3.歪な花園
――安全な場所なんてない。一番危険なのは、こころの中にある暗闇だから。
■Scene:ヴィクトール・シュヴァルツェンベルク
目が痛くなるようなあんな青空を、再び目にすることはないだろう。
空を貫いて飛ぶ伝書鳩。招く鳥。
事切れた死体を抱いて、呆然と見上げた空の青。螺旋を描く白い鳥。口に広がる甘い血の味。おさまらない吐き気と眩暈。
ヴィクトールはどうしようもなく疲れていた。そして、そのことを自分でも理解していた。
俺は疲れているんだ。とても。このまま倒れたらさぞかし楽に違いない。
少し縮れた銀糸が、日に焼けた襟足をざわざわとくすぐった。風が吹くたびに、あちこちに残る傷跡が見え隠れしている。
髪が伸びたな、と思う。手櫛で後ろにかきあげた前髪が、くらりと吹き戻されて額にかかった。たとえ明るい銀髪であっても、視界が狭まるのは嫌だった。いざというときに邪魔になる。
いざというとき?
それは、つい今し方のことじゃないのか。狂犬ヴィー。
……からかい混じりに自分を呼ぶことができるような馴染みの仲間は、ここにはいない。今この場所にはヴィクトールひとりきり。他には、死体が二つ……いや。若造のほうはまだ息がある。
何もかも面倒くさくなり、もう一度空を見上げた。腕の中の死体は、次第に重くのしかかってくる。ここで倒れてしまえば楽になる。髪の長さを気にする必要もなくなる。
白い鳥はまだ頭上を舞っていた。ゆっくりと螺旋を描いている。まるでヴィクトールを誘うかのように。
「……いいぜ」
限りなく囁きに近い声が唇から漏れた。
「何か、俺に求めるものがあるんだろう?」
この期に及んで俺を招く何者かがいるならば会ってやる。頼みがあるなら聞いてもやるさ。駆け引きなしで……あの娘の代わりに。もう光を失った、あの緑の瞳の代わりに。
ヴィクトールの口の中には、まだ血の味が残っていた。
■Scene:ネリューラ・リスカッセ
「赤の6、9、15。赤の2に賭ける人は? どうぞこちらへ。黒方、黒方ありませんか?」
「水の精霊に100枚だ」
「おあと、ございませんか?」
「カードを。こちらは合計21」
「いいだろう。こっちも交換させてもらうよ……ほら、来た」
「では黒方へ一千と500枚」
いくつもの卓上を、ありとあらゆる声音が飛び交っている。一際大きく響くのは、罵声と怒声の類であった。場を支配している勝者は余裕の笑みを浮かべ、すべてを失った敗者は生気までも吸い取られたかのように死人の顔で卓を離れる。
ネリューラはもちろん、前者でいるのが好きだった。
身体にぴったり沿った黒いワンピースに、羽織った黒マントを上品な骨飾りで止めて、ふわふわと卓を渡り歩く。刃物のような雰囲気をまとうネリューラは、その長身とも相まってよく目立っていた。
「失礼、レディ」
グラスを片手に足を止めると、見知らぬ紳士が立っている。ネリューラは柔らかな表情を浮かべて、けれども赤い眼光だけは鋭く、紳士に一礼を返した。
「……何かご用かしら」
「貴女の賭け方が素敵だったものですから」
紳士は自分のグラスを目の高さに持ち上げた。ネリューラはまあ、と目を丸くしてみせた。
「お上手ね」
お上手なわけではない。この紳士は卓をめぐる自分の動きを観察し、賭け方を見て、こうして声をかけてきたのだから。何者だろうとネリューラは訝った。もっとも、ランドニクスのこうしたカジノでは、どんな相手がいても驚くには値しない。面倒ごとは避けたいだけだ。
紳士が自分に説教でも垂れようなら、舌鋒鋭く切り返してやるわ。黒い口紅に浮かべた微笑の下で、そんなことを考える。
「賭けをしませんか、レディ」
「貴方と? どうしてまた」
ネリューラの言葉を遮って、紳士は続けた。
「……白い鳥が現れたなら、どうしますか?」
「白い鳥?」
「何、貴女がどのような選択をするのか興味があったものですから」
そうね、とネリューラは答えた。
「幸せになれるのなら、追いかけるわ。ああ、でも」
ネリューラは首を巡らし、カードに興じる卓上を見やる。
「……つまりそれは、お金が稼げるってことだから。そのまま卓につくのも悪くはないかもね。カジノで鳥を見つけたら、の話だけれども」
「なるほど」
「それで貴方は何を賭けるの? この賭けは、どうすれば勝ちになるのかしら」
「もちろん、白い鳥を見つけた方が勝ちですとも、レディ」
紳士が言葉を続けるたびに、ネリューラの胸が騒いだ。こういう予感がするときの賭けは、たいてい勝つことができる。
翌朝。
大勝してカジノを出たネリューラの前を、白い鳥が飛び立っていく。
■Scene:エル
その日は珍しく不作だったので、エルと名乗る占い師はくさっていた。
おかしい。この通りで占い机を出すのは初めてではないし、これまでは少なくとも一人は、お客が座ってくれたのに。先日などは、ぎりぎり夕暮れまで粘って、最後に通りすがりの野良犬を視たりしたこともあるが。
中肉中背の背中を丸めると、手元の水晶玉に自分が映った。
見慣れた球面に、眼鏡をかけて、灰味の強い色の髪を後ろで結わえた、見慣れた顔の男がいる。
水晶占いは割と得意だった。カードや何かを使うよりも、水晶に映ったものを判断するという曖昧さが好きなのかもしれない。
手すさびにエルは、自分自身を占ってみることにした。
「これは。翼?」
独り言を呟くのもエルの癖だった。傍らで行灯代わりの光の精霊が、ゆっくりと明滅した。
「翼。白と……黒。鳥」
広がるイメージ。雪のように降り注ぐ鳥の羽根。白、黒、そして灰色の……羽根、羽根、羽根。
やがてそれは青に塗り潰された。空か、あるいは海。茫漠と広がる青い世界。そして青の中を飛翔する、白い鳥……伝書鳩。
「白い鳥」
まさか、自分に? 光の精霊が明滅してエルに応えた。心なしか、物憂げに。
その時一瞬手元が陰った。占い師は身を起こし、天を仰いだ。
「……白い鳥」
水晶玉が映したと同じ光景が、頭上に広がっているのが見えた。
「行きましょう、ルクスさん」
光の精霊にそう呼びかけると、エルは白い鳥を追いかける。ひとり淋しい野良犬のように、人通りのない路地を曲がった。
どうしたわけか、森の真ん中に出た。奇妙な鳥の鳴き声と柔らかな下生えの感触に、エルは戸惑った。
「ここは……」
光の精霊ルクスさんは、エルの肩でぼんやりと光る。それこそ行灯程度であって、こういう場合にはまったく役には立たない。
誰かの視線だけは周囲から感じるのに、人の姿は見えない不思議。
エルはそれでも唇をかみしめて、獣道の先に垣間見える建物を目指すことにした。伝書鳩の姿は見失ってしまったが、とにかくあの先まで行けば誰かはいるに違いなかった。
■Scene:歪な花園
取り次いでくれた使用人の女性は半面を仮面で覆っていたし、出迎えた青年は奇妙な角を生やしていて、3人に奇妙な感覚をもたらした。
ヴィクトール、ネリューラ、エル。彼らは館の主との面会を希望していた。
「そいつらが、俺を呼んだんだろう? 単刀直入にやりたいだけだ。会わせろ」
ヴィクトールはすでに自分のペースを取り戻し、分からない、などと繰り返す青年に吐き捨てた。ただの使用人相手には、時間を割くだけ無駄だと思うからだ。
ネリューラは黙ってそのやりとりを聞いている。赤い瞳は、館で出会ったふたりと使用人とを見定めていた。
出会いしな、軽い自己紹介は済ませていた。といっても名前を名乗ったくらいだ。エルはヴィクトールの荒々しさとネリューラの切れる刃物のような雰囲気を目の当たりにして、自分と比べるまでもなく、成り行きは任せてしまうことにした。対人の交渉は、この真っ黒い服の男が秀でていそうである。
さほど気をもむ暇もなく、彼らの希望は叶った。奥の間に通されて初めて、さすがのヴィクトールも言葉を呑んだ。
女性と青年の主、ふたりの姫君は、奇妙な形の椅子に包まれるようにして、奥の間に置物のように鎮座していた。高々と結い上げられた髪がやけに大きく、姫君の色白の顔を余計に小さく見せている。使用人たちが実用的な衣服をまとっているのと対照的に、姫君たちの服は華美で多分に装飾的だった。
ヴィクトールだけではない。エルもネリューラも驚いた。
姫君たちは異形だったからである。
「ようこそ、人の子の旅人よ」
姫君のひとりが立ち上がり鷹揚に手を差し伸べる。その甲に口づけられるのが当然といった風の、貴族然の仕草だった。
その姫君には両目がなかった。瞳のあるべき場所は閉ざされ、まぶたを縫い止められていた。
「あ……貴女たちが私たちを招いたの?」
それでも毒気に呑まれることなくネリューラが口を開いたのを、単純にエルは凄いと思った。普通じゃない。絶対に普通じゃない。
視線を外す先を探して、エルはもうひとりの姫君を見やる。椅子に身を任せたままの貴人は、ゆったりと3人の旅人を眺めていた。傍観者のように。
そして、その姫君には口がなかった。
唇は互い違いに縫い付けられていて、まなざしよりも何よりも、エルの視線を釘付けた。
「ヴィクトール・シュヴァルツェンベルク。俺を呼びつけたのはおまえたちか?」
差し出された甲を無視してヴィクトールは言い放つ。縫われた目や口を除けば、どう見てもふたりの姫君は子ども同然の年頃だった。
「私はネリューラ」
「……エル」
よろしいでしょう、と姫君は答えた。汝の物語を許しましょう、と。
「物語?」
ネリューラは黒い紅をさした唇をつととがらせた。自分は楽師や詩人ではない。物語を許されても、ネリューラにできるのはせいぜいが、奇妙な髪型と衣装に対する言葉を数言、口にするくらいだ。それにしても何と奇妙なお嬢さんたちだろう。
「別に、許されるまでもない」
ヴィクトールは興味なさげに肩をすくめた。エルはそのふたりの間にあって、水晶玉を手にしたまま立ちすくんでいる。
「用向きを言え。今なら聞いてやるぞ」
声音にはかすかに倦んだ調子が混じっていたが、気づいたものはいないようだった。ジニアと名乗った女の使用人が、軽く眉をゆがめただけだ。姫君の前に並ぶ3人からは見えない。
「伝書鳩を飛ばしたのは……あなたたちですか? ……その……」
眼鏡の奥で目をしばたたくエル。降り注ぐ羽根の幻影がまざまざとよみがえった。あれは伝書鳩の羽根?
姫君はにこりと笑った。ように見えた。わずかに口の端が持ち上げられていた。
「そうだと答えたら、願いをきいてもらえるの? ヴィー」
ヴィクトールはただ鼻を鳴らした。瞳のない顔からは表情が読めなかった。馴れ馴れしい扱いは大嫌いだ。それをわかってそう呼んだのだとしたら、こいつは俺に何をさせたいのだろう。ヴィクトールはさまざまに思いを巡らせた。
「我らの願いは夜伽。それだけ」
姫君は椅子の後ろへまわり、座ったままの姫君の肩にそっと手を置いた。
絢爛な衣装の袖口から垣間見える白い肌は、妙に歪んでみえた。
「知りたいのです。伝書鳩がどのような旅人を選んだのかを」
「選んだ……?」
試されていたのだろうか。ネリューラは思い返す。あの紳士の持ち出した賭け。何か関係があったのか?
「白い鳥を追いかけると幸せになれるという話を聞いたことがあるわ。私、幸せになる権利を得たってことかしら?」
姫君はうなずいた。
「伝書鳩に選ばれた者だけが、舞台に立つことができるということ」
ネリューラは考え込んだ。細い顎に白い手指を添えて。私の願いが叶う舞台なら、それはきっと金貨銀貨で彩られているに違いない。舞台はどこから始まるのだろう。もう幕はあがったのかしら。
「……それは好き勝手していいってことだな? だが、おまえたちはまだ俺の問いに答えていない」
ぎらつく緑の瞳が、得体の知れない姫君を射た。
得体の知れない相手でも、ヴィクトールは恐ろしくなかった。人間でなくとも別にかまわない。人間でない相手など《大陸》には掃いて捨てるほどいるし、相対したことも数知れない。しかし、のらりくらりとはぐらかされるのは、相手が誰であろうと気にくわなかった。
「おまえたちが伝書鳩を飛ばしたのでないなら、そいつを探すまでだ」
乱暴な物言いに顔をしかめているのはジニアばかりで、姫君はふたりとも、気分を害した様子もみせない。
「夜伽と申されましても、僕はしがない占い師。差しさわりのないようでしたら、占わせていただきますが」
自分でしがないといってしまうあたりが少々弱気だが、かといって他に出来ることもない。
姫君は鷹揚にうなずいて、椅子から数歩エルに寄る。
仕方なしに占い師は前へ進み、水晶を片手にお辞儀した。
「その……お名前は?」
「ウィユ。妹は、レヴル」
「では、ウィユさまとレヴルさまの未来を占って差し上げましょう」
椅子に座った妹姫レヴルが、煙るようなまなざしでこちらを見つめているのを感じながら、エルは水晶玉に意識を集中させはじめた。
■Scene:偽善の仮面
気がつくと、エルは水晶玉を抱えて立っていた。姉姫ウィユが妹姫レヴルの肩に触れて、占いの結果を待っている様子だ。
汗びっしょりである。水晶玉が滑り落ちそうだった。
水晶玉にも自分にも、どこにも変わったところはないように思える。
「どんな姿を見ましたの、占い師」
ウィユは楽しげに喉をそらしていた。
「……不思議な光景でした」
言葉を選ぶエル。あれがふたりの姫君の未来の姿なのか?
絶対に違う。あれは未来などではなかった。生々しい、今この瞬間のどこかだと思った。エルののぞける未来はもっと曖昧模糊として、解釈の余地がある世界だ。
あれは、あの場面はあまりにも手触りに満ちていた……。
「大丈夫かしら、顔が真っ青よ」
ネリューラに覗き込まれるまでもなく、エルは眩暈に襲われていた。その様子にジニアが駆け寄り、そっとエルの身体を支えた。
「まだ何かあるのか。ご主人さまは俺に好きにしていいといったが」
うろんげなまなざしでジニアをにらむヴィクトール。
「部屋に案内を……それから、しきたりどおりに選択を」
ジニアはまったくひるむことなく淡々と答えて見せた。氷のように冷ややかな響き。けれどもエルには、熱にうかされた中で聞く寝入り歌のように感じられた。
旅人たちは自室に案内される前に選択を迫られた。
「好きなものを選び、身に着けなさい」
そこにはありとあらゆる種類の仮面、覆面、つけ耳やつけ鼻、飾り尾や飾り羽根が揃っていた。手甲や足環の類もあった。3人は神妙に、あるいは不満げに、その中から自分のものを選び取った。
ヴィクトールは、鱗と刺のある手袋を手に取った。
「ちょうど新しいのがほしかったからな」とは本人の弁。
これでやっと自由に動けるのなら、あてがわれた部屋で寝るのはよそう。適当な空き部屋を見つけて潜り込めばいい。ヴィクトールはそう決めて、飾りを品定めしているふたりを見下ろした。
ネリューラは少し迷って、片目だけを隠す仮面を選んだ。ジニアの左頬を隠す仮面と形は似ていたが、雰囲気はまったく違っていた。
エルは肩から背にかけて着ける形の翼を選んだ。その飾りは、片方が鳥を、もう片方が爬虫類のような皮翼を模してある。ふと翻る水晶の幻影を打ち消すように、けれどもエルは翼に決めた。灰色の翼は、アッシュグレイのエルの髪色を映したようにしっくりと背になじんでいた。
第2章へ続く