第4章|崩れゆく聖域砦への道不浄の果てと心の行方歪んだ天秤マスターより

断章 海と時計台

■Scene:ミゼルド


 ミゼルドの夜は、闇ではない。大門が閉じられ、その日の取引が終了した後は、ふところの温かい者たちが、思い思いに享楽の時間を過ごせる場所へと散っていく。広場の街灯は、格好の待ち合わせ場所だ。宵闇に隠れることもなく、堂々と逢瀬を楽しむのがミゼルド流らしい。
 セイエスは何十回目かの寝返りを打った後、渋面で起き上がった。隣の寝台では、旅人たちがぐっすりと休んでいる。窓に目をやると、月ははるか高い。夜の住人たちにとっては、これからが本番の時間と見えた。上掛けだけを羽織ると、セイエスの足は自然と聖堂へ向かう。
(アストラにいたときは、眠れないなんてことはなかったのに)
 日々祈りを捧げ、子どもたちの勉強を見、読書会で議論を戦わせる。大神殿の一日はとても静かで、そこから一歩も外に出ない日だって普通にあった。それでも夜の祈りを終えると、セイエスはいつも満ち足りて、ゆっくりと眠りに落ちていったのだ。
(絶対今のほうが身体を動かしてるし……疲れているはずなのにな)
 等間隔にゆらめく柱廊のトーチをぼんやりと数えた。夜風が涼やかに吹き抜けていく。セイエスは上掛けの前を合わせた。

「……私は間違っていたのだろうか。私のしたことは、これでよかったのだろうか。女神よ、お慈悲を」
 祭壇の前に跪き、一心に、加護を乞う祈りをささげているのは神殿騎士イオ。
 彼女の背後には、金の鍵の紋が染め抜かれた正装のマントが、白々と広がり、夜風にあってかすかにうねる。
 柱廊のトーチと祭壇の聖火のほかに明かりはない。ほの暗くがらんとした聖堂の中で、イオの銀髪と白いマントだけが、夜の星のように浮かんで見えた。
「……私はここへ来るべきではなかったのだろうか。マリツィアの街で、変わらず時を過ごしているほうが……」
 声をかけようか。逡巡していたセイエスは、不意に途切れたイオの言葉に思わず息をとめた。
 イオはそのまま面を上げ、しばし女神像を仰ぎ見て、そのままセイエスを振り返ることもなく、再び言葉を紡いでいった。
「……あるいはマリツィアで過ごそうとも、ミゼルドに来ようとも、何も変わらなかったのだろうか」
 セイエスは安堵し、そして安堵した自分を訝った。
 なぜ、声をかけなかった? なぜ、気づかれなかったことに、ほっとしたのだ?
「……許されるならば、女神よ、そしてその兄弟方よ。私の選択にふさわしい道を示したまえ」
 セイエスは柱の影に手を添えたまま、微動だにせず彼女の独白を聞き届けることになった。

■Scene:マリツィア


 《大陸》の中原、ランドニクス帝国領のほど近く。親帝国派の王が治めるとある国の、商港マリツィア。
 イオは港に浮かぶたくさんの船を眺めながら、裕福な商家の一人娘として不自由なく育った。イオの家はマリツィアで一番高い建物で、彼女は屋根裏部屋から身を乗り出すようにして、出航する船の澪を眺めたり、帰港する船の汽笛を聞いたりするのが好きだった。

「ねえ父上、このおうちももっと、高くしてください」
 幼いイオは、父の膝に身を預けてねだった。
「マリツィアで一番高いじゃないか。まだ足りないのかね」
 イオはぶんぶんと首を振る。
 一番立派なイオの家よりも高く聳え立っているのは、マリツィア神殿の時計台だった。あの時計台からなら、マリツィアの外海までも見えるに違いない。
「時計台より高くだって? そりゃあ無理だよ、イオ」
 父は笑った。思い返せば、せせら笑うような笑みだった。
「神殿は兄弟神さまの家だよ。神さまの家よりでっかい家を建ててしまったら、神さまが空から自分の家を探せなくなるだろう?」
 そうしたら兄弟神さまに、おうちに来てもらえばいいのに。
 私の寝台、つめればもうひとりくらいなら、一緒に寝られるわ。

 だからイオが学校に通うようになり、ほどなくして放課後には神殿にも通うようになったのは、至極当然のことだった。
 最初は、時計台に登りたかった。外海を見たかった。やがて賢いイオにとって、その理由は建前だけに変わり、信仰と神学に対する興味が芽生えると、すぐに彼女は夢中になった。年老いた神官と、信徒たちとともに、兄弟神について話し合う。あっという間に時がたち、彼女は時計台も屋根裏からの眺めも忘れて、のめりこんだ。

 マリツィアの高等学校は14で卒業だった。もちろんイオは、年老いた師のもとで神官になるつもりだった。あらゆるものに心を開け。そう教える女神に、これからの日々を捧げるつもりだった。
「神官になるだと!」
 だからイオには、理解できなかった。なぜ父が、こんなに自分を罵倒するのか。あらゆるものに心を開けば、お互いが分かり合えるのではなかったか。
「僧籍など許さん。もう決まってるんだぞ、相手は」
 イオは目を見開くしかできなかった。
 差し出されたのは、自分自身の婚約届。
「おまえも知ってるだろう? 帆船工房のところの坊やだ」
 知っているどころではない。昨日まで神殿で机を並べ、兄弟神の教えについて楽しく議論を戦わせていた、話のわかる学友テオリアス。彼はひとことも、そんな話があることを言わなかった。知っていたら言っただろうに。この婚約は、両家の親が決めたものであることは明らかだった。
「この家は今資金繰りが苦しくてな。うちに泣きついてきたんだよ」
 父はご機嫌だった。優しい母は、目を合わせようとしなかった。
「聞きなさい。この帆船工房はうちのものになったも同然だ。そうしたらな、イオ。おまえの欲しがった、時計台より高い部屋だってつくってやれるんだぞ」
 父は知らないのだ。イオの中で、何もかもが変わってしまっていることを。

「……そう、だったんだ」
 神官の部屋で、イオの口からその事実を告げられたテオリアスは、驚いてそれきり言葉をなくした。老神官は黙っていた。俗世の事態は彼の手に負えるものではない。イオもテオリアスも、そのことは理解できる年だった。
「俺は学校を卒業したら、この神殿を建て直そうと思ってた。でもイオの家に婿養子に入るなら、もう俺は大工じゃないんだな」
 テオリアスは、第二の学び舎の壁をいとおしそうに撫でた。海風に吹きさらされた神殿は、イオの目にも疲弊しているのが分かった。テオリアスの無骨な指を、その優しい触れ方を、目にしたイオの胸が知らずに高鳴る。彼の父が作り上げたいくつもの船を、幼いイオは屋根裏からよく見下ろしていたものだった。だが、テオリアスの手が作り上げるはずだった船を、もう見ることは出来ないのだ。二度と。
 婿養子! 恐ろしい響きに、イオがかぶりを振った。
「神殿の再建なんて、イオの父さんにとっても悪い話じゃないと思うけど」
 肩をすくめるテオリアス。イオはそれでも渋面をくずせない。
「……父は、何もかもを馬鹿にしている。テオリアス、あなたのことも、私のことも、神々のことも。自分以外は何者も愚かだと」
 僧籍なんて許さない。帆船工房がうちのものになる。父の言葉に潜む、数々の暴力。テオリアスが耳にしたならば、きっと嫌いになるだろう。
「それでも」
 テオリアスは明るい口調で言った。その明るさが、イオを傷つけまいとする学友の優しさであることは、痛いほどよく分かった。
「俺はイオを縛らない。俺たちが結婚したら、イオは自由に神学に打ち込めばいい。在家の信徒だっているじゃないか」
 そうなのだ。少なくともテオリアスは、父のような人種ではない。神学の話もできたし、誰より分かり合える友だった。イオは彼が好きだった。
 例えばこれが、勝手に決められた婚約でなかったなら。お互いが心を通わせて育まれたものであったなら、すべてが変わっていたはずなのに。イオは素直にテオリアスの優しさを受け入れ、彼の側で過ごす時間に生涯を捧げただろうに。
「……すまない、テオリアス」
「分かってる。僕は君を苦しめない」
 振り向いたテオリアスは、微笑んでいた。

 その夜。
 彼らはふたりきりで、秘密の結婚式を挙げた。老神官だけがそれに立会い、女神へ誓った契りを見届けた。波音と潮風が、彼らの門出を祝した。
「おいで、イオ」
 彼女のドレスは、老神官の古着を急いでつくろったものだった。夜の魔法が、それを純白の衣装に変えたのだ。誘われるがままに、イオは夫の手を握る。テオリアスはその手をひきながら、細い階段を駆け上った。
 螺旋階段は、時計塔へ続いている。イオの胸が、どくんと脈打った。ドレスの裾を片手でからげ、前を行くテオリアスの背を眺めながら、ひたすら階段を、空へ向かって駆け上る。何時の間にかヴェールを跳ね上げ、息をはずませながら。
 時計塔から、今夜見える景色は……きっと一生忘れないだろう。
「着いたよ」
 時計の針の音が、ゆっくりと鼓動のように響く。大きな文字盤の横から、彼らは外に出た。
 あらゆるものがおもちゃの街のようだった。沖を行く船の灯りが、地上の星のようにきらめいている。マリツィアの街はまだ寝静まっていた。
 かちり。
 時を刻んで動く針の音に、一瞬イオは身体をこわばらせた。微笑むテオリアスは、イオの腰にそっと手を回し、はるか下を指差した。
「ご覧」
 夫が指さす先には彼の家、帆船工房が、海に向かって黒い口を開いていた。やがてイオの父のものになる工房。それとも、ふたりの仲を女神に誓った以上、すでに工房も父のものなのだろうか。イオには分からなかった。
「いいかい、イオ」
 テオリアスはささやいた。たった一日で、学友は驚くほど大人になっていた。
「朝になったら、工房へ行くんだ。ちょうど修理を終えたばかりの新しい船が、明日の朝出航する。それに乗りさえすれば、君はもう、自由だ」
「テオリアス……?」
 イオはゆっくり瞬いた。潮風がつんと鼻をさす。強い海風が、手製のドレスを勢い良く吹き抜けていった。
「自由って、どういう」
「……さよなら、愛する妻」
 イオ。そっと彼の口が動き、そしてそのまま。
 腰の高さほどの柵から、テオリアスは身を投げた。
 あお向けになって、最後までイオから目をそらさずに。

■Scene:ミゼルド


 夜の月はすでに傾いている。
「……御座にすがる者にお慈悲を、苦しみを分かち合う者に幸いを」
 イオが静かに振り返る。
「聞き届けてくれたのか、セイエス殿」
 セイエスは聖堂へ降りてイオに非礼を詫びた。
「かまわない。第一……聞いてもらうべく話し出したのは私だから」
「でも僕は女神ではありません」
「女神の信徒ではあるだろう? 長い時間、退屈な昔話をよく終わりまで聞いていてくれた」
 礼を述べるのはこちらのほうだ、と言うイオに、セイエスは首を振った。
「いいえ。まだ、終わりではない……そうでしょう? イオさん。貴女の生は、まだこれからも続くのですから」
 セイエスの言葉にうなずいて、イオは歩き出す。
 もうじき朝一番の鶏が鳴き、ミゼルドはまた活気付くだろう。夜の魔法が解け、また一日が始まる。身にまとうのは古着のドレスではなく、神殿騎士の証のマントだ。
 イオに続いて聖堂を後にしながら、セイエスはどこからか潮の香りがしたような気がした。



END


第4章|崩れゆく聖域砦への道不浄の果てと心の行方歪んだ天秤マスターより