第6章|絶望を歌うもの|約束|人心を守る槌|女神の右腕|マスターより|
2.約束
■Scene:闘技場〜誰かのための戦い
ハルハ・シーケンスは冷たい笑みを浮かべ、その様子を楽しんでいた。混乱が沈静に向かいつつある奴隷市、その会場となった闘技場では、旅人たちが入り乱れ叫んでいる。中心はもちろんハルハと、彼の手から逃れ出た歌姫、ソラだった。
「おで、いいご……」
ルドルフは何度もその言葉を繰り返した。初めて言葉を覚えた幼子のように、ゆっくりと口の中でその意味を転がした。
「うぐぅがアアッ」
大きな赤毛の熊に変じたままのハルは、片時も攻撃の手を休めずルドルフと互角の戦いを繰り広げていた。同時に嫌悪感が込み上げてくる。目の前の巨漢にではなく、獣の心を宿している自分自身に対して。
「があああああっ」
後足で立ち上がり、高い位置から覆い被さるように両腕を振り下ろす。ルドルフは身を低めてかわすと、転がりざまに腕を回して熊の足にしがみついた。それでも熊の強靱なばねは、半身をゆするだけで脱出する。
いっそ獣になってしまえば。そのささやきは、常にハルの中に存在していた。ルドルフと対峙したこと、ルドルフの在り方を目にしたことが、ハルハの甘い言葉をより甘く響かせているのだとハルは自分に言い聞かせた。ハリュードと呼ばれたから、その声が耳に心地よかったから、何だと言うんだ。
「うぐあ!」
ルドルフがしなやかな動きで殴りかかってくるのを、ハルは素早く流して避けた。
「お、おで……」
そうだ、気づいたかルドルフさん。ハルが願う。このまま戦ってたら、俺は熊の力であんたを組み伏せ、殺しちまう。自制のきくうちに、どうか手をとめてくれよ。
その時ルドルフの表情は、ひどく人間くさかった。薄っぺらく貼りついた笑いではない。浮かべていたのはまごうことなき喜悦。くそっ。ハルの心の奥底が再び熱くうずいた。
「は……るは……」
野性がふとルドルフに警鐘を鳴らす。互角のはずの相手は、どこか力を抜いていた。ハルの手加減に気づくやいなや、ルドルフは一声咆哮し、再び猛烈に熊へ挑みかかった。生きるための戦いに、手加減は存在しない。強い者に従うのは当然のことだ。
ハルはぎりと歯がみした。ルドルフが立ちはだかるかぎり、その主ハルハへの道は開けない。組み合いながら熊は、戦いの場所を少しずつ広いところへ移そうと試みる。
「ハリュード、もういいんだよ」
全身の体毛が逆立った。恍惚とした表情で戦う巨漢の後方で、ハルハが笑っているのが目の端に映った。
「誰もキミを責めやしない。だから、こっちへおいで」
「うぐああああああああっ!」
俺を、ハリュードという名前で呼ばないでくれ。その名前は忘れた名前だから。俺はハル、ただのハルだ。……ハリュードという名を口にするのは、血を分けた家族だけ。その人たちは、もうはるか遠くにいるんだ。実りの秋には、色寄布のように小麦畑が広がる故郷の村。もうあそこには、戻らないんだ。
戻ればみんなが、辛いから。
■Scene:闘技場〜うつろわぬ月光
カリーマ・ルアンが闘技場へやってきた時も、ルドルフとハルの、ハルハをめぐる戦いは続いていた。
「カリーマさん! ハルさんが……」
「ええっ、あれ、あの熊さんがっ」
セイエスが手にしていた皮鎧と、濃い赤毛の熊の姿を交互に見比べ、カリーマが声を弾ませた。
「なんだい、まだ終わってなかったのかい」
メルダ・ガジェットとエルフィリア・レオニスも駆けつけた。彼女たちは神殿で、奴隷市の観客連中をひっとらえるのに手を貸していたのだ。ぼちぼち地下の様子が気になりはじめたメルダだが、降りてきてみれば開いた口が塞がらない。
「いい年して馬鹿なことをお言いだねえ、ハルハ団長も」
うちの娘だって、もう少しましな理屈でものを言うよ。セイエスから事情を聞くなり、湯気を立てかねない剣幕でメルダは断じた。
「でもメルダ姉さま」
おろおろしながら、エルフィリアはハルハへ視線を投げかけた。
「わかってるよ、ルドルフを取り返さないとね」
ルドルフだけじゃない、他に人形にされたままの人たちもいるし、ソラだって怯えてしまっている。
「まったく、親の顔が見てみたいもんだ」
メルダは嘆息する。
「だめええっ!」
ルドルフが太い腕を振りかぶり、熊の顎めがけて拳を叩き込む寸前、甲高い声で叫ぶ誰かが転がり込んできた。
カリーマさん。
かすかなハルの意識が、その声を聞き分ける。カリーマはルドルフの浮いた片足に体当たりし、そのまま毛むくじゃらの足にしがみついていた。その隙をついて熊が上体を起こし、ルドルフの上に馬乗りになろうとする。ルドルフが鬱陶しげに足を振り回す。カリーマは飛ばされまいと身体を入れ替え、それでも死角からうまい具合に彼を足止めした。小柄な女性だからこそ、できた技でもある。
「痛いんだから! そしたら悲しいんだから!」
格闘家は痛みを知っている。もちろんカリーマも。痛みを知って分かることがあると思うからこそ、彼女は拳で戦ってきた。
「だからルドルフさん、いい子なんだったら、そんなのだめだよ!」
誰が悪いのか、誰が悪くないのか。そんなことを思い悩むよりも、カリーマは身体を動かすほうを選んだ。ソラやルドルフさんのために、ハルハを何とかしなくては。だったら自分にできることは……身体を動かすことだ。やっぱり。
あたしは、助けてあげたい。いまその力が一番必要な人を助けてあげたい。世の中絶対に救えない人や、あたしだけじゃ出来ないことがあるなんてこと知ってる。人間なんて所詮、自分のことだけで精一杯なんだって言い分があることも知ってるけど、だけど。
ひと時、ルドルフの動きに隙が生まれた。馬乗りになったハルも、自重をかけることをためらった。
「ムーンローズ」
ハルハが口を開いたのは、そんな時だった。
カリーマはしばらくぽかんと彼を見つめた。ルドルフのこともハルのことも、瞬間どこかへ消え去っていた。
「やはりキミなのかい? ムーンローズ」
ハルハの口調は親しげだ。
「知らないっ!」
咄嗟にカリーマは叫んだ。知らない名前ではない。だけどそれを口にするのは、いけないことだと教わっていた。古い古い、秘密の名前。母親から受け継ぎ、母親はその母親から受け継ぎ……そうしてずうっと代々伝えられてきたという。
「知らない知らない。何のことだかさっぱりわかんない。人違いです絶対」
ルドルフにしがみつく手に力が加わった。ルドルフはいっそう乱暴に、カリーマを振りほどこうとする。
「おいで、ムーンローズ」
「いやだったら、いや!」
叫んだ拍子に、両手が離れた。
あたしはカリーマだ。魔術師のおじさんがつけてくれた大事な名前なんだから。知恵って意味だって、おじさん言ってたんだから。……いろんな素養が全部体力と筋力に回ってるっておじさんに言われちゃったけど……それでも二番目の名前はお守りなんだから。呼んではいけない名前。知られてはいけない名前。それにどんな意味があるのか? カリーマはそんなことを考えはしなかった。ただ、あるがままにそれが大事な何かである、ということを受け入れただけだった。
ルドルフの足が空を蹴り、ふっ飛んだカリーマの身体が壁に激突する寸前まで、彼女の心は全力でハルハの誘いを拒否していた。
「カリーマさんっ!」
カルマ・アイ・フィロンが壁伝いにやってくる。
「大丈夫ですよ」
格闘家の身体は、激突間際にスイの腕に受け止められていた。すぐに気がついたカリーマは、起き上がり腕を抜け出す。
「あ、あたし……あたしはカリーマだもの」
「はい」
スイは顔色も変えず、微笑んでいる。カリーマの無事に、カルマはほっと胸をなでおろした。
「ご、ごめんなさい。重かったでしょ。鎧もつけてたし」
「全然」
くすりと、口元を緩めるスイ。
「お嬢さんの重さなんて、羽根くらいのもんですよ」
■Scene:闘技場〜獣たちの主
「僕がキミたちに、ふさわしい居場所を準備してあげるというのに。ルドルフをごらん。あんなに生き生きとして、全力で僕を守ろうとしている」
くつくつと、ハルハは声を殺して笑った。吹き飛んだカリーマに視線を落とし、目の前でたわむれる二匹の巨獣を見守った。人の形をした獣と、獣の心を持つ人間。
「どうして拒否する。どうして不満そうにするんだい? ハリュード、そしてムーンローズ?」
そしてもうひとり、遠く獣の血を受け継いでいる女性。
ルドルフを組み伏せていた熊の、上体が弛緩した。だらりと両腕が下がる。開いたままの口から覗く牙に、泡だった唾液が絡みつき、滴った。
「ぐ……」
ハルハを睨みつける熊の瞳から、次第に意思の輝きが消えていく。それはルドルフの時とは、ちょうど逆だった。ルドルフは、居場所をくれる主とともに、ある種の意志を自分の中に見つけることができた。だがハルは。
『ハリュード』
どこか遠くで、父が自分を呼ぶ声が、聞こえたような気がした。
自分と同じ、ハルハと同じ、燃えるような赤毛の父が、優しく手を差し伸べている……。
「もう苦しまなくてもいいんだよ」
ぐるぐるぐる。心の奥の澱を、今にも吐き出しそうだ。気分が悪い。とても。鈍く光る爪の覗く両腕で、ハルが頭を抱え込む。彼は黒く大きな目を瞠り、そして閉じた。
「僕はキミを、決して裏切らないか」
「うぐうううあああああああああああああああああああああああ!!」
熊の咆哮は、迷宮の壁までも震わせた。
差し伸べた手をつと止めると、ハルハは目を細めて熊を見上げた。
「……ふん」
ハルは野性に身をゆだねた。ルドルフを全力で跳ね飛ばし、全身の体毛を逆立てて帰るべき場所を探す。風のそよぐ場所。緑の匂いのする森を。
「ハルさんっ!」
セイエスが叫ぶ声も、ハルには届かない。神官は皮鎧を抱えて熊を追いかける。
「ルドルフ、しっかりおしよ!」
袖をまくった腕を腰にあて、仁王立ちのメルダが叫んだ。
「ハルもカリーマも、あんな誘いには屈しなかったよ。あんただって分かってるんじゃないのかい、ええ?」
ぼんやりと、遠くを見つめるようだったルドルフの目が、メルダに焦点をゆっくりと合わせていくのがわかった。それでもルドルフの腕は、近づく者に向かって振り上げられる。
「あいつの言葉はまやかしだ」
メルダはその腕を避けなかった。鈍く響いた音は、篭手で受けた腕が折れた音。
「メルダさん!」
「メルダ姉さん!」
「下がっておいで、エルフィ! ミュシャ、あんたも!」
背後の悲鳴を、メルダは一喝した。あたしを誰だと思ってるんだい、黒腕のメルダさまだよ。腕が折れたくらいなら、安いものだとメルダは思った。ルドルフも手加減したのだろうか。そこまではわからない。
「ルドルフ、あいつが本当の友だちだって言えるんだね? ロザンナにも、そうきちんと言えるね?」
「うう、ぐぐうぐ」
ルドルフは低く唸った。
ロザンナは、ルドルフを救い育てた老婦人だという。見せ物小屋に拾われ、何度も失敗を繰り返したあげく、どこかの金持ちが面白半分に彼を従者に仕立てあげた。だが、獣の気性は変わらない。何人目かの主人を殺し、処刑される寸前だった彼を引き取って、ロザンナは彼に繰り返し言って聞かせた。人間の社会で生きていくルール、困っている人を助けてあげること。そして友だちを見つけること。
■Scene:闘技場〜信頼が見つけた場所
「名前なんてどうだっていいと、思わないかい?」
ハルが逆らい逃げ出したのを、追わずに放っておいたまま、ハルハが誰ともなしに呟いた。不思議だと、首をかしげながら。
「思わないわ」
カリーマがハルハをにらみつけた。ソラが彼女の背後から、そっとしがみついていた。ハルハとルドルフを足止めしていたハルが去り、メルダが今はルドルフを引き受けている。ハルハとソラの間を阻むものは、旅人たち数人だけだ。
「ね、ソラちゃんだって」
カリーマは震えるソラの肩に手を置き、徹底抗戦の構えを見せる。
(名前がどうでもいいなんて……どうしてそういうことをいうの)
「ね。どうしてでしょうねえ?」
ハルさんは、ハルさん。カリーマさんは、カリーマさん。そしてスイはスイ。それでいいじゃないかとスイは思う。一体ハルハは、何が不満なのだろう。
「何をなさろうとあなたの勝手ですけども、お嬢さん方をお渡しするわけにはいきません」
するり。カリーマとソラの一歩前に立つ。ソラはスイの背に流れる黒髪を見上げた。
「ついでに動物虐待、反対ー」
手にした扇子をびしっと突き出して、スイは笑っている。
おおきい獣もちいさい動物も、ハルハ以外のすべては彼にとって、ただの愛玩動物なのかもしれない。ルドルフ、ハル、カリーマ、そして、わたし。
「ノヴァに選ばせてほしい」
ラフィオ・アルバトロイヤは、静かに拍動する仔犬の身体を抱いている。彼の声には、どこか霧が晴れたような清しさがあった。悩みぬいたラフィオは答えを出したのだった。
「あなたの言うことに僕は反論できない。僕にノヴァが必要だっていうのは、僕の我侭にすぎないかもしれない。だから」
ぎり、と口を引き結んでラフィオはハルハを見据えた。
「ノヴァに選ばせてほしい。あなたについていくのか、僕と一緒に残るのか。それでノヴァがあなたを選ぶなら、僕は……」
「そんなラフィオさん、いいんですか?」
扇子を突き出したまま、ぐるっと直角に身体を回転させて、スイは傍らのラフィオをつんつんつつく。
「あーんな人ですよ。ついていったら、ノヴァちゃんも苦労しますよ。きっと」
「決めたんだ」
ラフィオは笑った。諦観の笑みだった。
ノヴァがハルハを選んだら、僕には何も残らない。ノヴァのいないこれからの日々を、僕は耐えることができないだろう。それでも……ハルハが言うように、時が経てば耐えられるようになってしまうのかな。それはそれで嫌だとラフィオは思った。
ハルハの思うようになんか、させるものか。誰かの代わりになんか、ノヴァにはさせない。させられないんだ。
(ラフィオ……ノヴァ)
ソラがラフィオを見つめる。銀糸を織り込んだマントを翻し、ラフィオはノヴァの身体を差し出した。家臣が王にするように、肩膝をつき、両手を高く差し上げて。
「なるほどね」
メルダたちに囲まれ、動きを止めているルドルフを一瞥すると、ハルハは口を開く。
「キミひとりじゃ、何も決められないということだね」
「そうだよ」
ラフィオはハルハをねめつけた。この青年団長、年は僕と変わらないくらいなのに、ひどく威圧感を感じる。なぜだろう、このミゼルドの地下迷宮……長い間時の流れにさらされていたこの場所と、同じようなにおいがするんだ。
「ノヴァが生まれた時から、僕らはふたりでひとつだった。だから僕には決められない」
「キミが決められないことを、その《竜》に決めさせるのかい」
「うん」
「その《竜》がキミではなく、僕を選んだとしたら……」
ノヴァを差し出させたまま、いたずらに言葉を連ね続けるハルハ。彼はラフィオをじらして弄んでいる。
「《竜》なきキミは死ぬだろう。ね?」
(そこまでわかっていて、ハルハ! どうして……)
ソラの悲鳴を背中で受けたまま、ラフィオは焦燥を堪えている。
あなたにノヴァをさらわれた時から、たぶんもう、僕の一部はおかしくなってしまっていたんだ。マンドラゴラがするように、僕たちもつながっていたんだから。だから答える言葉は、これしかない。
「僕は、ノヴァを信じてる」
つまらないものをさげすむ目つきで、ハルハは仔犬に手を伸ばした。
かちり。
■Scene:闘技場〜翼を持った心
ルドルフの頬が紅潮している。
「ルドルフさん……ルドルフさん……」
彼の背にしがみついているミュシャは、ぽろぽろと涙をこぼしていた。埃だらけの彼はあちこちに打ち身や擦り傷をつくりながら、それでも絶対にルドルフから離れようとはしない。
「やっぱイヤだ……イヤなんだよぅ……」
ぐずぐずと鼻をすすり、ミュシャはその手に力を込めた。
「ルドルフさんが、本当にハルハ団長と行きたいのなら、とめられないと思った……でもやっぱり……うえええええ」
「あんたは愛されてるんだよ」
折れた腕をだらんとぶらさげたまま、メルダは呟いた。どんなに立派で堅牢な甲冑で身を固めても、その中に生身がある限り、痛みと苦しみは常に残る。戦友といえる篭手が、メルダの腕に自身の重みをずっしりと伝えていた。
忘れていた言葉を、ルドルフは思い出していた。思い出すというよりも、初めて理解したのかもしれない。
(いつか、いつか、きっと自分の手で大切なものを手に入れてね)
別れ際に老婦人がくれた贈り物。自分の手はわかる。自分に力があることも、わかる。けれども大切なものはどこにあるのか、そして一体何なのか。ロザンナは何を言おうとしていたのか、長い間わからなかった。
「ルドルフさん、これ……」
ぐずぐず言いながら、ミュシャは自分の首から光る何かを外して見せた。
「これね、僕の」
岩のようなルドルフの肩をよじのぼり、彼の首にそれをつけようとする。黒い皮紐に、銀細工の鳥の羽根がぶらさがる首飾り。
「ルドルフさんにあげるね、このチョーカー。……あれ?」
ミュシャにあわせた皮紐は、ルドルフの太くたくましい首にはとても長さが足りなかった。ルドルフは一生懸命首を曲げ、胸元を確かめようとする。温かい感触がそこにあった。
「うっ、首には無理? じゃあ腕につけてあげるね」
ルドルフはもう、暴れてミュシャを振り払ったりはしなかった。自分の左手に、丁寧に巻きつけられた皮紐と、その先の銀細工を見下ろした。完成、とミュシャがルドルフの腕を叩く。その瞳に涙はない。ルドルフがゆっくりと腕を動かすと、銀細工の羽根がきらきらと光った。
「約束だよ、ルドルフさん」
「やぐぞ、ぐ」
ルドルフの喉から漏れた声に、ミュシャが笑った。さっきまで泣いていたとは思えない顔で。
「ひとりぼっちにしたつもりは、全然なかったんだ。でも、これからは一緒だよ。目の前にいないときでも、この羽根があるから」
きらり。ルドルフの腕で銀細工が光る。
「いつでも、この羽根で飛んでこれるんだよ」
溢れた涙が、ゆっくりとルドルフの頬を流れ落ちていく。
「おでの。おでのうでに……はね、はえだ」
「うん! だからもう、ひとりじゃないでしょ?」
ミュシャはそっと考える。そのうちきっと、大金持ちになってみせる。お頭なんかびっくりするくらいのでっかいお屋敷に住んで、ルドルフさんに遊びに来てもらおう。
「おでのうで。メルダのうで、にでる」
「そうかい」
メルダも笑った。腕の痛みは、今はどこかへ消え去っていた。ルドルフの拳を受け止めた痺れだけが残っている。
「似てるかねえ? 大事なものをつかむための腕だからね。それはもうあんただけの腕じゃないんだ。大切にすることだよ」
痛みと苦しみが残っても、それは永遠じゃないのかもしれない。メルダはそんなことを考え、馬
鹿馬鹿しいどっちでもいいよと結論付けた。
■Scene:闘技場〜双肩の荷
「あんたの相手はあたしよ、ハルハ・シーケンス」
エレインとイリス=レイドが、ハルハの真後ろに立っている。ノヴァの鍵を外したままの体勢で、ハルハは彼らに向き直る。
「ただの人間に興味はないと、何度言ったら聴いてくれるんだい?」
ハルハの浮かべた微笑から、エレインは彼の余裕を感じ取る。まったく畜生、鶏冠頭。だからおつむが軽いって言うのよ。エレインは心中で考えられる限りの悪態をつく。
「ただの人間以外を集めて、何をする気なのよ」
「ただの人間にはできないことを、ね」
「謎かけは、いらんよ」
うっそりと佇むイリスが言葉を挟む。ハルハはじろりと彼を見やり、またエレインに視線を戻す。イリスは殺気を感じなかった。エレイン君に手を出せば容赦はせん、その気概が伝わったものだろうか。それとも単に眼中にもないというところなのだろうか。
「ちゃんと言えるようなことなら、伏せる必要なんてないじゃない。ただの人間相手になら、あんたの目的くらい明かしても、どうってことないでしょう」
言いながらエレインは、目の前の相手は一体何者だろうかと考えをめぐらせる。
砂漠で暮らしていた時に、あのいけ好かない王族兄弟に感じたのと、同じ雰囲気。他人の分の命だか運命だか人生だか、そういったものを背負っているように思えるのは、気のせいだろうか。
幸か不幸か、エレインにはとある王族と近しくしていた時がある。彼女の父が王子殿下の侍医であったからだが、父の往診についていったり診療所で手伝いをしたりする間に、幼いエレインは、王族をとりまく世界をずいぶんと目の当たりにしたものだった。自分の身の丈に合わないことをやろうとすると、必ずどこかに歪みが生まれる。それでも王子たちは懸命に、精一杯背伸びして多くの物事を自分の両肩に乗せようとしていた。
ああいう人たちはたちが悪いわ、とエレインは断じる。なんとしてもこの目的を果たそう、そう思ったら何がなんでもやりとげちゃうんだもの。手段を選ばず、なりふり構わず、あらゆるものを犠牲にしてまで。もちろんその犠牲に、自分まで含んじゃって。
「白鳥親父どもと、あんたは違う」
「そう?」
エレインの話くらいは、聞いても良いかと思ったらしい。気のない口調でハルハが先を促した。エレインの傍らでは、イリスが黙したまま目だけを光らせている。
「あいつらは自分の欲望丸出し。分かりやすすぎるくらい。でもあんたは……あんたは自分の目的が至上のものだと思ってる。お金とか、身分とか、あんたを動かすのはそういうものじゃない」
ハルハの微笑が、少し変わった。何だ、この表情は。イリスが訝る間にもエレインの口は動いている。ハルハだけではない。闘技場にいる旅人たちの視線も、エレインの口上に集まっている。
「だからあんたの目的が気になるの。そして言ってやる。奴隷市なんかその目的に必要ないじゃない、って」
「その台詞を言うのに、僕の目的どうこうは必要なさそうだけど」
ハルハがエレインに歩み寄る。エレインは唇を噛んだまま次の言葉を待つ。エレインの手には、舞台で使った大道具の剣がある。そして逆手に隠し持った形ばかりの短刀。
「知りたいなら教えてあげてもいいさ。でもそれな」
「決闘よ!」
エレインは大道具の剣を振り上げハルハに突きつけた。彼の次の言葉が予想できたから、それは遮るしかなかった。彼はきっと言っただろう。たとえばラフィオの仔犬を奪えとか、そんなようなことを。
「砂漠の流儀に従って、あたしはあんたに決闘を申し込むわ」
ふひゅう。かすかな口笛は、スイの吹いた音だ。
菫色の瞳の中に炎が燃えている。重畳重畳、世に麗しきは怒れる女性の姿かな。そして懐かしい、砂漠の流儀。エレインの背後に煙る砂嵐を垣間見たような気がして、スイはほほうと声を洩らした。
燃え立つ視線を遮ったのは、もうひとり菫色の瞳を持つ女性。
「エレインさん、やめてください!」
細い両手を胸に組みハルハの前に立ったのは、エルフィリアだ。
「……マンドラゴラでもないくせに、邪魔をしないで頂戴」
「でも、でも! ハルハさんがあなたの刃に倒れてしまったら」
エルフィリアはすがるような瞳で、今はもうがらんと空いた観客席を振り返り、エレインに訴える。
「まだ人形にされたままの人だって、いるんですもの」
「だから何? 別にハルハがいなくたって、他に方法を探ればいい。それにあたしは、ハルハをこの場で処刑しようってんじゃないわ」
イリスが気づいた。処刑という言葉に、一瞬ハルハの笑みが消えたのを。
「エルフィリア、あたしはあんたと議論したいんじゃない。ハルハの目的が知りたいの。だからそのために決闘という手段をとるのよ」
エレインは乱暴に魔術師を押しのける。あっさりよろめくエルフィリアに、イリスがそっと手を貸した。
「悔しいが、ハルハはその存在だけで価値がある。あれだけが知っていることが、たくさんありそうだからなあ」
イリスはエルフィリアをさとすように、そう呟いた。
「エレイン君もそれを分かって、ああいうやり方に出た。なぁに、そう簡単にやられたりはさせんよ」
不思議な自信を汲み取ったエルフィリアは、イリスを見上げる。その眉はハの字のままだ。
■Scene:闘技場〜その人の名にかけて
「さあ、これ以上邪魔の入らないうちにやろうじゃないの」
「キミはもう、僕の目的を推測しているみたいだけど」
「じゃあ一体なぜ、奴隷市など開いたのよ!」
エレインとハルハの会話は、核心をつかずに空転を続けている。
「なぜだと思う?」
「ふざけないでよこのトンチキ!」
ここから先は立会人をたてる決まりだ、と叫ぶとエレインは、行く末を固唾を飲んで見守る者たちの中からイリスを指名する。
「私は砂漠の出身ではないが」
エルフィリアの肩にその手を置きながら、自分でよいのなら、とイリスは承諾した。こういう役こそあのお坊ちゃん神官、セイエスが適任に思えるのだが、あいにくと彼の姿は闘技場にはなかった。ああ、あの熊を追いかけていったのだと思い当たったのは、少し後になってからである。
「正々堂々、これからあんたの口から出る言葉が正しいと、何に賭けて誓ってくれるの?」
「……そうだね」
イリスが放った剣を両手で握るハルハ。それはイリスの帯びていた剣だった。鍛冶屋の彼が鍛え上げた分身。あれに貫かれ死ぬことがあれば、そこまでだったんだ、とエレインは思う。
「それじゃあ……ミゼルに誓おう。これでいいのかい?」
イリスの剣を高くかざして、ハルハは微笑む。
「ミゼルだって! ミゼルだって!」
カリーマの鼻息が荒くなる。
「やっぱりハルハ団長は……何者なんだろ?」
「んー。《茨の民》、なんですかねぇ」
面白そうに、スイが答えた。
「だとしたら……あっ。ノヴァ!」
ラフィオの腕の中で、仔犬がぴくりと耳を動かした。
「正体現したわね、《茨の民》」
自分の剣をかかげハルハと刃を合わせるエレイン。
「僕が? 《茨の民》?」
ハルハは一笑に付した。
「あんな愚かな連中と一緒にはしないでほしい。そうか……キミは僕が《茨の民》だと思っていたのか」
それまでとは打って変わった表情で、ハルハはエレインの剣を弾いた。がきんと硬質な音がして、エレインの手から大道具の剣が抜けていく。エレインは素早く短刀を持ち替えて、ハルハの返した刃を受け止めた。
「……あんたの守ろうとしたものは」
ハルハの剣を眼前にして、エレインがその目を覗き込んだ。漆黒。
「キミには分からない」
「ミゼルはもういない、過去の人間よ。それなのにあんたは何なの? ただ罪のない人間たちを襲って、その心まで奪って」
がきん。二度目の音は、エレインの短刀が折れた音だった。赤い筋を一筆空に放ち、エレインは後にのけぞった。
「そこまでだ」
手を出しあぐねていたイリスが、見かねてしわがれ声を挟んだ。
「あんたが《茨の民》じゃないなら、あんたは何者なんだね?」
それは多分、エレインが次に発しようと思っていた言葉だ。そのエレインは、関節をきしませて泥床にくずおれている。
「黒い影、《茨の民》はあんたを明らかに知っておったようだが」
「キミたちには関係のないことだ」
「あるとも」
荒々しくイリスは答えた。
「関係がないはずはないのだ。なぜなら私たちは、この街で夢を見たのだからな」
「……ソラ」
不意にハルハが呼ばわった。少女はびくりと震え、顔をあげた。ハルハの視線は、イリスとその足元のエレインに注がれたままだった。
(ハルハ)
「廃園で朽ちることを選んでも、一度血に染まった薔薇は純白には戻らない」
何を、と振り向いたイリスの目に、少しずつ朱に染まりゆくソラのスカートが映った。
「ソラさん、ハルハさんはもしかして」
エルフィリアが言葉にしかけたその時。
ひときわ大きく石壁が崩れ、地下のより深くからも振動が伝わってきた。
(赤い……薔薇?)
赤い光が、迷宮を照らし出す。無数のひびを走らせていた石壁のあちこちから、細い光の糸となってその赤があたりを染め上げた。
(薔薇が咲いている……この地下に……血を浴びて……)
ソラの口から、怖れを歌いあげる高音が漏れた。崩落の音にかき消されることなく、ソラの声が一同の胸に響き渡る。
(血を浴びた薔薇……薔薇を咲かせた血……)
「ソラちゃん!」
無数の赤い光の糸を絡ませ、うつろな目で歌い続けるソラ。
(ああ、ハルハ)
カルマは見た。ソラの双眸から流れ落ちる涙までもが、血のように赤を映していたのを。
■Scene:闘技場〜一度無くしたはずのもの
ライ・レーエンベルクには分からない。なぜみんな、幸せになることができないのか。
「ソラ、ハルハが呼んでたのに」
カルマの背に隠れかけていた歌姫に、そんな言葉をかけてしまったのは、ソラとハルハの行く末に、ライが自分の一部を託していたからだった。
知り合いの旅人たちの姿を求めて、闘技場へと迷うようにやって来たライは、真っ赤な木漏れ日のような光の織りなす網に、眩暈をこらえながらソラの姿を探した。そして、彼女がハルハとは別の道を選んだらしきことを理解した。
「なぜ?」
(なぜ? だってわたしは)
ソラは微笑んでいた。夢の中で見たような、白い少女の純真な笑みとは違っている。どこかうつろな、苦しさを堪えた笑みのように見えた。
(わたしは……ハルハにはわたしが必要だと思っていた)
「それは」
たぶん間違ってない、ハルハは嘘はついてはいないのだろう。ぼんやりとライは思った。ハルハの思いは、分かるような気がした。勝手にそう思っているだけかも、しれなかったけれど。
(でもハルハは、わたしのかわりを求め続ける。わたしのかわりのかわりを求め続ける……そうしてどこまでも、ハルハは……)
「でも、ソラ、救うって」
ハルハを救いたい。そうソラは望んでいたはずなのに。
(わからない。わからないの。わたしをほしがるハルハの元にいれば、ハルハの癖はおさまると思っていたのに、そうじゃなかった)
ふふ。ソラは笑っている。苦しげで、まるで泣いているようにライには見えた。
(だからもう、どうすればいいか、わからないの)
「あ、歌」
ライは首をめぐらせた。どこからか、あの歌が聞こえていた。薔薇の精霊だろうか、人の耳には聞こえぬ高音を、美しく歌い上げている。
ソラの歌声ではなかった。赤い光を絡みつかせて、うつろな瞳でソラが歌うのは、血を浴びた薔薇の哀歌だったから。
「じゃあ……誰?」
ソラの歌声を耳にしていると、不思議と視界に赤い薔薇が滲んでくる。違う。ライは首を振った。聞きたいのは、こんな苦しい歌じゃない。ソラが歌う癒しの歌が聞きたいのに。
■Scene:闘技場〜半身
ラフィオが両腕を大きく広げた。銀糸のマントがふわりと空間を白く切り取る。
『ノヴァーリーストレティア、見・参っ』
青灰色の毛並みの仔犬は、四肢をふんばり喉をのけぞらせ、ぶるぶると身体を震わせるとそう叫んだ。
『おやぁラフィオ、どしたの? そんな顔して』
「ノヴァ」
ラフィオは駆け寄って仔犬を抱きしめた。あまりのノヴァの変化のなさに、押し留めてきたものが一気に零れそうになる。本来《竜》の姿に戻らなければ言葉をかわさないノヴァだったが、仔犬のままでも通じるのは、マンドラゴラの力のせいだろうか。
ありがとう、ソラ。ラフィオはこみ上げる思いとは裏腹に、短く一言だけ口にする。
「……お帰り!」
『どうしちゃったの? ねえってば、何かあったのか?』
「い〜え、何にも」
答えるスイは、ノヴァの頭を撫でようとし、思い出して代わりにラフィオの頭をよしよしと撫でた。目覚めたばかりの仔犬にかみつかれては大変だ。王子さまのキス、を思い出してスイはひとりくすりと笑った。
「……というわけですよ、ハルハさん。ラフィオさんの圧倒的勝利ってやつですねぇ」
「ていうか当然よ!」
カリーマもスイの調子に合わせる。
「貴方のためにだけあるモノなんて、ひとつもないんだから! 貴方が忘れないって言うならなおさら。貴方がどれだけ記憶力いいのかわかんないけど、そうじゃない人たちのために、貴方の言う大切なものを、残していってほしいのっ」
そう叫ぶカリーマも、スイの白衣も、すべてが赤い光に染まっている。不吉な想像を、カリーマは一生懸命打ち消した。これはただの赤。ただの光。ただの色。
「わたしも誰かの、大切なモノだと良いですねぇ」
独り言のように呟きながら、ハルハにぱちんと平手をくらわせる。
「はい、お代金ですよ」
「……スイエルディ、キミもか」
「その手には乗りません」
スイはあげたほうの手をふりふり、ハルハの誘いをたやすく蹴った。見え透いた手ですねえ、と心中で嘆息する。ハルハは確実に、旅人たちの心を見てとっていた。そうでなければ、ハリュードやムーンローズ、スイエルディといった名前を、口にできるはずもないのだから。
「もしかして、っていうかやっぱり、ハルハさんって赤い薔薇さんなんですか?」
ハルハは忌まわしいほど赤い光を浴びて、陰惨に笑った。
そして、消えた。
「ああっ、逃げたわ!」
だだだとカリーマが駆け寄った。ハルハの立っていた場所に、崩れて穴ができていた。赤い光はよりいっそう輝度を増していた。目をつぶっても、脳裏に焼きつく鮮血の色。それを浸食するように生まれる、緑色。
(逃げる? どこへ……)
「あれ」
ライがぺたんと腰をおろし、耳を近づけた。歌声が聞こえてくるのは、はるかこの下からのようだった。
「行く?」
尋ねた相手は、もちろんソラだった。ハルハの後を追えば、たぶんこのふたりに決着がつく。ライはその先を見たかった。単純に、興味から。
自分は逃げた。必要としてほしかった相手に捨てられたから。それとも、捨てられたと思ったから? どっちでも変わらない。兄を失った後の母親は、もうまともにライを見ようとしなかった。
あの時、母親に応えていればよかったのだろうか。もっとたくさん努力して、兄のふりを続ければよかったのだろうか。ライが兄の代わりにいなくなっていれば、家族は元に戻ることができたのだろうか……。
「答えだから」
誰も悪くはなかったのに。
(こたえ?)
「うん」
それでも人は、無くしたものを求めて苦しみ続ける。ハルハがそれによく似ている、とライは思った。だったらちゃんと、見届けなくてはいけない、とも。
「まだ、終わってないから」
言葉少ないライに対しても、マンドラゴラは心を開いてその真意をきちんと汲み取った。だからライは安心して、思い浮かんだことを次々と口にしていった。話の順番や彼我の別を明確にしなくとも、マンドラゴラは黙って微笑み、ライを理解した。
(知りたいの?)
「知りたい。ふたりの、答え」
(救える?)
「……うん」
深くは考えず、ただライはうなずいた。それは彼のくせでもあった。そしてうなずくライに、ソラは微笑んだ。悲しげな微笑は、オールフィシスのそれにとてもよく似ていた。
■Scene:地下迷宮〜さ迷える心の数だけ
エルフィリアだけが、ハルハを追っていた。一度血に染まった薔薇は、純白には戻らない。その言葉と、ソラがうつろに歌う旋律が、エルフィリアの脳裏に焼き付いていた。
「ハルハさん! 待って、お願いです!」
きれいに結った金髪を揺らし、一心にエルフィリアは駆ける。地図もない地下通路。足を止めたら、二度と地上へは戻れないかもしれない。その思いを必死に打ち消しながら、彼女は薄暗く煙る通路に白衣のハルハを探した。
「どこですか、ハルハさん……!」
声が届くかどうか、それも分からない。遠くに響く残響は、迷宮での孤独を引き立てた。足が痛かった。服も汚れていた。喉がいがらっぽい。涙が溢れてきた。
「なぜ追う?」
ハルハが立っていた。
「ハルハさん! お願いです、戻って、みんなを助けてください!」
息を弾ませながらそれだけ口にすると、エルフィリアはぺたんと腰を落とした。銀色の占い札が、座った拍子に飛び出て散らばった。
「どうして人形に、人形にしちゃうんですか。何も聞かないで、何も話さないうちに。そんなのって」
「昔の話をしようか、エルフィリア」
名前を呼ばれて、少女は見上げた。ハルハの表情は、暗くてよく分からなかった。
「そうだな。苦しみとひきかえに誰かを救える力があるとしたら、キミならどうする?」
エルフィリアは瞬きをする。その問いには、聞き覚えがあった。唇を噛み、記憶を探る。エルフィリアの答えは出ていた。
「私は、その苦しみを受けたいと思います。できれば、自分だけが被る形で……」
答えたときには、もうハルハの姿は見えなくなっていた。
「待って、ハルハさん!」
急いで立ち上がるエルフィリアの足元に、ハルハの足跡が残っていた。ゆっくりと、追いかける。やがて土床は石に変わったが、その行く先はひとつしかなかった。
「黒い扉だわ」
メルダが挑み、バウトが倒れたその扉が開いていた。
第7章へ続く

第6章|絶望を歌うもの|約束|人心を守る槌|女神の右腕|マスターより|