1.花園の婢女
今あなたがいる場所は、あなたが望んだ場所ですか?
――たすけて。
――おねがい、ころして。
――ころさないで。ここから出して。
――どこへも行かないで。
――白い鳥は、どこにいるの?
旅人たちは、まだ知らない。
どうして自分がここにいるのか、ここはいったいどこなのか
そして、自分はいったい何をなすべきなのか。
そしてそもそもその問いに、答えられる者がいるのかどうかも。
■Scene:ロミオ
ピンクと白の縦縞の、とんがり帽子はとてもよく目立った。
青い空と青い海、息苦しいほどの深い深い緑の中で、ひょこひょこと動くその帽子は、小さなロミオの顔半分をすっぽりと隠してしまっている。歩くたびにずり落ちる帽子を、面倒くさがりもせず額に押し上げる。押し上げても押し上げても、数歩ゆけばすぐに、とんがり帽子はロミオの視界を遮った。
だから、少しだけ気づくのが遅れてしまったのだ。
「……あ。ミルク買うの忘れちゃいました」
ロミオは手提げ袋を覗き込み、はあ、と悲しげなため息をついた。
「いけないいけない。これじゃ先生に怒られちゃいます」
ロミオはおつかいの途中だった。先生に頼まれたのは、ミルクとたまご。鞄の中にはノートとペンも入っていたのに、ロミオは頼まれた品を書きつけておかなかった。今日にかぎっては。
ただでさえ、呪文を覚えられないのだからきちんとノートをとりなさい、と言われていたのに。
……でも、ミルクとたまごだけなら、覚えられると思ったんですけど。
言い訳がましく心で呟きながらロミオは踵を返し……そこではたと気がついた。
「あれ?」
もう一度、振り返る。強烈な緑。日差し。潮の匂い。
「あれれ?」
商店街はどこにもない。産みたてのたまごを買うために、角を曲がろうとするのを一生懸命追いかけた荷車もない。
「あれれれ?」
足元は石畳ではなく、柔らかな下生えだ。赤い靴の先っぽでぐりぐりすると、水気を含んだ土の感触がいっそう強く感じられる。
「せんせい」
呟きに答えたのは、優しい師匠の声ではなく、不気味な鳥の鳴き声だった。身をすくませたロミオは、とんがり帽子を耳まで引き下げて駆け出した。
つま先までの白いローブが、露や泥で汚れるのもかまわずに。
それでもたまごの入った袋だけは、割れないように気をつけながら。
「せんせい! せんせい! どこにいますか?」
どうやってこんなところに来てしまったんだろう?
先生のおつかいは、初めてじゃなかったのに。いつもの商店街を歩いていたはずなのに。
ミルクとたまご。おつかいが終わったら、呪文の練習。それから魔法書の書き取り。
「そういえば……おつかいの途中で、白い伝書鳩さんを見たんでした」
見上げた空は、いつもより青かった。けれど白い鳥はもういない。
■Scene:サヴィーリア=クローチェ
錬金術師サヴィーリア=クローチェがかがめていた腰を伸ばし、頬にかかった真紅の髪を払いかけた時だった。
「あら……この森にあんな鳥、いたかしら……」
すぐ脇の木の枝に、白い鳥がちょこんと止まっていた。この森はサヴィーリアにとって庭同然の場所である。植生や小動物の類もよく知っているつもりだったのだが、あの鳥を見るのは初めてだ。
弟はこの鳥を見たことがあるだろうか? いや、店番を任せきりなのだから、自分以上にこの森のことを知っているとは思えない。
「もしかして、伝書鳩」
摘んだばかりの薬草を手に立ち上がっても、その鳥は逃げなかった。
むしろ、何か言いたげでさえあった。
ふわり。
風に乗るようにして、飛び立つ白い鳥。追いかけるサヴィーリアの、長いスカートの裾が揺れた。
「待って」
そう呼びかけたのが自分自身だと気づいたときにはもう、白い鳥ははるか高みへ昇っていた。薬草を手にしたまま、サヴィーリアはふらふらと森を抜けていく。
眠たくなる声だ、とよく人は言う。自分では分からないけれど、そう言われたことは一度や二度ではないから、たぶん自分の声には本当に眠たくなる何かがあるのだろう。
……自分の耳で自分の声を聞いても、眠たくは……ならないんだけど。
何故だかそんなことを考えながら、庭のような森を抜けると、サヴィーリアの前にはきらめく青い海が広がっていたのだった。
■Scene:ロザリア・キスリング
神聖騎士ロザリア・キスリングは、森の木陰でちょうど休もうとしていた。
時は夕暮れ、間もなくすっかり日が落ちる。その前に野宿の準備を整えておかねばならなかった。明かりを灯す便利な魔法の心得などはないから、ひとりの夜はただ休息の時間である。
朝が好きだった。早起きした時の、あのなんともいえない爽やかな呼気が好きだった。朝まだきの靄のなかで、ひとり剣の訓練に没頭するのも好きだった。それは神殿を出て孤独な探索行に身を置くようになってからも変わらない。
神官位を示すマントを丁寧にたたみながら、ロザリアは早く朝が来ればいいと祈った。
朝になればまた出発できる。皇帝の行方を探す旅に。
夕暮れから夜へ移り変わるそのあわいに、白い鳥はやって来た。一筋だけ朝の光が差し込んだかのように、その鳥の白さはくっきりと目に焼き付いた。
「呼んでいるのですか」
かすかに疑問符を浮かべ、ロザリアは尋ねた。
「呼んでいるのならば、何故私を?」
鳥と目が合った、と思った。相手はまばたきもせず――鳥がまばたきするかどうか、ロザリアには分かりかねたが――ロザリアの茶色い瞳を見つめていた。
簡易天幕を張る手がしばし止まる。逡巡ではない。昔ながらの、相手を観察する癖が、相手を見定めようとしていた。
「……まさか。ただの鳥だもの」
小さく呟いてはみるものの、自身がそう思っていないことは知っていた。
ただの鳥なら、こんな目で見つめたりはしない。これは招待なのだ。
どこへ? 任務はどうするのです? ランドニクス皇帝を探すという大義は?
記憶の奥底にさざ波が立つ。相手を観察する癖は、まだロザリアが神殿に身を寄せる前、苦しい暮らしの中で手に入れたもののひとつだった。
こんな時に、どうしてそんなことを思い出すのだろう。アストラの大神殿からも遠く離れたこの旅路で。
白い鳥を追っていけば、皇帝が見つかるかもしれない――それはロザリアの納得できる理由だった。
見上げると木々の間に、ほの白い月が浮かんでいる。脳裏を《満月の塔》のことがよぎった。どうやら皇帝陛下は失踪前に、件の塔を探していたらしい。塔を見つけて皇帝と会うことができれば良し、よしんば皇帝が見つからなくとも、願いを叶える《満月の塔》に行かぬ手はないのではないか。
ひとくさり理由をつけて自分を納得させると、ロザリアは愛用のレイピアを確かめて言った。
「良いでしょう。私が何者かに選ばれたのなら、その先にきっと皇帝陛下もおわすはず」
なぜなら私は、アストラ神聖騎士団員だから。
鳥の行く先を目指し、朝を待たずにロザリアは出立する。
■Scene:フランメン=ミッテ
「ううん、どうしたものでしょう」
思案顔のまま絵筆を置いて、フランメン=ミッテは立ち上がった。
数歩下がって、今走らせた筆の運びをしみじみと眺める。塗ったばかりの絵の具の色は、窓から差し込む日の光を反射してよく見えなかった。巨躯を折り曲げるようにして光を遮ると、また絵は別の表情を見せた。フランメンはどっかと寝台に腰を下ろした。
「悪くないですかね……」
まだ日は高い。窓からは、鳥の鳴き声に混じって、子どもたちの遊ぶ声が途切れなく聞こえてくる。鄙びた村、ただ一軒の宿屋にフランメンは逗留していた。
大して広くもない部屋は、長身のフランメンにとっては、より手狭に感じられる。だが手の届くところに絵の具や絵筆、溶き水などを整列させておけるのは、何より便利だし、目にも良い。
絵を描くことが本職ではなかったが、絵を描きながら自分の孤独と向き合うことを、フランメンは好んだ。
もう一度、描きかけの絵に目を遣る。村の子どもたちが遊ぶ風景がそこにあった。絵はほとんど完成していた。あとはフランメンが思うがままに、穂先を数度往復させるのみだ。
前の晩のおかみの言葉を思い出し、またフランメンは思案顔になった。
『先生、もうしばらくおられんか。不便があったらなんだって聞きますけ』
おかみはこうも言った。
『先生がおらんようになったら、あの子ら、せっかく習ったもん、みんな忘れっしまうが。角の井戸主のとこの、クク。乱暴者やったのに先生に字を習うてからすっかり夢中になっとるがで』
ふむ、とフランメンは唸ったのだった。
ランドニクスの帝都に住んでいるならまだしも、きちんとした学校のない地域の子どもたちは、文字の読み方や算術を習うのも大変だ。子どもが知りたがっても、教えられる人間がいない。
フランメンはそういう意味では、かつて「知りたがった子ども」であり、今は「教えられる人間」だった。街道から外れた街や村をめぐっては子どもたちに初歩の学問を教え、いつのまにか先生と呼ばれるようになった。
フランメンは「もう少し考えてみましょう」としか答えられなかった。
部屋でほぼ
「井戸主の息子のクク。確かにあの子は物覚えがいい……」
韻というものを教えると、乱暴者だったククは目を輝かせた。詩というものを教えると、即興で編むことさえできた。あの少年が学問に対する熱意を持ったまま長じれば、教師になるだろうと思われた。事実、少年は何度もフランメンのようになりたいと言った。
そして、白い鳥がやって来た。
■Scene:スティーレ・ヴァロア
スティーレ・ヴァロアは研究に没頭するときの、いつもの暗色の上着をひっかぶったまま天を仰いだ。柔らかく屈伸する椅子はスティーレの上体を包み込み、その視線を天窓へと導いた。
「もう夜明けね」
独り言には疲れが混じっている。
近頃、睡魔はなかなかスティーレを訪れてくれない。訪れてくれないから、スティーレは夜を徹して研究に没頭する。いい加減頭が働かなくなるころには、もう夜は終わりを告げていることが多い。
熱心に記録簿をつけていた右手からようやくペンを離す。肩を動かすと軽い音がした。使わない左手のほうが疲れている気がする。
立ち上がり、締め切っていた窓を開けた。夜風はもう生温く、遠く潮騒を運んでくる。
波の音はスティーレの疲れた頭にも心地よく流れ込んできた。かつて音や声を研究していた彼女が解析の癖を発揮しないですむのは、こうした自然の音だった。
「……遅いのよ、もう」
ため息まじりに呟く相手は、待ちくたびれた睡魔。
学者時代の、あの頃に待っていたのは、もっと違うものだったはずだけど。
たくさんの人の声を研究し、解析し、書きとどめるうちに、気が付けばスティーレはいくつかのものを失っていた。
目を閉じて、自分の左手を思い出してみる。
どのような形だっただろう。右手をそっくり同じということはない。黒子はどこにあって、どんな傷がついていたのか。誰と手をつなぎ、誰を助けたのだっけ。
「眠……」
さんざんスティーレをじらした睡魔は、目を閉じた彼女を一気に深いまどろみへ突き落とそうとしている。元学者は疲れた身体で窓辺に寄った。
海に面したこの街は、日中にはやかましいほど海猫が鳴く。睡魔をできるだけつなぎとめておくために、スティーレは半ば眠りながら窓を閉めようとし……視界をよぎる鳩を見た。
途端、一際大きく波の音が訪れる。
睡魔はどこかへ行ってしまった。スティーレは迷わなかった。
白い伝書鳩は、手を伸ばせばすぐ届くところにおり、気づけばスティーレは白い砂浜の波打ち際に、両足を浸して立っているのだった。
■Scene:リモーネ
舞台衣装ときらめく宝石。艶やかに広がる金色の髪。着飾った歌い手リモーネは、拍手に包まれながら舞台に背を向けた。大きく背中の見える衣装に、拍手がさらに大きくなった。
煌々と明かりに照らされた舞台から小さな階段を数段下りれば、そこは楽屋とは名ばかりの粗末な部屋だ。リモーネは無言でくたびれた椅子に腰掛け、身を飾っていた装身具を引きちぎるようにして鏡台に置いた。
舞台の上ではきらきらとリモーネを飾り立てていた指輪も首飾りも髪飾りも、薄暗い楽屋の中では、どこかくすんで安っぽく見える。もっとも、どれもこれも模造宝石の安物なのだから、安っぽく見えて当然なのだけれど。
髪留めを外し鏡を覗くと、小さな箱と花束が並んで映っていた。気が抜けたようにリモーネは振り向いた。彼女の好きな甘菓子と好きな花で仕立てられた花束だった。馴染みの客が贈ってくれたに違いない。
模造宝石の装身具と、甘菓子の箱と、花束。
それらは酒場の歌姫の数少ない持ち物だった。
大きく背の開いた舞台衣装のままで、リモーネは裏口の戸をあけた。外の空気が吸いたかった。
小さな酒場は花街の外れにある。このあたりの通りでは、真夜中でも明かりは消えることなく、地上の星のように輝いて人々を誘う。両隣の店からも、酔客の騒ぐ声が聞こえてくる。
まだまだ夜は長い。
けれど、リモーネの出番はここまでだ。今日のところは。
ふらふらと裏通りを歩く。舞台衣装に施された金糸刺繍が、歌姫の金髪と同じ色できらめいた。あの花束を贈ってくれたのは誰だろうか、お礼代わりにしなければならないのは……。
その時、隣の酒場の屋根に止まっていた白いものが、まさか伝書鳩だとは思いもしなかった。客寄せに店主が置いた置物だろうと思ったのだ。
「夜なのに、飛べるの?」
だから、その白い鳩が翼を広げた時、とても驚いたのだ。
そして……もっと驚いてみたくなったのかもしれない。
その場面を思い出すようになっても、はっきりとは分からなかった。どうして、白い鳥を追いかけようと思ったのだろう?
「そうね」
細い顎にそっと指をあてて。
模造ではなく本物のエメラルドそっくりな瞳を瞬かせて、リモーネは呟いた。
「花束は誰からだろうとか、お菓子は誰の贈り物だろうとか、お返しをどうしようとか、そんなことを考えるよりも、鳥を追いかけたかったのね。私」
■Scene:レシア
旅から旅、街から街へ流れる生き方を自然に思うようになったのは、いつの頃からか。
……3年前、あの時から。あの子がいなくなってからだ。
旅支度を終えて、旅籠を後にする。この街を出てどこへ行くかは、気分次第……と言うほどのものでもない。自分で行き先を決めたことはないから、何かに流されているだけだ。
この街を出ることを決めても、何の感慨も起こらなかった。
旅籠の主人は「また来ておくれ」などと声をかけたけれど、レシアはただ沈黙を返しただけだった。無愛想な客だと思われただろうか。陰気な奴、そのくせ眼光だけが鋭くて不気味だと思われただろうか。薄汚れた外套を着て、身を飾るものと言えば古ぼけた銅の指輪だけなんて、変わり者だと思われただろうか?
……どうでもいい。関係ない。
誰に何を思われようと、私は流れ者。旅から旅、街から街へからっぽのまま流れていくだけだから。あの子がいなくなって、信じていたものもなくなった。私のような旅人が来たことも、街の人はすぐに忘れてしまうだろう。それでいい。
街の門を出て街道に立つと、ようやく不思議な感慨が訪れた。
帝国内乱からこの方の戦の時代、それでも《旅人たちの街道》に人の往来は途絶えない。街道を辿る人々は、どこから来てどこへ行くのだろうか。自分のようにからっぽな流れ者も、中にはきっといるだろう。そんな旅人は、何を求めて生きていくのか?
手をかざせば、無意識のうちに銅の指輪を見つめている。
そうしてかざした手の先に、白い鳥が止まっているのが見えた。
「白い鳥を追いかけると、幸せになれる……誰だったか。そんな御伽噺を教えてくれたのは」
押し殺した低い声で呟く。たいした御伽噺だ、とレシアは思った。
幸せとは何だろう。こんなからっぽな私が幸せになるとは、どういうことなのだろうか?
そしてからっぽの私でも、幸せになれるというのなら……。
「レシア」
押し殺した囁きを聞くものは誰もいない。街道を行く人は誰も、レシアを気にも留めない。街道にいる限り、レシアはただの旅人のひとりにすぎない。
「レシア、幸せになりたいか?」
答えはない。銅の指輪は鈍く光っているばかり。
鳥は飛び立った。青い空に翼を広げた白が眩しかった。
そしてレシアも、鳥の飛ぶほうを目指すことに決めた。それが答えだったのかもしれない。
■Scene:花園の婢女
旅人たちを待っていたのは見知らぬ島だった。波の音と濃い緑。青い空と青い海に囲まれて、森の中をくぐる道はいつの間にか彼らを導いていた。その先にある不思議な館へと。
ふたりの姫君に目通り後、旅人たちは女使用人ジニアに案内されるがまま館を歩いた。
「本当に不思議な場所ね……いつの間にあの森と、つながっていたのかしら?」
サヴィーリアが持ち前の好奇心を抑えきれず呟いた。古色に塗り込められた建物のあちこちが、サヴィーリアの気を引いた。ふたりの姫君はこの館のあるじにふさわしい。若い娘のはずなのに、どこか建物や調度と同じ、年経たものの色を帯びているように思える。
もっとも自分の数歩前を行く使用人も、あるじに劣らずサヴィーリアの心を奪った。
「不躾で申し訳ないのですけれども、ここが何処なのか。ご存知でしたら教えていただけませんか?」
人当たりのいい笑顔を浮かべたのは、見知らぬこの地で相手を刺激してはいけないと思ったからだ。
「私、先ほども名乗りましたがサヴィーリア。伝書鳩を見たときは、家の近くの森にいたんです」
つとジニアは足をとめた。後についていく者たちも、合わせて止まる。響いていた靴音がふいに静寂に飲み込まれた気がして、召喚師見習いのロミオはきょろきょろあたりを見渡した。
「最近は《贖罪の島》と呼ばれている。好きに呼べばいい。決まった名前などない場所だから」
「しょくざいってどういういみですか?」
サヴィーリアの服の間から顔を出すロミオ。商店街からふいに森に現れたときは驚いたものだけれど、優しいお姉さんも一緒だからよかった、と安堵した。
それにジニアってお姉さんも詳しいことを教えてくれそう。ロミオはそう思い、彼女の後を追いかけたのだ。一緒にいる人の中には少し怖そうな人もいる。あの人に話しかけられたらどうしよう……ちらちらと視線を送る先には、フランメンがひょろりと立っている。
「贖罪。罪をあがなう、罪を滅ぼすとかいう意味ですね。普通は」
教師だというフランメンがゆっくりと答えた。モヒカン気味のベリーショートがロミオのほうを見下ろす。それだけでロミオはどきどきして、礼もいえずに目をそらした。
「誰がつけたか知りませんが、由縁のありそうな名前だ」
ロミオの仕草を気にかけながら、フランメンはジニアを見下ろす。
「《終末宮》」
ぽつりと仮面の女が言った。
「《澱みの海》、《宴の後》、《孤独あるいは無為の王国》、《在り得るあらゆるもの》、《存在しない約束》……皆、旅人たちがつけたこの場所の名前」
元学者のスティーレは、興味深げにジニアの言葉を記憶した。彼女の言葉の抑揚は古い詩を諳んじるようだった。悪意や敵意は感じられない。代わりに感じるのは、スティーレと同じようにこの場所に辿り着いた旅人たちの、不安ばかりだ。
スティーレがそのことをじっくり考え込む間もなく、ジニアはある部屋へと一行を案内した。
■Scene:聖者の仮面
「好きなものを選び、身に着けなさい」
その部屋にはありとあらゆる種類の仮面、覆面、つけ耳やつけ鼻、飾り尾や飾り羽根が揃っていた。手甲や足環の類もあった。旅人たちは促されるがまま、神妙に、あるいは不満げに、その中から自分のものを選び取った。
レシアは無言で銀色の仮面を手に取った。
……レシアならこれを選ぶだろうか。光沢を失い、ろうそくの明かりを鈍く反射しているだけのもの。見方によってその表情は、泣き顔にも笑顔にも変わった。今更華美な装飾品を身につけることもない。古ぼけた銅の指輪の他には、この光沢のない仮面くらいで充分だった。
ロザリアが選んだのも仮面であった。レシアのそれが顔の右半分を隠すものならば、ロザリアの仮面は目元を隠す黒いものだ。
しきたりだというならば否やはないが、それにしても奇妙だ。仮面とはいえ、これでは完全な変装など出来はしない。誰かから隠れるための仮装なら、とてもその目的は果たせそうにない。
ならば、島の住人に変身願望があるということだ。おそらく先に目通り叶った、あのふたりの姫君に。
スティーレは右手を伸ばし、左手に装着できる義手らしきものを取り上げた。
「私にはこれが似合いのようだ」
持ち上げてみるとそれは灰色の翼であった。スティーレは漆黒の髪を揺らし、失われた左の二の腕へつなげた。暗色のカーディガンの袖口から少しだけ、灰色の翼の先が覗いていた。
リモーネは舞台姿のままで装飾品たちの間をそぞろあるいた末に、一着の衣装を選んだ。
「こんなものもあるのね」
リモーネの舞台衣装のように、きらきらときらめく装飾のついた胴衣である。よく見れば装飾はひとつひとつが鱗形をしていた。
「地上の星を脱いで魚に。……ああジニア、着替えはどこですればよろしいかしら」
「これから案内します。一通りの飾りを選び終わるまで、しばらくお待ちを」
「ちゃんと部屋があるということね。それはよかったわ」
リモーネは両手で胴衣を抱えうなずいた。
ロミオとサヴィーリアはふたりとも飾りの尾を選んだ。同じものに手を伸ばしかけ、サヴィーリアがどうぞと譲る。
「これ……でいいです」
ロミオは子リスのようなふかふかの毛の飾り尾、サヴィーリアはすらりとした猫のような毛並みの尾を手に入れた。
「変わったしきたりね」
「これがしょくざいですか」
「違う……と思うわ」
贖罪。誰が誰に、あるいは何のために?
居合わせた一行を、サヴィーリアは不思議な面もちで眺めた。
とんがり帽子の召喚師見習い、ロミオ。無言の旅人、レシア。レシアとは対照的に煌びやかな歌姫、リモーネ。神官のマントをまとうロザリア。学者だったというスティーレ。
そして奇妙な帽子を選んだ男、教師フランメン。
「なかなか面白いデザインですね」
フランメンの手にある帽子は、全体に眼が描かれていて確かに奇妙だった。背の高い彼がモヒカンの上に帽子を乗せると、さらに上背があるように見えた。
「この島に滞在している間は、その飾りを外さないように。それが主からの命令であり……私からの願いでもあります」
低く言い渡すと、ジニアは彼らを割り当てた部屋へと案内した。
■Scene:願わくば花の下にて
あてがわれた部屋。
中を見てリモーネは満足した。館の古い外観や古色蒼然とした姫君の広間から、どんなに居心地の悪い小部屋を使えといわれるのかしらと思っていたのだが、少なくともあのうらぶれた酒場の楽屋よりはよほど快適に過ごせそうだった。
寝台がいくつかと、上着を掛けられる衣装台。小さな燭台とろうそく。
調度の類は似たりよったりだったが、リモーネは鏡台のある部屋を選んだ。さっそく胴衣を衣装台に掛ける。
「替えの肌着や敷布の用意もあるのかしら? 食事はどうなるの?」
そのあたりの不自由はさせない、とジニアは答えた。用意はきちんと整えておく、ただ食事については、姫君たちの食がかなり細いこと、晩餐などを開く用意はないことを告げた。厨房でこしらえた料理でよければ、決まった時間に振る舞うこともできるという。
うつむいていたロミオは意を決して尋ねる。
「あの、ぼく、おつかいの途中だったんですけど。どうしてぼく、ここにきたんですか」
ロミオはいつ言い出そうか迷っていた。でも早くしないと、ミルクとたまごがわるくなってしまう。
ジニアは冷たく光る仮面と似た視線でロミオを見下ろした。
「知らないわ。伝書鳩があなたを選んだからでしょう」
「でんしょばと……ああ、あの白い鳥」
「あの伝書鳩は、この島から飛んできたということ?」
金色の巻き毛を揺らすリモーネに、ジニアがうなずいた。
「じゃああの、先生にこのミルクとたまご……もってかえらなくちゃなんですけど」
「帰りたいのかしら?」
買い物袋をジニアに突き出すロミオは、こくんと首を振った。その拍子に、縦縞のとんがり帽子がすとんとロミオの目を隠す。
「そう。でも帰り道は自分で見つけてもらわなきゃならない。この島の住人が手助けすることはできないの」
「……そしたら、これあげます。ミルクとたまご。先生のだけど……悪くなっちゃうから」
ロミオの袋を、無言でジニアは受け取った。
「島の住人と言いますが、ジニアさん。あの、使用人の男性の他には住人の姿を見ていないのだけれど……何名くらいが住んでいるのでしょうかね?」
たくさんの眼の帽子を手指で弄ぶフランメンが尋ねる。まずは、島のことを知りたかった。全体像を捕らえてから行動を吟味するのが、この教師のやり方だった。
「姫さまたちがおふたりと、私とマロウ。住人が4人のほかには、あなたがたまろうどだけ」
「そうですか。それでは我々皆、全員にお会いしているということですね」
「この装飾品には、どういう意味があるの?」
スティーレが左手を持ち上げた。灰色の翼がはさはさと掠れた音を立てる。
「あの姫さまたちの趣味かしら、やっぱり。外してはいけないんでしょう?」
うなずくジニア。彼女の顔にも仮面がはりついている。
「外すとどうなるのか、教えてもらえるでしょうか」
自身の目元を覆うマスクに触れ、ロザリアが問う。
ジニアは何も答えなかった。ロザリアは仮面の奥で目を伏せた。
探し求める皇帝がこの島に来ているならば、きっと旅人としてに違いない。
「なるほど。外さない方がよさそうだということはわかったわ」とサヴィーリアが微笑んだ。
ジニアがその場を立ち去って後。
「異形の者に対しての畏敬の念か、それとも歓迎の意を示しているのか」
首をひねるスティーレに、レシアがひとこと「両方だろう」と答える。
「そうですか。ジニアさんには歓迎されているようには見えませんでしたが」
落ち着いた口調でロザリアが口を挟む。
「少なくとも、姫さまたちからは歓迎されていたようですけれど」
――汝の物語を許しましょう。
欠けた姫君たちにより、彼らは「許された」のだ。
それが何を意味する言葉か、一同はまだはかりかねている。
■Scene:花の化石
レシアは、ジニアの忙しくなさそうな頃合いを見計らい、彼女の自室を尋ねてみた。他の旅人たちには何も告げてはいなかったが、ジニアの部屋にはすでにロザリアがやって来ていた。
「おや、レシアさん」
小さな椅子に腰掛けていたロザリアは、戸口のレシアを認めて立ち上がった。
レシアはその所作を見て、神官といえど礼儀正しいロザリアの素性を我知らず読んだ。マントの神官位、黒の皮鎧とレイピア。そして一人旅という噂。
……アストラ神殿騎士団か。
以前なら警戒してしかるべき相手かもしれなかったが、今のレシアには関わりはない。たくさんのものを失い、あるいは捨ててきて、一個に執着することはもうないのだ。
とはいうものの、ジニアのことはふと気になった。レシアは自身でも不思議に思った。
「今ジニアさんからお話を伺っていたのです。レシアさんも?」
「ああ」
短く答え、促されるがまま寝台の端に腰を下ろした。
「私は貴女のことを聞きたかったのだ」
低く抑えた話し方ではあったが、声は高く澄んでいた。
「この島では装飾品をつけるのがしきたりだと教わった。貴女も同じように仮面をつけている……」
「ずっとずっと昔は、私も旅人だった。おそらくは」
「おそらく? 伝書鳩があなたを呼んだということですか?」
肩で揃えたロザリアの髪が揺れる。
「確かに、姫君はふたりとも仮面の類はつけていないようでした。住人は4人と言われましたが、それでは」
「元々この島には、姉姫ウィユさまと妹姫レヴルさまのおふたりだけがいた。そして私は島にとどまることを選んだ。マロウもそう」
「それはいつ頃の話だ?」
さあ、とジニアは首を傾げて見せた。
「時をはかろうとしても無駄。この島では時は無意味だから」
ジニアは薄い笑みを浮かべていた。
第2章へ続く