第4章|崩れゆく聖域砦への道不浄の果てと心の行方歪んだ天秤マスターより

3.不浄の果てと心の行方

■Scene:仔犬の人形


 重苦しい空気が満ちていた。精霊使いライ・レーエンベルクの目には、風の精霊がのたのたとうねっているのが見える。旅人スイはライと一緒に、ラフィオ・アルバトロイヤの話を聞いたところだった。
「ノヴァちゃんって《竜》だったんですねぇ。もしかしてもしかしたら、そうかも〜なんて、思ってはいましたが」
「……いたんだ、りゅう」
 落胆している友人を眼前にして、スイのスイたるゆるい笑みもない。
 うなだれたまま、ラフィオは呟いた。
「僕の家は代々《竜》と一緒に暮らしてる。そういえば団長は、アルバトロイヤ家の名前も知っていたみたいだった」
 男性とみると噛み付くノヴァ。だがあの時に限っては大人しかった。団長は不思議な力を持っている。ノヴァの口に丸薬が押し込まれる光景が、青年の脳裏にひらめいては消える。
「大変大変。なんとかしないと、ですよね」
 長衣のどこからかぬいぐるみを取り出して、ラフィオをよしよしとなぐさめながらスイが言った。
「ノヴァちゃんを取り返すお手伝い、惜しみなーくさせていただきましょ。ね、ライさん?」
「ん」
 こく、と空色ローブの少年がうなずいた。

 ラフィオがノヴァを探す時間をつくるために、まずスイとライが団長を呼び出すことにする。ソラの代わりに、ノヴァをもらう。ハルハはそう言っていたらしい。ならば……。

■Scene:喫茶〜砂の時計


「また君たちか。よっぽど我々のサーカスを気に入ってくれたんだね?」
 気を悪くした風でもなく、ハルハはいつもの白い礼服姿でやってきた。
 この方、私と踊り子さんたちの素敵な夜のことは、ご存知ないんですよねぇ。そう考えると面白かった。舞台で口上を述べる彼も見ているが、その時も今も、ハルハが恐ろしい人間には見えない。だが、踊り子たちが嘘をついていないのは明らかだ。
「人を見る目は、あるつもりなんですけどねー」
「何」
 ライが奇妙な目つきで彼の黒髪を引っ張った。
「っと、ところで団長さん。歌姫ソラちゃんのことなんですけどもね」
「ご執心だね」
「……休養中なんて、ご冗談ばっかり。いなくなっちゃったんでしょう?」
 スイが単刀直入に切り出した。ライもその場に居合わせていたが、この前ばれなかったのを開き直って普通にしている。彼にも疑問はまだあった。
「間違いじゃないさ。こう言ったほうがいいかい? 静養中だ、と」
 ハルハは顔色ひとつ変えない。
「いつになったらわたし、ソラちゃんの歌を聞くことができるのかなって。もう待ちきれないんですよ。噂の聖なる和音、ぜひお聞きしたい」
 聞けば価値がわかる。それはどのような歌なのか。
「ですからね、直接会いに行っても、かまいませんよね」
 ハルハの目が細められた。例えばその目は、飼い猫がつま先にじゃれるのを見ているような目。
「それで会ってみて、もしもお元気だったら、一曲歌っていただいて、そして一緒に手をつないで帰ってきますよ。もちろんお疲れでしたら、も少しお休みしていただくことになっちゃいますけど。どうです?」
「なかなか面白いね」
 本当に面白そうに、ハルハは答えた。ライには、今のやりとりのどこが面白かったのか、さっぱりわからなかった。
「でもスイ、もしソラが君のことを気に入らなかったら? 一緒に帰りたくないなんて、だだをこねたりしたら?」
 今度はスイが、くすりと笑って得意げに答えた。
「そりゃあもう、女性の扱いなら任せてくださいな」

「意味、わからない。ね」
 ライがまた、スイの黒髪を握り締めた。少し頬を膨らませて、スイのかたちのよい顔を見上げる。ふたりの会話がどんどん自分から遠ざかっていくようで、少しだけ、不安になる。兄がいなくなった時のように。
「いいんですよ、ライさん。団長さんはね、たぶん私たちのことを試しているだけですから。そうでしょう?」
「そうかもしれないな、スイ。上手いことを言う」
 のどかな日のあたる窓際の席で、ハルハは楽しげにカップに口をつけた。
「さすがだね。あなたのその伏せられた目に、僕はどのように映っているのかな」
「さあ」
「禁断の砂漠を出て、流離っているのだろう?」
「どうでしょう? その話は、また今度」
 はぐらかすように、スイはゆるく微笑んだ。
「どのように映せばご満足いただけるのやら。私には分かりませんねえ」
 たぶん、この人は退屈してるんですね。私とおんなじように。だから私みたいなのを見つけて、問答みたいなので、紛らわしてるんですかね。
「まあでも、ですね」
 スイは自分のカップをしっかり干して、言う。
「残念ながら、貴方は綺麗なお嬢さんでもなんでもないんだから、旅に誘ったりは、しないんですねぇ私」
「だから、何ー」
 ライの頬が、げっ歯類のそれのように丸くなる。

■Scene:旅団〜支配された報復


 団長が不在の時を狙って、ラフィオは静かに彼のテントへ忍び込んだ。華やかな夜の舞台とは対照的に、昼間のサーカスは時を止めたかのように静まり返っている。
 ラフィオは三男坊だった。格式ある家は兄が継ぎ、自身はお気楽に《大陸》を旅して回る。《竜》を研究することが、彼の旅の目的だ。そしてそれはつまり、自分が《竜》使いアルバトロイヤ家の人間であり、傍らにいつも愛するノヴァがいたからこその、目的だった。ノヴァの誕生の瞬間を目にして以来、離れた事だって一度もなかった。
 ……それなのに。
 ぐるぐるとこみ上げる怒りに、ともすれば乱暴に震える身体を必死で押さえるラフィオ。
 団長のテントは他のものより豪華に、細かい縫い取りのある厚地の布がかぶせられていた。早く、探し出さないと。
「ノヴァ、どこだい?」
 おずおずとラフィオは声をかけた。
 テントの中には、扇の形の寝台がしつらえてあった。寝台を取り囲むように、いろんな小道具だかがらくただかが積み上げられている。サーカス公演日を示したカレンダーの、休息日の欄には何やら印がつけられていた。
「ずいぶん物が多いんだなあ」
 その雑多さは、旅芸人の仮住まいというより、秘密の研究室を思わせた。引出しや柳行李を片っ端から覗いてみる。目にした大半は、何に使うのかわからない品々だった。
 小さな測定器。氷のような薄硝子の板。蛍石。ふらふらと定まらない磁針。つやつや光る糸巻き。上下運動を繰り返すからくり小猿。
「ノヴァ? 僕だよ、ラフィオだよ」
 泡立つ石。ねっとりした液体を湛えた小瓶。ちかちか火花を閉じ込めた球体。
「ノヴァ……ノヴァーリーストレティア」
 ふと、寝台の傍らに投げ出された大きな旅行鞄が目に付いた。
 精緻な彫刻を施された真鍮の持ち手。鈍く光る留め金。四隅の鋲は、使い込まれた革の色合いと馴染んでいた。旅芸人らしい持ち物は、これ一つだけだった。
 開くだろうか?
 ラフィオのおののきを読み取ったかのように、留め金はするりと外れた。ぱくんと上蓋がはねあがり、旅行鞄は勢いよくその中を見せる。中で何かがぶつかりあう、澄んだ音がした。黒い艶布のひだが目に飛び込む。
 艶布をそうっとめくってみると、その下には大切な装飾具のようにノヴァが横たわっていた。

 ノヴァ、ノヴァ、ごめんよ、こんな目に合わせてしまって。
 ぼろぼろと涙を流しながら、ラフィオはノヴァの口から丸薬を取り出そうとした。きらきら光る粉がこぼれ出る。彼は目を開かない。
『真のその名において真実の姿を解放せよ……』
 首輪の封印を解こうとしたが、ノヴァの鼓動は感じられなかった。
「どうしよう」
 ラフィオは銀糸を織り込んだマントで彼をそっとくるんだ。
 あれは魔法の薬だったのだ。あるいは、呪いの薬。ハルハが作ったのなら、元に戻す方法もハルハは知っているに違いない。解毒剤? あるいは、姫君の口づけ。そこまで考えて、ラフィオはあまりの趣味の悪さにかぶりを振った。だが……なぜハルハはこんな薬を持っていたのだ? そして何のために?
 ごくりと息を飲んで、ラフィオはゆっくりとあたりを見回した。胸には強く、けれど優しくノヴァを抱いて。
「あ……閉めなくちゃ」
 開いたままの旅行鞄を閉めようとすると、他にも収められている物があるのに気づいた。かちん、かちかちん。さっきの音の正体はこれだったのか、とラフィオは思い当たる。
 万色に光を放つ、丸い宝石がたくさん。艶布の下で互いにぶつかり合い、澄んだ音をたてる。
「何だろうこれ」
 ひとつをつまみあげると、それはほんのりと温かかった。宝石の中の光は、ゆっくりとさまざまに色を変えていく。
 きっと誰かの、大切な何かだ。吐き気をこらえながら、やっとのことで旅行鞄を元通りにすると、ラフィオは急いでそこから立ち去った。。
 仲間のところへ戻らなくては。そしてこのことを伝えなくては。みんなが自分のように、たとえ一時であれ大切なものを手放すことのないように。

■Scene:廃園〜上天の閃光


 スイとライは連れ立って、噂の廃園までやって来た。彼らを出迎えたのは噂の黒髪美女ではなく、中性的な印象の、金髪巻き毛の少女だった。
「お」
 ライが半開きの口で声を洩らす。彼女こそ、ソラを連れ去った張本人だ。
「お帰りなさい……なんて言わないわよ、ばかばかしい」
 吐き捨てるように呟くエレイン。ライはその言葉が耳に入っていないようで、首を左右に振りながらあちこちを眺めている。
「歌ー」
 テントで耳にしたのより、もっと強く美しい歌声が響いている。
「……そうよ。桃色の砂糖菓子みたいでしょう。アルフェスたちが歌ってるのよ。あの子たちと一緒に」
 ソラに会いたいというふたりを案内するエレイン。気をつけたほうがいいかもね、と言う彼女の口調に、ライはなぜ、という視線を向けた。
「あの子たち、人の心が分かるのよ」
「まどろっこしい口説き文句も不要ですね。言葉の駆け引きがなくなると、それはそれで残念ですけど」
 スイの考え方は積極的だった。
 精霊みたいなものかとライは思った。精霊と意思を通じ合うのに、ライは言葉を用いない。だったら、それは友だちだ。言葉よりも先に心を通わせる存在。生身の人間よりも、ずっとずっとライが親しんできた存在。
「ちょっと、あんたサーカスにいた子ね。ハルハに言われて来たの? ソラを連れ戻せって」
「ええ、まあ」
 ライの代わりに答える彼の、口の端の曖昧な笑みに、一瞥を投げてエレインは心を決める。
 子ども部屋への扉を開く。美しい歌声が、彼らの心に直接流れて込んでくる。

 手に手をつなぐ輪の中で、楽しそうに歌うアルフェス、桃色の砂糖菓子。周りの人間を包み込むように付き合うすべを心得ている、優しいお嬢さま。どんな人も、アルフェスに意地の悪いことなんかできやしないだろう。きっと。
 アルフェスが、エレインたちに気づいて顔をあげた。にこり。あの、つっかかっていく気持ちを萎えさせる微笑み。ああ、アルフェスってほんと、アルフェスだわ。
 でも、あたしには無理。
「……お願いがあるわ、スイ」
 エレインは、スイだけに聞こえる声でそっとささやいた。

■Scene:廃園〜ひとのかたち


 お嬢さんが危険にさらされるなんてのは、ごめんなんですよ。そう言いつつ、スイはエレインに押し切られる形で、彼女をサーカスへ連れて行くこととなった。
「でも、団長。人形……」
「危ないって言うの? ライ」
 ふん、と鼻を鳴らすエレイン。
「あたしはハルハを、ぎゅうぎゅうの目に合わせてやりたいの。あんなろくでなし! ヒョウタンナマズ!」
「ひょうたん……」
「でも怖くなんかないわ。むしろ逆。あいつを怒らせてやりたい。人間、鶏冠に来るといろいろしでかすじゃない。怒り狂ってあたしのこと、人形にでもなんでもしてくれれば、こっちだってあいつの手の内が読めるじゃない」
 スイは少女を見つめた。雛鳥同然のこの年頃で、これだけ強い意志の輝きを見せる少女に対し、スイの好奇心が湧きあがる。例えば彼女を道連れにしたならば、退屈したくても、できそうもないだろう。
「スイ、色目なのは分かってるのよ」
 ぴしゃり。むろん眼帯の下では、スイの表情は伺えないのだが。言い当てられた本人は、違いますよと言いながら微笑んでいる。
「エレイン。歌、歌える?」
 エレインとライ。彼らは同じ年である。どこか幼いままのライは、エレインがソラの歌を見事に歌ってみせるのを、手を叩いて喜んだ。
「たまには保護者してみるのも、いいかもしれませんねー」
「保護者ですって?」
 少女の眉が釣りあがった。脳裏には、敬愛する父の姿が浮かんで消えた。黒衣を好んで着ていた父。
「あはは、お嬢さんに危ないことする奴は、ちゃーんとぶちのめします。こう見えてもね」
 そうやっておどけてるけど。エレインは言いかけて止めた。あんただって本当は、見た目どおりの下半身人間じゃないんでしょう、きっと。
 ふるふるふる。エレインの短い巻き毛が揺れた。
「早く行きましょう。これ以上ここにいても……」
 ここにいても、できることはもうない。
 人を当てにしてばかりの、いけすかないオールフィシスに熱湯を浴びせかけ、人攫いの詐欺師だって知れてたはずのハルハに、妹が連れ去られるのをただ見ていた罪をなじり、その白い喉元にナイフを突きつける以外には。


■Scene:廃園〜重い羽と軽い羽


 だからエレインは、それをした。ナイフこそ突きつけなかったけれど。
「行くのね」
 地下から戻ったオールフィシスは、スイとライに挨拶した後、エレインに言葉をかける。
「行くわ。あたしは臆病じゃないから」
 その場にいたブリジットやニクスには、それは強がりの裏返しであったことが感じられた。
「逃げも隠れもしないことが、臆病だというの?」
 オールフィシスの口調は静かで、その裏には押し殺された感情は見えない。透き通った冷徹。
「戦わないことは臆病。剣や弓をとれって言うんじゃないわよ、分かると思うけど」
 エレインは刺を隠さなかった。
「弱虫。腰抜け。卑怯者。妹でしょう? どうしてその時身体をはって、ソラを助けてあげなかったの! ここから離れられないなら、おびき寄せればいいじゃない。材料はいくらもあるでしょう!」
「……エレイン!」
 一歩前へ踏み出したブリジットを、オールフィシスがそっと留めた。
「ささやかな力であっても、それを出し切ればいい……そうおっしゃるのね」
「そうよ。釘一本の力しかなくても、黄金の釘にはなれるじゃない。何のために生きてるの? 生きるってことは、他の動物や植物の命を奪って、それを自分の命に変えるってことでしょう? だったら奇麗事を並べるだけじゃ、生きていることにすらならない。自分が食べるために殺した命の前に立って、恥ずかしくないように、そう生きていかなくちゃいけない……父さまはそう言った。それってすごく大事だと思う」
「薔薇一輪なら、黄金の一輪になれと願うのですか」
 オールフィシスは呟いた。奪った命の前に立って。彼女の赤い唇が、かすかに動く。ソラによく似た横顔だ、とライは思った。
 言いたいことをぶつけたエレインは、満足そうに笑みを浮かべて踵を返す。
 そうして、彼らはサーカスで待つハルハの元へと急いだのだった。

■Scene:旅団〜有為転変


 ラフィオの元にノヴァが戻ったのを知って、スイもライも安堵した。
「それで、元に戻す手がかりは?」
 ラフィオは頭を振った。
「テントの中、すごくごちゃごちゃしてて旅芸人っぽくなかった。ノヴァ、薬は吐かせるだけ吐かせたんだけど」
 ライの目に映るノヴァは、心の容れ物だった。
「弱点が見つからなかったとなると、難儀ですねぇ。ね、エレインさん」
「怖くなんてないって、何度言わせる気?」
 すでに決めた心を翻す気は、毛頭ないエレイン。
「別に魔法だってかまやしないわよ。アルフェスの札があれば、口を動かすくらいはできそうだもの」
「気をつけてね」とラフィオが沈んだ声をかけた。
 この場にそぐわない言葉のようにも思ったが、ふさわしい言葉は他に思いつかなかった。

 団長は、エレインを一目見るなり鼻で笑った。その顔に浮かぶのは、怒りでも失望でもない。
「ソラには会えなかったのかい? 女性の扱いはキミに任せたつもりだったんだけど」
 エレインはハルハの顔をひたと見据えている。その赤い頭の中はからっぽのくせに。すぐ後ろにあたしとアルフェスがいた時も、気づかず通り過ぎていくくらい、何も見てないくせに。
「ええっ、この子がソラちゃんじゃないんですか? 参りましたねー」
 そらぞらしく騙されたふりを続けるスイの横で、ライも驚いてみせる。
「ん、参る」
「すっごく歌が上手だったんですけどねー」
「ねー」
 つかつかとエレインに歩み寄ったハルハは、彼女の顎に手を添え上からのぞき込む。
「ソラの代わりになりたいのかい、キミは」
「歌なら歌えるわ。踊りだって軽業だって」
 努めて冷静に、エレインは答えた。廃園のソラたちは、あたしがこうしている今も、あたしと心をつないでいるのかしら。
「あたしは踊り子。どんな歌でも拍子でも、即興で踊って見せられるわ」
「へえ」
 くすりと微笑むハルハは、スイとエレインを見比べて言った。
「ちょうど踊り子が足りないところだったから、キミには劇に出てもらおう。《ディルワースのサーガ》の姫君役でね」
 《ディルワースのサーガ》なら、エレインは台本など見なくても諳んじることができた。いいわと答えると、ハルハはようやく手を離す。
「踊り子さんが足りないって、どういうことです?」
 スイの言葉に、ハルハはくつくつと声を殺して笑った。とても面白そうに。
「……さっき暇を出したよ」
 不吉な予感に、スイは飛び出した。背後でハルハの嬌声じみた笑いが次第に高くなる。
「あ……」
 置いて行かれた格好のライは、エレインとスイの出ていった方を数回見比べる。すぐに意を決して、スイの背中を追いかけるライ。

■Scene:旅団〜澱んだ大渦


「キミが来てくれて、よかったかもしれない」
 エレインの舞台衣装を見繕いながら、ハルハが言った。
「それはどういたしまして」
 感情を押し殺した返答に、ハルハは喜んでいる風に見えた。大きな鏡の前で衣装をあてがわせる。
「園丁は、元気だったかい? 《ミゼルの庭》にいたんだろう? そこでキミはソラの歌を聞いたんだろう?」
 いらえを待たず、ハルハがエレインの後ろに回る。鏡の中には、一幅の絵のようなふたりが映る。
 劇の中の姫君と、白服の王子? ばかみたい。王子なんてろくな人種じゃない。エレインは鏡に唾を吐きかけたい衝動を抑えた。
「残念だったね」
「え?」
「……キミの思うとおりには、ならないってことだよ」
 とん。ハルハがエレインのうなじを軽く叩いた。菫色の瞳を見開いたままで、エレインは音もなく倒れ込む。開いた口に、小さな丸薬が押し込まれたのが分かった。
「ソラの代わりは、キミには無理だよ。ただの小娘ごときには」
 ハルハの声は、冷酷な刃のように突き刺さる。視界がぼやけ、光が消えていく。氷の手に心臓を掴まれているように、息苦しい。
「ソラ、帰っておいで」
 輝きを失った菫色の瞳を見つめ、ハルハは甘くささやいた。
「僕の元にキミの居場所がある。帰ってこないなら」
 エレインには見えない。ハルハが彼女の身体の中から、小さく光る宝石を取りだして握りしめたのを。
「……キミたちの居場所は、どこにもなくなってしまうよ」

 踊り子たちが暇を出したなど、スイにはとうてい思えなかった。団長は恐ろしい、逆らうなんてできない。そうこぼしていたではないか。
 踊り子たちのテントには、荷物がそのままそっくり残されていた。衣装行李、化粧品、手鏡。ついさきほどまで、ふたりはここにいたに違いなかった。
「まさか」
 くらくらする。気分が悪い。スイは思わずテントの支柱にもたれかかった。
「そんな……荷物を置いて行くわけないでしょうに」
 そのままずるずると、しゃがみ込む。足から力が抜けていくようだった。
「スイ」
 暗い面もちのライが、しゃがみ込んだスイを手招きする。すぐに彼らは事の次第を飲み込んだ。大道具のテントに、真新しい木箱がふたつ増えている。ハルハが人形に変えてしまった、踊り子たちの棺だった。

■Scene:旅団〜暗渠を這うもの


 その夜のサーカスも盛況だった。男性客の中には、いつも目を楽しませてくれる踊り子たちが今夜に限って姿を見せないことを嘆く者もいた。一方、熱心に通うハルハのファンたちは、今夜はとりわけ団長の機嫌が良さそうだったと噂しあった。
「どれどれ。歌姫もいないのは残念だが、劇はやるようだな」
 ジェシュは観客席の中から、鋭い目つきで舞台を見下ろした。たまには息抜きもいいか、などと思い立ってはみたものの、こういうお祭り騒ぎの場に出るのは不慣れである。山で修行していた癖か、肩の力を抜くことがなかなかできない。
「おい、今夜の劇はどんな内容なんだ」
 隣り合わせた見物客に声をかける。
「しばらくは《ディルワースのサーガ》を演じるみたいですよ。なかなか仕掛けが大がかりだと評判らしいですね」
 ほう、と答えたきりのジェシュに、隣の客はあれこれ語り出した。
 なんでも《大陸》の端っこのほうで、本当にあった物語なんだそうですよ。そうそう、《竜》が出てくるんです。実話だって言うからには、やっぱり本当に《竜》もいたんでしょうねぇ。
「《竜》を倒す戦士が出てくるのか?」
 隣人がうなずいた。
「ほほう。それなら面白そうだ。《竜》とどうやって戦ったのか、とくと見てやろう」
 ジェシュは腕を組み、舞台を凝視した。強者を求める心が、かすかにうずき始めていた。

 出し物はつつがなく進行し、いよいよ《ディルワースのサーガ》の上演である。至って単純な勧善懲悪ものらしく、ジェシュにも話の筋は飲み込めた。
 磔にされた姫君を救うべく、さっそうと戦士が登場する。姫君の上空にははりぼての《竜》が悠々と空を舞い、戦士を威嚇する。姫君の叫ぶ声は、《竜》の吐く炎にかき消されてしまう。
「なんだ、あの戦士のへっぴり腰は。あんな太刀では大蛇の鱗すら突き通せるものか」
 思わずジェシュが呟いた。
「いやいや、お芝居ですからな」
 戦術指南を見ているがごときジェシュの様子に、びくびくしながら隣の客は答えた。

『みんな聞いて! ここにいるハルハは極悪人、奴隷市で人身売買をするつもりよ!』
 声を限りに、エレインは叫んだ。叫び続けたつもりだった。
 ああ、何もかも自由が利かない。心臓は冷え切っている。氷の手に掴まれているんだわ。
『気づいて! こいつは評議会長とグルになってるの!』
 意識はあるのに、言葉にならない。
 劇だけは台本通りに進行していく。やがて戦士役が手ずから剣を繰り出し、それは狙いを過たず《竜》を討ち滅ぼし……。その手からするりと抜けた剣は、くるくると円を描きながら、磔にされている姫君、エレインの胸へと深々と突き刺さる。

「おい!」
 ジェシュがとっさに立ち上がった。どう見てもあの剣は、姫君の身体を貫いていた。
「あのう、お芝居ですからな」
「芝居なものか!」
 舞台の上では、エレインが身体をくの字に折り曲げていた。
「ほら、赤い血だってでていないでしょう。まあお芝居だって、血糊くらい使いますがね。だから心配しなくてもいいんですよ」
「……しかし」
 ジェシュは不満げに、再び腰を下ろした。劇はすでに、戦士が国王から褒美をもらう場面へと変わっていた。

■Scene:旅団〜万物の声


(エレイン、エレイン)
 ああ、父さまね。あたしがここにいること、これがあたしだってこと、父さまなら、どこにいてもどんな姿に変わっても、絶対見つけてくれるって思ってたわ。だから、どんなことになっても怖くなかった。
(エレイン)
 ねえ父さま、あたしは黄金の釘になれたと思う?
 だから、その……許してくれるかしら。あの女の手にお湯を浴びせて、乱暴な言葉を吐いて家出したことを。

「会長から手紙だって? ああ、片づけが終わったら見ておくよ。待たせておきなさい。それから団員皆に話がある。そう、ミゼルドでの興業はもうじき終わりだよ。休息日が明けたら発つと伝えておくれ。……そうだよ。帝都だ。ミゼルドでの成果を持っていけば、皇帝のご機嫌もすぐにとれるだろう。これ以上後回しにもできまいし」
 いまいましいヒョウタンナマズ。ハルハ・シーケンスの声だわ。
 そうね。あたしは家出したきり。父さまもさすがにまだ、見つけてはくれないわね。逃げ出したのはあたしのほうなんだし。
「ちょうどいいな、あの新しい木箱ふたつも、持っていってもらおうかな。ただの踊り子だし、高い値はつくまいが。そう、休息日の準備もこれで終わりだね」
 ソラ、ちゃんと見てるの? 
「発つ前に、ソラを迎えに行かないとな。これだけ休めば、さすがに特殊な身体も回復しているだろう。奴隷市が終わったら、時間を見つけることにする。久しぶりに園丁とも会いたいしね……」
 くつくつ押し殺した、いやな響きの笑い声。下品な奴。人でなし。
「ああ、そうだ。キミは好きにするといいよ、エレイン。子犬と違ってキミには、ただの人間だから。仲間が助けにくるなら、どうぞご勝手に」
 耳元でささやくハルハの吐息に、エレインはすっかり気分が悪くなった。
「でもキミの身体には、鍵をかけさせてもらったからね。ソラが戻ってくれば、鍵を外してあげる……そうだな、スイでもいい」
 ハルハは笑う。何かのゲームのように。
「それじゃあお休み。……よい夢を」
 そうしてエレイン人形は、暗闇の中に取り残された。

第5章へ続く


第4章|崩れゆく聖域砦への道不浄の果てと心の行方歪んだ天秤マスターより