハは悪くない。悪いことをしてるのなら、救ってあげたいの)

第5章へ続く


第4章|崩れゆく聖域砦への道不浄の果てと心の行方歪んだ天秤マスターより