第4章|崩れゆく聖域砦への道不浄の果てと心の行方歪んだ天秤マスターより

2.砦への道

■Scene:承前〜満月の夜更け


 その人物は、堂々と神殿を訪ねてきた。
「何? 祈りを捧げたいと?」
 女性信徒からそう取り次がれたイオは、自室で過ごしていたところだったが、不思議そうな面持ちで問い返す。
「別に問題はないと思うが。お通しすればいいではないか」
「でも、でもっ! イオさまはご存知ないのですか? あの、ハルハ団長なんですよ!」
 信徒の声は上ずっている。ハルハがどういう人物なのか、寡聞にしてイオは知らない。ただ一時、サーカスから逃げ出したという歌姫を、かくまったことがあるくらいだ。エレインは、正しいことだと言い張っていたから、咎めもしなかったし、その歌姫もすでに神殿にはいない。
 心の中でやれやれと呟いて、イオは正装の上着を羽織った。黄色い声の信徒たちに任せておくわけにはいかないだろう。旅人たちの持ち込んだ騒動に巻き込まれたという気はしなかった。いずれは、まみえる相手であっただろうから。

「お初にお目にかかります、聖騎士殿」
 ハルハが深く一礼した。その所作は、宮廷で舞踏を申し込む時のような優雅さに満ちていた。燃えるような赤い髪は、色彩の乏しい神殿にあって映える。
 まるで白衣を汚す鮮血……。不吉なイメージに、イオは軽く首を振った。
「この神殿を預かるイオだ。心安らぐまで、ご自由に祈り、過ごされるがいい」
 回廊から遠巻きに眺めている信徒たちが騒いでいるのを目の端で捕らえながら、イオは答えた。
「ありがとうございます」
 身を起こしてハルハは微笑んだ。

 ハルハが神殿に滞在していた時間は短い。兄弟神の神像の前でひざまずき、無言の祈りを捧げる。その様子をイオは何の気なしに見守っていた。無礼な信徒たちが、サインをねだってはいけない。
 すぐに彼は満足げに立ち上がった。
「古い神殿ですね」
「たいていの旅人がそう口にするところを見ると、どうやらそのようだな」
「申し訳ありません、誉めたつもりでした」
「よいのだ。華美に過ぎるより、神の御座としてはこのほうが近しく感じられると思う。個人的には」
 そうかもしれませんね、とハルハは答えた。
「それでは夜更けに失礼しました。私の捧げた祈りに答えが見つかれば、近いうちにまた伺いましょう」
 イオがうなずく。朝まだきの街へ消えていく後姿を目で追いながら、イオは心の中に小さな違和感が生じるのを感じていた。

■Scene:神殿〜希望の壁


 先日迷宮を探索したメンバーのほとんどが、今日は神殿で顔を合わせていた。エルフィリア・レオニス、カリーマ・ルアン、ハル、メルダ・ガジェット、リヴ=スプリングハートらだ。ジャック・コーデュロイトは、朝一番に評議会に出向いていった。
「一人で大丈夫かねぇ、ジャックみたいな優男がさ」
 メルダが嘆息する。アルテスやアーサーに及んだ窮状のことは、何となく耳に入ってきていた。「会長どもの餌食にならなきゃいいが」
「会えるとは限らないし、なーんて本人、気楽に言ってたわ」とカリーマ。
「考えがあってのことだろうけど……あたしの心配しすぎかねぇ」
「そうですわ、メルダ姉さん」
「ね、姉さん!?」
 エルフィリアの言に、メルダは飛び上がるほど驚いた。当の魔術師本人は、頬に細い手を添えてきょとんとしている。
「あの、いろいろと心配してくださったみたいで、申し訳なくて……それを、お伝えしたかったんです」
「……そうかい、心臓に悪いこと言い出すんじゃないよ」
 面白がったカリーマが、兄さんだ姉さんだと騒ぐのに手を振りながら、まんざらでもない様子のメルダだった。

 エルフィリアが街で話を聞いてくるというので、残った者たちもそれぞれ自分の予想を裏付けるべく行動を開始する。
「ねぇ、もっかい迷宮に行ってこようと思うんだけど、セイエス借りていいかな?」
 カリーマがハルに問う。
「俺よりも、リヴさんに聞けば」
「ええっ、あ、あ、たし? いいのっ。セイエス君の邪魔するのはやめたの!」
 おかっぱの黒髪をぶるぶるとゆすりながら、リヴは力強く答えた。
「あ……じゃ、邪魔じゃなくて。イオさんに聞いたほうがいいかなって。関係ないかもしれないけど、その、神話の話、とかね……」
 そう。セイエスの後ばかりついて回るリヴは、変わったのだ。たぶん。語尾がごにょごにょと消えていくリヴの肩に、ぽんと置かれたのはカリーマの手。
「関係あるよ、大ありだよきっと!」
 カリーマはぶんぶんとうなずいた。
「だってあたしもそう思うし、みんなきっと同じ考えだと思うよ。あたしも見たとおり、頭脳労働は得意じゃないけどさー」
「そ、そうかな? そんなこと、ないでしょ」
「とにかく!」
 カリーマの大声にリヴが目を見開く。嵐のようにカリーマはまくしたてた。
「リヴはイオさんに話を聞く。あたしはあたしで、迷宮に再挑戦してくるから。じゃ、後で情報交換の約束よーっ!」
「俺も行こう」
 協力できそうなのは、それくらいだから、とカリーマの後を追うハル。
「あ……ハル君も? 行っちゃうの?」
「しゃんとおしよ!」
 メルダがリヴに発破をかける。

■Scene:街角


 エルフィリアは軽やかに街へ出た。地下にいたことを考えると、地上の街は信じられないほどにぎやかで、騒がしく、ごみごみしていてまぶしい。雑踏、呼び込み、いい匂い。どれも地下には存在しない。あそこでは時が止まっているかのようだった。大市では、対照的に時間が飛ぶように過ぎていくのが分かる。
「さて。ええと」
 どこに行こうかと考えて、エルフィリアは銀のカードを取り出した。抜き出した一枚は、星のカード。
「星……叡智の光」
 小さく呟きながら、彼女は古書が残されている場所を求めて歩き出した。

 図書館があれば一番よかったのだが、あいにく公的に整えられているのは、評議所に申し訳程度に併設されている書庫だけだった。ちらりと覗いてみたが、収められている書物のほとんどは、味気ない数字の並んだ取引記録簿の類である。
「これじゃ民俗や文化までは分からないですね」
 記録簿の数字も、どこまで正しいのやら……それともまず、正しい数字などあるのかどうか。
 世間知らずのところがあるエルフィリアも、小首をかしげて他をあたる。
「ふう。どなたか、個人の蔵書を見せてくださる方はいるかしら……」

■Scene:評議所〜不純な評決


 エルフィリアがそうやって考えあぐねている頃、ジャックは評議所でまたも問答を繰り返していた。対面しているのは、前にも目こぼししてくれた眼鏡の担当者だ。
「はあ……地下迷宮の件ですよねえ。掛け合ってはみますが、前と同じだと思いますよ」
「お願いします。お忙しいのは承知の上です」
 彼は駄目元で、会長たちに面会を申し込んでいた。無理でも意見だけは伝えられるよう、会長宛の手紙もしたためてある。地下迷宮の存在について、評議会が黙殺を続けているのは何故なのか。本当に探索隊を出すことは出来ないのか。
 疑問のひとつには、担当者が自ら答えてくれた。曰く、自治都市ミゼルドが遺跡の上に建設されていることは、評議会の中でも割と知られた事実である。
「古代の遺跡、というくくりで見れば、《大陸》にはいくらでもあります。さして珍しくもないですよ」
 とのことだが、その遺跡が迷宮で、何のために作られたものなのか、というところまでは知られてはいないのだった。
「子どもが迷子になると危ないんでね、穴ぼこがあいたりしている場所はすっかり埋め立てたらしいですよ。スラム地区だけは、あそこの住人の居住区代わりってこともありますので、残さざるをえなかったとか」
「そうですか」
 ジャックの相槌に体よく立ち上がった役人は、それじゃ会長に掛け合ってきます、と席を外す。
 
 かなりの時間待たされた後で、ジャックはついに会長室へと通された。
「最初に謝っておきますね、コーデュロイトさん」
 眼鏡の担当者はジャックを案内しながらそう言った。
「え? 何のことです」
「そのう、あなたがどうしてもっておっしゃるんで、少々ですね」
 賄賂か。ジャックは警戒半分、仕方ないなとあきらめ半分だったのだが、彼が財布を取りだしたのを見ると、役人は両手を振ってうち消した。
「……お会いになれば分かると思います。会長、コーデュロイトさんをお連れしました」
 ノックと同時に、内側から扉が開かれた。
 ジャックが身構える間もなく、たくましい4本の腕がジャックを中へと引きずり込む。
「「いらっしゃい、ジャックちゃん!」」
 ジャックは目を見開いた。自分の両側で、双子の中年親父がしなを作っている。
「「恋文を持ってきてくれたんでしょう?」」
「こ、恋文!? いや、俺が書いてきたのは……」
「「見せて、早く。恋文って聞いたから、時間を割いてあげたのよ」」
 完全なる唱和に怖気を震いつつ、ジャックは手紙を取り出した。

「地下迷宮? 思い出したわ、アナタ以前にも騒いでいた子ね?」
 オッジとパーチェが、ジャックを試すように見つめる。
「はい。あの時手出し無用の返事をもらいました。そして考えてみました。それでも、迷宮が影の事件に無関係だとは言い切れないんです。むしろ、深い関わりがありそうだと言っていいくらいです」
 評議会は、どこまで迷宮について知っているのだろうか。言葉を選びながら、彼は会長たちと対峙する。
「確かに今はまだ、影は深刻な影響を与えていません。でも、何かあってからじゃ遅いと思いませんか? 被害が大きくなってからではなく、今迷宮を探索することが重要だと、俺は思います」
「評議会が、泥縄式にしか動かない、と。ジャックちゃんはそのことを怒ってるのね?」
 会長たちが怪しく微笑む。
「怒るというか……確かに本当のところ、少しはそういう気持ちもありますが」
 自分のペースを失わないように、ジャックは努めた。
「……ミゼルド神殿のほうは、この事態をかなり深刻に受け止めています。俺たちも、出来る限り協力したいと思って……」
「神殿? ははん、あの後家女? 形のない神に祈るだけの神官に何ができるか見物だわね」
「ジャックちゃんの言う協力って」
 オッジとパーチェが割り込んだ。
「あたしたち評議会に対して? それとも神殿に対して?」
 ジャックは静かに、ふたりの会長たちの顔を見つめた。総毛立つのをこらえながら。
「もう一回言おうかしら。ジャックちゃんはどっちに協力したいの? あたしたち? それとも後家女?」
「その、それは……」
 後家女とは、聖騎士イオのことだろうか。彼女を異様なまでに蔑む彼らの態度にひるみながら、ジャックは曖昧に言葉を濁す。
「それは……イオさんは別に、評議会と対立するつもりはないと思いますが」
 ミゼルドで評議会を、もっと言えば会長たちを敵に回せばどうなるか。ごくりと喉を鳴らすジャック。
「お馬鹿さんね、ジャックちゃん」
「後家女がどうこうって問題じゃないのよね」
 オッジとパーチェが、頬をすり寄せる。
「それじゃあ、あなた方は知っているんですか? 地下迷宮の存在する理由……地下迷宮に、何があるのかも」
「理由?」
「理由なんてなくてもいいのよ」
 生暖かい吐息を首筋に感じ、ジャックは思わず目を閉じた。
「あたしたちは、迷宮を借りてるんだから」
「休息日まで、ね」

 濃厚なキスマークをいくつも首筋につけ、よろよろとジャックが会長室を後にする。開けっ放しの扉から、かすかに洩れ聞こえる口げんか。
「オッジ、アナタちょっとしゃべりすぎたんじゃなくて?」
「パーチェこそ、金髪に弱いなんてお馬鹿さんもいいとこだわ」 
「いいじゃない。もう少し早くジャックちゃんが来てくれてたらなー、って思っただけじゃないの」
「しっかりしてちょうだい。休息日の大市まで、もう日がないんだから」
「そうね。迷宮探索隊なんて面倒な事、どこで覚えてきたのかしら」
「冗談じゃないわ。よりによって今頃……ばれちゃったらどうするのよ。ねぇ」

■Scene:神殿〜日のあたる部屋


 とんとんとん。リズミカルなノックとともに、カリーマがひょこりと顔を出した。頭二つ分上から、ハルが見下ろす。旅人たちに与えられている部屋の一角で、セイエスは何かを読みふけっている。
 声をかけてようやくセイエスは面を上げた。その表情は複雑な色を見せている。
「それ、この間イオさんにもらった手紙ね」
「そうです。女神像の下で見つかったという」
 煤けた紙束に、ぎっしり詰め込まれた文字。カリーマやハルにとっては頭痛のする代物である。
「で、読み終わったのか?」
「半分くらいは」
「じゃあ気分転換ね」
 にっこり微笑むカリーマは、ミゼルドまんじゅうをぽんと放った。危なっかしい手つきで、どうにかそれを受け取るセイエス。
「ジャックにもらったんだ。差し入れだって!」
「もう一度地下へ行こう。前回手に入れた情報は足がかりにすぎない。これから点と点を結びつけてゆくんだ」
 ハルの言葉に、セイエスはうなずいた。

 さて、三人は再びスラムから地下へと潜っていく。
 ハルの危惧したような妨害工作は、意外にもなかった。評議会長の手出し無用宣言には、実が伴っていないらしい。休息日には大がかりな仕事が控えているとも聞いているから、それがなければ、また話は違ったのだろうが。
「まったく。関わりたくないのか、関わろうとしないだけなのか」
「《ミゼルの目》? どうかなー」
 ハルとカリーマのやりとりに、セイエスが口を挟む。
「きっと、知らないだけではないでしょうか。だって真実を知るということは……目を向けるということは、より良きことへの第一歩ですから」
「はぁ、セイエス。みんながみんな、そう思ってるわけじゃないよ」
 ため息混じりにカリーマが呟いた。
「意図的に目を背けちゃう人だっているもん。て言うより、もしかしたら、目を背けずにいるほうが難しい真実だってあるかもしれないしね……あ、これは別に、影とか《風霜の茨》とか関係ない話ね。あと、あたしだったらどう、とかも抜き」
 セイエスは沈黙する。いろいろと、思うところがあるようだ。

 地下迷宮の調査は、地図があったこともあり、順調にはかどった。
 第一層と第二層以下では、つくりがまったく違うことも確実になった。第一層の天井はほぼ高く、極めて装飾的だ。直線を多用した通路は一定の幅で伸びていく。窓開きの壁や、多段の寝台を見つけるに至って、カリーマは一つの結論に達した。すなわち。
「第一層にあたるのが、古代のミゼルドの街ね」
 くまなく探索するのは困難だったが、かつてのミゼルドは、おそらく今よりも大きな街だったであろうことが推測された。
「大門や、大通りにあたる場所の痕跡が見つからない……そういった機能はなかったのかな?」
「火山灰に埋もれた古代の街の話なら、耳にしたことがあるが」
 ハルが油断なく深緑の瞳を光らせながら口を開く。
「ミゼルドは火山帯の近くじゃない。どうしてこれだけ大きな街が、地中に埋もれたんだ?」
 疑問形は、誰に問うでもない。
「牢獄だったのは、きっとこのあたりね。セイエス、灯り貸して」
 カリーマの元へセイエスが駆け寄り、照らしだす。巨大な刺を生やした黒い柵が、天井にぬっと長い影を伸ばした。そこは、スラムから伸びている大きな石段の、ちょうど裏側にあたるあたりだと思われた。
 ……我らは、入砦を許されなかった。我らの砦は、大いなる砦により隠されてしまった……。
 《茨の民》の言葉が、ハルの中でこだまする。悲痛な怒りは、自分の中にも存在した。
「さすがに骨とか、残ってないね。千年前だもんね」
「下には、動く死体があったけどな……おい」
 柵を揺さぶっていたハルが、それに気づいた。
 刺のついた柵は、緩やかな円弧を描いていた。まるで彼らを閉じ込めるかのように。
「このあたりが牢獄らしい、と言ったな? カリーマ」
「ごめん、訂正する」
 カリーマはぐるりと周囲を見渡し、呟く。街道から離れていたのも、他国から侵略を受けなかったのも。
「この中全体が……街全体が、牢獄だったのね」

■Scene:神殿〜安息の枝葉


「地下迷宮に、動く死体が?」
 メルダとリヴから迷宮探索の報告を聞き、イオの顔は不快な表情を隠せない。
「そうなんだよ、いやんなっちゃうね。危ないったら」
 うちの子にもきつく言っておかなくちゃ、とメルダはひとりうなずいている。
「影の話を聞いたの、あたしも」
 取り込まれた時のひやりとした感覚を思い出し、背筋を震わせるリヴ。
「そしたら、なんかいろいろ難しい事言われて、正直馬鹿だしよく分かんなかったのもあるんだけど……あのね。影さんたちの気持ち、あたし感じたんだ」
 リヴはイオの顔を見上げた。
 この人は、いつも背筋を伸ばして立っていて、あたしみたいな変なのにも、ちゃんとまっすぐ目を見てくれる。そう思ってリヴは、丸まりがちな自分の背もしゃきっとしてみた。
「つまり影さんたちは、仲間はずれにされて泣いてたってことみたいなの。それも集団で」
 リヴもよく泣いていた。だから、他人事ではなく、影のことが本当に分かったと思えたのだ。精一杯やっているのに、舞台の上でなじられて引っ込む時。努力しているのに、他の踊り子と比べものにならないほど拍手がもらえない時。今ならそれは劣等感だってこと、頭では分かる。分かってるつもり。
 きらきらしいイオや、恵まれて育ってきただろうセイエス、異名をとるほどのメルダ、力強く物知りでもあるハル。彼らにはきっと遠い感情かもしれない。あたしなんかは、影さんに親近感持っちゃってますけど。
「影さんのね、正体を知りたいと思ってたんだけど、今は違う。助けてあげたいなって思う」
「《大陸》に満ちるものたちに心を開き、ゆめ閉ざすことなかれ……女神の聖句だ。そなたの想いは、女神の御心にもかなうだろう」
 イオの言葉に、リヴははっとして問いかけた。
「あたし、聞きたかったんです、イオさん。セイエスくんにホラ、危うい思想だって言ってたの。どういう意味なのかと思って……こんなこと、セイエスくんの前じゃ聞けないし」
 メルダはその場にはいなかったが、話は聞いていた。リヴとハルが女神像の前で、何やら意見をかわしていた時のことだった。兄弟神が選んだ結果が、今現在の《大陸》であり、もしもはない。たしか、そのような話だった。
 イオはしばらくふたりを見つめていたが、やがて口を開いた。
「神々は何をも選ばない。選択に意図はない。自由も不自由も、神々にはないのだ」
「でもでも! そしたら何故女神さまは、苦難の道を選んだの?」
 縛られ、目をふさがれて。
「何故そう思うのだ?」
「あたし馬鹿だし、これまで神話なんかぜんっぜん興味もなくって、お祈りにも真面目に行ったことなくて。さっぱり分かんないことだらけだったから、すごく知りたいんだ。それだけ。想像してみるんだけど、何て言うのかなあ……やっぱりぴんと来ないの。セイエスくんに聖地のこと聞いても、うまく想像できないみたいな感じ。だから女神さまに自由も不自由もないってのも、よく分かんない……馬鹿でごめんなさい。あはは」
「おやめよ、リヴ。あんたもあたしも神学は専門じゃないんだからさ」
と割って入るメルダ。それをふりほどくように、リヴはしゃべり続ける。
「だって聞きたかったんだもの。影さんとは関係ないかもしれないけど、すごくその、あたしの中で、むくむくと向上心って言うの? 気になっちゃうんだよ!」
「……すべての民の苦痛を鎮め、救いを示すために」
 静かなイオの言葉に、今度はメルダが振り返った。今の文句は、迷宮の最奥、黒い扉で見つけた一文と同じだった。
「これは、ミゼルド神殿に伝わる秘句だ。縛られし女神像と同じで、聖地や他の場所では見られない独特の聖句だが……個人的には、この言葉がもっとも女神の本質を表現していると思う」
 イオは目を閉じ、祈りを捧げるように指を組んだ。
「地上の人々に為し得ないことが可能だからこそ、女神たりうるのではないか?」
 メルダの胸中に、わだかまる想いがあった。地下で目にした《風霜の茨》と《愁いの砦》は、かつて対立していたのではないか。その果てに《風霜の茨》が封じられ、《茨の民》は《愁いの砦》に受け入れられずに時を経て、今、何らかの理由で甦ったのだとしたら。
 その理由についても、メルダは心当たりがあった。
「ねえイオ、ひとつ聞いてもいいかい? 泥棒が入った時に動いてた神像のことなんだがねえ……」 

■Scene:街角再び


「ええっ、凶相!」
 街角で老夫婦が、蒼白な顔を見合わせる。辻占いと称してエルフィリアが、カード占いをして見せたのだ。恐ろしい絵柄のカードが出たのに便乗し、エルフィリアは少し茶目っ気を出した。
「数日のうちに、何か災難に巻き込まれるかもしれませんね。原因と対処方法は次のカードを……」
 もう一枚。老夫婦に抜かせたカードを見て、少女はいかにもそれっぽく答える。
「薔薇や茨に関係することに、心当たりはありませんか?」
 これがエルフィリアの作戦だった。通常口の堅そうな人々に、占いを利用して聞き出すのだ。地下迷宮では、《風霜の茨》にまつわるイメージは負に感じられた。犠牲。生け贄。そんな言葉が絡みつく。信心深い人であればなおのこと、すぐには教えてもらえないだろう。ならば。
「……と言われてものう。赤も白も、薔薇なんてとんと見ないがのう」
「本物の薔薇の花とはかぎりませんわ。薔薇のかたちをした何か、あるいは薔薇に通じる何か、かもしれません」
 この調子で、年輩の人々ばかりを対象に占いを続けるエルフィリア。
 何十回目かの占いで、ついに薔薇の話を耳にした。
「凶相と言うたらあれじゃろうか。白い薔薇」
 白い薔薇。エルフィリアの脳裏に、薔薇を差し出す夢の少女が思い出される。
「その薔薇は、どういったものですか?」
「何、家のぼろ庭にの、白い薔薇が一輪だけ咲いたのじゃ。接ぎ穂も何もなしに」
 きょとんとエルフィリアが首をかしげた。
「それがどうかなさいましたか」
 ううむ、とその老人は呟いた。
「墓場には、死者の想いを映す薔薇が咲くと言いますからの。我が家の庭も、死者に呪われておったちゅうことかと、そう思いましてな」 

■Scene:迷宮〜天脈


 彼らは柵の根元に腰をおろしていた。カリーマは、ハルとセイエスの間で小さくしゃがみこんでいる。
 最初に口を開いたのはセイエスだった。女神像から発見された文書は、牢獄のことを示唆する内容だったと言う。
「女神像がつくられたのと同時期に書かれたものかどうか、定かではありません。でも書かれているのは、女神に救いを求める囚人の叫び……のようなんです」
「《茨の民》が書いたのかしら」
「あらゆる神々は、その御名を失って《大陸》を去った。兄弟神もしかり、だ」
 ハルがはるか頭上を見やる。つられてカリーマも、その先を見上げた。
「《風霜の茨》が、まだ知られていない神の一柱でも、おかしくないってことね」
「……神々といい《竜》といい、みな《大陸》を去っていくんだな」
「いいじゃない別に、遠くにいても」
 カリーマは頬を膨らませ、セイエスに同意を求める顔をする。
「すぐ近くにはいなくても、会えなくても、ちゃんと存在してるっていうかさぁ。どこかでちゃんと見ててくれる、それが神さまってものだと思うよ、あたし」
 ふうん、とハルは曖昧にうなずいた。
 彼はかつて、耳にしたことがあった。《愁いの砦》の女神や兄弟神らが何を考え、何を求めて戦ったのか。彼を連れ歩いた冒険者は、その話になると、どこか辛そうな表情をした。ハルの中では彼女の冒険談よりも、その表情のほうが記憶に残っている。

「ここはなぜ、牢獄だったんでしょう」
 セイエスは頭を抱え、うなだれる。
「《女神の鍵は、常に信徒のもとにあり、一切の愁いから彼らを守る砦こそ、女神の御座》。女神の聖句のひとつです。神話時代であれば、女神ご自身も顕現されたはず。それなのになぜ……救いを求め、得られなかった人々の嘆きが、ここに……?」
「セイエスはどう思うの?」
 カリーマは静かに問う。まっすぐな瞳で、神官を見つめながら。
「セイエスには、本当に神さまが必要なの? ねえ」
 彼女には、セイエスの信仰はお仕着せのように思えてしかたがなかった。人に信仰とは、神とは何かを説く宣教師。すべては神の御心のまま。そう言えるのは、彼が聖地で育ったからかもしれないけれど。
「あのさあ、神さまは選ばないかもしれないけど、あたしたちは選ぶよね。普通。セイエスだって選ぶでしょ」
 セイエスは目を見開く。ハルも彼らの対話を聞いている。
「ほんとは、自分でも感じてるんじゃないの? もしかしたらこの先、影にまつわることがどんどん、女神さまとも結びついていって……今みたいに、なんで? ってことが、いっぱい出てくるかも。今まで信じてきたことだけじゃ、上手く行かない事だってあるかもしれない。そうでしょ?」
「それは……」
 首からさげた聖印を、彼は握りしめた。小さな金の鍵。大いなる砦。
「僕も、ひそかに思っていました。《愁いの砦》の後に見え隠れする存在のことを。もしかしたら、ミゼルド神殿の女神像は、まったく別の偶像で」
「だめだめっ、偶像だなんて。それがだめだって言うの」
 あ、と気づいたセイエスは慌てて言い直した。
「まったく別の……《風霜の茨》と呼ばれる、女神かもしれない」
「だな」
 ハルは言葉を引き取り立ち上がる。
「行こう。神殿に戻るんだ」

■Scene:神殿〜見えざる手


 メルダが女神像について触れると、すぐにイオは彼らを案内した。身廊の突き当たりに、小ぢんまりとした祭壇がある。その一段奥に、兄弟神それぞれの神像があった。
「今はもちろん、向きは正してあるのだが、これが……こういう風に」
 イオは祭壇の裏に回ると、聖衣の袖をからげて台座を抱え、静かに動かした。正面を向いていた像は、半身をずらしたようにやや斜めになる。メルダは手伝うと言ったが、イオひとりの力でもそれは動かせるようだった。
 がこんという鈍い音。
「ぎゃあああ!」
 かぶさるようにあがったのはリヴの悲鳴。彼女は祭壇の横から見ていたのだが、突然足元の絨毯が動いたかと思うと、床に広がった穴に、下半身がすっぽりはまってしまったのだ。
「やっぱり、隠し通路があったね」
 メルダはリヴを引っ張って助け出す。
「ミゼルドの地下迷宮はね、ここにもつながっていたんだよ」
「なんと」
 イオは神像が横を向くまで台座を動かした。リヴのはまった穴は、人が余裕を持って通り抜けられるくらいの通路に変わる。
「神殿の地下に何かいるとかあるとかって話は?」
 メルダの問いに、イオは首を振った。地下通路の話は聞いたことがない。
「新参者には知ることができない秘密かとも思ったんだが」
 メルダは一旦言葉を置いて、肩をぱきぱきと鳴らす。《風霜の茨》のこと含め、神殿ぐるみで隠蔽が行われていた場合を想定していたのだが。もっとも、イオをはじめ篤信の人々に対して、刺激的な発言をするわけにもいかない。
「賊はこれが目当てだったんじゃないかって気がするんだよ」
 地下へ続く暗闇を覗き込むと、かすかに声がこだましていくのが聞き取れた。
「ふむ。何者かがひとりで侵入し……別の出口から、どこかへと抜け出したというわけか。そうでなければ、朝まで像が動いたままになっていた理由がつかないものな」
 だが、何のために?

 三人が首をひねっているところに、迷宮探検組のセイエスとカリーマが帰ってくる。ハルは何やら森に用事だとか言って、姿を消してしまったらしい。
「森?」
「うん。迷宮っていうのは古代のミゼルドの街そのもので、それは昔、今は丘のところまでも含んだ大きな街だったってことが分かったのね。でさ、丘にそのへんの遺跡を調べに行くのかと思ってさ、あたし言ったの。ついてくよー、手伝うよーって。そしたらすごい顔でにらまれたから、戻ってきちゃった」
 カリーマはミゼルドまんじゅうをほおばりながら、ハルのすごい顔を真似して見せた。
「ああ、やっぱり神殿にも通路が続いてたんだ」
「この先には、何があると思いますか。イオさん」
 どことなく思いつめた口調のセイエス。リヴは心配そうにその様子を見やる。
「女神像の仕掛け通路か。いや、こういうことは得意じゃないのだが……やはり女神に何か関係があるのではないか?」
「だろうね」
 メルダは組んでいた腕をほどくと、穴の中へと身を乗り出した。
「わわっ、メルダさん」 
「これセイエス、手をお放しよ。ちょっと先を覗くだけだから」
 カリーマに言われてロープを手繰り寄せ、彼女は単身、地下へと降りていく。
「ど、どうですか? 影さんとか、いたりする?」
「お待ち。今、灯りをともすから……!」

 光の元でその通路を見渡したメルダは、思わず口元を覆った。
 赤色の氾濫。床も、壁も、天井も、すべてが赤く塗りたくられている。最初は炎の海かと思い、偽の感覚に手を引っ込めた。次にはほの暗い赤に包まれ、自分が赤ん坊に戻ったような眩暈に襲われた。周囲が大きく、自分がちっぽけに思えてしまう。
「なんだい、この赤は」
 壁に触れた感触は、迷宮のそれとそっくり同じの石壁だ。目を落とす。手のひらが朱に染まったのではないかという錯覚。
「黒い扉に白い薔薇……赤い壁」
 通路の先へ向き直ると、ほのかな輝きがメルダを呼んでいた。黒い扉が、黒く輝いている。
「おかしくなっちまうよ。どうなってるんだい」
 そろそろと、足を踏み出した。音のない旋律に呼ばれているような気がした。
 黒い扉の前で、メルダは足を止めた。悪い予感がした。誰かが倒れている。
 バウトが顔色を失ったまま、眠るようにくずおれていた。
「なんてこった」
 舌打ちしたメルダは、彼を背負って来た通路を戻る。黒い扉が、ゆっくりと漆黒にまたたいたような気がした。背中のバウトは、ぴくりとも動かない。彼の身体は、吐息や鼓動を忘れたかのように、ただ静かに動きを止めていた。

■Scene:名も無き者の夢路


 その後。皆が忘れた頃にハルは戻ってきた。身体中に草の葉や泥はねをつけたまま。
「遅いよう! バウトさんが見つかったの。それも、人形みたいになっちゃって!」
「何だって」
 ばりばりと身体中をかきむしりながら、ハルは低くうめいた。気分は爽快だったが、身体のむずがゆさだけは如何ともし難い。森で過ごした時間のうちに、天啓のようにハルに訪れたものがある。白い少女たちの夢。しばし思い出してはその歌声の余韻に浸りながら、太い腕は忙しく背中をかく、といった状況であった。
「どういうことだ、ハルハが絡んでいるのか?」
「会長たちじゃないことは確かよね。バウトって結構お気に入りだったんでしょ。ばれたらすごいわよーきっと」 
 ぞぞぞ、とカリーマは身を震わせる。

「恐ろしいことだ……いったいこの街に、何が起きているのだ?」
 イオは机に拳を叩きつけ、唇をきつくかみしめた。白い肌からは血の気が失せている。
「我らが自ら招いた災いなのだろうか? それとも何者かの意図があるのか? ……バウト、そなたは何を知っているのだ?」
 ソラが寝ていたのと同じ寝台に横たえられたバウトは、黙して何も語らない。
「事実は消せない。なかったことにはできない。忘れてしまったように見えても、必ず誰かが語りかけてくる。そうだろう? イオさん」
 迫害されていた人々。その想いを我が身に受け止めながら、ハルが言った。
「種はずっと昔に蒔かれていたんだ。ずっと昔、おそらく千年以上前に」
「だがミゼルドが神話時代、抗争に巻き込まれたなどという記録は……」
「どこにもないよ。そんな記録は」
 だって残されなかったんだからね。メルダがハルの言葉を引き取って続ける。
「イオさん、ミゼルドは昔牢獄だったのです。おそらくは《風霜の茨》なる御名の神と、その信徒が投獄されていたのでしょう」
 セイエスは、心許ない表情でイオを見やる。
「記録ならここにひとつだけあります。イオさんがくださった、この文書です。お読みになったとおっしゃいましたよね」
「ああ。だが……捏造の可能性もあるし、正直なところ分からないのだ、私には」
 珍しく、イオの歯切れが悪かった。混乱。迷い。
「女神がこの街にいたことの証明……になりうると、私は思った。だが同時に、この文書は《愁いの砦》を否定する文書となるのだ。苦難を受け、人々を救ったのは《愁いの砦》ではない、知られざるもうひとりの女神、《風霜の茨》である……」
「それを堂々と発表して、何がまずいの?」
 リヴが口をとがらせた。三柱の兄弟神に加えて、神さまが一人増えるくらい、どうということはないように思える。
「どうだろうねぇ」
 メルダは難しい顔をつくる。問題は《茨の民》が残した言葉だった。
 大いなる砦に隠されてしまった……。
「《風霜の茨》のことは……今のところは、私の胸の内に留めておくことにしよう。セイエス殿」
 迷いを残したままイオが呼びかける。セイエスが顔をあげ、口を引き結ぶ。
「話を聞けば聞くほどに、私はミゼルドを救いたい。ミゼルドに住まう人々が、これ以上苦しむことのないように。またもしかつてミゼルドに生きた《茨の民》が、やはり苦しんでいるのなら、彼らもまた例外ではないと思う」
 セイエスはうなずいた。
「我らの力で、彼らを救うことができるだろうか?」
 あらゆるすべをもって。セイエスは答える。その目はちらりと、カリーマに泳いだ。視線をとらえたカリーマは、ぐっと親指を立てて見せた。

■Scene:?


『すべての民の苦痛を鎮め、救いを示すため』

『永久の安らぎを。死して猶、苦しむことなきように』

『大いなる砦よ許し給え』

『我ら希う。《風霜の茨》眠りしみささぎの、かき乱されることなかるべく』


第5章へ続く


第4章|崩れゆく聖域砦への道不浄の果てと心の行方歪んだ天秤マスターより