2.花の波辺
――だって世界は変わってしまったんだから。
――これからも変わり続けるために、変わっていく必要があったんだから。
■Scene:リラ・メーレン
あの戦争がもしもなければ。
帝国が内乱に見舞われなければ。
他に選択があったかもしれない。
「……そうだねえ。きみくらいの成績だったら、奨学金も出るだろうからねえ……」
赤毛を極太の三つ編みに結わえた女子学生が、しょんぼりと肩を落として椅子の上に縮こまっている。
机ひとつはさんだ向こう側には、後頭部がかなり薄くなった教官が座っている。女子学生の成績表には赤い線が引かれていた。
リラ・メーレン。進学希望。ただし問題がひとつ。
彼女の学力と経済力で上級クラスに進学するには、帝国から補助を受けている研究室を選ぶしかない。
「でも先生。私、兵器作るのはイヤなんす」
「そうはいってもねえ。兵器そのものを作るわけじゃないんだよ、メーレンくん」
「帝国からお金もらって殺人理論を研究してるんじゃ、同じことっす」
内乱の余波はさまざまな世界に及んだ。象牙の塔も例外ではない。むしろ学問の分野は二極化されつつあった。すなわち、平和を希求するための学問と、そうでない学問とに。前者は武力強化と同義語であり、研究は国益になるとしてたくさんの補助金が出た。
リラの在籍する学校は、元より帝国出身の教師が多かった。珍しいことではない。《大陸》の中でも最も教育が高度なのである。当然、内乱の影響を受けやすくもあった。
「それならメーレンくん。きみはどんな分野の研究をしたいのかね」
成績表に新たな赤線が加わった。上級クラス進学、あるいは……卒業。
つまり学問の道を諦めること。
「はい先生……兵器作り以外なら、何でも」
「それじゃ困るよ。メーレンくん、第一きみは学者になりたいのかね?」
「……いいえ」
学者になっている自分を、リラは想像することができなかった。それでは、いったい自分に何ができるのか? このまま兵器を作って生きていけるのだろうか?
イヤだ。
苦しい選択を前にして、リラは成績表から目をそらした。
窓が開いている。並木が切り取る青空が見えた。
平凡な庶民の出なのに、ここまで学業を続けられたのが幸運だったのだ。上級クラスに進学すれば、これまでのように働きながら学費を納めることが難しくなる。
「学校としては生徒の将来はできるだけ応援してあげたい。わかるね、メーレンくん? きみの頑張りはとても評価している。学費を自分で払っていることも、素晴らしいことだと思う。どうだろう、せっかく進学する意志があるのなら……」
青空の端を、白い鳥がよぎっていく。
「先生、決めました」
リラの口から、自分でも予想しなかった言葉が溢れた。
「……《満月の塔》」
「うむ?」
「《満月の塔》の研究なら、奨学金も出るんすよね?」
白い鳥は、まだ窓の中にいて、ゆっくりと並木の上を飛んでいる。
やがて潮騒が聞こえ始めた。
■Scene:巨獣の仮面
見知らぬ島、古びて不思議な建物。息詰まるほどの緑。青い空と海。
ふたりの姫君と、選ばされた装飾品。
「これにする。座りごこちよさそーじゃないすか?」
女使用人は座りごこちについては触れず、軽くうなずいただけだった。
「ももんがかな。この島にももんがいるっすか?」
「さあ……わからない」
もうひとりの使用人、褐色の肌のマロウが曖昧に答える。
「えーっ。だってマロウさん、この島のこと何でも知ってるって」
ももんがのような平たい毛皮の尾を手にして、リラが言う。
「何でも知っているわけじゃない。この島のあるじはあの姫さまたちだから」
マロウが背を向けると、捻れた角がいっそうよく見えた。
「あっ、ちょっ、ちょっと待ってくださいマロウさん」
銛を手に、漁に出るところらしいマロウを呼び止める。彼は特に不機嫌な表情も浮かべず、無言で振り向いた。
「あのー……。お願いがあるんす」
自分の尻尾を結わえ付けながら、リラはマロウの様子をうかがった。
「お願い? 物語なら姫さまに許されているはずだが」
「えーとつまり、私、地理学を研究してるんすけど……まあまだ学生なんすけど」
咄嗟にリラの頭に浮かんだのは、もしかしたら《満月の塔》のことは伏せておいた方がいいのかもしれない、ということだった。
帝国が本気で《満月の塔》に探りを入れているのなら、この島の住人が帝国に対してどういう感情を抱いているのかが知れるまでは秘密にしておこう。
「そんで、島の地図、あったらもらえませんか?」
「島の地図?」
マロウは鸚鵡返しに呟いた。しばらく何かを考え込むような顔で、やがてジニアに声を掛ける。
「あの地図職人……何と言ったか? この島の地図を描いていたんじゃなかったか」
「未完成だけど」
答えるジニアは無表情だ。
「誰っすか、地図職人の方がおあつらえむきに地図を描いてくださってるってことすかー」
リラの顔が輝いた。もしかしたら予想以上に運がいいのかもしれない。白い鳩を追いかけたのは正しかったのだと思った。
「未完成だと言ったでしょう」
ジニアの声には、どこか違和感があった。何だろう、出会ってまだ数言しか交わしていないけれど、大半は事務的な口調だったのに。
「地図職人の地図なら、今は岬の突端だと思うわ」
そうかとマロウはうなずき、捻れた角の頭を巡らせた。
「……ついてこい、こっちだ」
おもむろに森の中へと足を踏み出す。マロウの後を、リラは駆け足で追いかけた。太い赤毛の三つ編みが跳ねた。学業道具一式を入れたリュックが音を立てる。
■Scene:花の波辺
地図職人の墓場というところまで、マロウが案内をしてくれる。
獣道のように踏みしめられた道を進み、森を抜けていく。草地からやがてごつごつとした岩場に変わった。
風の吹き抜ける、高い崖の上。見下ろすと青い海と白い砂浜が映る。海岸線の少し先に目を向ければ、珊瑚礁が点々と顔を出し、湾を形づくっているのが分かる。
リラは少し息を荒げ、行く手を見晴るかした。
「お墓……っすか」
ぽつんと大きな岩が佇んでいた。ぎらぎらと照りつける日差しにリラは目を細めて眺めた。
「よく分かったな」
「いやあまあ、こんなところに目印なんてそれくらいしかないっすよ」
その岩には墓碑銘も何もあるわけではなかった。
マロウは岩陰の割れ目に手を入れ、大きな筒を引っ張り出した。リラが見ている前で筒をあけ中身を取り出す。丁寧に描かれた島の地図だった。
「……キヴァルナって人のすか? ここにサインがある」
「ああ、そういえばそんなような名前だったかもしれない」
マロウは呟くと、地図を筒ごとリラに突き出した。まるで興味がないといわんばかりに。
「あ、ありがとさんです」
地図を見ると、島はちょうど斜めに置いた半円の形をしていた。地理学を専攻していると言った手前、マシな言葉を探さなくてはならないのだが、リラには適当な感想が思いつかない。《満月の塔》らしき地名も見当たらなかった。
しかし今自分のいる岬と、森の中の館の位置くらいならば彼女にも見当がつく。館はどうやら島の内陸に位置するようだ。島の中央はほぼ森が埋め尽くしていた。一番高くなっているのが、現在ふたりの立っているこの岩場、ジニアが「岬の突端」と表現した場所らしい。
《満月の塔》があるならば、どこに?
「岬の突端」が一番高いなら、島全体を見渡せるのではないのか。そう思い、地図から顔を上げる。抜けてきた森がこんもりと茂る緑のかたまりに見えた。館の屋根が突き出している。
「ん〜……」
《塔》らしきものは見えない。
「あ、マロウさんあれ!」
変わりに見えたものがある。
珊瑚礁の入り江を漂う、半壊の筏だった。
第1章5.花園迷路へ続く