第6章|絶望を歌うもの|約束|人心を守る槌|女神の右腕|マスターより|
4.女神の右腕
■Scene:廃園〜帰ってくる場所
ブリジット・チャロナーは、意気揚々と帰還した。
「ただいま〜」
「ブリジット!」
オールフィシスがお帰りなさいの言葉をかけるより早く、ジャグが飛び上がらんばかりの勢いで戸口に向かう。寝台に横になっていたバウトさえ、何事かと半身を起こす。
(ブリジットが戻ってきたのね)
バウトに付き添うマンドラゴラたちが、くすくすと微笑みあっている。
「戻ってきたか」
と呟きながら出迎えたのは、ニクス・フローレンスだ。ソラを闘技場へと連れて行った後、休息と事象の整理を兼ねて、彼も一度廃園に戻ってきていた。彼の後ろからは、アルフェス・クロイツハールもついていく。
「お疲れさん。収穫は?」
ニクスの問いに、ブリジットは首を斜めにかしげて答えた。
「うーん、そうね。トリセツはなかったけど、いい目の保養ができたな〜」
「へえ」
「目の、保養?」
アルフェスはニクスの陰で、トワやワカと目を見合わせる。
「あはは。ってのは冗談だけど、会長たちのコレクションはちゃーんとイオさんのところで保護してもらったから、大丈夫よ」
ジャグは何も言わず、ぶすっとした顔で立ったままだ。怖いなあ、と思いながらブリジットはこれまでの成り行きを説明する。
精油を交換条件に、うまいこと会長たちの隠し部屋に入り込めたこと。会長は黒い鍵を使って、人形の鍵を外していたこと。黒い鍵はハルハが与えたものだけど、心の珠を扱えるのはハルハだけみたいだったこと。
「ちょうどいいときに精霊使いクンがやってきてね、道をつなげてくれたんだ。それで会長たちが戻ってこないうちに、片っ端からお人形たちを脱出させたの。そんなわけで、ちょっとばかり汚れちゃったけど」
はさはさと手で払うと、明るい栗色の髪から細かな砂埃が落ちてきた。
「これでもう、決まったと思わない?」
「決まったって?」
「んもう! もちろん」
突然声を潜めると、ブリジットはニクスやジャグ、アルフェスを手招きして囁いた。
「バウトさんが気にしてたっていう、ロジオンさんの話。あれを確かめて、後はふたりに心を決めてもらっちゃえばいいでしょ?」
オールフィシスとバウトが、旅人たちの輪を不思議そうに見つめている。
■Scene:地下迷宮〜遠い安息
「赤い通路と、ハルハさんが問題なのよね」
地下へと続く階段の前にどっかと腰をおろし、ブリジットは手持ちのランタンをいじっている。
「黒腕のメルダさんほどの人まで呑んじゃうくらいだもの、半端じゃないわね、きっと」
バウトがゆっくりと近づき、ブリジットの隣にかがみこんだ。
「行くのか」
「もちろん。準備は万端よ」
「こら、あんたは病人なんだ」
ジャグがバウトの肩を押しやる。いとも簡単に、青年の足元はふらついた。
「ほら。まだ本調子じゃないんだから」
「ちゃんと寝てなきゃ、オールフィシスさんが心配しますよ」
帽子を押さえたアルフェスが、バウトと同じ高さにかがみ、めっ、と頬をふくらませる。
「早く元気になってもらわないと、こっちが困る」
ジャグが見下ろすのは、ランタンに仕掛けをほどこしているブリジットだ。器用な手つきで、見る間に緑色の薄硝子を差し込んでいる。
ブリジットは、何としてでもオールフィシスとバウトをくっつけるのだ、と息巻いていた。トレジャーハンターの説によれば、それがオールフィシスを救う鍵になるのだという。男女の関係にそれほど聡くはないジャグの目から見ても、オールフィシスとバウトはそれなりに仲がよさそうだから、そのことには別に異論はなかった。
「大丈夫よ、仕掛けの目星はだいたいついてるから。バウトさんはゆっくり休んでて」
手にしたランタンをぐいと突き出し、ブリジットは片目をつぶってみせた。
「たぶん、この庭園が一番安全だろうから」
「あんたの代わりくらい、俺だってできるさ。鍵もなしに扉に突撃するなんて、目算あってのことだったんだろ?」
ジャグが鼻を鳴らす。
「いいか、あんたの身体を治すのは、あんたにしかできないことなんだからな」
バウトは不承不承、寝台から離れないことを約束した。
最初にランタンを掲げたブリジットが、次いでジャグとアルフェスが、しんがりにニクスが続いて階段を下りていく一行。
「ロジオンって人も、よく分かんねぇな」
「そうねえ。もういない人のことは、なかなか分からないかもね」
口々にのぼるのは、オールフィシスの父ロジオンの残した願いと、扉の先に待つもののことだ。
「バウトもオールフィシスも、死んじゃった人の言葉に捕らわれすぎなくてもいいのに」
「そりゃあそうだが」
言葉を引き取ったニクスが、どこか淋しげな口調で続けた。
「……もういないからこそ、その言葉が深く残るってことは、あるかもしれないぜ」
「マンドラゴラさんたちなら、きっと分かってくれるんです」
アルフェスの視線は足元に落ちた。深く深く、はるか古代へと続いていく階段。ひんやりした石壁の手触り。千年前の誰かも、同じように足元を見ながらここを下っていったのだ……あるいは、登ってきたのかもしれない。そう考えると、暗い地下を怖いとは思わなかった。
それに、耳をすますと聞こえてくる。アルフェスの心に、マンドラゴラたちの歌声が響いている。
「遠く離れてても、マンドラゴラさんたちのことが分かります。これならハルハさんも、淋しくなんてないのに」
ソラを連れ去り、それだけでは飽き足らないハルハ。かわいそうだ、とアルフェスは思った。
「これは推測だけど、バウトさんの話を聞いて閃いたの。扉を守っていたのは、きっとハルハさんの幻だと思うな。バウトさんが扉に触れたから、罠みたいなものが作動したんじゃないかって」
「触れることでスイッチが入る罠なら、確かにあるけどな」
ジャグがうなずくのへ、ブリジットは我が意を得たりとまくし立てる。
「こういうのはどう? 扉に触れて罠が発動したらすぐに、かわすの」
「……かわせないようなところに仕掛けるから、罠が有効なんだが」
「殺傷目的ならそうかもしれんが、この場合はなぁ」
ニクスが顎をさすりつつ、思いを巡らせる。
「ブリジットが言うように、ハルハの幻が扉を守る仕掛けなら、近づかないようにすればいいだけだからな」
ニクスの腕を固める銀色の篭手は、地下へ降りるにつれて、帯びる光を嬉しげに強めていた。
「ほむー。バウトさんの言った《薔薇の鍵》……気にかかります」
ため息がアルフェスの唇から漏れる。
■Scene:地下迷宮〜生ある者へ
程なく彼らは赤い通路へ辿り付いた。ミゼルド神殿の地下にあたり、メルダが探索を試み、バウトが発見された場所だ。どこまでも赤いその空間は、異様な威圧感に満ちていた。
「こりゃ、姐さんがひるんだのも分かるな」
篭手を顔にかざしてニクスがうなった。銀色のはずの篭手も、生々しい赤色を映して脈打っているように見える。
「ふふ、ランタンちゃんの出番よ!」
景気よく掲げていたランタンに、ブリジットは手製の色硝子を静かに差し込んだ。緑の透過光が柔らかな日差しのように広がっていく。やがて赤い光はランタンの緑に溶けるように沈み、旅人たちの周囲には、赤みを帯びてはいるものの、見慣れた色彩が少しずつ戻ってきた。
「はう……目が、ちかちかしますぅ」
ぱちぱちと大きな目を瞬いて、それからアルフェスはごしごしと両目をこすった。少し頭が痛い。この目で見た光も、マンドラゴラたちは、感じるのだろうか。歌声はかすかで遠かった。
「これぐらいなら、夕日を浴びてるって思っていいんじゃない?」
腰に手を当て、ブリジットは大きな胸を得意げに張った。
「不吉な赤だな。精神的な罠ってやつだ」
ジャグは通路の壁に手をはわせながら、素早くあたりに目を配る。赤は炎の色。そして血の色だ。
「バウトも、バウトだ。よくこんなところに一人で乗り込む気になったもんだ」
「ロマンよ。そして、愛! キャー」
地下へ潜ってからというもの、終始ブリジットはご機嫌だ。どちらかというと、お人形遊びの時よりも血色が良いかもしれない。
「これは《茨の民》が仕掛けた罠かな」
ニクスの問いに、ジャグは首を振った。
「彼らはこのルートは通らなかったはずだぞ。ハルたちが地下を調べた時も、道案内した連中はここには来なかった」
明らかに、この通路のほうが扉には近い。それでも《茨の民》、あの黒い影たちは、別のルートを辿って扉のありかを示していた。
「仕掛けは単純で永続的なものだから、千年前から赤かったとしてもおかしくはないけどな」
「簡素なものほど、長持ちするもんね」
ブリジットは再びランタンを高く掲げる。行く先に、妖しく黒光る薔薇の扉が見えた。
■Scene:地下迷宮〜招待
黒腕のメルダを招いた声なき歌は、ここから聞こえてきたのだという。黒い扉にはめ込まれた白い薔薇のモチーフは、離れた場所からでもはっきり見えた。
「鍵がなくても、本当に開けられるのか?」
ジャグがバウトから聞いた話では、開けることができるらしいのだった。近づいて見てみるが、鍵穴らしきものは見当たらない。つるんとした黒い壁に白い薔薇が咲いているだけだ。
「仕掛けといえば、怪しいものはこの薔薇くらいしか見つからないが」
それでもロジオンは、バウトに言ったのだ。オールフィシスなら《茨の聖母》になれるのだ、と。そのためには《薔薇の鍵》を取り戻せ、と。
「この先に《薔薇の鍵》があるなら、話がつながるんだがな」
「取り戻せって、おっしゃってました」
アルフェスが口をとがらせた。
「ってことは、本来の持ち主さんじゃないひとが、今はその鍵を持ってるってことですよね」
「だな」
ニクスがうなずく。篭手はいよいよ光を放ちはじめる。
「本来の持ち主も、今の持ち主も、誰のことか分かんねぇ」
さじを投げたジャグが肩を落とす。
「……呼んでる。聞こえる」
アルフェスが、ふと面をあげた。目の前に白い薔薇が、浮かんでいるように見えた。
「……だあれ? トワさん? それとも、ソラさん?」
アルフェスがゆっくりと扉に向かい、一歩を踏み出した。静かに腕をあげる。夢の中で少女と戯れた時に、薔薇を受け取ったそのときのように。
「この声は……だあれ?」
アルフェスの手が、扉の白い薔薇に触れた。
「離れて!」
ブリジットが叫ぶ。すぐさま俊敏な青年たちが、両側から少女を抱え込んだ。ブリジットは身を低くして飛び退る。目の前に、ハルハがいた。
「違う。ニセモノだ」
ニクスにはすぐに分かった。闘技場で目の当たりにした彼には、もっと不思議な気配があった。そして篭手がざわめいた。今現れたハルハは、彼の影のようなものだった。
「それなら容赦はしないわ!」
再び叫んだブリジットは、ハルハの顔をめがけてポケットの中身を投げつけた。
「あ、《精油》だ」
ぱりんとも、こつんとも、音を立てることなく精油の小瓶がハルハの身体をすり抜けていく。
「防御装置か」
アルフェスをかばったまま、ニクスは篭手を眼前にかざして光の粒を呼んだ。ハルハはすっと立てた指を口元に寄せる。その動きはバウトから聞いていたのとまったく同じだった。
「これと戦ったら、本体にもバレるか? ま、いいよな……喰らえ!」
何千という光の粒を一気にぶつける。衝撃にハルハは大きくのけぞった。光の粒がまとわりついたところが、ゆらゆらと薄れて見える。あたりの空気がふわりと動き、旅人たちの衣服や髪を吹き上げた。
「楽勝」
彼の背後にいたアルフェスが身を起こすと、すかさずたたっと扉へ駆け寄った。魔法の札を両手で持って、ぺたりと扉に貼りつける。
「《そのしろしめすところ あまたのひかりにてらされにけり》」
内側からの力が、札をびりりと引き裂いた。痺れる感覚が、扉に触れていたアルフェスの手を弾く。
「ああっ!」
「アルフェス!」
ニクスが身を翻した。
(赤い……薔薇)
不意に聞こえてきたのは、アルフェスの声ではなかった。心を通して響く歌声。旅人たちは動きを止めた。ハルハの幻も、薄れて消えかけていた。打ち勝ってみれば、それは素朴な木偶人形だった。
■Scene:地下迷宮〜眠れる薔薇の森
その声は、不思議な二重奏となって響いていた。
(赤い薔薇……それは最初の)
「これは、セレンディアの声」
ニクスはその声の主を懸命に思い出そうとしていた。心に浮かんだ少女は、言葉を持たない。彼女の声を、ニクスは知らない。けれどもそんな気がした。
(最初の……)
「もうひとりいます。もうひとりはマンドラゴラさん……」
アルフェスが呟いた。トワたちの妹、後から生まれた、おそらくはカイ。
「泣いてる。みんな、泣いてます」
マンドラゴラたちは、いつもにこにこと微笑んでいた。ジャグは落とし穴で楽しそうに笑っていた少女たちを思い出す。
「教えてくれ、どうして泣いている? カイ! リクとクウはどうしたんだ!」
(最初の血……最初の死……)
血の色の不吉な赤い薔薇。ブリジットは唇をきつく噛む。
「最初に流された血、最初に犠牲となった人。この扉の中で眠っているのは、《風霜の茨》ね」
ブリジットの中で何かがつながりそうだった。ものすごい勢いで考えがくるくると閃いて消えた。赤い光、緑のランタン。白い薔薇と、黒い鍵。人形になった人々と、マンドラゴラ……。
(最初の血、最初の死。もう薔薇は咲かないの。誰もそれを願わないから)
(わたしは……を、救えない)
(……わたしは……)
誰かの思考が、切れ切れに混じっている。アルフェスは帽子ごと頭を抱え、それでも魔法の札が示した力を読み解いた。
「鍵穴がないんです。だからこの扉は開かないんです」
(わたしは……を、救えない)
「鍵穴がない扉のために、鍵なんか存在しない!」
ジャグが叫んだ声と、ブリジットのそれが重なった。どうしてバウトは、鍵なしで扉に挑んだのだろう。どうしてロジオンは、マンドラゴラを生み出したんだろう。どうしてハルハは、この扉を守っていたんだろう。
「そう……だから、そう、なんです」
アルフェスの心が痛い。マンドラゴラたちが泣いている。
鍵を持つのは誰だろう。金の鍵を持つ《愁いの砦》のように、《風霜の茨》も秘密の《薔薇の鍵》を持っていたのだろうか。
どうしてハルハは、この扉を。
「熱い」
ニクスの篭手が、彼の手を包んだまま燃え上がるほどに光を放っている。
「ミゼルって女の話を聞いたときから、気にはなってた」
ニクスの額から首筋から、玉ぎる汗が滴り落ちる。篭手の光に落ちたしずくは音もなく消えた。
「この篭手を手に入れた時と、なんかかぶるんだよな……」
「ニクス!」
篭手の光に気づいたジャグが、駆け寄って触れようとした。
「やめとけ。どっか飛んでいってしまうかもしれない」
「ど、どういうことだよ?」
「廃園とよく似た場所があってな。茨が絡みつく塔だったんだが、そこで俺はこいつに憑かれたからさ」
アルフェスは息を飲んだ。ニクスの篭手から、たくさんの悲鳴が聞こえてきたように思えた。
「呪われてるの? それはあなたの宝物じゃあないのね?」
ブリジットのまなざしは真剣だ。出会った時から、陰を秘めた人間だとは思っていた。舞台の裏手で動く役目を持っている人なのだと思っていた。
「宝物っていうか、宝物を奪っていったっていうか……」
ぽりぽりと頭を掻いた後、にやっとニクスは笑ってみせる。人当たりのいい笑顔。長い孤独な戦いの中で、いつしか彼のものになった笑顔だ。
「こいつが俺を連れ出したのさ。果てのない迷宮にな」
行き先がミゼルドで、本物の地下迷宮だとはよくできた話だ。ニクスにはもう涙はない。マンドラゴラの痛みを感じ、いつの間にか涙を流しているアルフェスを見る彼の目は、とても温かかった。
「ミゼルも迷宮をさまよったのだろうな。そして灼熱の炎に焼かれた、生きたまま」
その前に光も失っていたはずだ。言い伝えによれば目を潰されたというのだから。
「最後に見た景色はきっと、真っ赤だったんだろうな」
口の中で呟くと、ニクスは篭手で扉に触れた。
■Scene:地下迷宮〜茨と薔薇
「あの篭手か……」
ハルハが呟く。張りのないしわがれ声だった。足元には色とりどりの球体が散らばっている。つま先を動かすと、乾いた音を立てて数個が転がり、別の珠にぶつかりながらゆっくりと動きを止めた。
「ミゼル、いつになったらキミは」
旅人たちが目にしたのは、そんな光景だった。
黒い扉の内側に広がる、奇妙な世界。むせ返るような血の匂いがたちこめるその場所は、地下の一室であるはずなのに、不思議な広がりを持っていた。スイが見たらば、その荒涼さを懐かしむだろうか。彼の生きてきた砂漠よりも、そこはもっと茫漠としていた。何もなかったからだ。砂も、吹きすぎる風も、わずかな植物も、何も。
ただ真ん中に、数段の階段を伴って黒々と聳える断頭台があった。
目に見えぬ死が充満している場所。それが、《風霜の茨》と呼ばれた女性、ミゼルの墓所だった。
「いつになったらキミは、教えてくれるんだ」
ハルハは断頭台に腰掛け、片足を無造作に投げ出しながらそうささやいていた。
断頭台には一人の女性の姿があった。高く吊るされた両腕と細い首は、頑丈な板で逃れられぬよう固定されていた。その身体には茨が幾重にも巻きついている。茨のとげはあちこちで柔肌を貫き、赤い模様のように血の筋を描いている。
その巻きついた茨からは、大輪の薔薇が一輪、滴るような血の赤を映して咲き誇っていた。
「ああ……」
うめき声をあげたのは、篭手をかざしたニクスだった。銀色の篭手は、液体のようにどろりと溶け出して形を変えていく。
「う、うわあああああああ」
滝のような汗を流して、ニクスははあはあと荒い息をついた。
右手の篭手は、銀色の刃もまぶしい大斧になっていた。
「ああああああ」
目を上げた。断頭台に光る刃が見えた。大斧? 違う。
これはミゼルの首をはねた刃だ。どくん、とニクスの心臓が跳ねた。
ハルハは立ち上がった。そして面白そうに笑った。
「薔薇でもないのに、ここまで追いかけてくるなんて」
かつん。ハルハがつま先を揺らす。心の珠が転がってゆく。別の球にぶつかり、回転がとまる。
「《風霜の茨》を守っていたのね」
静かにブリジットが問いかけた。予想の追確認でもあった。
「あなたは《風霜の茨》の存在を知っていた。だからその墓所をずっと守っていたのね」
《風霜の茨》、ミゼル。何て人。ブリジットはうめく。言葉がせきをきって溢れてきそうだった。
「別に守っていたわけじゃない。そんなのは卑しい奴隷たちの仕事だからね」
冷たい微笑みだった。
「でももう、千年以上も経ってるのよ。《茨の民》も、その想いだけを残して滅びた。神々も皆《大陸》を去ったわ」
「それで? 僕は変わらないし、忘れない」
「そうやってまた、ミゼルドに戻ってくるのは何故なの?」
ブリジットは気圧されることなく、ハルハを相手に退かなかった。ぐるりと首を巡らせる。青い空なんて、本当は見えやしない。だってここは地下だもの。これは偽りの風景だ。
「たくさんの人や物をコレクションして、それでもどうしてこの街へ戻ってくるの? 今立ち去っても、いずれまたあなたはやってくる。あなたの孫や、ひいひい孫として。会長さんたちはあなたの祖父にお世話になったって言い方をしてた。でも、それってやっぱりハルハさん、あなた本人なんじゃないの?」
言っただろう、僕は変わらないって。くすりとハルハは身を震わせた。
「何か……変だ。そうじゃないか?」
呟いたのはジャグ。
「古代のミゼルドは、牢獄だったんだよな。檻があって、奴隷たちがいた。もう滅んだ街のことだけど、でもやっぱり、あんたもミゼルドに囚われているように見える」
両手を広げ、ジャグは語気を荒げて続けた。
「このお墓だって、何にもねえ。こんなに広いのに。花の一つも手向けられてない。あんた、こんな場所が大事なのか? 他の人たちを何十人も人形にしておいて、犬ころも容赦なく奪おうとしたりして……それよりもここが、何もないここが本当に大事なのかよ!」
「何故だろうね」
ハルハが問い返した。まるで自分に対するように。
「僕は《薔薇の鍵》を探してる」
旅人たちは、はっと息を飲んだ。
「いまわの際に、言い残すことはないかと刑吏に問われ、ミゼルはこう言った」
『《薔薇の鍵》を見つけてください。そして私の分まで生きてください。それで私は、救われます』
「どういう意味か、分かるかい。結局どこへ行っても《薔薇の鍵》を見つけることはできないんだ。さあ、もうこれでいいだろう? どいてくれ。次の旅に出るんだから……」
そう言うハルハの表情は、これまで彼が浮かべたことのないものだった。
笑うでも怒るでもなく、淡々としてうつろに溶けていた。
■Scene:?
高らかに歌いあげるのは、見知らぬ女性らしかった。
両手を高く差し上げ、双眸は伏せたまま、旋律ははるか空を駆け抜ける。
『《薔薇の鍵》を見つけてください。そして私の分まで生きてください。それで私は、救われます』
『願うのはただ、安息だけ』
『どうかこれ以上、苦しみ叫んで血が流されることのありませんように』
第7章へ続く

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