第6章|絶望を歌うもの|約束|人心を守る槌|女神の右腕|マスターより|
1.絶望を歌うもの
■Scene:廃園〜細くて強い糸
貴方の言葉が聞こえない。貴方の言葉は届かない。
貴方が私にくれる物、それは、希望でなく、救いでもなく、ただ、貴方の闇に引き込もうとする招待状。
そんな物、私はいらない。私はもう、光への招待状を貰ったから。だから、もう、それはいらない。ああ。
私は2通も、貰うことができた。だから1通は、貴方にあげたい。もしも貴方が、それを手にとり、きちんと読んでくれるのならば……。
セレンディアと、マンドラゴラの少女カイの手は、固くつながれたままだった。手を握るのと同じくらい簡単に、マンドラゴラたちは心もつないでしまう。美しい、優しい、けれど……人間がいないと生きてはいけない、かよわい人々。
知らぬ者が見れば、ふたりの姿は、仲の良い少女たちが戯れに手をつないでいるだけに見えただろう。彼女たちは、触れ合うことで言葉も要らず会話する。
(ねぇ、カイにもうひとつ、名前をつけてもいい?)
カイはぱちくりと目をしばたいて、微笑みながらセレンディアの首にもたれた。
(どんななまえ?)
(これからカイのことは、わたし……フィルって呼びたいの)
フィル。フィルディア。わたしの信頼。
(ふぃ……る)
セレンディアはうなずく。フィルの流れる黒髪に、そっと顔をうずめる。名前をあげたのは、大切な人だから。わたしも名前を、もらったのだから。
……会いたい、パパとママ。
(泣かないで、せれん。ふたりとも近くにいるよ)
マンドラゴラはすぐにセレンディアの心に触れ、彼女をなぐさめた。偽りの優しさやうわべを飾る言葉は、そこにはない。
(ありがとうフィル。そして、わたしを許してね)
(せれ……)
少女の細い首筋から顔をあげたフィルは、セレンディアの真紅の瞳を見上げて戸惑った。
何も見えない。感じない。
つないだ手から伝わるのは、セレンディアの奥深くに横たわっていた闇の深淵だった。
わたしはフィルを救えない。
わたしの血で元気になるフィルは、わたしがいないと生きていけないという。
わたしは生き続け、フィルは弱って枯れていく。
わたしはフィルを、救えない。
■Scene:廃園〜どこにもないもの
白い薔薇が見たいの。白い薔薇がたくさん咲く庭を、見てみたいの。それなのに。
どうして赤い薔薇が咲くんだろう。
「せれん、どこにいるの……?」
フィルとカイ、ふたつの名をもらった少女は、何時の間にかつないでいた手がほどかれていたことに気づいた。
「カイ」
「フィシス姉さま、せれんがいないの。さっきまで、いっしょにいたのに!」
オールフィシスに抱きつき、少女はぐずぐずと汚れた顔をぬぐった。
「まあ、カイ。泥だらけ」
すぐにオールフィシスは気づいた。泥の汚れだと思ったのは、血がこびりついて乾いた跡だ。よく見ればカイの顔にも、両手にも、白い服のそこここに、血の跡が見えた。
「どうしたの……」
しゃがんだオールフィシスはカイを抱きしめ、薔薇の茂みの根元に落ちた血痕を見つけ、泣きじゃくるカイの服の裾までもが朱に染まっているのを知った。
「セレンディアが、血を流したの?」
少女はうなずいた。あの時のセレンディアの、痛みと苦しみを思い出してカイの心は悲鳴をあげた。
(いたいの……とってもいたかったの。でも、せれんが、せれんが)
「かわいそうな子」
オールフィシスはそれだけを言葉に代えて、強くカイを抱きしめた。心を通わせた相手との絆が強ければ強いほど、感情の起伏はマンドラゴラにとって大きな波となる。マンドラゴラは翻弄され、波は時に刃に変わって襲いかかる。
(せれんをとめて。せれんがかわいそう!)
でも、幸せな子。
すぐにセレンディアの居場所は突き止められた。
ふらふらした足どりで、薔薇の茂みを一巡りした後、彼女は地下へと向かっていた。ニクスとブリジットが以前調査した、ロジオンの研究室。その先の茨の茂み。カイたちが生まれた、おそらくオールフィシスやソラも、ここから生まれたであろう茂み。
一帯が、鮮血に染まっている。茨の茂みの奥、根元にうずくまるようにして、目を閉じたセレンディアがいた。傍らに、刃が血塗られた短剣が転がっている。力なく伸ばされたままの腕に、真新しい傷口が開いていた。
(あ……ああ……あああ…………あああああああ……)
カイはすとんと両膝をついて、茨の下にくずおれた。
(いたい……せれんが、いたいって……いたい、いたいよおおおおああああ、あ……)
「誰か!」
オールフィシスは絶叫する。
「旅人のみなさん、助けて!」
赤い、赤い、赤い夢。
白い薔薇の咲く庭が見たいの。白い薔薇が笑う夢が見たいの。
それなのに。
ただちにセレンディアは助け出され、手当てを施されて寝台へ寝かされた。傍らにはカイが、ただセレンディアの傷のないほうの手を握り締め、ひたすら彼女の心のゆくえを探していた。
■Scene:廃園の夢〜幾千もの欠片
セレンディアは夢を見る。真っ赤な真っ赤な夢を。
「夢は見ないの、わたしたち」
「夢は見るけど、それはわたしたちの夢じゃない」
赤い服を着た少女たちが乱舞する。痛い、苦しい、辛い、悲しい。その輪の中に、セレンディアが佇んでいる。白いドレスを、りぼんの先まで血に染めて、柔らかい革のブーツを、じっとりと血に濡らして。
セイエスが、彼方に見える。白衣をはためかせている。金の鍵がその胸で輝いている。
泣いているのは誰だろう。小さく背を丸めて、両手で顔を覆っている。赤いワンピースの裾が丸く広がって、まるで赤い薔薇の中にいるみたいな、ソラ。
(泣かないで……おびえないで)
身を震わせたままのソラに、セレンディアの想いが伝わっているかどうかは分からなかった。けれど心はまだ通じているのだと信じて、セレンディアは想いを注ぐ。
(わたしたちは、生きている。傷つけられれば身がすくみ、打ち震える……それは当然のこと。はずかしいことでも、まちがったことでもない)
生きていきたい。なぜ? 新しい誰かを知るために。出会えなかった人たちと再会するために。たとえばパパとママ。たとえばフィル。
だからもし、最後に願いがかなうなら……。
「なんという過去を、この場所は背負っていたのじゃろう。忌まわしきは、わしらの先達どもよ……」
重苦しい慟哭に、セレンディアは振り返った。赤い少女たちのかわりに老人の姿が映る。顔には険しいしわがいくつも刻まれ、背も腰も苦しげに折り曲げた老人は、誰に聞かせるともなく呟く。
「女神の残した《薔薇の鍵》。それさえこの世に見出すことができるなら……」
オールフィシスさんの、パパだ。学者のロジオン先生だ。
セレンディアは彼の顔を見上げた。オールフィシスとは似ても似つかない。それでも彼女が辛苦を乗り越え年を経れば、あるいはロジオンとよく似た顔になるのだろうか。
「《薔薇の鍵》って?」
ロジオンに声をかけたのはセレンディアの隣にいた男の子だ。浅黒い肌の彼は、《精秘薬商会》の店主だろうか。まだ幼いバウトは、興味津々といった表情でロジオンに尋ねる。
「その鍵を見つけると、どうなるの?」
「救えるならば、救わねばならない」
ロジオンの視線は、セレンディアを突き抜けてはるか先を辿った。
これは夢。この場所が、廃園がわたしに見せる夢。
「誰の話をしてるの、ロジオン」
ついていけずにむくれるバウト。彼は幼い頃から、ロジオンと対等の友人であったらしい。親子以上も年が離れていると見えるのに。
「《愁いの砦》の教えを知っているかね、バウト」
うん、とうなずいたバウトは、景気よく一息でその聖句をそらんじてみせる。あらゆるそんざいにこころをひらけ……。
「歴史に没した《風霜の茨》と《茨の民》。救えるならば、救わねばならない。女神の教えにかけて」
ふたりのそんなやりとりを、頬杖をついて眺めるセレンディア。
「時々、不思議に想うことがあるのです」
オールフィシスは悲しみをたたえた瞳で言った。
「どうして初めて会った人のことを、家族のようによく知っているのか」
口をつく言葉、お帰りなさい。そしてようこそ、はじめまして……。奇妙な挨拶。居心地の良い、安心感。
「ロジオンの娘さんだって?」
久方ぶりにミゼルドへ戻ってきた彼は、目を丸くしたものだ。
「俺はバウト。でもあの堅物先生に、こんな年の離れたお嬢さんがいるなんて、ちっとも知らなかったぜ」
幼い頃から変わらない、屈託のない笑顔。
「で、そのロジオンはどこだい? 土産があるんだ」
旅装のまま廃園を訪れた青年は、大事そうにその包みを取り出した。
「南で手に入れた、最高級の実験器具一式。すごいだろ? なんか新しい実験を始めたいとか言ってやがったからねぇ」
「これはすまんな、バウト」
時を置いて再会した友人は、また少し年をとってやつれたように、バウトには見えた。
「礼なんていいよ。なんかイイものができたら、うちの店に並べさせてくれればな」
むせかえる芳香。濃密な薔薇の香り。
セレンディアは夢を見る。真っ赤な真っ赤な夢を。
「……あんたも、そう思うかね? わしの娘に良く似たお嬢さんや」
最初、それは自分にかけられた声ではないと思っていた。これは夢のはずだから。すでに通り過ぎてきた記憶たちの見せる幻、セレンディアの知らない出来事のはずだから。
何の、話? 誰が、何を、どういう……こと?
きょとんとしたままのセレンディアは、ロジオンの語る言葉についていけず、置いてけぼりだ。
「あんたも、わしと同じ結論に辿り着いたのだろうな。だから、わしにはあんたのその気持ちはよくわかる。ありがとうよ」
節くれ立ち乾いた指先が、つとセレンディアの頬に触れる。瞬間いつものように、少女は身をひいた。老人は笑っていた。その指先は真っ赤に染まっていた。おびただしい量の鮮血がロジオンの衣服に生臭い染みをつくりだしている。
(……ロジオンさん)
セレンディアの視界も染まる。赤い血の色。赤い薔薇の色。
「ありがとうよ。わしはただ救いたかった、それだけじゃ。じゃがわしのやり方では、みなを等しく、救うことにはならんかった」
(ロジオンさん!)
「後悔などしておらんよ。娘のために死ねるのじゃからなぁ」
セレンディアはその微笑みを理解した。老人は血にまみれた衣服の上を、さらに何度も斬りつけた。手にしたナイフがぬるぬると脂ですべっても、彼はやめようとしなかった。
そして彼が息絶えた時、その茨はふるふると震えながら歌い始めたのだ。父の死を悼むように。あるいは生の喜びを?
白い薔薇が咲く。ロジオンの血を残らず受け止めた、オールフィシスの妹たちが4輪。
■Scene:廃園〜誰かの祈り
(わたし、わたしのしたことは)
セレンディアは真っ赤な世界の中で考えた。どこかでロジオンとつながっているような気がしていた。
彼の行為を狂気の果てと言うのはたやすい。それならわたしの行動も、狂気なのだろう。でも。
(せれん……せれん……)
ああ、フィルが呼んでいる。いかなくちゃ。
「カイが目を閉じたままなのです。もしかしたらあの子、セレンディアと一緒に行くつもりなのかもしれません」
「何だって」
オールフィシスさんとバウトさんが、話している。あっちは赤くない世界。
「ソラと違って、カイは生まれてすぐ相手を……セレンディアを見つけて、深く結びついてしまったから」
「それは良いことだが、しかし」
バウトさんの声が、沈んでいる。
「このままセレンディアが目覚めなかったら、カイも一緒に……ってこと、か」
オールフィシスさんの返事はなかった。でも、きっとうなずいたんだろう。たゆたう意識は、赤い世界に囚われたままのセレンディアは、ぼんやりと考える。
(フィシス姉さん、ソラたちが……)
その意識はセレンディアの心にも流れ込んできた。トワが、オールフィシスとバウトの手を取ってささやいたのだ。
「ソラが?」
トワの思い描く心象が、その手を伝ってふたりへ届く。
(赤い薔薇が……赤い薔薇がソラをつかまえようとしているの、どうしよう)
「赤い薔薇はどこにいるの?」
(どこか、とても深いところに)
トワの心が震えていた。怯えととまどい。それはソラの心の揺れを受けたものだった。
■Scene:廃園〜やがて来るその時のために
「ソラが答えを出す。私たちも、出さなくては」
オールフィシスが静かに言った。足元に、彼女の妹たちがしがみつく。オールフィシスは慈愛の腕で、妹たちを抱きしめた。
「父と同じことを繰り返してもらってまで、生きていくわけにはいかない」
二人目がすでに、血を捧げている。この先三人目、四人目が現れたとしても、マンドラゴラたちの悲しみはいや増すばかりだ。
「生きていくのに必要なのは、ほんの少しの血じゃないか。後は心を通わせる相手の想いさえあれば!」
本当は俺が、二人目になるつもりだったのに。
口に出さなかったバウトの言葉も、マンドラゴラは感じ取る。
「いいえ」
オールフィシスは、優しく首を振った。
「父もそれは、望まないでしょう」
「でも!」
「父のお陰で、わたしはここまで生きることができた。ただの薔薇ならば、何も残さなかったでしょうけれど」
妹を抱くオールフィシスの腕に、力が込められる。
「妹がこんなにたくさん、そしてあなたと過ごすことができて」
「そんな言葉は聞きたくない」
バウトの拳が、乱暴にテーブルを叩いた。
「ロジオンは言った。《薔薇の鍵》を見つければいいんだ。ニクスたちだって探してる。もうすぐ墓所は開くだろう」
オールフィシスは目を伏せる。
「《茨の聖母》とは、《茨の民》を赦し救いを与えるもの。父は自ら為し得なかったことを、私に託したのでしょう……」
そして、凶報がもたらされる。《ミゼルの目》がついに立ち上がったのだと。
第7章へ続く

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