第4章|崩れゆく聖域砦への道不浄の果てと心の行方歪んだ天秤マスターより

4.歪んだ天秤


■Scene:最大多数の最大幸福


「落ち着こう……落ち着かなきゃ」
 咳き込みながら、ミュシャは自分自身に言い聞かせた。会長たちが奴隷市を催しているという事実は、彼にひどく衝撃を与えていた。
 自分の部屋でひとりになって、こみ上げてくるむかむかを幾度か吐き出した後、ようやくミュシャは自分を取り戻した。
 アーサーさんとアルテスさんは、すんでのところで助け出すことができた。でもまだあの地下には、人形にされた人々が何十人も眠っている。きっとどこかでさらわれてきた、身寄りのない人間たち。もしかしたら、あそこで木箱に入っているのは、自分だったかもしれない。
 身寄りのない自分と、人形にされてしまった誰か。運以外に、どこに違いがあるだろう?
 ふと思い出される、セレンディアの細い四肢。彼女が人形に変えられる光景を一瞬想像し、またミュシャは吐き気と戦った。
「お頭にも、声がかかってるのかな。だとしたら……」
 自分も売られていたかもしれない。悪い方向へ転がりかける予想を、一生懸命うち消しながら、ミュシャは小さな机の引き出しをあさった。ごちゃごちゃ詰め込まれているのは、この屋根裏でパン屋の世話になるようになって以来ためこんだ、大切ながらくたの類だ。
 色硝子玉。白い鳥の羽。くすねた財布に入っていた異国の金貨。初めて大市で買ったのに、渡せなかったブローチ。
「よいしょ」
 ようやく引っ張り出したペンを握って、ミュシャは手紙を書いた。盗賊団《山猫》のお頭に宛てた手紙に、自分の疑問のすべてをぶつける。
「お頭だったらきっと知ってる。何が起きてるのか……どうすればいいのかも」
 見極めて決めるのは、結局ミュシャ自身にすぎない。それでも足りない情報を補えることを期待して、彼は手紙を書きつづる。
 一度手紙を読み返し、迷った末、最後に一行だけ書き足した。
「もしも、女の子を連れて逃げた戦士に心当たりがあるなら、それについても教えてください……山猫の忠実なる鼠、ミュシャ」
 開け放たれた窓から、白い伝書鳩がまっすぐに飛び立った。
 窓の桟に手をついて見送ると、ミュシャはいつものバンダナを取り出し、きつく巻いた。木のパチンコをベルトに挟む。
 もう泣かない。
 今ミゼルドで僕が果たす役目があるならば、やらなくちゃ。

■Scene:評議会〜いまひとたびの


 ユズィル・クロイアは、顔が割れていないことを利用して、奴隷市に関する情報を集めにまわっていた。目をつけたのは、評議会でナンバー2の地位にいる宝石商だ。口が滑らかになるような商品をいくつか用意すると、彼女はその宝石商に面会を申し込んだ。
 ごてごてと貴石で飾り立てた、厚化粧のご婦人がユズィルをもてなす。おかまの会長に比べれば、ユズィルの商売相手としては申し分ないほど普通の人種に見える。 
「それで、ご用というのは?」
「偶然手に入ったこちらの品をご覧にいれたくてね。登録証なら持ってるよ」
 商談を装いながら、ユズィルは注意深く宝石商の様子を観察する。
「なんてことのない石たちね。粒も大きいし、綺麗だけど」
「大市で店を出すだけじゃ、買いたたかれるのが落ちだったんでね。価値の分かる人に見てもらいたかったんだが、お眼鏡にはかなわないようだね。今度は出店じゃなくて、競りにでも出ようか……たしか、大きな競りが近々あるそうだと聞いたけど」
 あら、と宝石商は顔をあげ、残念そうに首を振った。
「競りはこの間終わってしまったわ」
「せっかくの休息日にも、なしかい?」 
「そのための休息日だもの。ただ、街の旅籠はどこもいっぱいらしいという噂。休息日に商売したいなら、旅籠の店主にでもなることね」
 軽口をたたきながら、厚化粧の老婦人は宝石を吟味する。
「そうかい、残念なこった。また来年出直すとするよ」
 肩をすくめるユズィル。旅籠が満員だって? そこら中から奴隷市に参加する奴らが集まってるってわけかい。こりゃ財布の紐はきつくしておかないと、ミュシャみたいに可愛い奴ならまだしも、ろくでもないのに絡まれると面倒そうだ。
「それと聞きたいんだが、この街の会長って奴らは、どうしてあんなに羽振りがいいんだろうね? 商売の秘訣を知ってるのかね?」
 だとしたら教えて欲しいものだ、と水を向ける。
「何でも彼らの先祖が、その昔、荒れ果てた遺跡にすぎないミゼルドを再建したんだ、なんて噂もあるわ」
 ユズィルはきらりと目を光らせた。
「だからもう、私も成功しているほうだとは思うけど……街の作り主にはどうあっても、勝てるわけないわよ、ね」
「もしも勝てたら? もしも取引税を会長より多く収めることができて、ミゼルドを思い通りにできるとなったら?」
 たたみかけるユズィル。そうなのだ。この街の決めごとは単純で、一見平等だ。誰にでもその気になりさえすれば、会長よりも上になることは可能なのだ。
「そうねぇ」
 しわの寄った指先を頬に添えて、宝石商は夢見るように呟いた。
「決まりをひとつだけ、新しく作ろうかしら」
「へぇ、どんな?」
 宝石商はいたずらっぽく笑いかけた。
「おかまは禁止って……だってどう考えても、美しくないじゃない?」

■Scene:廃屋〜勇気の報酬


 アーサー・ルルクとアルテス・リゼットは、何としても会長に一矢報いるべく、例の小屋の地下へ再び潜っていた。ミュシャとルドルフも一緒である。
「ルドルフ、さん……この間はありがとう。助けにきてくれて」
 ミュシャはお礼をずっと言いたかったのだ。
「あが……がは、ふふふ」
 ルドルフはぼりぼりと頭を掻く。なぜお礼を言われたのか、昔のことは覚えていなかったけれど、何だか照れくさい。
「ルドルフさん?」
 少年ははるか上にあるルドルフの顔を見上げた。はじめは怯えるほど恐ろしかった形相だが、今はどこか嬉しそうに見える。
「どうして笑ってるの?」
 ミュシャに力を貸してくれと言われた時も、ルドルフはへらへらしながら少年の後についてきた。
「が……ぞの……」
 ルドルフは小さなミュシャを見下ろし、にっと乱杭歯をむき出した。
「おで、ごごではじゃまものに、されない。ミュシャ、だよりにじで、ぐれる。おでのごと」
「うん。だってルドルフさん、とっても強いんだもん」
「へへ、ぐふふ。だれかた、たよりにしでくれる。おで、しあわぜ」
 困っている人の、助けになりなさい。恩人の言葉がルドルフを解き放ったのは、もうずいぶん前のことになる。自分の足にはめられたままの枷や、引きずり続ける鎖も、今日は存在を忘れるほど軽かった。
 ミュシャは自分のひとことが、そこまでルドルフを変えたとは知るよしもない。

「見張りはいないみたいだよ。会長たち、すっかり安心しきってるんだろうな」
 あたりに注意を払っていたアーサーは、そう言った。
「よもやこっちが逃げおおせたとは、思っているまい。今がチャンスかもしれない」
「ええ」
 いつもより心なしか地味目の服装をしているアルテスは、装身具じゃらじゃらでは目立ちすぎると思い、変装したつもりである。
 四人は誰にも邪魔されることなく、小屋の地下へと潜り込むことができた。
 木箱の横を縫って、アルテスは気になる壁に触れてみる。
「やっぱり怪しい。埋め直してあるってことは、どこかへ続いてるってことですよね」
「そうだねえ。奴隷市の時に、またこの木箱を運んでいくのは大変だろうから、どこか競りの会場につながってるんじゃないかな」
「ルドルフさんに、この壁壊してもらう?」
「大丈夫ですよ、ミュシャさん。これくらいなら僕の魔法でいけそうですし」
 アルテスは壁に手をあて、指輪のひとつをくるりと回す。
「《爆破》」
 くぐもった爆音とともに、石壁に大きくひびわれが生まれる。強く押すとがらがらと土砂が崩れて、奥に続く空間を見せた。
「すごいや!」
 ミュシャが横からのぞき込む。土砂はぱらぱらと音をたて、ずっと先の方まで転がり落ちていくようだった。
「わ、かなり深そう」
「行ってみましょう。人形になった人たちの手がかりがあるといいんですけど」
 アルテスが魔法で光を灯す。彼らはさらに深い場所へと降りていった。

 壁の向こう側は、滑らかな急斜面になっていた。つまり。
「うわっ滑る!」
「ひゃー!」
「おっと」
「うごぁっ!」
 彼らは団子状になり、斜面を滑り落ちていったのだった。

■Scene:地下〜釣り合い続ける天秤


 派手な音を立てながら転がる四人。野性の運動能力に長けたルドルフが、一番早く体勢を立て直して残りの三人をうまくつかむ。彼らは激突することもなく、最深部へと到着した。着地場所には、柔らかなクッションが敷き詰めてあった。
「なるほどね。これなら余計な人足もいらないわけだ」
 アーサーは、立ち上がるミュシャに手を差し伸べながら、あたりを見渡した。
「手抜きの方法を考えさせたら、もしかして会長たちが《大陸》一かもしれないね」
「変なところで感心してないでくださいよ、アーサーさん」
「別に肩入れしてる訳じゃないよ。彼らは商売人でもなければ、盗賊ですらない」
 盗賊と聞いて、ミュシャの背がしゃきっと伸びた。ルドルフがその真似をして、危うく天井に頭をぶつけそうになる。
「いずれ告発すべき相手だ。奴隷市なんてぶちこわしてやりたいよ」
「ここが競りの会場になるなら、先回りできるかもしれませんね」
 アーサーは灯した光をあちこちに掲げる。そこは石造りの建物の一部と見えた。ルドルフの鼻には、メルダとともに潜った地下迷宮でかいだ臭いと同じ空気が感じられた。さほど広くない無機質な部屋。上から落とされた木箱はここで拾われ、並べられて競りの番を待つのだろう。
「あ……は、はな」
「花? あれのこと?」
 ミュシャが見上げた柱の先に、薔薇の紋が描かれた祠が映る。
「あれ、あっだ。地下に、1、2、だくさん……」
「どこかにつながってるんだね」
 古びた時間、静寂が支配する空間。声をかわしているのは、今ここにいる四人だけだ。まるで他の者の気配が感じられない。
「行ってみよう」
 アルテスの言葉に、ルドルフが先に立って歩き出した。通路が先へと続いている。巨漢の後ろを、パチンコを片手に構えたミュシャが、おずおずとついていく。
「《精秘薬商会》にでもつながってたら、便利なんだけどなあ」
 ひとりごちるアルテス。姿が見えないというバウトのことが不意に思い出されて、妙に心配になる。

 やがて通路は、円形に広がる大広間へと一行を導いた。急に視界が開け、ルドルフはようやく背をかがめなくとも歩ける場所へ出たことを喜んだ。天井ははるか頭上にあり、広間の周囲は、すり鉢場に段差のついた壁に囲まれている。
「地下なのは間違いないですが……ここはどこなんだろう?」
 アルテスが、魔法の光を彼方まで飛ばす。円周に沿って、今出てきたのと同じような大きさの通路が口を開けている。ルドルフが以前、動く死体と戦った場所に、ここはとてもよく似ていた。ざりざり。足元の感触は、石床ではなく、砂だ。
「広いなぁ……」
 アルテスが光を呼び戻す。広場の中央と見えた場所に何かが見えた。
 アーサーが素早く武器を構える。アルテスはそこへ光を急がせた。
「アーサーさん、違います。これは生き物じゃなくて……ただの物、みたいです」
「ただの物? これがかい?」
 彼らはゆっくりとそれに近づいた。それが何か、ルドルフには分からなかったけれども、他の者はすぐに理解した。
 広場に黒々と偉容を誇るそれは、黒光りする刃をそなえた断頭台だった。
「う、うわあああ、あああ……」
 転がりすさったミュシャの喉から、かすれた悲鳴が洩れる。
 その響きはぞっとするようなこだまとともに、静寂に拡散した。
「ここは……」
 アーサーとアルテスが振り返る。断頭台からは、周囲がよく見渡せた。
「古代の競技場、というところかな」
 ざり。アーサーのつまさきが砂を蹴る。
「競技場? ここが? ミゼルドの地下が?」
 はるか昔、おぞましい見せ物が行われたことを想像し、アルテスも大きく咳き込んだ。アーサーはやりきれない思いで、彼の背をそっとさする。
 ルドルフだけは変わらず、うろうろと辺りのにおいをかいだり、壁に耳をつけては悦に入ったりしている。
「もう少し調べてみよう。他にも通路があるし……」
 アーサーは言葉の途中で息を飲んだ。

 黒い影が、ほのかにゆらめきながら、形を取っている。弱々しくすすり泣くような声で叫ぶのが聞こえる。
「う……うがあ、ぐぐ」
 ルドルフが影に気づいても、その様子を変えないことに気づいたアーサーは、武器を構えることはせずに様子を見守る。
「私たちは、敵じゃない」
 黒い影はゆっくりと歩み寄る。
「が、かげ、ないでる」
『我らは、入砦を許されなかった……我らの砦は、大いなる砦により隠されてしまった』
「な、なんだって」
 アルテスの身体の中を、黒い影が通り過ぎる。ゆっくりと、冷気が身体の芯を冷やしていく。
『我らに救いを。不義なる約束に倒れた女神に、どうか救いを。安らかな眠りを』
「不義なる約束」
 アーサーは振り向き、通り行く影を見つめた。
 影はゆっくりと断頭台へ近づき、その上でかき消すようにいなくなった。
「や、やぐぞぐ」
 ルドルフが繰り返す。
「やぐぞぐは、だいじ。やぐぞぐ、まもらない、だめ」
 アーサーを見て、彼は笑った。怖いものなどないように。 

■Scene:評議所〜商売魂


「媚薬を売りに来た? そう、いいわよ通して。仕事も一段落つきそうだから」
 会長室を再び訪れたユズィルは、覚悟を決めていた。
「ええと、アナタ前に見たことあったかしら」
 案の定、会長たちは自分のことなどちっとも覚えてないらしい。こっちはその面、毎度拝んでるんだけどね、と心の中で呟くユズィルの顔は、商売用の微笑みが貼り付けられている。
「若い男性によく効く媚薬だなんて、ホントにそんなすごいもの、持ってきてくれたわけ?」
「ええまあ。会長のために手を尽くして入手した品で」
 これみよがしに、小さな香水瓶を取り出して見せるユズィル。
「見せて見せて」
「ちょっと押さないでオッジ。早く嗅がせなさいよ」
「まあまあ、これは目薬なんですよ」
 突進してくる猛牛を押さえるような気持ちで、ユズィルは会長たちの鼻息を押しとどめる。手にした瓶の中身は、もちろんただの目薬だ。
「それでご相談なんですが、もしこの品が気に入っていただければ……」
「「せっかくだもの、もちろん試させてもらうわよ」」
 まさか、こんなあっさりいくなんて。恐るべし魔法の言葉、若い男性。
「……そりゃ結構。で、うちのお頭が、今度の休息日にぜひ招待して欲しいと、こう言ってるわけなんですが」
 ふっと会長たちの目が、猛禽のように変わったのに気づき、実は汗だくのユズィルだ。
「アンタとこのお頭って、若い男?」
 ……なんだ、そっちか。
「残念ながら女ですが、いかがでしょうかね」
 結局会長たちは、ユズィルの組織の名前を尋ね、満足したのか合図の印を投げてよこした。
「《黒輪》のユズね。当日はこれを見せるのよ。あと、できれば見目よい若い子がいたら、連れてきてって言っておいてちょうだい」
「そりゃもちろん」
 ユズィルは受け取った印を観察した。何の変哲もない、薔薇をかたどった印章だ。
「ハルハ団長さまは、おいでになるのかい? いや、お頭がファンなんでね」
「来るわよ」
 会長があっさりと答えた。
「ハルハが来なくちゃ、ただの市だもの。当たり前でしょう」
「アンタのお頭に言っておくといいわ。ハルハは難しいわよ。落とすのは大変なんだから」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。あまりの不気味さに、ユズィルの気分が一気に悪化する。
「こうして毎年大市が開けるのも、みんなハルハや、そのじいさま、ひいひいじいさまのおかげ」
「くれぐれも粗相はしちゃダメよ。手土産を持っていくなら、彼のお気に入りを教えてあげる」
 ユズィルがうなずく。ハルハと敵対する可能性があるならば、手の内は出来る限り聞き出しておいた方がいい。
「彼は蒐集家なの。人ならざるものの命を集める、ね」
 耳を疑ったのかと、ユズィルは思った。彼女が理解するより早く、会長たちの言葉が耳を過ぎていく。
 ……貴重な種を手元に置いて、眺めるのが好きなのよ。分かるでしょ? ホラ……きれいな美少年を並べて、その前でワインを飲んだりするような……。

■Scene:地下〜明日への序曲


 ミュシャが回復するのを待って、彼らは探索を続けた。予想通り、通路の一方の先はどうやら評議所へとつながっていることが分かった。休息日へ向けて、ある程度荷物がすでに運び込まれていたからである。雑多に積み上げられた荷物の中には、当日の進行予定や競売品までも書き連ねた香盤までもあったのだ。
「これはもらっていきましょう。人形にされた人の身元も分かりそうですし」
 ぱらぱらと香盤を繰るアルテス。
 会長の舞台挨拶に始まり、来賓挨拶、正当な取引の宣誓、なぜか乾杯の音頭などという項目もあり、当日を想像すると頭が痛くなってくる。
「何なんでしょうね、このノリは」
「学芸会みたいだな。人として間違ってる」
「普通の人じゃないのは、分かってましたけどね」
 がくりとアルテスの肩が落ちた。
「問題は、どうやってぶちこわしにするか、なんだね」
 アーサーが首をひねる。
 証拠の香盤を手に入れた一行は、ミゼルド神殿へ報告することに決め、地上へと戻る。
 廃屋から外へ出ると、待っていたかのように白い鳩がやって来た。ふわりと舞うように頭上を一周し、鳩はミュシャの肩へととまる。足にくくりつけられた返事を、すぐにミュシャはほどいて読んだ。
「と……とり」
 ルドルフがつかまえようと手を伸ばす。からかうように鳩は舞い、密林のようなルドルフの頭にちょこんと降りた。
「何だかいいにおいがするなあ。林檎みたい」
 ミュシャの鼻腔を、爽やかな香りがくすぐった。手紙に林檎の香がつけられているらしい。どういう趣味なんだよ、とツッコミを入れたくなるのを我慢する。
 《山猫》からの返事によれば、お頭はすでに、招きに応じてミゼルドへ向かっているらしい。帰りにでもミュシャの顔を見たがっていたということ。また彼らは奴隷市に興味があるというよりも、横のつながり上顔を見せにいくらしいことに、少しミュシャはほっとした。
 だが、セレンディアのことはどうすればいいのだろう?
 ……街道を行く荷馬車を襲った時に、奇妙な宝箱を拾った。鍵穴はどこにもなく、鎖でがんじがらめに縛られてた妙な箱。お頭は大喜びで開けたもんさ。その時の顔ったらなかったぜ。今でも笑い話で持ち出すくらいだ。
 ……その箱の中身は女の子だった。しばらく連れて育てたが、それ以来変なことばかり起こるようになった。変な連中がうろつくようになったりな。しまいにゃひとりが裏切って、その子をさらって逃げたんだ。たしか……セレンとか、そんな名前だった。この前、その子の保護者みたいな二人組がうちに泊まっていったけど、お頭、そんな子ども知らねぇって、ありゃ忘れてただけだろうなあ……。
「お頭ぁ」
 ミュシャは思わず嘆いた。林檎の香りは、二人組が宿泊代として置いていった香水によるものだったことを、後になって彼は知る。
 
「奴隷市!?」
 ひそめた声で、それでも怒りをあらわにしたまま、イオは拳を握りしめた。
「何故だ? 何故彼らは、今ある富では満足することができないのだ? スラムには住む場所すら追われた人々がたくさんいるというのに」
「証拠はあるのですよ。会長との会話を記録した魔法の指輪もあるし、この香盤だってある」
 アーサーは、机の上に置かれたそれらを見やる。
「もうこれ以上、見過ごしているわけにはいかない。貴い命を売買するなどもってのほかだ。神殿の力は大したものではないが、それでも動けば役には立つだろう」
「ありがとうございます、イオさん」
 傷つく人はできるだけ少ないほうがいい。会長たちとハルハ団長。そう主張するアーサーは腕を組む。
 だが今はまだ、どのようにして彼らの目論見を破ればよいのか、イオにもそのすべは浮かばない。

第5章へ続く


第4章|崩れゆく聖域砦への道不浄の果てと心の行方歪んだ天秤マスターより